[書評]意識は傍観者である: 脳の知られざる営み(デイヴィッド・イーグルマン)
デカルトの「我思う故に我あり」は通常、「思考している自分は存在している」と理解される。「自分という意識は確実に存在している」というわけである。当たり前ではないかと思うかもしれない。残念でした。「自分という意識」は脳機能の処理結果であって、それ自体で存在しているわけではない。あなたには自由意志なんてない。あなたの意識や自由意志は脳のプロセスの、ただの傍観者なのである。
意識は傍観者である 脳の知られざる営み |
本書「意識は傍観者である: 脳の知られざる営み」(参照)もリベット説を扱っているが、さらに包括的に犯罪と法の関係にまで立ち入って考察している点が興味深い。自由意志がなければ、犯罪を裁くというときの対象となる悪なる意志というものが想定できなくなる。精神障害者や未成年が殺人といったことを引き起こしても、通常、罰せられることはないのもそのためだ。
極端な話、夢遊病者が夢の意識の状態で殺人をしても罰せられることはない。まさか実際にはそんなことはないだろうと思うかもしれない。あるのだ。本書にはその話が比較的克明に描かれている。自分自身殺人を犯すだろうと知り苦悶しながら自分を抑えることができずに殺人を実行した人の話も詳しく描かれている。
そもそも犯罪というのは、人間の自由意志から生じたものなのか? そうでないなら、私たちの社会は犯罪者にどう対処したらよいのだろうか。
そのあたりが本書の一番おもしろいところだ。特にこの問題を扱った「第6章 非難に値するかどうかを問うことが、なぜ的はずれなのか」には貴重な議論が展開されている。著者イーグルマンはここでかなり大胆とも思える考え方を提出している。
非難に値する犯罪(自由意志によると想定される犯罪)と非難に値しない犯罪(脳の問題などが引き起こした犯罪)は明確な区分はなく、脳科学など諸科学の進展によって区別の線引きは揺らぐ。だから、人間の脳の仕組みにあった法制度改革が必要になるというのだ。
私たちの社会では、犯罪者に罰を与えたいという欲求も強く根付いているし、それがとりわけ根深い文化も存在するものだ。だが近代社会の考え方からすれば、犯罪者への対処で考慮すべきことは罰もだが、所定の罰を与えた後の再犯リスクある。どうすれば再犯者を減らすことができるか? 再犯率が減らせれば社会の利益にもなる。
イーグルマンの議論を読みつつ興味深いと思った事例は、性犯罪者の再犯率の管理である。当初、精神科医や仮釈放委員会などいわゆる専門家が検討したが明確にできなかったらしい。そこで数理学的に各種の因子を総ざらえして計算してみたら、妥当な数理検定ができたというのである。冗談のようだが、著者イーグルマンは、その数理検定が米国で刑期の算定に利用されていると述べている。
このあたりまで読んで私はちょっと失念していたことがわかった。著者イーグルマンを科学分野の学位はあっても、実質サイエンスライターだと思っていた。本書は訳がこなれていることもあり、多少饒舌にも聞こえる科学漫談といった趣もあるからだ。だが、イーグルマンは学位を取得したベイラー医科大学で前線の神経科学者であり、その知見から法制度に対する提言を行う研究に従事していた。まさに脳と法を議論する最適な専門家であった。その意味で、本書は最新脳科学を解き明かす軽い読み物というより、現代社会における刑法のあり方を模索する最前線の報告書でもあった。昨年発売されニューヨークタイムズでベストセラーを15週キープしたのもうなづける。
6章では、脳科学の知見を応用した量刑のありかたの考察のほかに、犯罪者の更生の効果的な手法も議論されている。具体的には犯罪の抑制を司る前頭葉の機能改善といった話も含まれている。このあたりの議論は、効果的なダイエットといった卑近な話題と実は同じ構造をしているし、ある種の認知療法のようでもあるので、さほど違和感なく読めるのだが、読みつつ、これは一種のディストピア(Dystopia)になりかねない懸念も湧いた。ハクスレイの「すばらしい新世界」(参照)やオーウェルの「一九八四」(参照)のようにも思えた。吉本隆明がオウム事件を実質擁護するとき市民社会が規定する善悪を超える視点に留意するよう求めたような問題が潜んでいそうだった。
本書は7章で構成されている。「第1章 僕の頭のなかに誰かがいる、でもそれは僕じゃない」から「第4章 考えられる考えの種類」は、基本的に最新の脳科学の知見をまとめた、知的に楽しい読み物になっている。たとえば「第2章 五感の証言―経験とは本当はどんなふうなのか」では、意識されていないが人間行動を支配する興味深い事例として、恋愛と名前の最初の文字の関係といった例が挙げられている。ジョエルはジョニーに、アレックスやエミーに、ドニーはデージーに恋に落ちやすい。まさか。ところが統計を取ると優位な結果が出てくる。さらにこの関係は職業選択にも及ぶらしい。デニーやデニスは歯医者(デンティスト)になる可能性が高い。
