清史を必要とする中国共産党王朝
中国共産党が正史として清史を書くという。なんとも笑えない冗談のようでもあるが、冗談ではない。清朝が滅亡した1912年から期年を設定し、2003年から清史工程として推進されていた。今年終了するらしい。発表は来年であろう。
いつの時代でもその時代の価値観に沿って歴史が書かれるのは、ごく当たり前のことに思われる。何が起きてもそれが重大事件であれば歴史として記されるようにも思われる。だが、中国の正史というのは現代人の考える歴史とは異なる、ある奇妙な物語である。一言で言うなら、中国における正史とは日本における天皇のようなイデオロギー的な幻想であり、ちょうど天皇と等価な存在だろう。
史記を著した司馬遷以来、中国の正史は「正統」を明示するための論証の目的を持っている。その時代の皇帝が天命を受けたことの証明である。司馬遷の場合は武帝が皇帝であるという弁証でもあった。皇帝はひとりでなくては正統とは言えないので、皇帝自称者が三人いるといったことは正史には許されない。反面、皇帝の存在証明以外の事象についてはさほど重視されない。
正史の原点となる史記は、神話的な古代を虚構しその時代の現代である漢の武帝までを通史として描いた。史記に続く正史・漢書は、しかし、高祖から武帝を経て王莽までのみの漢代を描いた。史記は通史であったが漢書は一王朝を記す断代史となり、以降、断代史の連鎖が正史となった。これには正史というものの本質に関わる理由がある。
漢書のテーマは王莽という皇帝の弁証であった。その必要があったのである。というのも、王自身は新という新しい王朝を開いた。しかし、漢書を描いた班固は、それを漢の正統するために、また自身の出自の家系を高めるために、さらに彼の信奉する儒教理念のために、正史を必要とし、漢書が出現した。正統を主張するために正史が書かれるという、まさに中国正史の基本が確立した。以降、その時代の現在の皇帝の正統と存在証明が「正史を書く」という意味になり、中国を呪縛しつづけた。
中国共産党にしてみると清史を書くことは中国共産党王朝が天命によって清朝継承した皇帝を頂く王朝であるということの宣言ということになる。
日本には、勝てば官軍という考えがあるように、時の権勢者が自分の都合のいい歴史を書けばいいのではないかと自然に思うものだが、正統と儒教の縛りをもった理念は中国の正史に厳しい制約も課していて、この理念(正統)を現実を当てはめることが正史の課題となる。極言すれば事実を記載し歴史を書くのではなく、理念に合うように歴史を描かねばならない。それが当然無理を強いることは後漢書を継ぐ三国志から明白になっていった。
三国志の扱う時代、魏呉蜀が存立したが、正史ではどれかを正統としなければならない。どうするか、建前上は正統であることの内的な弁証から導出するのだが、現実はそうもいかない。その時代の次の王朝である晋が正統であることから、バックトレース(後付け)して魏が正統になった。
このため呉蜀には皇帝はいないことになるのだが、三国演義でも有名なように蜀の劉備は皇帝を称していたし、劉備は蜀ではなく正統の表明として漢を旗としていた。正史からはそれは認められないので蜀とされている。妥協して蜀漢ということもある。
中国共産党王朝は三国志の時代と似た状態にある。他二王朝は日本と台湾である。日本について国連(連合国)のタガをはめて中国の王朝と対立をしないしくみができたし、いまなおその対立を懸念したキャンペーンはネットなどでも展開されているようだが、日本朝は清朝のように中国にとっては外来王朝でもあり、近しい問題でもない。問題となるのは台湾のほうであり中国国民党である。
中国国民党が王朝を志向していたかについては、はっきりとはしない。もともと清史が話題になる発端は、袁世凱が皇帝即位の思惑をもってはじめた清史事業による。この清史は完成することなく清史稿と呼ばれている。清史稿は中国国民党の正統を証明するものでなかったが、国民党は清史稿を改訂した清史を1961年に刊行した。共産党王朝としては、国民党による清史の存在は許せないものでもあり、新しく清史を起こす必要が生じていた。
しかし現在の台湾からすれば清史はもはや歴史の遺物でありただの時代錯誤である。共産党と国民党は長く二朝として争っていたが、台湾では今回の総統選挙つまり大統領選挙で国民党が民進党候補に勝利したように民進党という強い対立政党があり、国民党も台湾という民主主義国の一政党となった。中国共産党という王朝の対立者としては解体されている。そもそも総統とは大統領であり皇帝でない。(この偉業を達成したのが李登輝である)。
