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2011.02.12

エジプト争乱、後半戦について

 物事は入り口と出口だけ見るとすっきりわかることがある。エジプト争乱について、統治形態(regime)という点から入り口を見ると、曲がりなりにも、統治には行政府が存在していた。では、出口は、というと行政府は消えて、軍の最高評議会が現れた。
 エジプト争乱の過程では、行政府が消え、軍が国家を掌握した。この入り口と出口から事態を定義するなら、普通は、軍によるクーデターとなる。
 革命なら、入り口に独裁政権があり、出口に議会(人民会議)がある。この事態は、してみると、革命とは言い難い。
 あるいは、軍政はごく一時的なものであり、市民から選出された代議員による議会が主導し、国民の意思で大統領選出させて行政府が立ち上がるなら、それは民主化革命と呼ぶにふさわしい。どうなるのか。
 12日5時のNHKニュース「大統領権限 軍の最高評議会に」(参照)はこう伝えている。


エジプトでは11日夜(日本時間の12日未明)、スレイマン副大統領が国営テレビで声明を発表し、「国内の厳しい状況を受け、ムバラク大統領は退くことを決断した」と述べ、ムバラク大統領が辞任し、大統領の権限が軍の最高評議会に移譲されたことを明らかにしました。これを受けて、軍の報道官が声明を発表し、権限の移譲は、あくまで一時的なもので、新しい体制づくりに向けた対応は決まりしだい発表するとしています。

 大統領権限が軍の最高評議会に移譲された。行政について見るなら、クーデターと呼ぶ以外にこの移譲にどういう正統性があるのかわからない。
 軍最高評議会議長は、75歳のムハンマド・フセイン・タンタウィ(Muhammad Hussein Tantawi)国防・軍需生産相で、またもムバラク氏の盟友である(参照)。
 NHKニュースでは、この権限の移譲は一時的なものであるとのこと。ならば、これから民主化の希望がないわけではないことになる。その希望があるだろうか。
 私は残念ながらないと思う。
 今回の争乱も最初に想定したとおり、見事に軍の主導でチキンゲームが続いただけだったからだ(参照参照)。
 軍のもくろみは3つあった。(1)ムバラク元大統領の息子ガマル氏に行政権力を継承させないこと、(2)82歳にもなったムバラクを引退させること、(3)軍がムバラク政権と心中せず国民からの正統性を受けて存続すること。
 見事、3点、クリアした。
 そこには、軍の意志が存在し、軍が国家の暴力装置に収まる、つまり行政権力の配下に従属し、自身では暴力が発動できなくなる、という近代国家の仕組みも意図も、まったく存在してはいない。ここからどうして民主化が出てくるのか、私にはそこがわからない。
 もちろん、ムバラク政権時代よりも民主化は進む。先年末にワシントンポストが懸念したような弾圧は減るのではないだろうか(参照)。むしろ、あの弾圧の主体が、そのままムバラク氏に集約される権力だったのだろうか。
 エジプトには45万人ほどの軍、つまり正規軍とは別に、内務省管轄の中央保安軍(Central Security Forces)(参照)が35万人存在している。日本の機動隊に相当すると言ってもいいだろう。警察機構を支援する点で警察機構に近い。その他の暴力組織も軍とは別に存在している。
 結果論からするとはっきりするが、ムバラク政権下の暴力発動の主体は正規の軍指揮系によるのではなく、軍以外の暴力組織が担っていた。つまり、軍とは分離されていたのではないか。
 この点を過去に遡及し、以前から存在する非軍部の暴力を再考すると、それがムバラク氏の直接的な権力に由来していたかも疑われる。もちろん、そこまでは私はわからない。私の推測だが、それほど一致はしていなかったのではないだろうか。
 争乱の比較的初期の時点でムバラク氏は辞任を表明しており、軍との調整も進んでいた。おそらく軍と深い関係をもつ米側とも協調し、なだらかな引退の路線はすでに敷かれていたのだろう。
 むしろ軍が緩和なクーデターを画策しなければならなかったのは、この非軍的な暴力組織の存在であり、構図からすれば、ガマル氏の勢力に由来していたのではないだろうか。ここは十分には読み切れないところだが、ムバラク氏とガマル氏は親子ではあるが、王朝の継承というより、ガマル系列の独自の権力構造が軍から問題視されていのではないかと私は推測する。
 争乱の経緯も軍のシナリオどおりに進んだ。実質、先週の4日金曜日を越えた時点で民主化運動は終わっていたとも言える。2日付けフォーリンポリシー寄稿「Game over: The chance for democracy in Egypt is lost」(参照)もいち早く、その構図を打ち出していた。とはいえ、同寄稿ほどに私はムバラク氏側にそれほどの知略があったはとも思えないが。
 いずれにせよ、軍とオバマ米政権による枠組みはこの時点であらかた収束しており、実際には米側ではムバラク辞任でガス抜きをしなければどうしようもないだろうというシナリオまでいちおう用意されていたのだろう。
 この部分、つまり後半戦の推移をどう読むかは、微妙なところだ。
 4日金曜日後、運動は沈静化に向かい、カイロ市民生活も復帰したところで、8日ひょっこりと、それまで10日間も行方不明だった米検索大手グーグルの幹部ワエル・ゴニム(Wael Ghonim)氏が拘束を解かれ、民主化の英雄として名乗り出て、運動を盛り上げ、今回の12日の金曜日への熱気を主導した。
 できすぎていると言えば陰謀論臭くなるが、なぜこの時期に拘束が解かれたのかその背景の思惑は存在していると見てよく、おそらく軍側の是認があり、であれば軍と組んだ米側の要請もあるだろう。そう推測することはごく普通の推論の範囲であるように思われる。
 ゴニム氏に関連する米側の関わりだが、陰謀論は採りたくない。だが今回の争乱を主導した「4月6日運動」に米国と深い関わりがあることは、ウィキリークスが暴露している。暴露公電は2008年12月30日、「Viewing cable 08CAIRO2572, APRIL 6 ACTIVIST ON HIS U.S. VISIT AND REGIME」(参照)である。

