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2012.01.07

吉本隆明の言う「精神の速度」について

 正月ぼんやりとだが、「精神の速度」ということを考えていた。もはや遠く過ぎ去った時代のこととして吉本隆明「完本 情況への発言」(参照)をつらつらと読んでいるとき、三分冊本(参照)の二巻(参照)と三巻(参照)の後書きが、2008年の2月と3月とで同一のテーマとして「精神の速度」だったことに気がついたのが、きっかけだった。

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完本 情況への発言
 「情況への発言」は分冊本の一巻が出たときに購入したが二巻は購入に失した。三巻はすでに宝島「情況へ」(参照)でカバーしていたので、私としてはいずれ二巻分だけ買えばよしとしてたが、完本もあってもよいかと思いなおして購入しておいた。
 「情況への発言」は吉本隆明の同人誌『試行』の巻頭に連載されていた、その時点の政治状況への提言であった。結果として1960年代から1990年代の、あるいは昭和から平成の歴史も兼ねているともいえる。『試行』は直接購読以外に紀伊國屋書店でも販売されていて、私は1983年から購入して読んでいた。完本として読むのと、状況の渦中で読むのとは随分違うものとも思う。
 吉本隆明の言う「精神の速度」だが、現在振り返ると2008年ころの暢気な時代の話題にも思える。あの頃、了解しづらい理由から、いじめ、親族間の殺人、無差別殺人といった殺伐とした事件が発生していは話題になっていたものだった。
 吉本隆明はこの了解しがたい殺人をもたらす「精神の蒙っている苛立ち(殺気だち)」の起源について、「影響力のある最新の産業の循環の速度がその地域の人間の精神の速度を決定する」ということを思索の基点に置き、そこから「その地域の人間の精神の速度がその速度に違和感をもっていれば、その違和感によって大小ざまざまな苛立ちを喚起するだろう」と述べていた。「そして限度を超えれば精神の失調として、あるいは疾病としてあらわれると考えられる。」とした。言うまでもなく懐かしい吉本隆明節である。
 吉本の思索の基点である「影響力のある最新の産業の循環の速度がその地域の人間の精神の速度を決定する」が、正しいかどうかすら疑わしいとも言えるが、吉本に傾倒した私だからということではなく、50年余も生きてみた人間としては、それは直感的にも正しいように思われた。
 自分なりに敷衍するなら、彼のいう「精神の速度」とはもっと平易に「人生観」と言い換えてもよいだろう。つまり、生まれ、誰かの子供となり、成長し性の開花を経て成人となり、子供をなし、老いて死ぬ、そういうプロセスを所定の手順または所定の速度の結実として了解する、その了解のしかただと言い換えてもよいだろう。
 子供は、いつの時代でもどの社会でも、残酷でしかないかもしれないのだが、「大人になったら何になるか」と問われるものだ。その問いのなかに、その文化における大人と社会、そして人生というプロセスが強制的に前提に組み込まれる。
 結婚はまさにその典型である。人はいつか結婚して、そして子をもち、父なり母なりとなる、とされる。「人間とはそういうものだ」という前提は、その成長を担保する「精神の速度」に依存している。
 すると吉本がここで言わんとしていることはなにか。前段は、人が人生のプロセスを了解できなくなる混乱・困惑によって精神の病理が起こるということだ。問題は後段である。それが、最新の産業循環によって引き起こされる、ということだ。そうなのだろうか。
 吉本はこの点について、「産業の速度はその地域で生産される製品の循環速度群の大きさの盛衰によって決定される」と述べる。吉本思想の文脈では「ハイイメージ論」に属するとは思われるが、ここではその迷宮に入る必要はないだろう。
 理解のために、逆に違和のない「精神の速度」を想定してみる。旧来の日本人の精神の速度を包括するアジアの精神の速度について、吉本はこう大きく補助線を引く。

種子をまき、苗を植え、収穫する時期も大凡おなじであり冬を農閑期とする循環も大凡変わりないところからアジアの人の平穏で温和で、停滞しがちな自然本意の性格が生まれた。

