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2011.11.25

豪州米海兵隊駐留計画について

 16日、訪豪のオバマ米大統領は、豪州北部ダーウィンへの米海兵隊駐留計画を発表した。2012年半ばからは200人から250人の海兵隊員が同地に半年交代で駐留し、豪州軍と共同訓練や演習を行うことになる予定だ。駐留規模は最終的に2500人にまで強化される。
 発表の背景として日本では、軍拡でこの地域に脅威を与えている中国に対抗する意味合いがあるといった報道がなされた。NHKの7時のニュースですら、中国が現在増強している対艦弾道ミサイル(参照)の射程外に米軍を分散展開する目的があるとして、図を使って説明していた。間違いではないが、中国はかつてのソ連のような冷戦的な対立を強く意図しているわけではなく、構図はやや異なるかもしれない。
 中国の軍拡に伴う脅威が東アジア諸国に迫り、中国を交えた領海や領土の問題も頻繁に引き起こされる時代になってきたのは確かだが、中国は基本的には、東アジアへの領土拡張の意図を強固に持っている国ではない。とはいえ、もちろん今回の豪州米海兵隊駐留計画は東アジア域の米軍の対中戦略の増強ではあった。
 米軍による対中戦略の視点から見ると、基本となるのは中国側の出方、つまり中国戦略になるが、これは「海上拒否(Sea Denial)」と見られている。中国の対艦弾道ミサイルもこの戦略の一環であり、米軍空母を狙うものである(参照)。
 対する米国は、エアシーバトル(AirSea Battle)と呼ばれる戦略(参照)を採り、衛星からの制御などハイテク技術と最新兵器を総合的に活用して対抗する。豪州米海兵隊駐留計画も、エアシーバトル・ネットワークの一環ともなる。
 だが、以上の基本的な構図に加え、今回のダーウィン米海兵隊駐留について、17日のディプロマット記事「A Cold and Clever U.S. Base Move」(参照)はさらに、米軍のプレザンスによって逆に中国のシーレーンを封鎖する可能性を示すことで中国経済に脅威を与える意図があることを加えていた。中国向けABCD包囲網のようなものであり、同記事でも第二次世界大戦の連想があった。


It’s a strategy out of Washington’s World War II playbook. Indeed, the mere presence of a powerful allied naval contingent along China’s sea-lines will require Beijing to divert considerable resources away from its immediate maritime periphery, much as it did with Japan in the 1940s, diluting the singularity of Chinese efforts in the Western Pacific.

これは、米国が持つ、第二次世界大戦・脚本集から引き出した戦略である。実際、中国のシーレーンに沿って同盟国の強力な海軍力を配備すれば、1940年代に日本がしたように、中国は近隣海域から裂いた海軍力を充てなければならず、西太平洋における中国軍拡が手薄になる。


 日本は特殊な例外かもしれないが、現在中国の軍拡に脅威を感じているアジア諸国にしてみると、米軍のインド洋域での中国シーレーン封鎖の威圧は、自国の安全保障にとって手助けになるものである。同時にこの地域の国々に、中国に従属しなくてもよいという安堵感も与える。このところのミャンマーの民主化も、こうした動向を背景に、中国への従属を避けたいとする均衡的な意味もあるかもしれない。
 ディプロマット記事には言及がなかったが、中国のシーレーン封鎖の威圧は、エアシーバトル戦略の持つ欠点を補完する意味合いもあるのかもしれない。この戦略は巨費がかかる上に、中国と核を挟んだ冷戦的な構図を引き起こしなけない危険性(参照)もあるからだ。
 
 

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2011.11.24

エジプト革命の始まり

 エジプトが再び争乱状態となった。これを第二革命と呼ぶ人もいるようだが、なんのことはない。前回は軍部のクーデターに過ぎず、民主化などほど遠い話であった。
 ムバラク政権に劣らぬエジプト軍政による悪行はすでに十分に露呈している。これがどれほど酷いものかは、アムネスティが公開した報告書「Broken Promises: Egypt's military rulers erode human rights」(参照)に詳しく描かれている。
 夜間外出禁止令を破ったり軍を侮辱したとして1万2千人も及ぶ市民が軍事法廷に送られた。ジャーナリストは軍の検察官に呼び出され、拘束され拷問を受けた。軍に抗議する市民に対しては、軍は武装した強盗を使って攻撃した。コプト教徒による抗議では軍は28人の市民を殺害した。
 この軍政が、いかさまな議会選挙(参照)を通して固定化されようとしているとき、市民が立ち上がる現在こそが、まさに革命の始まりなのである。
 だが、前回の軍部クーデター騒ぎに比べて、日本ではツイッターでの話題もあまり見かけず、ブログなどでもあまり話題を見かけない。今朝の朝日新聞社説「エジプト騒乱―若者たちの不満を聴け」(参照)に至っては、若者の立腹程度の話に矮小化している。


