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2011.12.30

沖縄そば

 沖縄そばについてナイチャーの私がとやかく言うこともないようにも思うけど、沖縄に八年暮らし、少なくとも三日に一度は食ってたものだったので、それなりに思い出はある。この時分に思い出したのは、沖縄では年越し蕎麦に沖縄そばを食べるからだ。
 沖縄では、沖縄そばのことを「すば」と言う。内地風に「そば」とも言う。とりわけ「沖縄そば」とは言わないように思うが、あちこち観光地化しているから、そうとも言い切れない。
 沖縄そばが「そば」と呼ばれているのは、起源が「支那そば」にあるかららしい。つまりラーメンと先祖を同じくする。大正時代の内地文化が本土化につられて沖縄に入ってきたものだろう。ちなみに、同じころの食文化の影響におでんがあるが、沖縄のおでんについてはまた別の機会に。
 沖縄そばの麺は、だからして、ラーメンの太麺と似ている。小麦粉にかんすいを加えて作る。ここで私は、あるオジー(初老男性)を思い出す。
 沖縄では各所で「一番うまいそば」というのが話題になるが、私が聞いたオジーはその父親の手打ちが一番うまかったと力説した。オジーの父親はシベリア帰還であったが、もしかすると帰還した時の父親の思い出と合わさっているのかもしれない(沖縄人がシベリア生活というのも難儀であったろうな)。
 オジー伝承・手打ち麺の作り方だが、かんすいは使わない。ガジュマルの木灰の上澄みをかんすいの代わりにする。現在では、この製法で作る沖縄そばを「木灰そば」と呼ぶことがある。麺は白い(中華麺が黄色くなるのは本来はかんすいのため。現在では着色)。歯触りがぷりっとして噛むとぷちっと切れて心地よい。麺も滋味深い。余談だが、沖縄の豆腐もにがりを使わない。海水をそのまま使うと当然にがり成分が含まれているからだ。
 オジーによる麺生地の裁断だが、うどんと同じである。伸ばして畳んで包丁でざくざくと切っていくのである。職人ではないからそう細くは切れない。それが沖縄そばが太い理由である。
 ちなみに私も手打ちをしたが、うどん同様(参照)、パスタマシンで作った。ガジュマルの木灰ではなくベーキングパウダーを少量使った。重曹でもよいが、ベーキングパウダーだとつるっと感が出る。塩は入れない。
 沖縄そばの麺を手打ちする人は現代では、ほとんどいない。沖縄のどのスーパーマーケットでも沖縄そばの麺が売られているので、それを買うことになる。買うにあたっては何かとどこのがうまいかという話題にもなる。普通に茹で麺が一キロとかで売っている(くっつかないように油がまぶされている)。大勢集まって食うことが多いし、余ったらそのまま冷蔵庫で数日保存できる。
 市販・沖縄そばの麺の形状は、うどん幅だがもう少し平たい。きしめんほど平べったい感じではない。それでも沖縄そばの麺が細くなったのは、この20年くらいの傾向のようだ。
 そば汁は、基本は豚ダシと鰹ダシである。豚ダシにはわけがある。そばに載せる三枚肉の煮た汁をダシとして使うのである。
