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2011.07.23

[書籍]性格のパワー 世界最先端の心理学研究でここまで解明された(村上宣寛)

 本書「性格のパワー 世界最先端の心理学研究でここまで解明された」(参照)は、版元と形状からして「「心理テスト」はウソでした。 受けたみんなが馬鹿を見た」(参照)、「IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実」(参照)に続く、村上宣寛氏による心理学批判のシリーズ3のようにも見えるし、私などもそういう思いで読んだのだが、前二著に比べると、攻撃力というのも変だがパワーはやや弱く、性格学説について無難にまとめたという印象を受けた(注を見てもそれは納得できる)。

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性格のパワー
世界最先端の心理学研究で
ここまで解明された
村上宣寛
 別の言い方をすると、おそらく一般の読書人が読んで心理学的な、かつ有意義な「性格」を理解するには、本書が最適であろうと思う。なお、村上宣寛氏の著作の真骨頂というなら、地味なタイトルの新書だが「心理学で何がわかるか」(参照)だろう。
 本書執筆の動機は後書きによれば、宮城音弥氏の岩波新書青版390「性格」(参照)の現代版を依頼されたとのことだ。当然村上氏も宮城氏の「性格」を再読し、「残念ながら、再読しても得るものは何もなかった。すべての章が時代遅れで、当時は正しいと信じられていたが、今日では否定された学説や知識ばかりだった」と記している。そうであろうと思うが、得るものがゼロとも私などは言いがたい。ジュール・ベルヌの小説などを読むとその時代の性格学による人物描写などもあり、当時は人の性格はそのように考えられていたのだなと、宮城氏の本をしこたま読んだ私などは理解できる。とはいえ、科学的な意味合いはゼロだと言っていい。
 宮城音弥氏は私には懐かしい学者である。氏による岩波新書の解説書を私は中学生時代に大半を読んでいる。「天才 (岩波新書青版621)」(参照)や「神秘の世界―超心理学入門 (岩波新書青版435)」(参照)、「夢(岩波新書青版843)」(参照)、「精神分析入門 (岩波新書青版347)」(参照)などは、まさに中学生向きの面白い書籍だった。今読めばどれも滑稽にしか思えないが、「愛と憎しみ―その心理と病理 (岩波新書青版483)」(参照)は、今でも名著だと思っている。この本を読んで人生に大きな影響を受けた。愛とは何かという問いにまとわりつく虚妄を排して本質を強く描くところがあった。
 村上氏の本書なのだが、これまでの氏の書籍を読んでいる読者にはそれほど新しい展開はない。また心理学と性格について現代の動向を知っている人にとっても、ごく妥当な水準に思える。ただ、その妥当な水準が広く了解されているかというと、血液型性格分類などが政治家などの口から出るようにかなり低次なレベルにあるとは言えるだろう。
 本書が「性格」についての概説を目指したのはわかるが、実効性のあるビッグファイブだけに絞ってより深化させたほうが面白かったのではないだろうか。本書の帯に「あなたの性格特性をテストする「ビッグ・ファイブ」を掲載」とあり、たしかに掲載されているのだが、村上氏が作成した「主要5因子性格検査」のような信頼性のチェックや自動的に解釈できる部分などが、この掲載形式では実現できていないので、読者がビッグファイブの威力を実感するのは難しいのではないか。
 なお、同検査ソフトだが、数年前だが検査を販売していた版元に問い合わせたところフリーソフトと同じですと回答を得たことがある。Windows7でも動くのだが、基本的にプリンタ出力用になっているので、旧来のパソコンの心得のない人だと使いづらい。欲を言えば、本書の版元がFLASHなどに移植して本書とタイアップ的にすればよかったのではないかとも思える。と、提案しながら、実際にそうされるとかなり影響力があって、それも問題かもしれないとも思えてきた。
 帯にはこういうキャッチもある。

・幸福感は健康や所得とほとんど関係がなく、かなりの部分が遺伝で決まってしまう
・協調性は職業上の成功にとってマイナス要因
・親の養育態度は子供の性格形成にほぼ無関係

