« 北朝鮮ミサイルは「失敗」したのか | トップページ | 石原都知事、尖閣諸島買い上げ発言について »

2012.04.16

連続不審死事件裁判員裁判の感想

 インターネットの結婚紹介サイトで知り合った男性3人を相次いで練炭自殺に見せかけて殺害したした罪に問われていた木嶋佳苗被告(37)の裁判員裁判で、さいたま地方裁判所は3月13日、死刑を言い渡した。木嶋被告は一貫して無罪を主張。弁護側は3人の男性の殺害したとする直接的な証拠はないことから「不確かなことで処罰することは許されない」と主張していた。
 元東京大学教授の上野千鶴子氏はツイッターで「木嶋佳苗裁判。心証はかぎりなくクロでも、本人が否認し、状況証拠しかないのに有罪となるなら、日本は法治国家ではない。小沢が無罪なら、木嶋も無罪だ。」(参照)という感想を述べていた。同様の印象を持つ人も少なくないようだった。この件をもって日本は法治国家ではないのだろうか。あるいは、状況証拠しかない場合は有罪にできないのだろうか。
 今回の地裁判決についての私が最初に思ったことは、100日間にわたる審理に取り組んだ裁判員に敬意を表すとともに、市民として私の、つまり私たちの良心として(代表として)、その判断をされたことを信頼しようということだった。市民である私が市民である裁判員の判断をまず信頼したいということだった。
 だが、敬意や信頼といったことではなく、私自身がこの裁判に裁判員として参加していたら、どのような判断を下すだろうか? 上野千鶴子氏のような考えを持つだろうか?
 ツイッターのつぶやきは一種の放言ともいうべきで上野千鶴子氏が公的にそのような考えを表明するかどうかはわからないが、この問題について近年の最高裁判決を見ると、たとえば「平成19(あ)398」(参照)では次のように示されている。


刑事裁判における有罪の認定に当たっては,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要である。ここに合理的な疑いを差し挟む余地がないというのは,反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく,抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても,健全な社会常識に照らして,その疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には,有罪認定を可能とする趣旨である。そして,このことは,直接証拠によって事実認定をすべき場合と,情況証拠によって事実認定をすべき場合とで,何ら異なるところはないというべきである。

 事実認定にあたっては、「直接証拠によって事実認定をすべき場合と,情況証拠によって事実認定をすべき場合とで,何ら異なるところはない」というのが最高裁の立場であり、これが日本の司法の立場と見てよい。とすれば、「情況証拠」に基づくことを根拠に、上野氏が放言されるような、法治国家の是非が問われることはないだろう。
 むしろ今回の裁判で重要なのは、「抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても」という部分だろう。これは後で触れる。
 今回の裁判では、東京・青梅市の会社員の寺田隆夫さん(当時53)、千葉県野田市の安藤建三さん(当時80)、東京・千代田区の会社員の大出嘉之さん(当時41)の3人の殺害が問われた。いずれも練炭自殺に見せかけて殺害した罪などに問われた。
 判決でさいたま地方裁判所の大熊一之裁判長は次のように指摘している(参照)。

男性らに自殺の動機はなく、殺害されたと認められる。被告はいずれの事件でも直前に男性らに会っていたほか、犯行に使われたものと同じ種類の練炭コンロや睡眠薬を入手していて、3人を殺害したのは被告以外にありえない。