 三枚肉とは皮付きバラ肉である。塊で買う。東坡肉やラフテーもそうだが、皮の部分がゼラチンっぽくてうまいのである。が、沖縄とても本物の三枚肉はそう手に入るものではない。沖縄の豚肉の多くはオランダとかからの輸入品が多く、皮なしの二枚肉になる。
 これを塊のまま水煮にする。小一時間煮る。沸騰したときにはアクを取る。スロークッカーとかだと煮るプロセスが簡単になるし、アクをとったらシャトルシェフに入れておいても、それなりに煮える。
 煮たロース塊は8ミリくらいにスライスして、醤油と砂糖で甘辛く味付けする。これが叉焼よろしく具になる。三枚肉ではなく、豚スペアリブにすると「そーきそば」になる。
 他の具では、かまぼこが欠かせない。これが内地ではあまり見かけない。方言でいう「かまぶく」は内地のかまぼこみたいな、プラスチック消しゴミみたいな感じはない。おでんの具の練り物や笹かまぼこなんかに近い。おそらく、沖縄のかまぼこは内地の昔の製法なのではないか。とりあえず、内地で作るなら笹かまぼこで代用する。
 具というのもなんだが、散らすネギも欠かせない。内地・関西のネギと同じで万能ネギである。きざんで載せる。他に、紅ショウガを載せることもある。ヒハツ(ヒハツモドキ)というコショウをかけたり、鷹の爪の泡盛漬けであるコーレーグースーを垂らすこともある。フーチバーを載せることもある。フーチバーはヨモギだが大きなスーパーでは野菜として売られている。内地のヨモギのように固くない。草餅の香りに近い。フーチバーを強調すると「フーチバーそば」になる。私の好物であった。
 汁の話に戻る。豚バラを煮た汁に鰹節を加える。荒削りを使う。これに塩で調味して漉してできあがり。鰹はできれば、鰹節を削る。沖縄だと、大型スーパーには鰹節とそれをセルフで削る機械が装備されている。そこで削ってきたのを使う。昆布ダシをさらに加えてもよい。沖縄は昆布消費が全国一と言われることもある(正確ではない)。
 かくして麺と汁と具が出来たのだが、まあ、こんな手間をかける現代沖縄人はあまりいない。どうするかというと、買ってきた麺に買ってきた汁を使うのである。薄めて使う汁が売っている。が、意外とできあいの汁は好まれず、もっと簡単に豚ダシ抜きで鰹節の汁だけで沖縄そばの汁にすることもある。具の三枚肉も出来合のが売られているのでそれを載せる。
 以上の話はネットなんかでもよく見かけるだろうが、沖縄そばの基本の基本はあまり見かけないように思う。いかにサーブするかということだ。観光客は出された沖縄そばしか食べないから、食べさせる側の基本を知らない人が意外と多い。といってもあらためて言うほどのことでもないかもしれないが、ラーメンやうどんとは、ちと違う。
 さて、具はある、そばもある(買ったのでもいい)、汁もある、とする。
 じゃ、丼に麺を入れ汁を入れ具を載せればいいのではないか。それはそうだが、そのままだと麺は冷えているし、丼も冷えている。麺は十分温まってこそ味わい深くなるものだ。
 まず汁を鍋で煮立てる。軽く沸騰させる。汁を一人分丼に注ぎ、一人分麺を入れ、しばし待つ。麺と丼を暖めるのである。そして冷えた汁だけを鍋に戻す。
 汁が鍋で再び煮立つのを待ち、煮立ったら、再び麺を持った丼にかける。具を載せる。うさがみそーれー。
 
