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2011.11.19

[書評]ブロードウェイ 夢と戦いの日々(高良結香)

 高良結香さんの「ブロードウェイ 夢と戦いの日々」(参照)は2008年の出版。現在でも版を重ねたふうはないがどうだろうか。まだ絶版にはなっていないが版元がランダムハウスということもあって文庫化されるかはよくわからない。一つの時代の記録としても、また若い人に読み継がれるとよい、元気の出る書籍である。さらに米国のショービズの内側を日本人の目から描いたという点でも貴重な資料である。

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ブロードウェイ 夢と戦いの日々
高良結香
 話は、歌手でもあり俳優でもあり、なによりダンサーとしての高良結香さんの、幼児期からブロードウェイのミュージカル「コーラスライン」の舞台に立つあたりまでのサクセスストリーでもあるが、表題に「夢と戦いの日々」とあるように、絶えざる克己を必要とするプロセスも内面から描かれている。同時に彼女と同じように、ブロードウェイのミュージカルに立とうとする各国の若者群像も描いている。おそらくそこには、本書には描ききれなかった情熱の物語も数多くあるのではないか。
 高良結香さんの出身は沖縄の小禄である。米国に留学し、またダンスを学びながら一時帰国して小禄のツタヤなどでもバイトをしていたという。ハイスクールを出たときシュガーホールで手作りの公演もやったらしい。同時期に沖縄で暮らしていた自分も、小禄も佐敷によく行ったものだった。彼女とすれ違うようなシーンもあったのかもしれないなと連想した。
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コーラスライン
ニュー・ブロードウェイ
キャスト・レコーディング
 高良さんの年齢は公開されていないが、よく読むとわかるようには書かれている。だいたいのところ本書は20代までの記録と見てよいだろう。その意味では青春記でもある。
 ブロードウェイで活躍できるほどの彼女の英語力は幼児期からインターナショナル・スクールに通った成果だが、親の方針でもあったようだ。沖縄ならではの教育環境のようにも思えるが、自分の沖縄生活の経験からするとそう多いケースではない。ハーフの子で、どう見ても日本人っぽくなくて、その後のことを考えると英語ができたほうがいいということで通う子もないわけでもない。
 そういえばふと思い出したが、南沙織もインターナショナル・スクールに通っていた。当然英語がぺらぺらで英会話の本とかも出していた。1978年の「シンシアの英会話レッスン―英語でおしゃべりしてみませんか」(参照)である。アマゾンで見ると入手できない。私のはたぶん実家の書架にまだあると思う。
 高良さんの米国留学だが、普通にインターナショナル・スクールを出てから、ある意味普通に米国の大学に留学した。シェナンドア大学に進む。関連して有名な歌「シェナンドア」についても言及している。後に、照屋林賢氏プロデュースの「naked voice」(参照)でこの歌を歌っているが、当時の思いも込められているだろう。
 大学はしかし卒業しなかった。ミュージカルに触れ、ダンスと音楽に憧れて単身ニューヨークでの暮らしを始める。仕事やレッスンやオーディションの日々。この、ある意味下積みといえる生活の話も面白い。ショービズに憧れる米国の青年や各国の青年たちがこうしてニューヨークで暮らしているのだなとわかる。映画か小説でも見ているようだ。
 ショービズの世界に入ってからは、ユニオンについても、その内側からよく描いてある。ユニオンは、ごく簡単に言えば労組のことだし、賃金や労働条件の交渉などを扱うので労組という以外はないのだが、実際には日本の、結局大企業縦割りで左翼くさい労組とはまったく違う。私もわけあって米国のその手の団体に参加していたので内情を少し知っているが、ショービズにおけるユニオンの仕組みは本書によく描かれている。訴訟などが通例でもある社会だし、体の故障などの際の補償などでも、ユニオンがないとフリーランスはやっていけないし普通に技能者もやっていけない。日本もそういう社会になっていくというのに、しかも労組が政権取ったのに、まるで米国のユニオンのような流れは見えないところに、日本の暗澹たる未来があるのだが。
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universal u
 本書の後半は、ブロードウェイへのある種成功のストーリーと、ちょうど重なる9.11事件の米国での生活の経験が語られる。当日の行き詰まる状況は経験者だけが持つ独自の臨場感で語られる。こんな時だからニューヨークの灯を消してはいけないと、翌日からブロードウェイも続けられた。
 9.11の彼女の内面への衝撃はその後も続き、その内的な問いかけから、彼女は自分の歌を作り出す。「今なら素直になれるよ」である。「universal u」(参照)に含まれている。iTMSでも購入できる。ちょっとアニメ声のような甘さと高音の若い女性らしいかすれもありながら、日本語の歌詞にまざる英語の発音は完璧で、声のブレもなく低音の響きもいい。録音スタイルからかブレスがきつく拾われているがちょっとエロくも少しあるし、盛り上げはちょっと青春心をちくちくさせて泣かせる。
 高良さんの現在の活動については私はほとんど知らない。沖縄ベースで活躍されているのだろうか。ある一定以上の年代になったら、ユニオンでの経験などを活かして大学など学校の先生になるという道もあるのではないか。
 

