吉本隆明が亡くなった
吉本隆明が亡くなった。未明に地震があり、あの震源はどこだったんだろうと思ってテレビの音声を聞いているときに、訃報を聞いた。
まあ、お年だからなと思った。糖尿病を抱えヘビースモーカーで87歳というのは大往生の部類ではないか。彼の死についてはかねて理解している以上のことはないなと思って、ぼうっとしていたら、自然に涙が出て来た。ツイッターにも吉本の死のことは書くまいと思ったが、堰を切ったように連投してしまった。
僕は吉本さんに個人的に会うことはなかった。知人が吉本さんの本の編集などをしていたので会うこともできないものでなかったけど、まあいいかと思っていた。自分が若い頃、自暴自棄になって自分の学んだことをすべて放り出したいと思ってプログラマーになって、ヴェイユのひそみもあって工場でファームウエアのアセンブラプログラムとかしているとき、吉本さんの本の、宮沢賢治に触れたところで、知識人は知性を罪責と思い自分を滅ぼしたいと願うものだがそれはダメだ、というようなことが書かれてたのを読み、それではっとして人生の転機になった。それが救いのようなものだったかどうかは、わからないけど。
大学院にいた頃、教授の指示もあって反核ビラを撒いたことがある。世界から核兵器をなくそう、それがどんなにいいことかと思ったが、奇妙な違和感にぶつかり、それだけが原因ではないが、さまざまな青春の蹉跌といったものに遭遇した。その中心にある違和感のようなものは、その後、吉本さんの「反核異論」(参照)で心に形を作るようになった。吉本隆明の本を読むようになったのは、20代の後半、80年代半ばだったと思う。
パソコン通信を通して知り合った全共闘世代のかたから、その時代のことを伺い、そしてその時代に生きていた吉本隆明の姿も知った。雑誌・試行は新宿の紀伊国屋でも販売しているので毎号買っては読んだ。それから、どんどんと吉本隆明に傾倒した。たぶん、団塊世代的な吉本隆明への傾倒の、いちばんしっぽにあるのが私ではないかと思う。自負とかではぜんぜんなく、時代的な文脈で理解できた最後ということ。
吉本隆明がどういう人だったか。友だちの奥さんをかっさらって、60年代安保闘争で拘置所にぶちこまれ、70年代には昼寝をしていたという人。戦後、おまえさんはなにをしていたのかと問われたら、二人の娘をせいっぱい育てていたという以上はないな、と言った人。買い物かごをさげて、近所のスーパーでほうれん草をかっておひたしにし、味の素をふって醤油をかけるのが旨いという人。そういう人だった。そういう人であることの意味を問いかける人だった。
吉本隆明が格闘した思想家は、親鸞と夏目漱石を上げることも可能かもしれないが、なによりマルクスであったと思う。吉本隆明という人は思想的にはコジェーヴにも近いヘーゲリアンで現代でいうなら、フランシス・フクヤマに近い。だからその根から分かれたフコーを早期に共感から注目もしていた。しかし、なんといっても吉本さんの中心にあるのはマルクスである。千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠とも彼は評した。
吉本隆明が仮に戦後最大の思想家だとしても、千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠にかなうものではない。では、その巨匠の生涯というものは何か。吉本隆明は、「市井の片隅に生き死にした人物の生涯とべつにかわりはない」とした(参照)。
市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。
市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつはわたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである。
吉本隆明という人はその恐ろしさをずっと表現しつづけた。奥さんの和子さんは、そうした夫を、あなたの背中で悪魔の翼がばたばたと音を立てていると言った。そのとおりだろう。その和子さんがなぜ隆明を選んだのかというと、あの人は立ち小便をしない人だから、とも言った。同じことかもしれない。
千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠も戦後最大の思想家も市井の片隅に生き死にした人物と変わるものではない、ということはどういうことなのか。
そこから吉本隆明特有の難解さが始まる。彼の難解さには、東工大出の化学屋さんでニートになって遠山啓のもとでカントールを学びなおしたような、鳩山由紀夫風理系頭のせいもあるが、思想というものを、その人の自立に問い詰める本質的な難解さもある。
人間が知識――それはここでとりあげる人物の云いかたをかりれば人間の意識の唯一の行為である――を獲得するにつれてその知識が歴史のなかで累積され、実現して、また記述の歴史にかえるといったことは必然の経路である。
彼がカール・マルクスについて述べたその評は、そのまま彼の後の親鸞像に繋がっていく。知識がどこまでも高度化する往相が意味を持つのは、歴史の、無数の市井の片隅に生き死にした人物に帰る還相にある。余談だが、吉本さんの頭ではこれは化学のイメージで描かれているだろう。