 

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2011.12.29

[書評]心から愛するただひとりの人(ローラ・リップマン)

 ローラ・リップマンの短編集「心から愛するただひとりの人」(参照)には、17編もの小編が四部構成で収録されている。ハヤカワ・ミステリ文庫であることからわかるように作品はどれも分類上は推理小説と言ってよく、大半の作品には犯罪や謎解き、探偵といった要素もある。だがミステリーを堪能するには短く、またそうした要素にあまり力点は置かれていない。読後の印象としては純文学に近い。

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現心から愛する
ただひとりの人
現短篇の名手たち6
 作品の随所に軽快なユーモアと絶妙な悪意の笑いが満ちていて、読書を堪能させる。
 作者リップマンの文章技量にも圧倒される。大半を訳している吉澤康子の文章も読みやすい。だが、小編を次から次へと読み進めることはできない。一編ごとに心の奥に響く。「愛とはなんだろうか」という照れくさい問題について、さらに気の重い、具体的な女性という存在感から、じりじりと再考が迫られる。現代中年女性の、現代中年女性による、現代中年女性のための作品群とでも言いたいのだが、中年男性読者である私の誤解であるかもしれない。
 第一部「野放図な女たち」は先行に配置されているものの全体構成上は「その他」という印象が強い。まずはリップマンのお手並み拝見という導入でもある。
 最初の掌編「クラック・コカイン・ダイエット(The Crack Cocaine Diet (Or: How to Lose a Lot of Weight and Change Your Life in Just One Weekend)」は強烈である。頭の悪そうな若い女性二人が痩せるためにコカインをやろうという、とんでもなく不道徳な話が、さらに不道徳に展開し、そんなのありかよというエンディングに至る。現代米国の若い世代の一面を描いたともいえるが、いやはやこれはクラっとするほど悪趣味だなという一品である。
 次の「彼が必要だったもの(What He Needed)」も趣味の悪い一品として満足できる。中年期に入る夫婦の物語だが、夫のダメさ加減が、私は男性としてだが、読みながら痛いのなんのって。物語のファンタジーは夫婦関係の洒落ではすまない部分がある。
 「拝啓<ペントハウス・フォーラム>さま(第一稿)( Dear Penthouse Forum (a First Draft))」は、おなかがよじれるほど爆笑物の趣味の悪さである。ペントハウス掲載を狙ったという設定の掌編ポルノという仮構が、見事な脱構築を実現している。短編集の前書きを寄せた作家ジョージ・P・ペレケーノスが「なんとかしてくれ、ローラ」とつぶやくのもわかる。ペントハウス的な世界をジョークで打ちのめすフェミニズムとしても読めるし、文学や文章技法についてのメタ文学にもなっている。
 軽妙な悪意とウィットの作品が続くので、少し構えて読んでしまいがちな「ベビーシッターのルール(The Babysitter’s Code)」は、しかし普通に文学作品と言ってよい。ベビーシッターの少女が見た、考えようによっては風変わりな体験談である。この作品は、推測だが、ミステリー掌編にしようとして途中で辞めたのではないだろうか。作品集全体に漂う、作者リップマンの他者を見つめる、ある冷ややか視線がよく表現されているし、女が家屋や妻の地位に執着する意識を文学的に透かしていく趣向もある。
 「知らない女(Hardly Knew Her)」もまた普通に文学作品である。読後、静かに涙がこみ上げてくる。1975年のダンドークという工業の町の、家庭的に悲惨な少女の生活と内面を描いている。少女の性の感触の違いはあるが、これは日本の1970年年代の工業の町にも通じるもので、懐かしい私の昭和の風景に近い。当然かもしれない。ローラ・リップマンは日本の学年言えば、私より一つ下。私の同級生でもある。
 ダンドークの町は、ローラ・リップマンがお得とするボルチモアの町に近く、この作品の少女は、他の作品の印象的な主人公の二人、探偵のテス・モナハンと娼婦エロイーズ・ルイスの原形にもなっている。短編集のオリジナルのタイトルが、この「Hardly Knew Her」を取っているのもそのせいではないだろうか。
 「魔性の女(Femme Fatale)」も趣味の悪い作品である。老人ポルノといったものがあるのかわからないが、かつての美女である主人公が68歳でヌードモデルになるという設定だ。美女だった女性が老人となってうらぶれていくといった通念を軽快に吹き飛ばして乾いた笑いを残す。
 「心から愛するただひとりの人( One True Love)」は、娼婦エロイーズ・ルイスの物語である。後書きで著者リップマン自身がエロイーズについて触れている。彼女は短編集を書きたいというより、中流階級や政治家などの世界に巣くう高級娼婦の中年女性を描きたかったのだろう。
