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2012.01.30

[書評]男はなぜ急に女にフラれるのか?(姫野友美)

 先日ツイッターで「青春ってどうして青なんだろう?」というつぶやきを見かけた。現代で「青春」なんていう古語を使う人はないんじゃないか。というか、ポスト団塊世代の僕が若い頃ですら「青春」ってなんか自分より年が上の、団塊世代が使う、ねちょっとしたイヤな感じの言葉だった。
 でもま、なぜ「青」なのかというと、人生を四季に例えると、若い時代は「春」で、春は陰陽五行の考え方では「青」になるから、それをくっつけて「青春」。じゃ「夏」はというと「赤」だから赤夏、じゃなくて朱夏。朱に交わるわけよ。同様にお次が「白秋」、そして「玄冬」となる。
 かくして青春・朱夏・白秋・玄冬だが、高松塚古墳の壁画じゃないけど、風水の四神、青龍・朱雀・玄武・白虎にも対応している。朱雀といえば平安京など都の南門・朱雀門が連想されるが、朱雀は南を司る。白虎といえば白虎隊とか連想するがこれは西側の担当。
 ぐぐれば出て来そうな話をだらっと書いてしまったが、「青春」の時に「青春」なんて思いもしなかったが、今まさに白秋・玄冬という年になると、青春ってなんだったかなとは思う。そしてその思いの中核になるのが、なんで俺、ふられたんだろ?という疑問である。そんなことないっすか?
 もし人生において悩まなければならない難問があるとすれば、今生きるか死ぬかだ、みたいにカミュは「シーシュポスの神話」(参照)で書いていたけど、カミュがこれ書いたの20代。若いよ。だから46歳で死んじゃうんだよ。ってこともないし、けっこうイケメンじゃんなカミュにしてみると、なんで俺、ふられたんだろ?というのはそれほど人生の難問の部類には入らなかったのだろう。
 この難問。難問なんかじゃねーよ。鏡を見ろよ。歴然。といった解答もあるだろう。その他、女にもいろいろご都合があったんだろう。いいんじゃないか。本日は大安なり。女の気持ちを大切にして自由にしてやれよ。俺なんかといたって幸せになれるわけないしさ。てな解答もあるかと思う。納得したいわけですよ、なんか理由を付けて。
 でも、年ふるごとにどこか納得できない。縒りを戻したいとか、青春を返せみたいなファンタジーに浸るわけではない。なんか、こう、数学的に、というか、原理がわかれば誰もが納得する解というのを、私が見逃して今日まで生きてきたんじゃないかという感じがしてならない。ユークリッドの原論(参照)をきちんと読むと、応用問題に「男はなぜ急に女にフラれるのか?」とか載ってるじゃないか。
 男が女に交わり、同じ側の愛情の思いをπより小さくするならば、この二人の関係は限りなく延長されるとπより小さい愛のある側において交わることから、「男はなぜ急に女にフラれるのか?」の解が導かれる、とか。

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男はなぜ急に女にフラれるのか?
 ほいで、「男はなぜ急に女にフラれるのか?」(参照)という本を読んでみた。結論からいうと、わからなかった。
 つまらない本ということはない。アマゾンの読者評に「多くの男性と女性との気持ちがすれ違っている現代においては、適切なアドバイスをしている」というのがあるけど、たしかに、へえと思うことが多々あった。女にとってメールは「会話」、男にとっては「手紙」というのもそうなんだろうなと思った。そして私が若い頃、電子メールなんてものがなくてよかったなあと思った(ちなみに私が電子メールを使うようになったのは27歳)。
 ネタバレになるのを恐れるので、読んでみようその本という人は以下読まないほうがいいかもしれない。
 でさ、究極の難問、「男はなぜ急に女にフラれるのか?」だが、本書はどのように解答しているのか。
 本書の説明だと、男の脳はザルのようにその時その時の思いが流れてしまうが、女の脳はバケツのように不満の感情を溜め込み、それがある一定値になって溢れ出すと、「別れましょう」と突然言うのだそうだ。だから、ザル脳の男にしてみると、その状況からいくら理由を考えても、一定値にまで溜め込んだ蓄積がわからないというわけだ。
 なるほどねと思う。そうかとも思う。不満貯めてたんだろうなというのも、言われてみると思い当たらないでもない。
 ただ、それ、ちょっと違うかなという印象もある。そう思って読み進めると、「女が別れを切り出すのはすべて計算ずく?」という章があり、そこには、「孕む性」である女の脳は、妊娠・出産・育児の期間は稼げないという前提で、オスに経済的な支援を求める。よって、甲斐性のない男と見切られたら、サドゥンデス、別れましょうとなるらしい。ほぉ。別解。これもまた、思い出すとずきずきと来るものがある。
 女は不満を貯めていたし、男の将来性ががないのを見切ったと言われると、こりゃまったお恥ずかしい、くらいしか返答できないのだが、さて、それだけでもしっくりこない。さらに読み進むとこんな話もある。

お互いに自尊心が満たされない不満を抱え、自分の欲求ばかりを主張していては、どんどんズレが広がってしまうに違いない。そして、このままズレていっては、もう自尊心を保つことができないとどちらかが感じたとき、「別れ話」が持ち上がるのではないだろうか。
 つまり、別れるか、別れないということも、男と女の脳がその自尊心をどれだけ保てるかにかかっているのではないかと思うのである。

 これは不満バケツ説や将来見切り説よりも、ずんと胸に響く。「その男ゾルバ」(参照)の根幹的テーマである。女には自尊心があるんだよ。男より強いんだよ。自尊心のためには男を捨てちゃうんだよ。(でも、別れ話が持ち上がるあとは、男も女も自尊心なんてなんじゃらほの世界に突入してぼろぼろになるもんだがなあ。)
 というわけで、読んでいろいろ学ぶところもあったけど、根幹の問題はわからなかった。女が「孕む性」・「産み育てる性」で、男が「種をばら蒔く性」というのも、自分なんかにしてみると、ポカーンという感じはした。そういう男女がいるのは知っているけど、大半はそうでもないと思う、自分、関係ないし。
 「男はなぜ急に女にフラれるのか?」 いやいや、そういう局面で苦い思いをするのは、女だってそうじゃないかというのもあるかもしれない。
 そうかもしれないな。


 
 

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2012.01.28

米国の保守派と宗教の関係

 ネットを眺めていているとまるで日本人の多くが反米でそしてキリスト教が嫌いなのではないかという印象を持つことがある。しかし世論調査などを見ると日本人が反米ということはない。
 昨年の内閣府「外交に関する世論調査」(参照)を見ると、米国に「親しみを感じる」が41.4%、「どちらかというと親しみを感じる」が40.5%、「どちらかというと親しみを感じない」が9.1%、「親しみを感じない」が6.4%となっている。米国に好意的な比率は82.0%にものぼる。日本人は米国が好きであり、日本は親米国と言ってよそうだ。
 だが私の印象では「どちらかというと親しみを感じる」はそれほどその文言に即しているようにも思えない。実際のところ親米的な日本人は半数くらいなものではないか。そして反TPP議論やBSE問題などでネットに吹き出す反米感情は、1割くらいの反米的な日本人が大きく騒ぎ立てているのだろうと思う。
 キリスト教という宗教に対する日本人の意識はどうか。ネットでよく見かけるように嫌悪が多いんだろうか。
 これがよくわからない。そもそも日本にどのくらいキリスト教徒がいるのかもよくわからない。私のざっとした記憶では日本のキリスト教人口は5%だったが、最近1%といった記述も見かけ、そこまで少ないものかなと疑問に思った。この手の話題で国際的によく引用される米国資料(参照)を見ると2%とある。もうそんなものかもしれない。
 日本のキリスト教徒の人口が2%というと、マイノリティと言われるエジプトのキリスト教徒の人口である10%よりもさらに少ない。日本のキリスト教徒は名実ともにマイノリティだということになる。それゆえに、エジプトなどでは顕著過ぎるほどだが、どの社会にも見られるマイノリティの宗教の信者に対して見られるような差別感情があるかというと、さてどうだろうか。日本のキリスト教徒がマイノリティゆえの差別を受けているという認識を持っている人はいるだろうか。
 おそらくないだろう。だが、これも私の印象なのだが、日本人の多くはキリスト教を自身の宗教としては嫌っているようにも思う。それが2%というマイノリティに留まっていることの背景でもあるだろう。ネットの議論で米国のブッシュ大統領が嫌悪されたのも、そのキリスト教信仰が関係しているように思えたものだった。
 キリスト教信仰の一つ創造論(神が生物を含め万物を創造したという考え)に至っては、ネットでは非科学の極みとしてよく非難の議論を見かける。個人的な印象をいえば、創造論が非科学なのは、復活(死んだ人間が生き返る)というキリスト教の根本的な信仰と同じくらいなものなんじゃないかと思うが、後者(復活)が非科学的だという批判はあまり見かけない。印象でいうと、復活と処女降誕とか信じるキリスト教徒を知的に劣ったものとして、基本の部分で知的に軽蔑する日本人が少なくないのではないか。
 前振り話が長くなったが、昨今の米国の大統領選挙のニュースで、米国の保守派と宗教の関係について少し思うことがあり、書いてみたいと思った。日本だと米国の保守派は、イコール、キリスト教徒、というふうに理解されているのではないかなとも思ったからだ。
 端的な問いの形にしてみる。米国の保守派はキリスト教徒だと思いますか?
 これについては、保守派とキリスト教徒をそれぞれ定義して統計調査してみるとよいのだろうけど、たぶんそう上手な定義もできず、あまり意味のある答えも出ないだろう。というのも、福音派のような熱心なキリスト教徒もいれば、日本人が神道で結婚式して葬式を仏教でやるみたいな宗教意識にも近いキリスト教徒も米国にはいる。キリスト教徒かどうか、という大ざっぱな区分だけでは意味のある議論の区分にはならないだろう。
 もう少し日本人の感覚に近い問いに直してみる。米国では、熱心なキリスト教徒は保守派だろうか? 
 あるいは、熱心なキリスト教徒というとき、熱心な信仰を持つと想定できる福音派とカトリック信徒は同じ保守派になるのか?
 どう思いますか?
 結論からいうと、その傾向、同じ保守派になる傾向があるらしい。それが先日の、米アイオワ州共和党による大統領候補指名争いで、カトリック信者のサントラム元上院議員がロムニー前マサチューセッツ州知事を破ったことの意味のようだ。

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Newsweek
January 30, 2012
 なーんだ、やっぱり保守派は熱心なキリスト教徒ではないか、というか、そういう前提で日本では報じられる印象があったが、あのですね、福音派とカトリックが組むというのは、以前なら考えられないことだった。この関連の話を扱ったNewsweek(January 30/2012)「And what of the Jewish vote?」では、こう表現されていた。なお、同記事はネットに公開されていた(参照)。

A few decades ago, the idea of evangelicals rallying behind a Catholic would have been inconceivable. Antagonism between the two denominations ran too deep.

20年くらい前なら、カトリックを背景に福音派が集まるなんて考えは想像も付かなかっただろう。二派の反目はあまりに深いものがあった。


 福音派とカトリックがまとまってしまうというのが、むしろ、今日の米国の新しい状況であり、これが保守派というものを新しく性格付けている現象である。
 同記事では当然同様の視点から、ロムニー前マサチューセッツ州知事の信教、モルモン教も保守派として書いている。たしかにサントラム候補とロムニー候補が票を二分したという点ではそうだとも言えるが、逆に二分するほどモルモン教徒が保守派で嫌悪されている可能性も示しているようにも見える。
 これはどういう現象なのか。同記事では、現在、保守派に問われているのは、熱心な宗教性の有無だからとしている。
 そこからさらに同記事は、米国のユダヤ人は、実際には無宗教であるという話に移っていく。このあたりもややこしい。単純な話、ユダヤ人というのは民族の概念なのか、ユダヤ教徒という宗教の概念なのか。これが問われているのは次のような表現からもうかがわれる。

In fact, most American Jews don’t really vote as Jews at all. On many issues, in fact, they’re indistinguishable from atheists. They vote as secularists. The same red-blue divide that cuts through the rest of America cuts through Jewish America too.

実際のところ、米国ユダヤ人はユダヤ人のようにはまったく投票しない。多くの問題で、現実には、彼らは無神論者と区別が付かない。彼らは世俗主義者のように投票する。米国ユダヤ人の赤青(共和党と民主党)の差は他の米国人と同じである。


 当たり前といえば、当たり前だが、ユダヤ人票と言われると、日本人などはついイスラエルとの関係を前提にしがちだが、どうもこれもまたそうとも言えない。

Every four years, Republicans vow to use Israel to pry Jews from their nearly century-old allegiance to the Democratic Party. And every four years, they fail. The reason is that only about 10 percent of Jews actually vote on Israel (a country most American Jews have never visited).

四年毎、共和党は、100年にもわたる民主党とイスラエルの結束からユダヤ人を引き離そうと声高にイスラエルを使う。そして四年毎、失敗する。なぜなら、イスラエルで票を左右するユダヤ人はたったの10%なのだ。米国ユダヤ人の大半はイスラエル訪問すらしない。


 イスラエル寄りの姿勢で共和党がユダヤ人票を釣るということはないとしている。これについてはイスラエル・ロビーの問題を軽視しすぎているきらいもあるが、基本としては言えるだろうし、民主党が米国ユダヤ人と強固に結びついていることは他の事例でも明らかである(例えば、参照)。
 同記事には米国人と信仰の関係についての統計の引用もあり、これもまた興味深いものだった。

 左が神の存在を信じている民族・人種の割合だが、黒人やヒスパニックが高く、ユダヤ人が低い。右が各派教会・集会への参加率だが、やはりユダヤ人が低い。
 興味深いのは、「プロテスタント」が福音派とリベラルで別扱いになっていることだ。福音派の教会参加が約40%だが、リベラルはその半分の20%くらいだ。この差を多いと見るか、大差ないと見るかは意見が分かれるだろう。
 こうした統計から見ると、ユダヤ人のシナゴーグ(教会)通いは少ないもんだなとしみじみ思うが、食物規定のコシャ(Kosher)や結婚式などを通してユダヤ人を見ると、その宗教性は別側面があるのではないか。
 
 

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2012.01.26

エジプト軍部クーデターの失敗と「民主化」という責任回避

 大衆活動で陽動し革命を装ったエジプト軍部クーデターから1年、当初の軍部の思惑どおりには民主化の偽装が進まず、ムバラク元大統領の位置に座り込んだ軍最高評議会の実態(参照)も露呈し、反政府デモが続いている。NHK「エジプト 反政府デモ開始1年で」(参照)より。


 エジプトでは、去年1月、若者のグループによるインターネット上での呼びかけによって民主化を求める反政府デモが始まり、30年近くにわたったムバラク政権が、僅か18日間で退陣に追い込まれました。民主化運動が始まって1年となる25日、若者たちは再び国を暫定的に統治している軍に抗議するよう呼びかけ、全国の主要な都市で大規模なデモが始まりました。
 このうち、首都カイロのタハリール広場では、午前中から数万人が集まり、軍の統治はムバラク政権時代と何も変わっていないとして、即座に権限を手放すよう求めました。参加者からは、「軍は民主化を求める国民の声を聞かず、大きな過ちを犯した」とか、「軍は国の安定のためではなく、自分たちの権益のために動いている」といった声が上がっていました。

 今日の混乱は軍部クーデターという本質から容易に予想された事態であったが、各種報道、特に日本での報道からはあまり見えてこない、もう一つの予想された事態があった。軍部クーデターによって崩壊させられたエジプト経済の困窮である。これが深刻化し、いよいよ終わりが見えてきた。
 この予想は昨年10月「エジプト軍部クーデターから半年」(参照)でも言及してた。今回明暗を分けたのは、あの時点では国際通貨基金(IMF)からの30億ドル融資を断っていたエジプト軍部が、今回16日、32億ドル融資の懇願に出たことである(参照)。
 背景はエジプトの外貨準備がピークの360億ドルから100億ドルへ落ち込み、3月には尽きることだ(参照)。
 そのまま国家破綻という事態にまではならないが、エジプト通貨は落下し、さらなるインフレが襲うことになる。一年前のエジプト軍部クーデター以前よりも深刻な事態になるだろう。現状でも国民の六割を占める三十歳以下の若者の失業率が25%もあるがさらに悪化し、社会は不安定になるだろう。
 経済問題からエジプト軍部クーデターが実質失敗したことの帰結は二面に分かれる。
 一つは、軍部はIMFの融資を活かせないだろうということだ。今回軍部が融資懇願に至ったのだからそれなりの決断もあるかのように思えるが、どうやら逆と見てよい。簡単に言うと、軍部は経済破綻から混迷に至る結果の責任の回避に向かっている。21日付けニューヨークタイムズ「Egypt’s Economic Crisis」(参照)はその読みを示している。

Egypt’s military rulers are now realizing how big a threat the collapsing economy is — and they clearly don’t want to be blamed.

