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2012.04.26

[書評]浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか(島田裕巳)

 本書「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」(参照)の表題の問いについて関心がある人なら、それは「おわりに」の数ページが扱っているだけなので、さっとそこだけ立ち読みすれば終わる。ただ、さっと読んでわかる回答は書かれていない。筆者の用意した回答としては「庶民の宗教だから」というのが筆頭に来るが、それが明瞭に支持された解説に拠らずややわかりづらい印象を受ける。しかし、そこは本書の欠点ではない。

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浄土真宗はなぜ
日本でいちばん多いのか
島田裕巳
 むしろ本書全体を読めば、明瞭な答えに導かれる。つまり、浄土真宗は妻帯から家系による寺の相続が可能になったこと(本来寺はそういうものではない)と、妻帯に伴う縁組みで閨閥が形成できることだ。
 浄土真宗を宗教としてみるとわかりづらいが、諸侯や商店の特異とも見ればよいとも言えるだろう。浄土真宗藩や浄土真宗店とでもいうようなものである。さらに江戸時代に幕府から特別に保護されたことの要因も大きい。
 ただし、それらの要因が浄土真宗において実質日本社会に影響力を持つのは、諸侯のような通常の経営力よりも、葬式という死者を管理する仕組みをもったことだ。
 本書で興味深いのは、本書が、なぜ日本の仏教は葬式仏教なのかについて、かなり明瞭な答えを出している点である。実際のところ日本の仏教の経営の実態は葬式と死者の管理なのであり、公的部門の民営化だったのである。
 その意味で、「日本の仏教とはなんだろうか」「なぜ世界の仏教とこんなに違うのだろうか」という疑問や違和感を持つ人にとっては、本書はかなり明晰な答えを与えるし、これ、英語に翻訳すれば各国のシンクタンクで日本の分析に活用されるだろう。もっとも、それだけの魅力が日本の国家に残っているならばではあるが。
 別の言い方をすれば、本書は、実に適切でコンパクトな日本仏教概論になっている。従来から日本仏教概説といった書物は多種あるが、どれでも中途半端な、各派の教義のパッチワークか、あるいは帝大系仏教学の援用といったつまらないもので、現実の日本の仏教に対応したものではなかった。これに反して本書は、日本仏教というのを実用的に概説している。実に便利な書籍である。
 私個人としては「これは痛快だな」と思えたのは、空海や親鸞の虚像を剥いでいくあたりもだが(これらは学術研究ではすでにわかっていたことではある)、なんといっても、道元から葬式仏教が出てくるという指摘だった。しかも道元をオウム真理教に比すカルト宗教として捉えているのも的確だった。もちろん、私も含めて道元を敬愛する人でも学術心がなければ嫌悪してしまうかもしれない。
 道元の創始した曹洞宗が日本の葬式仏教を生み出し、これを江戸時代に体制化した浄土真宗がパクることで現在の葬式仏教体制が成立した。
 なぜ道元のような純粋な仏教思想からこんな奇っ怪な事態が生じたのかというのは、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読むような逆説的な面白さがある。
 私も含めて曹洞宗の歴史をそれなりに知っているものからすれば、道元後の永平寺の動向も知っているので、その意味では、それは道元の思想が誤解されたもの、あるいは世俗化したものという理解は難しくはない。しかし、そのような意味合いは結局のところ護教的な説明に堕しているだけで、むしろ本書のように徹底的に社会学的な視点から捉えたほうがわかりやすい。同時に、葬式仏教は本来の仏教ではないとして、本来の仏教という奇っ怪なものを提示する陥穽に落ちずに済む。
 日本の葬式というのは、宗教学を多少なり囓ったものであれば、仏教ではなく儒教であることは知っている。なぜ儒教が日本の葬式仏教になったかといえば、これはすでに先行して宗教混合(シンクレティズム)が進んでいた中国の模倣だからである。ではどこで、中国の風習が日本に流れ込んだかということだが、そのあたりの経路と追跡が本書で簡素にまとまっている。
 話を本書の表題の修辞的な疑問に戻すと、「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」について、「庶民の宗教だから」という曖昧な回答を、むしろ受け入れる要素があるのは、戦後の状況である。
 寺院の家系相続がより明確になったのも戦後ではあるが、戦後を意味付ける仏教の動向は、これも端的に言えば、日蓮宗と創価学会であった。本書が、昭和40年代まで日蓮宗と創価学会がモダンな都市民の宗教として魅力を持っていた実態を明らかにしているのも、現在となっては貴重だろう。このあたりは、私のように昭和の人生が長い人間には当たり前だが、自覚した人生が平成時代という人には感覚としてはわかりづらいようだ。
 本書には言及されていないが、戦後大衆にアピールした政治思想と宗教は、その躍進という点からすれば、共産主義と創価学会であった。共産主義についてはハンガリー騒動を受け、60年代・70年代の新左翼分化と、カルト的に体制化していく社会主義によって薄れて、現在はもはや老人の巣窟(それと日共産下の病院)くらいしか残っていない。だが、創価学会のほうは時代的な要因からはずれてもむしろ、当時の二世・三世のある種のエリート化によって現在も所定の影響力を維持している。これも逆に言えば、形骸化としての維持なので戦後の創価学会の躍進のエネルギーはない。
 話をより葬式仏教全体に及ぼせば、これも形骸化した維持の状態にある。団塊世代から葬式仏教は徐々に崩壊しつつあるものの、死者の層もここが大きいので、新聞などと同様以外と長く持ちこたえる。最終的に葬式仏教が終焉するのは、私がある程度寿命をまっとうしたらその頃になるだろう。いずれ、葬式仏教は日本から消える。そうした中期的な日本の精神風土の見取り図としても本書は役立つ。
 本書には欠点もある。仏教学を多少なり学んだ人ならいくつか誤りを指摘できそうだ。私も読み始めのころは、首をかしげる部分があった。しかし私のような浅学ですらそうなら、著者の下にはいろいろ改善点が集積されているだろうし、今後増補版を出されればいいだろう。
 むしろ、本書のカーバーする範囲ではないのかもしれないし、本書が定説や近年の学術研究を簡素にまとめたせいもあるのだろうし、また新書としての制約もあるだろうが、民俗学的な知見が欠落していているのは残念に思えた。
 地蔵信仰や観音信仰、さらには近世の新興宗教などについてはほとんど触れられていない。奈良・京都・鎌倉といったいわゆる正史的な寺院以外に、民衆の仏教史跡などを見て回れば、また違った仏教の風景が見えるものだ。なぜ地蔵信仰があるのか、観音仏が多いのはなぜか、薬師如来とはなにか、など。これらの大衆の仏教信仰を本書に補強すれば、ようやく日本仏教史というものの総体が見えてくるだろう。
 
 

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2012.04.24

アフマディネジャド大統領のアブムサ島訪問について

 イランのアフマディネジャド大統領がアブムサ島を訪問した。この件について、ざっと調べた程度ではあるが、毎日新聞を除いて日本ではほとんど報道がなかったようだった。しかし、現在の中東問題の大きな構図を考えていく上で重要な問題を含んでいると思えるのでブログで拾っておきたい。
 例外的とも言える毎日新聞記事だが、22日付けの「ペルシャ湾:3島の領有権巡り イランと湾岸諸国対立」(参照)である。冒頭は以下のとおり、簡素にまとめられていて読みやすい。


【テヘラン鵜塚健】ペルシャ湾に浮かぶアブムサ島、大トンブ島、小トンブ島の3島の領有権を巡り、イランと湾岸諸国との対立が過熱している。イランのアフマディネジャド大統領が今月11日にアブムサ島を訪問したことに、領有権を主張するアラブ首長国連邦(UAE)が強く反発。サウジアラビアなど6カ国で作る湾岸協力会議(GCC)がUAEに加勢してイランを非難し、地域の新たな火種になっている。

 基本の問題構図は、イランとアラブ首長国連邦(UAE)の領土を巡る対立である。アブムサ島、大トンブ島、小トンブ島という小さな3島の領有権の争いなので、東アジアや南米などにもある、よくあるタイプの領土問題のようにも見える。

 問題の基本構図から発展している部分がある。UAE側にサウジアラビアなど6カ国で作る湾岸協力会議(GCC: Gulf Cooperation Council、サウジアラビア、クウェート、バーレーン、カタール、UAE、オマーン)が荷担していることだ。結論の一部を先回りしていうと、この構図で重要になるのはイランとサウジアラビアの対立である。
 問題のもうひとつの側面は、毎日新聞記事にも言及があるが、この3島がホルムズ海峡に近いことだ。イランがこのところちらつかせているホルムズ海峡封鎖との関連がある。
 アフマディネジャド大統領のアブムサ島訪問について日本で、ほとんど報道されていない理由はよくわからない。全体構図の理解が難しいのかもしれない。背景知識も多少こみ入っている。なぜアブムサ島、大トンブ島、小トンブ島に領有権問題があるのか。どのような経緯を辿っていたのか。毎日新聞記事には簡素に言及している。


アブムサ島は、英国撤退後の71年からイランが実効支配。しかし、同年に独立したUAEがその後、他の近隣2島も含めた領有権を主張した。以降、論争が続くが、本格的な衝突はなかった。

 少し補足する。
 この3島は元来ペルシャ帝国の領土だったものを英国が1908年に支配下に置いた。この際、現在のUAEの地域も英国の支配域に含まれた。第2次世界大戦後、世界各地の英国植民地が独立したが、アブムサ島も1960年代に英国管理下のシャールジャに移管された。1968年に英国がペルシャ湾域の支配放棄を宣言すると、パーレビ皇帝(日本では国王と呼ばれる)を頂くイラン帝国がアブムサ島に軍を派遣し、実効支配に及んだ。
 1971年、アブムサ島についてイラン帝国とシャールジャは英国仲介の下、シャールジャが島民管理をするもののイラク軍の駐留も是認する協定を結んだ(参照)。この時点では領有権は曖昧な状態だったが、シャールジャが英国支配からUAEとして独立した後、1974年以降はUAEも領有権(共同管理)を主張した。アブムサ島は石油を産出するうえ、地理的にもホルムズ海峡支配の点で戦略的な位置にあるため、注目される。
 1979年のイラン革命で成立したイラン・イスラム共和国は、1992年、自国領土と宣言し、アブムサ島からUAE系の住民を追放した。この話題は現在と異なり、日本のメディアでも随分と報道されたものだった。
 なぜイランがこの時期に強行に出たのかについては議論が分かれるが、1991年に終えた湾岸戦後、GCCがエジプトとシリアを主軸とする「湾岸平和維持軍」創設の構想していたので、これにイランが対抗したものだろう。サウジを筆頭とするGCCとイランとの対立という構図は今回も再現されている。
 ここで毎日新聞記事に戻る。先の引用は次のように続く。

 しかし、大統領がアブムサ島を訪問したため、UAE政府は在UAEイラン大使を呼んで抗議。UAEが加盟するGCCは17日、外相会議を開き「イランの行為を、GCC全体に対する侵略行為とみなす」とする非難声明を出した。

 同記事ではこうも指摘している。

 イランとGCCは、反体制派への弾圧を続けるシリアのアサド政権に対する是非や、バーレーンの反政府デモを巡る立場でも対立。3島の領有問題が加わり、さらに対立が深まりそうだ。

 そう見ることもできる。だが、今回のアフマディネジャド大統領のアブムサ島を訪問は、「さらに対立が深まり」というような追加的な対立ではない。
 GCCがシリア問題を論じる会議日程に合わせて、いわばサウジ向けにイランがこのパフォーマンスを行ったと見るほうが自然だろう(参照)。
 つまり、シリア問題へのGCCの取り組みに対抗して危機を煽る意味があった。するとそのメッセージ性が重要になる。
 実はシリアでの実質内戦に近い状況は、サウジとイランの代理戦争の様相をもっていることが今回の件からもわかる。
 
 

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2012.04.23

極東ブログ・メールマガジン 試作品 No.1 (2012.4.23)

 第2次か第3次かわからないけどメールマガジン(メルマガ)のブームらしいというのと、ブログという形式と少し違った展開もあっていいかと、このところメルマガのことを考えていた。考えてみたら、考えてもしかたがないので試作品でも作ってみるかなと思い直し、どういう試作品するかと悩んだ。でも、試作品は試作品なので、とりあえずなんか作ってみた、と。
 ブログとは違って、読みやすく手短で、情報が多いほうがよいのではないかと思っている。(ブログより明瞭に書いていこう、とも)
 ネタとしては、これも思ったのだけど、これまでのブログとまったく違った分野というのもなんなので、従来路線っぽい感じ。どうしようかなとは悩んでいる。
 メルマガを実施するとなると有料化ということで、これはいく人か相場とか動向など意見を聞いてみた。なるほどと思うことはある。購読者はページビューの5%くらい。月額500円あたりが相場のようでもある。それだとアフィリエイトより大きな額になるのだけど、率直なところ無理なように思う。無理じゃないとすれば、それだけのコンテンツの実感が出て来たところだろう。
 最低でも週一回のペースだと、最初はいいけど、そのうちにきつくなるだろうと思う。そのあたりのネタのペース配分もできるかどうか。
 ブログはブログで継続する予定。むしろ、メルマガやっぱし無理じゃねということであれば、試みもおしまい。
 というわけで、試作品とはいえ、今日ネタなんで、ほいじゃ。

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極東ブログ・メールマガジン 試作品 No.1 (2012.4.23)
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目次
[フランス] フランス大統領選、オランド候補が当選して混乱が広がるだろう
[米国] オバマ大統領の最大業績「オバマケア」が消えて再選が危うくなる
[技術] 日本も狙われた招き猫(Luckycat)サイバー攻撃の背後に中国政府と民間中国人
[書籍] やり直し教養講座 英文法、ネイティブがもっと教えます
[テレビ] NHK「シリーズ 医療研究の最前線」
[コラム] 2012年5月21日の朝、7時34分頃、東京で金環日食

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[フランス] フランス大統領選、オランド候補が当選して混乱が広がるだろう
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 フランス大統領選第1回投票が、日本時間の23日午前3時に締め切られた。開票率75%時点の仏内務省中間集計では、1位オランド氏27.9%、2位現職サルコジ氏26.68%。3位マリーヌ・ルペン氏19.3%、4位メランション氏10.8%、5位バイル氏9.8%となり、過半数を獲得する候補はなく、大統領選出は5月6日の第2回投票でオランド氏とサルコジ氏の決戦になる。
 結果の予想だがオランド氏勝利となるだろう。今回の大統領選挙は現職のサルコジ大統領再選潰しという否定的な理由で他候補がまとまっているためで、他候補票の多くはオランド氏に流れる。右派と見られるマリーヌ・ルペン氏の票もサルコジ氏には流れない。
 社会党のオランド候補が当選することでフランスは混乱することになるだろう。もともとオランド氏は、女性問題のスキャンダルで失脚した国際通貨基金(IMF)前専務理事ドミニク・ストロスカーン氏の代用で、にわかに仕立ての候補だった。その支持は反サルコジ気運と組織票であって、オランド氏の資質や社会党の政策によるものではない。
 問題となるのは、サルコジ大統領が推進してきた年金制度改革の逆行である。この改革が決まった2010年10月には学生を含んだ大規模なデモがあった。学生たちにしてみると「老人にさっさと年金をやって引退させ、自分たちに職をくれ」ということであった。
 これがオランド大統領の下で、62歳の底辺が60歳に引き戻される。だが、改革を逆行させて財政を維持する見込みがあるわけでもない。各方面の補助のもとになるバラマキは増税となって跳ね返る。
 他にも懸念がある。オランド氏は、財政赤字の大幅な削減を義務付ける欧州連合(EU)の「新財政協定」再交渉も公約としている。これは欧州危機の不安を増加させる。
 フランス国民の多くは現状、オランド氏を支持しているだろうが、第2回投票までの間、金融市場は別の意志を表示するに違いない。その意思表示の強さがもたらす結果は、存外のサルコジ氏再選か不吉な欧州経済か、いずれかだろう。

