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2012.04.07

[書評]禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明(エレーヌ・ペイゲルス)

 聖書には含まれていないイエス・キリストの教えが存在するとしたら、どう思うだろうか。キリスト教徒なら「そんなのは悪い冗談でしょ。聖書は聖霊の導きで書かれているのです」と答えるかもしれない。だが、聖書に含まれている、イエス・キリストの生涯を記す4つの福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)以外に、本当のイエス・キリストが語った言葉を収録する別の福音書がかつて存在し、そしてそれが今の聖書に収録されている四福音書よりも真実を伝えるとしたら、どうだろうか?
 いや、何をもって「真実」だというのかという議論にもなるかもしれない。本書、「禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明」(参照)は、その問題を本質的に扱っている。
 訳本の表題「禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明」は日本人に向けてよく練られている。確かに本書では、現在のキリスト教からは禁じられた、異端の福音書が議論されている。キリスト教に関心ある人なら、あるいはSFの愛好家も、20世紀最大の発見とも言われるナグ・ハマディ文書の解明にも関心があるだろう。

cover
禁じられた福音書
ナグ・ハマディ文書の解明
 副題として記されるナグ・ハマディ文書は、1945年、エジプト南部、観光地として有名なルクソールの近く、ケナ県ナグ・ハマディという町の近郊洞窟から壺に封印されたパピルスとして発見された、コプト語による文書(写本)で、キリスト教がどのように成立したかを解明するうえで貴重な史料となっている。簡単に言えば、4世紀にキリスト教が成立するとき、「これを後世に残してはいけない」とされた異端文書である。が、「異端」というのはこの焚書行為と同義でしかない。別の言い方をすれば、危険文書である。キリスト教の存続を危うくする危険性があると見なされた文書である。
 20世紀にひょっこり姿を現したナグ・ハマディ文書と現在の聖書(聖典)を合わせた総体でおよそ、イエス・キリストが磔刑され復活した1世紀以降の歴史の、ある意味で豊かな形態のイエス・キリストへの信仰が再構成できる。それが本当のイエス・キリストの教えということだとしたら、現存するキリスト教とはどのようなものになるだろうか。
 ナグ・ハマディ文書の古代的な、また豊潤な精神性・宗教性が再び説かれる事態になれば、これも「ある意味で」と限定はするのだが、現在の正統キリスト教は壊れてしまうかもしれない。
 妄想にも近いかもしれないが、未発見の古代文書に、「正統のキリスト教の歴史が押し隠したイエス・キリストの真実の姿を示す秘密が隠されているのかもしれない」と思う人がいても不思議ではない。アーヴィング・ウォーレス「イエスの古文書」(参照)やダン・ブラウン「ダ・ヴィンチ・コード」(参照)など小説のネタにもなる。P・K・ディックの「ヴァリス」(参照)三部作もその影響にあることは、SF愛好家なら常識だろう。
 隠された秘密は知りたいと思うものだ。ナグ・ハマディ文書の一部は、発見の経緯からエジプト国外に売却されるという不幸なことがあったが、この分野に多大な関心を寄せた心理学者カール・グスタフ・ユングが最終的に入手し、ユングの死後、エジプトに戻ることになった。ユングは、現在のキリスト教から失われた古代の神秘の教えともいえるグノーシス主義への傾倒からナグ・ハマディ文書に関心を持っていた。少し勇み足な言い方になるが、彼はそれをもってキリスト教を乗り越えようともした。
 こうした、失われた、真なるキリスト教、あるいは真実のイエス・キリストの教えといった関心はその後も続き、近年では「ユダの福音書」(参照)が話題になったこともある。
 この話題の、おそらくもっとも中心的な部分は、本書オリジナルの表題にも含まれている「トマスによる福音書」(参照)である。本書オリジナルの表題「Beyond Belief: The Secret Gospel of Thomas」(参照)には「トマスによる福音書の秘密」と書かれ、まさにこの核心部分を扱った書籍でもあることがわかる。なお、「Beyond Belief」は、「ウソぉ、信じられない!」という口語的な意味と、字義どおり「信念・信仰を超えて」という二つの意味があり、その双方が本書の内容を暗示している。