 
 

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2011.11.18

[書評]真鶴(川上弘美)

 主人公の京(けい)は、明確に年齢は書かれていないが、46歳の女性。中学3年生の娘がある。結婚したのは20代の終わりだろう。夫の礼(レイ)は2つ年上。12年前に突然、失踪した。娘にはだから父の思い出はない。なぜ夫は失踪したのか。「真鶴」(参照)というこの物語が後半にさしかかるまで、主人公の京も理由がわからないとしている。多少ミステリーの仕立てにもなっている。

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真鶴
川上弘美
 どこに失踪したのかもわからないが、礼の残したそっけない記述の日記には、失踪の暗示とも取れる「真鶴」と「9:00」という謎の言葉が残され、京は12年後に、神奈川の真鶴に小旅行する。冒頭はそのシーンから始まるのだが、その旅で彼女をつけてくる者がある。霊というか、あるいは京の幻覚か。そのいずれでもよい。
 物語は主人公・京の統合失調症的な幻想描写を交えながら展開されるが、それは精神病理ではない。あくまで文学のたくらみとしての設定であり、いわば人間の内奥の異世界的な描出する手法である。この異世界がまた「真鶴」という、神話的が幻想を誘う空間にも設定されている。
 ごく簡単に言えば、普通の女として普通に生きるはずの女が、なぜかその人生を奇妙に途絶されたことの意味を文学的に問いかけるのがこの作品のテーマである。それは多少なりとも文学的な感性を持つ人なら誰にもであるものだ。40歳を超えた人間にとって、いかに平凡に生きてこようがどこかしら、愛との関わりにおいて、なぜこの不条理な人生が自分にあったのだろうか、という、胸をえぐる問いはあるものだ。それがこの作品のテーマが重なる。
 当然と言ってよいのだろうが、その問いかけが作者川上弘美にあって文学の形式となって表出されたものだろう。そしてその問いかけを、いかにも文学的な趣向と情感のなかに上手に統合したのであれば、この作品は、文学愛好者や批評家が称賛するものであれ、駄作であっただろう。
 一見不合理に見える幻想的な描写は、実際のところ精神医学的にも理知的に解き明かされうる、理系的な構造を持っている。なぜ統合失調症的な幻想が生じるのかといえば、主人公の自我の記憶の物語を抑圧するためであり、よくある人格分裂の機構を借りているにすぎない。別の女に奪われそうになった自分の男を殺したいという欲望がうまく消化できなかったということだ。その精神機構自体はチープなトリックにも見える。
 この作品の真価は文学的な装置にはない。あえて言えば、統合失調症的な幻想も真鶴の異世界的な絢爛な描写にもない。私たち人間の等身大の、大人の性欲望のもたらす、ある種耐え難い性行為というもののおぞましさのようなものを暴き出した点にある。
 性交渉の実態は、青少年が愛好したりするエロス的な高揚を目的した映像的作品などとは異なり、およそ見るに耐えない行為である。この作品はそのおぞましさの光景を執拗に描き出すという趣向はないが、そのおぞましさが避けがたく人間性というものに関連してくる、ある感触を、性交から出産にまで、くっきりと描き出している。その身体的な性の欲望と実践の感触のなかで、現実の、肌の感触をもつ人間の母子の連鎖のようなものが描かれる。むしろ、母子がなぜ血によって繋がっていくのかという奇妙さを描くために男を方法的に排除したかのように読めないこともない。
 作者・川上は主人公の京を自分に引き寄せたり押しのけたりしつつ、その造型にためらいを見せる。状況と幻視から想定される内面を持つ女・京が、作者川上であるはずもないのだが、川上は自身の内省と、そして率直に言えば、その肉体的な自信を主人公の京の性意識に混入させ、あげく京を物書きに設定する。これはほとんど失敗に近いのだが、おかげで意図と意図せざるものが複雑に混じり合い、その部分だけが物語りの最後まで統合されない。一見、物語はきれいに仕上げたかに見えながら破綻している。
 しかし物語に無理を強いてしまうほどの、作者の人生のある過剰が、ちょうど作者の性と人生が特有の交錯をする時期として、結果的に出現する。文学とはこういう希有な顕現である。その暗示は、おぞましい痴態の記憶としての人生を、読み手のわたしたちもまた老いに向けて回収していく苦悩に対応している。
 