 3日間の衝突の後、軍最高司令官は「軍が権力にとどまる意思はない」と明言した。来年6月に大統領選挙をして、民政に移管すると約束した。暫定政府の辞任を認め、政治勢力との間で挙国一致内閣の発足で合意したことも明らかにした。
 若者たちは発表に納得せず、軍政を直ちに終わらせ、文民中心の救国政府の発足を求める。
 若い人たちの怒りは理解できる。だが、来週から始まる選挙の実施を優先し、そこで自分たちの主張を広げてほしい。

 軍政側の「明言」がどれほど裏切られたかについて、朝日新聞社説は、きれいにほっかむりしたままで、エジプト若者世代に共感する素振りを見せながら、いかさま民主主義への恭順を説いている。
 市民が軍に立ち向かうとき、どのような危険が伴うかと想定すれば、中国天安門事件や現在も続くシリアの弾圧を参考にしても、朝日新聞がそう説くことをまったく理解でないものでもない。
 市民側には正規軍に優る暴力もないのだから、軍を圧倒することはできない。また、ソ連崩壊のように、国軍もまた市民に立ち返って革命に参加するほど、軍側に民主化への熱意があるわけでもない。エジプト軍はそのものが一つの巨大な利権の体制でもあり、そもそもクーデター政権樹立の要因はこの体制の保身であった。
 ではこれから惨事になるのだろうか。いやすでに38人を超える死者を出して惨事ではある。さらに桁外れの軍の力が行使されるだろうか。
 そこまではいかないだろう。理由はすでに先々週あたりから、欧米紙の論調(例えば、参照)を見てもわかるが、米国によるエジプト軍への支援中断の脅しをかけている。エジプト軍側が惨事を引き起こせば、金策に詰まって体制そのものが孤立しかねない。軍側としては、じりじりとしたチキンゲームを続けて、若者を中心とする抗議活動が、国民世論から乖離している状態を待てばよい。
 では、抗議者たちはどうするのか。
 圧倒的な暴力の差から体制の転換は無理だろう。夜間に暴動が活性するのも、宵闇に乗ずるしか手がないからだ。
 実際のところ、現状の抗議の実質的な目的は、朝日新聞が薦めるところの議会選挙を阻止することではないか。
 そもそも今回の騒動のきっかけは、18日のムスリム同胞団による議会選挙への抗議から始まった。が、このムスリム同胞団の抗議は、若者の参加による抗議活動がエスカレートするにつれ、引いた。
 単純に見れば、議会選挙で第一党が予想されるムスリム同胞団が議会選挙にさほど抗議するメリットはないので、いわば軍側との駆け引きのためのブラフであったのだろう(参照)。ムスリム同胞団も軍側と同じように、若者を中心とする抗議から距離を置き、それが世論から遊離するのを待っているのである。
 つまり、現下の状況の本質は、軍のクーデター政権と協調しつつあるムスリム同胞団との実際的な妥協の体制を阻止することにかかっている。
 このことは同時に欧米側によるイスラム勢力の抑制にも合致していることから、前回のクーデター騒ぎのように、それなりの支援も入っているのではないか。
 短期的には、実質的な旧体制の復活が阻止できても、その先の体制の展望までは見えない。経済的にはいずれにせよ否定的に見えているにせよ。
 
 