¶1. (C) Summary and comment: On December 23, April 6 activist XXXXXXXXXXXX expressed satisfaction with his participation in the December 3-5 "Alliance of Youth Movements Summit," and with his subsequent meetings with USG officials, on Capitol Hill, and with think tanks. He described how State Security (SSIS) detained him at the Cairo airport upon his return and confiscated his notes for his summit presentation calling for democratic change in Egypt, and his schedule for his Congressional meetings. XXXXXXXXXXXX contended that the GOE will never undertake significant reform, and therefore, Egyptians need to replace the current regime with a parliamentary democracy. He alleged that several opposition parties and movements have accepted an unwritten plan for democratic transition by 2011; we are doubtful of this claim. XXXXXXXXXXXX said that although SSIS recently released two April 6 activists, it also arrested three additional group members. We have pressed the MFA for the release of these April 6 activists. April 6's stated goal of replacing the current regime with a parliamentary democracy prior to the 2011 presidential elections is highly unrealistic, and is not supported by the mainstream opposition. End summary and comment.

要約とコメント:「4月6日運動」の活動家であるXXXXXXXXXXXX氏は、12月3日-5日の「青年運動サミット同盟」に参加し、加えてシンクタンクを伴う米国連邦議会開催の米国政府役員と会合に満足したことを12月23日に表現した。彼は、国家治安調査局が帰国時に、彼をカイロ空港で拘束したようす、またサミットで実施した、エジプトにおける民主化変革の要望についてのプレゼンテーション・メモと議会会合のスケジュールを没収したようすについて記述した。XXXXXXXXXXXX氏は、エジプト政府はけして重要な変革を受け入れないし、よってエジプト国民は現体制を議会制民主主義に置き換える必要があると主張した。彼は、いくつかの野党と運動団体が2011年までに民主主義への移行についての書かれざる計画を受け入れたと主張した。私たちはこの主張を疑っている。XXXXXXXXXXXX氏によれば、国家治安調査局は最近2人の「4月6日運動」の活動家を解放したが、さらに3人のグループ活動家を追加で逮捕したとのことだ。私たちは、「4月6日運動」の活動家の解放をエジプト外務省に催促した。2011年の大統領選挙に先がけて現政権を議会制民主主義と入れ替えるという、「4月6日運動」の活動家らが語る目標は非常に非現実的なため、主流の反対党派には支持されていない。
要約とコメントを終える。


