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2011.09.10

[書評]リトル・ピープルの時代(宇野常寛)

 「リトル・ピープルの時代」(参照)で宇野常寛が展望する現在世界の見取り図は、理解しやすい簡素な構図で出来ている。
 1948年にジョージ・オーウェルが著した「1984」(参照)の「ビッグ・ブラザーの世界」は、2009/2010年に村上春樹が「1Q84」(参照)で描いた「リトル・ピープルの時代」に変貌したということだ。では、ビッグ・ブラザーとはなにか。リトル・ピープルとはなにか。

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リトル・ピープルの時代
宇野常寛
 ビッグ・ブラザー(偉大なる兄弟)は、オーウェルの脳裏ではスターリンだった。有田芳生氏の名前の由来となった「ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)」である。同志スターリンとも呼ばれたものだった。その他に毛沢東もビッグ・ブラザーであり、金正日もそうだ。カダフィーもそうだと言ってよい。大衆の前に写真で大きく掲げらる。全体主義国家の独裁者と理解されることが多い。
 だが独裁的な国家の内側では慈父として信奉される。あるいはそう崇拝するように仕向けられてる。「父」は悪でもあり善でもある両義的な存在である。
 「父」は国民国家と一体化し、一つの極点ないし極点のイメージを持つ。よって特定の個人でなく、日本国財務省や日本銀行という集団に同定しても同じである。
 世界をビッグ・ブラザーの支配と見るなら、その極の「父」について、敵として、あるいは「巨悪」と見立てて、「正義」をもって立ち向かい、戦うことが求められてしまう。「子」の戦いでもある。
 戦いは、誰も共感すべき「大きな物語」として語られるが、その「大きな物語」の典型は「世界の終わり」である。「世界の終わり」を掲げればすべての人をそこに「徴兵」できると想定されやすい。
 だが、ビッグ・ブラザーの両義性から、戦う「子」の「正義」もまたビッグ・ブラザーと同じ独裁的な性格を帯びることになる。同じ土俵で同種の武具で戦闘すれば、その光景は、客席を右に取るか左に取ろうが同じ。鏡像が映じられる。いわゆるリベラルを自称する言説者が実際には独裁者と同じように振る舞うのは当然の帰結である。
 「世界が終わる」「日本が終わる」あるいは「世界は終わらない」「日本は変わらない」、いずれも「大きな物語」を希求する空しいあがきである。その構図にいくら修辞を凝らしても、軽そうに茶化してみても、いずれ大衆の喝采を意識するのであれば、同じ陥穽に嵌る。
 ビッグ・ブラザーの世界は冷戦の世界観でもあった。社会主義と資本主義のどちらかを悪に振り分けて争う世界であり、陣営の旗だけが問われた。核廃絶と言いながらソ連核に言及しなかったり、日本の原発を批判しながら北朝鮮のそれを不問にしたりと滑稽な風景が展開された。しかしその時代は冷戦と随伴して終わり、現代世界は、ビッグ・ブラザーという善悪からは解けなくなった。少なくともポスト団塊世代からは世界はそのように意識されている。
 ビッグ・ブラザーの世界から、一定の解体期を経て出現したのがリトル・ピープルの世界だと宇野は本書で説く。本書は、その変容過程の大衆イメージ史の集積ともなっていて興味深い。
 リトル・ピープルはどのように本書で理解されているか。まず、それは「小さなビッグ・ブラザー」なのだという補助線を引きたい。国家にイメージを重ねるビッグ・ブラザーが分裂し複数化し、小粒になって増えた存在だ。
 「父」はリトル・ピープルとして小粒化した。リトル・ピープル自身はかつての「ビッグ・ブラザー」を夢想しても、世界は彼らを複数化させ矮小化させてしまった。
 なぜなのか。「ビッグ・ブラザー」の意味を支えていた「大きな物語」が消えたからだとも言える。世界は多様にしか存在しないことは明白になっている。あるいは多様な物語としてしか理解されない。その多様化され、小さくなった物語の限定内で、「ビッグ・ブラザー」を夢見ているのがリトル・ピープルである。「小さな父たち」は小さな権力のゲームを争うのである。もっとも国政の中央で実施される小さな権力のゲームは国民に甚大な悲惨をもたらすのだが。
 かつてのビッグ・ブラザーの世界においては、人は敵意に満ちた苦難な現実に対峙するために仮想の世界を夢想した。しかしリトル・ピープルの世界では、現実が夢想と結合して内側に拡張していく。
 リトル・ピープルは個別の些末な世界観を奉じているにも関わらず、ビッグ・ブラザーを憧憬し、それがかなわぬがゆえに小集団化し、セクト化し、さらなる焦りから、「小さな物語」を「大きな物語」だと勘違いして、各種の奇矯な言説をわめきたてる。多くの人々の関心引きたいがために恐怖や醜態も演ずる。
 そうしたリトル・ピープルの世界としての現在を、本書の宇野は、手始めに村上春樹の「1Q84」とその訳業から、かなり精密に読み出す。その文献学的ともいえる手法の鮮やかさは本書の頂点の一つである。
