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2011.11.11

[書評]どうぶつしょうぎのほん(きたおまどか、ふじたまいこ)

 「どうぶつしょうぎのほん」(参照)は書名の通り、「どうぶつしょうぎ」(参照)の本だし、棋士でもあるふじたまいこさんのイラストがふんだんにあり、同じく棋士のきたおまどかさんのやさしい解説で書かれているので、子供でも読めるようになっている。が、読んだ印象は、どちらかというと、子供に「どうぶつしょうぎ」を教えるときの指導要領に近い。

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どうぶつしょうぎのほん
 本書がなくても、「どうぶつしょうぎ」は十分楽しめる。が、その面白さを子供に伝えようというときには、手元に一冊あるとよいだろう。もちろん、「どうぶつしょうぎ」に夢中になって、もっと強くなりたいという人にも向いている。
 「どうぶつしょうぎ」とは何か? 3×4という小さな盤面で、動きを簡略化した4種の駒を使う将棋である。将棋で言えば、駒は、王、歩、飛、角といったところだが、盤面が狭くどの駒も一回に一マスしか動けないから、飛・角とは違う。とはいえ、当然、将棋の簡易版、サブセット、入門用といったふうに理解されるだろう。
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どうぶつしょうぎ
 私もそう思っていた。私は、創作性のあるゲームが好きだが、啓蒙的にアレンジされたサブセットはあまり好まないし、いかにも将棋を子供向けに改作しただけのゲームなら面白くはないだろうと思っていた。実物の大きな木駒の手触りや、いかにも子供向けといった愛らしい動物イラストを見てもそう思っていた。
 違った。人にもよるのだろうが、やってみると、全然違うのである。どう違うのか。まず将棋の勘が働かない。序盤、中盤、終盤といった全体構図がそもそも存在しない。最初から取る取られるの戦い。一種の詰め将棋に近い。では、詰め将棋なのかというと、そうでもない。詰め将棋なら出題者の思惑や詰み筋といったものから思考するが、「どうぶつしょうぎ」はそうでもない。
 やってみて、ええ?と驚きもしたのは、局面ががらりと変わることである。盤面が狭いから当たり前だが、三手後の局面があっという間に入れ替わることがある。五手読むのがつらいというのかじっくりとした思考が迫られる。
 もうひとつ、違和感でもあったのだが、飛車・角・香車・桂馬といった遠隔的な飛び道具が一切ない。なんというのか、ボクシングでぼこすからやりあうようなもので、そもそも最初の一手目から、歩(ひよこ)が取る・取られるの状況にある。
 これは将棋とはずいぶん違うものだなと思ったが、逆にプロの棋士にしてみると、将棋のシンプルな姿というものは、こういうものなのかもしれないとも思った。将棋的な思考の本質はむしろ「どうぶつしょうぎ」に凝縮されているのではないか。棋士が考えだしただけのことはあるなと思った。
 で、実際に身近の小学生や中学生とやってみた。これがまた驚きだった。すでに知っているというのはいい。そんなものだろう。で、数手して、あっという間に私が負けた。どう負けたかというと、相手の王(らいおん)がぐんぐんと進んでこちらの陣地に入り一列目に入って、「勝った!」と勝利宣言を聞かされる。え?と思ったが、そういうルールがあった。要するに、将棋だと思っている固定概念がいけない。
 「どうぶつしょうぎ」といえば、当初聞いたとき、私は中国の闘獣棋という将棋を思い浮かべた。こちらは、いわゆる将棋とは違ったゲームである。iPhone用に3Dアニメで動く、Animal Kingdomというゲームもあり、動物たちの動きがかわいい。そういえば、「どうぶつしょうぎ」もiPhoneアプリがあるが、こちらは現物がはるかに面白い。木の手触りもよい。
 
 