 今回の争乱は「4月6日運動」が起爆したもので、ウィキリークスが暴露するように、「4月6日運動」は米国政府と関連を持っている。そこまでは明らかだが、今回の争乱が米国主導であったとまでは言い難い。
 ウィキリークスが明らかにしているように、「4月6日運動」については、エジプトの他の反体制運動からは、その急進性とおそらく民主主義志向において孤立しているようすが窺える。しかし逆に、今回の争乱の成功は、ムスリム同胞団など旧来の反政府活動家を出し抜く形で実施された点は注目される。
 ゴニム氏が盛り上げた後半戦に米国がどのように関わっていたかは現状ではわからないが、ウィキリークスが明らかにするように過去の経緯から、米国との連携は取っていたと見てもよいだろうし、ウィキリークス暴露にはエジプト外務省に活動家解放を促す記述もあり、ここからゴニム氏の解放と米政府の関連もそれほど無理な推論なく暗示させる。
 では私の推測を言おう。
 今回のエジプト争乱の、4日金曜日以降の後半戦の隠された主題は、「4月6日運動」のような親米的な活動家が運動のグリップを握ることで、ムスリム同胞団など旧来の反政府活動を相対化させる点にあったのではないだろうか。つまり、後半戦は民主化の運動というより、今後のエジプトのレジームへの水路付けだったのではないか。それを念頭に今回の件のオバマ大統領の声明(参照参照)を読むと興味深いだろう。
 加えて、事態が再度緊迫すれば、集会者に惨事を惹起させることで革命のエネルギーとすることは革命家なら誰でも思いつく常套手段であり、それが実施される寸前でガス抜きされなければなかった。つまり、見事なガス抜きでもあった。
 エジプト軍部の内部は米国との関連があるのは旧知のことであり、「4月6日運動」運動もウィキリークスが暴露したように親米的な民主化運動であるなら、当面のエジプトの動向は、いずれにせよ、イラン革命といった道とは違う方向に向かうだろう。

追記
 この12日のエントリだが、その後の報道によれば、どうやらほぼこの時点で私が推測した通りの事態が展開されていた。15日付け毎日新聞記事「エジプト:「辞任か追放」 軍、ムバラク氏に迫る--10日演説後」(参照)より。


 【ワシントン草野和彦】エジプトのムバラク前大統領が今月10日に「即時辞任拒否」の演説をした後、一転してカイロを追われ辞任する事態になったのは、エジプト国軍が「辞任か追放」という二者択一の最後通告を突きつけた結果だったことが、米紙ワシントン・ポストの報道で分かった。
 同紙によると、反政府デモの高まりの中、エジプト国軍とムバラク政権指導部の間では先週半ばまでに、ムバラク氏が何らかの形で権限移譲をすることで合意していた。オバマ米政権も10日までに、国軍から「辞任か権限移譲」の二つのシナリオを聞いていたという。
 ところが、ムバラク氏は現地時間10日夜の国民向けテレビ演説で、スレイマン副大統領への「権限の一部移譲」を発表しただけで、即時辞任を拒否し、側近さえも驚いた。演説の数時間後、軍部は「辞任か追放」を迫り、ムバラク氏はカイロ脱出という不名誉な結末を迎えた。この演説は、ムバラク氏の去就を巡って揺れ続けたオバマ政権にとっても決定的で、政権高官によると「米国を間違いなくエジプト国民の側に付かせた」という。
 一方、AP通信によると、演説は当初、ムバラク氏の即時辞任を表明する内容だったが、一時は後継者とみられていた次男のガマル氏が、直前に原稿を書き換えたという。家族や一部側近は、まだ辞任しなくても大丈夫と判断していたらしい。