 

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2011.11.15

鍋焼きうどん

 ドアを開けて二、三歩。なにかを忘れている。立ち止まる。サイフでもケータイでもない。なんだろうかと思うや首筋がすっと寒くなる。そうかネックウォーマーかと思い、そうだ鍋焼きうどんだと思う。
 混む時間帯を外して蕎麦屋に入ると今日は身障者がひとり。おばさんは熱いお茶を運んでくれる。「鍋焼きうどん」と私は言い、アダージョの四分休符を置いて「上」と言う。しわびた読売新聞を開いて珍妙な書籍広告を見ているうちに、ぐつぐつと泡を吹いて煮え立つ鍋焼きうどんが来る。こうでなくてはいけない。小盆に載せられた鍋は、逆さ返した蓋に鎮座している。
 アフロディテを産み終えた泡が少し引いてゼウスの男根のように海老天がそそり立ち、満月が輝く。神々よ、鍋焼きうどんよ。時は来た。
 祈りは短い。作業にかからねばならない。まず麩を探し、卵の黄金の輝きの上に載せ替える。その構築物の安定のために鳴門をワキに添える。よし。おっと、小皿のネギを散らす。
 麩と鳴門の移動によって生じた間隙に静かに箸を差し入れ、二口分ほどのうどんを引き上げて取り皿に移す。瀬戸物の蓮花で汁を注ぐ。熱い熱い。取り皿のうどんを再び箸で引き上げふーと息を吹き付けて、食う。熱い。が、火傷はしない。うどんにコシはない。だらりと均質に柔らかいわけでもない。ゼリーにも似たとろっとした食感と、くにくにとした歯ごたえ。味も染みている。
 取り皿が空になったらネギを摘んでボードウォークに進み、200ドルをゲットして、またうどんを進める。その間、鳴門を引き上げる。おっと、今、蒲鉾に手を出したら、ゴートゥー・ジェイル。
 静かに絶望的に沈む貨客船のような海老天の、取り皿に移す頃合いを見計る。このために米軍が用意した専用クレーン船で海老天を引き上げるものの、衣の断片は大西洋に沈む。エイハブは言う、これでいい。あれには天カスの効果があるのだ。
 海老天をほおばる。しっかりとした肉を噛みしめる食感にしばし鍋焼きうどんの存在が脳裏から消える。海老のしっぽをガリガリと奥歯で磨り潰すほどに海老の香りが拡がる。作業は順調。ついでに彩りのインゲン小片をかたづける。おっと筍、発見。
 鍋焼きうどん、第二章。海老天巨艦の後から、さらなるうどんを引き上げて食べ進める。ふっと立ち止まり振り返るプブリウス・ウェルギリウス・マロの霊魂の物憂げな顔色を見て息をつく。待て。伊達巻を食え、と。少し遅かったか。伊達巻は汁を吸いすぎて「の」構造が中年女の太もものようにはだけてしまった。完璧は求めない。求めるものは熟れた甘美さのみ。
 蒲鉾もよい頃合いだ。板わさの、ほのかにプラ消しのような食感は薄れて、煮たなこれというざらっとした食感が舌に当たり、痩せた女の乳首を噛むように甘噛みし、そしてそのシーンじゃねーぞと思い返して、ぐっと噛み込む。
 深海から鶏肉を引き上げる。十分煮えている。が、すべてその調子というわけにはいかない。うどんが保有するもっちりエネルギーはすでに半減期を迎え、でろりん化してきている。具にかまけていはいられない。この切迫感で最後のエネルギーを回収して、小汗を吹き出す。鍋焼きうどんはスポーツでもある。
 10パーセントほどのうどんの回収は諦めて、終盤の山場、卵に戻る。白身は蒲鉾を見習うかのように煮えている。問題は黄身だ。人生の重みのようにしなだれた麩をよっこらしょとのけると、金塊のような卵の黄身が現れる。箸でつつくが液状化はなく、ぷくんとした弾性がある。これだ。取り皿に移し汁をかける。Google+もこれを狙ったのかもしれないが、黄身の半熟+な食感と濃厚な味が拡がる。これこそ鹿島の太刀の秘伝。国摩真人申さく、最初に卵をぐじゅぐじゅかき回してはならぬ。
 饗宴は終わりに近づく。最後のうどんを回収し、ごくろうだったなと麩をほうばる。麩は終盤。途中で食ったら、口、火傷するぞ。同じく熱気を失った冬菇を噛みしめる。汁に出し切らぬ出しの味に、天界のコロスの歌声が響く。
 
