[書評]Living With the Himalayan Masters: ヒマラヤの師匠と暮らした日々(Swami Rama: スワミ・ラマ)
米国では有名なヨガ行者スワミ・ラマ(Swami Rama)だが、あまり関心を持ってこなかった。ビートルズやミア・ファロー、カート・ヴォネガットの先妻などがかぶれたTM(超越瞑想)のマハリシ・マヘーシュ(Maharishi Mahesh)や、あのヘンテコ衣装とかでもオウム真理教に影響を与えたかに見えるバグワン・シュリ・ラジニーシのような類型ではないかと私は思い込んでいたのだった。ニューエージ思想に関連したインド思想は敬遠していた。
反面、ラーマ・クリシュナ(Ramakrishna Paramhansa)やラマナ・マハルシ(Ramana Maharshi)、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda)、オーロビンド・ゴーシュ(Aurobindo Ghose)などそれ以前から日本読まれてきたインド思想家の著作・言行録などは特に違和感もなく読めるものは読んできた。
その中間的とも言えるパラマハンサ・ヨガナンダ(Paramahansa Yogananda)の著作では「あるヨギの自叙伝」(参照)が面白いと思ったし、コルカタを旅行したときは、ラーマ・クリシュナとパラマハンサ・ヨガナンダのゆかりの地の訪問した。関係者にお会いもした。
とはいえこうしたインド神秘思想みたいなものに、全般的には一定線以上心惹かれることもなかった。しいて言えばジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)はかなり傾倒したし、ヨガはB.K.S.アイアンガー(B.K.S. Iyengar)のメソッドを米人から学んだりしていた。
![]() Living With the Himalayan Masters Swami Rama |
本書だが、なるほど面白い本だった。書名のとおり「Living With the Himalayan Masters: ヒマラヤの師匠と暮らした日々」が描かれている。基本となる話は、スワミ・ラマが少年から一人前のヨガ行者となるまでの物語である。読んでみると、日本人からすれば、ヨガの行者というより、お寺のお坊さんと小僧さんの日常というイメージに近い。寺に預けられたやんちゃ小僧がお坊さんになる物語でもあり、一休さんみたいな逸話も出てくる。
ヒマラヤ地方の自然や暮らしなども描かれていて、それらも興味深い。もちろんと言うべきなのだろうが、聖者や奇蹟の話もいろいろ出てくる。サイババみたいな聖者はヒマラヤにはいろいろいるようだ。
小僧が師匠のもとで学ぶ話で、しかもヒマラヤ、というと、チョギャム・トゥルンパ(Chogyam Trungpa)の「チベットに生まれて―或る活仏の苦難の半生」(参照)を連想する。神秘思想がどのように僧院で指導されているのか、その教育システムはどうだろうか、とも関心を持った。が、そうした面は本書には、あまり描かれていない。むしろ、小僧がお師匠様から言われていろいろ旅して、あちこちの聖者に会って学んだという話が多い。言葉や書物による指導ではなく、聖人と一対一に学んでいくといくのが「知」のシステムとなっているようだ。そうした点では、グルジェフの「注目すべき人々との出会い」(参照)にも似ているし、たぶん、グルジェフもこうした僧院や聖者との遭遇はあったのだろう。
スワミ・ラマのお師匠さんが、どこそこの師匠に学べ、とかいうとき、師匠同士はどうも「知」のネットワークを形成しているようにも見える。そしてそのネットワークは聖人とも関連がありそうだった。無名の聖人から、ラマナ・マハルシやオーロビンドなどもグラデーションのように描かれていたし、マハトマ・ガンジーもそのグラデーションに収まっている。
本書を読みながら懐かしく思ったのは、パラマハンサ・ヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」にも出てくるババジである。スワミ・ラマの師匠の師匠に関係しているらしいが、はっきりとは読み取れない。コルカタ地方を基点とした聖者伝説が曖昧に書かれているのかもしれない。つまりというべきなのか、マハー・アヴァターババジ(Mahavatar Baba)と同一視されているようでもある。たぶん、パラマハンサ・ヨガナンダの系譜の分岐点であるラハリ・マハサヤ(Lahiri Mahasaya)との関係もあるのだろう。