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2011.02.11

陳さんの雪菜肉絲麺

 田舎と場末には法則がある。田舎を統べる法則は簡単なようで難しい。探ろうとした男は消えた。女は突然老いた。なぜか、それはわからない。比べて場末の法則は難しくない。擦り切れた中年男の巣箱であるか、三流大学に至る脇道か、子供を叱りつけるしかない女の日常くらいなもの。その中華料理屋もきちんとした場末にあった。
 遅れた昼休み。ドン・キホーテで髭剃りを買い、そのまま場末の臭いに誘われてふらふらとその店に入る。客はいないが残る煙草の臭いを少しでも避けようと窓際に座り、向いの質屋のショーウインドーをぼんやりと見ていると、黒装束で細身の、こけしのような女がグラスの水を運び、何にしますかと言う。ふと我に返る。女に見とれていたのだった。
 慌ててメニューを見ると筆書きの中華料理の名前が並んでいる。目に付いたのは、雪菜肉絲麺。セッツァイ・ルースーミェンと読むのだろうか。青椒肉絲がチンジャオロースなら「ゆきなロースめん」でもよかろうかと、ちらと女の顔を見るが洒落を受け入れそうな雰囲気はない。これにしますと指さすと、彼女は「田舎そばですね」と言う。田舎? 誰の田舎。よくわからないが、それでいい。
 女が厨房に消えると元気のいい中国語の声が響く。テノールとバリトン。男は二人。菜包丁と中華鍋と炎の音が独特のリズムを立てる。マジだ。場末の神様。
 女が運んできた麺は見事なものだった。麺の上にみじん切りの高菜が覆う。それにのっているのは、挽肉かと見えるが、ていねいに叩き炒めた豚肉。ちりばめられた赤いクコの実と象牙色の松の実。
 スープを吸う。普通。だが高菜の酸味は控えめに生きている。麺を食う。普通。だが薄いとろみがよく絡まる。具を麺に絡ませながら食うと、しゃりっとくる。山芋である。小ぶりに短冊切りにした生の山芋。さらに、かしょっとくる食感は蓮の実。奥歯で噛みしめると、どこか懐かしい香り。蓮の実はなんども食ったが旨いと思ったことはないのに。そして、ヴィヴァルディの小品のような食感と香りが続く。その田舎とはシエナ郊外か。
 食い終わり、女のいるレジの前に立ち、あれはどんな人が作るんだろう厨房を覗くと、角刈りで背の低いプロレスラーのような男がいる。太い腕。バリトンの陳さん、見事だな。なんとなくそういう名前の気がしただけだが。
 数日して昼過ぎ私はまたその場末の町に向かう。ドン・キホーテを素通りして店内に入る。煙草を吸っている中年男がいる。かまわない。女は私を覚えているふうはない。雪菜肉絲麺は、完璧。
 三度、幸福は訪れない。厨房の音が不吉で、出てきたものは一目見て違っていた。無残。麺の上にぼんやり濁った、挽肉と高菜のとろみのようなものがかかっている。
 手を付ける前に「あの」と痩身の女に声をかける。「これなんですか」と言ってから自分が何を言いたいのかわからず、困惑し沈黙する。女も不審げな顔色をする。間抜けなことに私は「クコがありませんね」と言う。女はなんのことかわからず、クコですかと問い返す。赤い実のと私は答えるが、本当はそんなことが言いたかったのではない。この麺は全然違うだろ。しかしそうは言えなかった。
 女は小皿にクコの実を入れてもってくる。ご自分でトッピングというのだ。ありがとう。愛した女に失望を伝えないように反射的に言う言葉。
 数口食べて諦める。呆然と外を見ると、質屋の前を水商売風の女がショーウインドーを覗いている。君も諦めな。レジに行ってカネを払うとき、厨房を覗くと陳さんはない。痩せたテノール君が一人。私を不審に思ったか、女も少し困惑した表情をしている。いつも料理の人はと聞くと、彼は夜の番になりましたと答える。陳さんのことだとすぐにわかっている。
 そういうことかと聞きながら、私はふとその女と陳さんの関係を妄想する。あの太い腕にこの細身は合わないだろうが、いやこういう女はまたそれなりに情もあるものだ。いやはや。
 陳さんの一品を求めて夕食を食いに行ったことはない。いや、一度夜、店の前まで来た。中は煙草と酔漢が、たぶん陳さんの美食を堪能している。その天国は私のものではないと引き返し、日高屋のラーメンを食った。


