伊勢物語第二十三段のこと
テレビ版の「孤独のグルメ」(参照)が終わった。見たのは二回目からだったが、その後は最終回の十二回まで毎回待ち遠しく見た。面白かった。原作の漫画のほうは以前に読んでいた(参照)ので、テレビ番組の台詞の元ネタなどが連想できるのも愉快だった。見逃した第一回も、つてあって見た。
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伊勢物語第二十三段は「筒井筒」「井筒」とも言われる。「筒井筒」という日本語には、この古典に拠って「幼友だち」「幼なじみ」の意味もある(参照)。幼いころから親しみそのまま夫婦に契るような男女を指すと言ってもよいだろう。現在の世界でもたまにそういう、不思議な夫婦がいる。
この段は高校の教科書にも載っているらしい。私はラジオで、鈴木一雄先生の伊勢物語の講座で学んだ。先生の朗らかな解説には今にして思うと色気のようなものがあり、それが今の自分にも印象深く残る。
伊勢物語第二十三段は、多少長い話の部類で、そして多少こみ入っている。
昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、おとなになりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども、聞かでなむありける。さて、この隣の男のもとより、かくなむ、筒井筒井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに。女、返し、くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずしてたれかあぐべき、など言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。昔、地方周り官僚の子供が、井戸のまわりで無邪気に遊んでいたものだが、大人になると色気づいて互いを恥ずかしいと思うようになる。男はあの女を恋人にしたいと思うようになった。女のほうもあの男がいいなと思うせいか、親の持ち込む縁談を断ってきた。そうしたおり、男からラブレターが届く。「井戸と背比べしいた自分ももう井戸の高さを超えましたよ、あなたを抱かないでいる間にね」 すると返信あり。「子供のころはあなたと同じくらい長さだった髪の毛も、肩を超えました。この髪をかき上げもらって愛したい人は、あなた以外にはいません」。かくして両者、合体。
ここでめでたしめでたし、という話でもよいのだが、これが前段。中段には波乱が沸き起こる。男が女に飽きてしまったかに読める。
さて、年ごろ経るほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内の国高安の郡に、行き通ふ所いできにけり。さりけれど、このもとの女、悪しと思へるけしきもなくて、いだしやりければ、男、異心ありてかかるにやあらむと思ひ疑ひて、前栽の中に隠れゐて、河内へ往ぬる顔にて見れば、この女、いとよう化粧じて、うちながめて、風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ、とよみけるを聞きて、かぎりなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。さて、年が経ち、女は収入の頼りにしていた親を亡くし、女の家計で男を支えるのも難しくななった。しかたないなと男は、食いはぐれないように大阪に別の女を作った。幼なじみだった妻も気を悪くするだろうと思ったが、別の女の家に行くときも嫌そうな素振りがない。妻のほうも浮気しているんじゃないのかと男は疑って、大阪の女のもとに行くと言ったものの庭陰に隠れ、妻の行動を見ていたら、妻はきれいに化粧をして、憂い顔にて大阪のほうを見つつ、「夜盗も多いと聞く夜道をあなたは越えていくのでしょう、心配です」とつぶやく。これは愛しいと男は思い、大阪の女のもとにあまり行かなくなった。
男も浮気心がないわけでもないから、女にも浮気心がないものかと疑心を抱くのだが、女にはその素振りもなく、むしろ純愛に見える。男、メロメロ、銀ダラ、といった物語にも読めるのだが、男が見ていないところでバッチグーな化粧で決める女ってなんなんだ?というのが、古来謎でもあり、この物語の大きな魅力となっている。
この化粧の意味は、呪い、という説もある。戻れや男ぉ、という呪詛かもしれない。ただ、そういうことがそれほど行われたふうもなく、この物語で際立つので、ここはやはり異様な印象を残す。
私の解釈は、男を殺しているのだと思う。別の女の元に行く男を、心のなかで殺害し、その死者の儀礼に向き合っている化粧だろうと思う。狂おしい死者のエロスである。
いや、それはないでしょ、そこまで気違いってことはないでしょ、という人もいるかもしれないが、私は世阿弥もここをそう読んでいたと考えている。
話は後段に入る。男は大阪の女と縁が切れたわけでもない。
まれまれかの高安に来てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づからいひがひ取りて、笥子のうつはものに盛りけるを見て、心うがりて行かずなりにけり。さりければ、かの女、大和の方を見やりて、君があたり見つつを居らむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも、と言ひて見いだすに、からうじて、大和人、来むと言へり。喜びて待つに、たびたび過ぎぬれば、君来むと言ひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞ経る、と言ひけれど、男住まずなりにけり。それでもまれに大阪の女のもとに行くと、最初のうちは恋心ドキドキというのもあったが、現在では、まったりとした関係にもなっている。食事なども、下女を使わずに、女が自分自身でご飯を盛ってくれるのだが、そのとき男は鬱に沈む。どぉーん。そして、この女のもとに寄らなくなった。大阪の女としては、男が戻っていく奈良側の生駒山を見て、「あなたのいるところを泣きながら見ています。だから生駒山にかかる雲はあなたを隠さないで」と、男に伝えると、男は「行きますよ」と返信があるので、大阪の女も喜んで待っていたが、実際は来ない。「あなたが来ると言うから毎晩待っているけど、頼りない恋心のまま時が過ぎていくだけ」と男に言うと、男はもう二度と来なくなった。
一般的な解釈では、男に慣れた女が、風呂上がりに裸でうろついたり、おならをしたりといった感じで、「ご飯食べるぅ? あたしもってあげるぅLove」みたいな状況に、うへぇ、とげんなりしたというふうになっている。
私はここも通解は違うと思っているのだった。
男は、大阪の女との生活に幸せと安定を見つけてしまったのだと思う。「俺はここでこの若い女と幸せに生きられるんだ」とわかったとき、存在の根幹から震撼したのだと思う。
女のこさえる飯も旨かった。まったりと、のんびりとして、さほどカネに苦労することもなく生きることができる。まあ、昔の女は捨てなくてはいけないが、あれは化粧もしないと見られたもんでもないし、あれも相応の年になったのだから、わかってくれるだろう。それにまったく捨てるといったものでもないし、光の君よろしく、たまに行ってやれば喜ぶだろう。いいじゃないか。オールラウンド・ハッピー。
というところで、男は死にたくなったのだと思う。もういいよと思ったとき、そのまま古女房のもとに戻った、と。
大阪の女は若いのだろうし、男を愛してもいたのだろう。そしていつか別の男に飯をもって、それはそれで幸せに暮らせのだろう。幸せ、いいじゃないか。
男はそうは生きられないし、そうは生きられない女もいる。それが奈良の女の生きる姿でもあった。
幸せに生きられる人はいい。不幸のなかに老いていくエロスを見つめる男というものもある。
そういう女もいる。そのあたりの裏の物語を、その次の第二十四段は描いている。そこでは別の男と幸せを見つけたはずの女が、突然すべてを捨てて死に疾走する。
この続く第二十四段物語が第二十三段の裏の物語だということも、世阿弥は見抜いていた。
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コメント
本稿を読んで、いつか世阿弥の作品に真剣に触れてみたいと思いました。伊勢物語の女の化粧解釈は、凄いです(笑)。解釈の正否とは別に、解釈自体がドラマの凝縮態、ドラマの定立です(笑)。好きな男の肉体も思いも不在の時に、女は化粧をし女の現実態になっている。男が不在であるが故に、女は化粧により観念的に自分自身の姿になっている。あるいは成れている。リアルな感じがします。
投稿: ボンボン太郎 | 2012.04.12 10:21