 本書は、いわゆるポストモダン、あるいはポスト・ポストモダンという饒舌――つまりあまりに日本的な「思想界」と呼ばれる児戯――に留まらず、私たちの生の可能性の求める志向を取っているのが新鮮に感じられる。
 簡単にいえば、本書は、現在がリトル・ピープルの世界であることを了解したうえで、では、この「小さな父」たちの戯れの世界からどのように生を獲得できるのかが、切実に問われている。不可避的に「小さな父」として存在してしまう私たちは、自己をどのように変容させうるか?
 この問題を宇野は、テーゼ的な問題設定ではなく、マスイメージ(大衆のイメージ)の変容の過程からその可能性の了解していくという手法で展開する。吉本隆明が1980年代の「マス・イメージ論」(参照)から「ハイ・イメージ論」(参照)で採ったサブカルチャー重視の手法に近い。このため、マス・イメージ、特に「大きな物語」のマス・イメージから、戦後が終わった時代の、子どもの世界のマス・イメージとして、本書では、特にウルトラマンシリーズと仮面ライダーシリーズが詳細に検討されていく。
 ウルトラマンはビッグ・ブラザーであり、仮面ライダーはリトル・ピープルである。本書はこの解説がかなり入念に展開されていて、単純に「ウルトラマン論」「仮面ライダー論」として読んでも十分に読み応えがある。むしろ、そこにこそ宇野の真価があるのかもしれない。
 繰り返すが、本書は、リトル・ピープルの世界とは何かという、いかにも思想的な問いかけを捨象して、「仮面ライダー論」として読んでも十分に秀逸な作品になっている。
 むしろ純粋に思想的に本書の課題設定を追っていくと、なぜ世界は変容したのかという問いには詰めの甘さも見られる。
 宇野は現実世界の変容要因として、貨幣と情報のネットワークが国家を凌駕したからだ、とやすやすと言ってのける。貨幣と情報のネットワークが国家の上位に立ったがゆえに、「大きな物語」が求めた幻想の世界という外部性への必要性が失せたのだと彼は考えている。
 残念ながら、貨幣と情報のネットワークはそのように簡易にまとめられる運動ではない。貨幣はそれが幻想であれ、つねに人々の未来の労働としての「信用」を要求するほど堅固な存在である。また国際物流の高度化にともない、貨幣は「帝国」を必然的に希求する。帝国は信用の繋ぎ的な代替として一次資源の国際管理を「正義」のもとに軍事力で脅しつつ実現する。情報のネットワークはそれに随伴し、たとえば「アラブの春」といった大きな物語の幻影を生み出さざるをえなくなる。貨幣と情報のネットワークは不定形な運動ではなく、帝国の意志と反撃の構図で展開する。
 その意味では、現在世界はリトル・ピープルの世界というより、ハイパー・ビッグ・ブラザーの世界であるかもしれない。リトル・ピープルの世界における内在的な幻想の深化あるいは多様化とはハイパー・ビッグ・ブラザーによる支配の道具であるかもしれない。
 この問題は、精緻にマスイメージを読み込んだ宇野にとっては、おそらく本人には知覚されているはずであろうが、本書の限定からは描ききれてはいない。剰余においては奇妙な構図の逆転もある。
 話題が煩瑣になるが、本書でも焦点が当てられる「1Q84」の牛河だが、彼の無残な死からリトル・ピープルが発生するのは、宇野の読みとは異なり、牛河がリトル・ピープルであることを超越していくことにある。このことは「神の子供たちはみな踊る」(参照)の「かえるくん、東京を救う」の片桐が「1Q84」の牛河だと言ってもよいことからも明らかである。世界最大都市東京の終わりという大虚構に向き合って、かえるくんと一緒に阻止に奮迅したのが片桐であったように、「1Q84」の書かれざる物語においては、牛河の転生としてのリトル・ピープルは世界の救済の契機となるだろう。ビッグ・ブラザーの両義性とともに、リトル・ピープルの両義性は村上春樹文学にすでに胎動している。
 同じことは、仮面ライダー「555」にも言える。園田真理たち虐げられた子どもたちの収容施設「流星塾」は、実は花形が、まつろわぬ者たちの「王」を降霊するための装置でもあった。「大きな物語」や「小さな物語」から排除された悲劇は、それを醸成して王国を生み出す手段とされている。ここには逆転された「大きな物語」としてリトル・ピープル的な世界を相対化させる奇っ怪なイメージがある。
 さらに、ビッグ・ブラザーの世界からその解体期、リトル・ピープルの時代というマスイメージの変遷とその超克は、私の読み落としがなければ、エヴァンゲリオンよりも今川泰宏版「鉄人28号」(参照)に明確に描かれている。
 宇野が「レイプ・ファンタジー的なもの」として村上春樹文学を見る点において、「父=鉄人28号=究極のエネルギー」は正太郎という「子」を介して、「梅小路綾子=ロビー」と繋がる罪の物語となっていることが興味深い。歴史に忘却された自らの痛みを知覚するという現代性がそこにある。
 また今川「鉄人28号」は、「父」の物語でもあるが、それは明示的に「父」たらんとするビッグファイア博士ではなく、朝鮮系が暗示される金田博士であることも逆転した基調を描き出す(ちなみに敷島博士は内地系)。戦後という物語に埋没させられた、意志としての「父」の国家=鉄人28号の、その戦後の死を私たちが共通の痛みとして再び掴み直すことが提起されている。