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2011.02.09

夢のチャーハン

 「夢のチャーハン」と言うと、夢のようにすばらしいチャーハンを思う人がいても不思議ではないから、最初にお断りしておかないといけない。その逆なんだ。こんなに貧しいチャーハンはないとくらいのもの。じゃあ、貧しくてチャーハンを夢に見るのかというと、そうでもないのだけど、だいたいあってるとも言える。夢に見たのだ、そのチャーハン。
 夢のなかの出来事だと後でわかるんだけど、夢を見つつも、なんか変だなとは思っている。そんな夢にありがちな雰囲気。さて食事か、と僕は思っている。冷蔵庫を開く。冷や飯以外にさしたる食材はない。これはもう最終炒飯(参照)だなと思うけど、ネギもない。だめだ。かくなる上は冷や飯に水でもかけて食うかと嘆息すると、年老いて痩せて、ちょっと汚れた調理服を着た中国人の料理人がニコニコとやってくる。誰、この爺さん。
 「チャーハン、できるよ」という。
 「ネギないんですよ」と僕は答える。
 「ネギ、いらないね」
 「まあ、そうかもしれないですね」
 「卵あるよ」と爺さん、冷蔵庫から二つ取り出す。あったんだ。不思議と僕は思っている。
 「卵でチャーハン。わかりますよ」と言うと、爺さん、ニコニコしながら、首をゆっくり横に振る。わかってなということらしい。
 「チャーハン、あなたに教えよう」
 「それはいいけど、チャーハン、僕でも作れますよ」というと、軽く目をつぶって頷くものの、「見なさい」と言う。
 爺さん、フライパンを出してコンロの前に立つ。
 「油を入れる」と言う。フライパンが熱くなったころを見計らって、大さじ二杯くらい油を入れる。それはね。
 「卵を入れる」と言って、その上に卵を割って入れる。それじゃ目玉焼きじゃんと思うと、爺さんは見透かしたようにちらっと横目で見とがめる。あちゃ。
 そのうち白身の端が揚げ卵ふうになるけど、黄身には火がまだ通らない。
 「塩を入れる。少し」とぱらっと塩を卵の上にまく。
 「ご飯を入れる」と言って半熟の黄身の上に冷や飯を載せる。
 ここで緊張が走る。あとで思うとそこでなぜ夢から覚めなかったのかと思うほど。
 爺さん、軽く奇声をあげて、お玉で冷や飯を半熟の黄身の中へぐいと潰し、がっがっつとかき回し始める。揚げ卵風の白身が炸裂する。
 まるで夢を見ているような気分で僕は見ている。実際、夢を見ていたんだけど。
 「できたよ」と爺さんが言って、コンと皿に盛りつける。白身が具になって、飯は黄金チャーハンになっている。
 爺さんニコニコしながら「わかったか」と言う。僕は猛烈に感動している。一口食う、旨い。
 そこで目が覚める。中国人爺さんはいない。耳に「わかったか」の声が響く。パジャマのまま台所にダッシュ。
 火は中火。白身の半分くらい揚げ卵になったら、塩を入れ、ご飯を投下。