 エロイーズは、悲惨な家庭に育ち、少女時代駆け落ちしたもののボルチモアでヤクザのスケとなり、路上の売春婦から犯罪的な決意をして高級娼婦として独り立ちした中年の女性である。平素はサッカーママを装っている。物語は、そうした彼女の二重生活を脅かす男との出会いとその対決を描く。ソープオペラ的と言えないこともない。
 第二部「ほかの街。自分の街ではなく」はリップマンが描写を得意とするボルチモア以外の、荒れた町を描いている。こうした風合いで町を描くのは日本で言ったらなんだろうかと思い、はるき悦巳の「日の出食堂の青春」(参照)を連想した。
 「ポニーガール(Pony Girl)」は変な作品である。お祭りでポニーガールに扮する少女がとんでもない事件を起こす。残酷な童話的とも言えるし、カポーティを連想する部分もある。
 「ARMと女(A.R.M. and the Woman)」は、一言で言えば女が家(邸宅)と地域社会に固執する情念を犯罪という仕立てを通して描いている作品である。"A.R.M."は変動金利型住宅ローンのことだが、離婚で邸宅を失いかねない女性の妄念の比喩である。私など中年男性は女性に愛の幻想を抱きがちだが、同年代の女性にしてみると薄汚い夫などより、築き上げてきた邸宅というステータスは大きいのだろう。また現代米国において殺意を抱かせるまでの人間の欲望というのは、邸宅くらいなものかとも思う。
 「ミニバー(The Honor Bar)」は中年にさしかかる女の焦りを描いているとも言えるが、中年男が過去の女に未練を捨てきれずその幻想で別の女をアイルランド旅行に誘うという設定からは、中年男というものの惨めさもにじみ出ている。カネがあったら中年の男はこんなことをしそうなものだ。
 「不始末の始末(A Good Fuck Spoiled)」は、老境に入りつつある男が秘書の女に翻弄されていく過程を逆手に描いている。男なんてこんなものだろうなという、不倫をしたことがある女性なら嘆息を漏らしそうな後味がある。
 第三部「わたしの産んだ子がボルチモアの街を歩く」は、いよいよリップマンの本領、ボルチモアを描いていく。
 「お茶の子さいさい( Easy As A-B-C)」は、「ARMと女(A.R.M. and the Woman)」の変奏と言ってもよいかもしれない。この作品で邸宅に固執するのは男であるが、主人公の中年男のリアリティは、少なくとも中年男の私には、ない。作品としての価値は、ボルチモアの風景描写だろう。
 「ブラックアイドスーザン(Black-Eyed Susan)」は、移民的な結束の強い家族が町のお祭りで商売をするという設定である。競馬に町が沸き立ようすや、なにかにつけて商売ネタを探す一家の姿が微笑ましく、ウィリアム・サローヤンなども連想する。が、話はグロテスクで、ブラックアイドスーザンという花がその象徴となる。
 「ロパ・ビエハ(Ropa Vieja)」は、魅力的な女性探偵テス・モナハンを描いている。作品には悪趣味も文学趣味もない。高校生向けのバランスのよい探偵小説といった風情で、それはそれで面白い。「靴磨き屋の後悔(The Shoeshine Man's Regrets)」もテス・モナハンによる類似の趣向である。そして「偶然の探偵(The Accidental Detective)」は、モナハンへの仮想インタビュー。モナハン・シリーズのファン向けのサービスである。
 第四部は「女を怒らせると(Scratch a Woman)」の一品のみであり、中編に近い。いわゆる推理小説といった骨組みになっていて、それなりの趣向もあるが、その要素が面白いといった作品ではない。
 主人公は形式的には娼婦エロイーズで「心から愛するただひとりの人」の続編といった設定になっているが、実際の主人公はエロイーズの異母妹ミーガンを描いている。ミーガンはエロイーズのような悲惨な前半生を送った中年女性ではないが、子供が4人もいながら夫への愛情を失い、夫もまた妻への愛情を失っているに等しい状態にある。
 物語は、ミーガンのささくれた、主婦であることの絶望的な不満に溢れている。タイトルの"Scratch a Woman"は主婦ミーガンから見た不満の駆り立て意味している。
 作者リップマンはあとがきでミーガンを描くのに7年を要したというエピソードを披露している。いわゆる推理小説を描くというのなら、またボルチモア的な町を描くのなら、その技量だけでこなしてしまうだろうリップマンは、普通の主婦というものの内面に巣くう虚無を理解し表出するまでにそれだけの、自身の人生の重なりが必要だったのだろう。
 この作品では、他の作品のように邸宅と地域生活を維持するための、浅ましい中年女性の像は描かれているが、殺意はミーガンの日常の無意識にのみに依存している。ゆえに、世の中年男性はこうした顛末の人生を迎えてもなんら不思議でもないだろう。
 短編集「心から愛するただひとりの人」の全体を通して見ると、文学的な小品の完成度にも驚嘆するが、娼婦エロイーズについてはまだ不満のようなものは残る。もっと深い作品が可能なのではないか。
 エローズを主人公にしたどういう作品を求めているのかと私が問われるなら、おそらく、深い悲しみを超えた聖女という存在を描いてほしいのだ。
 