 日本人は、農耕だけと限定されないまでも四季循環の自然に生産の様式を沿うようにして精神の速度を形成し、そして人生の全体時間の概念をその内側に獲得するようになった。そう理解してもよさそうだ。
 この吉本のアジア観は、私にとっては原発事故以降の、あるもやもやとした精神の問題も深く抉り出した。簡単に言えば、福島を中心として農家が2011年の四季を通してどのように農産物を生産するのかということが、自分にとって常に喚起される問題意識でもあった。
 私はその自分の意識をいぶかしくも思った。極論すれば、食物など海外から輸入すればよいではないか。そもそも日本の弱小農家はすでに補助金による保護対象でしかないではないか。だが私の精神・感性はそれを肯んじはしなかった。
 四季の雑草を、樹木を、その花々を眺め、またそこに住まう昆虫や鳥・小動物のことを思わずして、私という人間は生の実感を得ることができない。その感性は、農業というものへの基底的な連結を有していた。反原発といったイデオロギーに私は同調はできないが、その、敢えて言うなら精神の病理は、吉本のいうようにアジアの精神速度というものからすれば、必然的な帰結でもあったことは理解できた。
 TPPへの反感についても、農協などの政治的な仕込みを除いても、農業の神話性をそう単純には棄却できはしないだろうとも思った。農業をすることが生きることであり、大地の生産物を消費することがまた生きることであるという、アジアの精神性は両義的でありながら、依然強固なものである。
 私はここで、吉本のいう最新産業の速度と原発事故を同値しているが、それは以上のようなアジア的なるものへの理解からすれば、されほど乖離したものでもないだろう。
 留保しなければならないのは、吉本のいう精神の速度と生産の速度が問題の基点だというなら、それはそもそも工業生産そのものが本質的に持つ問題である。では、現代・情況の課題として特化できるだろうか。
 この点について一つの前提は、日本にありがちな農本ファシストまたは農本ナショナリストとしての左翼といったものを除外すれば、工業化こそが資本論のマルクスにおける人間の最大課題であったことだ。人がプロレタリアートとして生産手段を奪われた存在となることが資本論の前提であり、社会主義は工業化の達成の自己矛盾による止揚として提示された。
 吉本は明示してはいないが、現在の日本における、日本の理想の絵柄は、昭和後期の高度成長時代である。限定された意味であるが、本来のマルクス的な意味でのプロレタリアートが国家を――政治ではないまでも――経済的に専有した社会主義的な時代である。もっと簡単に言えば、日本人の人生つまり日本人の精神速度は、工業化のある段階までは耐ええたし、むしろそこからナショナリズムの再構築をほぼ完成したのだった。自動車産業に日本の威信を見ているといった神話の登場だったとも言える。
 別の言い方をすれば、実際は社会主義の一形態に近い日本型資本主義が、1980年以降、ポスト資本主義の生産様式に変化し、そこでの速度向上が日本人の精神病理を生み出したと言える。原発についていえば、その時代の忘れられた、浦島太郎の玉手箱のようなものでもあった。
 難解ではあるが、吉本のいう産業循環にもう少し踏み込んでみよう。

ある地域・国家(都市や地域共同体でもいい)のいちばん典型的でしかも最新鋭の生産設備(生産手段)を備えた産業(群)を取り挙げて、その生産者(群)から消費者(群)に時間を、たとえばAなる生産地域のAなる産業で生産されたAなる製品が、通信や交通の機関Aによって消費産業Aに交通運搬され、製品移送時間Aによって消費市場Aに移送され、そこから小売企業またはAの精算時から消費者の手に帰するまでの時間を製品の一循環とすればその平均値(または統計的平均)の値は手易く知ることができる。そのA地域(国家、共同体)の産業の循環期間はその地域(国家、共同体)のすべての精神的な労働行為に対する第一級の支配力の近似性をも容易に計算できるだろう。
 このようにしてわたしたちは日本国における精神活動と産業的循環の相互関係の実体を大過なく把握することができる。それは何人によっても、どんな社会勢力によっても左右されないし従属する必要もない計算できる問題。

 吉本は不用意に難解な書き方をしているとも言えるし、吉本らしい素直な考え方をしているとも言える。いずれにせよ、わかりづらい。
 簡単に言えば、製品が現れそれが消費者に届くまでの時間によって、特定の国家の産業速度が計測でき、その速度が雇用と消費意識(快楽)を規定するということだ。
 蛇足になるかもしれないが、吉本がこういう手順で考えるのは、この生産の速度が、精神の上部構造に対するマルクスのいう下部構造となるからである。いわゆる浮ついたイデオロギーに左右されることない思想の基盤を彼は常に前提に置いてきた。
 もっと簡単に言ってよいのだと思う。製品を生み出すために素早い速度が求められるなら、私たちの雇用は安定しない。また製品の素早さはその消費の素早さであり、私たちは快楽に翻弄され愛着した製品やサービスを持ち得ない。
 身近な比喩でいうなら、iPad3は中国で生産されアップルの発表の数日後に私の手元に届き、旧型のiPad2は玄関のデジタルフレームになる。
 そうした速度を持つ世界は私たちに、古典的な意味での人生の全体像を与えはしない。精神を大人から老人へと深化させることはない。大人とは権力か財力を所有することが問われ(それで性が交換され)る存在であり、老人とはただ若者から唾棄される老醜へと変化させらる。若者は快楽の速度に追われて自滅していく。
 私の粗暴な吉本理解はそうはずれてはいないだろう。吉本はこの文脈をさらにこうつなげていくからだ。