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2011.09.08

ウィキリークスの自滅。朝日新聞は批判を公開したか?

 ウィキリークス(WikiLeaks)が2日、25万点余りの米外交公電を未編集でインターネットに全面公開したことに対して、これまでウィキリークスに協力してきた国際メディアが一体となって厳しく批判した。が、私の勘違いかもしれないが、日本側で強力した朝日新聞社はそこに加わっていないように思えた。もしそうなら、なぜなのだろうか。
 前提となるウィキリークスの全面公開だが、NHK「ウィキリークス 実名も公表」(参照)は次のように報道していた。


 アメリカ外交当局の内部文書をインターネット上で公表している「ウィキリークス」は、保有する25万点余りの文書をすべて公表したとみられ、情報提供者の実名が明らかにされていることから、イギリスの有力紙などが「情報源を危険にさらしかねない」として非難しました。
 イギリスの有力紙「ガーディアン」は、2日、ウィキリークスが独自に入手し、保有する25万点余りの外交文書をすべて公表したと伝えました。
 また、ウィキリークスの関係者とみられる人物は、ツイッターに「今までのアメリカ外交の歴史に光を当てる時が来た」との書き込みをしています。
 公表された文書の中には、東京のアメリカ大使館が作成した文書およそ5700点や、中東などでのテロとの戦いに関連する機密情報などが含まれています。また、これまでの公表では機密情報の提供者の実名は伏せられていましたが、今回は、修正されずに明らかにされています。
 これについて、ウィキリークスと提携してきたガーディアンなど複数の欧米メディアは、2日、共同で声明を出し「適切な修正を行わずに文書を公表すれば、情報源を危険にさらしかねない。ウィキリークスとの提携は情報源を保護することが前提であり、今回の公表に我々は関与していない」として非難しました。

 NHK報道ではこのように「ウィキリークスと提携してきたガーディアンなど複数の欧米メディアは、2日、共同で声明を出し」とあり、読み方によっては「欧米」としてあたかも最初から日本のメディアを除外しているかのような印象も与える。しかし朝日新聞社がこれに加わったことは、5月4日の朝日新聞「情報の信憑性確認、厳選し公開〈米公電分析〉朝日新聞社」(参照)から明らかである。

 朝日新聞は在東京米大使館発など日本関連の外交公電をもとにした特集記事を掲載しました。
 公電は内部告発サイト「ウィキリークス」(WL)から入手しました。英ガーディアンや仏ルモンド、米ニューヨーク・タイムズなどは、WLから直接あるいは間接的に25万件の文書の提供を受けました。欧米主要紙誌の報道は世界で大きな反響を呼びましたが、7千件近くに及ぶ日本関連の公電の全容はわかりませんでした。私たちは今回入手した膨大な情報について、信憑(しんぴょう)性を確認したうえで、報道に公益性があるかどうかを基準にし、それらの価値を判断しました。
 私たちは報道内容についてWLから制約を受けていません。金銭のやりとりも無論ありません。私たちはWLを一つの情報源と見なし、独立した立場で内容を吟味しました。文書の信憑性に関しては、ニューヨーク・タイムズの協力も得て米国務省の見解を求めました。国務省は「ノーコメント」としつつ、朝日新聞に情報の削除や秘匿は求めない旨を回答しました。タイムズ側も、同紙が信憑性を確認した公電に、私たちが入手した公電が含まれていることを確認しました。