 

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2011.12.28

[書評]アレクサンドリアのフィロン入門(E.R.グッドイナフ)

 アレクサンドリアのフィロン( Φίλων ὁ Ἀλεξανδρεύς)は、紀元前25年頃に生まれ西暦45年から50年頃に死去したユダヤ人哲学者である。呼称からわかるように当時の大都市アレクサンドリアの人であり、数代前からローマ市民権を持つ富裕な名家に属していた。本書「アレクサンドリアのフィロン入門」を著したE.R.グッドイナフは、その家系を19世紀末欧州のロスチャイルド家に例えている。ただし、その家の富を管理したのはフィロンの兄弟(弟であろう)アレクサンドロスであった。

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アレクサンドリアの
フィロン入門
 フィロンの生存期間には、同じくユダヤ人のイエス・キリストの生涯が含まれる。イエスはフィロンを知っていたかもしれない。使徒行伝でヘロデ王(ヘロデ大王の孫)と呼ばれるアグリッパ1世が借財に苦しむおり、フィロンの兄弟であるアレクサンドロスは彼にかなりの金額を貸与しているし、フラウィウス・ヨセフスによれば、アレクサンドロスはエルサレム神殿の九門を飾る金銀の延べ板の寄進もしていた。当時のユダヤ人にはその家系は有名でもあっただろう。また、フィロンは後代からすればユダヤ人哲学者ではあるが、実際には家とアレクサンドリアのユダヤ人社会を支える政治家としての実務家でもあった。本書は、そうした政治家としてのフィロンもバランスよく描いており、歴史に関心を持つ人にも興味深いものだろう。
 フィロンからすれば、イエスについてはおそらく知らなかっただろう。だが、イエスの公生涯を記した福音書の一つ「ヨハネによる福音書」の冒頭は、異論もあるが、フィロンの哲学を反映したものと見る学者が多い。

初めに言があった(Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος,)。言は主と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは。これによってできた。できたもののうち。一つとしてこれによらないものはなかった。この言は命であった。そしてこの命は人の光であった(ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων.)。光はやみの中で輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 ロゴスの哲学が神学的な基本になっていることがわかる。フィロンのロゴス観はどうであったか。著者グッドイナフは本書でこう説明する。

(前略)一なる神は自身から流れを発する。その第一の現れがロゴスであり、最初の流出であるがゆえにもっとも神に似ている。(中略)ロゴスは神的な実在と存在の投影であるから、神と呼ばれうるものであり、ロゴスの働きはすべて神の業あるいは作品と呼ぶことができる。(中略)神は、たんに存在であるのみならず、他のあらゆるものの存在の原因、根源でなければならない。すなわち、何かの仕方で他と関係している「無関係な存在」が存在しなければならない。これを表現するために、古代の思想は光と支配力という二つの比喩に早くから目を向けた。フィロンもこれらを繰り返し用いている。

 グッドイナフによるフィロン哲学のこの解説は、直接的にはヨハネ福音書の文脈ではない。しかしそれが念頭にあることは展開から読み取れる。

さらにわれわれが、時には太陽光線と太陽とを同一視し、時には両者を明確に区別することがあるように、流れに対してフィロンがもっともよく用いる言葉であるロゴスも、それ自体一つの実体として語られ、神の子とすら呼ばれた一方で、ロゴスの低次の現れである支配力と創造力がロゴスから独立した存在として論じられることこもあった。このような言葉の揺れが、フィロンにおいてロゴスが人格であるか否かという問題に関する膨大な議論を引き起こした。

 著者グッドイナフの考察では、フィロンはロゴスそれ自体の実在性はないと考察しただろうとしながらも、こう続ける。

だが、彼の魂は神のロゴスの光線によって暖められていたので、しばしば彼はその光線のことをそれ自体のものとして人格化によって生き生きとしたものになりうると考えた。

 フィロンにおいてもロゴスを人格的に受け止める素地はあったとしてもよいだろう。ここでヨハネ福音書の神学がフィロンにおいて用意されていた。

後にキリスト教徒がロゴスをナザレのイエスというまさしく一個の人格と同一視し、その結果この人格の神への昇格が一神論に対して提起した形而上学的な難問に答えを出さなくてはならなくなったとき、古代世界はまったく新しい問題を提示されたのであった。

 著者グッドイナフはこの文脈の全体では抑制的ではあるが、その意味するところは、フィロン哲学から見えるヨハネ福音書のロゴス観は、必然的に三位一体論を導出することだ。しかも、その三一論は、その枠組みにおいてフィロンの哲学の構図に拠っている。
 グッドイナフはその後もできるだけ抑制的に説明するのだが、それでもフィロンは、キリスト教の根幹となる処女降誕からイエスの神性までも用意していたということが理解できる。フィロンは創世記をプラトン哲学で解き明かしながら、その創世神話やユダヤ伝説を神学に置き換えている。

