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2012.05.12

[書評]センタリングの祈りと内面の目覚め(Centering Prayer And Inner Awakening)(シンシア・ブジョー)

 詳しく調べたわけではないが日本語の訳本はないのではないかと思う。シンシア・ブジョー(Cynthia Bourgeault)による「センタリングの祈りと内面の目覚め」というタイトルはオリジナル「Centering Prayer And Inner Awakening」(参照)の仮訳である。内容はそのまま、「センタリングの祈り」についての簡易な解説であり、その歴史と神学的な背景も平易に説明されている。彼女の語りくちも興味深く、英語も平易で読みやすい。

cover
Centering Prayer And
Inner Awakening
Cynthia Bourgeault
 「センタリングの祈り」とは何か? 公式な説明ではないが、「人が存在の中心(センター)である神に立ち返る祈り」としてよいのではないかと思う。
 命名したのはシンシアの師でもありこの祈りの現代的な提唱でもあるトーマス・キーティング(Thomas Keating)である。彼は当初は、黙想の祈り(contemplative prayer)としていたようだ。
 一般的に「祈り」というと、「祈りの言葉」というように、言葉がおもてに立つが、黙想の祈りでは、聖なる言葉(a sacred word)を道具として使うものの、言葉を廃し、沈黙のなかで、ありのまま(naked intent)に神に向かう。禅にも近く、瞑想にも近い。
 私がこの本を読んだのは偶然からで、先日読んだ「不可知の雲」(参照)を現代の人がどう受け止めているだろうかと関連のものを読んでトーマス・キーティングを知り、彼が提唱する「センタリングの祈り」を知った次第である。
 であれば、キーティングの書籍を読むべきなのだろうが、もっと簡便な本がないかと物色していて、評判の高い本書を試しに読んでみた。序文はキーティングが寄せていることから本書がキーティングの教えに沿っている点も安心できた。読み出すと、面白くてつるつると読み終えてしまった。
 著者であるシンシアにすぐに心を奪われたと言っていい。彼女が若い日にグルジェフのワークをしていたというあたりにも共感を持った。家庭的な環境がクエーカーであったことも興味深かった(三田の教会を懐かしく思った)。アーシュラ・ルグウィンの「ゲド戦記」もいくどか本文に引かれているが、そうういう感性も自分にとってはツボだった。
 私自身はこのテーマについては「不可知の雲」からの関心だったが、キーティングは別途、ベネディクト会などの伝統から、黙想の祈りに接していたのではないかと思っていた。もちろん、キリスト教の実践であるレクチオ・デヴィナ(Lectio Divina)という、読み・理解し・祈り・黙想する(read, meditate, pray and contemplate)というところに、しかも最終の過程に黙想があるので、そうした伝統的な部分からの改革と思っていた。が、本書によれば、1960年代に「不可知の雲」の再理解から直接的に発生した運動のようだ。むしろ、「不可知の雲」が20世紀の後半に突然のように新しく理解されるようになったと言ってよいもののようだ。またキーティングとは異なる黙想の祈りの現代化についても言及があり、初期教父たちの詩編による実践の再現などの指摘も興味深いものがあった。
 本書で、ハウツーとして語られている「センタリングの祈り」は「不可知の雲」にきちんと沿っている。ただし、これは自分にとって幸いだったのかもしれないが、「不可知の雲」から「センタリングの祈り」を見ると、考え方によればではあるが、少し違うところも感じられた。
 例えば、後半で「センタリングの祈り」から生まれた、「歓待の祈り」(Welcome Prayer)があるが、これはシンシアの解説が正しいのだろうと思うので「センタリングの祈り」の運動から付随的に生まれたと見ていのだろうが、「不可知の雲」にもそれに等しい部分が含まれている。また、「センタリングの祈り」がヒーリングとして機能する部分についても、「不可知の雲」には別途深い洞察がある。まさに「不可知の雲」がたぐいまれな名著であることが類書から実感される。
 キーティングによると見られる「偽りの自己」(False Self)についても、シンシアも本書で原罪との関連を述べ、これを「分離」と見ているが、この部分の洞察は「奇跡講座」のほうが深いようにも思えた。いや、本書に欠点があるというのではない。「不可知の雲」や「奇跡講座」の価値も再認識したというだけだ。
 本書のメリットは実践面においてわかりやすいこと、さらに、類似の修法との差違が明確に描かれている点だった。というのは、「センタリングの祈り」は、マハリシ・マヘーシュによる超越瞑想のキリスト教版のようなものと理解されやすいのだが、「聖なる言葉」はマントラとは異なり、それ自体に聖性がないことは強調されている。また、ヨガの八枝や禅との違いも明確になっていた。そのあたりの説明はかなり明晰であった。
 特に説明として使われる「アポファティック(apophatic)」と「カタファティック(cataphatic)」の対立は説得的だった。前者は訳語的な「否定」ではなく「非言語的な・明示的な」ということであり、端的に「God is unknowable(神は不可知)」ということであり、不可知のままに祈りによって向き合うこととしている。このあたりは、なるほど、アポファティックなものをカタファティックに表現したようなクザーヌスなどを思っても頷ける。
 また、アポファティックだから「ケノーシス(kenosis)」が理解できることにもなる。kenosisは、英語としては、empty(空無)やsurrender(降伏)として理解されるが、これは、言うまでもなく、人となりし神、イエス・キリストそのものである。このあたりの議論は、理神に至ってしまった現代文明に向き合う不可知としての神の存在が際立っている。
 とま、私の関心にそってだらだら書いてしまったが、むずかしい書籍ではなく、現代人の生活のなかで生かし、また癒しをもたらす「センタリングの祈り」のハウツー書として読まれるようにも書かれている。
 黙想の祈りは、外的には、じっと静かに20分(20分が標準であった)すごしているというだけに過ぎない。ただ、そこで想念を凝らしたり、作仏ならぬ作神をせず、まさに己を「無」にして不可知の神に向かうだけである。
 余談だが、シンシア自身はグルジェフの教えを否定したわけでも、それを変形したわけでもないようだが、センタリングとして神に立ち返る部分に、グルジェフの「自己留意」(Self remebering)が意識されているようにも読めた。「自己留意」については、ウスペンスキーの解釈(double arrow)が流布しているが原形はクリシュナムルティの「受動的な気づき」(Passive Awareness)に近いものであり、まさに本書で説かれるセンタリングにも近い。

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コメント

グルジェフで親近感を持つ、ということは、私のことも「仲間の一人」くらいには思っていただけてるのでしょうか。わたしは、ワークはしたことがありませんが、自分では、ゴリゴリのグルジェフィアンだと思っています。

ワークをしないのは、グルジェフの弟子の中にグルジェフの実存のレベルに達した人がいないことが理由です。これは、オイリュトミーを実践しない理由でもある。シュタイナーの弟子の中に、超感覚的知覚を実現できた人は、幻覚者とうそつき以外は、まずいません。

和尚ラジニーシが、グルジェフの掘った井戸とニーチェが掘った井戸と臨済禅師が掘って、系譜の禅僧たちが守ってきた井戸とは、別々に掘った井戸だけれど、到達した水脈は同じ、みたいなことを言っているので、ニーチェや天台止観や唯識の勉強をすれば、ワークをしなくても、グルジェフの認識らしきものにそれなり到達できるだろうと思っています。

いまのグルジェフやシュタイナーの弟子たちなんて、社会常識から逸脱した狂信者の詐欺師みたいな人が多いのではないでしょうか。かろうじてオウム真理教ほどにはならない、という事例も多かろうと思っています。

投稿: enneagram | 2012.05.13 08:22

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