 朝日新聞はウィキリークス公電の発表時にはこのように、ウィキリークスとどうように協力して公開するかについて、指針を明確にしていた。
 であれば、協力したウィキリークスが逸脱し自滅した今回の事態でも、同等の欧米メディアと批判の歩調を合わせるべきであるように思われる。
 欧米のようすはAFP「ウィキリークス、米外交公電を未編集で全面公開 協力メディアは批判」(参照)が簡素に伝えている。

【9月4日 AFP】内部告発サイト「ウィキリークス(WikiLeaks)」が2日、25万点を超える米外交公電を未編集で全面公開したことを受け、これまでウィキリークスに協力してきたメディアが、ウィキリークスを厳しく非難した。
 ウィキリークスは、マイクロブログ「ツイッター(Twitter)」上のメッセージで、米外交公電25万1287点の全てをインターネットに投稿し、パスワードなしで全公電を読めるアドレスを提供。
 これに対し、前年の最初の外交公電の公開時にウィキリークスに協力したメディア5社、英紙ガーディアン(Guardian)、米紙ニューヨーク・タイムズ(New York Times)、独ニュース週刊誌シュピーゲル(Der Spiegel)、スペイン紙パイス(El Pais)、仏紙ルモンド(Le Monde)は共同声明を発表し、ウィキリークスが、公電から情報提供者名を削除せずに全面公開したことを批判した。
 5社は、2日にガーディアン紙に掲載された共同声明で、「未編集の米外交公電を公開したウィキリークスの判断を非難する。情報提供者を危険にさらす可能性がある」と述べ、「われわれとウィキリークスとの間のこれまでの取引は、徹底的な編集・点検プロセスを経た公電に限り公開するという明確な原則に基づいていた」と説明。5社は、全文公開は、ウィキリークス創設者のジュリアン・アサンジ(Julian Assange)容疑者が単独で判断したことだと述べた。

 AFP報道を読む印象では、朝日新聞社がこの5社に加わっていないように読めるのだが、どうなのだろうか。あるいは加わってないまでも、ウィキリークスの自滅ともいえる事態について、なんらかの声明を出しただろうか。
 ガーディアンについては、読売新聞「ガーディアン紙、社説でウィキを改めて非難」(参照)がこう伝えていた。

 【ロンドン=大内佐紀】3日付英紙ガーディアンは社説で、内部告発サイト「ウィキリークス」が25万件以上の米外交公電を無修正のまま公開したことについて、「ウィキリークスの信奉者や、極端なまでの情報公開の自由を主張する人は称賛するだろうが、我々は違う」として、改めてウィキリークスを非難した。
 社説は「このような形での公開は不要だった」と指摘。公開を決めた創設者ジュリアン・アサンジ容疑者(スウェーデンでの暴行容疑などで係争中)が「責任を負うべきだ」と強調した。

 該当の社説は「Julian Assange and WikiLeaks: no case, no need」(参照)である。

This paper, and the four other news organisations involved in publishing heavily edited selections from the war logs and cables last year, are united in condemning this act.

昨年来、戦争記録と公電をもとに厳密に編集された選集の報道に関わってきた本紙と他4メディアは、一体となって今回の行為を非難する。


 ウィキリークスの今回の、全公開の事態についてはこう述べている。

Some WikiLeaks devotees and extreme freedom of information advocates will applaud this act. We don't.

ウィキリークス心酔者や情報の自由の極端な主唱者は、この行為を称賛するだろう。私たちはしない。

We join the New York Times, Der Speigel, Le Monde and El Pais in condemning it. Many of our newspapers' reporters and editors worked hard to publish material based on the cables in a responsible, comprehensible and contextualised form.

私たちは、ニューヨーク・タイムズ、シュピーゲル、パイス、ルモンドと共にこれを非難する。私たち新聞記者や編集者の多くは、責任をもって、わかりやすく、文脈を重視した形態で、公電をもとにした題材を報道しようと努力してきた。

We continue to believe in the validity and benefits of this collaboration in transparency. But we don't count ourselves in that tiny fringe of people who would regard themselves as information absolutists -- people who believe it is right in all circumstances to make all information free to all.

私たちは、透明性の点で、この共同作業の妥当性と利益を確信し続けている。いかなる状況でも情報は全員にとって自由であろうとする、情報絶対主義者と見なす人々の小さなサークルに、私たちは加わらない。

The public interest in all acts of disclosure has to be weighed against the potential harm that can result.

