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2012.01.05

[書評]蜂蜜パイ(村上春樹)

 一昨日の晩なんとなくラジオを聞いていたら、少し気になる感じの女性の声で朗読があった。何だろうかと思ったがすぐにわかった。熊の「まさきち」といえば、村上春樹の短編「蜂蜜パイ」である。2000年に出版された「神の子どもたちはみな踊る」(参照)に収録されてる。声は松たか子であった。しばらく聞いて、そして結局その回を全部聞いた。翌日に続きがあったが聞き逃した。が今朝の最終回は聞いた。7日の午後にその二回分の再放送があるらしい。

cover
神の子どもたちはみな踊る
 一昨日の晩、途中だった朗読の先が気になって書棚から「神の子どもたちはみな踊る」を取り出し「蜂蜜パイ」を通して読んだ。
 村上春樹の短編集の中ではこれがもっとも優れているだろうと私は評価しながらも、最後に置かれているこの書き下ろしの「蜂蜜パイ」は失敗作ではないかとも考えていた(他短編は「新潮」連載)。だが、松たか子の朗読を聞きながら、そうは簡単に割り切れない部分と、今になって思い至ることがいくつかあった。自分でも意外だったのだが、最終回の最後の部分の朗読を聞いて思わず嗚咽した。
 以下、この話のネタバレもあるので、未読のかたにはご注意。
 「蜂蜜パイ」という話だが、さほど売れない36歳の純文学作家・淳平が、熊の「まさきち」という即興の創作童話を5歳の女の子・沙羅に聞かせるところから始まる。沙羅は小夜子の娘で、小夜子とその夫の高槻と淳平の三人は、大学の同級生でもあり親しい友だちでもあった。朗読では松たか子の声が小夜子のイメージによく合っていた。
 浪人して入学した一歳年上の高槻は、大学一年の新学期にすぐ淳平に友だちになるように声をかけた。小夜子へもそうだった。高槻を介して三人は友情を育んだといえばそうだが、そこには漱石の「こころ」にも似た三角関係がある。
 小説家を志向する淳平と英文学者を志向する小夜子は文学を介して通じ合う心情があり、それは恋愛感情とも言えるものだ。高槻はたまたま文学部に入ったが、後、新聞記者になるように文学への志向も感性もない。高槻も小夜子を愛していたし、早々に高槻と小夜子は性関係を結んだ。それを知った大学一年の淳平は動揺し放心もするのだが、小夜子からの懇願もあって三人は大学時代、また以降もずっと友情を保った。高槻と小夜子は結婚し沙羅を産み、離婚した。
 小説には明示されていないが、高槻は自身と小夜子との恋愛関係に淳平を必要とした。ポジション的にいえば淳平が「こころ」のKになる。だが、漱石の小説とは微妙に異なり、淳平と高槻には自死に追い詰めるような精神の純化といった倫理はなく、小夜子もまた性の欲望に無関係の存在としては設置されていない。その意味で言えば、小夜子は宇治十帖の浮舟に近く、高槻は匂宮、薫が淳平のポジションにある。
 いや、私は不用意な文学趣味をここで述べたいのではない。「蜂蜜パイ」の物語は、源氏物語や漱石文学と類型があることと、身体の性の欲望の意味合いを重視したいと思うだけだ。
 高槻が淳平との友情に小夜子を持ち込んだように、小夜子もまたその友人の女性を淳平の恋人に誘導したという短いエピソードがある。その女性で淳平は童貞を失うのだが関係は続かない。作品には明示されていないが、小夜子は淳平がその女性との関係を挫折するように仕向けたにすぎない。むしろそのエピソードにおいて高槻と小夜子の、大人としての性の欲望が示されるなか、淳平は彼らに愚弄されているに等しい被虐状態にある。にもかかわらず高槻も小夜子もその淳平を必要としている点で、端的に言えば、三人は性の病的な共依存の関係にある。
 この物語はある性心理の病理を描いているが、これが村上春樹文学の特徴の一つでもある。この病理の一つのバリエーションは短編集「螢・納屋を焼く・その他の短編」(参照)収録の短編「蛍」であり、これは後、長編の「ノルウェイの森」(参照参照)に発展して、病理に一つの形が与えられた。
 このバリエーションは失敗であった。それが「蜂蜜パイ」創作の意味になる。年代系列として言えば、「ノルウェイの森」に至る「蛍」の失敗が、もう一つのバリエーションとして「蜂蜜パイ」に至った。その意味で「蜂蜜パイ」の長編化も期待されていた。
 「蜂蜜パイ」を村上春樹の中・長編作系列に位置づけてみる。明瞭にわかるのは、「蛍」から「ノルウェイの森」に至るような発展長編がないことだ。年代的には「蜂蜜パイ」が執筆されただろう1999年には「スプートニクの恋人」がある。この作品の「ぼく」と恋人のすみれの関係は、淳平と小夜子の関係に似ているが、「蜂蜜パイ」の変奏ではない。ただ偶然だろうが、すみれは「ぼく」をKと記しているのが漱石の「こころ」の符牒にはなっている。
 2002年の「海辺のカフカ」(参照)は「蜂蜜パイ」を連想させないが、2004年の「アフターダーク」(参照)には明瞭な関連がある。「蜂蜜パイ」において、小夜子と沙羅を脅かす無名の存在は「アフターダーク」の主題となる悪意と同一である。「蜂蜜パイ」で、高槻と離婚した小夜子と淳平の性交中に、無形の悪意に怯えた沙羅が訪れた後の描写は明示的である。