 アムレで三人の男がアブラハムを訪れたとき、この体験は、アブラハムがついに神自身のもとにある三つの能力、つまり、ロゴスおよび創造力と支配力という二つの力の直視に到達したことを意味した。(中略)アブラハムは新たな能力をもってサラと交わった。彼は自らのうちに神的な種子をもつことによって、いまや男性となったからである。(中略)その結果、寓意的解釈の意図からすると、イサクは人間アブラハムの子ではなく、神の子であって、永遠の処女でもある知恵(ソフィア)あるいは徳から生まれたということになった。

 さらにこの神人であるイサクはより完成した形態として、フィロンの神学では「モーセ」に結実する。

モーセの結婚はイサクの場合と同じく知恵(ソフィア)との合一であり、またこの合一が神と知恵との合一と同じであることも示された。


だから『モーセの生涯』では、モーセは、異教徒に向けに、救済者・王という当時の考え方によって描かれている。彼は完全なる王、立法者、祭司、預言者である。モーセの王権は宇宙的であった。

 モーセはフィロンにとって神のロゴスでもあった。つまり、キリスト教の誕生はフィロン神学の「モーセ」を「イエス」に置き換えることを待つばかりでもあった。ユダヤ教はフィロンのなかでこのような枠組みの達成を得ていたのである。

 このようなユダヤ教から新しいキリスト教への前進に必要とされたのは、ただ次の二つことだけであった。第一に、モーセよりも偉大な者が到来したことがキリスト教徒によって主張された。

 以上のように、フィロンの哲学・神学はキリスト教の誕生に結びつけて読むことが可能だが、これは当然だが、誤解を生みやすい。フィロン哲学・神学が直接的にキリスト教なりヨハネ福音書を生み出したかのように見えてしまう。そうではない。
 著者グッドイナフが抑制的に語り、かつ留意を促すのは、フィロンは独創的な哲学者ではなかったという点である。フィロンは多くの著作を残しているという点で貴重であり、現代人からすれば奇妙にも思えるがその論旨は明快だが、プラトン主義から逸脱する部分はなく、おそらく当時のヘレニズム世界の思想において、凡庸ともいえる二流の哲学の意味合いしかなかった。
 同時に、よくキリスト教はヘブライズムとヘレニズムという二潮流から生まれたと言われるが、フィロンについては、ヘブライズムの、特にヘブライ語によるラビ伝承などの知的な伝承はほぼなかった。あえて単純化すれば、ギリシア語に訳された旧約聖書であるセプチュアギンタ(七十人訳)と凡庸なプラトン主義を、哲学好きな爺さんが自分の趣味でこっそりと著作にしていたにすぎない。
 実はこのことが逆にフィロンの意味を大きく高めることになる。というのは、当時のギリシア語圏のユダヤ人は、フィロンのように思考し信仰観を持っていたとも推測されるからだ。その意味では、ヨハネ福音書はフィロン哲学から生まれたのではなく、フィロンの背景から生まれたと見てもよいだろう。
 また、当時のギリシア語圏のユダヤ人の代表にはもう一人の巨人、パウロが存在する。パウロも概ねフィロンと同じような哲学・神学観を持っていたと推測される。本書には言及されていないが、「ガラテヤ人への手紙」でパウロはハガルの物語を比喩として挙げているのだが、その手法はまさにフィロンの創世記解釈と同型である。おそらく、パウロがフィロンの著作を読んでいたというより、フィロンのような寓意的解釈はギリシア語圏のユダヤ人の主流であったのだろう。その意味で、フィロンの神学は、パウロ神学を補足してもいる。
 本書「アレクサンドリアのフィロン入門」の書籍としての話に戻す。本書は1962年にオリジナル「Introduction to Philo Judaeus」(参照)として出版され、日本では1994年に翻訳された。それだけでも、かなり古い書籍であり、その間のフィロン研究を反映していないとも言える。さらに、本書の初版は1940年であり、その学問的な骨格はさらに古い。オリジナルが、「Philo Judaeus」としてユダヤ人が強調され、またユダヤ人への理解を深めるような配慮が説明の各所に見られるのも戦時の状況の反映でもあるかもしれない。
 このエントリーでは私の関心範囲を強調したが、書籍はあくまでフィロンの入門書というのが原義にあり、これからフィロンの膨大な著作を読み解く人への案内書の役割をしている。フィロンの著作は日本語で翻訳されたものがあるか私は知らないが、英語への翻訳であればインターネットで、無料でほぼ網羅的に読むことができる(参照)。
 