開示に関わるすべての活動における公共の利益は、それがもたらしうる潜在的な危険性を考慮しなければならない。


 かくして、ジュリアン・アサンジは(Julian Assange)は、ガーディアン、ニューヨーク・タイムズ、シュピーゲル、パイス、ルモンドなど世界の大手メディアと対立する存在となった。

But the organisation has dwindled to being the vehicle of one flawed individual – occasionally brilliant, but increasingly volatile and erratic. There was no compelling need, even with the recent disclosures of the internal leak, for WikiLeaks to publish all the material in the form in which it did.

しかしウィキリークスという組織は、欠陥のある個人を載せる御輿にまで縮こまってきた。彼は切れ者にも見えるが、情緒不安定でミスが多くなってきた。ウィキリークスは、最近の内部告白についてすら、そのままの形態で報道されるべき切実性はなかった。

Julian Assange took a clear decision this week: he must take the responsibility for that.

ジュリアン・アサンジは今週明確な決断をした。彼はそれについての全責任を取らなければならない。


 簡単にいえば、世界の大手メディアがジュリアン・アサンジは裁かれるべきだと見ているということだ。うがった見方をすれば、ジュリアン・アサンジをお縄にするためには、泳がせて自滅するまで待っていてよかったということにもなる。
 世界の大手5メディアとは別に、朝日新聞もこの件について声明を出していたとしたら、ウィキリークスを支持するということはどういう意味を持つのかということを、日本のジャーナリズムに伝えたことだろう。ウィキリークスをいたずらに称賛する人々への警笛ともなっただろう。
 
 


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2011.09.07

民主党政権が廃した事務次官会議を民主党野田内閣で復活

 野田内閣が事務次官会議を復活させた。これもまた野田内閣の自民党化の一環のようにも見えるが、微妙な部分もある。
 事務次官会議は、民主党政権では、鳩山内閣時代には廃止されたが、菅内閣時代では震災対応の会議としてすでに事実上復活されていた。野田内閣はさらにそれをぐっと推し進めるということになる。
 問題はわかりやすそうでわかりづらい。例えば、NHKのニュース「首相 官僚側に全面協力を要請」(参照)だが、これなどもわかりづらい。


 野田総理大臣は、各府省庁の事務次官らを集め、政治家だけで世の中をよくすることはできないとして、政権運営に対する官僚側の全面的な協力を求めました。
 総理大臣官邸で開かれた会議には、財務省の勝事務次官や外務省の佐々江事務次官ら各府省庁の事務次官ら16人が出席しました。
 この中で野田総理大臣は「各省の皆さんは、試験を通じて公のために尽くそうという志を持って、この世界に入ってこられた。われわれは、選挙を通じて公のために尽くすチャンスを頂いた。選挙を通じて入ってきた政治家は、最終的には結果責任を負うので、やるべきことをやらなかった場合には、政権を降りなければならない」と述べました。
 そのうえで野田総理大臣は「選挙を意識して、どうしてもポピュリズム=大衆迎合主義に陥って、つらいことは先送りしようという傾向があった。私どもの政権は、やるべきことはやるという姿勢を貫徹したい。政治家だけで世の中をよくすることはできないので、各府省の皆さんの全力を挙げてのサポートが必要だ」と述べ、政権運営に対する全面的な協力を求めました。
 民主党は政治主導を掲げて、おととし政権を獲得しましたが、野党側からは大臣ら政務3役と官僚との間で意思疎通がうまくいかず、行政の停滞を招いているといった批判も出ていました。これを受けて野田総理大臣は、先の民主党の代表選挙で、困難を伴う仕事を遂行するためには、政治と官僚機構、それに民間などのあらゆる力を結集しなければならないとして、官僚との協調姿勢を打ち出していました。

 野田首相が、「民主党はポピュリズム=大衆迎合主義に陥っいた」ということを明確に反省されたのはよいのだが、NHKの報道からは事務次官会議の復活は明確に読み取れない。これはNHKの報道が正確だからともいえる。事務次官会議の復活は、いわばなし崩しの自民党化であって、明確に言える筋のものでもないということなのだろう。
 そのあたりを突かれた藤村官房長官は、面白い答弁をしていた。TBS「藤村長官“自公時代の次官会議と違う”」(参照)より。

 藤村官房長官は、東日本大震災以降に開かれている各府省の事務次官を集めた連絡会議を野田内閣でも続けることについて、自民党・公明党政権時代の事務次官会議とは違うものだと強調しました。
 「かつての事務次官会議は正に事務の官房副長官のもとで行われていたわけだが、私ほか政務の副長官も参加する会議なので、相当内容的には違うと思う」(藤村修官房長官)
 藤村長官は、政府の各府省連絡会議が自公政権時代の事務次官会議の事実上の復活ではないかという指摘が出ていることについて、官僚だけでなく、政治家が参加していることなどを挙げ、これを強く否定しました。
 各府省連絡会議は東日本大震災の発生以降に開かれるようになり、野田政権発足後初となる6日の会議では、今後、週に1回のペースで行われることが確認されました。
 民主党は、野党時代に事務次官会議が官僚支配の象徴だと強く批判し、政権交代後、鳩山・菅両政権は官僚と一定の距離をとっていましたが、野田総理は、逆に官僚組織と協調し、会議の機能を強化する考えを明確にしています。(07日13:09)