 半熟の黄身をご飯に絡めるように潰して混ぜる。

 揚げ卵風の白身が具になるように散らす。気合いだ。

 上がり。

 旨い。なんでこれで旨いんだ。老師、ありがとう。老師にはまだまだ及ばないけど、がんばる。また、夢に来てくれ。

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2011.02.08

コロッケそばの味わい

 世の中には、ふと立ち止まって考えると、何だ、それと思えるような食べ物がある。例えば、白子の天ぷら。もちっとして味わい深い。ポン酢がよろしいかと。しかし、ただね、なんというのか、小学生には説明しづらい。あれはなあ。
 視野を広げると、バロット。孵化直前のアヒルの卵を加熱した……肉? ゆで卵? 一生のうち一度は食べてみたいものの対極にあるもので、死ぬまでに食べずにすまされれば幸せという感じだが、私は一度夢で食った。私は夢に味覚がある人なんでじっくりと味わい、その食感も堪能した。首骨がやわらかくてこりっと。うぁああ、すげー悪夢。
 そういう変なものではなく、ごくありきたりな食材だが、何だ、それと人生に問いかけてくる食べ物と言えば、コロッケそばであろう。コロッケ。わかりますよね。そばもわかる。一杯のかけそばのうえにコロッケが載っているあれ。普通のそば屋には置いてない一品。駅そばならではの特製キュジーヌ、言うなれば。
 疑問に思う人はいる。村上春樹のエッセイだが、なんでコロッケそばなんてものがあるのかと疑問を呈していた。言わんとすることはわからないでもない。確かにあれは、そういう存在だ。天ぷらなら許せる。お揚げを甘く煮たものはグッドだ。なのになぜコロッケ。溶けるじゃないか、ぐずぐずに。二晩味を馴染ませたご家庭カレーじゃないんだぞ。
 弁護はしづらい。しかし、市場はその存在を明確にしている。あなたが駅そばに立ち寄る。ここは本当にジャパンの駅の駅そば屋なのかと、この惑星に到着して久しいものの、ふと疑問に思う。バイトのお姉さんは巨大なミドリムシが変身しているというわけはない。方法的懐疑が明証に至るのは食券販売機にコロッケそばの名前を発見したときだ。370円。よし。かけそば、320円。よし。コロッケ分が50円。ここに日本経済の良心というものがある。
 かくしてコロッケそば。いや、今日の昼飯、スタバでサンドイッチ食いそびれてなんとなくコロッケそばを久しぶりに食ったというだけのことなんだが、思うに実に久しぶりだった。そばは日頃食っている。最低でも毎週一回は行きつけのそば屋に行く日常なのだが、そば屋に通っているとなかなか、これが食べられないんだよな。青春時代、よく食ったというのに。
 待つこと2分。プラスチックの椀のかけそばの上にどんとそれがいる。下半身はすでにそばの汁に沈んでいる。上半身はまだ濡れていない。そこをまずかりっと食いちぎる。ほんわりと口のなかでくずれる。なにより、それが冷えてないことに全身に歓喜がみなぎる。冷たいコロッケでなくてほっとする。良かった。民主党政権でも庶民の日常にはあたたかなコロッケ。
 そしてちゅっと汁を吸う。汁についてはとやかく言うまい。次はそばだ。正しい作法でずるっと吸い込み、くちゃっと噛む。おお、そば粉使っていると感激に天井を見上げる。20%は含まれていると見た。今日はいいことあるぞ。
 あとは、コロッケの中身をそば汁のなかに分散させずに、つまりだ、汁に沈まないように、そばのボリュームで支えつつ、かつ自然的な崩壊に気をくばりながら食えばいいのだ。これだ。我が青春で体得した神技。
 ところがなにかがおかしい。なにがおかしいというのだ。味か。いや味はこれでいい。そばか。これも駅そばならではの自己主張に問題はない。コロッケも悪くない。ポテトは完全につぶれて堅いペースト状であり挽肉はかけらも発見されない。異常なし。では、なにがおかしいのか。と食い続けていて、なんというのか微妙な徒労感があるのだ。さっきから同じところをぐるぐる回っているような感じがするのである。
 食っても食ってもこのコロッケそば減らないんじゃないか。いや、すでにコロッケは20%を残すばかり。着実に減っているのだがと、そばのほうを見るとそれほど減っていない。入れ物がある両手で受ける、ではないが両手で持ち上げて椀の形状を見るに、円柱に近いぞこれ。
 どうやら想像以上にそばが入っている。これ、俺、食えるんだろうかと、じっと手を見る。そこらで止めとけと何かが語る。もったいないだろ。今までのオマエの人生で、コロッケそばを食い残したことはあったか。Baby show me love!
 食うんだ、ジョー。というわけで、気合いを入れて食う。すえた油をたっぷり天ぷらそばじゃなくてよかったと、ほんの僅かの人生の選択の差の幸運を思う。戦いは続くが、かくして食い終わる。もう食えない。
 みなさん、よくこんなに食えるなあと横のお兄さんを見たら、私と同じコロッケそばに加えてカレーライスも食ってた。青春は遠いな。