エジプトの軍指導者は現在、経済の崩壊がどれほど大きな脅威であるかを理解しつつある。そして、彼らは非難されたくないことを明確にしている。


 延長して言うなら、エジプトの議会や大統領選出といった一見民主化に見える現状は、予想される経済崩壊から軍部が責任逃れをする手段と変化しつつある。
 予想される経済崩壊をできるだけ事前に防ぐため、ついに軍部もIMFの融資懇願までは動いたが、その先、実際のIMF融資を受け、活用するのは実質ムスリム同胞団による政府になる。IMFもムスリム同胞団との対話に入っている(参照)。これが帰結のもう一面につながる。。
 IMF以外に西側諸国も経済援助の意思を表明しているが実質的な動きはない。ムスリム同胞団などイスラム政治の勢力がどのような国家経済の運営方針を打ち出すか疑念を持っているためだ。
 別の言い方をすれば、エジプトの経済困窮という状況なら対外融資を使ってイスラム勢力を抑え込むことが可能になると西側諸国は見ている。
 
 

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2012.01.24

カラダトレーナーを使ってみた

 ポラールの心拍モニターも持っているけど、もっと簡単に使えて緩和なトレーニングのモニターもあっていいかなと簡易な心拍測定器を探していたら、セガトイズの「カラダトレーナー」(参照)というのを見つけたので、しばらく試してみた。これはこれでいいんじゃないの感があった。どのくらい支持されている製品なのかわからないし、発表されてからけっこう経つようなので、後続機に期待を込めて書いてみたい。余談だが、最近流行のステマの記事ではないよ。

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カラダトレーナー
 「カラダトレーナー」とはまたベタな名前だなと思うが、音声でもっと運動しろとうるさく言ってくる感じを表現しているのかもしれない。
 外観はネック型ヘッドホンだが、装着感はそれほどよくない。上半身をよく動かすトレーニングだと落ちてしまうのではないか。
 装着し起動すると、ビッビッビッとリズム音に合わせてもっと運動するのが理想的ですなんたらと女性の声が片耳からする。もう片方は単三のアルカリ電池が入っている。電池は仕様では15時間保ち、取り換えはネジで開封する。重量は45g。ちと重たい。
 もうおわかりだと思うが、もうちょっとデザインやUIをどうにかできなかったものか感がある。これじゃ、おもちゃだ。だって、セガトイズだ。それはわかるにはわかるが。
 参考価格は5775円とあるがアマゾンで見ると970円だった。2008年に出たのでハイテク機の価格の降下としては穏当かもしれないし、だめもと感の価格に落ち着いているのかもしれない。
 対応する運動は、ウォーキング、ジョギング、エアロビクスの3種類だが、後者につれ、きつくなる三段階のようだ(参照)。
 起動すると、選んだ運動に合わせその運動時の心拍を定期的にモニターする。モニターは電池側の装置にあるクリップを耳たぶに挟む(痛くない)。耳たぶの毛細血管の血流変化を測定して脈拍数を計測する(が、脈拍数は表示されない)。
 この脈拍に合わせて適時な心拍数のゾーンを決めて、それ以下だともっと運動しろ(「リズムに合わせてもっと強く運動してください」)、それ以上だとしすぎだ(「リズムに合わせてもう少し弱く運動してください」)というメッセージになる。

 心拍数のゾーンは、安静時心拍数からカルボーネン法(Karvonen Formula)で計算している。
 そこで最初に使うときに、年齢設定や安静時心拍数の計測をするのだが、やってみると意外に難しい。添付文書にもあるが、メタボ解消にやってみようかなという中年は、装置に慣れるまでは実年齢より5歳くらい高めに設定するとよいようだ。つまり、最初は弱く。
 ウォーキングで試してみると、ウォーミングアップとして理想心拍ゾーンに接近させようと、もっと強くと促されるので、ついせっかちに歩くことになる。こりゃいかんと小走りっぽくすると、ウォーキングとしては心拍が上がりすぎ。自分がどのくらいの運動でどのくらい心拍が上がるかという感覚をもって、最初のウォーミングアップをしたほうがいいようだ。
 慣れてくると、上手にゾーンに入れる。そしてうるさいリズム音が消える(リズム音は言わば罰として機能しているようだ)。ウォーキングというのをマジで運動としてやったことはなかったので、こうしてやってみると通常の歩きでは十分に心拍が上がらないものだなと思った。
 ウォーキングなのだから、散歩気分で外を歩くのだが、いやこれ装着していかにもウォーキングでせこせこ歩くというのもなんだなと思い、通販生活で買ったエクサーのエアロビクスステッパーで使ってみた。ウォーキングに相当するように踏み込みを軽くした。余談だけど、このステッパー、もう10年も使っている。高いなあと思ったけど、これだけ長持ちするのはこの機種くらいじゃないだろうか。
 ステッパーで使ってみて、これも意外だったのだけど、気を許していると設定したゾーンをすぐに超える。いやそれでこそ運動でもあるとも言えるけど、緩和な運動で制御するとなるとゾーンを守ったほうがいい。そこで運動を落とす。このあたりの使ってみての感覚はポラールの心拍モニターのジョギングにも似ている(参照)。
 運動すると脳にエンドルフィンが出ると言われているし、それなりに研究もあるのだが、そんな大げさなと思っていた。が、これでゾーンを意識してみると、なるほど、ゾーンを越えようとするあたりで微妙な快感が圧している感はあるな。へえと思った。これが運動やり過ぎの元でもあるのだろう。
 運動時にiPodなど携帯音楽プレーヤーとの併用もできるとのことだが、安全を考慮して音が流れるのは片側だけとのこと。しかもこれがゾーンから外れたときはリズム音に混じる。なんだこれと思ったが、普通にiPodのイヤホンをしてこれを装着してもなんら違和感はなかった。まあ、二つ付けるとちょっとアホっぽいけど。
 後続機が作成されるのかわからないが、価格帯はもう少し上でもいいから、Nike + iPod(参照)のようにBluetoothでiPhoneやAndroidに対応するほうがよいのではないかな。あと、ゾーンを知らせる音も人間の音声じゃなくてアラーム音が選べるとよいと思うが。
 中年以上の人が健康管理に使うのであれば、小一時間個別指導を含めた講習会があったほうがいいのではないかとも思った。使い始め、何かとわからないことがあった。
 
 

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2012.01.23

[書評]アンジェラ・アキのSONGBOOK in English

 すまないな、ごくごく個人的な理由で好きではないんだ、アンジェラ・アキは、と言ってきた。嫌いではないよ。似たタイプの女性で痛い思いをしてきた青春みたいなものがあってさ、でも、曲のほうは、というと、うっぷす、これも苦手。「手紙~拝啓 十五の君へ~」とか聴くと、すみません、死にたくなります。

cover
アンジェラ・アキの
SONGBOOK in English
 いやはや自分でもどうかしていると思う。NHK語学番組「アンジェラ・アキのSONGBOOK in English」(参照)の第一回で、アンジェラ・アキが歌う、ビリー・ジョエル「Honesty」の英語のカバーを聴いて、感動に震えた。うまいなあ。声も歌唱も感性もいい。さらにこの講座で英語の先生が、はまり役過ぎ。すとんと惹かれてしまった。痛い思いをしてきたっていうのに。
 というわけでテキストの「アンジェラ・アキのSONGBOOK in English」(参照)も購入。わくわくな土曜日の夜。いやよく出来た番組。監修やっている大杉先生もさすがな味わい。
 それにそれにだ。選曲がもうもう涙もの。これ、俺の世代の青春ソングじゃん。アンジーのお母さんの青春の曲ではないのか? ご本人が選んだのか?

Honesty (ビリー・ジョエル)
Will You Dance? (ジャニス・イアン)
We’re All Alone (ボズ・スキャッグス)
Material Girl (マドンナ)
True Colors (シンディ・ローパー)
Without You (バッドフィンガー)

 ビリー・ジョエルの「Honesty」は、まあ、日本で行ったら演歌と言ってもいい。アンジーも番組で、恨み辛みの歌やねん、とずばり見抜いているあたりもよかった。ついでにビリー・ジョエルの近影も知った。
 前回の講座がジャニス・イアン。私の好きな歌手を5人挙げろ言われたら絶対に入れる歌手。その選曲が"Will You Dance? "というのもなかなかなもの。
 番組は英語の曲を通して若い学生さんが英語を学ぶという趣向でもあり、スタジオには20代前半くらいの若者が学生として集まっているのだけど、アンジーが「ジャニス・イアン、知っている人?」ときいて手を挙げた学生は皆無。そりゃな。そもそも、アンジーが知っているというのも不思議かも、と思って調べたら、どういう経緯か知らないけどお友達なわけだったわけか。すげーな。

Every woman is a story
Might not always have a happy ending
Every story has a history
And the past is always worth remembering

To all the women who have gone before me
To all the women who are yet to come
We all weave our separate stories
But from a distance they are one

We are a rainbow of faces
And a tapestry of songs
We all come from different places in this world
Though we are strangers when we meet
We are sisters when we're done
We are beauty, we are mystery, we are one
We are every woman's song

Every woman is a journey
We are always right where we belong
Hearts can guide us, hearts can blind us
Still we carry on

Thank you to the mothers and the daughters of my soul
To all the women I will never know
You have giving me a voice that I can call my own
You are beauty, you are mystery, you are one
You are every woman's song

We are a rainbow of faces
And a tapestry of songs
We all come from different places in this world
Though we are strangers when we meet
We are sisters when we're done
We are beauty, we are mystery, we are one
We are every woman's song
This is every woman's song

We're married in London
but not in New York
Spain says we're Kosher
The States say we're pork
We wed in Toronto
The judge said "Amen"
and when we got home
we were single again

It's hard being married
and living in sin
Sometimes I forget
just which state I am in
Thank God I'm not Catholic
I'd be a mess
trying to figure out
what to confess

My passport in Sweden
says I've got a wife
Amsterdam tells me
I'm partnered for life
but back in America,
Land of the free,
I'm a threat to
the national security

If I were a frog
here is what I would say --
It's hard being green
It's hard being gay
but love has no color
and hearts have no sex,
so love where you can,
and bugger the rest


 すごいね。
 話を戻して、今の学生さんたちジャニス・イアンを知らないと、それはそうなんだろうけど、"Will You Dance?"は聴いたことがあるかというと、何人か手が挙がる。はて? 
 調べたら近年CMがあったみたいだ。

 CMのコンセプトと曲調のノスタルジックな感じもわからないではないけど、これもジャニス・イアンらしい強烈な歌。そのあたりも番組でよく押さえていたし、例によって英語で歌うアンジーのカバーがすごかった。
 アンジーのカバー集が欲しいなと思う。日本語歌詞のは出ているのだけど、英語のままがいいなと思うんだが。

cover
SONGBOOK

 
 

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2012.01.22

[書評]円高の正体(安達誠司)

 日本はなぜ円高なのか。ずっと円高基調が続いているので疑問に思わなかったり、欧米での金融危機との関連で考える人もいるだろう。だが、円高のもっとも基本的な要因は何か、またそれがどういう意味を持つのかと考えるなら、本書「円高の正体」(参照)の解説がわかりやすい。

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円高の正体
安達誠司
(光文社新書)
 なにより重要なことは、日本の円高という現象がデフレの別相であることも明らかにしている点だ。その意味では本書の書名は「デフレの正体」と言ってもよいだろう。その書名をもって広く読まれた別の書籍の主張(人口減少によるとする主張)が間違っていることも示されている。
 本書は円高の仕組みを解説するだけに留まらず、日本にとって「良い円高」なるものが存在しないということを詳しく説明した後、円高の別相であるデフレの解消のための金融緩和政策に日本銀行が強く志向することも求めている。
 その点では、本書はいわゆるリフレ派と呼ばれる立場の主張を、新書の形式で手短に述べた冊子であり、従来からリフレ派の考え方に馴染んでいる人にとっては特段に目新しい主張はないと言ってもよいだろう。むしろなぜここまでデフレの正体と対処方法が描き出されてきたのに、日本の政治は機能しないのだろうかと暗澹たる気分を確認することにもなる読者もいるだろう。
 本書は円高の基本解説、その意味、さらに対処提言という一貫した主張で構成され、それは扉の「あと28.8兆円――」という一言のつぶやきに象徴されている。具体的に章を追ってみよう。
 「第1章 為替とは何か?」は、円高・円安といった為替のごく基本を扱っている。著者のエコノミストらしい現場の感覚がうかがわれるのは、銀行の為替業務の実態が為替差益を狙ったものであることを明記しているあたりだ。銀行以外の為替のプレーヤーも基本的に為替差益を最大にするように市場に参加している。
 「第2章 円高・円安とは何か?」と「第3章「良い円高」論のウソ」は連続して、円高・円安の基本をもとに、日本国の全体からすれば「良い円高」なるものは存在しないということを、「良い円高」論を排し、実際に日本が円高時に国民総生産が衰退する歴史事例を含めて説明している。
 俗論の例では、ヘッジファンドによる日本の通貨アタックまたキャピタルフライト(日本から資産が逃げる)も言及され、それらが起こりえないこともわかりやすく説明している。
 本書らしい議論が展開されるのは、「第4章 為替レートはどのように動くのか?」以降であり、経済学や為替の基本をある程度理解している人ならこの章から読み始めてもよい。本書は、通貨レートは長期的にその国の購買力平価に比例するとして、では短期的な変動は何によるかということで、マネタリーベース(中央銀行が供給するお金)から作成されたソロスチャートを提示していく。
 為替変動は長期的にはソロスチャートに沿っているとしても、2002年から2007年では、為替変動はソロスチャートでは説明できないとされてきた。この問題について著者は「修正ソロスチャート」を提示する。このあたりが本書で一番面白く感じられた。
 修正前のソロスチャートがはずれたかに見えたのは、著者によれば、量的緩和と銀行の投資意欲が整合しなかったことが原因だとしている。そこで銀行が資金として投資に回さない部分として法定準備金を想定し、そこを差し引くことでソロスチャートを修正すると為替変動と整合するようになったとしている。
 これはどういう現象か。著者は、中央銀行が断固たる意志をもって量的緩和を続けるというメッセージがあれば、銀行もインフレを予想し、その予想インフレによって投資が活性化すると見ている。予想インフレ率によって為替が左右され、そのことは同時に日本を衰退させるデフレを解消させるという議論になる。そしてこの予想インフレ率を変えることができるのは、中央銀行である日本銀行だけであるという議論が続く。
 「第5章 為替レートは何が動かすのか?」はさらに中央銀行と予想インフレ率の議論を深化させていく。この問題について、著者の考えが正しいことは、むしろリーマンショック以降の米国の中央銀行の金融政策によってほぼ証明されたと私は見ている。
 「第6章 円高の正体、そしてデフレの"真の"正体」では、具体的に日本のデフレを治療するために、マッカラム・ルールから具体的な数値として、名目2%成長のために、28.8兆円の追加が必要になるとしている。これにより為替も1ドル95円になるとしている。さらに78.8兆円の追加で名目4%成長となり日本はかつての成長を取り戻すとも主張している。これもおそらく正しいだろう。
 本書は最後に、リフレ派の反論としてよく見られる議論である「量的緩和はデフレ脱却には無効」論を排していくが、この議論はさほど新味のあるものではない。かくして本書はさらなるマネタリーベースの拡大を提言して終わる。
 私の感想だが、以上の議論は概ね正しいだろうと考える。だが、ではなぜこうしたリフレ派の議論が実際の政策に反映されず、なおデフレのどん底に突き落とすような増税に邁進する政権が存在し、また、少なからぬマスコミが増税を志向しているのだろうか。端的に言えば、こうしたリフレ派の議論には、本書にまだ語られていない弱点があるのではないか。本書からはそれるが、この機に少し述べてみたい。
 まず日銀が恐怖を抱えていることがあるだろう。2%から4%のインフレは団塊世代から上の世代にはパニックを引き起こすだろうと私は想像する。私は団塊世代の次の世代だが、あの高度成長期のインフレの時代の世相を知っているので経験的に理解できる。そのパニックからもたらされる怨嗟を日銀と政府が引き受けることはむずかしいだろう。
 次にデフレ解消を好まない層が政治力を持っている現実がある。インフレは結果としては増税と同じ働きをするうえ、実質的な富の再配分をもたらす。簡単にいえば、現在持てる者は減少させられるに等しい。つまり日本の資産の多くを握っている層にとってはデメリットもある。全体からすれば「良いデフレ」などありえないのにデフレによってメリット受ける層があり(箪笥にカネを置くだけで実質増えていく)、これが明確に現在の政治体制と結びついている。この層は、一つは先にも述べた高齢者世代であり、もう一つは社会不安から守られ所定の給与が維持される階層である。ごく簡単に言えば、公務員と労組の強い大企業、政治団体などであり、これらがまさに現在の民主党政権を担っている(自民党でも同様の部分がある)。
 さらに本書に直結する面で言えば、量的緩和だけで銀行の投資意欲を導くというとき、その議論のベースには本来なら日本が達成できる成長率の前提があり、それはそれで正しいのだが、それでも全体的に人口減少による需要減少、また生産減に結びつく労働者人口が減少していくなか、政府は積極的に公的投資から需要を掘り起こす必要もあるだろう。震災後の現下の状況を考慮するなら、国家による公的投資が効果的に推進されなくてはならない。無駄を省くことよりも将来の利得となる公共投資に政策をシフトするほうが重要なのだが、その具体性を現在の政府は持つことができない。
 以上のような問題を、まさに政治的な課題としていくには、高齢者や保護された労働者層に対して国民統合の視点から一定の痛みを理解してもらうこと、また並行して公共投資の倫理とルールも形成していくことが重要になる。その政治課題が前面に現れることになる。
 
 

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2012.01.21

民主党政権、終わりの風景

 「民主党政権はもう終わりだ」と息荒立てて言うつもりはまったくない。普通に終わっていく風景を、日本の心である、わびさびの情感をもって見守っていくばかりである。見渡せば花も紅葉もなかりけり民主党政権秋の夕暮れ、また、駒とめて袖うちはらふ陰もなし民主党政権雪の夕暮れ。
 昨日、読みようによっては奇妙な報道があった。産経新聞「行政刷新会議廃止へ 新組織設立に向け次期国会で法案提出」(参照)である。表題を見ると、行政刷新会議が廃止されるということのようだ。鳴り物入りのパフォーマンスだった事業仕分けも廃止にされるらしい。


 政府は19日、平成21年の政権交代以降、民主党政権の“金看板”として事業仕分けなどを実施してきた「行政刷新会議」を廃止する方針を固めた。消費税増税に向け、公務員人件費の削減や国有資産の売却など同会議が取り扱わなかったテーマを中心に、行政改革全般に取り組むため組織の見直しが必要と判断した。増税議論の本格化を前に「行政構造改革実行本部」(仮称)を立ち上げ、政府自らが「身を切る」姿勢をアピールする。
 実行本部は首相をトップに関係閣僚らで構成。行政刷新会議を「発展的に解消」(民主党関係者)し、財源捻出効果の少なかった事業仕分けも廃止する。


 行政改革担当相を兼務する岡田克也副総理は会議後の記者会見で「特別会計と独法でできることは精いっぱいやった」と述べた。
 行政刷新会議はこれまで3回事業仕分けを実施したが、昨年12月に民主党内に同調査会が設置されたことで議論の中心が党に移り、存在意義が問われていた。

 ほんと? いやいや、産経新聞一流のフカシ記事でしょう。行政刷新会議ではなく、「行政刷新会議」と括弧を付けているあたりが、格好付けといった洒落である。
 実際はどうかというと、17日付けFNN「民主党の金看板「事業仕分け」が廃止との一部報道 藤村官房長官「事実に反する」」(参照)は岡田副総理による否定の声を伝えていた。

 行政刷新を担当している岡田副総理は午後3時すぎ、「行政刷新会議を廃止するということは、全く考えておりません」と述べた。

 洒落の解説をするのも無粋だが、産経新聞でフカシて産経系のフジの報道でオチを付けたということだろう。
 とはいえ、民主党マニフェストの看板でもあった「行政刷新会議」と「事業仕分け」が実質、ナンセンスに終わったことは否みがたい。

 政権交代の推進力となったマニフェストだが、その中で金看板だったものが「行政刷新会議」、そして「事業仕分け」だった。
 動画投稿サイト「YouTube」にアップロードされている野田首相の映像が、今、大きな話題になっている。

 

 

 この映像について、自民党の谷垣総裁は、「YouTubeを拝見しておりましたら、野田さんが2年半前の(総)選挙で演説しておられました。『マニフェストに書いてあることはやるんだ』と。『書いていないことはやらないんだ』と。それはいったい、どう国民に説明されるんだと」と述べた。
 話題となっている映像は、野田首相が「マニフェスト、イギリスで始まりました。ルールがあるんです。書いてあることは、命懸けで実行する。書いてないことは、やらないんです」と演説しているもの。
 この映像での発言に、みんなの党の渡辺代表も、「今、マニフェストに書いていないことを、平気でやろうとしています。増税法案であります。何寝ぼけたことを言っているんだと言いたいですね」と、17日に批判していた。
 こうした中、政府は20日の閣議で、現在102ある独立行政法人を統廃合するなどして、およそ4割の65法人に減らすなどとした基本方針を決定した。
 しかし、廃止とするのは、大阪の万博公園の管理を行っている日本万国博覧会記念機構など7法人だけ。

 数の上では統廃合が見えないわけではないが、民主党マニフェストにあった「独法・特会予算などから約6・1兆円の財源を捻出」という点で効果が見えなかったことは、岡田副総理も認めざるを得なかった。20日付け毎日新聞「行政刷新会議:歳出削減額示さず 独法、特会改革案了承」(参照)より。

 政府は19日の行政刷新会議(議長・野田佳彦首相)で、特別会計を従来の17から11に減らし、独立行政法人は102から65以下に約4割削減する案を了承した。24日召集の通常国会に関連法案を提出する。ただ、肝心の歳出削減効果は「計るのが難しい」(岡田克也副総理兼行政改革担当相)と示さずじまい。