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2011.11.23

政治は何のために存在するか?と愚問して陳腐な結論に至る

 政治は何のために存在するか? 自明のように思えるので、あらためて問うと愚問のようだが、そのことが実際には世界で日本で、各所で問われている時代なのではないかと思う。
 政治は何のために存在するか、という問いは、政治とは何かという問いとは微妙に異なっている。政治とは何か、というのであれば、まずその語感から、"government"と"politics"の二面が想起される。
 "government"であれば、"governance"つまり「統治・支配」のあり方が問われる。これを日本国憲法のように広義に"control"(制御)と考えてもよいのかもしれない。"politics"であれば、そのまま「政治学」ともなりうるが、支配の含みもあり、支配力の関係が問われることになる。それは政策でもあるが党略とも言えるし、つまるところ政争であれ権力闘争であるとも言える。二面に共通なのは、「権力」のあり方が問われるところだと言ってよいだろう。
 ではこの権力とは何か?、だが、国家においては、マックス・ヴェーバーがトロツキーを引いて定式化したように、暴力として裏打ちされるものであり、だからこそ、国家は暴力装置となる。国家は諸暴力の収納及び起動の装置である。
 では、どのように諸暴力が一つの国家に収納されるのか。それもまた暴力の力ではないかと言えないこともない。が、民主主義国では市民原理による統治、"civilian control(シビリアン・コントロール)"を掲げる。この「制御=政治」を支えるのは、「正当・正義」の概念であり、つまるところ、暴力ともなりうる権力が法によって拘束されることにある。
 こうしたことは、政治の内的な機能であり、組織・制度や、市民の正当意識によって支えられるものだが、最初の問いに戻って、政治はなんのために存在するのかと、外的な機能として問う場合は、やや異なる姿を示す。
 政治は何のために存在するのか? 平等・公平? 諸権利の保護? 富の配分? 治安? あらためて問われると意外に難しいのではないか。

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いまを生きるための
思想キーワード
 「いまを生きるための思想キーワード(仲正昌樹)」(参照)を読みながら、提示されたいくつかのキーワードの根幹には、政治は何のために存在するのか、という問いが据えられているように思えた。
 政治は何のために存在するのか? 端的に言えば、「善」ではないか。
 同書では、まさに「善」というキーワードが存在するが、ここで実際に問われているのは、政治の外的機能または政治の存在理由のように受け止められた。
 一般に「善」の領域は倫理学("ethics")で問われるのだが、同書ではこうくだかれている。

 現代の倫理学、特に欧米系の倫理学で問題にされている「善」は、基本的に、「神」のような絶対的な視点から見て「善い(良い)」ものではなく、特定の個人や集団にとって「善い(良い)」ものをさしている。


もう少し詳しく言うと、私(たち)が自らの生の目的(と想定されているもの)を追究・実現するうえで有用(good)であるもの、私(たち)の欲求を充足し幸福にしてくれるもの、もしくは幸福になった状態が「善」である。

 同書ではこの考え方を直接的かつ明示的には政治の外的な機能には結びつけないが、文脈からこの問題が、リベラリズムとリバタリアニズムにおける政治の理念として語られる。つまり、こうした意味での「善」が、個人の持つ諸価値が分かれるときの利害の調停の技術として政治が実質問われる。
 以上の展開は「自分の頭で考える」結果ではなく、ごく普通に西洋における政治学の基本をなぞってみたにすぎない。
 「政治学」( Πολιτικά)とはアリストテレスが書いた古典が基点になり、そこでは、国家の「善」が問われる学問(science)だからである(参照)。
 では、国家にとっての善とは何か? なぜそのことが、現代に再び問われるのか?
 単純に言えば、国家の内部に、個人の価値観に拠る利害の相違が存在するからであり、それと国家はどのように向き合うか、ということが、政治として問われるからだ。ではその基本は何か? 現代性は何か?
 「いまを生きるための思想キーワード」の「善」では、リベラリズムとリバタリアニズムからこれを説明していく。

 ロールズなどのリベラリズム系の正義論や、国家による経済への介入を原理的に否定するリバタリアニズム(自由至上主義)の議論では、「善」は基本的に個人ごとに異なることが前提とされている。民主的に政治を行おうとすれば、どうしても、その政治的共同体全体の共通ルールを設定しなければならないが、その共通ルールの適用範囲を広げすぎると、各人の「善の構想」が侵害されることになる。


そこで、共通ルールを、価値中立的もしくは価値横断的に”みんな”が受け入れることのできる「正義」に限定し、各人ごとの「善の構想」と両立させることが重要になる。

 つまり、ここで、「正義」が政治の外的な機能の支える「善」の裏打ちとして位置づけられる。誰もが価値観が異なるのだから、公平なルールをが要請され、その質として「正義」が語られる。別の言い方をすれば、欧米系の思想では、「正義」はこのような限定された文脈で語られることが多い(国家間ではそうとも言えないが)。
 同書にもなんどか指摘があるが、マイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学」(参照)も、こうした意味での「正義」を扱っているために、実質的には政治に関連してくる。
 くどいが、正義とは何かと大上段に語るのがサンデルの意図ではなく、政治の外的な機能を語っているのである。しかも、サンデルは、ロールズのリベラリズムやノージックのリバタリアニズムに再考を迫るものとしての、オールタナティブな「正義」=政治原理を問うのである。
 しかしなぜ、そんな、いかにも迂遠なことが現代に問われるのか。その背景には、「善」と「公平」が国家との関係に置かれたとき、実質、財の再配分として問われるからである。