  * http://goo.gl/PvJ5C


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[米国] オバマ大統領の最大業績「オバマケア」が消えて再選が危うくなる
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 米国大統領選挙が、現職の民主党のオバマ氏と共和党のロムニー氏の対決構図で見られることはしかたがない。だが、現職オバマ氏の再選のカギを握るのは、彼のもっとも重要な業績となる可能性のある、2年前に成立した「オバマケア」こと「患者保護と手頃な医療法(PPACA: Patient Protection and Affordable Care Act)」についての違憲訴訟だろう。
 皆保険となるオバマケアを市民が拒否すると罰則が適用されるのだが、それは合憲だろうか。最高裁が6月下旬に違憲判断を下すと、オバマ氏最大業績が消える。大統領としてのヴィジョンの評価も下がり、再選も危うくなる。
 判決を左右するのは法的な議論だが、一般的には最高裁を構成する9人の判事の色分けだと見られている。現状9人の色分けが、共和党系が5人、民主党系が4人と拮抗している。そのままの色分けなら共和党に有利だが、レーガン大統領が任命したアンソニー・ケネディ判事は問題ごとに個別の判断を下す中間派なので、今回も同検事の判断がカギを握る。
 どうなるだろうか。違憲判断となるのではないかと思う。判断は法学的になされるだろうが、他の要因も大きい。(1)オバマケアのような国の根幹に関わる制度が超党派的な合意なく決定されたこと、(2)当初のコスト見積もり正しくなく正確なコストの見通しができていないこと、の2点が大きくのしかかっている。


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[技術] 日本も狙われた招き猫(Luckycat)サイバー攻撃の背後に中国政府と民間中国人
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 インターネットをめぐるハッカー活動が活発になり、その背後に各国政府の関与も疑われるようになってきた。最近の事例では、3月にシマンテックが調査を公開した「招き猫(Luckycat)攻撃」と呼ばれる標的型攻撃について、ニューヨークタイムズ報道(*)が中国政府の関与を疑わせた。
 招き猫攻撃は当初、インドの軍事研究所やマレーシアの海運機関を標的としていたと見られていた。しかし、特定の個人や組織を標的にする「標的型攻撃」ではあるが簡易言語を使っていることやハッキング後の操作が手作業であることから単独犯ではないかとも見られていた。その後、トレンドマイクロが独自に追跡調査したところ、攻撃は単純とも言えず、また対象には日本も含まれていた(福島第二原子力発電所のデータが偽装に利用されていた)。
 ニューヨークタイムズ記事ではトレンドマイクロによる調査の非公開情報を使い、この攻撃者が中国のネット大手「騰訊(テンセント)」所属の"Gu Kaiyuan(音訳:顧開元)"氏であることを突き止めた。当人にもインタビューを求めたが関与してないとの返事だった。それでも、中国政府の関与が疑われる。同時にニューヨークタイムズによる追究にも米政府の裏があるのではと疑問が残る。
 中国は現在、国際間のサイバー攻撃に「サイバー民兵(Cyber militia)」を活用している。当初はサイバー攻撃・防御の舞台を政府機関で育成しようとしたが人材流出が多いことから、民活に切り替えて、サイバー民兵とした。

  * http://goo.gl/ATV7a


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[書籍] やり直し教養講座 英文法、ネイティブがもっと教えます
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 「どうお考えですか?」という日本語の表現を英語で「How do you think?」というとする。文法的には間違ってないが、英語のネイティブが聞くと違和感が残るらしい。"How"の持つ「方法」という語感から、「どのような方法であなたは考えますか? いかなる思考法?」という印象になる。正しくは、「What do you think?」である。
 デイビッド・セイン氏が著者に入った本書『やり直し教養講座 英文法、ネイティブがもっと教えます』(*)は、英語ネイティブならではの語感をうまく伝えた『英文法、ネイティブが教えるとこうなります』の続編になる。英語知識の小ネタ集でもあり、すらすらと読めるが、前著より文法に配慮している。例えばこういう英文。

   Had you come a little earlier, you could have met me at the party.

 訳せますか? 高校英語なのでそれほど難しいわけではないが、"Had you come ~"は、"If you had come ~"という仮定法条件説を倒置したもの。文語的だろうと思っていたが、そうでもないらしい。言われてみれば、よく見かける。
 同書では他に、「ビジネスメールは3行で書く」といった話も面白い。(1)状況説明、(2)願望、(3)解決方法、を1文ずつ書けばよいそうだ。

  *「やり直し教養講座 英文法、ネイティブがもっと教えます(デイビッド・セイン、森田修)」NHK出版 (2012/4/6) \777  http://goo.gl/WeHjK


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[テレビ] NHK「シリーズ 医療研究の最前線」
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 NHK BS1で、4月23日の深夜24:00から1時間ほど、海外放送局の医療研究の最前線の番組が4回放送される。興味深いテーマを扱っている。私は1から3までは予約をセットした。

 NHK BS1
 1 4/23(月) 奇跡の治療法を求めて ~ヒトゲノム解読の成果は? (BBC)
 2 4/24(火) 老いを止める ~人類の夢は実現するか~(December Films)
 3 4/25(水) 絶食療法の科学(Via Decouvertes Production/ARTE France)
 4 4/26(木) 癒やしロボットで認知症治療(Filmtank)

 1のテーマ、ヒトゲノムは、10年ほど前に解読されたが、その後、当初期待されていたような成果は上がっていない。いろいろな理由がある。だが、医療に寄与した部分もあり、そのあたりを確認しておきたい。
 2の老いを止めるは、寿命に関わっている「テロメア」に焦点があたるらしい。
 3は異端的な医療にも見えるが、絶食療法の医学的な側面は確認できそうだ。


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[コラム] 2012年5月21日の朝、7時34分頃、東京で金環日食
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 先日ショッピングモールをぶらついていたら、のぼり旗の白地に大きな赤字で「日食グラス」と書かれていた。立ち止まった。一瞬意味がわからなかったが、横に「金環日食を安全に観察」と小さめな文字がある。日食観測用の黒いグラスの販売だとわかった。
 千五百円くらい。間近になると入手が難しいのだろうから今のうちに買っておくか、前回の日食用のがどこか引き出しに入れたままだったか。思い悩んで通り過ぎた。なんとなくまた曇になるような気がした。
 金環日食は字のとおり、月の陰になった太陽が金色の光の輪になって見えるものだ。皆既日食だと全部隠れるが金環日食だと外輪が残る。地域によっては輪にならず三日月のようになる。東京はというと、2012年5月21日の朝、7時34分頃に金環がきれいに現れる。今回、東京はベストな位置にある。日食帯の中心線近くだ。他にそういう都市というと鹿児島や静岡がある。串本あたりもそうなるだろう。
 もし見ることができるなら、生まれて初めて金環日食を見ることになる。わくわくとする。子どもの頃、2012年に東京で金環日食が見られると教わったのではなかったか。
 いや今思うと2000年以降まで生きている自分というのは、子どもの頃には想像もつかなかった。1984年ですら遠い先だと思っていた。金環日食を見たら、生きててよかったという気分になるだろうか。そうした思いが怖いので曇でもいいような気分があるのだろう。
 今回見逃すと次回は2035年。中心線は北陸・北関東を通る。生きていたら私は78歳。生きているかなと疑問に思う。案外見るかもしれないな。
 太陽の動きということの余談だが、今年の秋分は9月22日になる。例年は23日。ずれるのは33年ぶり。1979年の秋分の日は24日だった。

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極東ブログ・メールマガジン 試作品 No.1 (2012.4.23)
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2012.04.22

[書評]意識は傍観者である: 脳の知られざる営み(デイヴィッド・イーグルマン)

 デカルトの「我思う故に我あり」は通常、「思考している自分は存在している」と理解される。「自分という意識は確実に存在している」というわけである。当たり前ではないかと思うかもしれない。残念でした。「自分という意識」は脳機能の処理結果であって、それ自体で存在しているわけではない。あなたには自由意志なんてない。あなたの意識や自由意志は脳のプロセスの、ただの傍観者なのである。

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意識は傍観者である
脳の知られざる営み
 冗談のようだがこの話は脳科学を学んだ人には常識の部類である。なにかをしようと意識するよりも身体のほうが先に動くことは実験科学的にわかっているからだ。座っていて「ちょっと立ち上がろうかな」という自由な意識は、実際には立ち上がろうとする身体の神経反応の後から生じている。生理学者ベンジャミン・リベット(Benjamin Libet)が1980年代に明らかにした(参照)。身体運動についての自由意識と思われているものは、身体意識の承認のような意味しかない。いろいろ異論はあるが、全体として、どうやら自由意志というのは存在しないというのは、ほぼ脳科学の定説と見てよい。哲学的にも「自由意志」には根拠は与えられていない。なんらかの必要が産んだ虚構のようなものである。
 本書「意識は傍観者である: 脳の知られざる営み」(参照)もリベット説を扱っているが、さらに包括的に犯罪と法の関係にまで立ち入って考察している点が興味深い。自由意志がなければ、犯罪を裁くというときの対象となる悪なる意志というものが想定できなくなる。精神障害者や未成年が殺人といったことを引き起こしても、通常、罰せられることはないのもそのためだ。
 極端な話、夢遊病者が夢の意識の状態で殺人をしても罰せられることはない。まさか実際にはそんなことはないだろうと思うかもしれない。あるのだ。本書にはその話が比較的克明に描かれている。自分自身殺人を犯すだろうと知り苦悶しながら自分を抑えることができずに殺人を実行した人の話も詳しく描かれている。
 そもそも犯罪というのは、人間の自由意志から生じたものなのか? そうでないなら、私たちの社会は犯罪者にどう対処したらよいのだろうか。
 そのあたりが本書の一番おもしろいところだ。特にこの問題を扱った「第6章 非難に値するかどうかを問うことが、なぜ的はずれなのか」には貴重な議論が展開されている。著者イーグルマンはここでかなり大胆とも思える考え方を提出している。
 非難に値する犯罪(自由意志によると想定される犯罪)と非難に値しない犯罪(脳の問題などが引き起こした犯罪)は明確な区分はなく、脳科学など諸科学の進展によって区別の線引きは揺らぐ。だから、人間の脳の仕組みにあった法制度改革が必要になるというのだ。
 私たちの社会では、犯罪者に罰を与えたいという欲求も強く根付いているし、それがとりわけ根深い文化も存在するものだ。だが近代社会の考え方からすれば、犯罪者への対処で考慮すべきことは罰もだが、所定の罰を与えた後の再犯リスクある。どうすれば再犯者を減らすことができるか? 再犯率が減らせれば社会の利益にもなる。
 イーグルマンの議論を読みつつ興味深いと思った事例は、性犯罪者の再犯率の管理である。当初、精神科医や仮釈放委員会などいわゆる専門家が検討したが明確にできなかったらしい。そこで数理学的に各種の因子を総ざらえして計算してみたら、妥当な数理検定ができたというのである。冗談のようだが、著者イーグルマンは、その数理検定が米国で刑期の算定に利用されていると述べている。
 このあたりまで読んで私はちょっと失念していたことがわかった。著者イーグルマンを科学分野の学位はあっても、実質サイエンスライターだと思っていた。本書は訳がこなれていることもあり、多少饒舌にも聞こえる科学漫談といった趣もあるからだ。だが、イーグルマンは学位を取得したベイラー医科大学で前線の神経科学者であり、その知見から法制度に対する提言を行う研究に従事していた。まさに脳と法を議論する最適な専門家であった。その意味で、本書は最新脳科学を解き明かす軽い読み物というより、現代社会における刑法のあり方を模索する最前線の報告書でもあった。昨年発売されニューヨークタイムズでベストセラーを15週キープしたのもうなづける。
 6章では、脳科学の知見を応用した量刑のありかたの考察のほかに、犯罪者の更生の効果的な手法も議論されている。具体的には犯罪の抑制を司る前頭葉の機能改善といった話も含まれている。このあたりの議論は、効果的なダイエットといった卑近な話題と実は同じ構造をしているし、ある種の認知療法のようでもあるので、さほど違和感なく読めるのだが、読みつつ、これは一種のディストピア(Dystopia)になりかねない懸念も湧いた。ハクスレイの「すばらしい新世界」(参照)やオーウェルの「一九八四」(参照)のようにも思えた。吉本隆明がオウム事件を実質擁護するとき市民社会が規定する善悪を超える視点に留意するよう求めたような問題が潜んでいそうだった。
 本書は7章で構成されている。「第1章 僕の頭のなかに誰かがいる、でもそれは僕じゃない」から「第4章 考えられる考えの種類」は、基本的に最新の脳科学の知見をまとめた、知的に楽しい読み物になっている。たとえば「第2章 五感の証言―経験とは本当はどんなふうなのか」では、意識されていないが人間行動を支配する興味深い事例として、恋愛と名前の最初の文字の関係といった例が挙げられている。ジョエルはジョニーに、アレックスやエミーに、ドニーはデージーに恋に落ちやすい。まさか。ところが統計を取ると優位な結果が出てくる。さらにこの関係は職業選択にも及ぶらしい。デニーやデニスは歯医者(デンティスト)になる可能性が高い。
 読みながら、よく血液型性格学は偽科学だと言われるが、日本のように血液型性格学信奉の意識が蔓延している社会では、自身の性格規定が逆にその社会的な憶見に影響されていて、統計の取り方によっては、血液型はその憶見を介して性格の表出傾向に対して有意な結果がでるんじゃなかろうかとも思った。
 「第5章 脳はライバルからなるチーム」では、マーヴィン・ミンスキー「心の社会」(参照)のように心がサブモジュール(下部機能)の連携で機能するモデルから、脳内の諸機能のライバル的な関係というモデルを立て、そこから人間の自由意志が単一的に存在するものではないという課題に迫っていく。これが、法的な議論に踏み込む「第6章 非難に値するかどうかを問うことが、なぜ的はずれなのか」の議論の前段となっている。
 事例が興味をひく。俳優メル・ギブソンが酩酊した際、ユダヤ人差別となる発言した問題を扱っている。しらふに戻ったメル・ギブソンはユダヤ人社会に謝罪したが、さて本心ではメル・ギブソンは差別主義者だろうか。酩酊することによって、本心が暴露されたと見れば差別主義者であるとも言えるかもしれない。というのは、酩酊したからといって差別言動をしない人はしないものだ。著者イーグルマンは、こうした「本心」のいう考え方自体を批判的に捉えていく。差別主義という考え方が脳のサブシステムに浸透していったとしても、それがその人の自由意志を支えるような「本心」であるとは限らない。そもそもどのような人でも多様な意識のサブシステムをもっているというのだ。では、犯罪を犯したときにどうなるのか。それが6章に継がれている。
 終章「第7章 君主制後の世界」では、人間の自由意志が宇宙においてどういう意味を持つのかという哲学的な問いかけに踏み込んでいる。また、ベルクソンのように脳を記憶や思考の実体ではなく媒介的な機関である可能性にも言及している。簡単にいえば、偽科学批判などに見られるような浅薄な還元主義には留まっていない。ただ、総じて言えば身心問題の深い部分にまでは肉薄せず、現場の科学者らしい未知への探求への期待をもって終わりとしている。
 本書は随所で小ネタ的な話もある。電磁場のふるまいを記述する古典電磁気学の基礎であり、またアインシュタインの特殊相対性理論の起源ともなったマクスウェルの方程式だが、マクスウェル本人は、死の床にあって生涯の秘密として、あれは「自分のなかの何か」が発見したのだ、とつぶやいたらしい。マックスウェルとしては自分が発見したのではなく、どこからか降ってきたのだというのだ。チャネリングみたいなものらしい。困ったなあと秘密を死の床まで抱えて生きていたのだろう。
 小ネタとも違うが5章に含まれている「秘密」についての話題もおもしろい。人はなぜ秘密を語りたくなるのだろうか。助言が欲しいわけでもないし、解決や処罰を求めているわけでもない。秘密を抱えた人間がただ聞いて欲しいと願うのはなぜなのか。著者イーグルマンはさらに、なぜ秘密の受け手が人間または神のように人間に似た存在でなければならないのかと疑問に思っている。言われてみれば、それは不思議でもあるし、直感的にはこの疑問には深い真理が潜んでいるようにも思える。秘密というのは案外、自由意志という虚構の核なのではないか。
 