 ざっくり言って、民主党マニフェストは予想通り(参照)無残な失敗に終わった。
 では、どうするかというあたりが民主党政権終わりの風景の情緒である。
 とっかかりは、「行政改革調査会」である。
 これ、なんだかわかりますか? 私にはわからない。民主党マニフェストにも無かった変な物。わかるのは、これができたのは昨年12月13日だったということ。1か月ほど前にこさえた物。これに政調役員会で当時の岡田克也前幹事長を長に据えた。思えばこの時点で、改造内閣、つ・ま・り、岡田政権の骨格が決められていた。
 改造内閣では、岡田副総理が「行政改革相」と「行政刷新相」を兼務することになった。さて、この二つの違いは何? 15日付け読売新聞記事「行革相と刷新相、政府内からも「違い分からず」」(参照)がこの疑問を扱っていた。

 二つのポストが併存するのは初めてだ。いずれも行政の見直しを担当するため、政府内からも「違いが分からない」との指摘が出ている。
 藤村官房長官は13日の記者会見で、「行政刷新相は内閣府の行政刷新会議の運営を通じて行政刷新を行う。行政改革相は内閣官房で行政の抜本的な見直しを行う」と述べ、二つのポストの違いは所管する組織の違いだと説明した。
 野田首相は消費税増税に向けた行革の徹底を最重要課題に位置付けており、「金看板の行政刷新をおろすわけにもいかず、併存させたのではないか」と見る向きもある。

 読売新聞の読みでは、民主党マニフェストにある「行政刷新会議」の看板を下ろさないための修辞ではないかということだった。
 確かにその流れで事態が進んでいるように見える。テレビ東京「行革強化へ新組織 刷新会議と総務省部局を統合」(参照)より。

 行政改革に取り組む体制を強化するため、政府に新組織を創設する方向で、民主党が調整していることがテレビ東京の取材で判明しました。政府内で政策評価などを行う総務省の行政評価局と従来の行政刷新会議を統合します。民主党関係者によりますと、党の行政改革調査会の会長だった岡田副総理の指示で、政府内で政策評価などを行う総務省の行政評価局と従来の行政刷新会議を統合し内閣府に新組織を置く案が、民主党で検討されているということです。総務省の一部局に留まっていた行政評価や監視の権限を強い勧告権を持つ内閣府に格上げすることで、政府全体で行革に取り組む体制を整える方針です。消費税の増税のイメージが先行する野田政権が無駄削減に取り組む姿勢を強調する狙いがあり、早ければ2月中の関連法案の提出を目指します。

 テレビ東京のトバシの可能性はあるが、これまでの流れからは「行政改革調査会の会長だった岡田副総理の指示で、政府内で政策評価などを行う総務省の行政評価局と従来の行政刷新会議を統合し内閣府に新組織を置く」ということになりそうだ。となれば、冒頭の産経記事はフカシとも言えず、行政刷新会議と事業仕分けはこれで名実ともに終了になる。
 さよなら行政刷新会議だが、これは政権交代後、閣議決定で設置されたものだった。法的な裏付けとしてこれを含む政治主導確立法案が鳩山内閣で提出されたが、鳩山氏の奮迅が第22回参院選挙の結果に結びつき、成立見込みがなくなり、昨年5月の衆議院本会議で撤回された。この時点で行政刷新会議はもうどうしようもない代物になっていた。
 
 

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2012.01.20

米国民の5人に1人は精神疾患者

 米国の米薬物乱用・精神衛生管理庁(Substance Abuse and Mental Health Service Association)が19日、2010年度について米国民の5人に1人は精神疾患経験者だったという報告書を出した(参照)。随分と精神疾患者が多いものだと見ることもできるが、今回の2010年度の調査はその前年の2009年から特段に変化したわけではないので、ニュース性に乏しいと言えないこともない。しかし、英語圏ではそれなりに話題にはなっていた。
 調査は連邦政府機関が対面(ただしパソコンで回答指定)で行ったもので、在宅者また保護施設内居住者6万8500人がランダムで選択された。別の言い方をすると、路上生活者、過酷な任務に就いている軍人、囚人、病人は除外されている。判定には、アメリカ精神医学会のDSM-IVが採用されている。
 調査結果を見て、興味深いのは、年齢構成と性差だった。

 年代別には18歳から25歳までが29.9%ともっとも高く、いわば青年の3人に1人は精神疾患を抱えていると言ってもいいほどだ。26歳から49歳は5人に1人というくらいだが、50歳以上では14.3%と少ない。7人に1人くらいになる。
 2002年から2010年を通して見ると、精神疾患者の外来患者数では全体では7%減少しているが、若者層では増加しているらしい(参照)。ふと連想したのは、レディー・ガガの音楽はこうした層に向けての治療的なメッセージを持っているのではないかということだった。
 性差では、女性が23%で男性16%となっている。女性に精神疾患者が多いとは言える。が、これは精神疾患者の数というより、診断可能な数ではないかという疑念も持った。また、増加率でみると男性が高い。
 深刻な精神疾患者の比率は、5%ということで、これは例年比では増加しているらしい(参照)。行政上の注目はこの深刻な精神疾患者の数だろう。世代で見ると、やはり若者が高く7.7%。対して50代以上では3.2%と少ない。

 人種的な統計もあり、2系以上で9.3%と高く、ネイティブ・アメリカンなどが8.5%、白人が5.2%、ヒスパニックが4.6%、黒人が4.4%、アジア系が2.6%、ネイティブ・ハワイアンなどが1.6%。印象としては、文化的な背景の影響はありそうだ。
 こうした研究は日本の厚労省でもやっているのだろうが、さっとは思いつかない。全体の印象としては、日本だと人口における精神疾患者の問題というのは、いかにも社会の病理から政治の問題という文脈が自動的に形成されがちだが、米国の場合、保険の文脈で税負担の文脈に置かれているようだ。
 
 

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2012.01.19

英語ネイティブがよくする発音の間違い

 英語を母語とするネイティブでも英語の発音で間違いをするものだ。間違いやすい100の例が、AlphaDictionary.com(参照)にある。
 日本人から見て、面白そうなものを拾って、適当に分類して、コメントしてみた。異論もあるかもしれないけど、興味深い例もあるのでは。


他の単語の連想で発音を間違う

× affidavid  ○ affidavit(供述書)
 "affidavit"はカタカナふうに発音すると「アフィデイビット」だが、米人は名前の"David"の連想で「アフィデイビッド」と言いがちになる。

× expecially  ○ especially
 "expect"の連想からの間違い。

× expresso  ○ espresso
 "express"の連想から。

× nuptual  ○ nuptial(結婚式)
 "perpetual"などの影響だろう。

× pronounciation  ○ pronunciation
 "pronoun"から連想した間違い。

× reoccur  ○ recur
 "occur"から連想した間違い。

× volumptuous  ○ voluptuous(肉感的な)
 "sumptuous"(豪華な)の連想か。


英語で発音しづらい音の並び

× Antartic  ○ Antarctic
 カタカナふうに発音すると「アンタークティック」の「ク」を米人は落とすやすいようだ。そのために、"an arc of ants (an ant arc)"「蟻の弧」を想起せよとまで勧めている。

× bidness  ○ business
 ビジネスを「ビドネス」みたいに言う米人がいるらしい。そう間違えるのは、"business"の"i"の音は発音しないから。なお、日本人には「ビジネス」は"busy"と連想して覚える人がいるせいか、「ビジネス」と発音する人がいるし、村上春樹の小説にもそんなのがあった。カタカナ風に書くと「ベズヌス」。

× nucular  ○ nuclear
 この発音間違いはけっこう多いらしい。"nuke"と略すのもそのせいかも。

× fillum  ○ film
 間違いは間違いだが、米人は"lm"の発音が苦手で、"fiwm"のように発音することがある。


発音順の入れ替え

× aks  ○ ask
 よくあるらしい。

× revelant  ○ relevant
 普通によくある言い間違い。


シラブルの間に曖昧母音を挟みたい

× athelete  ○ athlete
 "athlete"は2シラブルだが、3シラブルで言う米人がいるらしい。

× dialate  ○ dilate(拡張)
 この発音間違いが起きる理由は、「ダイ」といった後に米人ネイティブはもう1シラブル曖昧母音が欲しい気がするから。

× fisical  ○ fiscal
 曖昧母音を挟みたくなるらしい。

× masonary  ○ masonry
 これも途中に曖昧母音を入れたくなる例とされている。"missionary"の連想もあるのでは。

× ordinance  ○ ordnance(軍需品)
 途中に曖昧母音を挟みたくなる。

× triathalon  ○ triathlon
 曖昧母音を挟みたくなる例だが、"l"の流音に引かれて曖昧母音が付くのかも。


早口の言い方が定着した

× cannidate  ○ candidate
 これはたぶん口語では普通に"cannidate"と言っている。

× close  ○ clothes
 受験英語的な間違いだが、実際の会話では同じ発音になると思う。

× Febyuary  ○ February
 発音は前者のであっている!

× fedral  ○ federal
 アクセントのない母音は落ちるので実際の口語ではこうなる。

× parlament  ○ parliament
 発音から"i"を略した例なのだが、元ネタでは"i"を発音せよと言っている。ほんとか?

× plute  ○ pollute
 普通に早口から来た間違い。

× wadn't  ○ wasn't
 ろれつの問題。


似た母音に入れ替わる

× chomp at the bit  ○ champ at the bit(落ち着かない)
 間違いというより、これは方言的な発音ではないかな。

× stob(杭)  ○ stub(切り株)
 意味も発音も違う。口語では発音は同じなのでは。


単語を誤解している

× The Caucases  ○ The Caucasus
 「コーカサス家」のような思い込みで複数に聞こえてしまうのでしょう。

× bob wire  ○ barbed wire(有刺鉄線)
 "barbed wire"を勘違いしたもの。だが間違いとはいうものの辞書にも"bob wire"が載りそうな勢い。

× a blessing in the skies  ○ a blessing in disguise(不幸中の幸い)
 駄洒落にみたいになってしまった。

× card shark  ○ cardsharp(トランプ詐欺師)
 英語だと語末の無声音はほとんど消えるので、米人でもこういうふうに聞こえてしまうのではないか。それと、"shark"の連想もあるだろう。

× chester drawers  ○ chest of drawers
 日本人からすると不思議だが、"chester drawers"という表現も定着しつつある。

× doggy dog world  ○ dog-eat-dog world(食うか食われるかの世の中)
 元の意味が失われて別の連想からできた例。

× For all intensive purposes  ○ For all intents and purposes(いかなる点でも)
 若者言葉らしい。

× Laura Norder  ○ law and order
 これはむしろ知っておくべき駄洒落。フィナンシャルタイムズとかにも"Laura Norder"は出てくる。

× take for granite  ○ take for granted
 "granite"(花崗岩)の連想が働くのだろうか。


別の単語と取り違える

× Calvary(磔刑)  ○ cavalry(騎馬隊)
 なんとなく古代の話で似ている印象はある。

× prostrate(平伏する)  ○ prostate(前立腺の)
 "prostrate"が間違いなのではなく、"prostate"の意味で使われるのが間違い。

× silicone  ○ silicon
 間違いというより、別の単語。半導体は"silicon"、偽オッパイは"silicone"。

× suit  ○ suite
 日本人だと"suite"を「スイートルーム」として"sweet"と誤解されがち。


ラテン語・ギリシア語起源の単語は間違いやすい

× diptheria  ○ diphtheria
 phを「フ」と読むことに気がつかないと、"dip"と区切りたくなる。

× excetera  ○ et cetera
 ラテン語から来たとわからないとそう聞こえてしまう。

× foilage  ○ foliage
 ラテン系の外来語は米人には苦手という例か。

× hi-archy  ○ hierarchy
 ギリシア語源の感覚がないとこう聞こえる。

× in parenthesis  ○ in parentheses
 これは単数形と複数形の間違い。「括弧」に入れるのだから、始まりと終わりが必要になるので複数。

× mawv  ○ mauve
 外来語は難しいの例だが、"mawv"だと「モーブ」と発音しそう。

× mannaise  ○ mayonnaise
 外来語の誤解。


アクセント位置の間違い

× elec'toral  ○ e'lectoral
 アクセントを3シラブル目に置くのは間違い。英辞郎の発音例は間違いではないかな。

× mis'chievous  ○ 'mischievous
 "previous"や"devious"の連想らしい。

× res'pite  ○ 'respite(猶予)
 カタカナ風に書くだと「レスピット」


文法の誤解から

× drownd  ○ drown
 過去分詞のedを付けたい心理が働く。

× heighth  ○ height
 これは"width"などの連想からでしょう。

× interpretate  ○ interpret
 "interpretation"から動詞を想定した間違い。

× long-lived(リブド)  ○ long-lived(ライブド)
 字面から「リブド」のように読みやすい。

× nother  ○ other
 "an other" や "a nother"から出るらしい。

× pottable  ○ potable
 "capable of being potted"と誤解しまうらしい。

× perscription  ○ prescription
 接頭辞の混乱。

× preemptory  ○ peremptory
 接頭辞の混乱。

× prespire  ○ perspire
 接頭辞の混乱。

× ostensively  ○ ostensibly
 "ostensive"から連想された間違い。


その他

× Old-timer's disease  ○ Alzheimer's disease
 発音の間違いではなく、言い方の問題。年寄りの病気と言うな、ということ。

× off ten  ○ ofen
 元ネタに"ofen"とあったが、"often"のこと。"t"を発音するかしないか。

× upmost  ○ utmost
 誤解もあるだろうけど、発音もあまり差がないのでは。
 
 

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2012.01.18

イヤホン装着歩行者の交通事故

 アイポッドなど携帯音楽プレーヤーや音楽再生可能なスマートフォンは、基本的にだが、音楽を聴くときはイヤホンを使うようにできている。通勤電車内、イヤホンを耳にして、音楽あるいは語学教材を聴いている人もよく見かける。電車内ならそれほど危険性はないだろうが、イヤホンを耳にして歩いている人やジョギングしている人の場合、交通事故に遭う確率は高まるのではないだろうか。米国で調査したら、なるほど高まるという結果が出た……というニュースがあったのだが、この話、ちょっとややこしい。
 報道の一例はAFP「ヘッドホンつけた歩行者が被害に遭う交通事故、04年以降で3倍に 米研究」(参照)である。


 ヘッドホンをつけた歩行者が被害にあった交通事故の件数が、2004年から2011年にかけて米国で約3倍に増えたとの研究論文が17日、英専門誌「Injury Prevention」に掲載された。
 論文によると、この種の事故の件数は2004年には16件だったが、2011年には47件に増え、04~11年の期間中の合計は116件だった。事故の半数以上は列車にひかれる事故で、事故に遭った人の3分の2が30歳未満だった。

 ありそうな話ではあるなと思う。他のメディアでは、CNN「ヘッドホンした歩行者を巻き込む事故、7年で3倍に 米調査」(参照)とブルームバーグ「ヘッドホン装着の歩行者:重傷・死亡事故、6年で3倍に増加-米調査」(参照)があった。
 元ネタが同じなので報道の基本事実に相違はないのだが、CNNでは「7年」、ブルームバーグでは「6年」という奇妙な違いがないわけでもない(ブルームバーグのミスか)。
 さて私が気になったのは……その内容以前のところから、二点。
 一つは、この話題が国内報道で見当たらなかったことだ。なぜだろうか。おそらく、米国の交通事故事情と日本のそれとは違うから、日本で報道する価値はないと判断されたのではないか。
 とはいえ、事故の背景にある、イヤホン装着による不注意が引き起こす交通事故というのは、日本ではないわけもないだろう。日本で同種の調査をすれば同傾向の結果が出そうなもので、その際には、報道はされるだろう。日本のどこかの機関で調査しているのだろうか?
 内容以前に気になった、もう一点は、すでに意図して混ぜてこのエントリーも書いているのだが、この三報道(AFP、CNN、ブルームバーグ)はすべて「ヘッドホン」の話であって「イヤホン」ではないということだ。交通事故が増えるのは、「ヘッドホン」の装着であって、「イヤホン」の装着ではない、と言えるだろうか?
 これも記事内容からすれば、音楽によって外界の関心がそれること(inattentional blindness)が問題なので、してみると、ヘッドホンでもイヤホンでも同じだろう。
 そのあたり欧米での報道の扱いはどうか。
 ニュースに添えられた写真で見るとどうか。いわゆるヘッドホンの写真もあるが、イヤホンの写真もあり、社会問題としてはイヤホンも含めていると見てよさそうだ。


WSJ


Guardian


Time

 ロサンゼルスタイムズでは" headphones or earbuds"(参照)として、イヤホンについての注意喚起もあった。ちなみに、イヤホンは英語では"earbuds"とも言う。
 内容に関心を移す。
 この話題、欧米では注目されたと言えるのだが、実際のところ、調査結果の件数は多いとは言えない。100件程度の調査にしかなっていないので、この結果はそれほど重視すべき問題でもないとも言えるのかもしれない。
 事故に遭う人にも偏りが見られた。事故被害者の年齢の中央値は21歳で、男性が68%を占めた。十代に事故が多いともいえず、また30歳以降に多いわけでもない。
 20歳くらいを中心とした事故の傾向がある。その意味はなんだろうか? 想像が付かないわけでもない。ナイキとアイポッドという、まさにイヤホンを装着してジョギングを励行する商品などもあり、その世代がよく利用しているのだろう。ただ、全体像は現状では、はっきりとしない。
 仮に若い世代に多い事故だとして、日本の場合を想像すると、日本では社会問題は中高年の被害から注目される老人社会なので、こうした問題が社会に潜んでいても関心が向けられないかもしれない。今後日本は、報道は老人視点というバイアスが増えるのではないか。
 日本では歩行者のイヤホンはざっと見たところ社会問題になっていない。類似の身近な問題ではイヤホン装着の自転車が危ないというのがある。これは現状では、多数の都道府県で公安委員会規則で禁止されているはずだが、よく見かける。
 
 