ロールズたち主流派のリベラルが、「正義」の中に、財の(再)配分をめぐる問題も含めて考えようとするのに対し、リバタリアンは、公権力が個人の財産権に干渉し、再配分を行うことは、個人の「善の構想」に対する重大な侵害と見なし、強く反対する。

 この問題がまさに現在、米国で問われている問題であり、さらに欧州危機の背景、さらには日本の政治のもっとも重要な部分に関係してくる。が、私の印象では、日本ではそれがなぜか、サンデルの著作があまり理解されないように、理解されていないようにも思える。
 具体的な状況で問い直してみよう。米国時間の22日、米財政赤字削減策を議論する議会超党派特別委員会(議員12名)が合意に至らず、決裂した。米財政赤字削減策は、向こう10年間に1兆2000億ドル(約92兆円)の財政赤字を削減する政策である。が、単純な構図にすれば、財の再配分についての問題で合意が得られなかったということだ。
 オバマ政権の米民主党は古典的なリベラルとして公平や福祉のために税を強化するというかたちで公権力が個人の財産権に介入し、再配分を強いる。
 日本人にしてみると、公平や福祉がそのまま短絡的に「善」に見えることも多いので、「善のためには悪を切るでよい」という単純な反応をしてしまう人がいるが、リバタリアニズム的には、公権力の過剰な行使になり、そのものが悪である。
 今回の米国議会超党派特別委員会の決裂は、端的に世界の金融市場に悪影響を与えるし、米国自体が日本型停滞に陥る可能性も高い。さらに、米国の国防費が削減されるので、世界の軍事バランスにも影響が出る。日本の普天間問題にも影響が出る。
 他方、欧州危機も、国家の過剰債務に端を発しているという点で、米国と基本的に同じ構図を持っている。欧州は米国的なリバタリアニズムは弱く、社会主義に近いリベラルが政治理念が強いので、再配分を国家に強いるのだが、しかし、無い袖は振れない事態に陥っている(あるいは他国のためには袖を振りたくない)。
 日本の場合は、国家債務問題に加え、さらに高齢化による老人福祉・医療の支出増大が想定される。政府の点からすれば実質すでに破綻している。
 いずれも、政治の外的な機能である「善」が、国家による財の再配分として問われるとき、国家の権力をどのように考えたらよいのか、ということが、冒頭に戻って、政治は何のために存在するか、という問いに帰結し、現在的に問われることになる。
 欧米ではこれらは思想課題としてみれば、リベラリズム/リバタリアニズムのデッドロック状態と言えないでもない。そこで、サンデルなどコミュニタリアンは、この「善」について、やや異なる考えを提示しようとする。ただし、結果的にはよりリベラルを推進した公権力の強化になりがちにも見えるのだが。先の書籍から。

(前略)サンデルたちコミュニタリアンは、個人にとっての「善」はその個人が生まれ育った共同体が全体として追究している「共通(の)善common good」と切り離して考えることはできないし、「共通善」からの独立の「正義」などありえないと主張する。

 興味深いのが、サンデルなどのコミュニタリアニズムは、リベラリズム/リバタリアニズムのアンチテーゼとして提出されるのだが、日本の倫理・政治世界では、これが自明のものとして提示されてしまうことだ。TPPのバカ騒ぎも、リベラリズム的に再配分の問題として問われるわけでもなく、リバタリアニズム的に個人の益を優先する(そもそも自由貿易は関係国間の市民の利益を優先して国益を弱めるのが基本である)のでもなく、最初から奇っ怪なる「国益」が提示され、さも、日本の市民が共通の「国益」を共有しているコミュニティであるかのような前提でバカ騒ぎが始まるのである。
 では、日本の政治は、そのようにコミュニタリアニズムが基本なのかというと、生命倫理では異なる様相を示している。サンデルなどコミュニタリアンの問題提起には、公平の実現を財の再配分を超えて問う基本姿勢があり、そこで生命倫理などが問われる。