本書の最終部では、スワミ・ラマが師匠から指示され、師匠の師匠に会いにチベットに向かうという話がある。なぜ師匠の師匠がインドではなくチベットにいるのか、というのがよくわからないが、読みながらテオス・バーナード(Theos Casimir Bernard)のことも思い出した。
1906年生まれの米人バーナードは、1936年にインドに行ってヨガを学ぶのだが、短期間でハタ・ヨガを習得した後、その師匠からこれ以上の技法はチベットで学べと言われ、現在では紅茶でも有名なシッキムから、その地方のラマのつてでチベットの僧院に入り、そこで高度なヨガを学ぶのだが、年代からすると、スワミ・ラマ小僧時代と重なる。地域も当然関連している。
バーナードはその後、米人初のチベット仏教徒となるも紛争に巻き込まれて死ぬが、スワミ・ラマの本書でも、彼がスパイに間違われて身を危うくする話がある。おとぎ話のような物語が、リアルな歴史と接触する興味深い部分でもある。
そういえば、日本人初のヨガ行者中村天風が縁あって、ヒマラヤ、カンチェンジュンガで修行したのは1912年である。天風は師匠をカリアッパ聖人としているが、彼のヨガもスワミ・ラマのヨガに近いものがある。修行を脚色して描いた「ヨーガに生きる―中村天風とカリアッパ師の歩み」(参照)には共通点も多いように思えた。が、こちらの本は案外、スワミ・ラマの本などをネタにしていないとも限らないだろう。
本書の世界、インドの神秘思想、というといかにもインド的な、ヒンズー教の神話や古代仏教が論敵とした外道思想などを連想するが、キリスト教もけっこう出てくる。どうやら近世以降のヒンズー教的な世界はキリスト教と融合している部分がある。読みながら「なんじゃ、これは」という奇妙な印象も持ったが、歴史を振り返っても、インドと近世西洋キリスト教の関係は深い。そういえば、パラマハンサ・ヨガナンダの師匠でもあるスワミ・ユクテスワ・ギリ(Yukteswar Giri)も「聖なる科学―真理の科学的解説」(参照)でインド哲学と聖書の神秘の融合を説いていた。
インド神秘思想とキリスト教の融合といえば、よくあるシンクレティズムではないかと思いつつ、スワミ・ラマのヒマラヤ山中での洞穴暮らしや洞穴僧院などの記述を読んでいると、意外と初期キリスト教のほうがこれらに近いものだったのかもしれないと思えてくる。ギョレメ岩窟教会などの実際は、こうしたヒマラヤ隠者たちと類似していたのかもしれない。
本書は、スワミ・ラマの思い出話を散漫に詰め込んだという印象があり、実際の自伝の代替にはならない。スワミ・ラマは晩年セクハラ問題で訴訟を受けたり、また青年期に結婚していて子供もあったらしいことが伝えられているが、後者については本書にその仄めかしとも思えるような記述もあった。彼は30代まで、そしてたぶん結婚のころまでは、ヨガ行者というより学僧に近かったのではないか。南インドで古典の講師もしていた。彼はハタヨガに近いこともするのだが、どうもその体系で身体を鍛えたというよりボディビルもしていたようだ。もっともプロティンを取っていたわけでもなく、筋肉もりもりというものでもなそうだ。
本書の最終部では、ヒマラヤに戻ってヨガ修行を再開し、修行の集大成として、11か月の洞穴閉じ込め修行がある。すさまじい修行で、こういう逸話のパロディをオウム真理教もやっていたのだろう。
その後、彼はお師匠様の命令でドイツや日本、米国に派遣される。ほぼ無一文で世界に放り出されるという話だ。米国に拠点を作るための足がかりで日本で半年過ごしてもいた。その日本での仮拠点は"Mahikari"(真光)だった。
真光側の受け入れ担当は"Yokadasan"とある。「よかださん」とは不可解だが真光の指導者とあるので、岡田光玉のことだろう。スワミ・ラマの話では岡田がヒマラヤ聖者の幻視をしたらしいのだが、いずれにせよ、スワミ・ラマの師匠と岡田光玉とは繋がりがあったらしい。岡田側でそれらしい聖者を求めていたのか、それ以前からの繋がりかはわからない。岡田は戦中ベトナムにはいたがインドとのコネクションはなさそうなので、戦後の岡田の活動だろう。