 まず確認したいのは、「政権交代」の民主党では、そもそも事務次官会議は廃止されるものだったということ。これを根幹に見れば、まず藤村官房長官が詭弁にならざるを得ないことは明らかである。
 しかし三分の理すら聞くべきだとして、ではどこが違うのか。いわく「かつての事務次官会議は事務の官房副長官のもとで行われていた」しかし、「私ほか政務の副長官も参加する」から違うのだ、と。
 やはり詭弁であって、どのように参加するかが明言されなければならない。参加だけでよければ、椅子に座って寝ているだけでも違うことになる。そもそも誰が参加するかとことではなく、次官が政策課題をフィルターすることが問題なのだが、その言及は藤村官房長官にはない。認識がないのかもしれない。
 事務次官会議(事務次官等会議)は設置に法的な根拠をもたないが、政策決定に重要な役割を担ってきた。事務次官会議で調整がつかなかった案件は閣議にかけられない。ここで官僚の合意が取れない問題があればフィルターアウトされて政治決定に上らず、事実上隠蔽されてしまう。
 野田内閣での事務次官会議で問われるのは、なにを課題としてどのように決定されるかという仕組みであって、その仕組みのなかで、行政側の参加者がどのような権限を持つかというということになる。
 そこが問われなければようするに、野田内閣の事務次官会議は自民党時代のそれと違いなどないのだ、と言いたいところだが、実は自民党のほうが、事務次官会議を廃そうとしていた経緯がある。
 象徴的なのが安倍政権時代で、国家公務員の「押しつけ型天下り」に関する政府答弁書をめぐりを巡り、2007年3月26日の事務次官会議で反対があり、慣例として閣議に上がらないはずであった。だが、安倍元首相は事務次官会議は法的根拠のない慣例にすぎないとして、閣議に持ち込んだことがある(参照)。裏方で采配していたのは、当時の渡辺喜美大臣であったとも言われる。
 安倍政権はこの件でも官僚を敵に回し、直情的に改革を推進しようとしたが、頓挫した。続く、鳩山政権も頓挫したと言ってよいだろう。
 事務次官会議は官僚主導だからいけないといった、民主党マニフェストのような単純な話が通らないのはこの数年のプロセスで明らかになってきた。だが政治が主体的に機能しなければならないときもあり、そうしたときに野田内閣ではどのようなプロセスを取るのかが、現状では皆目見えてこない。

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2011.09.06

さらに民主党の自民党化、党税制調査会の復活

 予想されていたことではあるし、とやかく言うほどの話でもないのだが、民主党野田どじょう政権が着実に自民党化していくワンシーンとしてメモしておきたい。
 報道の確認から。NHK「民主 党税調復活で財源議論へ」(参照)より。


 民主党は、おととしの政権交代の際に党の税制調査会を廃止して政府の税制調査会に議論を一本化し、その後、党内に税制改正の作業チームを設置したものの、政府税調が税制改正の議論を主導してきました。
 こうしたなか、民主党の前原政策調査会長は、党の税制調査会を復活させ、会長に藤井元財務大臣を起用する方針を決め、5日、野田総理大臣に報告しました。
 党の税制調査会は、震災からの本格的な復興に向けた今年度の第3次補正予算案の財源を確保するための税制上の措置などを巡って早急に議論を始める方針です。

 さて。
 それほど昔のことではないが、現状との比較のために、二年前の読売新聞「2009.08.26 税制改正論議を政府税調に一本化 民主党税調廃止へ 会長は財務相に」(2009.08.26)を読み返してみよう。民主党とは、このような主張をする政党であった。

会長は財務相、議員20人
 民主党は25日、衆院選で政権を獲得した場合に創設する新たな政府税制調査会の骨格を固めた。税制改正過程を透明化するため、与党としての税制調査会は設けず、新政府税調に一本化する。会長は財務相、副会長は総務相が兼任、各省庁に置く税制担当政務官らの計約20人で構成することとし、政治主導を明確にする方針だ。
 現在の税制改正は、首相の諮問機関で、有識者で構成する政府税調が基本的な方針を首相に答申するものの、個別の税率など細部は自民党税調での調整が不可欠となっている。与党での調整について、民主党は「責任が不明確なうえ、既得権益維持や政官業癒着の温床となる」などと批判してきた。
 現在の民主党税調は政権獲得後に廃止する。各省庁の税制改正要望は、税制担当政務官が集約し、新政府税調で調整する。