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2011.11.10

ドラッカーが21世紀のグローバル化について語ったこと

 日本人はピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)の経営論が好きで、意外な分野――戦前さながらの旭日旗はためく高校野球とか――にも応用したいとまで考えるようだが、彼の晩年の思想はあまり顧みられていないようだ。日本の戦後の成功を理論的に支援したドラッカーではあるが、そしてそれゆえに懐かしの旋律として今も老人から、また老人のように保守化した若者世代にも好まれるのだろうが、彼自身はその後もずっと世界の変化をその第一線から見つめ続けていた。
 ドラッカーは21世紀におけるグローバル化のなかで、日本の産業をどのように見ていただろうか。失敗と見ていた。保護主義によって衰退したメキシコ経済と日本の現状を並べて「明日を支配するもの」(参照)でこう語っている。


 同じように日本も、金利の減免等によりいつかの産業を輸出産業として育てる一方で、多くの産業を外国の競争から守ってきた。この政策も、ついに失敗した。

 グローバル化のなかでの日本の産業政策は失敗したとドラッカーは見ていた。その考え方の背景を同書からもう少し追ってみよう。
 ドラッカーは21世紀企業の経営戦略に、考慮が欠かせないとする五つの前提を提示した。その一つが「グローバル競争の激化」である。21世紀の企業経営はグローバル化競争の激化を前提にしなくては語れないというのである。企業だけか。そうではない。

 あらゆる組織が、グローバルな競争力の強化を経営戦略上の目標としなければならない。

 企業だけがグローバル化競争の激化に晒されるわけではない。

企業、大学、病院のいずれにせよ、世界のどこかのリーダー的な組織が設定する事実上の基準に達しないかぎり、成功することはもちろん、生き残ることもおぼつかない。

 グローバル化された世界の牽引的な組織が設定する基準を満たさなければ、どのような組織であろうと存続は不可能になるとドラッカーは予言している。
 どういうことなのか。ドラッカーは敷衍する。

それは、もはや賃金コストの優位性によって、企業の発展や一国の成長をはかることは不可能になったということである。


このことは、とくに製造業についていえる。なぜならば、先進国の製造業においては、コスト全体に占める肉体労働の比重は、小さくなる一方だからである。すでに、コスト全体の八分の一が平均である。もちろん肉体労働の低生産性は企業の生存を危うくする。しかし、肉体労働の低コスト化が企業全体の低生産性をすべてカバーすることはできない。

 低賃金化によって製造コストを下げる競争では企業はもはや存続できない。それがグローバル化の世界における成長の大きな要因ではないからだ。同時にこのことは、安い労賃を求めて他国に製造拠点を点々と移すことにも限界があることを示しているだろう。
 ドラッカーは日本に対して、その警告を強く発している。日本のかつての発展モデルはもはや通用しない。

このことは、二〇世紀の経済発展モデル、一九五五年に日本が確立し、その後韓国やタイが採用したモデルが、何の役にもたたなくなったことを意味する。

 コスト削減による発展のモデルが最早通用しないだけではない。政府補助金による産業保護もまた無効になるとドラッカーは予言する。

世界最高水準の域に達することができなければ、いかにコストを削減し、いかに補助金を得ようとも、やがては窒息する。いかに関税を高くし、輸入割り当てを小さくしようとも、保護的措置では何ものも保護しきることはできない。

 ではどうすればよいのか。すでに言及されたとおり、グローバル競争の牽引的な基準を率先して受け入れ、願わくばその基準を策定する側に回るしかない。
 ところが、ここでドラッカーはこの遠望に対して、逆説的な近未来も予言している。21世紀を迎えた数十年間、具体的に世界はどのように動くか。反動するというのだ。

それにもかかわらず、今後数十年にわたって、保護主義の波が世界を覆うことになる。なぜならば、乱気流の時代における最初の反応は、外界の冷たい風から自らの庭を守るための壁づくりと相場が決まっているからである。とはいえ、グローバルな水準に達し得ない組織、とくに企業は何をもってしても、保護しきることはできない。さらに弱くなるだけのことである。