 

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2011.12.26

ボコ・ハラムによるナイジェリアの教会テロ

 ナイジェリアの首都アブジャ近郊のマダラとジョス、北部のカノ、北東部のダマトゥルとガダキの5地方のキリスト教会へ爆弾によるテロ攻撃があり、現在の報道では40人が死亡した(参照)。一連のテロはイスラム過激派「ボコ・ハラム(Boko Haram)」が犯行声明を出しており、ナイジェリア当局もボコ・ハラムによるものと見ている。
 ボコ・ハラムは、現地の言葉で「西洋教育は冒涜」とされている。イスラム教のシャーリア法の厳格な実現を目指し、キリスト教を敵視している。ナイジェリアはイスラム教徒とキリスト教徒が人口をほぼ二分している。
 ボコ・ハラムによる教会テロは昨年のクリスマスイブにもあり、また8月には国連機関を狙ったテロ、11月にも教会は警察を狙ったテロもあった。今回のテロも想定外であったとは言い難い。日本の外務省も12月14日付けで「ナイジェリア:イスラム過激派組織「ボコ・ハラム」によるテロ攻撃の広がり」(参照)を公開していた。ナイジェリア政府も軍を投入してボコ・ハラムの取り締まりを強化していたが、昨日の事態になった。
 ボコ・ハラムの問題は、米国内では、米国の安全保障上の問題としても提起されていた。11月30日付けの下院国土安全保障委員会の広報「Homeland Security Committee Report Details Emerging Homeland Threat Posed by Africa-Based Terrorist Organization, Boko Haram」(参照)に概要があり、アルカイダ系の組織と同類とする指摘がある。だが、アルカイダとの直接の繋がりについては、「下着爆弾犯」といったテロの類似性はあるものの、現状では不明である。
 同委員会の報告書「BOKO HARAM: Emerging Threat to the U.S. Homeland」(参照PDF)にはより詳細が記されている。これを読むとわかるのだが、ボコ・ハラムの脅威の本質は、ナイジェリアが、今後も期待されるアフリカ最大の産油国石油産出国であることだ。


As a member of the Organization of the Petroleum Exporting Countries (OPEC), Nigeria has proven that it can flex its economic muscle and impact global oil production. In short, disruptions to Nigerian oil production can impact domestic refining in the United States and affect global oil markets.

石油輸出国機構(OPEC)のメンバーとして、ナイジェリアは、経済力を高め、世界の石油生産に影響を与えることを明らかにしてきた。手短に言えば、ナイジェリアの石油生産が中断されれば、米国内の精製にも影響し、世界の石油市場に影響する。


 またしてもこの構図が出てくる。この構図が、リビアとシリアを分かつものでもあった。リビアには石油があり、シリアにはない。
 ボコ・ハラムが宗教的な理由からテロを散発することはナイジェリア国内を不安定化するが、石油施設に手を出さないかぎり西側社会が大きく関与することはないとも言えるだろう。
 
 

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2011.12.25

湯たんぽ

 まさか自分が湯たんぽを愛用するようになるとは思わなかった。きっかけは、コンビニの雑誌売り場で「ニームのあったか湯たんぽ ちょっぴりポップなドット柄」(参照)というのをたまたま見かけ、これ、かわいいんじゃないかなと衝動買いしてしまったことだ。率直に言うのだけど、それだけの理由だった。