思想家というのは、愚かなものでもある。が、幻想としての価値もあるのではないか。悪魔の翼をばたばたとはためかせて。
そして、これをみとめれば、知識について関与せず生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるものであると幻想することも、人間にとって必然であるといえる。しかし、この種の認識はあくまでも幻想の領域に属している。幻想の領域から、現実の領域へとはせくだるとき、じつはこういった判断がなりたたないことがすぐにわかる。
思想がどのように現実への小道を降るかが思想というものの課題である。ヒッキーが歌う「山は登ったら降りるものよ」である。吉本隆明は親鸞に触れ、それは人が渾身の生涯をたどれば不可避の一本道として現れるとした(参照)。ヒッキーなら「自分を認めるカレッジ・私の内なるパッセージ」である。
だが、その道を避けるのが知と呼ばれるものであり、生半可なインテリが夢想する知の擬制であり、市井への道を閉ざすことで形成された王国であり、知識人ぶって罵倒をコメントしまくる臣民が集う。
吉本隆明は、そうした風景に、柄谷行人や浅田彰、蓮実重彦、中沢新一らを置いた。前三人については、くずれインテリが崇拝するにふさわしい三馬鹿トリオと言った。それは吉本という食い詰め江戸っ子のユーモアでもあり、蓮実は苦笑しつつも、うっすら畏れた。
吉本隆明の著作は、多少なりともアカデミズムに触れ学んだものには、田舎素人の馬鹿丸出しに見えるものだ。が、それゆえに馬鹿と呼ぶものは馬鹿なんだということくらい蓮実は賢かったのかもしれない。中沢はその後、糸井重里の実質的な仲介で吉本派に転向し、吉本自身もそれを受け入れていたが、あれは、老醜というものだな。
宮台真司が出て来たときは、本当の馬鹿というものが現れたと吉本は言った。反面、福田和也は肯定的に評価した。いや、その馬鹿度は同じではないかと私はうっすらと思ったが、ネットの社会だといろいろご信者様の活動も盛んだし、私は吉本さんの芸風を継げるわけでもないので、しだいに口をつぐむことにした。
吉本さんは、80年代、急に知識人化したビートたけしを横目で見つつ、トークバトルでもしてみませんかと編集者に問われ、もう少し話芸を磨いてからと言っていたが、そこは年には勝てない部分があった。吉本さんの罵倒芸は、からからと快活に市井の人を笑わせるものがあり、それ自体が彼の思想の健全性でもあったのだが。
あのころ吉本さんは、吉本25時というイベントもやってみた。まあ、失敗でしょ。僕は行かなかったけど、行った知人に吉本、どうだったときいたら、ボートピープルみたいに舞台のわきでお山座りをしているのがよかったよと言っていた。いいかも。いやいいな。その横にじっと座っていたいものだ。
死というものを問い詰めた吉本さんだが、現実的には死は無だと言っていた。幻想としてはそうでもないのかもしれない。
ありがとう、吉本さん。倶会一処。
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コメント
国家もマルクスも吉本も共同幻想だったんですなぁ。
投稿: みかん | 2012.03.16 21:15
どんなに賢そうにしても、どんなに偉そうにしても、ヤク中だとか、アル中だとか、ヘビースモーカーだとかいうことは、所詮は心の弱い人に過ぎないということですよ。これは本当のことですよ。
投稿: enneagram | 2012.03.17 11:01
吉本さんが一人日本の言論界にいたという事実は、私にとっても重要な事件であり続けています。本感想は、私が新聞記事以外で唯一読んだ感想でした。
投稿: ボンボン太郎 | 2012.03.17 17:45
心と知性とは、そもそも別物なのでは?
心が弱くても知性の高い人はいるし、
心ばっかし強いオバカさんもいます(笑)。
どっちが良いかと言われたら、断然前者の方が、良い。
投稿: もんぱ | 2012.03.17 19:44
自慢ですが、吉本氏に間近で遭遇したことがあります。
溺水事故を起こされる少し前のこと、万世橋の先の靖国
通りの交差点で、ふと前から来たママチャリを漕いでた
のが吉本氏でした。
これが旧左翼に威勢よく啖呵を切りまくっていたのかと
思わせる江戸っ子のオーラが漂ってました。
ご冥福をお祈りいたします。
投稿: t_f | 2012.03.18 13:37
日本人は思想したかという鼎談は糸井と関係ないでしょう。もっと前です。
投稿: | 2012.03.20 09:18
心が弱い、
はしかし良いとか悪いとかはないと思う。
投稿: | 2012.03.25 16:53
吉本隆明氏が美学とか文芸とかに傾倒していたのは、ゲオルグ・ルカーチの影響もあるのではないですか。
谷沢永一氏に論争で敗れたのも、そのあたりが自分のものにしきれず、ルカーチの借り物のままだったことにも原因があったのではないかと、今なら想到できます。
アントニオ・ネグリは、グラムシの後継者なのでしょうか。切り離して、ネグリはネグリとして扱うこともできるとも思います。ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズをあつかうとき、必ずしも、ルイ・アルチュセールをセットにはしません。
投稿: enneagram | 2012.07.18 06:32