わたしの想像を遙かに超えた第一の要因は、消費産業(第三次産業)の担い手である通信・情報担当の科学技術と、その空間、時間の均質化とその能力である。


この情況はわたしなどの貧弱な創造力をはるかに超えた。ことに学的には少しの思いつきを追ったにすぎないと思えることが莫大な富の権力と結びつきうるという事態の怖さを見せつけた、とわたしには思える。

 ライブドアの事件やフェイスブックの興隆などを想定してもいいだろう。

 現在のことろ嘗て戦中にそうであったとおなじように、この情況に素直に無意識によろこんで乗っているのは、二十代、三十代の若者だけだが、この地域の空間と時間の無境界化の拡大に対応したり対抗したりする思考や思想もわたしたちはもっていない。古典的戦後の後進ナショナリズムが幅をきかせているのだ。

 ここでは、ホリエモン対亀井静香を想定してもいいだろうし、後進ナショナリズムは左翼と言い換えてもいいだろう。

凡庸な認知学がこれを謳歌し後押ししている。唯脳主義は名前を変えて唯〈お笑い家〉と合致する。

 ここは浅薄な科学・啓蒙主義や社会問題を心理機構に還元する学門芸者といったところだろう。
 こうして「精神の速度が病理をもたらす」という問題を提起した吉本だが、展望の暗示はしていない。浅薄な捨て台詞を吐く程度で終わっている。
 明白に言えることがあるとすれば、農本ファシストや農本ナショナリスト、つまり、左翼的な言辞で構成されたユートピアに未来などはないということだ。
 高速な産業循環を否定することなどできはしない。iPad3は普及するだろう。書籍のデジタル化が進まないのは、それが精神性の齟齬を起こす前線に見えるからであって、結果自体が描けないものではない。それは先行した米国の状態からでもわかる。
 この産業の高速化のなかで、人間が再び、その人生の総合的な意味を獲得することが可能なのか。私にはわからない。私について言えば、人間なのだから、そうする意外ないだろうというだけだ。
 そして吉本隆明から私が学んだ、人間が生物的に十分に人間である幻想領域が対幻想であるというなら、人はなんらかの形で家族を志向するしかないだろう。それは伝統的なものであるか血族を離れた連帯であるか、浅薄なイデオロギーを廃してなお根の深い部分で問われなければならない。
 
 

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コメント

ほんま、よく解りまへんな。
吉本さんなんかについては、単に無視すればよいように思われますが。

追って行っても得なことは無いでしょうに。

投稿: itaruo | 2012.01.07 22:27

ブロガー殿はコンビニエンスストアをどう思われるでしょうか?これはいいとこ取りの商売とも考えられないでしょうか?
個人的には2、3千種類の売れ筋といわれる商品だけを集めた業態の存在が専門店を淘汰してきた様に思います。今や東京ですら書店、文房具店、駅前食堂等は見かけなくなりました。
他にも現代型資本主義の前では多様性は失われドラグストアや食品スーパー等、何処へ行っても同じ物しかないつまらない世の中になった面がないでしょうか。
どうやら今の状態はポーカーの様なものであって何れ消費者がいなくなりこのゲームは縮小していきます。
工業の分野では大きな資本が必要な事が多く資本を集める為に株式会社制度が必要かとおもいますが、サービス業にはそもそも大きな資本は有害ではないかと思います。例えばコンビニが無くなれば、その数倍のビジネスチャンスが産まれないでしょうか?
グローバリゼーションというと国家間で起こっていると考えている方が多い様ですが、国内でグローバリゼーンが起こっている事を指摘をする人がいないのは何故なのか不思議に思っています。日本はある程度の規模がある国家ですので、産業の発展段階における解決方法は国内問題を起点に考えた方が理解し易い様に思います。

投稿: ヒロ | 2012.01.07 23:03

連投すみません。エネルギー問題についてですが、独裁制が崩れつつある中東やアフリカ経済をどう支えていくのか考えると原油主体にしていかざるを得ないのだと思っています。
クリーンエネルギーは中断の流れであり、それで問題ないと思っています。そうでなければ資源国も工業国を目指し日本としては更に困った事になるであろうとおもいます。

投稿: ヒロ | 2012.01.07 23:17

産業的循環の高速化と現代の精神病理の関係について着目し言及したのは、吉本さんが最初ではないでしょうか、たぶん。
吉本さんの深い洞察力から出てきた発言だと思いますが、この視点を深めて展開するには如何せん、吉本さんの体力も遺された時間も足りないでしょう。
ブロガーさんも含めて、今後さらに異なる観点から考察してほしいテーマです。それが吉本さんから幾ばくかを学んだ人たちの、吉本さんを最高の鞍部で越えることにもなろうかと思います。

投稿: トミー | 2012.02.06 21:26

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