 

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2011.11.14

バカ騒ぎしても、結局、TPPで日本は仲間はずれ

 TPPのバカ騒ぎで苦渋の参加表明をした野田ちゃん日本。血相を変えていた民主党議員の誰一人として離党ということもなく見事にヘタれて、ひとまず一段落つけ、さてハワイの空の下、結果は、というと、仲間外れ、である。繰り返すが、なんだったの、あのバカ騒ぎ。やってもやらなくても、まったく同じ状況だった、というのに。
 12日、ハワイ、ホノルル、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉に参加する9か国――米国、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、マレーシア、ベトナム、ブルネイ、チリ、ペルー――は首脳会合を開いた。日本は、そこに、いない。まだ参加もしてないのだから当然だが、前回横浜で開催されたときは、当時の菅首相がオブザーバーで「いた」ものだった。そして今回、ぼくらの野田ちゃん首相はどうなったかというと、オブザーバーにもなれなかった。日本不在、仲間はずれ、つまはじき、村八分、である。バカ騒ぎで盛り上がった、TPPは日本を取り込んで搾り取るという陰謀論はどうなったんだ? 
 いやそんなことは、昨年の時点でわかり切ったことだった。そもそも菅元首相がTPP交渉でオブザーバー参加した昨年には、これほどのバカ騒ぎはなかった。あの時点で、バカ騒ぎ火付け組が一年かけて念入りに仕込んでいた結果が、今回出ましたというだけのことではないのか。なんだか政権交代と似たような話である。
 今回の野田ちゃん首相の苦渋の決断、実は、苦渋でもなんでもない。実際のところ、なんの決断にもなっていない。というのは、菅元首相は、昨年、TPPの協議開始を正式に表明していたのだった。「TPP参加へ高い壁 首相が「協議」表明 スピード感も欠く」(読売新聞2010.11.16)より。


 菅首相は14日に閉幕したアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で、環太平洋経済連携協定(TPP)の協議開始を正式に表明した。ただ、参加の前提となる国内の農業改革はこれからだ。菅首相が力を入れた一連の“TPP外交”では、各国首脳の歓迎の声の一方で、今後の交渉の厳しさも垣間見られ、参加実現には悪路が続く。


 各国首脳から、TPP参加のハードルの高さを、改めて突きつけられる場面も目立った。
 オバマ米大統領は、日本のTPP協議開始を歓迎する一方、来年11月の交渉妥結を目指す考えを改めて示し、「TPPは(関税の原則撤廃など)質の高い合意を目指す」と強調することも忘れなかった。
 TPPは現在、米国主導でルール作りが進んでいる。日本がルール作りに参加できなければ、TPP参加が実現しても、各国が決めたルールを“丸のみ”するしかない。
 9か国会合後、チリのピニェラ大統領が、「(日本はTPPへの参加を)すぐに決断しないと、交渉妥結には間に合わない」と述べ、菅首相に早期の交渉入りを強く促したのもそのためだ。

 つまり、昨年と状況になんら変わりない。
 昨年にきっちり予想された事態でもあった。「TPP協議開始表明」(読売新聞2010.11.20)より。

 実際に前途は険しい。日本が議長国だった今回のAPECでは、TPP参加交渉9か国の首脳による会合に儀礼的にオブザーバーとして招かれたが、今後はそういきそうにない。
 カナダはTPPへ意欲を示しているが、正式に参加表明していないため、今回は招かれなかった。12月にニュージーランドで開かれる9か国交渉では、カナダと同様に、日本はオブザーバーとしても参加できない見通しだ。政府が派遣するチームは交渉の合間に9か国から内容を聞き取るなどして、文字通りの「情報収集」にあたる。日本が参加を正式表明するまで、そうした状態が続きかねない。