 その夜、沙羅は小夜子のベッドで眠った。淳平は毛布をもって居間のソファに横になった。でも眠ることはできない。ソファの向かいにはテレビがあった。彼は長いあいだそのテレビの死んだ画面を眺めていた。その奥には彼らがいる。淳平にはそれがわかった。彼らは箱のふたを開いて待っているのだ。背筋のあたりに寒気がして、それは時間が過ぎても去らなかった。

 テレビが点けられ、「彼ら」の側から描かれた中編が「アフターダーク」である。しかし小夜子と沙羅の物語がそこに直接暗示されているわけではない。
 2009年を待って長編「1Q84」(参照参照)が発表される。この物語の、天吾と青豆の関係は、淳平と小夜子の関係が強く投影されている。「蜂蜜パイ」での、淳平と小夜子が初めて性交に及ぶ描写が、天吾と青豆の性交描写と酷似していることからでもわかる。
 引用はしないがその描写はさほど美しもなければ感興も催さない。三十歳を過ぎた男女が、童貞と処女のように、しかしようやく性の欲望に至るといった性交描写は、普通の性の感覚を持つ男女であれば、苦笑の対象でしかない。なのに村上春樹はそうした中年の男女の性の再結合を愛の物語として執拗に描いてきた。この作家はそれが成熟した大人にとって性の病理でしかないことが理解できていない。
 いや、そうした「純愛」が病理であることの一つの克服のプロセスが、「蜂蜜パイ」であると言えないこともない。その超克が「蛍」・「ノルウェイの森」を廃棄して「蜂蜜パイ」を創作した意味であると解することもできる。それは成功しているだろうか。そうは読めない。
 「蜂蜜パイ」の結末において、淳平は怯える沙羅と小夜子を守ろうとし、また小夜子に結婚を申し込もうとするが、他面において淳平は高槻の関係の修復を求めている。小夜子もまたそれを期待している。
 普通の大人であれば、それは沙羅という子との関係において望まれる倫理に過ぎないのだが、淳平も小夜子もその文脈も倫理も理解しているふうはない。少なくとも淳平は理解していない。淳平は沙羅の父となるという自覚はない。
 ぞっとするような性倫理の欠落が物語の根底にある。その欠落は再び漱石の「こころ」を想起される。「こころ」の終末が描くだろう光景を覚えている人はいるだろうか。それは「先生」の自殺ではない。Kと先生と先生の妻となった女の三人が並ぶ墓石である。「蜂蜜パイ」もまた高槻と淳平と小夜子が並ぶ墓石を描き出そうしている。
 私はここでゲロを吐きそうになる。そんなものは理想としたくもない、美しくもなければ文学ですらない、と。だが、その汚辱に似た感覚こそがまさに文学であるかもしれないし、日本文学であるのかもしれない。
 「蜂蜜パイ」の物語は、この私などには嫌悪しか催さない病理的な性関係の追究や、高槻と淳平と小夜子の愛情の再構築が、熊の「まさきち」と「とんきち」という童話の暗喩で、いわばメタフィクションとしても語られている。その関係を取り持つ象徴が表題でもある「蜂蜜パイ」である。
 メタファーの童話には、蜂蜜取りが上手で世慣れた熊の「まさきち」の話の後、鮭を捕るのが上手で世渡りの悪い熊の「とんきち」が登場する。安易なメタファーではないが「まさきち」は高槻であり「とんきち」は淳平である。蜂蜜はまさきちの愛情であり鮭は淳平の文学であろう。小夜子の位置は隠されているが、まさきちの蜂蜜がより付加価値のある「蜂蜜パイ」となる暗喩は、淳平の小夜子への愛と沙羅への家族的な愛ではあるだろう。
 童話でとんきちは動物園に送られる。世間的に孤独にそして心理的にも束縛され、短編作家に限界を持つ淳平自身の一つの自虐としても語られる。沙羅の無意識はそれを察して、まさきちの蜂蜜でとんきちが蜂蜜パイを作って売ればいいのではないかと提案する。小夜子と沙羅という家族愛を淳平が受け止めればよいという暗喩でもある。そこがこの物語のハッピーエンドへの転機を暗示する。
 その転機で物語はもう一つ、小夜子の乳房が象徴として出現する。かつて高槻と小夜子が性関係を結び淳平が懊悩しているとき、小夜子が淳平を訪問し抱擁し、淳平にその乳房を結果的に印象付けた。
 物語の転機では、沙羅の提案で「ブラ外し」ゲームをする。服を着たままブラジャーを脱いでまた急いで装着するという小夜子の一人ゲームである。この挿話はこの短編においてもっとも美しい装置になっている。
 物語において脱いだブラは装着されていなかった。そのことが、小夜子が淳平と性交に及ぶという決意でもあるのだが、実際に彼らの性交においてブラのない乳房が現れる描写は割愛されている。短編なので省略されたのかもしれないが、沙羅を襲う恐怖の場面で淳平がブラを発見するシーンとの整合ができなかったせいもあるだろう。