 コミュニタリアンに言わせれば、自由主義者たちが、「正義は普遍的な合意に基づかなければならない」という前提に拘りすぎると、妊娠中絶、安楽死、同性婚、臓器移植、死刑といった価値の対立が激しい問題についてに、「正義」の原理に基づく解答を与えることができない。「正義」の原理が成立しそうにない問題を、公的領域における政策決定の俎上にのせてはいならないというリベラリズムの基本原則に忠実になろうとすれば、結局、難しい問題は全てスルーすることにしかならない。

 日本人の多くがコミュニタリアン的な政治理念を共有しているなら、生命倫理についてなんらかの問題意識を持ちそうなものだし、問題は声高に語られもするのだが、実際にどのように現実で問われているかというと、ほぼ皆無に等しく、沈黙のうちにスルーされている。妊娠中絶、安楽死、同性婚、臓器移植、死刑といった問題は日本では現実的にはほぼなんの進展もない。
 つまり、日本人は、声高に騒ぎ立てるときにはコミュニタリアン的でありながら、実際の行動は黙ってリバタリアン的になる。リベラルふうに財の再配分を求めているときも、実際には、自分に再配分が多ければよいというくらいの根拠性しかない。
 この日本というのはいったいどういう政治原理が貫通されているのだろうか。
 明確にわかることは、2点ある。1点は、リベラリズムの不在である。
 もう1点は、声高にコミュニタリニズムを語り実際に黙ってリバタリアニズム的に行動するというあり方だ。「国益が日本が」あるいは「中国が韓国が」と問題を国家コミュニティを前提にがなり立て、自分が利益になるように誘導するのが日本の政治である。
 より正確にいえば、日本にはリバタリアニズムもない。個人原理のリバタリアニズムというより、半径1メートルの「承認」しあう身内の共同体利益で行動しているお仲間細胞原理である。
 これは、懐かしのイザヤ・ベンダサンが言うところの、空体語と実体語というバランスクラシーでもある。つまり、日本教なのである。
 
 

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2011.11.22

[書評]いまを生きるための思想キーワード(仲正昌樹)

 表題からわかるように、この小冊子(講談社新書)は、現代思想のキーワードに解説を加えたものであり、帯に「高校生もわかる『思想』入門」ともあるように、思想についてわかりやすく解説することを狙っている。

cover
いまを生きるための思想キーワード
仲正昌樹
 実際にわかりやすいかというと、仲正昌樹氏の他の書籍でもそうだが不用意な難解さはないという点ではわかりやすい。
 が、おそらく高校生が読んですっきりわかるというものでもないだろう。むしろ高校生が読んでわかるのは、現代思想が何を課題にしているか、という問題意識だろう。そのことが結果として、ただの気分やファッションで現代思想を語る愚かさを除くというメリットはある。
 本書はいくつかのキーワードを解説するという形式になっているから、何がキーワードなのかということが重要になる。具体的にはキーワードは次の21個に過ぎない。


正義

承認
労働
所有
共感
責任
自由意志
自己決定/自己責任
「心の問題」
ケア
QOL
動物化
「歴史(=大きな物語)」の終焉
二項対立
決断主義
暴力
アーキテクチャ
カルト
イマジナリーな領域への権利
「人間」