cover
ニームのあったか湯たんぽ
ちょっぴりポップな
ドット柄<湯たんぽ付き>
 雑誌コーナーで売られているのだから、シリコンスチーマー(参照)のときみたいに、冊子のようなものが箱に入っているんだろうなという期待があった。が、なかった。湯たんぽが入っていただけだったのである。いや、そうでもないか。どうやら、これ、湯たんぽカバーが本体で、湯たんぽのほうがおまけみたいな扱いのようでもある。
 どんなものか。使い方とサイズは箱に記してあるとおり。外箱から、本体のだいたいのサイズはわかるし、寸法も記載されているだけど、こういうのは現物を手に取ってみないとなかなかわからない。で、どうか。かわいい、やはり。
 買ってから知ったのだが、他にボーダー柄(参照)とギンガムチェック柄(参照)がある。でも、最初にこの二つを見てたら買わなかったのではないかな。やはり、ちょっぴりポップなドット柄というのがよい。赤地に小さい白の、均質で整列した水玉模様。これがもしサイズ不揃いの白玉だと草間彌生的になってしまう。
 さてこれ、湯たんぽである。ゴムでできている。はあ。これって私が子供のころよく見かけた水枕みたいなものだ。素材はゴムだからして、ゴム臭い。
 湯たんぽなのだから湯を入れるわけだが、説明を見ると沸騰した湯はだめだとある。そりゃそうだろう。危ない。私も子供のころブリキの純正湯たんぽを使ったものだが、沸騰した湯を入れた。扱い上、火傷の危険性みたいのはあったものだ。
 この湯たんぽの初期湯温は60度から70度くらいがよいらしい。そのくらいだと扱っているときに火傷の危険性も少ないだろう。湯量は最大で0.8リットル。
 さてと、どう温度を測るか。と説明書きを読むと、沸騰した湯量と同等の量の水で薄めるといいらしい。へえと思って、キッチン用のメジャーカップに400mlの水を入れ、これをヤカンで沸かして、沸いたら等量の水をヤカンにざっと入れる。そしてこれをゴム湯たんぽに入れ、キャップを閉める。
 意外と重たい。0.8リットルほどの水だから、ゴム湯たんぽとか併せて1キログラムくらいにはなる。iPadより重いんだから、重たいなという感じ。ちなみに、0.8リットル満杯に入れるのはあまりお薦めされない。0.6リットルくらいがいい。
 で、どうか。いやはやこれは、しあわせ~のぬくもりである。じんわり暖かい。膝にのっけていると、こりゃええわという感じである。椅子の背において腰を温めていても、じわーんとくる。どういう理由なのかわからないが、電熱系の熱とは体感がずいぶん違う。
 もう寝具にも持ち込むしかない。抱いて寝るのである。いや気持ちええわ。と、気に入ったのだが、熱がじんわり持つのはピーク2時間くらい。あと2時間くらいはほのかに暖かい。せいぜいもって4時間。つまり、朝には冷えている。でも、カバーはフリースなんで触って冷たくもないし、湯たんぽはゴム製なんで、ぽにょんとしていて、それほど違和感はない。
 これはこれでいいかなと思ったのだが。ゴム臭がちとなというのと(使っているとそれほど気にならなくなる)、フリースが傷みやすそうというのと、もうちょっとサイズが大きくてもいいかと思った。類似品もあるのんじゃないかと調べたら、いや知らなかったのだけど、ドイツ製のFashyというのが定番なのですね。
cover
fashy MOTTAINAI
カシミヤ湯たんぽ
2.0L ベビーブルー O33725
 Fashyにも0.8リットルタイプがあるが、2リットルタイプもある。ただ、2リットル満杯には入れないらしい。まあ、いいか。
 こちらのお値段は、ゴム製品の二倍くらい。素材の価格かな。並行輸入品だとややお安いのもあるみたいだなと思っていただが、たまたま、ショッピング先で、カシミヤのカバーを見かけてしまった。見かけたどころじゃなくて、触ってしまった。やっぱカシミヤだよ。僕はセーターもこれだし。触っていて幸せ。これにした。
 Fashyの湯たんぽに湯を入れる。ゴム素材ではないのでゴム臭くはない。けど、なんかプラスチック臭みたいのはあるが、数回使っていると気にならなくなる。湯温の持ちはゴム製とあまり変わりない。カシミヤのさわり心地はいいけど、湯たんぽカバーとしては、ちとゆるい。でもこれでいいやという感じ。
 湯たんぽをさっと使うというとき、湯を沸かすのがめんどうといえば面倒なので、専用の魔法瓶とか用意してもよいかなとも思った。
cover
免疫力アップ!
「湯たんぽ」で「冷え性」が治る
低体温が万病のもと
(だいわ文庫)
 ついでに、湯たんぽって健康器具にもなるんじゃないかと思ったら、そのような趣向の本もある。よく読まれていそうなのと思って「免疫力アップ! 「湯たんぽ」で「冷え性」が治る 低体温が万病のもと」(参照)というのを読む。医学的には安保徹理論である。「体温免疫力―安保徹の新理論!」(参照)みたいのがベース。なのでちょっとなという感じはするのだけど、湯たんぽの使い方としては、へえと思うことなどもあったので、過信しすぎなければそれはそれなりのという感じだった。
 
 

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