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2012.01.17

清史を必要とする中国共産党王朝

 中国共産党が正史として清史を書くという。なんとも笑えない冗談のようでもあるが、冗談ではない。清朝が滅亡した1912年から期年を設定し、2003年から清史工程として推進されていた。今年終了するらしい。発表は来年であろう。
 いつの時代でもその時代の価値観に沿って歴史が書かれるのは、ごく当たり前のことに思われる。何が起きてもそれが重大事件であれば歴史として記されるようにも思われる。だが、中国の正史というのは現代人の考える歴史とは異なる、ある奇妙な物語である。一言で言うなら、中国における正史とは日本における天皇のようなイデオロギー的な幻想であり、ちょうど天皇と等価な存在だろう。
 史記を著した司馬遷以来、中国の正史は「正統」を明示するための論証の目的を持っている。その時代の皇帝が天命を受けたことの証明である。司馬遷の場合は武帝が皇帝であるという弁証でもあった。皇帝はひとりでなくては正統とは言えないので、皇帝自称者が三人いるといったことは正史には許されない。反面、皇帝の存在証明以外の事象についてはさほど重視されない。
 正史の原点となる史記は、神話的な古代を虚構しその時代の現代である漢の武帝までを通史として描いた。史記に続く正史・漢書は、しかし、高祖から武帝を経て王莽までのみの漢代を描いた。史記は通史であったが漢書は一王朝を記す断代史となり、以降、断代史の連鎖が正史となった。これには正史というものの本質に関わる理由がある。
 漢書のテーマは王莽という皇帝の弁証であった。その必要があったのである。というのも、王自身は新という新しい王朝を開いた。しかし、漢書を描いた班固は、それを漢の正統するために、また自身の出自の家系を高めるために、さらに彼の信奉する儒教理念のために、正史を必要とし、漢書が出現した。正統を主張するために正史が書かれるという、まさに中国正史の基本が確立した。以降、その時代の現在の皇帝の正統と存在証明が「正史を書く」という意味になり、中国を呪縛しつづけた。
 中国共産党にしてみると清史を書くことは中国共産党王朝が天命によって清朝継承した皇帝を頂く王朝であるということの宣言ということになる。
 日本には、勝てば官軍という考えがあるように、時の権勢者が自分の都合のいい歴史を書けばいいのではないかと自然に思うものだが、正統と儒教の縛りをもった理念は中国の正史に厳しい制約も課していて、この理念(正統)を現実を当てはめることが正史の課題となる。極言すれば事実を記載し歴史を書くのではなく、理念に合うように歴史を描かねばならない。それが当然無理を強いることは後漢書を継ぐ三国志から明白になっていった。
 三国志の扱う時代、魏呉蜀が存立したが、正史ではどれかを正統としなければならない。どうするか、建前上は正統であることの内的な弁証から導出するのだが、現実はそうもいかない。その時代の次の王朝である晋が正統であることから、バックトレース(後付け)して魏が正統になった。
 このため呉蜀には皇帝はいないことになるのだが、三国演義でも有名なように蜀の劉備は皇帝を称していたし、劉備は蜀ではなく正統の表明として漢を旗としていた。正史からはそれは認められないので蜀とされている。妥協して蜀漢ということもある。
 中国共産党王朝は三国志の時代と似た状態にある。他二王朝は日本と台湾である。日本について国連(連合国)のタガをはめて中国の王朝と対立をしないしくみができたし、いまなおその対立を懸念したキャンペーンはネットなどでも展開されているようだが、日本朝は清朝のように中国にとっては外来王朝でもあり、近しい問題でもない。問題となるのは台湾のほうであり中国国民党である。
 中国国民党が王朝を志向していたかについては、はっきりとはしない。もともと清史が話題になる発端は、袁世凱が皇帝即位の思惑をもってはじめた清史事業による。この清史は完成することなく清史稿と呼ばれている。清史稿は中国国民党の正統を証明するものでなかったが、国民党は清史稿を改訂した清史を1961年に刊行した。共産党王朝としては、国民党による清史の存在は許せないものでもあり、新しく清史を起こす必要が生じていた。
 しかし現在の台湾からすれば清史はもはや歴史の遺物でありただの時代錯誤である。共産党と国民党は長く二朝として争っていたが、台湾では今回の総統選挙つまり大統領選挙で国民党が民進党候補に勝利したように民進党という強い対立政党があり、国民党も台湾という民主主義国の一政党となった。中国共産党という王朝の対立者としては解体されている。そもそも総統とは大統領であり皇帝でない。(この偉業を達成したのが李登輝である)。
 もはや中国共産党王朝に対立する王朝など存在しないのだから、正史を書くことに中国共産党がリキまなくてもよさそうなものだが、それでも中国共産党王朝は民主主義国台湾を敵対する王朝だと見なしつづけている。昨今の中国国内の反米風潮や人権弾圧からは、民主主義そのものを共産党という王朝制度として対立するものと見ているようでもある。
 ようするに清史というのは中国共産党王朝が現実認識できない誇大妄想にも思えるのだが、この妄想にはもうひとつ理由がある。中国共産党王朝は清朝を継承していると主張したいのである。しかし、これがまたひどい妄想としか言えない。
 中国の正統の原理は、中国にとって外来王朝であるモンゴル王朝の支配によって根幹から崩れている。モンゴル王朝にとって中国はいわば植民地の一つにすぎない。モンゴル王朝には中国正史とはことなる正統のシステムもある。
 そして清朝はモンゴル側の王統を受け継いだ王朝であり、中国の正史に連なる王朝ではない。チベットもウイグルも清朝に服していたが、中国の王朝とは直接的な繋がりがない。このユーラシア側の王統と中国正史的な元・明・清という見せかけの系譜は異なる。
 どういうことなのか。
 中国共産党王朝はこの外来王朝による植民地支配だった歴史の問題を正史的に解消して、清朝つまりモンゴル系統のユーラシア王朝を中国として組み入れたい――つまり自身がモンゴル帝国となって再現したいという欲望を持っている――というのが、清史作成のもうひとつの意味である。
 当然、中国共産党王朝としては、チベットやウイグル同様、現在の中国東北部を含む満州(清朝の故地)も中国ということにしたいし、満州の地を歴史的に領土と主張するような他民族は許さないということになる。そこで現下特に危険視されるのが朝鮮民族である。
 中国共産党王朝にしてみると当面は朝鮮半島内に朝鮮民族が自国領土して収まっているなら問題はない。ソ連の傀儡国家である北朝鮮の安定によって、ソ連が定めたように都合よく鴨緑江と白頭山で満州側に出てこない状態なら問題ない(参照)。
 だが、韓国(南朝鮮)は、昨今、朝鮮民族はかつて渤海の時代に満州の大部を支配していたと主張しはじめている。
 これが北朝鮮という蓋の解体から統一朝鮮の成立に向かえば、満州域の主権問題に発展しかねないと中国共産党王朝は懸念しているのである。いうまでもなく、中国にしても朝鮮にしても領土の主権の問題は歴史の正統の問題だとはなから思い込んでいる、現代の国際法に馴染まない国である。
 この懸念を払拭したい中国共産党王朝としては、渤海は朝鮮民族の王朝ではなく唐の軍政機構であるとし、中国の地方政権であるという歴史を明示する必要があり、これを東北工作として推進していた。
 韓国は中国共産党王朝史観に猛烈に反対し、2000年以降、中国と歴史問題を激しく争うようになった。韓国側としては、渤海は朝鮮民族の王朝であるということにこだわりたいだろうし、渤海史を経て満州全体を清朝史に納めようとする中国共産党王朝の正史に警戒している(参照)。
 史実として、中国と韓国、どちらの言い分が妥当かというと、渤海の議論については現代史学から見れば中国の議論のほうが正しいようにも思われる。だが、その結果が清朝を継ぐ中国共産党王朝というのであればそれも奇妙な妄想的帰結である。
 いずれにせよ、中国正史の流れから見れば、中国共産党王朝が倒れたら別の王朝が中国共産党王朝の正史を記すのだろうし、統一朝鮮が生じれば、北朝鮮に接する中国とロシアの国境問題は「歴史認識」をめぐって紛糾するようになるだろう。
 
 

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2012.01.15

ファイナル・カルボナーラ

 「最近はレシピとか書かないんですか?」
 「なんか書いたほうがいい?」
 「そういうわけでもないんですけど」
 「カルボナーラとか?」
 「簡単ですか?」
 「簡単。ファイナル・カルボナーラ。食う?」

準備(二人前)
 ベーコン、37g(セブンイレブンの小パック)
 スパゲッティ、200g
 卵、2個
 バター、20g
 塩、適当
 パスタ茹で用鍋
 フライパン

 「こんだけ」
 「クリームは?」
 「使わない」

作り方

1 卵の黄身を取り分ける
 「できる?」
 「はい。最初にやるんですか?」
 「そう」

2 パスタの湯を沸かして塩を適量入れる
3 沸いたらパスタを茹でる
 「塩は塩気がつくくらい」
 「というと?」
 「塩水をなめる。それがパスタに付く塩味」
 「ゆで時間は?」
 「パスタの袋に書いてある分の数から1を引く」

4 ベーコンをフライパンで炒める
 「大きさは適当。弱火でパスタの茹で上がりに合わせる」
 「あ、写真ボケちゃった」

4 パスタが茹で上がったらフライパンに移してバターをあえる
 「フライパンは温めとく。弱火でいいけど。火を消して、あえる」

5 卵をのせて箸でかき回す

 「焼きそば作るみたいに混ぜる」

6 皿に盛って黒コショウふってできあがり
 「皿も温めとくといいよ」

 
 

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2012.01.14

がんばれ、野田ちゃん改造内閣

 野田佳彦首相が13日、改造内閣を発足させた。理由は、参議院で問責決議を受けた一川保夫防衛相と山岡賢次国家公安委員長をすげ替えないと、野党と協調して国会運営ができないからだが、つまり政局がらみということだ。一川さんは防衛相には素人すぎて使えないし、山岡さんは合法とはいえマルチ商法推進みたいで困り者。小沢派と輿石東(75)氏へのメンツを立てるという党内人事もわからないではなが、普通に考えて人選ミスだった。ここは穏便に二氏をすげ替えたほうがいい(参照)。だから、すげ替え自体には違和感はない。
 何にすげ替えたか。国家公安委員長に松原仁副国土交通相をすげ替えたのは悪くないが、防衛相に田中直紀・民主党総務委員長は、まいった。仲井真弘多沖縄県知事が「田中真紀子さんは有名な方だから知っている。ご主人でしょう?」「今は民主党にいたんですか。確か…お名前しか知らないんですよ」(参照)と言ったが頷けてしまう。
 田中直紀氏は、田中角栄の娘・田中真紀子の旦那さんで、奥さんが自民党から民主党に鞍替えしたあとで追って自民党から民主党に鞍替えした人、というくらいしか普通知られていない。経歴を見てると外交防衛委員長の経験はあるが、素人去ってまた素人という印象が強い。輿石東(75)氏が推したのだろうが、あれだなあ、これはこれで強い意思表示だ。沖縄問題、非吾事。それ以外に、次期主力戦闘機、南スーダン国連平和維持活動派遣、武器輸出三原則緩和といった話題で田中氏は素人力を発揮しちゃうんだろうな。
 一川・山岡両氏をすっこめる程度で留めておけばいいのに、他もいじった。小沢派や輿石東(75)氏への手前か、単純に野田ちゃん本人の意気込みなのか、どうせいじるなら小宮山洋子厚生労働相もすげ替えて舛添さんを三顧の礼で招けばいいのに。
 文科相は中川正春氏から平野博文国対委員長。これは、ようするに使えない平野博文国対委員長のすげ替えと言ってもいいだろう。法相は平岡秀夫氏から小川敏夫・同党参院幹事長。法相のすげ替えはオウム事件の死刑執行がらみもあるのだろうか。
 改造内閣の目玉は、岡田克也前幹事長の副総理兼社会保障と税の一体改革担当相への起用だった。簡単にいえば、野田ちゃん内閣の消費税増税への意気込みを示すということ。報道を見るに岡田さんもう増税にお熱を上げている。
 野田ちゃん改造内閣は、消費税増税内閣と言ってよいだろうし、本当にそれに突入するなら野田ちゃんには力量不足なので、実質は岡田内閣ということになるしかないだろう。つまり、岡田さんお得意の熱血空回りが始まることになるのか。
 鳩山さんといい菅さんといい、そして野田ちゃんまでも自滅にまっしぐらというのは、なんとかならないのか。受け皿の野党の自民党がしっかりしているなら、さっさと民主党政権は終了にしてもよいかが、自民党もぼろぼろになっていて、消費税でもTPP問題でも政策の統一はできない。そこで政界再編成を望むという期待も出て来てはいるのだろうが、それって民主党の政権交代のときの期待と同じことになるだろう。
 再考するに、一川・山岡両氏を事実上更迭したのはよいとして、消費税増税に意気込んでしまったマイナスをどうしたらいいのかということだ。
 だが、野田ちゃん首相がいくらがんばっても、衆院解散前に消費税増税はできないだろう。そう考えてみると、逆に今回の改造内閣の意図は、衆院解散に向けた土台作りと見てもよいのかもしれない。あたかも日本の課題は「税と社会保障の一体改革」と天下布武の旗を揚げて奮迅する絵が描ければいいということだろう。それはありかもしれない。
 すると実際に天下布武の旗の下での決戦は、(1)国会議員定数削減、(2)公務員給与削減、(3)子ども手当を自民党時代に戻してやりなおし、(3)郵政改革、といった分野になる。
 率直にいうと、復興の公共投資を拡大し日銀に復興国債買い取りさせ円安に誘導するほうを最優先にするほうがいいと思うけど(参照)、現下の情勢ではまったく不可能に見える。となれば、先の4分野とかについて、自民党を巻き込んで民主党がぼろぼろになるまで戦うというのは悪くないのかもしれない。
 国会議員定数削減は、まず議員から身を切るということで前提の前提だし、公務員給与削減は実際にはさしたる意味がないけど、こういう危機のときは、「日暮硯」(参照)や「二宮翁夜話」(参照)、はたまた上杉鷹山の経営学(参照)ではないけど、お役人様が民衆とともに困苦に耐えるパフォーマンスをしないと日本はどうにもならないものだ。
 子ども手当を自民党時代に戻してやりなおす件については、実際には小手先の対応を積み重ねていくしかないし、郵政改革は小泉改革の状態に戻すにはもう手遅れなので、最悪の事態を避ける手は必要だが、それも早急にというものでもないだろう。
 麻生内閣路線のような成長戦略は取れないが、国会議員定数削減と公務員給与削減ならあと二年でなんとかなるんじゃないか。がんばれ、野田ちゃん改造内閣。
 
 

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2012.01.13

[書評]孤独のグルメ【新装版】(久住昌之・著、谷口ジロー・画 )

 中年男の孤食を描いた漫画「孤独のグルメ」(参照)が電子ブックで売っていた。電子ブックでこの漫画を読むとどうなんだろうかという素朴な興味と、通して読んだことはなかったなという思いがあって、買って読んだ。泣けたというのとは違う、胸にずんとくる感慨があった。中年男の孤食というものの、いわくいいがたい微妙な心情をよく描いていることもだが、私自身生きてそして食ってきたあの時代が絵の一コマ一コマにそのままにあったのだった。

cover
孤独のグルメ
【新装版】
 物語は、個人経営の洋雑貨輸入商・井之頭五郎が、背広姿で見知らぬ町を巡った営業帰りに、食いそびれた昼飯をその町の店屋で食うというだけの設定が多い。表題にグルメとあるが、普通の意味でグルメといったものではない。下町のさびれた定食屋のようなところで、中年男が、がつがつとありふれた食事をするだけの短い話。B級グルメといったものでもない。食うのは腹がいっぱいになればいいやといったくらい。
 だが結果として、たくまずしてというべきか、一人の中年の男の像を、普遍的な男というものの本質から照らしながら、上手に描いている。表題の「孤独」に偽りはない。見知らぬ町で、その町の見知らぬ人間として、彼は物語に立たされる。中年男というのは、そうやってこの世の中に立ち尽くすものである。
 主人公・井之頭五郎は酒を飲まない。それだけでもグルメといった、うんざりしたうんちくから解放される思いがする。甘物が好きだが菓子職人がどうたらとも言わない。そしてこれはいいなと思うのは、やたらと煙草を吸うことだ。食事を終えたら普通に煙草を一服。そこに何かもう失われた時代を見る。この物語、現在テレビドラマ化されているらしいが、煙草のシーンはあるだろうか。
 読み進めながら、これは私の世代の話だなとも思った。団塊世代の次の世代。原作の久住昌之が1958年生まれで私と同級生といってもいいくらいなせいもある。物語の時代は1995年止まり。オウム事件と阪神大震災が変えてしまう前の日本の風景だと言ってもいい。が、その変移はかつて東京オリンピックが変えたそれほどドラスティックではない。むしろ、この物語に銀座の変容の一話もあるが、なだらかな変化の途中を描いているともいえる。現在でもなお探せば同じ風景もあるだろう。
 1995年の風景のなかで井之頭五郎は何歳くらいか。私は37歳だった。その感じからすると5歳くらい年上には見える。私より10歳年上の谷口ジローの自意識と所作が五郎の年齢設定に反映しているように思う。
 物語の時間の4年前、五郎がパリで女優と過ごしたときの回想シーンがひとつある。女優の同棲への焦りは、あの時代の女の30歳くらいを反映しているのだろう。それにすれ違う五郎はあの時代の30代後半にさしかかるといったところだろう。そしてパリの回想風景が群馬県高崎の風景に切り替わるあたりに、中年男というものの存在の絶妙の苦みと味わいがある。他にも、新幹線のなかで若い見知らぬ女の隣席ではた迷惑なシュウマイを食っている自分の存在にズレというものを思うあたりも、ああ、そうだよ、おまえは俺、とかも思う。(もちろん、五郎と私はかなり違ってもいるのに。)
 ただ懐かしく胸に迫る風景もある。西荻の自然食屋ふうな店は満月洞である。私はプラサード書店で「The Fourth Way」とか買って夕飯を食った。あるいはホビット村のイベントのあとに、また待晨堂で時間を費やした帰りに飯を食った。酒も飲んだ。紅乙女が好みだった。友だちもいた。ヒッピーくずれのいつもの米人もいた。あの店内の段差も覚えている。
 江ノ島の魚見亭では、ちょうど五郎の座っていたところに私も座って、失われた青春を思って暮れゆく海を見ていた。石神井公園も懐かしい。板橋区大山町にも懐かしい思い出がある。大阪市北区も思い出すことがある。どうしてこうも思い出が詰まっているのか、この漫画、と不思議なくらいだ。たぶん、そうした不思議さに打たれるのは私だけではないだろう。
 電子ブックとしてはどうか。iPadで最初起動したときアプリがiPhoneアプリサイズだったので、これはしまったと思った。二倍サイズにすると絵がぼけるのだろうと諦念していたが、さにはあらず。ボケもせず、漫画として読むにちょうど解像度になった。iPadで読むのにちょうどよい。しいて欲を言えば、背景色を白からもう少し柔らかいものにしたいくらい。
 
 

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2012.01.12

2012年版 賢くなる31の方法

 今週のNewsweekに「2012年版 賢くなる31の方法」という話があった。そりゃいいや。

cover
Newsweek
January 16, 2012
 オリジナルは「31 Ways To Get Smarter In 2012」という特集記事。ネットにあるかと思ったらあった(参照)。
 オリジナルの"smart"には「賢い」という意味に加え、ちょっと流行の気取りといった意味合いもあるだろう。以下、適当な意訳と私のコメント。正確な内容が気になるかたは原文を見といてくださいな。あるいは今週のNewsweekを購入してもよいのでは。Kindleなら月額購入だと300円くらい。

1 スマホでクロスワードとか
 認知症の予防にもなるらしい。飛行機のなかではしないこと。日本だとこの手の言葉を使ったパズルはなんでしょうかね。

2 ウコンを摂ろう
 これも認知症の予防にもなるらしい。日本人はカレーをよく食べるから自然に摂取量は多いかも(ちなみに日本のカレーは脂肪も多い)。Newsweekには書いてないけど、米国のウコンのサプリメントだとクルクミン成分が標準化されているのが選べるので、そのほうが効果はあるかもしれませんよ。

3 テコンドーをしよう
 それ以外にも多少心拍が上がるもんならよいらしく、Wii Fitも挙げられていた。

4 ニュースはアルジャジーラで
 CNNやBBCよりも世界を広く見られるようになるとのこと。そういえば私は昨年からアラブニュースを読むようになりましたね。「キングダム」でサウジアラビアを連想します。次。

5 ネットをオフにする時間を持て
 ネットから自由になる時間を持とうと。ごもっとも。ツイッターや最新情報に嵌りすぎているなあと反省すること、しきり。

6 よく眠れ
 昼寝も取れよと。ただ、深く眠るというのは難しいものですね。

7 TEDのアプリがお薦め
 というわけで、TEDのアプリを落としてみた。日本語翻訳もついている。鳩山元首相もTEDを見ているみたいでしたね。ひゃっほ~。

8 文芸祭に行こう
 「文芸祭」としたけどオリジナルは"Literary festival"。それって、日本にあるのか? ジュンク堂とかでよく作家の会みたいのがあるから、あれでもいいのかもしれない。そういえば、若い頃はよく偉い人の講演会を聞いたものだったな。"convocation"というのも日本ではあまり聞かないですね。次。

9 記憶術を学ぼう
 慣れている建物や場所とかのイメージをキーにして記憶するという手法。記憶術とかの本によくありますよ。オリジナルでは"Memory Palace"とある。Newsweekにないけど、"Method of loci"とも言いますね、これ。ローマ時代の弁論法の一部なのかも。

10 外国語を学ぼう
 英語もまともにできないのにとか思うけど、それはそれとして他の言語とかやってみたい気はしますね。フランス語とか聞いていると、英語と共通の単語が多くて、何言っているかなんとなくわかる感じもするので。でも、ま、難しいか。「蒼穹の昴」を見ていたら中国語がわかるような気がしたのと同じくらいの、自己暗示かも。

11 ダークチョコレートを食べよう
 健康にいいかもっていう、よくある話です。Newsweekには書いてないけどカカオにはテオブロミンが含まれているというのはありますね。効果があるほど食うのはいかがなものかとは思うけど。

12 編み物会に入ろう
 脳にもいいらしいですよ。そうかもしれないなという感じはするな。村上春樹のエッセイに、編み物パブの話があったが、個人的には編み物している女性は苦手。男性はというと橋本治とか広瀬光治とか連想する。いやいや、「広瀬光治のゆび編みレッスン」(参照)とかいいかも

13 笑顔を消してみる
 難しそうな顔すると難しいこと考えられるとのこと。ほんとかねと思うけど、あれです、ロダンの地獄の門で「考える人」のポーズとか半跏思惟像ポーズとか全裸でするとよさげです。

14 暴力性のビデオゲームをやってみる
 心のなんかを解放するんでしょうかね。それもありかも。私も一時期「BATTLE BEARS」に嵌った。最近のだと「斬撃のREGINLEIV」(参照)とかやってみるかな。

15 ツイッターでこの人たちをフォローする
  @Nouriel @JadAbumrad @colsonwhitehead だそうです。日本だと誰でしょうね。キュレーターみたいな人はやめといたほうが、いいんじゃね(思索の刺激にならんよという意味で)。

16 ヨーグルトを食べよう
 脳にもよいそうです、はいはい。

17 SuperMemoをやってみよう
 忘却曲線とかを使った記憶強化ソフトみたいです。スマホ向けにはなさそう。iPhoneにそれっぽいものがあったのでやっみてダレた。この手のものは飽きるというのがなんとも。

18 シェークスピア劇を見よう
 昔BBCのシリーズで見て面白かったですよ。日本でいうと近松とかになるのかな。「7人のシェイクスピア」(参照)って面白いっすか?