 デイヴィッド・チャーマーズ「意識のハード・プロブレム」、ブランドン・カーターの「強い人間原理」、ドナルド・デイヴィドソン思想と「スーパーヴィーニエンス」みたいな分析哲学系現代思想のキーワードは含まれていない。現代思想といっても社会思想に限定される。とはいえジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」が含まれているわけでもない。
 つまり、よくある日本の現代思想のように、なんだかわけのわからないキーワードの羅列したりマップにしたりする浅薄なしろものではない。
 では何か。仲正氏が現代を考える上での思想のキーワードを選らんで解説しているといえる。その意味では、これらはキーワードというより、思想のためのツール群と理解したほうがよいだろう。
 別の言い方をすれば、選択されている各キーワードの解説には、横断的に、ロールズのリベラリズム、ノージックのリバタリアニズム、サンデルのコミュニタリアニズムが、当たり前の前提にように登場する。アーレントの思想も前提になっている。これらは文脈から理解できないことはないが、高校生にもわかる書籍というなら、より基礎的な用語や思想家の思想について、別途ランクを下げた解説が必要になるだろう。本書は、仲正氏のこれまでの著作の補遺・発展といった印象が強い。
 むしろ面白いのは、その補遺を逸脱している部分である。過去の書籍でまとめきれなかった部分や、今後思想戦略的にこう考えたいという先取り部分が本書に見受けられる。特に、氏の翻訳「イマジナリーな領域」(参照)に関連する「イマジナリーな領域への権利」のまとめや位置づけはわかりやすい。同様のことが、「承認」や「共感」などにも見える。余談になるが、多少日本の現代思想などを知っていれば爆笑もののきつい皮肉も散見されて、面白いといえば面白い。
 本書を、仲正氏が提案する思想のツールとして見るなら、私個人としては、「心の問題」「ケア」「QOL」「アーキテクチャ」といったツール群が興味深かった。
 従来の「現代思想」は基本的に国家と個人(市民)の権利や自由・公正といった、人間と市民原理的な問題を思想として取りあげてきたものだが、現在から未来の社会において、特に日本などの先進国において、その関係で問われるのは、医療と老人の問題だろう。生命・医療と国家など公領域の関わりをどう捕らえるか。どう考えたらよいか。その思想のための道具としてこれらのキーワードは使える。
 医療問題や老人問題などの課題分野では、いわゆる左翼思想はすでにナンセンスと化しているし、リベラリスト/リバタリアン/コミュニタリアンといった視点もさほど有効ではない。
 とはいえ、まあ、一息つくと、そもそも日本という思想空間は、なんというのか、とんでもないほどの強固な虚構性があって、実際のところ、課題と思われながらも、問われない部分が大きい。特に生命倫理は、ほぼ問われていない。現実的に課題に見えるものも、ただの日本的な情感的に賛否が問われるバカ騒ぎに変換される。臓器提供意思表示は結果としてなんの進展もないかに見える。根津八紘医師の活動を思想的に取りあげた学者がいただろうかとも疑問に思える。これらは、日本教的な強固な虚構性から自然に排除されてしまう。
 同性愛の問題も西欧の問題として看過される。フェミニズムとカルチュラルスタディーズも、現実のアラブ圏の文脈としては問われそうにもない。
 この日本教とでもいうような強固な虚構性のようなものが、思想課題を無効化する日本の現状からは、現実には、思想のためのツールもあまり有効性はないのだろうなと嘆息もする。
 
 

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2011.11.21

レディング・ソース(Reading Sauce)

 イギリス料理でずっと気になっているのがレディング・ソース(Reading Sauce)である。40年くらい気になっている。きっかけはジュール・ヴェルヌの「80日間世界一周」(参照)の印象的なシーンからだ。
 霧がかるロンドンの霧のように謎めいたジェントルマン、ミスター・フォッグは、金持ちの社交界「改革クラブ」の会員。同会は社交の場を提供するとともに、食事から宿泊までもサービスする。フォッグ氏はクラブ近くのサヴィル・ロウ7番地の邸宅に住み、毎日午前11時半きっかりに邸宅を出てクラブに通う。帰宅は深夜12時きっかり。一日の大半をクラブで過ごす(その大半は読書とホイストをしている)。
 クラブに着くとフォッグ氏は食事をとる。時間はからすると食事は昼食だが英語ではブレックファストになる。ビクトリア朝大英帝国のイギリス料理である。私の少年時代の憧れでもあった。この食事を「昼食」と訳した高野優訳を借りる。


昼食のメニューはいつもと同じである。まずは前菜、それから茹でて〈レディングソース〉で味をつけた魚料理、あまり火を通さずに焼いて〈マッシュルームソース〉をかけた真っ赤なローストビーフ、ルバーブの茎とグーズベリーの実を詰めたケーキ、最後にチェシャーチーズをひと切れ、こういう料理を《改革クラブ》がインドで特別に摘ませたすばらしい紅茶を飲みながら味わうのである。

 ちなみに英訳ではこう。

His breakfast consisted of a side-dish, a broiled fish with Reading sauce, a scarlet slice of roast beef garnished with mushrooms, a rhubarb and gooseberry tart, and a morsel of Cheshire cheese, the whole being washed down with several cups of tea, for which the Reform is famous.

 英訳では、マッシュルームはソースではなく付け合わせとなっている。またルバーブの茎とグーズベリーの実はケーキではなくタルトである。紅茶は二杯程度であろうか。
 光景が目に浮かぶ。味もわかりそうな気がする。が、わからないのが「レディング・ソース(Reading Sauce)」である。魚料理のソースだというのだが、なんだろうか。なお、英訳では"a broiled fish with Reading sauce"なので魚は焼いていることになっている。
 ネットが自由になるころから探してみたが長いことわからなかった。が、昨年BBCに記事があった。「Reading's Cocks's Sauce to be recreated」(参照)。

Reading's Cocks's Sauce to be recreated

レディング・ソースが再生されることになった

During the Victorian era it rivalled Worcestershire Sauce in the nation's affections.