 著者エレーヌ・ペイゲルスは新約聖書学の中でも、さらにナグ・ハマディ文書などグノーシス主義文献研究家の第一人者であり、本書もその学術的研究を踏まえた一般書として書かれている。予備知識のない人や、正統キリスト教の知識しかない人が読むと奇妙に思われる点もあるだろうが、学術的な逸脱はない(異論はあるだろう)。そうした学者さんなのだから、学術的な知見から啓蒙的な文書にまとめることもできるだろうし、信仰やあるいはディックやユングが取り憑かれたような妄想にも近い部分をさらりとかわすこともできただろう。しかし彼女は、まさにその部分にエレガントでありながら体当たりしている。
 マーサ・グラハムの元でダンスも学んでいたという彼女は、詩情豊かであるが、学者さんらしく慎ましい限界をもって筆を進めている。だが、ある程度この分野に精神を関与させた読者なら、彼女がトマスによる福音書からイエス・キリストの声を聞き取ろうとしていることがわかる。それは私のような者にはちょっとした衝撃でもある。少し自分語りをしたい。
 私は中学生のころからドストエフスキーを読み出し、小林秀雄や山本七平などの影響もあいまって、高校時代にキリスト教の神学に関心をもち、特に神学者八木誠一に関心をもった。「キリスト教は信じうるか―本質の探求」(参照)や「キリストとイエス―聖書をどう読むか」(参照)といった新書は擦り切れるほど読んだし、学術論文と言ってよいかと思う「新約思想の成立」(参照)も読んだ。同書には後にトマスによる福音書を邦訳した新約聖書学者荒井献との論争も収録され、そこではまさにグノーシス主義が話題になっていた。誤解を恐れずにいうなら、八木神学には「グノーシス主義」的な部分はあったかと思う。だが私はそれに傾倒し、八木誠一先生本人からも学ぶ経験もえたが、逆にそれをきっかけに私は新約聖書学から離れるようになった。八木先生に幻滅したからではない。ブルトマン的な方法論の自然な成り行きのように聖書と信仰が結びつかなくなったのである。
 私語りをしたのは、本書の話題の核心は「トマスによる福音書」だとしたが、それは「ヨハネによる福音書」による排除であるとする大胆な主張に関連する(「ヨハネ」は「トマス」を排除する意図で書かれた)。私は、八木神学から離れると同時に「ヨハネによる福音書」も捨てていた。いや「捨てる」というのは正確ではない。関心からこっそりと排除した。三一信仰も同じ扱いにした。共観福音書のイエス像(ケリュグマ)だけを残した。
 なのにパウロにずっと関心を持ち続けた。イエスのケリュグマとパウロがあれば、どこかでキリスト教が見つかるような気がしていたのだった。パウロが遭難したマルタ島の海岸でその荒れた海を見つめたこともあった。
 聖書に、またイエス・キリストに関心を持ちながら、それが信仰に結びついていかないもどかしさと、どこかに失われた信仰があるのだということに自分は翻弄されてきた。本書の著者エレーヌ・ペイゲルスもそう感じていたのだという挿話が、本書の冒頭に描かれている。その意味で、この本は、私の本だとも思った。私のための本だ、と。そして、本書の概要を知りながら、読むことをずっと避けていたのも、それに関係していた。「ヨハネによる福音書」に取り組まなければならないことが、たぶん私の人生の、もう避けがたい私だけの課題になった。
 この年齢になって、キリスト教の歴史的な総体というものが、不思議に浮かび上がるように思え、昨年年末、E.R.グッドイナフ「アレクサンドリアのフィロン入門」(参照)を読んだら、小冊ながら「ヨハネによる福音書」とフィロン哲学の関係の大筋が見えた。そして本書で「ヨハネによる福音書」が「トマスによる福音書」を排除しつつ、ニケア信条が成立する過程もくっきり見えた。この説は新約聖書学的にはおそらく学説に留まるのだろうが、覆りようもないように自分には思えた。「ああ、そういうことだったのか。キリスト教というのはそういうものだったのか」となにかが胃の腑にずしんと落ちた。
 正統キリスト教を否定したり、「ヨハネによる福音書」を批判したりという思いはまるでない。むしろ、実質的に本書の主人公ともいえるエイレナイオス(Ειρηναίος)とその系統にある人々が、「トマスによる福音書」を必死に排除していくプロセスに共感した。つまり、それがキリスト教を作るということでもあったのだろう。誰かがそれをする他はなかったこともよくわかる。
 同時に「ヨハネによる福音書」の代わりに「トマスによる福音書」が共観福音書に添えられていたら、人類は異なるキリスト教の歴史を持ったのかもしれないとも夢想させる。それは今更想像しても詮無いことだと思う人もいるだろう。だが、著者エレーヌ・ペイゲルスはおそらくそうは考えてはいない。私も。とても遠いところにまで来てしまったなあという思いはするが。
 