 同種の内容だがもう一点、読売新聞「消費税論議 連立3党に溝 民主「将来は増税」 社・国「絶対ダメ」」(2009.09.12)も読み返してみよう。

税調は一元化
 税制改正の流れも変わる。民主党は、与党としての税制調査会は作らず、新たに組織する政府税制調査会に一元化する方針。会長は財務相、副会長は総務相、メンバーは国会議員で、政治主導をより鮮明にする。
 これまでは与党の税制調査会と政府税調の2本立てで審議が行われ、実質的には自民党税調のベテラン議員が各業界などの意見を踏まえ、議論を仕切ってきた。
 新政府税調は、さまざまな利害が対立する税制のあり方を政治主導でどう決めていくかが問われることになる。

税制改正要望先、業界団体は困惑
 各業界団体は例年9月、与党である自民党や中央省庁などに税制改正要望書を提出していた。だが、今年は政権交代を控えているため提出先が決まらず、困惑しているという。
 日本経団連は、例年なら9月下旬に自民党などに税制改正要望を行っていたが、今年は「様子を見ながら適切なタイミングで要望書を提出するしかない」という。日本商工会議所も、「新税調が決まるのを見定めて対処する」としている。

消費税据え置き、一つの政治決断
 森信茂樹・中央大法科大学院教授 「連立合意で消費税率の据え置きが決まったのは、一つの政治決断だ。徹底した歳出削減を行えば、自公政権よりも消費税率引き上げの環境整備が進みやすいのではないか。来年夏の参院選後くらいから議論を始め、次の総選挙で『引き上げる』と公約に掲げることを期待している。ただ、ガソリン税などの暫定税率廃止は、消費税1%分を失うと同じ影響がある。新政権は、市場メカニズムに沿った経済運営をするだろうから、天地がひっくり返るような税制の方針転換はないだろう」 


 過去を顧みるに、こうなる。2年前の8月の民主党は、「税制改正過程を透明化するため、与党としての税制調査会は設けず、新政府税調に一本化する」と言っていたのだから、現在の民主党がそれを受けるなら、「税制改正過程を不透明化する」という主旨になるだろう。
 実際、復興の大義のどさくさに明後日の方向の増税をやってしまうというのだから、不透明にしておかないとまずいというのはある。
 かつての民主党は自民党流の党税調と政府税調の二本立てを「責任が不明確なうえ、既得権益維持や政官業癒着の温床となる」などと批判してきたのだから、これからの民主党は、当然、既得権益維持や政官業癒着の温床を作るのである。
 もちろん、看板くらいは付け替えるだろうけど、政府の仕組みが自民党と同じなら、自民党と同じ構造ができあがるのは理の当然である。
 2年前の読売新聞記事に出てくる森信茂樹・中央大法科大学院教授は「連立合意で消費税率の据え置きが決まったのは、一つの政治決断だ」と述べたが、その連立合意はどうなったのだろうか。
 いずれにせよ、税制議論は自民党政権時代に戻るのである。
 自民党時代は、税制論議は国会議員による党税調と、学識経験者らで構成する政府税調の二本立てだった。
 自民党時代、この二本立ての仕組みを調整していたのは、山中貞則のような大物議員で、たばこ値上げなどを抑えてきた(参照)。また基点となる業界の要望をも調整してきた。別の言い方をすれば、党税調との二本立てシステムは、自民党の大物がいると機能する仕組みともいえた。
 そこでどじょうは考えた。自民党を使えばよいではないか。
 古き自民党で1977年から1993年のキャリアを持ち、大蔵官僚出の藤井裕久元財務相を党税調の会長に据えた。
 関連して今朝の産経新聞「党税調復活で増税鮮明に 民主、会長に藤井元財務相」(参照)に面白い話がある。

 財務省OBの森信茂樹・中央大学法科大学院教授は、税制をめぐる民主党政権の混乱について、「自民党政権では族議員たちを『もっと勉強してこい』と一喝できる長老議員がいたが、民主党にはいなかった」と振り返る。藤井氏はかつて財務相として野田首相を財務副大臣に起用した「師匠格」とされ、財務相退任後は「税と社会保障の抜本改革調査会」の会長として、党内の一体改革論議をリードしてきた経緯がある。政府内には「藤井氏なら存在だけで反対派を抑えられる」との期待も強い。
 自民党的な手法への回帰を批判する声もあるが、増税に向けて「名を捨てて実を取った」(政府関係者)との見方も出ている。

