NHK朝ドラ カーネーション
一、二回の抜けはあったかもしれないが、NHK朝ドラ「カーネーション」はほとんど見た。面白いなと思って日々見ていた。先週終わって、今朝の新・朝ドラのことはすっかり忘れていた。たぶん、こっちは見ないんじゃないだろうか。
「カーネーション」を見始めたのは、単純な話、小篠綾子さんがテーマだったからだ。この人を題材にして面白くないドラマはできないだろうと踏んでいた。このレベルのパワーが出せるのはあとは千住文子さんしかいない。
![]() 糸とはさみと大阪と 小篠綾子 |
違和感はあった。脚本のうまさは同時にあざとさでもあった。栗山千明演ずる奈津や恋人役設定の周防などは、脚本家の技量の、ある種嫌みのようなものが出て、人情を描くようでいながら人間を描き切れていないもどかしさがあった。特に周防については、綾子さんの不倫が有名でもあったことから、あれをどう描くものかと見ていたが、「ほっしゃん」との人格で劇場的に分離させていた。やるなあ、うまく描くものだな、という思いと、そうして分離して切り捨てられた、周防とほっしゃんが生身の人間の身体で交点を描く部分の男女の機微は、きれいに抜け落ちていた。あれは恋愛というものではないなと思いつつ、と同時に、この脚本家は恋愛というものが描けるのに、どうして描かないだろうかといういぶかしさもあった。
![]() カーネーション 完全版DVD-BOX1 |
この、時代感覚というものの奇妙な欠落は、十朱幸代演じる貞子、正司照枝演じるハル、善作演じる小林薫がその肉声をもってうまく補っていた。照枝さんはギターが似合うのだがなと思い出す。昭和な私からすれば、みなさん、お若い世代の俳優だった。それでも昭和の気風を身体で知っている人たちだった。配役はプロデューサーのうまさというべきかもしれない。
リアルな時代感覚との対照には、脚本家自身の時代意識とその対象への具体的なある感触があるものだ。それが必ずやどこかで漏出する。そこには小林藤子が演じる孫娘理香があてはまっていた。このドラマは1970年代生まれの脚本家が書いているなと感じさせるものがあった、と私は書いたが、竹の子族から逆算する位置にあった。
竹の子族世代の心情は逆に私にはわからないが、この平成も終わらんとする時代に出来た物語は、そこから小篠綾子という「おばあさん」を心情的に接近してみたのだろう。実際のところ、周防の話題で萌え上がっている茶の間のおばさんは、その世代なのだろう。その意味で、カーネーションの成功は、竹の子族世代の中年層をうまく掴んだことなのだろう。
我ながらうかつだったのだが、脚本家への焦点をもちながら、実際にその脚本家が渡辺あやだったことには、それほど興味が及んでなかった。ステラ(3/30)にインタビューが掲載されていて、ああ、「ジョゼと虎と魚たち(映画版)」(参照)の脚本だったか、なるほどと得心した。
言われてみれば、「カーネーション」のある独自なトーンは「ジョゼと虎と魚たち(映画版)」とよく似ている。そして実は、「カーネーション」が描き出そうとして踏みとどまったものは、小篠綾子とジョゼと重なる部分の、ある独自なエロスのようなものではなかったか。「ジョゼと虎と魚たち(映画版)」で妻夫木聡演じる恒夫の泣き崩れる姿に似たものが、たぶんこの朝ドラのどこかで(周防の娘との再会あたりか)、こっそりと失われたピースなのではないかと、思った。
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コメント
私も飛ばし飛ばしに楽しみました。失われたピースの指摘、その通りだと思いました。朝の連ドラの役割の限界かも。でも本ドラマは限界をかなり超える含みを持っていました。私も成長期の主人公に魅力を感じました。
投稿: ボンボン太郎 | 2012.04.07 09:02