 

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2012.04.20

スーダンと南スーダンの戦争状態で南スーダンPKOをどうするのだろうか

 スーダンと南スーダンの状況について、日本も関係していることもあり簡単にメモしておきたい。
 まず日本が関係する部分だが、今日問責決議を受けた田中直紀防衛相が焦点になる。3月14日の予算委員会でゴラン高原および南スーダン国連平和維持活動(PKO)について問われた際、彼は「緊急撤収計画」は未読であると答えた。さらに26日の予算委員会でも「表紙しか見ていない」と発言した(参照)。それで防衛相が務まるものなのか。務まらないと野党が判断したから問責決議を受けたが、民主党は田中直紀防衛相の続投を支持しているし、野田ちゃん首相もそれでいいと思っているらしい。
 スーダンと南スーダンが軍事衝突が拡大したら日本は南スーダンPKOをどうするのか。この点について3月28日の参院外交防衛委員会で問われた田中防衛相は「内閣で相談し、国連の動きも見て、決断すべきときは決断するということで判断したい」と答えている。そして現在、スーダンと南スーダンが軍事衝突となっている。いまここ。
 外務省のまとめを元に今回の事態の経緯を素描しておこう(参照)。
 3月26日早朝、南北スーダンの国境付近でスーダン軍(武装勢力含む)と南スーダン軍との間で、爆弾投下を伴う限定的な衝突が発生し、スーダン軍が南スーダンのユニティ州に侵入した。これに南スーダン軍が応戦して、スーダン軍をスーダン領コルドファン州まで撃退させ、さらに南スーダン軍は報復攻撃としてスーダンのヘグリグ(Heglig)地域の油田を占拠した。
 27日、スーダン軍は再度南スーダンのユニティ州北部の油田地帯を爆撃。南スーダンのサルヴァ・キール大統領はこのスーダンの軍事活動を非難。スーダン側はそれを受けて4月3日に南スーダンの首都ジュバ(Juba)で予定されていた南北首脳会談の延期を通告した。
 今回の事態の発端を見ると、スーダン側が最初に手を出したかに見える。だが、これは常態ともいえる衝突で、問題化したのは、南スーダンがスーダンのヘグリグ地域の油田を占拠した要因が大きい。その意味で南スーダン側に大きな非があるとしてもよいだろう(なお、南スーダンとしてはヘグリグ地域は自国域だと主張している)。

 その後だが、スーダン側はヘグリグ地域の油田の奪還を目指して戦闘を激化させた。4月14日までにはこの地域の1万人もの住民が避難する事態となった(参照)。
 15日には、スーダンとの国境に接する南スーダンの町マヨムで、スーダン軍の戦闘機が投下した爆弾が国連PKO部隊の駐屯地に着弾。マヨムは陸上自衛隊が活動している首都のジュバから500キロ以上離れていることから、日本の民主党政権は自衛隊のPKO活動には影響はないと判断した。
 派遣先の国家という単位で考えたらこの事態で戦闘地域と見なしてもよさそうなものだし、イラク戦争後にはなにかと自衛隊派遣が問題となったものだが、理由はわからないが、今回はさほど問題にもならない。ネットでもこの問題を取り上げている例はあまり見かけない。
 16日にスーダンの議会は、南スーダン軍に対して「打倒するまで戦わなければならない」敵と見なす決議案を採択し、バシル大統領はこれを承認した(参照)。
 普通に考えればこれで戦争になったと判断してよさそうなもので、実際、19日、現地にいるライマン米国特使は電話会見で「事態はすでに戦争状態だと言わざるをえない」と述べた(参照)。
 PKOとして陸上自衛隊を派遣している日本は、ここまで事態が悪化してどうするのだろうか。自衛隊側では、岩崎茂統合幕僚長は19日の記者会見で、「戦闘地域がジュバから500キロぐらい離れており、任務に影響はないと判断している」と述べた(参照)。民主党政権側からの発表はないようだ。野田ちゃん首相、現下の事態を知らないのかもしれない、案外。
 今回の戦争状態について、スーダンと南スーダンのどちらに非があるだろうか。
 すでに初動については述べたが、もう少し広い構図で見ると、焦点となるのは、スーダン側にあるヘグリグ地域の油田に対する南スーダンの制圧である。この油田はスーダンの日産原油の55%にも及ぶ(参照)。つまり、ここを制圧されればスーダンとしては死活問題とならざるをえない。おそらく南スーダン側としては、ヘグリグ地域の油田を南スーダン側に取り込みたいのだろうが、現下の国際状況のなかでは暴挙と言える。
 さらにさかのぼること1月20日以降、南スーダンは石油パイプラインの使用料でスーダンとの対立し、日量35万バレルの上る石油生産を全面的に停止していた。これには奇妙な裏話がある。
 2月20日、南スーダンの石油エネルギー・鉱山省は、同国内最大の石油会社ペトロダール社の社長劉英才氏に対して、72時間以内に国内退去を命じた。理由は、同社が南スーダン政府が決定した石油生産停止に従わず生産を継続し、その売上げをスーダンに渡していたとのことだ(参照)。この停止措置は、石油パイプラインの使用料問題の紛糾による南スーダンの勝手な決定である。
 事実の詳細はわからないが、ペトロダール社が南スーダンの決定に従わなかった部分は事実であろうし、この決定で同社の背後にいる中国政府を南スーダンが敵視した点も事実であろう。ペトロダール社は中国の国有石油会社で、生産量は南北スーダンを合わせた日量の5割強に相当するほど大きい。中国としても大問題であるが、打つ手のない状態が続いていた。今回のスーダン側の対抗によって南スーダンが軟化すれば中国にとっては利益になるとは言えるだろうが、そこに中国側の画策を見るのも行きすぎだろう。
 これまで西側世論としては、ダルフール危機に関連して戦争犯罪人として起訴されているスーダンのバシル大統領を非難してきたが、この件では被害者の位置に納まることになった。
 

追記(2012.4.21)
 南スーダン政府からヘグリグ撤退の表明があった。毎日新聞「南スーダン:油田地帯から撤退表明」(参照)より。


スーダンと南スーダンとの国境地帯で続く両国軍の衝突で、南スーダン政府は20日、南スーダン軍が制圧したスーダン領内の油田地帯ヘグリグから撤退すると表明した。一方、スーダン政府は南側の表明直後、「ヘグリグをスーダン軍が解放した」と発表した。ロイター通信が報じた。どちらの発表が事実かは不明だが、南側がヘグリグから退くことで、危惧されてきた全面戦争突入が回避されるか可能性が出てきた。

 ただし現状では撤退は確認されていない。VOA「South Sudan, Sudan Claim Control of Heglig Despite Withdrawal」(参照)より。

Later that evening, however, South Sudan's ambassador to the United Nations, Agnes Oswaha, told reporters at U.N. headquarters in New York that southern forces were still in complete control of Heglig. She did confirm that all southern forces would be out of Heglig within 72 hours.

 日本国内動向だが。産経「治安情勢の調査指示 南スーダンPKOで防衛相 陸自は週明けに報告」(参照)より。

 陸上自衛隊が国連平和維持活動(PKO)で展開している南スーダンとスーダンの間で衝突が激化している問題で、田中直紀防衛相が治安情勢の徹底調査を指示したことが20日、分かった。田中氏は現地調査団の派遣も検討するよう求めたが、調査団を送れば2次隊の派遣時期が遅れる。このため、現地を訪問中の陸自中央即応集団司令官が週明けに視察結果を報告することで調査団派遣は見送り、活動も継続する方針だ。


 陸自は2次隊として5月から6月にかけ約330人を送る計画で、今月末に派遣命令を出すことを予定している。仮に調査団を派遣するとすれば、団の編成から派遣後の報告まで数週間かかる。その間、2次隊に対する派遣命令の発出や移動時期・手段の確定も先送りを余儀なくされる。
 2次隊の到着まで1次隊は現地にとどまらざるを得ず、活動期間も延びる。初動部隊として緊張状態の中で活動した上、帰国が遅れることになれば隊員の士気も低下しかねず、「2次隊は予定どおりのスケジュールで派遣すべきだ」(防衛省幹部)との声が多い。

 二次隊の派遣時期が遅れるのを恐れて調査団派遣は見送られるということになりそうで、どうも自衛隊の事務側の都合で独走している雰囲気がある。非常に危険なのではないか。
 
 


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2012.04.19

田中直紀防衛相と前田武志国土交通相の辞任より輿石東(75)先生のご勇退を

 田中直紀防衛相と前田武志国土交通相に対する問責決議案が明日の参議院本会議で採決される見通しになった(参照)。自民党政権末期に国政を滅茶苦茶にした民主党による問責決議案の乱発の再現のようにも見えるが、まあ、このお二人はさすがに如何ともしがたい。
 お二人の今後がどうなるかはよくわからない。野田ちゃん首相は「職務を遂行してもらいたい」としてお二人の続投を期待しているが、実際にお二人さんを支えているのは輿石東(75)先生だろう。そして現下の問責決議案の乱発状態をそもそも引き起こしたのも輿石東(75)先生と言ってよいだろう。輿石東(75)先生、お誕生日は5月14日。来月、76歳。もうご勇退なさってはどうなのでしょうか。
 田中直紀防衛相については、問責を受けた一川保夫前防衛相と同等の素人力を存分に発揮されると期待されていたものの、まさか北朝鮮のミサイル実験がそのパワー発揮の絶好のチャンスとなるというのはちょっと不運だったなという同情もないではない。が、陸上自衛隊の南スーダンでの国連平和維持活動警護にあたる国を問われて「決まってません」とさらっと答弁しちゃうとか、まだまだ絶大な素人力の余力を感じさせる。このあたりで終了していただきたい。
 輿石東(75)先生のお若いころは、冷戦時代とはいっても実質日本が平和で防衛担当が閑職で済むような時代だった。あの時代なら、この人選でもよかっただろう。輿石東(75)先生は現在もそうした時代だとご理解なのかもしれないし、田中防衛相を事実上更迭しても、「またまた受けて立つ、またまた素人力を充填するからな、ふふふ」といった意気込みかもしれない。75歳でそのお元気というのは感服するしかないが、実質戦争化に向かう南スーダンの現状とあいまって、ちょっと怖い。
 前田武志国土交通相の失態は、岐阜県下呂市長選挙の告示前に地元の建設業協会に向けて特定候補支援を要請する文書を送っていたというもの。観光振興の支援を約束し、「石田氏に対するご指導、ご鞭撻をよろしくお願いします」として、「前田武志」の署名をした。公職選挙法が禁じる事前運動と公務員の地位利用の両方に抵触する疑いがある(公職選挙法129「事前運動の禁止」、同136条の2「公務員の地位を利用した選挙運動の禁止」)。
 ひどいなとは思うが、こうした地方の建設業との癒着というのは自民党時代を想起してもわかるがさほど不思議でもない。ようやく民主党も自民党の政権の受け皿になってきたことを如実に示す実例でもある。が、その先の、前田武志国土交通相の開き直りは鮮烈だった。FNN報道を借りる(参照)。


 渦中の前田国交相は、16日夕方に会見し、宛名や内容に目を通す暇もなく、政務秘書官に促されるままに署名したと釈明した。
 前田国交相は「あぜんとしているというのが、正直なところなんです。本当にあっけにとられているというところです」と述べた。
 前田国交相は、16日夕方の続投表明会見で、自らの疑惑に大きく驚いて見せた。
 前田国交相は「極めて多忙な日程であったため、文書の名宛て人や内容に目を通すいとまもなく、政務秘書官に促されるままに署名した」とし、自ら署名した文書が、支援要請文だった認識がなかったことを強調した。その一方で、署名に関わった秘書官が責任をとり、先週末に辞任していたことを明らかにした。

 宛名や内容に目を通す暇もなく署名したので、署名した意識もなくて驚いているというのである。国務大臣がである。自分がした署名についてである。「あ、これえ、ボクの署名だぁ、不思議」って手品ではないのである。面白いなあ前田国交相、と思うけど、普通に考えるなら、それだけで国務大臣失格。
 この二閣僚の任命責任は野田ちゃん首相にあるのだが、野田ちゃん、こういうシーンだとまるで悲劇的なヒーロー気分になってつっぱっちゃう。こんなところで「政治生命をかける!」とかまた暴走するのも、困ったなあと思う。ここはそんな大げさなシーンではない。ごく普通な人選ミス。本当に消費増税法案に政治生命をかけるなら、それとは直接関係ない今回の問題は事務的にさらっと処理したほうがいい。
 さてこれからどうなるのか。
 自民党はこの件で審議拒否に出ている。このつっぱり状態が長期化すれば、国会を停滞させているのは自民党だとして世論の批判が自民党に向かうという読みもあるらしい。それを恐れて公明党は、問責された二閣僚が出席するはずの委員会以外は審議に応じるとして日和っているらしい。
 政局の読みって面白いなと思うが、この読みは、そもそも国民が消費増税法案に賛成という前提なのではないか。賛成していますかね、国民。
 当の民主党だが、そもそも民主党自体が全体として、消費増税法案に賛成というわけでもなく、内輪もめでくすぶっていて、むしろ現状のぐだぐだ状態を好機と見ている勢力がある。
 というところで、輿石東(75)先生はこのぐだぐだを是とされているのかもしれない。ぐだぐだしている状態こそ正しい民主党政権のありかただと見抜いているのかもしれない。
 NHK「あさイチ」で学ぶ褒め言葉ではないが、「慧眼です、年の功です、輿石東(75)先生」と感服する。ここはもう一歩踏み込んで、「私の政治生命をかけて消費増税法案の審議を進めていただきたい」という演説とともに勇退されてはどうか。
 それで消費増税法案の審議をさっさと進め、政局の読みとは逆に、さっさと廃案になったら、輿石東(75)先生、救国の政治家として歴史に名を残しますよ。
 