 この森信茂樹教授は2年前の読売新聞記事に出てくる森信茂樹教授と名前も役職も同じだが、どうも逆のことを言っているようにも思えるので、もしかすると別の人物かもしれないが、それはさておき、自民党の党税調システム要件である大物議員についても、「藤井氏なら存在だけで反対派を抑えられる」ということで満たされる。
 私は思うのだが、政権交代というのは、小泉郵政選挙のときに起きていたのではないだろうか。そして、その後の古き自民党政権に戻そうとした反動の安倍政権からの迷走はそのまま、滑らかに菅政権まで続いていたのではないだろうか。
 意識的に古き自民党に戻ろうとしている野田政権もその反動の連続になるのだろうか。

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2011.09.05

野田内閣の「国家戦略会議」は小泉内閣の「経済財政諮問会議」のふざけた焼き直し

 まだ構想の段階で四の五の言うべきではないのかもしれないが、さすがに呆れた展開であり、急速に進む可能性もあるのでとりあえず書いておきたい。ようするに、野田内閣の「国家戦略会議」は小泉内閣の「経済財政諮問会議」のふざけた焼き直しだということだ。どこが「ふざけた」かについては後で触れる。
 報道の確認から。4日付け日経「「国家戦略会議」政官民で新設へ 経済財政の司令塔 野田首相方針 日銀・経団連首脳ら参加」(参照)より。


 野田佳彦首相は3日、新内閣の経済財政運営の目玉として首相直轄の「国家戦略会議(仮称)」を新設する方針を固めた。野田首相を議長に、関係閣僚、日銀、経済界、労働界などの首脳らがそろって参加。経済財政運営の司令塔となり、予算編成や税制改正、社会保障改革など日本が抱える重要課題で基本方針を示す。小泉内閣時代の経済財政諮問会議をモデルに政官民が知恵を集めて日本経済を再生する体制をめざす。
  「国家戦略会議」のメンバーは、首相、古川元久経済財政・国家戦略相、安住淳財務相ら関係閣僚、 白川方明・日銀総裁、米倉弘昌・経団連会長、古賀伸明・連合会長ら。学者や企業経営者も参加する見通しだ。同会議は定期的に開催する。

 政府と経済界および日銀のコミュニケーションの場ができるのはよいことであり、これが民主党に存在しなかったのが不思議なほどでもあった。
 問題は、「小泉内閣時代の経済財政諮問会議をモデルに」という点で、小泉内閣の「経済財政諮問会議」と、野田内閣の「国家戦略会議」はどこが違うのか。

 国家戦略会議を閣議決定で設置するか、強い権限を与えるため法律で規定するかは今後検討する。 経済財政諮問会議は内閣府設置法で定められており、法律上は今も残っている。
諮問会議をそのまま復活させることもできるが、諮問会議の活用には「旧政権色が強い」との指摘もある。

 現在でも、法律上、「経済財政諮問会議」は残っている。簡単な話、日経記事が指摘するように、「諮問会議をそのまま復活させることもできる」のにかかわらず、なぜそれを活用しないのか。同記事が触れているのは、「旧政権色が強い」ということだけのようだ。もし、それだけなら、これは、「ふざけた」話ではないか。
 産経記事「野田政権の船出 野党時代の批判どこへ 急速に進む「自民党化」」(参照)はこの点に着目している。

 背景には「政治主導」「脱官僚」を掲げた鳩山由紀夫元首相、菅直人前首相が政権を統治できず、あらゆる政策に行き詰まったことへの反省があるようだ。
 ただ、実態は小泉政権時代の経済財政諮問会議の看板を掛け替えたにすぎない。民主党はかつて経済財政諮問会議を「財務省主導」と批判し、政権交代後に廃止しただけに会議復活には与党からも異論が出る可能性がある。


だが、実態は自民党政務調査会の仕組みとほとんど同じ。民主党は自民党政調を「族議員の温床」「業界との癒着を生む」と散々批判し、先の衆院選マニフェストで「内閣での政策決定の一元化」を掲げただけに批判は免れない。

 率直なところ、事ここに至って民主党批判をしても意味はないので、現実的な話に戻せば、ようするに、早急に「経済財政諮問会議」を開催すればよいのである。
 それができないとするなら、その理由に対する説明責任(アカウンタビリティー)を野田内閣は負っている。
 自民党化がいやだとかいうお子様みたいな話は鳩山内閣と菅内閣という代償で十分に支払ったのだから、どじょう内閣らしく、現実的に対応していただきたいし、さらに言えば、そうすることで、自民党対民主党という不毛な対立や、「政権交代」という幻影も消し去ることができる。

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