 

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コメント

自分の知識の不足で分からない点も多々ありますけど、とても刺激的で面白かったです。とくに、

「本書の話題の核心は『トマスによる福音書』だとしたが、それは『ヨハネによる福音書』による排除であるとする大胆な主張に関連する」

という点に驚嘆しました。素人考えでも、あの『ヨハネによる福音書』の異常なまでに極彩色で「脅迫的」ともいえる幻視のイマージュは何に由来するのか? その異様なまでの想像力の奔出は何なのか!? そう思うこと頻りでした。

率直にいって『ヨハネによる福音書』は、どうにも自分の感性では追い付けない内容でした。それが、『トマスによる福音書』との熾烈な抗争、排除という動機が背景にあったとする「大胆な主張」は、自分にはその「内容」は不明ですが、関心をそそられました。

「昨年年末、E.R.グッドイナフ『アレクサンドリアのフィロン入門』(参照)を読んだら、小冊ながら『ヨハネによる福音書』とフィロン哲学の関係の大筋が見えた」。

上記の「関係の大筋」にも関心が惹かれました。

私は本稿を読みながら、直感的に(なんの根拠もありません)、グノーシス思想は「インドの古代思想であるウパニシャッドや原始仏教にも似ているな」と思いました。北方インドに侵入した支配者たちはイラン高原からの人達だったと習ったことがあります。

グノーシス思想の排除は、キリスト教の正統教義「成立」にとって必然的だったのは明らかなようです。教義の正に、根幹を浸蝕する思想だといえるようです。認めたら、キリスト教の「信仰の対象」も、「信仰」という態度自体も成立しません。

「私のための本だ」と思える本に出遭えることは極めて稀なことだと思います。本稿の力ある筆者による『ヨハネによる福音書』との対決にも興味が惹かれます。

投稿: ボンボン太郎 | 2012.04.09 00:10

TV番組でおなじみの飯田先生がキリスト教神学に関心を持っておられ、八木誠一氏に直接学ばれたことを知り驚きです。思えば、けっこう経済学の方で神学とリンクする人っておられるみたい。なんか関係があるのかな?

>八木神学には「グノーシス主義」的な部分はあったかと思う。

自分も八木先生の大ファンでして、毎年1度はファンレターっていうか質問ハガキを出します。八木先生は無名の読者にも必ず返信して下さる「愛」の実践家です。
八木先生の「イエス・キリスト」は間違いなく自分たちと同じただの人間ですよね。「神性」みたいなものは無し。遠藤周作の『キリストの誕生』で言われている「X(エックス)」のような神秘的要素は無しです。
それでいて「三位一体」は「場所論的」な解釈として認めておられます。つまりイエスと「父=神」との関係は「実体的一」ではなく「作用的一」であると・・・ここがポイントですね。
ところでグノーシス主義って、イエスの神性は認めちゃうんですよね。歴史性が欠如している。自分は「正統的キリスト教」の自己絶対化を批判する者でありながら「グノーシス主義」も批判する理由は、歴史的社会的現実から遊離した思想など全くリアリティーを欠く、つまりファンタジーにすぎないからです。ファンタジーでは人生に救いはありませんからね。まさしくマルクスの「宗教はアヘンなり」が適用されるべきは、このグノーシス主義的キリスト教ではないでしょうか?
長くなって失礼しました。

投稿: 閲覧者 | 2014.09.10 16:29

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