 

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2012.04.18

石原都知事、尖閣諸島買い上げ発言について

 訪米中の石原慎太郎・東京都知事はワシントン市内の講演で現地時間の4月16日午後(日本時間の17日未明)、尖閣諸島中の魚釣島、北小島、南小島の3島を東京都の予算で購入するとの方針を表明した。それが原因で思わぬ騒ぎとなったようだ。いや、驚いた。何に? それが騒ぎになることに、だ。
 何か騒ぐような問題でもあるのだろうか? この話題を聞いた仲井真弘多・沖縄県知事も「なぜこうした話が問題になるのかわからない」と述べた(参照)。


そもそも尖閣諸島に領土問題はないということなのに、なぜこうした話が問題になるのか分からない。沖縄県も都内に土地を持っているし、都が沖縄の土地を購入することが禁止されているわけではない。

 普通に考えれば、仲井真・沖縄県知事のように、この話はここで終わりである。
 東京都が買い取るとしても、現在の個人の地権者から買い取るということで、これは国家と関係ない私的セクターの普通の取引にすぎない。沖縄県が、東京都に沖縄県人会の施設を作るために東京都の個人の地権者からその土地を買うのとなんら変わりはない。無問題。尖閣諸島が東京都に編入されるという話でもない。
 終了……
 とはいえ、東京都知事がそんなことを勝手にしてよいものだろうか?
 いや、勝手にできない話になっている。
 2億円以上あるいは2万平方メートル以上の土地を東京都が購入する際には、東京都議会の議決を経なければならない。だから、議会がダメですと言えばそれはそれで終わりという話である。
 議会が承認すれば、なるほど都民の総意として尖閣諸島を都が所有するということになる。議会の決議こそが民主主義の手続きである。日本の戦争だってその予算執行は議会を経て行われたのだから、責任は民主主義の手続きからすれば国民にあるのと同じ。米国のブッシュ政権下で米国民主党がイラク戦争にいろいろ反対意見は述べたが戦争の予算は通したのとも同じことだ。
 都議会は承認するだろうか?
 読売新聞の報道によれば、外務省幹部は「都政の目的と相いれないのではないかという根本的な疑問がぬぐえない。都議会を通るとは思えない」(参照)とのことだ。あっさり議会で否決されるかもしれない。
 どうなるだろうか?
 東京生まれで東京育ちの私としては、案外都民は都知事の今回の提案を支持してしまうのではないかとも思う。猪瀬副知事がすでに言い出しているが、購入のための資金募集も計画されているようだ(参照)。
 一坪地主みたいに公募にするなら、小さな記念碑でなくても亜熱帯植物の植樹のためでもいいから、小さな自分の土地を買ってみたいと思う人も出てくるだろう。自分が死んだら遺骨の一部をそこに納めてもらうのも悪くないというのもちょっとしたファンタジーだ。夢を買いたいという人はいるものだ。
 これまでは尖閣諸島の地権者といえども、自分の所有している土地に入ることができなかったが、それは地権者が国にその土地を貸して国の管理下に置かれていたからだった。東京都の所有ということになれば変わるかもしれない。
 実際の購入には都議会承認以前の手順もある。東京都が土地を購入するときは現地調査して地権者とも交渉して評価額を決めるのだが、一部報道では地権者からの評価額が出ているものの、正確な査定は必要になる。そこで査定のための測量だが、現在借りている国の認可が必要になる。こういうからくりでもしかすると国がまた面白いパフォーマンスをやってくれるかもしれない。
 どうなるんでしょうかね。
 以上の話は、ふんふんと聞き流していたが、その先に驚く話があった。
 藤村修官房長官が17日の記者会見で、現在個人所有となっている尖閣諸島について、必要なら国が購入する可能性があると示唆したことだ。すると、国有化ということになる(参照)。
 東京都が購入できるものなら、日本国も購入は可能だが、国が出てくると一気に国家の問題となる。私的セクターの問題からは逸脱する。国家の強制とまでは言わないまでも、こんな領域に国家がずかずかと出てくるとなれば、この話がまさに国家の問題に転換する。民主党は尖閣諸島を国家の問題として騒ぎたいのだろうか。
 大手紙のなかでいち早くこの問題を扱った朝日新聞社説「尖閣買い上げ―石原発言は無責任だ」(参照)を読むと、地方自治における地方議会の意味を理解していない点は苦笑で過ごすとして、「藤村官房長官はきのうの記者会見で、国が購入する可能性を否定しなかった。東京都よりも外交を担当する政府が所有する方が、まだ理にかなっている」と述べた。
 朝日新聞も、もう、やる気満々でこうした本来私的セクターの所有権の問題を、国家の問題に格上げしたいのである。その感覚というのは、私的セクターの所有権が尊重される民主主義国ではなく、まるで共産党支配の中国みたいだな。
 そもそも尖閣諸島が国家所有だったと思い込んでいる人や国家の問題として騒ぎたい人がいることが今回の件で驚きもあったが、ウォールストリートジャーナル「大売出し:領有権問題付きの島」(参照)は外国の新聞だからか、ぬけぬけとこう書いているのだった。

 奔放な言動と旺盛な愛国心で何かと話題をふりまく石原慎太郎東京都知事。それだけに今回の東京都の尖閣諸島買収の意向表明にも驚きはなかった。むしろ驚きはこの中国、台湾も領有権を主張している島々が、民間人に所有され、売りに出されていたということだ。
 外交上の扱いが難しいこの土地が、なぜ遠く離れた東京郊外に住む一介の民間人に所有されていたのか?

 もちろん、日本人なら常識の事でも、外国に伝えるために修辞的に「驚き」と書いているには違いない。
 これを機会に中国にも理解を浸透させるとよいだろうとも思うが、案外中国はこうした事情をきちんと理解していたかもしれない。噂に過ぎないのかもしれないが、中国も尖閣諸島を40億円ほどで購入したかったらしい(参照)。
 中国が日本の法に則って日本の領土の一部を購入するというなら、これできちんと尖閣諸島が日本の領土だということを中国が認識していることになる。
 鳩山由紀夫・元日本国首相も「日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから、もっと多くの方々に参加をしてもらえるような、よろこんでもらえるような、そんな土壌にしなきやダメですよ」と言っていたものだった(参照)。あ、その、鳩山由紀夫、「元日本国」、首相ではないので、ご注意。
 
 

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2012.04.16

連続不審死事件裁判員裁判の感想

 インターネットの結婚紹介サイトで知り合った男性3人を相次いで練炭自殺に見せかけて殺害したした罪に問われていた木嶋佳苗被告(37)の裁判員裁判で、さいたま地方裁判所は3月13日、死刑を言い渡した。木嶋被告は一貫して無罪を主張。弁護側は3人の男性の殺害したとする直接的な証拠はないことから「不確かなことで処罰することは許されない」と主張していた。
 元東京大学教授の上野千鶴子氏はツイッターで「木嶋佳苗裁判。心証はかぎりなくクロでも、本人が否認し、状況証拠しかないのに有罪となるなら、日本は法治国家ではない。小沢が無罪なら、木嶋も無罪だ。」(参照)という感想を述べていた。同様の印象を持つ人も少なくないようだった。この件をもって日本は法治国家ではないのだろうか。あるいは、状況証拠しかない場合は有罪にできないのだろうか。
 今回の地裁判決についての私が最初に思ったことは、100日間にわたる審理に取り組んだ裁判員に敬意を表すとともに、市民として私の、つまり私たちの良心として(代表として)、その判断をされたことを信頼しようということだった。市民である私が市民である裁判員の判断をまず信頼したいということだった。
 だが、敬意や信頼といったことではなく、私自身がこの裁判に裁判員として参加していたら、どのような判断を下すだろうか? 上野千鶴子氏のような考えを持つだろうか?
 ツイッターのつぶやきは一種の放言ともいうべきで上野千鶴子氏が公的にそのような考えを表明するかどうかはわからないが、この問題について近年の最高裁判決を見ると、たとえば「平成19(あ)398」(参照)では次のように示されている。


刑事裁判における有罪の認定に当たっては,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要である。ここに合理的な疑いを差し挟む余地がないというのは,反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく,抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても,健全な社会常識に照らして,その疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には,有罪認定を可能とする趣旨である。そして,このことは,直接証拠によって事実認定をすべき場合と,情況証拠によって事実認定をすべき場合とで,何ら異なるところはないというべきである。

 事実認定にあたっては、「直接証拠によって事実認定をすべき場合と,情況証拠によって事実認定をすべき場合とで,何ら異なるところはない」というのが最高裁の立場であり、これが日本の司法の立場と見てよい。とすれば、「情況証拠」に基づくことを根拠に、上野氏が放言されるような、法治国家の是非が問われることはないだろう。
 むしろ今回の裁判で重要なのは、「抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても」という部分だろう。これは後で触れる。
 今回の裁判では、東京・青梅市の会社員の寺田隆夫さん(当時53)、千葉県野田市の安藤建三さん(当時80)、東京・千代田区の会社員の大出嘉之さん(当時41)の3人の殺害が問われた。いずれも練炭自殺に見せかけて殺害した罪などに問われた。
 判決でさいたま地方裁判所の大熊一之裁判長は次のように指摘している(参照)。

男性らに自殺の動機はなく、殺害されたと認められる。被告はいずれの事件でも直前に男性らに会っていたほか、犯行に使われたものと同じ種類の練炭コンロや睡眠薬を入手していて、3人を殺害したのは被告以外にありえない。

 しかし、もし推理作家なら、奇想天外なストーリーを形成できないわけではない。例えば、被告を陥れようとした第三者がいてうんぬんといった類のものである。あるいは、当初それぞれの事件が自殺と見られていたように、とてつもない偶然があったとか(参照)。
 それが先に触れた「抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても」ということである。
 民主主義国における司法は、法律を数学的に合理的に当てはめれば判決がコンピューターでも下せるといったものではなく、市民がどのように意思を表明するかということであり、今回のような事件では、日本の市民がこの事件をどう判断するかということである。もちろん、それが行きすぎの権力行使にならないように法律はむしろその制限をするものである。
 別の言い方をすれば、神のような視点で事実をドラマのように再現するのではなく、市民が集まって「この被告は有罪であると決める」ということであり、その刑が死刑であるなら、市民である私たちがその被告を殺害すると決めるということである。これはユダヤ教など古代宗教からも引き継ぐ石投げ刑と同じ原理で、私たち市民は、死刑者の血の責務を受けるということである。
 今回の判決では、量刑としての死刑が妥当かが問われた。ネットなどを見るといくつかの意見の変奏が見られた。状況証拠では死刑は下せないとする意見もあった。だが、先の最高裁の見解のように、死刑もまた有罪の認定の帰結に含まれるものであり、死刑に相当するか否か自体が状況証拠によって決められるものではない。
 その意味では、3つの連続殺人が被告の意思によって実行されたと市民が判断するなら、日本の現行法の枠内では死刑は妥当と見ることができるだろう。
 ここには2つのプロセスがある。(1)3つの連続殺人が被告の意思によって実行されたと市民が判断する、(2)その判断から死刑は妥当である、である。
 私が仮にこの裁判の裁判員だったとしよう。私も(1)のように、3つの連続殺人が被告の意思によって実行されたと判断するだろう。連続した事件ではなく1件の事件であれば、冤罪の可能性を考えるだろう。
 そして(2)について、従来の司法から死刑が妥当することを私は肯定するだろうし、そのように考える同胞市民に共感を持つだろう。
 だが、私自身としては死刑が妥当だとは思えない。3つの連続殺人がなされたとしても、そして現在なお、被告に反省が見られないとしても、被告が罪を受容する可能性はなお開かれているだろうと思う。一人の市民の意思として私はそう主張するだろう。私が裁判員ならその主張を同じく裁判員となった同胞の市民に語りかけるだろう。
 今回の判決は地裁判決であり、被告は控訴しているので、裁判員の入らない高裁で問われることになるだろうし、その判決も注視したい。
 
 

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2012.04.13

北朝鮮ミサイルは「失敗」したのか

 北朝鮮のミサイル打ち上げが失敗した。事前報道では打ち上げは14日という想定が多かったように思えたので、私も今朝の騒動には驚いた。一段落付いてみると、さて本当に失敗と言えるのか、また、失敗とは何を意味しているか、多少疑問が残った。
 今回のミサイル実験が事前に失敗すると想定できたかというと、難しかっただろう。2009年のミサイル実験では、一段目を切り離し日本の東北地方の上空数百キロメートルを通過し、二段目も切り離して飛んだ。今回もその程度には飛ぶ可能性があると見られても不思議ではなかったからだ。2009年のミサイル実験でも今回同様、人工衛星と称していたが、衛星軌道到達速度には到達せず、その点からすれば失敗でもあったが、北朝鮮は成功と発表した。
 今回は一段目を切り離した直後に爆破したらしい。普通に考えれば、白を黒と言いくるめることが難しいレベルの失敗であり、北朝鮮がどう評価するのかが興味津々といったところだが、あっさりと失敗を認めた。そのあっさり感に逆にある種の違和感が伴う。もしかすると最初からこうした失敗は想定されていたのではないかという疑問も残した。
 この疑問については、事前からある程度予想されていた。11日のNHKかぶんブログ「専門家"技術的には前回より難しい"」(参照)がわかりやすい。まず、技術的な難易度だが、東方向けに発射された2009年のミサイル実験では地球の自転速度に後押しされるが、今回の南向きではその後押しがない分、より多くの推進力が必要になるため、難易度が上がる。


これについてロケット工学などに詳しい九州大学名誉教授の八坂哲雄さんは「南向きで、新たに必要となる推進力は、全体の5%ほどだが、もともと限界ギリギリに作られている機体にとって、さらに5%も能力を上げるのは、とても難しい。エンジンや機体の構造を変えたり、燃料を増やしたりする必要があり、3年前の東向きに比べ、技術的に難しくなる」と指摘しています。

 別の言い方をすれば、2006年の実験から3年間でその5%の推進力を得たかというのが、今回のミサイル実験の技術的な関心事であった。
 蛇足に近いが、日本の安全保障という点では田中防衛相が暴露しているように、今回のミサイル実験にはあまり意味がない。すでに日本を射程に収める300台ともいえるノドンミサイルを北朝鮮が配備できる現状にあり、とりわけ今回のミサイル実験だけが脅威となるわけではない。今回の実験が成功すれば米国のアラスカを北朝鮮が射程に収めるため、米国としては危機感を持つかもしれないという話である。
 ここであらためて問いを出してみたい。今回その5%推進力の向上という点で見たとき、はたして今回のミサイル実験は失敗したと言えるのだろうか。より技術的な視点でいうなら、1段目のエネルギーがどのように評価されるだろうかということになる。この点は現状ではよくわからない。
 かぶんブログにはもう一点、重要な指摘があった。

また、新たに能力を向上させた機体の場合、失敗する懸念があるとしています。八坂さんは「日本や欧米の場合でも、新型のロケット打ち上げではたびたび失敗している。打ち上げに失敗してロケットがコースを外れた場合、周辺の国の安全を考えた適切な監視態勢を北朝鮮自身がどこまで整えているか、とても懸念している」と話しています。