 むしろこう言うべきだろう。保護主義の波が世界を覆うことは、グローバル化が避けがたやってくることの確実な兆候なのだと。この保護主義の嵐を乗り切る組織や国家だけが21世紀の後半を生き延びるのだと。
 そしてドラッカーの経営論(マネジメント)は、次のような形を取ることになった。

企業に限らずあらゆる組織が、世界のリーダーが事実上設定した基準に照らして、自らのマネジメントを評価していかなければならない。

 経営とは、企業であれ国家であれ非利益団体であれ、グローバル化の最先端の基準から評価されるものであるとドラッカーは言う。グローバル化を牽引する基準を率先して策定することが、組織経営のもっとも重要な課題にもなるという意味である。
 
 

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2011.11.08

[書評]インナー・チャイルド 本当のあなたを取り戻す方法(ジョン・ブラッドショー)

 最初に言っておくと、本書「インナー・チャイルド(ジョン・ブラッドショー)」(参照)の副題「本当のあなたを取り戻す方法」は、私としては賛同しがたい。そもそも「本当のあなた」なるものがあるのかどうかもわからないし、「ああ、これが本当の自分だ」という実感が仮に得られたとしても、それが一般的なことなのか、あるいはその代償もまた大きいのではないかとも思える。その意味でも、本書はお薦めするという類のものではない。