岡田の「世界真光文明教団」の成立は1963年。スワミ・ラマが来日したのは、1969年になる。その後も、スワミ・ラマと真光の関係は続いたようだ。岡田の仲介もあってから、カトリックとの接点もあり、スワミ・ラマは上智大学で講演などもしていた。
![]() 次元の超越者スワミジ ヒマラヤ聖者の教え (超知ライブラリー) |
つまり、「Living With the Himalayan Masters: ヒマラヤの師匠と暮らした日々」の続編として読めてしまう。本書は、さすがにスワミ・ラマのお弟子というだけあって、スワミ・ラマの書籍のような奇蹟溢れる愉快なトーンで書かれている。すっかり心酔者の視点である。文学的な面白さはなく、そのまま読むとトンデモ本という印象もある。が、同時にスワミ・ラマの、テニスを愛好するといった近代人らしいようすも描かれている。
こちらの本も面白いかといえば面白いし、スワミ・ラマとメンニンガー財団との関わりなども興味深い。こちらにも真光との関わりが描かれている。というところで思ったのだが、スワミ・ラマは真光と関係があるために逆に日本ではさほど紹介されなかったり、運動にもならなかったのかもしれない。
あるいはそうではないかもしれない。
![]() Path of Fire and Light |
スワミ・ラマに関連する興味から、実際に彼がどのような思想をもっていたのか、どのような教説を展開していたのかも関心をもったので、ついでに、「Path of Fire and Light(火と光の道)」(参照)とその続編の「Path of Fire and Light Volume 2」(参照)も読んでみた。
「Path of Fire and Light」は、主にプラナヤマ(呼吸法)の解説だが、冒頭にこの本は上級者向けなので指導者なくして実践しないようにと注意があった。そこでどんな高度なプラナヤマが説明されているかと思うが、技法としては日本で流布されているヨガの本を大きく超えるものではなく、B.K.S.アイアンガー「ヨガ呼吸・瞑想百科」(参照)でカバーされている。が、説明についてはなるほどと思えるタントラ(密教)身体学的な観点が維持されていて、技法の意味がわかりやすい。ただし注意されているように、指導者なくこれらのプラナヤマを修行するのは危険だろうなとは思った。
![]() Path of Fire and Light Volume 2 |
スワミ・ラマがこれらを教えたというのはわかるが、そのスクール(学派)でないとわからないことが多い。もうちょっとなんとかならないものかと、スワミ・ラマ系のヨガの入門書「Moving Inward The Journey to Meditation:内面に向かう。瞑想への旅(Rolf Sovik)」(参照)を読むと初心者向けの実践がやさしく書かれていた。というか、ここまで読んでみて、なんとなく全体像がわかるように思えた。
わかってどうよ、オカルトなんか意味ないじゃんといえばそれまでだが、十万遍・百万遍念仏の意味やら、葬式の道具となってしまったお数珠だがその修行上の使い方などもタントラの文脈で理解してみると、昔の日本人なら普通に知っていた修行だったのだろうと思えて、じんとくるものはあった。
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コメント
最近のインドの神秘思想って、インド土着の部分は剽窃的で、キリスト教の影響を中途半端に受けていて、浅薄なものが多いのではないですか。
グルジェフには、中国的な要素が希薄なので、やはり偏っていると思います。これは、ルドルフ・シュタイナーも同様。シュタイナーには、イスラムの影響さえほとんどない。
チベットには、インド的なものも中国的なものも含まれているから、こちらのほうが知的には豊穣だと思います。
インド的要素、中国的要素、日本的要素が一番バランスよく混在しているのは、日本の道元禅師の曹洞宗ではないかしら。スティーヴ・ジョブズが参禅したカリフォルニアのマスターは、曹洞宗の禅僧だそうです。
投稿: enneagram | 2012.03.10 07:58