 前2点はビッグファイブの延長にある。
 この問題、つまり、ビッグファイブの5因子と遺伝の関係をどう見るかということだが、前提は「特定個人の内部の遺伝子の影響力」というものを特定する手法は存在していないということだ。遺伝子という実体への還元は方法論上不可能で、その機能の統計的な影響力が問われるだけである。「遺伝率」という場合は、「外向性特性の遺伝率が五〇%であるとすると、データ収集の対象となった全集団の外向性特性の得点の散らばり(全分散)のなかで、遺伝による得点の分散が五〇%であることを意味する」。つまり、もとから特定の個人の遺伝的特性は問われない。
 煩瑣になるのはしかたがなく、また日常的に言えば必ず無理解に至るような部分があるのだが、それでも、性格については、大半が遺伝的に決まると言っていいというのが先の帯の意味である。
 そして、人生に幸福感を覚えるかどうかは、健康であるとか所得が多いとかではなく、まあ、赤ちゃんのときからだいたい決まっているものだとしてよいだろう。図に乗ったような駄言になるが、結果的に「ある人間にとってその人生を生きるということ」が所与であるなら、幸福であるかどうかは、あまり意味があるものでもない。このあたり、得心すると人生観はけっこう変わる。

 主観的幸福感に最も大きな影響を与えるのは、ビッグ・ファイブという性格特性の背後にある遺伝的要因である。おそらく影響力は五〇%を超えると思われる。情緒が安定して、外交的な人は、主観的幸福感が高くなる傾向がある。
 どうすれば、幸福になれるのだろうか。幸福感は遺伝的要因の影響が強いが、人生のパートナーを見つけ、仕事や余暇活動などに積極的に関われば、かなり改善されるのではないだろうか。

 たぶんそういうことなのだろうが、このあたりは、村上氏の推測であって、この部分について科学的に言えることはまだない。

 ビッグ・ファイブは、寿命、離婚、勤務成績、職業での成功、政治的態度などにも深い関係があった。我々は自分の性格特性を基にして、生活方式を変更し、パートナーを選び、仕事を選び、人生を変えるのかもしれない。しかし、この種の因果的分析は、現在、研究の途上にある。

 その研究は結ぶだろうか。
 おそらく結ぶのではないかと予想される。つまり、自分の性格というものをビッグ・ファイブで理解して、結婚相手や仕事を選択することで、より幸福な人生を得られる確率のようなものが上がるだろう。
 さて、そういう人生を生きたいだろうか?
 私はそうも思わない。不幸やつらい人生や失敗というのには、なんか別の意味があるんじゃないかと思って生きて来たし、そうして生きてみたいと思っている。

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2011.07.22

[書評]コーパス100!で英会話|コーパス・フレーズ練習帳(投野由紀夫)

 投野由紀夫先生のコーパス英語の書籍は他にもいろいろあるし、実用性という点では本書「コーパス100!で英会話|コーパス・フレーズ練習帳」(参照)以外にもお薦めしたい本はある。でも、この本は少し毛色が違い、知的にも面白い。たぶん、英語が苦手な人にとっても英語が得意な人にとっても、へぇと改めて思うところが多いのではないか。高校生も社会人にも興味深い内容だろう。

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コーパス100!で英会話
コーパス・フレーズ練習帳
投野由紀夫
 コーパスというのは、文例を集めたデータベースのことで、自然言語の解析で、実際の言語現象からという方法論をとる際に基点となるものだ。その分、どのようにコーパスを形成するかが難しいとも言えるし、投野先生の専門はそこにあるのではないかと思うが、学問的な部分の著書は見かけないのが少し残念でもある。余談だが、コーパスには屍体という意味もあり、現代英語では解剖学用語の含みがあるが、モーツアルトのアヴェ・ヴェルム・コルプス(Ave verum corpus)の"corpus"つまり、聖体の体のも同じ語源の言葉を使う。
 ようするに、コーパスというのは、英語のネイティブが実際に英語をどう使っているかというのを自然科学的に調査するというふうに理解してもよいだろう。本書は、それを英語の基本動詞100についてまとめたものだ。
 何が面白いのか。基本動詞100は、本当に基本動詞なので、中学でも学ぶ範囲のものだし、たいていの人はその意味も知っている語彙ばかりである。ところが、その現実の用例の傾向には、日本人にはやや意外に思える部分があり、その部分はどうやら意味の了解にも反映しているように見える。
 例えば、"have"。"I have a pen"のhaveである。意味は「持っている」だが、ではさて、何を持っているのだろうか。いろんなものを持つことができるけど、haveという動詞で持っていることが言明される対象は何か? そんな特定の傾向ものがあるのかという疑問すら持たなかった人もいるだろうし、ネイティブにしてみてもそんな疑問は持たないだろう。ところがコーパスを解析すると、haveの対象は頻度でリスト化でき、上位にはある傾向が現れる。何か? 時間や経験なのである。