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インナーチャイルド
本当のあなたを取り戻す方法
 では、なぜこの本を読んだのかというと、関心があったからだ。そして、当然というべきだが、私自身が「インナー・チャイルド」なるものに苦痛を感じていたからだ。
 「インナー・チャイルド」というのは、大人になっても心のなかに潜む、傷ついた子供のような心理のことだ。子供のころに得たつらい記憶が今も心的外傷後ストレス障害(PTSD)のように残っていることだと言ってもいいかもしれない。もっとも、本書などにもそれなりの定義やその考え方の背景はあるので、詳しくは本書などに当たってほしい。また、一般に「アダルト・チルドレン」といった概念も近いには近いのだろう。
 私が本書を読んだのは、自分の「インナー・チャイルド」の問題に対して、どこかに救いのようなものがあればなとは思っていたことはある。本書には、なるほど、その救いのためのいくつかのアプローチやメソッドが記されている。
 読みつつ、この手のアプローチは若い頃いろいろ経験したし、本書にもあるメソッドのいくつはその過程で実践もしたことがあることを思い出した。なのに今のこの苦悩の自分がいるという現実も了解している。だからこうした書籍を読みつつも、これでそれほど救われるという期待があったわけではない。結論から言えば、本書は私の手助けにはならなかったが、この分野がどういう構造をしているかということは、再確認できた。
 もう少し個人的なきっかけを語ると、先日、心を落ち着けるために瞑想していた際、幼児期の苦しい記憶がよみがえり、「ああ、これはいけないな。ここに触れてもどうにもならない」と思いつつ意識を引き返したのだが、その後もひっかかり、再度の瞑想で、少し触れたところを覗くと、心理的な激痛のようなものがあって驚いた。この手の心理的な外傷を抱えて生きているとは知っているし諦めてもいるのだが、あらためて心理的に接触すると耐え難いものがある。これは「インナー・チャイルド」というものかという認識と、最近の世相に見る幼児虐待なども連想した。
 幼児虐待の問題は、しばしば「子供が可哀想だ、なぜ保護できなかったのか」という、一見社会的な問題として扱われるが、その内部の心理的な問題もある。虐待する親は当然問題ではあるが、こうした親たち自身が心理的に「インナー・チャイルド」を抱えているのではないかという洞察が私にはある。
 これらの問題は、社会的な対応だけではどうにもならないとも思っていた。もう少し自分に引きつけていうと、この手の社会的事件に接すると、自分が虐待された幼児と心理的に同化してしまう傾向があり、それを見つめつつ、緩和するために親を許そうとして、親もまた幼い心のままなのだというふうに相対化して意識してきた。
 「インナー・チャイルド」について最近の書籍で、比較的読まれているものはなんだろうと思い、「インナーチャイルドと仲直りする方法 傷ついた子どもを癒し、あなた本来の輝きを取り戻すインナーチャイルド・ワーク(CD付き)」(参照)という書籍を買ってみた。CDにはアプローチについての具体的なメソッドもあるのではないかという期待もあった。中身はさほど検討していなかった。
 買ってから気がついたのだが、これは、いわゆるスピリチュアル系の本で、「ああ、まいったなぁ」と思った。私はスピリチュアル系の本やオカルトなんかも、ふんふんふんと読む人なのだが、ある程度距離を置いているからであって、そこにすぼっと入るときは心理的な抵抗がぐっと押し寄せる。同梱のCDも聞いたのだが、女性の語りの質は悪くないのだが、受け付けなかった。だが、冒頭、「あなたの体のなかのどこにインナー・チャイルドがいますか?」というのは心に引っかかった。体の部位にいるという感触はあるにはある。
 この本では、さらに「マジカル・チャイルド」なる概念が出て来る。いわば、守護霊さんみたいなノリである。それはそれでいいのだが、一体この奇っ怪なインナー・チャイルドやマジカル・チャイルドといったスピリチュアル系の概念は何に由来するのかという知的な関心も湧いた。
 インナー・チャイルドという概念は、おそらく、エリック・バーン(参照)の交流分析(参照)から発展しているのだろう。つまり、ポピュラー型のフロイト論の変形であろうという察しはあった。
 本書「インナー・チャイルド(ジョン・ブラッドショー)」を読むとまさにその通りなのだが、著者ブラッドショーはさらにこれに、ミルトン・エリクソン(参照)を加味しているようだった。特に、催眠術的なイメージ・ワークはエリクソンあたりに由来しているようだ。本書でもいくつか後催眠やNLP(参照)的な手法も採られている。
 また「マジカル・チャイルド」なる概念はどうやらブラッドショーがユング心理学あたりから創出したようでもある。さらに個別には言及されていないがシルバ・マインド・コントロールもありそうにも見えた。いわば、ごった煮のようなメソッドのようだがそれでも本書がインナー・チャイルド系の書籍の原点にもなった古典のようでもあるようだった。
 興味深いのは、本書は手法的には混乱しているかのようにも見えながら、バーンよりさらにフロイトを遡及したように、幼児期の各精神成長段階を想定している点だ。意外でもあったのは、思春期の精神的な外傷を扱う部分で、そのあたりまでインナー・チャイルドという概念が覆うものなのか。率直なところ、精神的な外傷というのは青年期にもありえるし、いったいいつになったらインナー・チャイルドは終わるのかという奇妙な思いもした。
 知的な読書としては以上ではあり、いずれなんらかのこうした心理的な対応というのが社会機能に含まれなくてはならないとも思うが、再度自分に引きつけてみて、しみじみと了解せざるを得なかったのは、セラピー的な要諦は、まさに心的な外傷に触れてみるという点だった。つまり、心的な悲嘆を抑圧から解くためにいったん出してみるという部分である。これはパールズ的(参照)でもある。
 個人的には精神的な外傷な苦痛に直面せずなんとか解消できないものかとも思ったが、やはりそうもいかないかという落胆がある。実際のところ、本書も、その悲嘆の露出時の精神的な危機への対応注意がいろいろと説明されているが、単純に読んでもわかるように、一人で読書してメソッドを実践するとかなり危険なのではないだろうか。逆にむしろその点でスピリチュアル系のほうが楽といえば楽なのかもしれない。
 おそらく、インナー・チャイルドというような心理的な問題は、傷ついた子供の心をかかえた大人が自分の子供を育てて癒していくというプロセスがあり、そもそもそれが人類に仕組まれているといった、もっと大きな問題かもしれない。
 つまりこの問題の対処は、セラピーといった特化したものではなく、社会機能のごく一部として文化的に要請されるのかもしれない。現代日本の社会にそうした心理的な社会機能の文化が欠落しているなら、スピリチュアルやオカルトが蔓延するのもしかたないことかもしれない。
 
 

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