 それだけのことである。なんにも決められない日本が、首相の顔を取り換えて、一年続いただけである。アンパンマンだったら、顔を取り換える意味もあるけど。
 今回については、朝日新聞「TPP、首相さっそく厳しい洗礼 加盟国会合招かれず」(参照)が仲間はずれ日本を描いているし、昨日のNHKニュースでも報道はあった。

 オバマ米大統領が12日朝にホノルルで開く環太平洋経済連携協定(TPP)交渉9カ国の首脳会合に、野田佳彦首相が招待されない見通しであることが11日わかった。9カ国が積み上げた交渉の成果を大枠合意として演出する場に、交渉参加を表明したばかりの日本は場違いとの判断が背景にあるものとみられ、TPP交渉の厳しい「洗礼」を受ける形だ。
 日本政府の一部には、野田首相がアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議前に「交渉への参加」を表明すれば、TPP首脳会合にも招待される可能性があると期待があっただけに、落胆が広がっている。TPP交渉を担当する日本政府高官は「日本(の出席)は少し違うということだろう」と語り、現時点では、出席できない見通しであることを認めた。

 この時点では「見通し」だったが、すでに、粗方終わってる。産経新聞「9カ国が「大枠合意」 野田首相は米大統領に交渉参加表明へ」(参照)より。

環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉に参加している米国、豪州など9カ国の首脳は12日午前(日本時間13日未明)、協定に大枠合意した。米政府筋が明らかにした。日本の野田佳彦首相も12日午後、日米首脳会談でオバマ大統領に交渉参加の意向を伝える。

 あれである、仲間はずれにされた小学校低学年が「センセー!」という感じで、米国に泣きついたのである。だというのに、これに笑話が付く。読売新聞「TPP、日・米政府発表に大きな食い違い」(参照)より。

 米側の発表によると、会談で首相は「TPP交渉への参加を視野に、各国との交渉を始めることを決めた」とオバマ大統領に伝えた。大統領は「両国の貿易障壁を除去することは、日米の関係を深める歴史的な機会になる」と歓迎する意向を明らかにした。
 その上で、大統領は「すべてのTPP参加国は、協定の高い水準を満たす準備をする必要がある」と広い分野での貿易自由化を日本に求めた。首相は「貿易自由化交渉のテーブルにはすべての物品、サービスを載せる」と応じた。


 これに関連し、日本政府は12日、「今回の日米首脳会談で、野田首相が『すべての物品およびサービスを貿易自由化交渉のテーブルに載せる』という発言を行ったという事実はない」とのコメントを発表した。
 日本側が米側に説明を求めたところ、「日本側がこれまで表明した基本方針や対外説明を踏まえ、米側で解釈したものであり、発言は行われなかった」と確認されたとしている。

 米政府側発表は「Readout by the Press Secretary on the President's meeting with Prime Minister Noda of Japan」(参照)である。該当部分を太字にしてみた。

The President and Prime Minister Yoshihiko Noda had a good discussion today on a range of issues, including APEC and the upcoming East Asia Summit, and next steps on Futenma relocation. The leaders also talked about Japan's interest in the Trans-Pacific Partnership (TPP) agreement. Prime Minister Noda noted that he had decided to begin consultations with TPP members, with an eye to joining the TPP negotiations. The President welcomed that important announcement and Japan's interest in the TPP agreement, noting that eliminating the barriers to trade between our two countries could provide an historic opportunity to deepen our economic relationship, as well as strengthen Japan's ties with some of its closest partners in the region. The President noted that all TPP countries need to be prepared to meet the agreement's high standards, and he welcomed Prime Minister Noda's statement that he would put all goods, as well as services, on the negotiating table for trade liberalization. The President noted that he would instruct USTR Kirk to begin the domestic process of considering Japan's candidacy, including consultations with Congress and with U.S. stakeholders on specific issues of concern in the agricultural, services and manufacturing sectors, to include non-tariff measures. Prime Minister Noda also explained the steps he had taken to begin to review Japan's beef import restrictions and expand market access for U.S. beef. The President welcomed these initial measures, and noted the importance of resolving this longstanding issue based on science. We are encouraged by the quick steps being taken by Prime Minister Noda and look forward to working closely with him on these initiatives.