19 思考を洗練させよ
 ダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)の「Thinking, Fast and Slow」(参照)にならって、思考の速度を使い分けよと。この本、そろそろ翻訳出るんじゃね? あるいは出てますか。

20 水分補給
 これ、英語では"hydrate"とか言っている。水を飲めというのと、皮膚から水を逃さぬということでしょうかね。後者はワセリン(参照)とかいいんじゃないかと思うけど。

21 iTunes Uの活用
 無料で学べる米国の大学講義ってやつです。よく勧められるけど、さすがに退屈なの多くて続かない。日本だと放送大学とかEテレとかですかね。これらもなかなかに退屈な代物。

22 ニューヨーク近代美術館を見よう
 日本だとなんでしょうかね。私は以前セゾン美術館とかの会員で毎回毎回見ていて勉強になりましたよ。サントリー美術館もよく行った。こっちはいまでもある。知り合いがいた。最近、美術館とか行ってないです。

23 楽器をやろう
 言われてみればの類。iPhone APPが意外と楽器になったりする。MorphWizとか嵌っていた。

24 手書きの勧め
 実際に手に鉛筆や万年筆や筆持って紙に書くということ。大切ですよ。よくしてます。

25 タイマー使って25分単位で物事をする
 英語だと"Pomodoro Technique"。なんでトマト(Pomodoro)なのかというと、トマトの形の、真ん中からねじって回すキッチンタイマーを使うというやつが原点。一時期流行った。この手のライフハックも最初はいいけど、だれる。

26 ぼけっとしてみる
 英語だと"zoning out"。枠に拘らないという意味もある。Newsweekにはないけど、この手の瞑想法に"Open space meditation"というのがあって面白いので、いずれ紹介するかも。

27 コーヒーを飲む
 カフェイン効果というところだけど、香りの刺激も。

28 忍耐力!
 英語だと、"Delay Gratification"で、ご褒美は後でということ。こういうのドMな人でないと無理じゃないかな。

29 得意分野を作る
 楽々できる分野をもちなさい。やってて楽しいことでメリットを伸ばす。ハックル先生とかから学べるものは多いんじゃないかな。次。

30 書評を書こう
 書評と限らないけど、試したものの評価を文章で書いてみる。これは確かによいですよ。個人的なアドバイスを加えると、けなす批評っていうのは、自分が偉そうに思えるつまらない詐術なんでそこにどつぼらないように。

31 街から出て自然のあるところに
 自然に触れようということでしょうかね。そりゃそうでしょ。ワイル先生の新刊「Spontaneous Happiness」(参照)の抜粋を先日Newsweekで読んだけど、そんな内容でした。

以上、31点。Baskin Robbinsみたいなもんでしょうかね。
 
 

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2012.01.11

脳の劣化は45歳から始まる

 脳の劣化は45歳から始まるという話が先日のBBCにあった(参照)。話題の元は定評ある医学誌BMJの研究(参照)である。参照してみると研究規模は小さくないので、今後、高齢者への行政にも影響があるのかもしれない。さて、私は今年55歳になるわけで、してみるとだいぶ劣化しているよね。
 研究結果をみると、男女ともに45歳から49歳で論理推論の機能が3.6%ほど減退する。具体的に調査されたのは、記憶(memory)、論理推論(reasoning)、語彙(vocabulary)、発話(phonemic fluency)、聞き取り了解(semantic fluency)の5分野で、まず劣化するのが論理推論の機能だ。思考力が衰えると言ってもいいのではないか。
 逆に劣化しにくいのが語彙力である。文章を書くという能力への影響は多少遅れるのかもしれない。なお、研究結果は学歴などの差違は補正されている。対象となってのは公務員なので、公務員って脳劣化しやすくないとかちょっと思わないでもない(冗談です)。
 BBC記事は、老化による脳の劣化をアルツハイマー病と結びつけているようにも読める。徐々に進行する脳の劣化から認知症に至るといった想定があるかもしれない。が、そのあたりはよくわかっていないはずなので、経年劣化と認知症とは分けてもよいだろう。
 さてと、問題は、俺。
 脳が劣化しているかな、俺。
 あまた寄せられてきた罵倒はそれを支持している。みなさんのご期待に添いたい。が、正直なところ自分ではあまり脳の劣化感はなく、逆に意外と脳ってボケないもんだなというのがある。「それがボケの兆候だろ」というのもわかるけど。
 もちろん身体の老化と同じで、思考力にも活力が続かないというのはある。いつでもぼんやりとした感じがないわけでもないが、若い頃もそうだったしなあ。
 自分はまだまだ若いとか愉快なことが言いたいわけでもなく、ガキの気分は抜けないし、本人はボケを納得しているもんではないなというところ。つまり、老人っていうのは自分はボケてないと思っているもんだというのが結論ではあるんですよ。
 ざっくり30代半ばのころと現在を比べて、「思考力は5%劣化していますよ」と言われたとする。そのくらいは劣化している感じはないでもない。ボードゲームとか若い人とやると「かなわないなあ、ぐへ」の感はある。最近、「さすがに俺、劣化しているな」と思うのは、微妙な得点差で追い込む勝負のタイミングでの得点計算ミスだ。「その差2点。うっ、こんなはずじゃねーぞ」とか思うことが多い。それがボケなんですよと言われると、はいそうですね。
 全体的な老化といえば、もう見るからに爺だろというのもあるし、疲れやすいし、目が一段と悪くなった。本を読む持久力みたいのは減った(ただ速読力みたいのがあるとすれば、そちらはあまり劣化した感じはない)。目が悪くなった反面、補うように勘を使うようにもなった。あれです、フォース。いや冗談は冗談なんだけど、私は若い頃自分の勘というのを使いたくなかったんですよ。禁じていた。最近、少し許すようになった。ずるしているなというのと楽に補ってもいいかというのはある。この勘というのは一種のマクロ的な思考でもあるんで、地味な思考が疎かになりさらに思考力が衰えるという面もあるんだけど。
 視力の劣化でいうと、これもよく「爺、老眼だろ」と罵倒されるが、その自覚はない。あの、文字を読むとき離して読むというの、あれがなんだかさっぱりわからない。それでも細かい文字は近視・乱視で読みづらいのは確かなんで困ってはいる。

cover
文藝春秋
2012年2月
 そんなものでしょと、みなさん、と思っていたら、音楽家の坂本龍一が42歳で老眼になったという話が今月の文藝春秋にあった(参照)。42歳で珍しい、へえ、と思ってツイッターできいたら、そんなのですよみたいなレスをいくつかいただいた。
 他、坂本さんは耳鳴りもひどいらしい。私もたまに耳鳴りはある。それとは別に、誰にもである、無音で聞こえる耳鳴り(無難聴性耳鳴)が大きくなった感もあり、これは老化だなと思っている。この無難聴性耳鳴って、気にして神経集中すると感度が上がって、聴音も大きくなる。坂本さんも気に過ぎているんじゃないかとも思ったが。
 かくして坂本さんは、野口整体をするようになり、マクロバイオティックスなどもしたらしい。これもへえと思った。ネットだとこの手のカルト的な代替医療というのは敵視されがち。でも、相手がそういう人たちの憧れの坂本龍一だとあまり批判もされないのではないか。謎の身体不調があり標準医学で相手にしてくれないと、代替医療的なものに走ってしまうのは誰にでもありがちなことではないかと思うが。
 老化といえば、2ちゃんねるのまとめサイトに「自分の老化に驚いたこと」(参照)というのもあった。人それぞれ老化を感じることはあるのでしょう。
 
 

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2012.01.10

米国の婚姻率減少の理由はなにか

 目黒公証役場事務長・拉致事件の平田信容疑者(46)は17年に渡る逃亡生活を続けた。その彼をかくまっていたとされる女性(49)が出頭した。二人は14年間生活していたらしい。逃亡生活が落ち着く以前からすれば16年にも及ぶのではないか。すると、そうだな、それは「愛」って呼んでもいいのかもしれないなと思ったものの、もちろん男女の内情というものはわからない。それでも事実婚という関係だったのだろうか。そうすると、婚姻率には含まれないことになる。いや、それ以前に逃亡生活か。
 米国の婚姻率が減少しているという話題をBBCが取り上げていた。題は「なぜ米国の婚姻率は急速に減少したのか?(Why is the US marriage rate falling sharply?)」(参照)。ネタは調査会社フューが昨年末公開した米国の婚姻状態についての報告である(参照)。
 BBCにつられて、ではどれだけ米国の婚姻率が落ちたか、というと5%である。そういうこと。多いと見るか、なだらかな傾向と見るべきか、後者ではないかと思うが、BBCはネタとして取り上げてみましたということである。じゃ、ブログにも借りますかね。

 グラフの見せ方にもよるが、それでも婚姻率の減少という変化については、60年代以降の継続的な大きなトレンドであって、この数年に大きな変化があるわけではない。
 が、多少なりともネタ感があるのは、婚姻率が51%ということで、もうすぐ半数を割るのだというあたりの感慨だろう。米国社会の半数の人は結婚してないんだなみたいな。
 BBCは初婚年齢の上昇にも注目している。米国では男性は28.7歳、女性は26.5歳である。

 グラフ的に見ると、米国は晩婚化が進んでいるものだとも言えるが、日本の現状(参照)は、男性は30.5歳、女性は28.8歳。米国より二年ほど晩婚化している。BBCの記事では、英国では男性は32歳、女性は30歳。そんなものでしょ。
 先進諸国では、初婚年齢は男女ともに30歳を超えるというのがざっくりとしたところなので、それから見ると、米国はやや晩婚化が遅れているとも言える。
 BBC記事を読んでいて、それでも、へえと思った指摘は、米国の婚姻率が学歴差で分かれる点だ。大卒だと64%だが、高卒だと47%ということで、それだけならそういう社会もあるんじゃないかと思うのだが、60年代にはこの差はなかったと指摘されている。
 大卒のほうが婚姻率が高いのはなぜだろうと考えざるをえないのだが、その説明らしきBBCの話はよくわからない。大卒のほうがリベラルな傾向があるが、婚姻については伝統的に考えているみたいな話があるにはある。
 BBCはさらに婚姻に貧富差の影響を挙げていき、ネタらしく、でも実際のところ、このところの婚姻率の低下は経済の低迷じゃないのと落ちがつく。いや、不景気だとなかなか結婚式は挙げられないでしょということで、まあ、そんなとこではないのか。
 BBCの話は以上なのだが、元ネタのヒューの調査を見ていくと、もう少し、むむむっといった感じがする。
 まず、初婚率が減少している。どう解釈するものかいま一つわからないのだが、結婚というのが一回して添い遂げるというものではなくなりつつあるということではないか。
 年代別の既婚率は、年代下がるごとに減っていく傾向がありそうだ。これは時代とともに結婚している状態が減少しているのか、結婚というのは概ね40代以降の現象になりつつあるのか。後者のように思えないでもない。
 ざっとした印象だと米国では、結婚する人は半数くらいで、30代でやってみて、40歳以降になってだいたい安定するということだろう。
 そうしたなかで子供はどうなるのかと思うが、モデル的に想像するに30代で産んではみたものの、なかなか家族は安定しないという光景に収まるのだろう。あるいは、子供の収まり方で、婚姻の安定感が決まるのかもしれないが。
 
 

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2012.01.09

ホルムズ海峡封鎖の可能性について

 イランがホルムズ海峡を封鎖すると脅している。脅されているのはイランに敵対する諸国の経済だと見なされている。ホルムズ海峡が封鎖されれば世界経済に大混乱が起きるとも想定されている。
 理由はホルムズ海峡が石油フローにおいて最も大きなチョークポイントだからである。昨年の資源エネルギー庁「エネルギー白書2010」の「第4節 総合的なエネルギー安全保障の定量評価」(参照)に引かれている「IEA World Energy Outlook 2004」は、年次が古いがおおよそのようすを知るにはわかりやすい。余談だが今年の白書は昨年とは打って変わった様相で感慨深い。
 それによると、エネルギー安全保障面での世界の4大チョークポイントは、ホルムズ海峡、マラッカ海峡、マンダブ海峡およびスエズ運河で、ホルムズ海峡が最も大きい。しかも実際にこれらのチョークポイントに依存している国を見ると、主要国では中国・日本・韓国が大きく、米国やEU諸国は低い。米国、英国、フランス、ドイツは国策としてチョークポイント依存度を低下させてきたが、日本は原発体制と同様に安閑となんら手を打たなかったに等しい状態が続いていたことがよくわかる。
 ホルムズ海峡封鎖で経済的な影響を受けるのは中国・日本・韓国の三国で、米国および英仏独には比較的影響を与えないだろう。
 対イラン石油政策では、日中はその資源開発においては対抗的でもあったが、同一のパイを狙うという意味では同一の利益の上にあるとも言える。日本のエネルギー問題の命運は米国と中国に掛かっているとも見えないことはない。
 実際の封鎖に対応するのは米国だが、米国から見ると、国連で拒否権を持つ中国とどう対応するか、また日韓経済の打撃をどう見るかということになる。
 話が戻るが、イランが強行な素振りを見せるには、イランの核化を阻止しようとする米国中心の圧力であり、より端的に言えば、イラク戦争と同様に、イスラエルとサウジアラビアへの脅威を米国が肩代わりするかということになる。
 基本的にこの問題は、中国、日本、韓国、イスラエル、サウジアラビアの5国の命運のバランスをどう米国が見るかという問題だとしてもよいだろう。(言うまでもなく、日本が見捨てられる可能性は低くはないし、これをネタに日本に同盟国強化への脅しをかけてくる可能性もある。)
 また別方向で話が戻るが、そもそもイランは本気でホルムズ海峡を封鎖するかという問題もある。
 簡単にいうと、イランがホルムズ海峡封鎖を実施すれば、イラン自身も対外的な貿易路としてこのチョークポイントに依存しているので、イラン国内経済が壊滅すると見られる。
 また米軍はこの危機の可能性について長期的に関与してきたので、大方の見方では、イランによるホルムズ海峡封鎖をはね除けることができそうであり、実際、イランがブラフをかけてきても現状市場の動揺はない。日本を含め世界経済全体が低迷しているので、エネルギー需要では基本線で影響力が少ないとも言える(逆に好機になりかねない)。
 むしろこの構図は、太平洋戦争の際の日本のABCD包囲にも似ていて、イランにホルムズ海峡封鎖という暴発を迫る仕組みなのではないか。もちろん、そのようなプランを米国が持っているというほどの陰謀論ではないが、全体の構図からはそういう種類のゲームであり、日本が真珠湾攻撃をしたことをチャーチルが喜んだように、イスラエル側がその暴発を好機とする可能性がある。
 構図を追っていくと着火点になりそうなのはイスラエルであり、そもそもこの問題を引き起こしたのがイスラエルの安全保障であったことを想起してもそう見なせるだろう。
 イスラエルの動向はどうか。また、イスラエルの対イラク戦略を米国はどう見ているか。
 現状、イスラエルの動向がよくわからない。イスラエルがイランを本気で暴発に追い込むほどの国家意思を持っているのか、あるいは、その意思の混迷が結果的にイランを不用意に刺激しているのか。イスラエルの滑稽な内政の現状からすると後者のようにも見える。
 イスラエルに視点を置いて米国側の思惑を見直すと、米国オバマ大統領再選の文脈が重要になる。オバマ政権または共和党が強行なイスラエルロビーをどれほど重視しているかという問題である。どうか。簡単にいえば、この勢力は滑稽なほどの強行をアピールするニュート・ギングリッチに傾倒している、つまり滑稽なというにふさわしい状況にあり、オバマ側の再選の強い要因にはなっていないだろう。
 オバマ政権としては、この現状で世界に不安定要素を持ち込みたくないと見てよいだろう。
 以上の筋から見ると、オバマ政権の基本戦略としては、温和にイランに圧力をかけてレジーム変更を促しつつ、イスラエルの暴発を抑えるということになるだろう。(その点では、イランのレジーム変更が大きな課題だが、どうもこれはイラク戦争以前のイラクのような状態になりそうでもある。)
 日本ではあまり見かけなかったが、イラク駐留米軍は、イスラエルとイランの中間にあって、イスラエルの暴走を抑える蓋の働きもしていた。その蓋がはずれた現在、代替の蓋が必要になる。と見ていると、早々に米国とイスラエルが合同演習を始めた(参照)。表向きは、イランのミサイルに対する防衛ということだが、実際には、イスラエルの蓋ということではないか。
 
 

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2012.01.08

[書評]タイランド(村上春樹)

 村上春樹の短編小説「タイランド」は、「蜂蜜パイ」と同じく2000年に出版された「神の子どもたちはみな踊る」(参照)に収録されている作品で、先日「蜂蜜パイ」を読み返したあと気になって読み返した。