 大陸弾道ミサイルの打ち上げは失敗しがちなものであるという前提で、では失敗した場合、「周辺の国の安全を考えた適切な監視態勢を北朝鮮自身がどこまで整えているか」ということが当然問われる。
 周辺国というと、南接する韓国は当然のこととして、日本でもその領域に落下物が入る懸念もあり迎撃がものものしく問われていた。だが韓国を除けば、一番懸念するのは今回の飛行予想経路からして中国であることは間違いなく、であれば、予定コースが逸れて中国に落ちる可能性が考慮されているかが問われる。そこが北朝鮮に考慮されていただろうか? 中国は考慮していただろうか。
 私は、中国への落下は両国で考慮されていただろうと思う。あまりに不測の事態は避けたいはずだ。ではその対応はどういうものであったか。迎撃はありえないので、北朝鮮自身の遠隔操作によるミサイルの自爆であろう。
 そのあたり識者がどう見るのか気になっていたが、早々にNHKニュースでフォローされていた。「“みずから爆破指令の可能性も”」(参照)より。

ロケット工学に詳しい九州大学の八坂哲雄名誉教授は、「1分以上飛行して洋上に落下したということは、1段目のエンジンの付近で何らかのトラブルが起きたとみられる。その結果、機体が爆発したか、予定のコースを外れたために、北朝鮮がみずから爆破の指令を出した可能性もある。今回はこれまでよりも難しい打ち上げで、性能を向上させようと、設計で無理をした可能性もある」と指摘しています。

 興味深い指摘である。2点に分けて考えることができる。(1)予定コースを外れたので遠隔操作で自爆させた、(2)そもそも設計で無理をした(だから失敗と爆破は想定されていた)、という点である。
 1点目については、1段目の落下地点がわかれば想像は付くだろう。そこで北米航空宇宙防衛司令部の情報を当たってみると「落下点はソウル西165キロメートル」(参照)とあるので、地図を見て確認すると、当初の飛行予定経路からそう外れてはいないし、中国に落下する可能性は読み取れない。すると現状では、中国にミサイルが落ちないように自爆したという説は説得力はない。
 2点だが、これを明確に否定することが難しい。冗談っぽい話ではあるが、落下した2段目に燃料がないとわかれば確定である。最初から2段目以降を飛ばす気がなかった、と。だが、その確認は実質できないだろう。
 また、そもそも1段目の推進力のための実験であったか、という可能性だが、そのあたりは、ミサイルの本来の目的を合わせた評価が必要になる。とはいえ、これも概ね、単なる失敗と見てよいだろう。
 2点目に関連することだが、この失敗が想定されていたか、つまり「設計で無理をした可能性」はどうか。
 ここで政治的な問題が関わってくる。北朝鮮の技術者やミサイル推進派が、一か八かの勝負に出たということなのか、現在の金正恩ハリボテを操っている勢力が「失敗してもいいからやれ」としたかである。
 私の推測だが、後者であろう。ここで失敗しても、北朝鮮国内的には「人工衛星」打ち上げに失敗したで通せるし、軍事的には続けて核実験をすれば十分北朝鮮の脅威のアピールは可能だからだ。実態としてはそのあたりではないだろうか。
 冒頭の疑問に、「失敗とは何を意味しているか」を加えておいたが、それも言及しておきたい。日本の報道を見ると、今回のミサイル実験を北朝鮮の軍事的な脅威のアピールとして捉える筋が多い。だが、北朝鮮におけるミサイル開発は、日本でいったら自動車産業とか高速鉄道技術売り込みといった、外資を稼ぐ産業なのである。売り込み先は、公表はされないものの、イラン、パキスタン、シリアなどが想定されている。その点で、今回のミサイル実験失敗は、iPad4新製品発表会といった感じのイベントでもあった。実演会場で転けて恥じかいたのだろうか。
 こうした読みは奇妙に思える人も多いかと思うが、ロイターが早々にこの筋で米政府高官のコメントとして伝えている(参照)。

"This launch was also a chance for North Korea to showcase its military wares to prospective customers. The failure will make those customers think twice before buying anything."

今回の発射は北朝鮮が軍事品を見込み客に展示する機会でもあった。この失敗によって、これらの顧客は購入前に再考するようになるだろう。


 米国側の思惑を差し引いても、北朝鮮からミサイル技術を購入予定の国が「なーんだ北朝鮮のミサイル技術は使えねーじゃん」という評価になりかねない。
 この点についてどうなのか。概ねそうだとは言えるだろう。北朝鮮ミサイル、ダメじゃん、ということ。だが、技術的に見れば、これも切り離した1段目の性能評価による問題なので、そのあたりは技術者の解説を待ちたいところだ。
 
 

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2012.04.12

雨音はショパンの調べと小林麻美

 先日のイースターのことだった。この季節になるといつもユーミンの「ベルベットイースター」を思い出す。荒井由実としてのファーストアルバム「ひこうき雲」(参照)に収録されている。村上春樹がたぶん三鷹で暮らしていた1973年のこと。ユーミンは1954年生まれだから、19歳。14歳でミュージシャンしていたが、まだティーンエージャーで、呉服屋さんの娘らしく多摩美で日本画を学ぶ学生だった。コント55号の二郎さんが彼女のぞっこんのファンだったのも思い出す。NHKラジオで、サンディーアイと同じ時間帯だったと思うけど、ディスクジョッキーもしていた。
 「ベルベットイースター」だが、なんでベルベット(ビロード)なのか今もってわからない。欧米人にそういう感覚はないと思う。歌詞中「天使が降りてきそうな空」というのも欧米的な感覚なのかよくわからない。たぶん、この天使は「ナイトミュージアム2」(参照)とかに出てくるああいう感じなんじゃないか。
 まあ、いい。いつもその頃、聞きたくなる曲で、また聞きたいと思った。そこで、たまたまユーチューブで聞いたら、あれ?と思った。アレンジが違うのである。ピアノのアレンジも含めて、なかなかアンニュイでいい感じ。声はだいぶ古いので、2000年以降のコンサートの録音だろうか。そうでもなく、2003年の「Yuming Compositions」(参照)に収録されているバージョンだった。
 2003年のユーミンならまだ声が大丈夫なんじゃないかなと思って、カバーの写真にちょっとどん引きしたが、初回限定版がまだ売れ残っているみたいなんで買ってみた。まあ、よかった。私が沖縄で暮らしている時代、あれほど好きだったのにユーミンを離れていたので、このアルバムの存在すら知らなかったのだった。

cover
Yuming Compositions
松任谷由実
 アルバムは、ユーミンが他の歌手向けに提供した曲を自身がカバーするという趣向である。率直に言って本人カバーでこれはいいなというのは、とても残念なのだけど、ない。「「いちご白書」をもう一度」はユーミンが歌うの聞いてみたいなとずっと思ってたので、これはこれで満足、というか泣けてしまったけど。
 「Woman "Wの悲劇”より」は薬師丸ひろ子のほうがいいなと、ついユーチューブを漁った。一番、え?と思ったのは、「雨音はショパンの調べ」だった。これってユーミンの作品じゃないでしょ、とよく見ると、訳詞が松任谷由実だった。知らなかった。聞いてみると、これはこれで悪くはないのだけど、猛烈に、小林麻美の声が聞きたくなった。
 私は、小林麻美のファンではない。断じてない!とつい声にリキが入るくらいだ。
 嫌いというのではない。1954年生まれのユーミンもだし、1953年生まれの小林麻美も、自分にとっては憧れのお姉さんの世代でもあるだが、どうにも小林麻美にはアンビバレンツな思いがある。彼女にぞっこんな人々への嫌悪もあるのかもしれない。まあ、いい、猛烈に、小林麻美の声が聞きたくなって、これもユーチューブを漁った。知らなかったけど、とんでもないPVを見つけてしまった。初っぱな、煙草の煙がほへっと出るところで悶絶した。

 なんなんだろこれと呆然とした(たぶん、これもうすぐ消されると思うけど)。
 小林麻美の魅力がこってこてに出ていると言えばそうだし、美人なのか、貧乳なのか(いやそうではないんだが)とか、眉毛だろ眉毛、とか、もう千々に心乱れる。動揺してしまいましたよ。なんというか、記憶喪失になった人が、禁断の記憶をよみがえらせるというか、紅音也の意識だけが復活したような、うわぁぁな気分。
 竹下夢二の絵のような女といえばそうだし、長谷川泰子にもちょっと似てないかとか、似てないけどシャーロット・ランプリングを思い出すとか、なんだったんだろう、あの時代。トリップ。あの時代、若い自分が生きていたし、女というのはこういう形をしていたのに。

 今の時代でも、小林麻美みたいな女優っているのだろうか。まるで知らない。いたとして、で、どうというものでもない。
 小林麻美が引退したときのことは覚えている。その後のことはまるで知らない。藤村美樹と小林麻美のその後のことには関心を持たないように生きてきたのだった。
 が、わかる時代である。彼女、37歳で結婚されたから、お子さんはいないような気がしていたが、いるらし。というか息子さんも20歳近いのだろう。芸能界に出ているのかと思ったが、わからない。
 ご本人は、早見優のような、すてきなおばさまになっているのだろうか、あるいは、と思った。わかるわけないと思っていたけど、どうもすてきなおばさまになっているようだった(参照)。
 いや、別にいいんだ。全然、いいんだ。動揺なんかしてないってば。
 
 

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2012.04.11

ソコトラ岩

 アラビア半島の底辺というかイエメンとオマーンの国境の洋上、そしてソマリア、そのアフリカの角の先、アデン湾を出たところにソコトラ島がある。海賊の多い海域なので物騒にも思えるが、世界遺産にもなっていることから観光地と言えないこともない。「インド洋のガラパゴス」とも言われる自然景観は写真などを見ると異世界のようにすばらしい(参照)。チャンスがあれば行ってみたい場所ではある。安全はというと、在イエメン日本国大使館は「十分注意してください」とし、外務省はイエメン側で異変があれば影響も受けるだろうといった微妙な書き方をしている。
 ソコトラ島の名前の由来は、語感からするとギリシア語のようでもあるが、サンスクリット語の"dvipa sukhadhara"「至福の島」ということらしい。「ソコトラ」にはこのうえなき歓喜といった意味合いがあるのだろう。
 長い枕だったが、話は「ソコトラ島」ではなく、「ソコトラ岩」である。ソコトラ岩は、ソコトラ島にあるわけではない。どこにあるのかというと、海面下と言えないこともないが、地理的に見るなら、韓国済州島の南西にある。黄海と東シナ海の区切りあたりである。
 とすれば、中国様が俺の領土だと言わないわけがないだろうと誰もが思う。もちろん! 韓国様も俺の領土だと言う。もちろん!
 しかも、韓国は李承晩ライン決まっているというのである。もちろん! かくして、中韓の領土紛争のテーマになっている。中韓の両国に対して実質的な領土問題を抱えている日本としては、中韓様が領土についてどのようにお考えになっているのを学ぶ、またとない事例と言えないこともないかなと傍観する。
 しかしなにゆえ、「ソコトラ岩」。ハングルで「ソコトラ」なのだろうか。そうではない。1900年、イギリス商船「ソコトラ丸」が最初に気づいたかららしい。というか、その10年後英国の軍艦が確認したのでそうなったらしい。「ソコトラ丸」という船の名前は、たぶんソコトラ島に由来するのだろう。
 「ソコトラ岩」については1938年に日本も測量している。このとき、日本が何と呼んだのかはよくわからない。中国名では「蘇岩礁」である。韓国名では「離於島」である。が、韓国では「波浪島」とも呼ぶらしい。戦後韓国が日本が放棄すべき島の一つとして竹島などと合わせて挙げたものの、所在がはっきりせず、「じゃあ、蘇岩礁」としたらしい。だとすると、日本領だったのか。

 ところでさっき「海面下と言えないこともないが」と書いたが、自然のままであれば、ソコトラ岩は海面下である。その海面近い岩の上部に2005年、「海洋科学基地」を建設を開始し2003年6月完成した。ヘリパッドがあり、8人が15日間居住できる施設になっている。

 中国としてはそれまでは、ソコトラ岩を水面下の暗礁であるとして、よって国際法上領土の問題には関係しないとしていた。こういうものができてしまうと話はややこしくなる。
 この面白い話題は、ようするに海底資源争奪だろうと思っていたのだが、どうもそうとばかりも言えないらしい。3月22日付けディプロマット「China’s Next Flashpoint?」(参照)では軍事的な側面を上げていた。


South Korea is also seeking a military presence nearer to Socotra and China, to strengthen its claims of control and provide a foothold in the event of conflict. Without a base on Jeju, South Korea’s navy must operate in the area from Incheon, nine hours to the north.

韓国はまたソコトラ岩と中国近辺への軍事的存在感を求めている。それは紛争時には、制御主張の強化と足がかりの提供ともなるものである。済州島の基地がなければ、韓国海軍は9時間も北にある仁川からこの地域の作戦行動を迫られる。


 ようするに、ソコトラ岩の「海洋科学基地」を保護するという名目で、済州島に海軍基地を作りたいというのである。
 済州島海軍基地については、昨年の産経新聞9月1日付け「対中国警戒の要 済州島海軍基地計画 反対激化で政治問題化」(参照)に話題がある。

韓国最大のリゾート地である済州島で建設が進む海軍基地への反対運動が激化し、与野党が対立する大きな政治問題となっている。東シナ海に面する済州島基地は、海洋権益拡大を狙って海軍力増強を続ける中国を牽制(けんせい)する意味がある。李明博政権は来年の大統領選と国政選挙を前に対中関係、国防政策の在り方や世論動向への対応で微妙な対応を迫られている。


海軍基地は島南部の西帰浦市海岸に約9770億ウォン(約700億円)をかけて建設し、政府は2014年完成を目指している。韓国国防省によれば軍民共用港で、完成時にはイージス艦などの大型艦20隻と、15万トン級船舶2隻が同時に係留できる埠頭を備える。

 そうした構図で見ると、「ソコトラ岩」の問題は、いわゆる中韓の領土問題とは割り切れないことにはなる。
 
 

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2012.04.10

伊勢物語第二十三段のこと

 テレビ版の「孤独のグルメ」(参照)が終わった。見たのは二回目からだったが、その後は最終回の十二回まで毎回待ち遠しく見た。面白かった。原作の漫画のほうは以前に読んでいた(参照)ので、テレビ番組の台詞の元ネタなどが連想できるのも愉快だった。見逃した第一回も、つてあって見た。

cover
孤独のグルメ
DVD-BOX
 「孤独のグルメ」といえば、中年男が誰からも指図されずさして世間にはばかることもなく、ただ自分が旨いと思うものを腹一杯食うという自由と至福が描かれているのだが、テレビ番組では毎回と言ってもよいと思うが、食事のシーンの前に女が出てきた。あるいは食事のシーンに女が出てきた。そしてそれが、女というものの、中年過ぎた男ではないとなかなかわかりづらい独自の感触を表現していた。色っぽいこともあり、母性の表出でもあり、懐かしさでもあるのだが、それが食という行為と交わるところで、孤独とは言い難い、人間の接触でありながら、それでいて奇妙な孤独の姿を描いていた。あれは、なんなのだろうと、全回を見終えたあとも長く心に印象が残った。そして、伊勢物語第二十三段のことが思い浮かんだ。
 伊勢物語第二十三段は「筒井筒」「井筒」とも言われる。「筒井筒」という日本語には、この古典に拠って「幼友だち」「幼なじみ」の意味もある(参照)。幼いころから親しみそのまま夫婦に契るような男女を指すと言ってもよいだろう。現在の世界でもたまにそういう、不思議な夫婦がいる。
 この段は高校の教科書にも載っているらしい。私はラジオで、鈴木一雄先生の伊勢物語の講座で学んだ。先生の朗らかな解説には今にして思うと色気のようなものがあり、それが今の自分にも印象深く残る。
 伊勢物語第二十三段は、多少長い話の部類で、そして多少こみ入っている。

昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、おとなになりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども、聞かでなむありける。さて、この隣の男のもとより、かくなむ、筒井筒井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに。女、返し、くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずしてたれかあぐべき、など言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。

昔、地方周り官僚の子供が、井戸のまわりで無邪気に遊んでいたものだが、大人になると色気づいて互いを恥ずかしいと思うようになる。男はあの女を恋人にしたいと思うようになった。女のほうもあの男がいいなと思うせいか、親の持ち込む縁談を断ってきた。そうしたおり、男からラブレターが届く。「井戸と背比べしいた自分ももう井戸の高さを超えましたよ、あなたを抱かないでいる間にね」 すると返信あり。「子供のころはあなたと同じくらい長さだった髪の毛も、肩を超えました。この髪をかき上げもらって愛したい人は、あなた以外にはいません」。かくして両者、合体。


 ここでめでたしめでたし、という話でもよいのだが、これが前段。中段には波乱が沸き起こる。男が女に飽きてしまったかに読める。

さて、年ごろ経るほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内の国高安の郡に、行き通ふ所いできにけり。さりけれど、このもとの女、悪しと思へるけしきもなくて、いだしやりければ、男、異心ありてかかるにやあらむと思ひ疑ひて、前栽の中に隠れゐて、河内へ往ぬる顔にて見れば、この女、いとよう化粧じて、うちながめて、風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ、とよみけるを聞きて、かぎりなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。

さて、年が経ち、女は収入の頼りにしていた親を亡くし、女の家計で男を支えるのも難しくななった。しかたないなと男は、食いはぐれないように大阪に別の女を作った。幼なじみだった妻も気を悪くするだろうと思ったが、別の女の家に行くときも嫌そうな素振りがない。妻のほうも浮気しているんじゃないのかと男は疑って、大阪の女のもとに行くと言ったものの庭陰に隠れ、妻の行動を見ていたら、妻はきれいに化粧をして、憂い顔にて大阪のほうを見つつ、「夜盗も多いと聞く夜道をあなたは越えていくのでしょう、心配です」とつぶやく。これは愛しいと男は思い、大阪の女のもとにあまり行かなくなった。


 男も浮気心がないわけでもないから、女にも浮気心がないものかと疑心を抱くのだが、女にはその素振りもなく、むしろ純愛に見える。男、メロメロ、銀ダラ、といった物語にも読めるのだが、男が見ていないところでバッチグーな化粧で決める女ってなんなんだ?というのが、古来謎でもあり、この物語の大きな魅力となっている。
 この化粧の意味は、呪い、という説もある。戻れや男ぉ、という呪詛かもしれない。ただ、そういうことがそれほど行われたふうもなく、この物語で際立つので、ここはやはり異様な印象を残す。
 私の解釈は、男を殺しているのだと思う。別の女の元に行く男を、心のなかで殺害し、その死者の儀礼に向き合っている化粧だろうと思う。狂おしい死者のエロスである。
 いや、それはないでしょ、そこまで気違いってことはないでしょ、という人もいるかもしれないが、私は世阿弥もここをそう読んでいたと考えている。
 話は後段に入る。男は大阪の女と縁が切れたわけでもない。

 まれまれかの高安に来てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づからいひがひ取りて、笥子のうつはものに盛りけるを見て、心うがりて行かずなりにけり。さりければ、かの女、大和の方を見やりて、君があたり見つつを居らむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも、と言ひて見いだすに、からうじて、大和人、来むと言へり。喜びて待つに、たびたび過ぎぬれば、君来むと言ひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞ経る、と言ひけれど、男住まずなりにけり。

 それでもまれに大阪の女のもとに行くと、最初のうちは恋心ドキドキというのもあったが、現在では、まったりとした関係にもなっている。食事なども、下女を使わずに、女が自分自身でご飯を盛ってくれるのだが、そのとき男は鬱に沈む。どぉーん。そして、この女のもとに寄らなくなった。大阪の女としては、男が戻っていく奈良側の生駒山を見て、「あなたのいるところを泣きながら見ています。だから生駒山にかかる雲はあなたを隠さないで」と、男に伝えると、男は「行きますよ」と返信があるので、大阪の女も喜んで待っていたが、実際は来ない。「あなたが来ると言うから毎晩待っているけど、頼りない恋心のまま時が過ぎていくだけ」と男に言うと、男はもう二度と来なくなった。


 一般的な解釈では、男に慣れた女が、風呂上がりに裸でうろついたり、おならをしたりといった感じで、「ご飯食べるぅ? あたしもってあげるぅLove」みたいな状況に、うへぇ、とげんなりしたというふうになっている。
 私はここも通解は違うと思っているのだった。
 男は、大阪の女との生活に幸せと安定を見つけてしまったのだと思う。「俺はここでこの若い女と幸せに生きられるんだ」とわかったとき、存在の根幹から震撼したのだと思う。
 女のこさえる飯も旨かった。まったりと、のんびりとして、さほどカネに苦労することもなく生きることができる。まあ、昔の女は捨てなくてはいけないが、あれは化粧もしないと見られたもんでもないし、あれも相応の年になったのだから、わかってくれるだろう。それにまったく捨てるといったものでもないし、光の君よろしく、たまに行ってやれば喜ぶだろう。いいじゃないか。オールラウンド・ハッピー。
 というところで、男は死にたくなったのだと思う。もういいよと思ったとき、そのまま古女房のもとに戻った、と。
 大阪の女は若いのだろうし、男を愛してもいたのだろう。そしていつか別の男に飯をもって、それはそれで幸せに暮らせのだろう。幸せ、いいじゃないか。
 男はそうは生きられないし、そうは生きられない女もいる。それが奈良の女の生きる姿でもあった。
 幸せに生きられる人はいい。不幸のなかに老いていくエロスを見つめる男というものもある。
 そういう女もいる。そのあたりの裏の物語を、その次の第二十四段は描いている。そこでは別の男と幸せを見つけたはずの女が、突然すべてを捨てて死に疾走する。
 この続く第二十四段物語が第二十三段の裏の物語だということも、世阿弥は見抜いていた。
 
 

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2012.04.08

ジェファーソン聖書

 米国のティーパーティ(茶会党)は日本では右派・保守派として見なされ、日本でリベラルと称する人たちが攻撃の対象とすることも多いようだが、ティーパーティ(Tea Party)は、1773年のボストン茶会事件(Boston Tea Party)に由来したもので、その史実を見ていくと、もしかすると日本でリベラルと称する人には、歴史的な背景をよく理解していない人もいるのかもしれない、と思うことがある。
 ボストン茶会事件は1773年12月16日、当時英国の植民地だった現在の米国、マサチューセッツ州ボストンで、英国議会による植民地の紅茶関税を規定する茶法(Tea Act)に反対した現地の人々が、示威行動として、ボストン港停泊中の英国東インド会社の商船に侵入して船荷の紅茶箱をボストン湾に投棄した事件である。英国は東インド会社の紅茶関税を排することで紅茶輸出の拡大を望んでいたが、ボストンの貿易商(実質は密貿易)には不利益となるものだった。
 茶法は直接重税を課すものないが重税と同じ効果を持つことから、現在のティーパーティは「税金はすでに十分取られている(Taxed Enough Already)」の略として、国税強化への反発のシンボルともしている。
 ボストン茶会事件が歴史的に重視されるのは、米国独立の大きな要因となったからだった。英国はこれを機にボストンを軍政下に治めたが、植民地側が反発して自治権(市民による市政権)を主張するようになった。翌年1775年、ボストン郊外レキシントン・コンコードで英国軍と、自治権を主張することで市民となり武装した民兵が衝突した。傭兵もいた。これが1783年まで続く独立戦争となった。余談だが、「米国独立戦争」は現在の英語では"American Revolutionary War"、つまり「市民革命」として理解されている。その意味でフランス革命などに並ぶものして米国では理解されている。
 独立戦争・市民革命には、市民という意識を鼓舞するためには大義やシンボルが重要になる。それは市民=民兵に命をかけさせるため大義である。市民に対して受容な事項として、あたかも教育勅語や戦陣訓のように朗唱させる必要がある。その目的で起草されたのが独立宣言である。1776年7月4日、大陸会議(the Continental Congress)によって採択された。そこで7月4日が独立記念日となる。
 なんだか世界史の講義のようになり、「日本に関係ないっす」の声が聞こえそうだが、毒皿気分でちょっと独立宣言を読んでみよう。


We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness.

我々にとってこの真理は自明である。つまり、人は生まれながらにして平等であり、侵されることのない権利が天から与えられている。それには、生命、自由、幸福の追求がある。

That to secure these rights, Governments are instituted among Men, deriving their just powers from the consent of the governed, That whenever any Form of Government becomes destructive of these ends, it is the Right of the People to alter or to abolish it, and to institute new Government, laying its foundation on such principles and organizing its powers in such form, as to them shall seem most likely to effect their Safety and Happiness.

この権利を守るために国民は政府を設置するのだから、政治の権力というものは、支配される側の国民の同意に基づいている。それゆえ、どのような形であれ、政府が国民の権利を守るという目的に反するなら、国民は政府を変更し、廃止し、新しい政府を樹立する権利を持つのである。新しい政府の樹立は、国民の安全と幸福が最大になるような形で、権力機構を構成されることになる。


 意訳っぽい、あるいは誤訳かもしれないが、大意はそんなところ。
 すぐに気がつくように、これは福沢諭吉の「学問のすゝめ」と日本国憲法前文の論理と同じである。逆にいえば、米国独立宣言の精神が、明治時代の大ベストセラー「学問のすゝめ」を作り、その理解の下地で米国占領軍が「日本国憲法」を作ったのである。日本人の民主主義と国家の基盤の直接的な源泉が、ここにあると言ってよい。
 米国の現在のティーパーティもこの厳格な権力への警戒意識をもった独立宣言を理念としているという意味で、文脈上日本国憲法の理念とも通じるところが大きい。日本国憲法が日本のリベラルとって重要なら、米国のティーパーティとも通じるというものだ。
 さて、この独立宣言文を書いたのが、トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)である。第3代米国大統領でもある。ティーパーティに支持されるジェファーソンの思想が米国を作り、敗戦国日本の国家の仮構を作り出した。ちなみに、米語の発音だと「ジェファスン」になる。
 ではジェファーソンという人は、どんな人だったのか? どうしてこんなこと考えたのか? その精神的な支柱というのはなんだったのか?
 ジェファーソンは1743年4月13日、現在のバージニア州オールバーマール郡シャドウェルで農園主の息子(10人兄弟の3番目)として生まれた。9歳のとき、長老派が経営する学校に通い、ラテン語、ギリシャ語、フランス語など語学に加え、乗馬や博物学を学び、15歳には著名な教師のもとで博物学など諸学を学んだ。16歳でウィリアム・アンド・メアリー大学に入学し、ここでジョン・ロック(John Locke)、フランシス・ベーコン(Francis Bacon)、アイザック・ニュートン(Isaac Newton)など英国経験論の影響を受けた。卒業後は、弁護士となり、政治家となった。
 政治家なんだから、当時の政治の中心課題である独立問題に関わり、独立宣言を書いても不思議はないようだが、なぜ彼が書いたのかというと、このあたりずばりと記した参考文献はないようだ。そこで私は考えるのだが、ようするにジェファーソンは、英国の当代風の教養があったからではないだろうか。
 すると、ジェファーソンの思想といっても、当時の自然思想や博物学、啓蒙主義といったものにすっぽり含まれ、それほど深い特殊な思想背景があったわけでもないだろう。当代きっての教養人ではあったが、オリジナリティのないという点では凡庸な人だったのではないだろうか。
 いや、凡庸な人間というのは、なにか凡庸を迫るべき大きな精神的な重圧のようなものを負っているものである。ジェファーソンのように、ただの凡庸とも思えない人物には、なにかがありそうなものだと見ていく。まず、自身が記したとされる墓碑銘が気になる。自画自賛がこのあたりに噴出していそうだ。

HERE WAS BURIED THOMAS JEFFERSON
AUTHOR OF THE DECLARATION OF AMERICAN INDEPENDENCE
OF THE STATUTE OF VIRGINIA FOR RELIGIOUS FREEDOM
AND FATHER OF THE UNIVERSITY OF VIRGINIA

ここにトーマス・ジェファーソンは埋葬されている
米国独立宣言の作者にして
信教の自由のためのバージニアの法の作者
そしてバージニア大学の父


 どうやら、ご本人としては、「RELIGIOUS FREEDOM」(信教の自由)を重んじたというのが人生の功績だったと思っているようだ。
 まあ、信教の自由は、英国経験論の影響を受けた人間なら当然の意識であるが、米国独立宣言文を含めて、ジェファーソンにはどことなく宗教っぽいねっとり感がある。彼は、いったい宗教というものをどう考えていたのだろうか。ニュートンのようにユニテリアンで、そしてなにか変な宗教観を実はもったのではないか?
 あった。「ジェファーソン聖書(Jefferson bible)」である。ジェファーソンは、既存の聖書を切り貼りして自分の聖書というのをこっそり作っていたのである。
 といっても聖書全体にわたる作業ではなく、新約聖書の福音書についてである。4つの異なる福音書がそれぞれ別個にイエス・キリストを描く状態と、どれもに奇跡が含まれているということが、英国経験論として許せなかったのだろう、とてつもなく。

 福音書を統合しようという情念の原形は、福音書の調和・統合をもたらした「ディアテッサロン(Diatessaron )」の作者タティアノス(Tatianos)が有名である。彼は、ユスティノス(Justinos)の弟子筋の、2世紀のシリア生まれの神学者で、現在の四福音書構成を作った、同時代のエイレナイオスの敵対勢力だった。
 そのためタティアノスは異端(Encratites)ともされた。ちなみに、ユスティノスの神学はフィロンの系譜にあると言ってもよく、その意味でタティアノスの思想が異端なのかは再吟味が必要かもしれない。この話題は、「ディアテッサロン」を組み込んだ「ペシッタ聖書(Peshitta)」にも関連する。
 いずれにしても、そうした統合福音書を作成しようという情熱は、正典を軽視するということで異端の特徴とも言える。
 ジェファーソンとそのジェファーソン聖書も異端なのではないだろうか? ジェファーソン聖書にはいったい何が書かれているのだろうか?。
 内容は、ジェファーソンが設立したバージニア大学から公開されている(参照)。タイトルは「The Life and Morals of Jesus of Nazareth(ナザレのイエスの生涯と教え)」である。


CHAPTER 1
1: And it came to pass in those days, that there went out a decree from Caesar Augustus, that all the world should be taxed.
そしてその時代、全世界に課税せよとの勅令が皇帝アウグストから出された。