ビクトリア朝時代、レディング・ソースはウスターソースと英国民の人気を争った。

Reading Sauce is even mentioned in the book Around the World in Eighty Days by Jules Verne.

レディング・ソースはジュール・ヴェルヌの「80日間世界一周」にも出てくる。

However during the 1900s, Reading's Cocks's Sauce, fell out of favour with the public.

しかし1900年代に、レディング・ソースは大衆の人気を失った。

Now a Reading restaurant is to recreate the once-famous sauce, with ingredients including walnut ketchup, mushroom ketchup, soy sauce and anchovies.

現在、レディング・レストランは、かつては名声の高かったこのソースを再生しようとしている。成分は、クルミのケチャップ、マッシュルームのケチャップ、醤油とアンチョビである。


 記事を読み進めると、さらに、トウガラシ、スパイス、塩、ニンニクも含まれるようだ。

レディング・ソースのポスター
 レディング・ソースは、当時は国際的にも有名な魚料理用のソースだったというし、魚を食べる日本のことだから、明治時代の日本の洋食にもあったのではないか。
 レディング・ソース復活はイギリス的にはけっこうなニュースでもあったらしく、ガーディアンにも記事があった。「Reading's Cocks's sauce on shelves for Christmas」(参照)。表題からすると、レディング・ソース復活は、クリスマスのディナー向けということらしい。収益もチャリティになった。味もよかったらしい。ただし店頭販売はなかったようだ。
 では、自分で作れないものか。
 この手のソースは秘伝みたいになっているので正式な作成法は公開されていないが、一時代それほど有名なら何はありそうだと思って探すと、あるにはある。「Vintage Recipes: Reading Sauce」(参照)など。材料を訳してみる。

1.2リットルのクルミのピクルス汁
42.3グラムのエシャロット
約1リットルの湧き水
約350ミリリットルの大豆
約15グラムの刻みショウガ
約15グラムのヒハツ
約30グラムのマスタード・シード
1匹のアンチョビー
約15グラムのトウガラシ
約7グラムのローレル

 この時点でなにがなんだか見当も付かない。そもそも「クルミのピクルス汁(walnut pickle)」がわからない。こんなときは、グーグルで画像検索してみる。あ、なるほど。くるみの果実をそのままピクルスにするようだ(参照)。
 これならわかる。私は両親が信州人でなので子供ころから長野県の農村風景は見慣れている。胡桃の青い果実もよく知っている。あれか。あれをピクルスにしちゃうわけか。つまり、いわゆるクルミの部分の残りを使うわけか。
 仮にそうだとしても、作り方がまたよくわからない。

Bruise the shalots in a mortar, and put them in a stone jar with the walnut-liquor; place it before the fire, and let it boil until reduced to 2 pints.

エシャロットをすり鉢で潰し、クルミの液と一緒に石の釜に入れる。それを火にかけて、1リットルになるまで煮詰める。


 そのあといろいろ一時間くらい煮詰めて、24時間冷ますみたいな話がある。最終的には2リットルくらいソースができるらしいが、そんなにたくさん要らない。
 風味の要点だけで、魚向けの簡易なソースにならないものかと思うのだが、この調理法からだと想像もつかない。
 イギリス料理の技法を簡易にかつ実践的にまとめた「イギリス料理のおいしいテクニック」(参照)を眺めてみても、類似のものは見当たらないのだが、もしかすると、デヴィルド・ソース(Devilled sauce)の一種かもしれない。同書には、19世紀に流行したとある。マスタードにトウガラシやこしょうを加えるところがポイントのらしい。
 レシピの例としては、フルーティ・デヴィルド・ディップ・ソースがある。が、レディング・ソースはディップではない。それでもこの類似なのかもしれないとは思った。ジャムとマスタードにエシャロットを加えて、魚のソースになるものか。ジャムのベースとしてはママレードのような柑橘ではないから、簡易なところではリンゴが近いだろうか。そもそもクルミのピクルスだが、液だけ使うのか。どんな味なのか、わからないなあ。
 
 