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神の子どもたちはみな踊る
 私はこの短編「タイランド」が村上春樹の短編の最高傑作ではないかと思っていた。技巧的にも、その文学的な深みにおいても……。しかし時を置いて再読してみると、意外に文章は拙なく技巧も熟れていない印象が強く残った。が、依然好きな作品であり、強い印象をもつ作品であるし、再読して新しく心に残る部分もある。エントリを起こして書く意味があるのかよくわからないが、自分の関心にそって書いてみたい気がする。
 短編小説「タイランド」は、いわゆる世間に流布されている村上春樹のイメージからすると異色な作品と言えるだろう。主人公は五十歳過ぎの女性に設定に設定されていることや、タイという異郷に設定されていることといった表面的な指標からもそう言える。この作品は日本語で読むよりルービンによるこなれた英訳の方が美しく読めるかもしれない。だが曖昧で無意識的な暗喩を駆使する文学手法や主題への切り込みかたは村上春樹そのものであり、またおそらくとても日本的な作品でもあろう。
 物語は、免疫学研究を米国で続けてきた、五十歳過ぎの日本人女性「さつき」がバンコック・マリオットで開催される世界甲状腺会議に出席するためのフライトの光景から始まる。
 さつきはフライト中、閉経に伴う更年期障害・ホットフラッシュに悩まされながら、医者を求める機内アナウンスに答えるべきか悩む。医学者ではあるが臨床医ではなく、かつてそうした状況で臨床医によって受けた冷ややかな態度を想起する。
 4日間の医学者会議後はタイのリゾート地で一週間の休暇を取るとし、物語はそのタイでの出来事が綴られる。さつきは、おそらく米人であろう夫と離婚し、また米国社会での日本人差別にも疲れ、日本に戻ろうかとも考えているが、心の底に去来するものは、日本で過ごした若い日の堕胎とその経緯で憎むようになったある男性のことであった。
 さつきの離婚の理由は夫の不倫やいさかいもだったが、夫からすれば子供を産まないさつきへの不満もあった。さつきは若い日の堕胎で不妊となったのだろう。
 タイの休暇では、「ニミット」と名乗る六十歳過ぎのガイド兼運転手の男がさつきの世話をする。二ミットは三十三年間ノルウェイ人宝石商の運転手を勤めていた経験からプレーンな英語を話し、おそらくゲイであろう心情の細やかさから、さつきの苦悩を察し、現地のシャーマンの老女に会うことを勧める。老女はさつきの手を取り、じっと見つめながら、さつきにその癒しとなる指針を託宣し、さつきはその託宣の暗喩を深く受け止める。
 筋立てとしては以上のようなものだが、老女の託宣とニミットが語るかつての主人による北極熊の話がメタフィクション的に構成されるところに技工性があり、また二ミットが主人から相続したジャズ名盤やさつきが機内で読むジョン・ル・カレの小説(おそらく「われらのゲーム」であろう)などに村上春樹らしい安定した雰囲気が設定されている。
 主題は明瞭に、さつきの癒しと言ってよい。若いの恋愛がもたらした憎悪を抱えつつ五十歳まで生きた人間の苦悩と言ってよいだろう。だから、そうした憎悪のような苦悩を抱えない人間にとってはこの小説は薄っぺらな気取った文学趣味でしかないのはしかたがない。
 この憎悪がこの小説において文学的な光を受けるのは二つの光源からである。一つは神話的な思考とも言えるが、阪神大震災という惨事を惹起しうる強度に比喩されていることだ。
 ニミットはさつきが阪神大震災に遭遇しなかったかと問い、また知人が惨禍に遭わなかったかと心配して語る。

「それはなによりです。先日の神戸の大震災ではたくさんのかたが亡くなりました。ニュースで見ました。とても悲しいことです。ドクターのお知り合いには、神戸に住んでおられる方はいませんでしたか?」
「いいえ。神戸には私の知り合いは一人も住んでいないと思う」と彼女は言った。でもそれは真実ではなかった。神戸にはあの男が住んでいる。


あの男が重くて固い何かの下敷きになって、ぺしゃんこにつぶれていればいいのにと彼女は思った。あるいはどろどろに液状化した大地の中に飲み込まれていればいいのに。それこそが私が長い間望んできたことなのだ。

 老女の託宣の後さつきはこう思う。

生まれなかった子どものことを思った。彼女はその子どもを抹殺し、底のない井戸に投げ込んだのだ。そして彼女は一人の男を三十年にわたって憎み続けた。男が苦悶にもだえて死ぬことを求めた。そのためには心の底で地震さえも望んだ。ある意味では、あの地震を引き起こしたのは私だったのだ。

 憎悪から天変地異を求めるという心情は神話的であるが、そこからさらに天災を惹起した原因が自分である、というのはさらに神話的な心情を形成する。もちろん、そのようなことはありえない。天災が天罰などでもありえないように。
 だが憎悪の心情の理路では、すくなくともその憎悪を抱える本人の心情からの世界理解としては、その憎悪の維持のゆえに、憎悪の発現として天災が理解される。それは不思議ではない。憎悪を介して他者との関係を叫ばざるを得ない人々が多いことは、阪神大震災の後16年後の天災と事故でも普通に見られたことだ。
 逆にこう問うてみるとよい。憎悪がなければ、天災や事故に憎悪の実現に胸がすく思いがなければ、人はもっと助け合えることができるし、災害を乗り切ることができる。しかし、人には、おそらくできない。
 二点目は、この憎悪の存在とそれを抱えて五十歳を超えてきた、さつきという初老の女性にとって、生きることも死ぬことも不可能になるジレンマである。憎悪を抱えて生きるということは、死を達成しないし、死の準備ができない、ということだった。これがシャーマンの女性が語るメッセージの核心でもあった。
 癒しとは達成的な死を可能にすることだ。ニミットはさつきに静かに上手に死んでいくことを間接的にだが勧めた。

あの男が私の心を石に変え、私の身体を石に変えたのだ。遠く山の中では灰色の猿たちが無言のうちに彼女を見つめていた。生きることと死ぬことは、ある意味では等価なのです、ドクター。

 私たちは――そう言ってもいいだろう、心と身体を石にしてしまって半世紀も生きてしまう私たちは――生きるための、成功するための隠された目的でもあった憎悪を手放して、どうやって上手に段階的に死ぬことができるだろうか。答えは、ドリームワークである。夢の作業・課題である。
 ドリームワークが大きな課題として村上春樹文学に登場したのは、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(参照)に顕著だが、彼の文学がそもそもそういうものであったことに加え、ちょうど「タイランド」が書かれる時代「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」(参照)に示されるようにユング心理学の河合隼雄(参照)との対話の影響があった。
 物語では、シャーマンの女性はさつきに、さつきが見るであろう夢を告げ、その夢での行動に「勇気」を求めた。夢のなかの課題・作業、ドリームワーク(参照)である。そして勇気とは「自分を認めるcourage」でもあり、「新しき存在」への勇気でもある。
 しかしそう語るだけでは何ももたらさない。この小説もその夢の門前で終わり、その夢の内部には入っていかない。村上春樹はその夢を語り、彼自身がその勇気を、聖ヨハネのように達成しなければならない。ではその文学は出現したのか。「1Q84」にその片鱗がある程度だろう。
 私たちは自分たち憎悪をその生の限界のなかで上手に死に接地させる精神の速度を失っている。夢が、ドリームワークがそれを可能にするというなら、私たちはどのような夢を持ちうるだろうか。夢、つまり、文学を。
 
 

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2012.01.07

吉本隆明の言う「精神の速度」について

 正月ぼんやりとだが、「精神の速度」ということを考えていた。もはや遠く過ぎ去った時代のこととして吉本隆明「完本 情況への発言」(参照)をつらつらと読んでいるとき、三分冊本(参照)の二巻(参照)と三巻(参照)の後書きが、2008年の2月と3月とで同一のテーマとして「精神の速度」だったことに気がついたのが、きっかけだった。

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完本 情況への発言
 「情況への発言」は分冊本の一巻が出たときに購入したが二巻は購入に失した。三巻はすでに宝島「情況へ」(参照)でカバーしていたので、私としてはいずれ二巻分だけ買えばよしとしてたが、完本もあってもよいかと思いなおして購入しておいた。
 「情況への発言」は吉本隆明の同人誌『試行』の巻頭に連載されていた、その時点の政治状況への提言であった。結果として1960年代から1990年代の、あるいは昭和から平成の歴史も兼ねているともいえる。『試行』は直接購読以外に紀伊國屋書店でも販売されていて、私は1983年から購入して読んでいた。完本として読むのと、状況の渦中で読むのとは随分違うものとも思う。
 吉本隆明の言う「精神の速度」だが、現在振り返ると2008年ころの暢気な時代の話題にも思える。あの頃、了解しづらい理由から、いじめ、親族間の殺人、無差別殺人といった殺伐とした事件が発生していは話題になっていたものだった。
 吉本隆明はこの了解しがたい殺人をもたらす「精神の蒙っている苛立ち(殺気だち)」の起源について、「影響力のある最新の産業の循環の速度がその地域の人間の精神の速度を決定する」ということを思索の基点に置き、そこから「その地域の人間の精神の速度がその速度に違和感をもっていれば、その違和感によって大小ざまざまな苛立ちを喚起するだろう」と述べていた。「そして限度を超えれば精神の失調として、あるいは疾病としてあらわれると考えられる。」とした。言うまでもなく懐かしい吉本隆明節である。
 吉本の思索の基点である「影響力のある最新の産業の循環の速度がその地域の人間の精神の速度を決定する」が、正しいかどうかすら疑わしいとも言えるが、吉本に傾倒した私だからということではなく、50年余も生きてみた人間としては、それは直感的にも正しいように思われた。
 自分なりに敷衍するなら、彼のいう「精神の速度」とはもっと平易に「人生観」と言い換えてもよいだろう。つまり、生まれ、誰かの子供となり、成長し性の開花を経て成人となり、子供をなし、老いて死ぬ、そういうプロセスを所定の手順または所定の速度の結実として了解する、その了解のしかただと言い換えてもよいだろう。
 子供は、いつの時代でもどの社会でも、残酷でしかないかもしれないのだが、「大人になったら何になるか」と問われるものだ。その問いのなかに、その文化における大人と社会、そして人生というプロセスが強制的に前提に組み込まれる。
 結婚はまさにその典型である。人はいつか結婚して、そして子をもち、父なり母なりとなる、とされる。「人間とはそういうものだ」という前提は、その成長を担保する「精神の速度」に依存している。
 すると吉本がここで言わんとしていることはなにか。前段は、人が人生のプロセスを了解できなくなる混乱・困惑によって精神の病理が起こるということだ。問題は後段である。それが、最新の産業循環によって引き起こされる、ということだ。そうなのだろうか。
 吉本はこの点について、「産業の速度はその地域で生産される製品の循環速度群の大きさの盛衰によって決定される」と述べる。吉本思想の文脈では「ハイイメージ論」に属するとは思われるが、ここではその迷宮に入る必要はないだろう。
 理解のために、逆に違和のない「精神の速度」を想定してみる。旧来の日本人の精神の速度を包括するアジアの精神の速度について、吉本はこう大きく補助線を引く。

種子をまき、苗を植え、収穫する時期も大凡おなじであり冬を農閑期とする循環も大凡変わりないところからアジアの人の平穏で温和で、停滞しがちな自然本意の性格が生まれた。

 日本人は、農耕だけと限定されないまでも四季循環の自然に生産の様式を沿うようにして精神の速度を形成し、そして人生の全体時間の概念をその内側に獲得するようになった。そう理解してもよさそうだ。
 この吉本のアジア観は、私にとっては原発事故以降の、あるもやもやとした精神の問題も深く抉り出した。簡単に言えば、福島を中心として農家が2011年の四季を通してどのように農産物を生産するのかということが、自分にとって常に喚起される問題意識でもあった。
 私はその自分の意識をいぶかしくも思った。極論すれば、食物など海外から輸入すればよいではないか。そもそも日本の弱小農家はすでに補助金による保護対象でしかないではないか。だが私の精神・感性はそれを肯んじはしなかった。
 四季の雑草を、樹木を、その花々を眺め、またそこに住まう昆虫や鳥・小動物のことを思わずして、私という人間は生の実感を得ることができない。その感性は、農業というものへの基底的な連結を有していた。反原発といったイデオロギーに私は同調はできないが、その、敢えて言うなら精神の病理は、吉本のいうようにアジアの精神速度というものからすれば、必然的な帰結でもあったことは理解できた。
 TPPへの反感についても、農協などの政治的な仕込みを除いても、農業の神話性をそう単純には棄却できはしないだろうとも思った。農業をすることが生きることであり、大地の生産物を消費することがまた生きることであるという、アジアの精神性は両義的でありながら、依然強固なものである。
 私はここで、吉本のいう最新産業の速度と原発事故を同値しているが、それは以上のようなアジア的なるものへの理解からすれば、されほど乖離したものでもないだろう。
 留保しなければならないのは、吉本のいう精神の速度と生産の速度が問題の基点だというなら、それはそもそも工業生産そのものが本質的に持つ問題である。では、現代・情況の課題として特化できるだろうか。
 この点について一つの前提は、日本にありがちな農本ファシストまたは農本ナショナリストとしての左翼といったものを除外すれば、工業化こそが資本論のマルクスにおける人間の最大課題であったことだ。人がプロレタリアートとして生産手段を奪われた存在となることが資本論の前提であり、社会主義は工業化の達成の自己矛盾による止揚として提示された。
 吉本は明示してはいないが、現在の日本における、日本の理想の絵柄は、昭和後期の高度成長時代である。限定された意味であるが、本来のマルクス的な意味でのプロレタリアートが国家を――政治ではないまでも――経済的に専有した社会主義的な時代である。もっと簡単に言えば、日本人の人生つまり日本人の精神速度は、工業化のある段階までは耐ええたし、むしろそこからナショナリズムの再構築をほぼ完成したのだった。自動車産業に日本の威信を見ているといった神話の登場だったとも言える。
 別の言い方をすれば、実際は社会主義の一形態に近い日本型資本主義が、1980年以降、ポスト資本主義の生産様式に変化し、そこでの速度向上が日本人の精神病理を生み出したと言える。原発についていえば、その時代の忘れられた、浦島太郎の玉手箱のようなものでもあった。
 難解ではあるが、吉本のいう産業循環にもう少し踏み込んでみよう。

ある地域・国家(都市や地域共同体でもいい)のいちばん典型的でしかも最新鋭の生産設備(生産手段)を備えた産業(群)を取り挙げて、その生産者(群)から消費者(群)に時間を、たとえばAなる生産地域のAなる産業で生産されたAなる製品が、通信や交通の機関Aによって消費産業Aに交通運搬され、製品移送時間Aによって消費市場Aに移送され、そこから小売企業またはAの精算時から消費者の手に帰するまでの時間を製品の一循環とすればその平均値(または統計的平均)の値は手易く知ることができる。そのA地域(国家、共同体)の産業の循環期間はその地域(国家、共同体)のすべての精神的な労働行為に対する第一級の支配力の近似性をも容易に計算できるだろう。
 このようにしてわたしたちは日本国における精神活動と産業的循環の相互関係の実体を大過なく把握することができる。それは何人によっても、どんな社会勢力によっても左右されないし従属する必要もない計算できる問題。

 吉本は不用意に難解な書き方をしているとも言えるし、吉本らしい素直な考え方をしているとも言える。いずれにせよ、わかりづらい。
 簡単に言えば、製品が現れそれが消費者に届くまでの時間によって、特定の国家の産業速度が計測でき、その速度が雇用と消費意識(快楽)を規定するということだ。
 蛇足になるかもしれないが、吉本がこういう手順で考えるのは、この生産の速度が、精神の上部構造に対するマルクスのいう下部構造となるからである。いわゆる浮ついたイデオロギーに左右されることない思想の基盤を彼は常に前提に置いてきた。
 もっと簡単に言ってよいのだと思う。製品を生み出すために素早い速度が求められるなら、私たちの雇用は安定しない。また製品の素早さはその消費の素早さであり、私たちは快楽に翻弄され愛着した製品やサービスを持ち得ない。
 身近な比喩でいうなら、iPad3は中国で生産されアップルの発表の数日後に私の手元に届き、旧型のiPad2は玄関のデジタルフレームになる。
 そうした速度を持つ世界は私たちに、古典的な意味での人生の全体像を与えはしない。精神を大人から老人へと深化させることはない。大人とは権力か財力を所有することが問われ(それで性が交換され)る存在であり、老人とはただ若者から唾棄される老醜へと変化させらる。若者は快楽の速度に追われて自滅していく。
 私の粗暴な吉本理解はそうはずれてはいないだろう。吉本はこの文脈をさらにこうつなげていくからだ。

わたしの想像を遙かに超えた第一の要因は、消費産業(第三次産業)の担い手である通信・情報担当の科学技術と、その空間、時間の均質化とその能力である。


この情況はわたしなどの貧弱な創造力をはるかに超えた。ことに学的には少しの思いつきを追ったにすぎないと思えることが莫大な富の権力と結びつきうるという事態の怖さを見せつけた、とわたしには思える。

 ライブドアの事件やフェイスブックの興隆などを想定してもいいだろう。

 現在のことろ嘗て戦中にそうであったとおなじように、この情況に素直に無意識によろこんで乗っているのは、二十代、三十代の若者だけだが、この地域の空間と時間の無境界化の拡大に対応したり対抗したりする思考や思想もわたしたちはもっていない。古典的戦後の後進ナショナリズムが幅をきかせているのだ。

 ここでは、ホリエモン対亀井静香を想定してもいいだろうし、後進ナショナリズムは左翼と言い換えてもいいだろう。

凡庸な認知学がこれを謳歌し後押ししている。唯脳主義は名前を変えて唯〈お笑い家〉と合致する。

 ここは浅薄な科学・啓蒙主義や社会問題を心理機構に還元する学門芸者といったところだろう。
 こうして「精神の速度が病理をもたらす」という問題を提起した吉本だが、展望の暗示はしていない。浅薄な捨て台詞を吐く程度で終わっている。
 明白に言えることがあるとすれば、農本ファシストや農本ナショナリスト、つまり、左翼的な言辞で構成されたユートピアに未来などはないということだ。
 高速な産業循環を否定することなどできはしない。iPad3は普及するだろう。書籍のデジタル化が進まないのは、それが精神性の齟齬を起こす前線に見えるからであって、結果自体が描けないものではない。それは先行した米国の状態からでもわかる。
 この産業の高速化のなかで、人間が再び、その人生の総合的な意味を獲得することが可能なのか。私にはわからない。私について言えば、人間なのだから、そうする意外ないだろうというだけだ。
 そして吉本隆明から私が学んだ、人間が生物的に十分に人間である幻想領域が対幻想であるというなら、人はなんらかの形で家族を志向するしかないだろう。それは伝統的なものであるか血族を離れた連帯であるか、浅薄なイデオロギーを廃してなお根の深い部分で問われなければならない。
 
 