2: (And this taxing was first made when Cyrenius was governor of Syria.)
そしてこの課税当初、クレオニがシリアの総督であった時代に実施された。

3: And all went to be taxed, every one into his own city.
そして、だれもが課税のために、それぞれ自分の町に行った。

4: And Joseph also went up from Galilee, out of the city of Nazareth, into Judaea, unto the city of David, which is called Bethlehem; (because he was of the house and lineage of David:)
ヨセフも、ガリレアの町ナザレを出て、ユダヤのダビデの町であるベツレヘムに行った(ヨセフはダビデの家系であったから。)

5: To be taxed with Mary his espoused wife, being great with child.
彼は、子供を宿した正妻のマリアともに課税されるためであった。

6: And so it was, that, while they were there, the days were accomplished that she should be delivered.
そして、彼らがそこにいる頃、マリアは出産日となった。

7: And she brought forth her firstborn son, and wrapped him in swaddling clothes, and laid him in a manger; because there was no room for them in the inn.
そして彼女は初子の男の子を産み、布でぐるぐる巻きにして飼い葉おけに横たえた。宿には空き部屋がなかったからだった。

8: And when eight days were accomplished for the circumcising of the child, his name was called JESUS.
そして、男の赤ちゃんにさずける割礼の8日となり、この子は「イエス」と名前が付けられた。


 つ、つまんない。
 というか、これは欽定訳聖書のルカによる福音書とまったく同じ。切り貼りしているから、オリジナルの聖書以上ことは原則として含まれていない。ジェファーソン聖書で重要なのは、彼がなにを削除したのかということだ。この部分でいえば、処女降誕の話をばっさり切り捨てたのだった。
 すると復活もないんじゃないか。そのとおり。エンディングはこうなっている。

61: Then took they the body of Jesus, and wound it in linen clothes with the spices, as the manner of the Jews is to bury.
それから彼らはイエスの遺体を受け、香料とともに亜麻布で巻いた。イエスを埋葬する儀礼であった。

62: Now in the place where he was crucified there was a garden; and in the garden a new sepulchre, wherein was never man yet laid.
彼が磔刑となった場所には庭があり、庭には、まだ誰も葬られてない新しい墓所があった。

63: There laid they Jesus,
そこにイエスを横たえた。

64: And rolled a great stone to the door of the sepulchre, and departed.
そして、巨石を墓所の入り口まで転がし、立ち去った。


 終わり。イエスは磔刑となり、共同墓所に埋葬されて、おしまい。え?
 復活はなし? なし。
 この部分は欽定訳ヨハネによる福音書とほぼ同じ。違うところもある。つまり、削除された部分がある。63の後の次の部分が削除されている。

therefore because of the Jews' preparation day; for the sepulchre was nigh at hand.
なぜならユダヤ人の準備の日だったからだ。墓所は近くにあったからでもあった。

 準備というのは「過越(Passover)」であり、共観福音書とは異なり、ヨハネによる福音書ではイエスの磔刑は、過越の犠牲の羊に模されて14日、過越の前日になる。この部分についてジェファーソンは、「復活に関連する話は削っちゃえ」としたというより、「共観福音書と合ってねーじゃん」と思ったのだろう。でも、共観福音書の文章は採用していない。
cover
The Jefferson Bible
Smithsonian Edition
 ジェファーソン聖書には、処女降誕も復活もない。他、奇跡もない。偽科学批判の人たちにもご納得の一冊ということになる。たぶん創造論も含まれていないのも、お得。ご購入は……これがマジで販売されているのである。スミソニアン博物館のお土産にもなっている(参照)。
 マジでこれを聖書の代用としている人もいるだろうし、米国議会の宣誓式でこれを使ったら……どうなると思いますか? 
 無問題。というのは、1904年には米国議会自身がこのジェファーソン聖書を出版し、新選出の議員のプレゼントとして配布していたのである。マジ!(参照)。
 ジェファーソンはいったいどういう宗教意識を持っていたのだろうか? ユニテリアンではないがそれに近いことは本人の証言がある(参照)。総じていえば、キリスト教風味の理神論宗教ということだろう。
 理神教、いいじゃないか(井之頭五郎の声で)。
 ただ、それはおそらくジェファーソンの秘密でもあった。こっそりとした背徳もあった。そもそも理神教なら聖書を必要とするわけもない。
 そう考えると、ジェファーソン聖書の意味はくっきりと見えてくる。処女降誕や復活や奇跡を否定せずにはいられなかったのである。理神を背徳として生きる人物は他にもいる。小説にも描かれている、イヴァン・ヒョードロヴィッチ・カラマーゾフとか。
 
 

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2012.04.07

[書評]禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明(エレーヌ・ペイゲルス)

 聖書には含まれていないイエス・キリストの教えが存在するとしたら、どう思うだろうか。キリスト教徒なら「そんなのは悪い冗談でしょ。聖書は聖霊の導きで書かれているのです」と答えるかもしれない。だが、聖書に含まれている、イエス・キリストの生涯を記す4つの福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)以外に、本当のイエス・キリストが語った言葉を収録する別の福音書がかつて存在し、そしてそれが今の聖書に収録されている四福音書よりも真実を伝えるとしたら、どうだろうか?
 いや、何をもって「真実」だというのかという議論にもなるかもしれない。本書、「禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明」(参照)は、その問題を本質的に扱っている。
 訳本の表題「禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明」は日本人に向けてよく練られている。確かに本書では、現在のキリスト教からは禁じられた、異端の福音書が議論されている。キリスト教に関心ある人なら、あるいはSFの愛好家も、20世紀最大の発見とも言われるナグ・ハマディ文書の解明にも関心があるだろう。

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禁じられた福音書
ナグ・ハマディ文書の解明
 副題として記されるナグ・ハマディ文書は、1945年、エジプト南部、観光地として有名なルクソールの近く、ケナ県ナグ・ハマディという町の近郊洞窟から壺に封印されたパピルスとして発見された、コプト語による文書(写本)で、キリスト教がどのように成立したかを解明するうえで貴重な史料となっている。簡単に言えば、4世紀にキリスト教が成立するとき、「これを後世に残してはいけない」とされた異端文書である。が、「異端」というのはこの焚書行為と同義でしかない。別の言い方をすれば、危険文書である。キリスト教の存続を危うくする危険性があると見なされた文書である。
 20世紀にひょっこり姿を現したナグ・ハマディ文書と現在の聖書(聖典)を合わせた総体でおよそ、イエス・キリストが磔刑され復活した1世紀以降の歴史の、ある意味で豊かな形態のイエス・キリストへの信仰が再構成できる。それが本当のイエス・キリストの教えということだとしたら、現存するキリスト教とはどのようなものになるだろうか。
 ナグ・ハマディ文書の古代的な、また豊潤な精神性・宗教性が再び説かれる事態になれば、これも「ある意味で」と限定はするのだが、現在の正統キリスト教は壊れてしまうかもしれない。
 妄想にも近いかもしれないが、未発見の古代文書に、「正統のキリスト教の歴史が押し隠したイエス・キリストの真実の姿を示す秘密が隠されているのかもしれない」と思う人がいても不思議ではない。アーヴィング・ウォーレス「イエスの古文書」(参照)やダン・ブラウン「ダ・ヴィンチ・コード」(参照)など小説のネタにもなる。P・K・ディックの「ヴァリス」(参照)三部作もその影響にあることは、SF愛好家なら常識だろう。
 隠された秘密は知りたいと思うものだ。ナグ・ハマディ文書の一部は、発見の経緯からエジプト国外に売却されるという不幸なことがあったが、この分野に多大な関心を寄せた心理学者カール・グスタフ・ユングが最終的に入手し、ユングの死後、エジプトに戻ることになった。ユングは、現在のキリスト教から失われた古代の神秘の教えともいえるグノーシス主義への傾倒からナグ・ハマディ文書に関心を持っていた。少し勇み足な言い方になるが、彼はそれをもってキリスト教を乗り越えようともした。
 こうした、失われた、真なるキリスト教、あるいは真実のイエス・キリストの教えといった関心はその後も続き、近年では「ユダの福音書」(参照)が話題になったこともある。
 この話題の、おそらくもっとも中心的な部分は、本書オリジナルの表題にも含まれている「トマスによる福音書」(参照)である。本書オリジナルの表題「Beyond Belief: The Secret Gospel of Thomas」(参照)には「トマスによる福音書の秘密」と書かれ、まさにこの核心部分を扱った書籍でもあることがわかる。なお、「Beyond Belief」は、「ウソぉ、信じられない!」という口語的な意味と、字義どおり「信念・信仰を超えて」という二つの意味があり、その双方が本書の内容を暗示している。
 著者エレーヌ・ペイゲルスは新約聖書学の中でも、さらにナグ・ハマディ文書などグノーシス主義文献研究家の第一人者であり、本書もその学術的研究を踏まえた一般書として書かれている。予備知識のない人や、正統キリスト教の知識しかない人が読むと奇妙に思われる点もあるだろうが、学術的な逸脱はない(異論はあるだろう)。そうした学者さんなのだから、学術的な知見から啓蒙的な文書にまとめることもできるだろうし、信仰やあるいはディックやユングが取り憑かれたような妄想にも近い部分をさらりとかわすこともできただろう。しかし彼女は、まさにその部分にエレガントでありながら体当たりしている。
 マーサ・グラハムの元でダンスも学んでいたという彼女は、詩情豊かであるが、学者さんらしく慎ましい限界をもって筆を進めている。だが、ある程度この分野に精神を関与させた読者なら、彼女がトマスによる福音書からイエス・キリストの声を聞き取ろうとしていることがわかる。それは私のような者にはちょっとした衝撃でもある。少し自分語りをしたい。
 私は中学生のころからドストエフスキーを読み出し、小林秀雄や山本七平などの影響もあいまって、高校時代にキリスト教の神学に関心をもち、特に神学者八木誠一に関心をもった。「キリスト教は信じうるか―本質の探求」(参照)や「キリストとイエス―聖書をどう読むか」(参照)といった新書は擦り切れるほど読んだし、学術論文と言ってよいかと思う「新約思想の成立」(参照)も読んだ。同書には後にトマスによる福音書を邦訳した新約聖書学者荒井献との論争も収録され、そこではまさにグノーシス主義が話題になっていた。誤解を恐れずにいうなら、八木神学には「グノーシス主義」的な部分はあったかと思う。だが私はそれに傾倒し、八木誠一先生本人からも学ぶ経験もえたが、逆にそれをきっかけに私は新約聖書学から離れるようになった。八木先生に幻滅したからではない。ブルトマン的な方法論の自然な成り行きのように聖書と信仰が結びつかなくなったのである。
 私語りをしたのは、本書の話題の核心は「トマスによる福音書」だとしたが、それは「ヨハネによる福音書」による排除であるとする大胆な主張に関連する(「ヨハネ」は「トマス」を排除する意図で書かれた)。私は、八木神学から離れると同時に「ヨハネによる福音書」も捨てていた。いや「捨てる」というのは正確ではない。関心からこっそりと排除した。三一信仰も同じ扱いにした。共観福音書のイエス像(ケリュグマ)だけを残した。
 なのにパウロにずっと関心を持ち続けた。イエスのケリュグマとパウロがあれば、どこかでキリスト教が見つかるような気がしていたのだった。パウロが遭難したマルタ島の海岸でその荒れた海を見つめたこともあった。
 聖書に、またイエス・キリストに関心を持ちながら、それが信仰に結びついていかないもどかしさと、どこかに失われた信仰があるのだということに自分は翻弄されてきた。本書の著者エレーヌ・ペイゲルスもそう感じていたのだという挿話が、本書の冒頭に描かれている。その意味で、この本は、私の本だとも思った。私のための本だ、と。そして、本書の概要を知りながら、読むことをずっと避けていたのも、それに関係していた。「ヨハネによる福音書」に取り組まなければならないことが、たぶん私の人生の、もう避けがたい私だけの課題になった。
 この年齢になって、キリスト教の歴史的な総体というものが、不思議に浮かび上がるように思え、昨年年末、E.R.グッドイナフ「アレクサンドリアのフィロン入門」(参照)を読んだら、小冊ながら「ヨハネによる福音書」とフィロン哲学の関係の大筋が見えた。そして本書で「ヨハネによる福音書」が「トマスによる福音書」を排除しつつ、ニケア信条が成立する過程もくっきり見えた。この説は新約聖書学的にはおそらく学説に留まるのだろうが、覆りようもないように自分には思えた。「ああ、そういうことだったのか。キリスト教というのはそういうものだったのか」となにかが胃の腑にずしんと落ちた。
 正統キリスト教を否定したり、「ヨハネによる福音書」を批判したりという思いはまるでない。むしろ、実質的に本書の主人公ともいえるエイレナイオス(Ειρηναίος)とその系統にある人々が、「トマスによる福音書」を必死に排除していくプロセスに共感した。つまり、それがキリスト教を作るということでもあったのだろう。誰かがそれをする他はなかったこともよくわかる。
 同時に「ヨハネによる福音書」の代わりに「トマスによる福音書」が共観福音書に添えられていたら、人類は異なるキリスト教の歴史を持ったのかもしれないとも夢想させる。それは今更想像しても詮無いことだと思う人もいるだろう。だが、著者エレーヌ・ペイゲルスはおそらくそうは考えてはいない。私も。とても遠いところにまで来てしまったなあという思いはするが。
 
 

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2012.04.06

インドの大陸間弾道ミサイル「アグニⅤ」実験

 国際ニュースを見ていつも不思議に思う。なぜ、それが話題で、あれは話題ではないのか。国内ニュースの場合は、それなりに勘所みたいなものもあるし、国際ニュースといっても基本、西側ニュースなので同様にわからないでもない。昨今の話題でいえば、4月中旬に実施予定のインドの大陸間弾道ミサイル「アグニⅤ」実験である。
 その前に少し脇道にそれる。日本で「ミサイル実験」というと北朝鮮の北朝鮮のミサイルが話題だが、これには奇妙な印象がある。余談みたいな話だが、ネットなどではこれをもって中国への脅しと見る指摘があった。いや、それはありえない。北朝鮮のミサイルは固定式なので本当に中国が危機意識を持つなら、発射台ごと事前に爆破すればよい。米国や韓国は、日本のような平和憲法ももっていないことから、判断によってはそうする可能性がある。いずれにせよ、北朝鮮ミサイルは直接的な軍事脅威にはならない。
 ではなぜ日本で大騒ぎしているかというと、日本は事前に爆破できないからというより、騒ぎの実態がミサイル防衛(MD)であることからわかるように、北朝鮮の脅威というよりMD訓練が焦点になっている。
 これは常識だと思うのだが、MDの精度がいくらあがっても攻撃側のミサイル数が多ければ意味はない。北朝鮮がそれほどのミサイルを持っているかというと、現下話題のテポドンなら数は少ない。が、日本を射程に収める中距離弾道ミサイルのノドンは300発もあり、「もう勘弁してくださいよ輿石先生(75)」と音を上げたくなるほどの人選の結果でもある、「無知の知」を誇る田中直紀防衛相が、3日の参院予算委員会で明言したように、ノドンへの防衛態勢については、「今の態勢では全国土を守りきれない」(参照)。白旗の少女ならぬ、白旗の賢人こそ日本の守りという現状である。
 ではこの沖縄を巻き込んだMD騒ぎだが、沖縄に設置予定の司令部の防衛とみてよいし、それは多数のミサイルを前提にしていることや、標的を沖縄に定めていると見られるミサイルを配備するという点で、中国を意識したものだろう。
 話をもとに戻すと、4月中旬に実験予定のインドの大陸間弾道ミサイル「アグニⅤミサイル」は、来年2013年には潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM: an operational submarine-launched ballistic missile)となり発射位置が事前にわからなくなる。また2014年には事前攻撃に利用される無人機からの防御も完成する予定である(参照)。今回の実験はその着実は進展を示すことになる。
 さて、このアグニⅤは脅威なのか?
 もちろん脅威だが、どの国に対しての脅威か。それは射程域からわかる部分が大きい。