  1. have a good[hard/great] time / have no time
  2. have an/no idea
  3. have a/the chance to DO
  4. have a look
  5. have nothing to do

 本書には書かれていないが、これらを見ていると、日本語表現で語感として対応するのは、「~たことある」「~てた」とあたりだろうか。いずれにせよ、「持つ」「所有する」というのとは違う(もちろん、その語義的な意味はあるのだけど)。ふと思うのだが、"I have a pen"というときでも、「ええと、俺、たしかペン持ってます」というふうなシチュエーションで経験の対象となるのではないか。
 "make"なども後置する名詞で見ていくと、へぇという傾向が現れる。

  1. make a/the decision
  2. make the/a point (of ...)
  3. make a difference
  4. make a lot of
  5. be able to make ...

 「作る」というと、decision、point、differenceなど心的な作為性の対象が頻度の上位に上がる。そしてこのリストからはわかりづらいが、money、friend、noiseというようなものを作るときは、a lot ofを介するようだ。どうやら、具体的な物や感覚対象を作るときは、その量的な閾値が意識されている。
 使役動詞の一種として学校英語では教えられることも多い"get+名詞+to DO"で、DOに何が多く出現するかを見ていくと、使役性のgetの含みが見えてくる。

  1. get 名詞 to come/go
  2. get 名詞 to think/understand
  3. get 名詞 to talk/listen/say
  4. get 名詞 to work/start
  5. get 名詞 to sign/agree/accept

 直接的に使役的な含みというより、主体が労苦して他者の行為を促すという含みがありそうだ。日本語だと「~てもらう」だろうか。本書では言及されていないのだが、"The heat has gotten to me."のgetの含みもこの用例と関係がありそうだ。
 気になるのは、これらのgetがどの程度口語的な表現なのかだ。フォーマルだとどう言い換えられるのかというのは本書からはわからない。このあたりはコーパスのテクニカルな扱いの問題になるだろう。
 本書の元になったのは、2009年のNHKの語学講座「コーパス100!で英会話」であり、私はこれをよく見ていた。福田萌さんとマシューまさるバロンさんの掛け合いが楽しい番組だった。特に、マシューさんがかなりの才人で楽しかった。声もルックスもよく普通に二枚目でとおるのにボケがすばらしい。たまに「親父によく言われましたよ」話があり面白かった。この人が本を書いたら絶対に読みますね。お兄さんの関連で語れない部分はあるのかもしれないけど、それ以外でもかなり面白そうだ。

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2011.07.21

[書評]こうして原発被害は広がった 先行のチェルノブイリ(ピアズ・ポール・リード)

 チェルノブイリ原発事故をソビエトという国家とそこに生きる人間のドラマとして描いた、ピアズ・ポール・リード著「こうして原発被害は広がった 先行のチェルノブイリ」(参照)が福島原発事故をきっかけに改題され、復刻された。1994年に翻訳・出版された邦題は「検証 チェルノブイリ刻一刻」(参照)である。事故後の変化だろうと思うが中古本でプレミアム価格がついていた。今確かめてみるとまだその状態が続いているようにも見える。1994年の同書は手元にないが、復刻本を読んだ印象では大きな違いはないと思われる。