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2011.11.20

[書評]イギリス料理のおいしいテクニック(長谷川恭子)

 イギリス料理は美味しいか? 私はイギリスに行ったこともないし、特にイギリス料理に馴染んだこともないが、米国料理と思って食べてた料理に含まれるイギリス料理的な部分から、また、小説やエッセイ、例えば村上春樹「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」(参照)などを読むに、不味いってことはないのでは、と思っていた。林望先生の「イギリスはおいしい」(参照)になると、逆にちと微妙なものが、あるが。

cover
イギリス料理の
おいしいテクニック
 で、イギリス料理は美味しいのか? 美味しいのである。疑いがすっきりと晴れたのは本書「イギリス料理のおいしいテクニック」(参照)を試してみたからだった。一時期、この本のレシピの料理ばかり作っていた。美味しいということもだが、料理その物も興味深かった。筆者、長谷川恭子さんの文献学的な研究の姿勢にも感動した。中世からの文献に当たって実際に創作して検証しているのである。
 残念なのは、今アマゾンを見ると絶版で中古にはプレミアムが付いていることだ。めちゃくちゃな価格とは言えないが自分の知るかぎり類書はないので、しかたないかなとも思う(多分、英書にもない)。図書館とかでは比較的見つかりやすい本ではないかと思う。
 具体的に何が美味しいのか? 美味しいということもだが、すでに定番料理になってしまったのが「レモン詰めローストチキン」。難しいことは特にない。いや全然難しくない。米国人の好きそうな秘伝のスパイスもない。スタッフィングとしてレモンを摘めて普通にオーブンでローストするだけなのである。レシピの秘訣みたいなのも特にないが、レモンは、丸のまま調理台で力を入れて転がして中が少しつぶれるようにする。そのあと、楊枝で20か所くらいぷちぷちと刺して汁が出やすくする。当然だが、レモンは農薬の少ないのを選ぶほうがいい。これをチキンに詰めて普通にオーブンでローストチキンにする。レモンの分だけ加熱は長くなる。レシピにはレモン2個とあるがチキンが小ぶりなら1個でいい。チキンの味付けは塩こしょうにオリーブオイルだけ。ローストができたらレモンを出してカットし、絞ってチキンにかけ、肉汁にも混ぜる。柑橘の香りとチキンが調和して美味しい。
 簡単な料理なのだが、一つだけ気になることがないわけではない。いや、本書の他のレシピにも言えることだが、時間がかかるのである。
 「レモン詰めローストチキン」なら180度で30分、上下を返して30分、200度に上げて20分。焼き上がったら休ませて15分。レモンを取り出す。掛かりきりの作業ではないが時間はかかる。たぶん、そこが現代的な料理ではないのだろう。
 私の好物でもあるが「タラのセヴィーチ」も時間がかかるといえば、かかる。鱈の切り身に塩こしょうして30分置く。これを軽くポワレ。そのあと、マリネするのだが冷蔵庫で3時間から12時間。マリネ液の作り方は省略するが特に難しいものでもない。が、何?その3時間から12時間って。
 たぶん、12時間というのは翌日食べるということだろうが、普通に食べるのにマリネ3時間というのは、現代風の調理だと長いようにも思える。マリネはそんなものであるのだが。
 本書の料理は手間のかかるものばかりではないが、手間への惜しみはない。料理ってそういうものなんだなというのと、その条件を廃してみると、現代風の料理とは違ったものが見えてくる。
 イギリスに料理の伝統はあるのかという問いに、本書は結果的に微妙な答えを出している。もちろん、ある。あるどころか、中世の料理書からも研究されているのだが、先の「タラのセヴィーチ」でもそうだが、セヴィーチは南米料理。それでイギリス料理なのか?ということだが、近世から世界帝国を築いていたのが大英帝国なのだから、それでいい。
 林望先生お得意のスコーンも当然掲載されている。それどこか、スコーンは生地なのであって、肉だのフルーツだの巻き込んだりして料理にする。うまいよ。本書には掲載されていないが、単純にウィンナソーセージを巻いてもいい。
cover
イギリス菓子の
クラシックレシピから
 著者・長谷川恭子さんはもう一冊「イギリス菓子のクラシックレシピから」(参照)というレシピ本も書いているが、こちらはお菓子に特化しているのだが、さらに文献的な考察が深まっていて、おそらく英米文学を学ぶ人にも必携ではないだろうか。掲載されているお菓子を食べてみたいというのは別としても。
 
 

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