 読むに、この米側声明に外務省が難癖を付けるのは、理由なきこともでもなさそうだ。
 ところで、該当読売新聞記事には言及がないが、野田ちゃん首相は、米国牛肉についても言及していたようだが、外務省からこの点についてのコメントはなかったのだろう。
 ということは、TPP議論はさておき、日米間の貿易問題は、米国牛肉の輸入規制の撤廃から始まるということなのだろう。
 結局、国の将来を二分するような大議論のように見えて、大山鳴動、依然変わらぬ米国牛肉の問題だけだったわけだ。
 ちなみに、この関連の話題は、2009年にこのブログの「日本の牛海綿状脳症(BSE)リスク管理が国際的に評価された」(参照)で触れたことがある。
 
 

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2011.11.13

[書評]どこから行っても遠い町(川上弘美)

 中学生にもなる娘のいる男が、同じく中学生の息子のいる女と、ふとしたきっかけで関係を始めてしまう。それがゆるく続く。あるいは、そうした男の妻であり、そうした女の夫である人たちの苛立ちと空虚がある。急降下するようなエレベーターにのっているような、尿意のような、ずぅんとした感覚。それが恋愛のような乾いた性のようなものを駆り立てていく。
 中年にもなった男女の、薄汚さもある恋愛。そんなことがあるのかといえば、あるとしか言えない。そんな物語があるのかといえば、山ほど語られている。だが、他人事として、普通は。

cover
どこから行っても遠い町
川上弘美 (新潮文庫)
 あなた自身は、どうなんですか? 私ですか。いや、そんなことはありませんよと答える。若い頃ならまだしも、と加えるかもしれない。嘘は、ついてない、たいていの人は、事実という意味では。
 でも心情としてはどうなのかというと、苦みというより、ある空虚な感じに突き当たる。そうでなければ、たぶん「ニンゲン」ではないだろう。そういう真実が、「どこから行っても遠い町」(参照)に、日本語とはこういう言葉だったのかという流麗な文体で、パノラマのように短い小説群で綴られている。珠玉と言いたいところだが、その味わいがわかるのは、たぶん40歳を過ぎてからかもしれない。あるいは、30代でもその渦中にいる人たちかもしれない。
 作者川上弘美は昭和33年4月1日の生まれ。私と同級生の世代。読みながら、その思い出の風景をなるほどなと思う。物語の、魚屋の平蔵さんの兄は疎開の経験があるというから、小林亜星くらの年代であろう。彼の疎開先には同級生となる私の母がいたから、私の母の年代でもある。ということは作者川上の父母の年代の思い出でもあるから、物語の恋愛の群像は昭和一桁生まれに始まると言いたいところだが、平蔵の妻となる幼なじみの真紀は、平蔵が十歳のときに六歳というから昭和10年代かもしれない。印象としては長嶋亜希子から上野千鶴子くらいの年代だろう。いずれ団塊世代より少し上の世代で昭和後期のある種のモダンな時代の風景でもあり、表紙の谷内六郎がよく似合う。あの時代の週刊新潮(今でもあるようだが)の痴話の掌篇も思い出される。
 だから懐かしい時代の空気でもあるのだが、回顧なのではない。40歳を過ぎたころから、父母や叔父叔母たちの青春やその後の人生から浮き立つ、どろっとしたもの、端的に言えば、性の関係性が共感できるようになってしまうし、そのことが、人生とは何かということを別の角度から問い詰め始めてしまう。若い頃なら、ありがちな恋愛や性の痴態で済んだものが、あるぞっとしたものに到達するようになる。
 連作に見える物語は、昭和40年代から50年代の空気をもった、ある意味で現在にも重ねられる東京郊外の町が設定されている。荻窪あたりであろうか。この年代の男女が住まわされた町は、団地の光景はなく、死者の霊を包みながら生きている。
 不倫といえばそれだけのことだし、だらしない性の関係性に至る衝迫力が、市井の人々を静かに、老いた怪物がゆったりと舌なめずりをするように覆っていき、物語は、他者の細い視線を連鎖するかたちで繋がっていくのだが、それが表題作「どこから行っても遠い町」にぎゅーっと絞り込まれ、嗚咽を催す壮絶な美に至る。ここで物語は終わる。
 いや、その先に川上らしい意匠として(処女作の暗示の蛇もだが)エピローグの「ゆるく巻くかたつむりの殻」が描かれ、連作の物語の冒頭へと輪廻するが、これは物語の外部に過ぎない。もちろん、人の人生が物語りとして見えるなら、死霊は町の老人たちの思いのなかに存在するのであり、死霊として生きるために、性の衝迫が老いを許さないように、人の人生の後半を襲う。
 
  

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