 しかし、もし推理作家なら、奇想天外なストーリーを形成できないわけではない。例えば、被告を陥れようとした第三者がいてうんぬんといった類のものである。あるいは、当初それぞれの事件が自殺と見られていたように、とてつもない偶然があったとか(参照)。
 それが先に触れた「抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても」ということである。
 民主主義国における司法は、法律を数学的に合理的に当てはめれば判決がコンピューターでも下せるといったものではなく、市民がどのように意思を表明するかということであり、今回のような事件では、日本の市民がこの事件をどう判断するかということである。もちろん、それが行きすぎの権力行使にならないように法律はむしろその制限をするものである。
 別の言い方をすれば、神のような視点で事実をドラマのように再現するのではなく、市民が集まって「この被告は有罪であると決める」ということであり、その刑が死刑であるなら、市民である私たちがその被告を殺害すると決めるということである。これはユダヤ教など古代宗教からも引き継ぐ石投げ刑と同じ原理で、私たち市民は、死刑者の血の責務を受けるということである。
 今回の判決では、量刑としての死刑が妥当かが問われた。ネットなどを見るといくつかの意見の変奏が見られた。状況証拠では死刑は下せないとする意見もあった。だが、先の最高裁の見解のように、死刑もまた有罪の認定の帰結に含まれるものであり、死刑に相当するか否か自体が状況証拠によって決められるものではない。
 その意味では、3つの連続殺人が被告の意思によって実行されたと市民が判断するなら、日本の現行法の枠内では死刑は妥当と見ることができるだろう。
 ここには2つのプロセスがある。(1)3つの連続殺人が被告の意思によって実行されたと市民が判断する、(2)その判断から死刑は妥当である、である。
 私が仮にこの裁判の裁判員だったとしよう。私も(1)のように、3つの連続殺人が被告の意思によって実行されたと判断するだろう。連続した事件ではなく1件の事件であれば、冤罪の可能性を考えるだろう。
 そして(2)について、従来の司法から死刑が妥当することを私は肯定するだろうし、そのように考える同胞市民に共感を持つだろう。
 だが、私自身としては死刑が妥当だとは思えない。3つの連続殺人がなされたとしても、そして現在なお、被告に反省が見られないとしても、被告が罪を受容する可能性はなお開かれているだろうと思う。一人の市民の意思として私はそう主張するだろう。私が裁判員ならその主張を同じく裁判員となった同胞の市民に語りかけるだろう。
 今回の判決は地裁判決であり、被告は控訴しているので、裁判員の入らない高裁で問われることになるだろうし、その判決も注視したい。
 
 

|

« 北朝鮮ミサイルは「失敗」したのか | トップページ | 石原都知事、尖閣諸島買い上げ発言について »

「時事」カテゴリの記事

コメント

スッラの粛清により親族を頃され、自身も危うく難を逃れたカエサルは敵対する者をその寛容で許しました。それが最後は自身の破滅の原因になったのでありました。しかし粛清する者は決して歴史の駆動者にはなれないことは歴然としている。親族の悔しさは筆舌に尽くし難いと思いますが、同じ文脈で同じような復讐をして何になろうか。とか、詰まらん感想を述べたれど、極刑が抑止力になりしかも?そーではないといふデマも多い。原爆や無差別爆撃で何百万人もの老若男女赤ん坊まで焼殺された我が民は、何の遺恨も無く対米従属しているではないか?この寛容をなして失ってしまったのか? ふと気付いたが、この判事さんは例のミラーマン氏に峻厳なる断を下したお方でもある。あの判決により高裁に栄転したとのデマもあったが、埼玉にてシコシコと正義を貫いてたんですねぇ。ともあれ民意絶対主義の足音が聞こえる判示ではありますた。

投稿: tamamusi | 2012.04.16 23:14

よく読ませていただいております。
すみません。1つ質問です。最後の「被告が罪を受容する可能性」について教えていただけませんか。全体のヒューマニスム的な論旨からすればまあ、分かるのですが、こちらにキリスト教的な教養が全くないので、「罪を受容する」とはどういう事態を指すのかわかりません。そしてブログの主体であるfinalventさんにとっての「罪の受容」の意味も教えていただければと思います。2番目は個人的な話ですし、まったくもって興味本位の質問なので無視していただいても構いません。(それから、反省と死刑の排他的関係の当否についてはいつかまたどこかの機会に)
よろしくお願いします。

投稿: K | 2012.04.17 15:23

弁護の失敗じゃないか?
殺害を疑われている側が、証拠もなく被害者を貶めたら駄目でしょう。嫌悪感を持たれる。

投稿: kazu | 2012.04.19 16:08

こういう判決が日本をスポイルするのですよ。
溜飲を下げて良い気分なのかもしれませんが。

投稿: ruq | 2012.04.20 19:39

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 連続不審死事件裁判員裁判の感想:

« 北朝鮮ミサイルは「失敗」したのか | トップページ | 石原都知事、尖閣諸島買い上げ発言について »