もはや中国共産党王朝に対立する王朝など存在しないのだから、正史を書くことに中国共産党がリキまなくてもよさそうなものだが、それでも中国共産党王朝は民主主義国台湾を敵対する王朝だと見なしつづけている。昨今の中国国内の反米風潮や人権弾圧からは、民主主義そのものを共産党という王朝制度として対立するものと見ているようでもある。
ようするに清史というのは中国共産党王朝が現実認識できない誇大妄想にも思えるのだが、この妄想にはもうひとつ理由がある。中国共産党王朝は清朝を継承していると主張したいのである。しかし、これがまたひどい妄想としか言えない。
中国の正統の原理は、中国にとって外来王朝であるモンゴル王朝の支配によって根幹から崩れている。モンゴル王朝にとって中国はいわば植民地の一つにすぎない。モンゴル王朝には中国正史とはことなる正統のシステムもある。
そして清朝はモンゴル側の王統を受け継いだ王朝であり、中国の正史に連なる王朝ではない。チベットもウイグルも清朝に服していたが、中国の王朝とは直接的な繋がりがない。このユーラシア側の王統と中国正史的な元・明・清という見せかけの系譜は異なる。
どういうことなのか。
中国共産党王朝はこの外来王朝による植民地支配だった歴史の問題を正史的に解消して、清朝つまりモンゴル系統のユーラシア王朝を中国として組み入れたい――つまり自身がモンゴル帝国となって再現したいという欲望を持っている――というのが、清史作成のもうひとつの意味である。
当然、中国共産党王朝としては、チベットやウイグル同様、現在の中国東北部を含む満州(清朝の故地)も中国ということにしたいし、満州の地を歴史的に領土と主張するような他民族は許さないということになる。そこで現下特に危険視されるのが朝鮮民族である。
中国共産党王朝にしてみると当面は朝鮮半島内に朝鮮民族が自国領土して収まっているなら問題はない。ソ連の傀儡国家である北朝鮮の安定によって、ソ連が定めたように都合よく鴨緑江と白頭山で満州側に出てこない状態なら問題ない(参照)。
だが、韓国(南朝鮮)は、昨今、朝鮮民族はかつて渤海の時代に満州の大部を支配していたと主張しはじめている。
これが北朝鮮という蓋の解体から統一朝鮮の成立に向かえば、満州域の主権問題に発展しかねないと中国共産党王朝は懸念しているのである。いうまでもなく、中国にしても朝鮮にしても領土の主権の問題は歴史の正統の問題だとはなから思い込んでいる、現代の国際法に馴染まない国である。
この懸念を払拭したい中国共産党王朝としては、渤海は朝鮮民族の王朝ではなく唐の軍政機構であるとし、中国の地方政権であるという歴史を明示する必要があり、これを東北工作として推進していた。
韓国は中国共産党王朝史観に猛烈に反対し、2000年以降、中国と歴史問題を激しく争うようになった。韓国側としては、渤海は朝鮮民族の王朝であるということにこだわりたいだろうし、渤海史を経て満州全体を清朝史に納めようとする中国共産党王朝の正史に警戒している(参照)。
史実として、中国と韓国、どちらの言い分が妥当かというと、渤海の議論については現代史学から見れば中国の議論のほうが正しいようにも思われる。だが、その結果が清朝を継ぐ中国共産党王朝というのであればそれも奇妙な妄想的帰結である。
いずれにせよ、中国正史の流れから見れば、中国共産党王朝が倒れたら別の王朝が中国共産党王朝の正史を記すのだろうし、統一朝鮮が生じれば、北朝鮮に接する中国とロシアの国境問題は「歴史認識」をめぐって紛糾するようになるだろう。
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コメント
中共執筆の清朝の歴史でも、日本の記載は、「倭人伝」?
毛沢東が「資治通鑑」の愛読者だったそうだけれど、中国の歴史の本質の何たるかをまとめたこの書物の刊行された後に、金朝、元朝が成立して、「資治通鑑」を貫いていた中国史の一貫性が蛮族によって破壊されたわけですね。
そろそろ、「資治通鑑」の続編が書けるくらい、現代中国史も、ターニング・ポイントがやってきているようにも思います。
投稿: enneagram | 2012.01.17 16:07
中国の歴史認識に関する優れた論考だと思います。できれば、議論の根拠を出典などの形で明示してください。
投稿: itaruo | 2012.01.19 09:40