 そして簡単にわかる。中露である。さらに当然ながら、隣国パキスタンさらにイランへも脅威を与える。
 中国はこれに反応しないのかというと、西側ニュースからは見えないが、中国語圏のニュースに絞り込むと中国網「印度4月中旬试射“烈火-5”导弹」(参照)を筆頭として数多くの記事がすでに存在している。中国としては無視できない脅威であることはこれらのニュースから察せられる。だが、日本を含め、西側報道では奇妙な印象があるくらい少ない。
 中国にとっては明白な脅威なので、これが中国の防衛と称する軍事強化を急き立てている。当然ながらインドが米国と軍事的な連携を結んでいるかぎり、インドが対中戦の前面に立つことになり、米国としてはインドを強く支援するしかない。
 同時それはインドと敵対するパキスタンとの関係も複雑にする。
 興味深いことにパキスタンは北朝鮮と核兵器技術やミサイル技術でも繋がりをもってきた(参照)。うがった見方をすれば、北朝鮮の今回のミサイル実験は、パキスタンを後ろに控えた、対インドと対米への牽制でもあり、その文脈では中国の意思も感じられないではない。
 
 

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2012.04.05

マリ共和国で起きていること

 西アフリカのマリ共和国で3月22日、軍部のアマドゥ・サノゴ大尉が率いる兵士らによってクーデターが発生した。「民主主義と国家の再建のための国民委員会」(CNRDR: the National Committee for the Return of Democracy and the Restoration of the State)と称する兵士らは首都バマコの大統領府を攻撃し、国営テレビも占領した。

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外務省
 CNRDRのコナレ報道官は国営テレビを通して「マリ国軍は、現政権にテロと有効に戦う能力がないことを考慮し、憲法上の権利を行使して他の治安部隊とともに無能なトゥーレ政権に終止符を打つ責任を果たすことを決意した」と述べた(参照)。
 CNRDRの発表からうかがえることだが、北部独立を掲げるトゥアレグ人勢力との戦闘にあたる軍部は、トゥーレ大統領政権の対応に業を煮やしていたのだった。なお、トゥーレ大統領も将校として1991年に当時のトラオレ独裁政権をクーデターで倒したが2002年に選挙で大統領となり、2007年に再選した。今年に退任する予定だった。クーデター時には行方不明だったが、首都バマコに潜伏しているらしい(参照)。
 クーデーターの混乱に乗じて、トゥアレグ人勢力は攻勢を強め、北部ガオ州の州都ガオを掌握。さらに世界遺産の都市であるトンブクトゥ制圧し、北部の主要都市を掌握した。
 国連安全保障理事会は4月4日、クーデターを起こした軍兵士を非難する議長声明を出したが(参照)、それ以前にクーデターによる政府の弱体化が決定的となった。
 攻勢を強めるトゥアレグ人勢力だが、北部に「アザワド」という国家の独立を求める遊牧民トゥアレグ人の武装組織「アザワド国民解放運動(MNLA: National Movement for the Liberation of Azawad)と、アルカイダ系イスラム過激派「アンサール・ディーン(Ansar Dine)」のニ系があり(参照)、トンブクトゥではアンサール・ディーンがMNLAを追い出して支配下に置いた(参照)。ごく簡単に言えば、マリ共和国はアルカイダの新しい拠点となりかねない事態となったのである。
 なぜこのような事態になったのか。これも簡単にいえば、カダフィのリビアを西側が潰したことの余波だった。リビアのカダフィ大佐の傭兵が大量の武器をもってトゥアレグ人勢力に荷担したのである。この状況は、さらに同じくリビア南に接するニジェールとチャドに伝搬する可能性がある。
 カダフィのリビアを潰せばこうなることは西側にわかっていなかったのか、特に米国は。いや、わかっていたのだった。フィナンシャルタイムズ「Libyan aftershocks(リビアの余震)」(参照)より。

This is just the scenario US-led support to the state was meant to avert. Mali is a vast, porous and ethnically heterogenous territory.

この事態は、米国指導によるこの国家(マリ共和国)への支援で回避しようとしていたシナリオそのものであった。マリ共和国は広大で、外部から侵入しやすく、多様な民族で構成されている領土である。


 米国はマリ共和国の持つ脆弱性を理解し支援していたのだが、反面、カダフィのリビア崩壊に実質的に関与してマリ共和国を苦境に追い詰めた。ざっと見れば、またも米国の失態、つまりオバマ政権のヘマとも言えるし、この事態がわかっていたから、表向きはオバマ米政権はカダフィのリビア攻勢に関与することに億劫な素振りを見せていたのかもしれない。いずれにせよ、予想されたこの事態を看過していたことには変わりない。
 であれば、現況についても米国が実質的に強力に関わるしかないだろうが、またしても宗主国であったフランスとの関係の調整が必要になる。オバマさんもサルコジさんも、今年は選挙の年であって、大きな動きは取りにくいし、アルカイダはメドベージェフさんのように「選挙の後まで待ってくれ」とこっそり言って通じる相手でもない。
 やっかいなことになったが、やっかいなことはマリ共和国だけの問題でもない。世界の各種の問題という視点で見れば、他が深刻すぎてマリ共和国の崩壊は比較的重要ではない位置に落ち着くのかもしれない。
 
 

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2012.04.02

NHK朝ドラ カーネーション

 一、二回の抜けはあったかもしれないが、NHK朝ドラ「カーネーション」はほとんど見た。面白いなと思って日々見ていた。先週終わって、今朝の新・朝ドラのことはすっかり忘れていた。たぶん、こっちは見ないんじゃないだろうか。
 「カーネーション」を見始めたのは、単純な話、小篠綾子さんがテーマだったからだ。この人を題材にして面白くないドラマはできないだろうと踏んでいた。このレベルのパワーが出せるのはあとは千住文子さんしかいない。

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糸とはさみと大阪と
小篠綾子
 面白かった部分は?と、あらためて問い直すと、10代でデパートの制服を作るあたりの話だろうか。他の部分に少し斜に構えてしまうのは、わけがある。小篠綾子さんが有名になったのは、私の記憶では娘さんたちの活躍を反映して70歳以降のことであり、この朝ドラの物語もその70代から90代に流れていくことは想定できた。その想定の光のなかで、そこに至る物語として見ていたように思う。実際のところ、その最終部の脚本の仕上げかたも見事だった。
 違和感はあった。脚本のうまさは同時にあざとさでもあった。栗山千明演ずる奈津や恋人役設定の周防などは、脚本家の技量の、ある種嫌みのようなものが出て、人情を描くようでいながら人間を描き切れていないもどかしさがあった。特に周防については、綾子さんの不倫が有名でもあったことから、あれをどう描くものかと見ていたが、「ほっしゃん」との人格で劇場的に分離させていた。やるなあ、うまく描くものだな、という思いと、そうして分離して切り捨てられた、周防とほっしゃんが生身の人間の身体で交点を描く部分の男女の機微は、きれいに抜け落ちていた。あれは恋愛というものではないなと思いつつ、と同時に、この脚本家は恋愛というものが描けるのに、どうして描かないだろうかといういぶかしさもあった。
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カーネーション
完全版DVD-BOX1
 一番の違和感は、率直に言うのだが、時代感覚の欠落だった。このドラマは1970年代生まれの脚本家が書いているなと感じさせる。東京でいうなら東京オリンピック前の風景というものを知らないのだろう。またそれゆえに神戸の松坂家を、まるで修論をまとめるように上手にまとめていた。濱田マリ演じる玉枝が日本の戦争を戦闘員の加害の点から述懐するというに至っては、この人は戦争というものを知らないのだろうなと苦笑した。インパール戦で息子を亡くした、私の祖母のことを思い出した。兵士というのはただ命令で戦い、死ぬだけのものである。それに国家の倫理が触れるのは、生活がそれに隣接する局面だけでしかない。その生活の切面の、あまりに人間的な醜悪さと美しさから、「死の棘」のような例外はあるが、戦後の知性は逃げ回ってきた。
 この、時代感覚というものの奇妙な欠落は、十朱幸代演じる貞子、正司照枝演じるハル、善作演じる小林薫がその肉声をもってうまく補っていた。照枝さんはギターが似合うのだがなと思い出す。昭和な私からすれば、みなさん、お若い世代の俳優だった。それでも昭和の気風を身体で知っている人たちだった。配役はプロデューサーのうまさというべきかもしれない。
 リアルな時代感覚との対照には、脚本家自身の時代意識とその対象への具体的なある感触があるものだ。それが必ずやどこかで漏出する。そこには小林藤子が演じる孫娘理香があてはまっていた。このドラマは1970年代生まれの脚本家が書いているなと感じさせるものがあった、と私は書いたが、竹の子族から逆算する位置にあった。
 竹の子族世代の心情は逆に私にはわからないが、この平成も終わらんとする時代に出来た物語は、そこから小篠綾子という「おばあさん」を心情的に接近してみたのだろう。実際のところ、周防の話題で萌え上がっている茶の間のおばさんは、その世代なのだろう。その意味で、カーネーションの成功は、竹の子族世代の中年層をうまく掴んだことなのだろう。
 我ながらうかつだったのだが、脚本家への焦点をもちながら、実際にその脚本家が渡辺あやだったことには、それほど興味が及んでなかった。ステラ(3/30)にインタビューが掲載されていて、ああ、「ジョゼと虎と魚たち(映画版)」(参照)の脚本だったか、なるほどと得心した。
 言われてみれば、「カーネーション」のある独自なトーンは「ジョゼと虎と魚たち(映画版)」とよく似ている。そして実は、「カーネーション」が描き出そうとして踏みとどまったものは、小篠綾子とジョゼと重なる部分の、ある独自なエロスのようなものではなかったか。「ジョゼと虎と魚たち(映画版)」で妻夫木聡演じる恒夫の泣き崩れる姿に似たものが、たぶんこの朝ドラのどこかで(周防の娘との再会あたりか)、こっそりと失われたピースなのではないかと、思った。
 
 

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2012.04.01

最近の猫の跳躍傾向について

 ボストンの高層マンション19階の窓から3月22日、一匹の猫が飛び降り、そして60メートルを超える落下の後、あざやかに着地した。いや。あざやかとまでは言えないかもしれない。あざが胸に小さくできたからだ。
 その完全なる着地は現地では"purrfect landing"と称賛された。ギネスブックも猫最長降下の記録を確認し、国際的なニュースにもなった(参照)。
 現地ボストン・グローブ紙によると、この最長降下記録を更新した猫は、高層マンション、エマーソンパレス19階でブリタニー・カークさんと暮らすメスの「シュガー」である(参照)。
 その偉大なる跳躍に最初に気がついたのは2階に暮らしている女性だった。「今日は何か猫のようなものが落ちてきたわ」と思った彼女が階下に降りてみると、そこにドヤ顔のシュガーがいたのだった。

 他の階の住人も「猫降ってきたんじゃないの」とぞろぞろと階下に集まり、シュガーの偉業に驚嘆した。「ところで、どこの猫?」と集まった住民は気がかりになり、とりあえずボストンの動物救護会に連絡した。同居のブリタニーさんは19階の窓を開けたまま仕事に出ていたのだった。
 偉大なる着地を奇跡と呼ぶ声もあった。しかし奇跡なるものはこの世には存在しない。そこには猫の飛翔についての純粋な科学だけが存在する。ガリレオによるピサの斜塔の落下実験による誤解から物体は質量にかかわらず等速落下すると考えている人もいるが、現実の世界では落下する物体は空気抵抗によって一定の距離の落下後に、それぞれの落下物質によって異なる、一定の速度に落ち着く。これを終端速度と呼ぶ。ちなみに式はこのようになる。

 この終端速度を猫は落下時に本能的に計算し、落下面を調整して最適解を得ることができる。さらに猫は「落下猫効果」も適用する。これは、仮に猫の落下初期にひっくり返った状態であっても、全身の屈伸とひねりによって通常の猫状態に戻ることだ。数学的にも興味深い問題として研究されてきた。

 具体的に猫の落下終端速度はどの程度の速度であろうか。1987年に獣医のウエイン・ホイットニー氏とシェリルメル・ファフ氏が猫の終端速度について実験したところ、時速97キロであることが判明した。比較として人間の場合だと、その終端速度は時速193キロとなるとのことだ。なお、彼らどのような実験をしたかについての詳細な情報は得られていない。
 今回のシュガーの偉業だが、背景には近年、全世界の猫による類似の跳躍現象の増加がある。猫は今や飛ばずにはいられないようなのだ。この傾向について、高層ビル症候群(High-rise syndrome)という名称もついている。
 当然ともいえるが着地に失敗してケガをする猫もいる。生死に関わるケガの率は1980年代は10パーセントほど(参照)だったが、近年は高まっているようだ(参照)。

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101 Uses for a Dead Cat
Simon Bond
 なぜ、猫がハイジャンプを試みるのか。それはアスリートにとっては自明とも言える愚問かもしれないし、「好奇心は猫を殺す(Curiosity killed the cat)」と言えないこともないが、動物学的にはある程度合意した見解が得られている。
 バージニア工科大学で生態力学専門のジェイク・ソーチャ博士は、「猫は本来高い樹木で暮らす生物であり、猫にとっては、高い位置からの跳躍は自然な能力である。今後も高いマンションからの跳躍は試みられるだろう」とコメントしている。英国王立獣医大学のジム・アッシャー博士は「猫には、猫立ち直り反射(Cat righting reflex)と呼ばれる、落下空間での身体制御のほか、柔軟な内臓の仕組みなど各種、跳躍と着地を可能にする生体の仕組みが備わっている」とも述べている。
 ソーチャ博士はさらに、猫による偉大なる跳躍と着地能力は進化論的な自然選択の結果である("Through natural selection, cats have developed a keen instinct for sensing which way is down.")とも示唆し、その進化論的な意味を重視している。むしろ現代社会の猫は、高層マンションでの生活の一環として、また進化的な新しい環境適合として、種としての偉大な跳躍を試みているのではないかというのである。哲学者ベルクソンが「生命の跳躍("Élan vital")」と呼んだ生命の特質にも関係しているようだ。
 ケンブリッジ・トリニティ大学で進化論を研究するアレックス・サンダース博士も類似の意見を持っている。今回の猫の跳躍について彼は「猫はいずれ空を飛ぶようになるだろう」と予言している。
 猫は、鳥類とは異なる形態を経るものの、空を飛ぶような生物に進化している過程にあるのかもしれないが、対して人間はといえば、高層マンションに住む人間は出かける前には、猫を飼っているなら窓を確認することが望ましいだろう。


 
 

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