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2011.02.07

電話で脅された思い出

 一年前だったか二年前だったか三年前ということもないように思うが、投資マンション販売関連だと思うが電話勧誘で脅されたことがある。先日たまたまNHKを見てたら番組でそういう人が増えているという話をやっていて、「ああ、そういうことあったなあ」と思い出した。ただ、私の場合、ちょっと話が違っていたんだけど。
 最近はとんとそういうことがない。ない理由はたぶんアレなんじゃないかなと思う。非通知の電話はかからないようにしたから。ちなみに、これやっておくと、勧誘とかの電話は激減しますよ。やり方は電話機対応だったか。それ以前からナンバーディスプレイにしてはいたので、ああ非通知かというのは電話に出るときにはわかっていはいたのだけど。そういえば、NHKの番組でこの対処方法については説明がなかった。なぜなんだろう。
 思い出すと、それ以前にはよく勧誘関係の電話はかかってきたものだった。で、その半分くらい、「お母様はいらっしゃいますか?」である。相手はもろにオバさん声。保険の勧誘員さんのイメージ。BMIはたぶん30。問いかける声にも重みがあって、思わず、「すみませんすみません兄が」とか言いそうになる。
 「お母様はいらっしゃいますか?」「はい」いるけど。
 70歳過ぎた実家の母親となにかお話をしたいのでしょうかね。というか、どうやら私は10代か20代のお兄さんだと思われている。声が若いからなんでしょうか。あるいはしゃべりにおっさんが出ないからなのか。いや俺は若いぜとかいう気はさらさらなくて、一声聞いただけ、「お、こいつガキ」と思われているわけです。たまに「奥様はいらっしゃいますか?」もあるけど。むふっ。
 あの脅しの勧誘電話のときはそうではなかった。「はい」とか言って出ると、例によって要領を得ない。これは勧誘の基本みたいなんでしかないとは思うけど、ついご用件は?と聞き返して、それでも要領を得ないので、「そういう話は関心ありませんから」と答えて切った。よくあるパターンで、普通はそれで終わり。でも、その時はそうではなかった。再度電話がかかってきた。なんか言っているけどやはり要領を得ない。なんか売りたいらしい。「関心ないです」と答えて切る。するとさらにかかってくる。ちなみに、相手全部非通知。
 今度は相手は怒っている。いわく、人としてそういう口の利き方はないだろ、というのだ。はい。人が話をするのだからちゃんと聞け、というのである。はい。
 どうやら、私を年下の若造のように思っているみたいだった。若い奴にコケにされてたまるもんかと、おじさん怒っている。
 困ったなと、後になってみると、そこで話を聞いてしまったのがいけなかったのかもしれない。おじさんとうとうとしゃべくって、遂になにか自己達成した。なので、その達成感のフィードバックをどうやら私に求めている。さて、はいわかりました、と言うべきなのか。
 丁寧に説明したのだから、オマエは人としてきちんとそれに応対する義務があるだろうと息巻いている。はい、しかし、それと勧誘の話は別なのではないか。話はわかりましたが、私はその話には関心ありませんから、と切る。火に油。
 次にかかってきたときはもう脅迫。今からオマエの家に行くからな覚悟しろみたいな話。この辺りから、おっさん、私のプロファイリングを始める。私がどんなに社会的に脱落している人間なのか、どうしなければ人生は生きられないか、なんたらかんたら。さすがプロなのか当たっているところもあるけど、外れているところある。思い込みは激しい。
 というわけで、さらに丁重にお断りという感じで電話を切ると、さらにかかってくる。もういいよ、おじさん、と思って留守電ボタンを押すと、いるのはわかってんだぞ、こそこそ隠れるんじゃないよ、みたいな展開に。大丈夫か、おっさん。
 というわけで、出る。乗りかかった船、もうしかたないかと。さらに謙虚に話を聞く。もうカウンセリングモード。頷いて、相手の言っていることを整理して、優しく問い返す。カウンセリングの基礎技術。そうこうしているうちに、相手がふとこう言った。「おまえ、インテリだな」
 え? 何それ。で、まあ、こういう人生を生きていると、私はそう誤解されて嫌われる経験も積んでいるので、いえいえそんなことはありませんよと答える。しだいに話は収束。疲れた。おじさん、コルチゾール高いよ。
 そういう社会になったのかのかなと、その後しばしぼうっとして、非通知の電話ってこれからこういうふうになっていくんだろうなと思った。そういえば、ネットの世界でもちょっと似ているな。また同じ事やるのもなんだしな、と以来非通知電話はかからない設定にした。
 知らない相手との電話というのは変なものだ。全部悪いものでもない。若い頃、英会話の勧誘で相手は若い女性の声だった。私はといえば「英会話関心ないです」と答えると、「なぜですか、外国行ったとき英語しゃべるといいですよ」と問いかける。「そうですよね」「だったらどうですか」「観光旅行くらいの会話ならそれほど困らないから」「英語できるんですか」「出来るというわけではないけど」と妙にもつれ込んだ。東京に戻ってからだが、なんかの勧誘で相手の女性の声に、やまとうちなーぐちが混じっているの気がついて、「沖縄の人?」と聞くとそうだという。で、それからちょっと盛り上がったことがある。
 最近はそういうのもない。携帯電話の時代でもあるしな。