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2012.01.06

「○○○は絶対反対」主義の蔓延をどうしたものかな

 ブログのエントリーで正月、「年頭にあたり云々」みたいな話題もありかなあと思いはしたが、書いても詮無しという感じがしたのと、危機煽ったり嘘臭い希望を語ったり、ありがちな世代間闘争とか消費税云々とかいうお決まりのお題をこなしたりとかにもうんざりしたのでゲームばっかりしていた。とはいえ、お節やお雑煮を食い過ぎて伏せりながら、いろいろ思うことはあった。一つは「○○○は絶対反対」主義の蔓延をどうしたものかな、と。
 昔もそうだったといえばそうかもしれないが、小泉政権のあたりから、「○○○は絶対反対」という人が多くなったような気がする。たぶん、昔からあるのだろうけどネットの利用者が拡がることで目に付くことも多くなったのではないか。
 以前の話だが沖縄で暮らしたころ、久茂地「りうぼう」で買い物をすると向かいの県庁の前でよく反戦運動とかの座り込みやデモを見かけたものだったが、妙に小規模なものだと思うことが多かった。たぶん定例会のようにやっているのだろうし、それがいい悪いとかいうものではない。だが、あれをテレビや報道写真を通して見ると、それなりに反対運動らしい絵柄に仕上がっていた。へえと思ったものだ。揶揄しているのではないよ。メディアを通すと「絵」ができるものだなと思ったのだった。
 その絵を描くメディアの機能が現在ではインターネットも分担しているということではないかな。ツイッター世論とか。ブログのコメント欄のご熱心なかたとか。
 別の言い方をすれば、少数派の意見をある程度自動的に抑制したりマスメディアで取りあげたてネタにしたりして、それなりに世論っぽいものを作り上げてきた――つまりそれもまた幻想ではあるのだろうけど――ということだったのだろう。メディアの変遷でその産出も変化してきたのだろう。繰り返すけど別にそれがいい悪いといったことでもない。
 形式としては「○○○は絶対反対」という形式が多いなとは思う。そして、率直に言って、その形式だとそれだけで、うへぇうんざりと思うようになった。
 TTP絶対反対。原発絶対反対。消費税アップ絶対反対。八ッ場ダム再開絶対反対。女性天皇絶対反対。歴史修正主義絶対反対。偽科学絶対反対。社会格差絶対反対。米国覇権主義絶対反対。中国覇権主義絶対反対。などなど。
 思うのは、それらは、絶対反対な「私」というのを各人が主張したいのだろうということ。いや主張というより、昆虫が特定の状況で仲間や異性を呼ぶために独自の臭いを発するように、仲間がここにいるというシグナルを発するという機能が「絶対反対」なのではないか。ツイッターとか見ていると特に昆虫の世界みたいだし。
 「絶対反対主義」になると言説というか言葉というものが、「オマエも絶対反対なんだろうな?」という審問にしかならなくなる。言葉が相手に「踏み絵」として提出され「さあ、踏むや否や」というキリシタン狩りという江戸時代の状況になっていく。踏んだら、あるいは「絶対反対主義」の絶対に抵触しそうな意見を言おうものなら、罵倒・中傷の嵐になってくる。
 もう言葉が内容伝達や議論として機能しないのだからそうなると黙るしかない。それだけの覚悟をしても発言するのが言論の自由なんだというのもあるかもしれないが、まあ、私のような小心者には無理。
 そもそも民主主義というのは、それを成立させる前提に対しては厳格な規定はあるものの(暴力で言論を封じてはダメだよとか)、基本的に利害対立を前提にして、どう妥協を図るかということが課題になるものだ。民事事件なんかも同じと言っていいのではないか。判決という正義よりも示談が求められる。だから「絶対反対主義」ではなく、反対条件を提示してそこから話合っていかなくてはいけないと思うのだが、なんとも、どうにもならないご時世になった。
 この「絶対反対主義」という、率直に言うと一種の精神病理がどうして蔓延してしまったのか。先にシグナルと書いたけど、基本的にシグナルとしてしか機能しないし、そのシグナルの機能は昆虫みたいに「群れること」。人が基本的な社会連帯を失って孤独になっているということの裏返しなのだろう。
 人間なんて誰しも突き詰めれば孤独なものだし、その上で「人はみな一人では生きていけないものだから♪」みたいなところで妥協する。妥協が社会制度でもあるわけで、その妥協で「自分の孤独も腹八部」みたいに我慢するものだが、そういうのが難しくなってしまった。
 もう一つはルサンチマンだろう。怨恨。嫉妬と言ってもいいのかもしれない。自分と同じような能力のある人間が偶然ラッキーなポジションにいると、それを見て、社会は間違っていると思うのもしかたない。それも一定の条件で諦める類のもののようには思われる。諦められないというのは、その相手への憎悪(ルサンチマン)があり、連帯の欠落というのも、やはり孤独や連帯の欠如ということだろうか。
 実際のところ「絶対反対主義」の主張者がそれを満たしたとしても、さほどその個人にメリットはない。それが満たされないと世界の終わりのようにパニックを起こすのかもしれないし、それなりに多少社会パニックが起きるということもあるかもしれないが、だからといって「絶対反対主義」の人が特別ということはない。
 「じゃ、どうすんの」というのも正月つらつらと考えた。
 「承認」ということかな。孤独のシグナルというのは、承認欲求のシグナルでもあるのだろうし、日常的な承認が得られないことで「絶対反対主義」にドツボってしまったのだろう。
 地域社会やそれを少し超えたところで、各個人が上手に妥協的な承認を得るような制度というのが、これからの日本に求めらるのではないかと思う。あるいは、承認欲求が「絶対反対主義」みたいなうるさいものにならないようにするとか。プチ承認ゲームとか言ってもいいかもしれない。
 具体的にというなら、あまり商売っ気をださないでリアルと関連があるソーシャルゲームみたいのがよいのではないか。あるいは、そういうソーシャルゲーム的な要素を含んだコマース(商法)みたいなものもあるかもしれない。
 考えてみると、ブログなんかもそうしたプチ承認ゲームではあるんで、このブログなんかも、日本のブログ論壇とかいうより、「絶対反対主義」者さんがお熱を上げないように、プチ承認ゲームのぷちぷちしたところにすっこんでいるほうがいいだろうな、とか、思った。
 どや?(プチ承認)
 
 

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2012.01.05

[書評]蜂蜜パイ(村上春樹)

 一昨日の晩なんとなくラジオを聞いていたら、少し気になる感じの女性の声で朗読があった。何だろうかと思ったがすぐにわかった。熊の「まさきち」といえば、村上春樹の短編「蜂蜜パイ」である。2000年に出版された「神の子どもたちはみな踊る」(参照)に収録されてる。声は松たか子であった。しばらく聞いて、そして結局その回を全部聞いた。翌日に続きがあったが聞き逃した。が今朝の最終回は聞いた。7日の午後にその二回分の再放送があるらしい。

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神の子どもたちはみな踊る
 一昨日の晩、途中だった朗読の先が気になって書棚から「神の子どもたちはみな踊る」を取り出し「蜂蜜パイ」を通して読んだ。
 村上春樹の短編集の中ではこれがもっとも優れているだろうと私は評価しながらも、最後に置かれているこの書き下ろしの「蜂蜜パイ」は失敗作ではないかとも考えていた(他短編は「新潮」連載)。だが、松たか子の朗読を聞きながら、そうは簡単に割り切れない部分と、今になって思い至ることがいくつかあった。自分でも意外だったのだが、最終回の最後の部分の朗読を聞いて思わず嗚咽した。
 以下、この話のネタバレもあるので、未読のかたにはご注意。
 「蜂蜜パイ」という話だが、さほど売れない36歳の純文学作家・淳平が、熊の「まさきち」という即興の創作童話を5歳の女の子・沙羅に聞かせるところから始まる。沙羅は小夜子の娘で、小夜子とその夫の高槻と淳平の三人は、大学の同級生でもあり親しい友だちでもあった。朗読では松たか子の声が小夜子のイメージによく合っていた。
 浪人して入学した一歳年上の高槻は、大学一年の新学期にすぐ淳平に友だちになるように声をかけた。小夜子へもそうだった。高槻を介して三人は友情を育んだといえばそうだが、そこには漱石の「こころ」にも似た三角関係がある。
 小説家を志向する淳平と英文学者を志向する小夜子は文学を介して通じ合う心情があり、それは恋愛感情とも言えるものだ。高槻はたまたま文学部に入ったが、後、新聞記者になるように文学への志向も感性もない。高槻も小夜子を愛していたし、早々に高槻と小夜子は性関係を結んだ。それを知った大学一年の淳平は動揺し放心もするのだが、小夜子からの懇願もあって三人は大学時代、また以降もずっと友情を保った。高槻と小夜子は結婚し沙羅を産み、離婚した。
 小説には明示されていないが、高槻は自身と小夜子との恋愛関係に淳平を必要とした。ポジション的にいえば淳平が「こころ」のKになる。だが、漱石の小説とは微妙に異なり、淳平と高槻には自死に追い詰めるような精神の純化といった倫理はなく、小夜子もまた性の欲望に無関係の存在としては設置されていない。その意味で言えば、小夜子は宇治十帖の浮舟に近く、高槻は匂宮、薫が淳平のポジションにある。
 いや、私は不用意な文学趣味をここで述べたいのではない。「蜂蜜パイ」の物語は、源氏物語や漱石文学と類型があることと、身体の性の欲望の意味合いを重視したいと思うだけだ。
 高槻が淳平との友情に小夜子を持ち込んだように、小夜子もまたその友人の女性を淳平の恋人に誘導したという短いエピソードがある。その女性で淳平は童貞を失うのだが関係は続かない。作品には明示されていないが、小夜子は淳平がその女性との関係を挫折するように仕向けたにすぎない。むしろそのエピソードにおいて高槻と小夜子の、大人としての性の欲望が示されるなか、淳平は彼らに愚弄されているに等しい被虐状態にある。にもかかわらず高槻も小夜子もその淳平を必要としている点で、端的に言えば、三人は性の病的な共依存の関係にある。
 この物語はある性心理の病理を描いているが、これが村上春樹文学の特徴の一つでもある。この病理の一つのバリエーションは短編集「螢・納屋を焼く・その他の短編」(参照)収録の短編「蛍」であり、これは後、長編の「ノルウェイの森」(参照参照)に発展して、病理に一つの形が与えられた。
 このバリエーションは失敗であった。それが「蜂蜜パイ」創作の意味になる。年代系列として言えば、「ノルウェイの森」に至る「蛍」の失敗が、もう一つのバリエーションとして「蜂蜜パイ」に至った。その意味で「蜂蜜パイ」の長編化も期待されていた。
 「蜂蜜パイ」を村上春樹の中・長編作系列に位置づけてみる。明瞭にわかるのは、「蛍」から「ノルウェイの森」に至るような発展長編がないことだ。年代的には「蜂蜜パイ」が執筆されただろう1999年には「スプートニクの恋人」がある。この作品の「ぼく」と恋人のすみれの関係は、淳平と小夜子の関係に似ているが、「蜂蜜パイ」の変奏ではない。ただ偶然だろうが、すみれは「ぼく」をKと記しているのが漱石の「こころ」の符牒にはなっている。
 2002年の「海辺のカフカ」(参照)は「蜂蜜パイ」を連想させないが、2004年の「アフターダーク」(参照)には明瞭な関連がある。「蜂蜜パイ」において、小夜子と沙羅を脅かす無名の存在は「アフターダーク」の主題となる悪意と同一である。「蜂蜜パイ」で、高槻と離婚した小夜子と淳平の性交中に、無形の悪意に怯えた沙羅が訪れた後の描写は明示的である。

 その夜、沙羅は小夜子のベッドで眠った。淳平は毛布をもって居間のソファに横になった。でも眠ることはできない。ソファの向かいにはテレビがあった。彼は長いあいだそのテレビの死んだ画面を眺めていた。その奥には彼らがいる。淳平にはそれがわかった。彼らは箱のふたを開いて待っているのだ。背筋のあたりに寒気がして、それは時間が過ぎても去らなかった。

 テレビが点けられ、「彼ら」の側から描かれた中編が「アフターダーク」である。しかし小夜子と沙羅の物語がそこに直接暗示されているわけではない。
 2009年を待って長編「1Q84」(参照参照)が発表される。この物語の、天吾と青豆の関係は、淳平と小夜子の関係が強く投影されている。「蜂蜜パイ」での、淳平と小夜子が初めて性交に及ぶ描写が、天吾と青豆の性交描写と酷似していることからでもわかる。
 引用はしないがその描写はさほど美しもなければ感興も催さない。三十歳を過ぎた男女が、童貞と処女のように、しかしようやく性の欲望に至るといった性交描写は、普通の性の感覚を持つ男女であれば、苦笑の対象でしかない。なのに村上春樹はそうした中年の男女の性の再結合を愛の物語として執拗に描いてきた。この作家はそれが成熟した大人にとって性の病理でしかないことが理解できていない。
 いや、そうした「純愛」が病理であることの一つの克服のプロセスが、「蜂蜜パイ」であると言えないこともない。その超克が「蛍」・「ノルウェイの森」を廃棄して「蜂蜜パイ」を創作した意味であると解することもできる。それは成功しているだろうか。そうは読めない。
 「蜂蜜パイ」の結末において、淳平は怯える沙羅と小夜子を守ろうとし、また小夜子に結婚を申し込もうとするが、他面において淳平は高槻の関係の修復を求めている。小夜子もまたそれを期待している。
 普通の大人であれば、それは沙羅という子との関係において望まれる倫理に過ぎないのだが、淳平も小夜子もその文脈も倫理も理解しているふうはない。少なくとも淳平は理解していない。淳平は沙羅の父となるという自覚はない。
 ぞっとするような性倫理の欠落が物語の根底にある。その欠落は再び漱石の「こころ」を想起される。「こころ」の終末が描くだろう光景を覚えている人はいるだろうか。それは「先生」の自殺ではない。Kと先生と先生の妻となった女の三人が並ぶ墓石である。「蜂蜜パイ」もまた高槻と淳平と小夜子が並ぶ墓石を描き出そうしている。
 私はここでゲロを吐きそうになる。そんなものは理想としたくもない、美しくもなければ文学ですらない、と。だが、その汚辱に似た感覚こそがまさに文学であるかもしれないし、日本文学であるのかもしれない。
 「蜂蜜パイ」の物語は、この私などには嫌悪しか催さない病理的な性関係の追究や、高槻と淳平と小夜子の愛情の再構築が、熊の「まさきち」と「とんきち」という童話の暗喩で、いわばメタフィクションとしても語られている。その関係を取り持つ象徴が表題でもある「蜂蜜パイ」である。
 メタファーの童話には、蜂蜜取りが上手で世慣れた熊の「まさきち」の話の後、鮭を捕るのが上手で世渡りの悪い熊の「とんきち」が登場する。安易なメタファーではないが「まさきち」は高槻であり「とんきち」は淳平である。蜂蜜はまさきちの愛情であり鮭は淳平の文学であろう。小夜子の位置は隠されているが、まさきちの蜂蜜がより付加価値のある「蜂蜜パイ」となる暗喩は、淳平の小夜子への愛と沙羅への家族的な愛ではあるだろう。
 童話でとんきちは動物園に送られる。世間的に孤独にそして心理的にも束縛され、短編作家に限界を持つ淳平自身の一つの自虐としても語られる。沙羅の無意識はそれを察して、まさきちの蜂蜜でとんきちが蜂蜜パイを作って売ればいいのではないかと提案する。小夜子と沙羅という家族愛を淳平が受け止めればよいという暗喩でもある。そこがこの物語のハッピーエンドへの転機を暗示する。
 その転機で物語はもう一つ、小夜子の乳房が象徴として出現する。かつて高槻と小夜子が性関係を結び淳平が懊悩しているとき、小夜子が淳平を訪問し抱擁し、淳平にその乳房を結果的に印象付けた。
 物語の転機では、沙羅の提案で「ブラ外し」ゲームをする。服を着たままブラジャーを脱いでまた急いで装着するという小夜子の一人ゲームである。この挿話はこの短編においてもっとも美しい装置になっている。
 物語において脱いだブラは装着されていなかった。そのことが、小夜子が淳平と性交に及ぶという決意でもあるのだが、実際に彼らの性交においてブラのない乳房が現れる描写は割愛されている。短編なので省略されたのかもしれないが、沙羅を襲う恐怖の場面で淳平がブラを発見するシーンとの整合ができなかったせいもあるだろう。

 眠るのをあきらめてキッチンに行き、コーヒーを作った。テーブルの前に座ってそれを飲んでいるときに、足下に何かくしゃっとしたものが落ちていることに気づいた。小夜子のブラジャーだった。ゲームをしたときのままになっていたのだ。彼はそれを拾い上げ、椅子の背にかけた。飾り気のないシンプルな、意識を失った白い下着だった。それほど大きなサイズではない。夜明け前のキッチンの椅子の背にかけられたそれは、遠い過去の時刻から紛れ込んできた匿名の証言者のように見えた。

 村上春樹の文学を体系的に読んできたものなら、このシーンからは「羊をめぐる冒険」(参照)を思い出すだろう。そこではブラではないが女の残した下着を椅子にかけてその不在が語られた。
 「蜂蜜パイ」のこのシーンではすでに淳平は小夜子との性交を終えている。ブラのない露わな小夜子の乳房を淳平は経験しながら、「それほど大きなサイズではない」として、ブラだけを、その乳房の不在のように鑑賞している。
 性衝動が単純であれば、ブラは乳房を比喩するだけであり、乳房をもった生身の小夜子への愛に至るはずだが、淳平はここでブラと不在の暗示に愛着を持っている。フェティッシュではない。「遠い過去の時刻から紛れ込んできた匿名の証言者」は、あのときの乳房、つまり高槻と小夜子が性関係を結んだ後に淳平に押しつけられた若い小夜子の乳房であるはずだ。
 だがこの文脈で淳平が想起したのは、若い日の高槻であった。嫉妬ではない。不在であり、消耗の暗喩である。

人生という長丁場を通じて誰かひとりを愛し続けることは、良い友だちをみつけるのとは別の話なのだ。彼は目を閉じ、自分の中を過ぎていった長い時間について考えた。それが意味のない消耗だったとは思いたくなかった。

 友情や友情にも近い若い日の恋愛感情が「人生の長丁場」に試される場に、高槻も淳平も小夜子も立たされた。高槻はそこで蹉跌し、小夜子と淳平はそこで再度決意したとも言える。もっともその決意は、「こころ」のような三つの墓石が暗示されてもいるが。
 物語のエンディングは1996年を指している。36歳の淳平と小夜子は1960年生まれ、37歳の高槻は1959年生まれであろう。朗読を聞きながら、私は初めてそのことに気がついた。彼らは私に近い年齢であった。これは私の世代の物語でもあったのだと思った。そして私もまたその年齢で「蜂蜜パイ」の物語に等しい大きな人生の転機があったのだった。自分の経験を記憶として辿るとき、そこに物語として問われるものがある。人は物語なくしてその問いを発することができない。「蜂蜜パイ」に向ける私の稚拙な憎悪と感動の混合はまさに現在の問いの形をしている。
 
 