 眠るのをあきらめてキッチンに行き、コーヒーを作った。テーブルの前に座ってそれを飲んでいるときに、足下に何かくしゃっとしたものが落ちていることに気づいた。小夜子のブラジャーだった。ゲームをしたときのままになっていたのだ。彼はそれを拾い上げ、椅子の背にかけた。飾り気のないシンプルな、意識を失った白い下着だった。それほど大きなサイズではない。夜明け前のキッチンの椅子の背にかけられたそれは、遠い過去の時刻から紛れ込んできた匿名の証言者のように見えた。

 村上春樹の文学を体系的に読んできたものなら、このシーンからは「羊をめぐる冒険」(参照)を思い出すだろう。そこではブラではないが女の残した下着を椅子にかけてその不在が語られた。
 「蜂蜜パイ」のこのシーンではすでに淳平は小夜子との性交を終えている。ブラのない露わな小夜子の乳房を淳平は経験しながら、「それほど大きなサイズではない」として、ブラだけを、その乳房の不在のように鑑賞している。
 性衝動が単純であれば、ブラは乳房を比喩するだけであり、乳房をもった生身の小夜子への愛に至るはずだが、淳平はここでブラと不在の暗示に愛着を持っている。フェティッシュではない。「遠い過去の時刻から紛れ込んできた匿名の証言者」は、あのときの乳房、つまり高槻と小夜子が性関係を結んだ後に淳平に押しつけられた若い小夜子の乳房であるはずだ。
 だがこの文脈で淳平が想起したのは、若い日の高槻であった。嫉妬ではない。不在であり、消耗の暗喩である。

人生という長丁場を通じて誰かひとりを愛し続けることは、良い友だちをみつけるのとは別の話なのだ。彼は目を閉じ、自分の中を過ぎていった長い時間について考えた。それが意味のない消耗だったとは思いたくなかった。

 友情や友情にも近い若い日の恋愛感情が「人生の長丁場」に試される場に、高槻も淳平も小夜子も立たされた。高槻はそこで蹉跌し、小夜子と淳平はそこで再度決意したとも言える。もっともその決意は、「こころ」のような三つの墓石が暗示されてもいるが。
 物語のエンディングは1996年を指している。36歳の淳平と小夜子は1960年生まれ、37歳の高槻は1959年生まれであろう。朗読を聞きながら、私は初めてそのことに気がついた。彼らは私に近い年齢であった。これは私の世代の物語でもあったのだと思った。そして私もまたその年齢で「蜂蜜パイ」の物語に等しい大きな人生の転機があったのだった。自分の経験を記憶として辿るとき、そこに物語として問われるものがある。人は物語なくしてその問いを発することができない。「蜂蜜パイ」に向ける私の稚拙な憎悪と感動の混合はまさに現在の問いの形をしている。
 
 

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コメント

『「まさきち」は高槻であり「とんきち」は熊である。』の熊は淳平の間違いですかね。
あとは『美しもない』とか。

finalventさんの書評はいつも参考にしています。『あなたの人生の物語』なかなか良かったです。

投稿: nanoshi | 2012.01.06 11:02

nanashiさん、ご指摘、ありがとう。誤記、修正しました。

投稿: finalvent | 2012.01.06 11:43

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