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2011.02.06

永田洋子死刑囚、死刑執行されず

 1971年12月から翌72年2月にかけて起きた連合赤軍事件で、殺人・死体遺棄罪などに問われ、1993年に最高裁で死刑が確定した元連合赤軍最高幹部・永田洋子(ながたひろこ)死刑囚が死亡した。多臓器不全とみられるらしい。65歳だった。誕生日は2月8日なので、あと数日の命があれば、66歳。
 そのくらいの年齢で死ぬ人は珍しくはない。天寿を全うした部類と言えるのだろうかとふと思い、沈んでいた言葉にならない思いを見つめた。私が中学生のころの事件である。彼女は1945年生まれ、事件当時、27歳。アラサーと呼ぶには怒りそうな女子ですなというお年頃。
 永田死刑囚は1984年7月に脳腫瘍と診断され手術を受け、その後も頭痛に悩み、2006年5月に東京八王子医療刑務所に移され、翌05年東京拘置所に戻されたが脳萎縮の状態だったらしい。そのころはいわゆる寝たきりの状態で意識もない状態だったのではないだろうか。
 生まれたのは1945年。菅首相より一つ年上。同世代である。キューピッドの一矢が彼らを射貫かなかったのはヴィーナスの英知であったか偶然だったか、イケメンながらモテそうにもない中産階級臭い菅さんの人徳だったか。一矢は別のところに当たった。
 彼女は妊娠中絶経験などもあるらしいが、あの時代の人であるからな、ふんふんと聞き流す。学生時代にはバセドウ病であったらしいというか、そういうおどろおどろしい印象の写真をよくメディアで私なども見せられたものだった。実際にそうした病気を持っていたかは知らない。
 事件は凄惨極まりないもので、いやがおうにも中学生の耳にもスプラッタな話が流れ込む。だが、事実がなんであったかについては意外と仔細に知らない。ただ、冤罪ということはないだろう。最高裁確定判決では、1971年8月組織離脱の2人を殺害、翌同事件渦中で「総括」として仲間12人を死亡させたとのこと。そして事件では警官も3人殉職した。哀悼。
 「総括」は「総評」みたいに70年代特有の響きがある。後に吉本隆明が書いたエッセイだったが、市井の人でも彼女みたいにああいう状態に陥ればああなるものだ、というようなコメントがあり、そうだろうなとは思った。ブログなんか書いていると、手ひどい罵倒を投げつけられるが、これが密室であったら私なんぞ総括されてしまうだろう。人間とはそんなものなのだ。
 事件は1972年と見てもよい。地裁判決が出たのはだから10年後。1982年6月。二審高裁は1986年9月。いずれも死刑。事件については「革命運動自体に由来するごとく考えるのは、事柄の本質を見誤る」と全面的に退られ、永田被告の個人的資質の欠陥などに起因するとした。20年後。1993年3月、最高裁が上告を棄却、死刑が確定した。「多数の殺人等の犯罪を敢行した事案」との判断である。
 当時の読売新聞社説を引っ張り出して読むとこうある。「確かに当時、学園や街頭にベトナム反戦運動が盛り上がったが、大半の学生はしだいに、一部の過激な行動に背を向けていった。大衆的基盤を失った彼らは、ひとりよがりの武闘路線に走り、捜査に追い詰められるように山に逃げ込んだ。自滅するべくして自滅したといえる。」それはそうか、マスコミや政権に逃げ込んで今頃自滅している残党もいそうな感じはするが。
 私が気になっているのは1993年という年である。このころ、オウム事件の惨事は着実に日本社会に胚胎し、連合赤軍事件の本質のようによみがえった。考えてみれば、連合赤軍事件だって六全協前の山村工作隊の余波のようでもあるし、なんのことはない戦前からのファシズムの太くて長い1本の歴史実体のようでもある。
 と書いてみて、ああ、それかと思う。永田洋子死刑囚、死刑執行されずというのはそういうことなのか。死刑を執行していたら、それはまたよみがえるということか。いや、もちろんこれはたちの悪い冗談の部類ではある。
 いずれにせよ死刑は執行されなかった。坂東國男(参照)を含め関係者が多く事件の全容が解明されていないからといった話も聞くが、そうであろうか。確かに、あの事件の全容はわからないと言ってもいいだろうが、死刑の判決に影響するものとは想定されないのではないか。
 1993年というと国連死刑廃止国際条約発効した年で、日本は批准しなかった。あの時代、実に死刑が少なかった。1987年に2人、88年に2人、89年つまり平成元年に1人。そして、その間しばらく死刑は執行されず、永田洋子に死刑が決まった1993年の翌月3月に3人。今顧みると、死刑の少なさは時代でもあったのだが、昭和天皇の死がじんわり恩赦のように覆っていたようにも思えるし、93年の死刑は永田洋子の死刑の決意のようにも見えないことはない。
 死刑は執行されなかった。それらは自民党政権時代の法務大臣の良心に任されていた。その良心をおまえさんはどう思うのだねと問われるなら、それでよかったのではないかと思う。理由はうまく言葉にならない。
 私は大阪教育大学附属池田小学校事件以降、死刑には反対論に傾いている。一人の人間が死を決意してそれを引き替えに他者の死を巻き込むことは許せないと私は思うからである。許されざる者は一生獄のなかで生きるがよいと思うし、その生と社会は対話しなければならないと思う。そして、永田さんは長く、日本国民と対話してきた。


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