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2012.01.04

郊外型マクドナルドに行ってみた

 正月帰省ラッシュのピークが過ぎたのか幹線道路は空いているようだった。渋滞に立ち往生もすることもないと思ったら気が抜けて、飯でも食う気になった。うどんか。いや、うどんはないだろ。でも、うどんか。いや、さすがにもう、うどんはないだろと前方に目をやると、m(エム)の看板がある。マクドナルドである。
 ドライブスルーでなんか買うかとも思ったが、ダークな色調の店舗で妙にピカピカとした感じがしたので入ってみることにした。ドアの前に立ってから、それが自動ドアではないことに気がつく。よく見ると禁煙マークがある。入り口に禁煙マークのあるマクドナルドって存在するのか。その違和感が、コインを落としたかのように脳裏に響いた。
 店に入ると、ぷんと化学物質臭がした。マクドといったらすえたショートニングと煙草の臭いだろと無意識に予想していたので面食らう。見回してみて、どうやら新築ということらしい。
 ドナルドがやって来きて、「新築マクドナルドにようこそ。マクドナルド3.3.1 を使うとあなたのルックス、性格、そしてファストフード・エクスペリエンスが向上します。いえ、実は最後の項目だけですが、まあいいでしょう :)」とか言ったりしてね。ははは。
 一人ネタを思いついてくくくと笑うが、まわりは静かである。もしかして開店してない店なんてことはないよな。駐車場にも車は入っていたし、客もいるにはいる。スタッフもいる。なんとも変な感じがするのは学生がいないからだろうか。まあいいや、食えるなら。
 注文カウンターに向かい、メニューを見る。ない。グラコロがない。実は昨年マクドのグラコロの無料クーポン券を貰ってサイフに入れてあるのだが、店舗によってはないのか。メニューに記載されていないのか。聞いてみた(トリビア泉のナレーションの声で)。
 期間限定です、とのこと。じゃ、チーズバーガー。「セットになさいますか?」
 困ったな、セットというがよくわからない。「ポテトがつくの?」「Mサイズがつきます」 まあ、いいや。それとコーヒー。490円。
 二階がある。食い物のトレイを持って階段を上がると、二階は、おや、というくらい明るい。広々として落ち着いている。やたらと広い窓ガラスが四方を囲んでいる。ポスターもない。リア充の若者も当然、いない。家族連れや中年の男女がぽつんぽつんと居るようだ。
 客はまばらだが、ビューのいい席も空いている。これならカウンター席の端っこでひっそり人様に迷惑をかけまいとする、いつもの行動を取らなくてもいいんじゃないかと、ゆったりと窓際の椅子に座る。ここで、え?と思う。
 椅子があるのだった。そりゃ、ある。いや、椅子が動くのである。自動で動くというのではない。手に取って引くと椅子が動くのである。あの、環境型権力とは何かの議論でよく出てくるマクドナルドの椅子ではないということだ。
 それどころか、背もたれはないけど、クッションのきいた椅子すらある。これが、郊外型マクドナルドってやつなのか。へえと思う。世の中変わったな。明るく伸びやかな空間にいると、逃走者も出頭したくなる気持ちがふと理解できる。
 広い窓ガラス越しに街道を行き交う車と青空の拡がる遠景を見つつ、コーヒーを飲む。今日は砂糖とミルクを入れてもいいような気がしてくる。入れる。チーズバーガーをほおばる。これだけは青春時代と変わらないような気がして、やっぱり自分はマクドナルドにいるんだと心落ち着かせる。
 だが、ピクルスが二枚入っている。なんかの間違いだろうか。不安な気持ちになる。遠望、急速に暗雲が立ちこめる。そういえば、昨日の天気予報で、今日は午後雪になると言ってた。スマホを取り出して天気予報を見ると、これから曇、そして雨になるらしい。
 そういえば、この店、Wifiっているのかと試してみると、ない。電波の入り具合は悪くない。むしろ、電波は入りやすいんじゃないか。電波?
 そのとき、後ろで大きな怒号がした。俺は驚きながら振り返った。いや、ちょっと違うか。
 背後から強烈な罵声があったので、俺はまためんどうなことになったなぁ、とか、そういや昼飯も食い終わってないなぁとか色々な思いを巡らせつつも振り返ることにしたのである。いや、そんなラノベ調ではない。
 突然の罵声というものを想像するとき、僕はアフリカの砂漠に忘れられたCDプレーヤーのことを想像してみる。それは恐ろしく空しく、かつては希望であったものの残存なのだ。いや、そんな春樹風でもない。
 空気が、震えた。猛狂うような罵声に振り返ると、郊外型マクドナルドの店内の客たちは凍り付いた。女は腹の底から雄叫びを繰り返した。やはり北方謙三だろ、ここは。
 四十歳は超えている変な格好の女が怒り狂って、「あほか」「なんべんいうたらわかるんか」「ぼけ」とかでかい声で言いまくっているのである。
 もちろん、私は彼女が携帯電話をしているのだと思った。彼女の夫か、恋人か、友だちか、同僚か。ここにいない敵に向かって、何かとてつもない怒りを発散しているのだと思った。そういうことは誰の人生にもある。私にはあまりないんだが。
 半径1メートルということはないが、2メートル圏内の、女の関西弁の罵声は続く。しばらくすれば治まるだろうと高を括ってチーズバーガーを囓ったそのとき、「ぼけ!」と一段と強い声がした。
 もしかして私に怒っているのではないか。もしかして彼女は僕が青春時代心ならずも別れた恋人の一人であるとか……いかんな……振り返ると、彼女の目は私の方向を向いているのだが、ガラスの向こうを見ているようである。遠い誰かを罵っているのだと思ったそのとき、私は彼女が携帯電話など手にしていないことに気がついた。うっぷす。これは強力な電波だ。彼女は見えない敵と戦っているのだ。
 冷静になれ、俺。
 危害があるわけではないし、社会はそういう人々と共存していくべきなのだ。がまんできる範囲ではないのか。「ぼけ!、わからんかい!」 すまん、わからん。
 構図的に、他から見ると、どうも私が罵声の対象のようにも見える。どうも、少ない客も凍り付いたようなテンションで、こちらを盗み見ているようでもある。
 だめ、もう限界。一階にも席があったことを思い出して、引き上げる。というか、さりげなく引き下がる。成功。
 階下の席の隣には、40歳くらいの男が一歳くらいの赤ん坊にハンバーガーをちぎって食わせている。嫁はどうしたのだろうと思うし、もしかするとそこには悲惨な物語が秘められているのかもしれないが、赤ん坊が可愛いので見つめているうちに、店員がなんども二階に上ったり下りたりしていることに気がつく。
 もしかして、マクドナルドのマニュアルにある緊急オペレーション発動なのだろうか。ああいう客をどう対処するのだろうか。いかん、もうワクテカ状態。店内を見渡すと、なぜか英語の注意書きばかりで、トイレもない。トイレは二階か。じゃと、トイレに行くふりでもしてもう一度階を上る。
 女は、さっきと変わらず、怒り猛っているのだった。さっきまであの罵声の2メートル圏内に居た自分の残存を想像してみた。ぞぞぞ。
 まあ、もういいや。手だけ洗ったふりして階下に降りる。食事した気がしない。チーズバーガーは消えている。たぶん自分が食ったのだろう。隣の赤ちゃんが食ったとしてもいいけど。
 Mサイズのポテトは大量に余っている。心のスイッチをオフにしてぼうっとしながら機械的にポテトを食う。なんか青春とかにそういうことあったなとか少し記憶の残骸のようなものがよぎる。
 ポテトにはさして味がない。そういえば、30年くらい前、一つ年上のコリアンの女性とマクドでポテト食ったとき、日本のマクドナルドのポテトにはどうしてケチャップついてないのかしらと言っていた。彼女が暮らしていた米国だと、小パック皿のケチャップが付いてきて、ポテトの先をディップして食うのだそうだ。へえと思ったものだった。でも、日本でもカウンターで頼めばもらえる。この店でも、もらえるかなときいてみたらもらえた。
 マクドナルドでは、ポテト用のケチャップは言えばもらえます。これ豆知識な。
 
 

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2012.01.03

ボードゲーム 「カルカソンヌ」日本語版

 「カルカソンヌ」も今となっては古典的なドイツボードゲームである。2001年に「ドイツ年間ゲーム大賞」と「ドイツゲーム大賞」を受賞した。「カタンの開発者たち」に次ぐエポック・メーキングな作品でもある。非常に面白いし、私の印象だが、ゲームとして数学的に美しい。特にiPadへに移植された版は、音楽、ビジュアル、操作性においても、ワンダホ!の美しさである。

cover
カルカソンヌ
日本語版
 ゲームの題材となった地名「カルカソンヌ(Carcassonne)」は、フランス南部ラングドック地方の、海にも面しスペインにも近いオード県の県庁所在地である。
 ローマ時代にすでにこの地に要塞都市が建設されていた。その後、4世紀のフン族移動に圧迫された西ゴート族(Visigoth)が5世紀にこの地に侵入し、この地をセプティマニアとした。
 453年にテオドリック1世が、現在のカルカソンヌに西ゴート王国の北部の前線の要塞都市を建設した。508年にパリを首都と定めたフランク国王クロヴィス1世が同年、この要塞都市を攻撃したが不落であった。
 725年、バルセロナから侵攻してきたサラセン帝国がこの地を制圧したが、ピピン3世(小ピピン)は759年に奪還した。以降カロリング朝の下、ベローがこの地の領主(伯爵)となり、ベロニド朝としてこの地に君臨する。
 カルカソンヌという地名は12世紀に作成された伝説で説明されることがある。その一例よると、サラセン帝国統治下の時代、カール大帝(シャルルマーニュ)はこの要塞都市を攻め、都市の王バラアチを倒したが、難攻不落の要塞はその王妃カルカス引き継つがれ籠城戦が続いた。カール大帝は要塞の食糧が切れることを期して持久戦に持ち込んだ。5年にわたる包囲戦で要塞内の食糧が枯渇したが、カルカスはそこで一計を案じ、最後に残る小麦で肥えさせた豚を一頭、城外のカール大帝軍に投げつけた。これを見て大帝は城内にはまだ食糧があると思い込み、撤退を決意する。かくしてカルカスは勝利の鐘を打ち鳴らしたという。これで「カルカス(Carcas)が鳴らす(sonne)」で「カルカソンヌ」という地名となったというのである。駄洒落である。伝説には他にカラカスをキリスト教徒に擬すものもあるようだ。実際の名称の由来については「小城」を表す"Castellone"の音変化と見られている。
 近代に復元された城壁都市部は1997年にユネスコ世界遺産として登録された。以降国際的に著名な観光地となり、ボードゲームもそれにあやかったものではないかと思う。
 ゲームはというと、プレイヤーが七並べよろしく、また坊主めくりよろしく、正方形の地形の厚紙タイルを捲ってはルールに従って敷き詰め並べて、カルカソンヌ地方の地形を形成し、その地形の道や都市などに専有の印を置いて得点を得るというものだ。
 得点は、道が繋がることや、城壁都市や修道院を造ること、さらに草原を得ることがある。取得部分には各プレーヤーの駒を置き、得点完成時には印を戻す。各プレーヤーは7つの駒を持つ。タイルが全部敷かれたら終わり。得点は、クリベッジから模倣されたと思われる得点ボードで表現される。
 ルールは「カタンの開拓者たち」などにくらべると易しいともいえるし、一度ルールを理解すれば小学生低学年でもできる。ただそれでも、ルールを読んで理解するのは難しいかもしれない。特に、「草原ルール」は囲碁にも似た雰囲気があり、最終になるまで得点が見えないことが多い。このため最初にするときや、初心者や低学年の子供を含めるときは、「草原ルールは、なしにする」ということもある。
 カルカソンヌには、追加キットがいろいろあるが、私はやったことがない。だが、追加キットとはやや異なる別バージョンの「運命の輪」は持っていて、たまにする。こちらは日本語化されてないらしく、ドイツ語版を購入した。地形が複雑で意外な結果になるというのと、ボード中央の「運命の輪」がゲームに加点や減点の要素を追加する分、複雑になる。
 この「運命の輪」だが、輪を回す役割をするのがピンク色の豚の駒なので、さてはカルカソンヌの伝説の豚を模しているのかとも思うが、そうでもなさそうだ。というのも、「運命の輪」のドイツ語版には同タイトルのヘレネ・ルイーズ・コペルという作家のペーパーバック小説が同梱されているが、伝説をノベライズしたものではなさそうだ。これは別途「Das Gold von Carcassonne」(参照)として出版されている小説と同じものらしい。
 私の購入した版には同梱されていなかったし、同梱されていてもドイツ語の小説は読めない。調べてみると物語は、13世紀を舞台とした歴史恋愛小説のようだ。まあ、修道院なども重要な要素になるのだから、その時代だろうとは思う。
 カルカソンヌは、カタリ派とも関係深く、その要素も物語に含まれているようだ。いや、それはそれで読みたいぞ、その小説。
 
 

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2012.01.02

ボードゲーム「カタンの開拓者たち」日本語スタンダード版

 いまさら「カタンの開拓者たち」(参照)でもないでしょうという人も多いだろう。

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カタンの開拓者たち
スタンダード版
 でも、それなりにプレーしやすい日本語のリニュー版「カタンの開拓者たち(日本語スタンダード版)」(参照)が出たのは昨年4月末だった。いやはや、待ちましたよ。
 率直に言うけど、製品がどういうものか了解している人なら、「カタンの開拓者 携帯キャリーケース版」(参照)や「ポータブル カタン」(参照)でもいいが、初めて「カタンの開拓者たち」をするというなら、この日本語スタンダード版がよいのではないか。それなりにゲームボードも厚く広いし、駒もカードもそれなりに使える。むしろ今の自分としては、別の言葉でもいいからもっと上等な作りのがほしい。
 「カタンの開拓者たち」はボードゲームの世界に革命的な変化をもたらしたともいえるほどの定番ボードゲームで、1995年にドイツの「年間ゲーム大賞」と「ドイツゲーム大賞」を受賞している。現代古典とも言えるボードゲームだし、現在でも当然、面白い。時間はプレーヤーが強くなるにつれ長くなる傾向はありそうだ。一時間では終わらないかな。
 面白いボードゲームだし、入門的なボードゲームでもあるのだけど、初めてプレーする人にとっては、最初は、とっつきにくいかもしれない。ルールは覚えてしまえば難しくはないが、説明書だけで理解するのは難しいだろう。
 日本版販売元のサイトをみると小学生向けの解説書(参照PDF)もあったが、わかりやすいという印象は受けない。製品添付の説明書(参照PDF)も公開されているが、どうだろうか。やはり、最初は知っている人に教えてもらうほうがいいだろう。
 基本のゲームは、六角形のタイルを19枚円陣(ハニカム)に敷き詰めて形成されたカタン島へプレーヤーが開拓者となって入植していくというものである。土地よって資源の産出が、木材・煉瓦・麦・鉄鉱石、羊と異なり、この産出と交易をもとにコストを支払って都市を線上に発展させていく。発展状況に応じて加点され得点で争う。
 資源の産出は二つのサイコロの数で決まることから、よく出る目の確率の土地が肥沃ということなる。だが、初期時点で肥沃な土地は独占できない。そこで、貧相な土地や、資源の偏りなどから、戦略と交渉力が問われることになる。また最もよく出る目は盗賊の対象にもなるので、肥沃な土地は抑制されやすい。
 やってみると、会社経営のように経営ゲーム的にも見えるし、コストと投資の関係が自然に問われるようになる。こういうのきちんとやれば、生産力やコストを無視した理想論とかに振り回されないような市民の教育にもなるのではないか。自由貿易が双方の利益になるときに発生することも、楽しく学べる。小学校の授業で取り入れてるのもお薦めしたい。
 「カタンの開拓者たち」には、英語表示だがiPad版・iPhone版共通で使える電子ゲームもある。ちょっとアメコミぽい感じの、プレーヤーのキャラ絵は好みが分かれるだろう。操作性は悪くない。プレーヤーのキャラはターン毎に「俺の勝ちだぜ」みたいなぶつぶつつぶやく機能もある。現実のボードゲームのプレーも、こんなふうなコミュニケーションも楽しいものなんだが、iPadでやっているとうるさくも感じられる。それでも、iPad対戦とかやってみると、ルールの確認にもなるし、戦略の検証やチャンスのシミュレーションにもなる。
 
 

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2012.01.01

ボードゲーム「世界の七不思議」日本語版

 ボードゲーム「世界の七不思議」(参照)は、2009年の「ドミニオン」(参照)に続き、昨年「ドイツ年間ゲーム大賞 エキスパートゲーム大賞」「ドイツゲーム賞 大賞」「アラカルトカードゲーム賞 大賞」の三大賞を獲得した。評判に押されて日本語版も出たのでやってみた。なるほどの面白さであった。

cover
「世界の七不思議」
日本語版
 「世界の七不思議」は「ドミニオン」同様、カードが主体なので、ボードゲームと呼ぶのは違うようにも思うが、広義にドイツボードゲームとしてもよいのではないか。やってみた感触はトレーディングカードっぽいドミニオンより、純然たるボードゲームである「エンデバー」(参照)に近い。
 「エンデバー」が出たついでに言うと、このゲームは大航海時代の世界で、「世界の七不思議」は古代ヘレニズム世界である。何回かやってみると、歴史的な象徴の暗喩もよく練られていることがわかって楽しい。
 ボードゲームには詳しくはないのであまり比較はできないが、「世界の七不思議」の資源産出・交易・建設コストという基本の考え方は、「カタンの開拓者たち」(参照)に近く、カタンの建設コスト表が各カード化したような印象もあった。
 ゲームは「世界の七不思議」というだけあって、7名までプレーできる。各プレーヤーは「七不思議」の一つの「不思議」、つまり驚異の建造物に代表される都市国家を受け持つ。具体的には、ギザのピラミッド、ロードスの巨人像、アレクサンドリアの灯台、エフィソスのアルテミス神殿、バビロンの空中庭園、オリンピアのゼウス像、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟である。
 日本語では「不思議」と訳されているが、Wondersは「驚異」を覚えるような対象ということでもあり、古代へレジニズム世界の名所旧跡的な意味合いもあった。ちなみに、ギザとエフィソス、オリンピア博物館は実際に行ったことがあるので、親近感も持った。
 ゲームは各人七枚のカードを持ち、一枚ずつ切る。これを三期に分けて使いこなす。一期に六枚のカードを切って(最後の一枚は切らない)、各古代都市の富や建造物、軍事力を通して得点を得る(ピラミッドなどを各不思議を構築しということではない)。
 三期の各期はそれぞれ都市の発展段階を比喩している。特に一期目は、自己都市と隣接都市の産出資源を理解していく必要がある。
 一枚カードを切ったら手持ちの残りのカードは隣の人に渡す。つまり、手札はプレーヤーを流れていく。このことによって相手の情報を読み取ることが可能になる。最初は自分の手札から最適なカードを切って、しこしこと自己没頭型ゲームのようにも思えるが、いや、全然違う。
 面白いのは、局面毎の最適戦略を採っていくと自滅することだ。ゲームの進展シナリオの全体を構想する能力が求められる。また特定の戦法を採っていくのも自滅しやすい。最終的な得点では、「科学」「ギルド」というインフレーションの仕組みが物を言うが、それでも全体的な得点のバランスを志向したほうが強いようだ。
 反面、ゲームに慣れているプレーヤーだと、第三期あたりで混戦というか、いったい誰が勝っているんだ、誰が誰を裏切っているのだというのが、非常に微妙になってくる。基本的に隣接する都市との交易が重要になるが、隣接しない都市で資源や継続カードが止められていることもある。
 いやはや、よく練られたゲームだと言えるが、欠点としては、ゲーム終了で得点計算するまで、誰が勝者かわからないことが多い。しかし、分かってみると「あのときに、糞、してやられたんだ」とむらむらとくる後悔が味わい深い(もちろん、けけけと後から勝利感を味わうこともある)。
 ゲームでカードを切る機会は基本的18回しかなく、プレーヤー毎に順繰りということでもないので、慣れてくるとゲームはさくさくと進む。標準プレー時間30分というのも頷ける。が、実際は難しい局面があり、長考場面が出てくるので30分はちょっと無理かもしれない。それでも、「挽回できないのいつ終わるんだこのゲーム」みたいなぐったり感はないので、つい続けて二回戦くらいにはなる。
 ゲームのルールだが、一度覚えてしまえば、シンボルの仕組みは簡単なので小学生でもプレーできる。が、ルールブックから理解しようとすると極めて難解。
 カタンやドミニオン、エンデバーなどをやっていると、なるほどという類推は効くが、それでも難解。もう少しわかりやすいルールブックに書き換えられないかとも思ったが、具体的に考えてみると思いつかない。最初は誰か知っている人に教わったほうがいいのではないか。
 ゲームは無理なく七人でできるが、四人くらいだとカードの流れと読みが複雑になり一番面白いように思う。二人だけの対戦型のルールもある。
 
 

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