読みながら、よく血液型性格学は偽科学だと言われるが、日本のように血液型性格学信奉の意識が蔓延している社会では、自身の性格規定が逆にその社会的な憶見に影響されていて、統計の取り方によっては、血液型はその憶見を介して性格の表出傾向に対して有意な結果がでるんじゃなかろうかとも思った。
「第5章 脳はライバルからなるチーム」では、マーヴィン・ミンスキー「心の社会」(参照)のように心がサブモジュール(下部機能)の連携で機能するモデルから、脳内の諸機能のライバル的な関係というモデルを立て、そこから人間の自由意志が単一的に存在するものではないという課題に迫っていく。これが、法的な議論に踏み込む「第6章 非難に値するかどうかを問うことが、なぜ的はずれなのか」の議論の前段となっている。
事例が興味をひく。俳優メル・ギブソンが酩酊した際、ユダヤ人差別となる発言した問題を扱っている。しらふに戻ったメル・ギブソンはユダヤ人社会に謝罪したが、さて本心ではメル・ギブソンは差別主義者だろうか。酩酊することによって、本心が暴露されたと見れば差別主義者であるとも言えるかもしれない。というのは、酩酊したからといって差別言動をしない人はしないものだ。著者イーグルマンは、こうした「本心」のいう考え方自体を批判的に捉えていく。差別主義という考え方が脳のサブシステムに浸透していったとしても、それがその人の自由意志を支えるような「本心」であるとは限らない。そもそもどのような人でも多様な意識のサブシステムをもっているというのだ。では、犯罪を犯したときにどうなるのか。それが6章に継がれている。
終章「第7章 君主制後の世界」では、人間の自由意志が宇宙においてどういう意味を持つのかという哲学的な問いかけに踏み込んでいる。また、ベルクソンのように脳を記憶や思考の実体ではなく媒介的な機関である可能性にも言及している。簡単にいえば、偽科学批判などに見られるような浅薄な還元主義には留まっていない。ただ、総じて言えば身心問題の深い部分にまでは肉薄せず、現場の科学者らしい未知への探求への期待をもって終わりとしている。
本書は随所で小ネタ的な話もある。電磁場のふるまいを記述する古典電磁気学の基礎であり、またアインシュタインの特殊相対性理論の起源ともなったマクスウェルの方程式だが、マクスウェル本人は、死の床にあって生涯の秘密として、あれは「自分のなかの何か」が発見したのだ、とつぶやいたらしい。マックスウェルとしては自分が発見したのではなく、どこからか降ってきたのだというのだ。チャネリングみたいなものらしい。困ったなあと秘密を死の床まで抱えて生きていたのだろう。
小ネタとも違うが5章に含まれている「秘密」についての話題もおもしろい。人はなぜ秘密を語りたくなるのだろうか。助言が欲しいわけでもないし、解決や処罰を求めているわけでもない。秘密を抱えた人間がただ聞いて欲しいと願うのはなぜなのか。著者イーグルマンはさらに、なぜ秘密の受け手が人間または神のように人間に似た存在でなければならないのかと疑問に思っている。言われてみれば、それは不思議でもあるし、直感的にはこの疑問には深い真理が潜んでいるようにも思える。秘密というのは案外、自由意志という虚構の核なのではないか。
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コメント
私たちの脳は、ヘビの脳(脳幹)、ネコの脳(大脳辺縁系)、ヒトの脳(新皮質)の三階建てだとはよく言われますね。
仏教って、三階建ての脳から、意識と無意識を自由にする試みなのかもしれないですね。成功するのかどうかはともかくとして。
肉体に制約されるのではなく、肉体を道具化するというのが人智学の基本思想だけれど、これは、西洋の形而上学の伝統を引き継いでいるのかな。ルドルフ・シュタイナーは、唯名論者ではなくて、実念論者ですからね。実念論を再生させるために、霊、魂、体の三区分を主張したようなものか。
投稿: enneagram | 2012.04.24 10:15
脳科学は脳と意識(自由意志)をめぐる問題について、多くの知見(素材)を提供することができます。しかし、その役割の限界性を自覚していない限り、議論の終着駅は必然的にディストピアです。
哲学は自由意志を根拠づけていないのでしょうか?
カントやヒュームの遺産を無視して自由意志は脳の随伴現象だった等と主張しても、彼らは静かに嘲うだけでしょう。
投稿: ボンボン太郎 | 2012.04.28 08:55