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こうして原発被害は広がった
先行のチェルノブイリ
ピアズ・ポール・リード
 オリジナルは1993年、"Secker & Warburg"から出された「Ablaze: The Story of Chernobyl」だが、アマゾンやB&Nなどをあたると同年にRandom Houseから出た「Ablaze: The Story of the Heroes and Victims of Chernobyl」(参照)が現在では見つかる。AblazeとChernobylが重要なキーワードではあるが、話としては、英米圏では"the Heroes and Victims(英雄と犠牲者)"という視点で受け止められることを想定してのことだろう。そう読めないこともない。
 些細な話を先にして申し訳ないが、今回の復刻では原書について2011年のNew Editionと記載されているのだが英書の新版があったのだろうか。あるとすればその反映はどうなっていたのか気になったのだが、なさそうに見えた。加えて、書誌的なことだが、訳書の参照では、"Ablaze; The Story of Chernobyl"として、"Ablaze"をセミコロンで区切っているのだが、この書式はインディペンデント紙の当時の書評(参照)にもなく、他を調べてもなかった。Google Booksには"Secker & Warburg"版の扉写真があったが、"Ablaze"で改行していて、セミコロンもコロンもなかった。文藝春秋の訳書ではセミコロンの記法が2箇所あり校正漏れとも思えないので、どういう書誌記法なのか気になった。
 さて本書であるが、1994年の邦題は「検証 チェルノブイリ刻一刻」であったように、1986年のチェルノブイリ原発事故を詳述するという含みがあり、そのように当時の日本人に読まれることを想定していた。私なども、そういう事件であったのかという関心で同書を捲った。今回の改題では、「こうして原発被害は広がった 先行のチェルノブイリ」として、明確に福島原発事故の文脈に置かれている。端的に言えば、類似の状況かに置かれた日本人が、チェルノブイリ原発事故からその後の被害を学び、食い止めようという視点である。これも頷けるものがある。
 改題書を読み進めながら、しばしば嘆息した。以前はチェルノブイリ原発事故は特殊な原発事故であり、今回の福島原発事故とはあまり比較にならないものではないかと思っていたのだが、現下の文脈で読むと、あまりの相似に圧倒される。極端な言い方をすれば、同じではないか、原発事故というものの本質が本書に明確に示されているではないかとすら思える。
 だが同時に、その相似性は、原発事故の本質に根ざすというより、日本という国家が社会主義ソビエト連邦と相似であったことに由来するように思えた。率直なところ、それはこの時代に生きる一人の日本人としては、かなり悲痛な認識になる。そしてその悲嘆の認識から本書で示唆されるところは、ソ連がチェルノブイリ原発事故を実質象徴として解体したように、日本の政治権力も解体されなければならないという暗示でもあるだろう。ここから菅首相の個人的な意見である脱原発へあと一歩であるかのようにも見える。が、そうではない。原発事故の本質が問題というよりソ連型国家である日本の問題が根にあり、いかに市民社会を確立していくかのほうが先行する。
 私の誤読かもしれないが、なぜチェルノブイリ原発事故が起こったのかという問題の技術面での解明は、本書ではわかりづらい。明確には記載されていないと見てよいかもしれない。私が読み取った範囲では、ソ連時代に喧伝されていた、操作員のミスというより、「第二章 科学の勝利をたたえる神殿」の最後にある事故前の異常性、特に制御棒の欠陥である。不思議に思うのだが、日本の原発でも制御棒に関連するトラブルは福島原発事故以前になんども発生しており、臨界の継続もあった(参照)。事故後、あまり注目されているふうはない。
 本書を読みながらなんども嘆息したと書いたが、思わず天を仰いだのは、次の箇所である。炉心が燃えるなか、砂を被せて消化せよという国家の指令のくだりだ。現場の異論を国家が押しつぶしていく。

「かまわない。原子炉をまるまる砂で埋めてしまえばいい」
「しかし、砂を落とすたびに、大量の放射性粒子が空中に放出されます。なにもしなければ、塵は原子炉のなかにとどまっているはずです」
 レガソフはしばらく考えてから言った。「だが、もし、われわれがこのまま放置しておけば、みんなはどう思う? なにかはしなければならないのだよ」
「すると、なぜ鉛は投下したんです?」とカルーギンが聞いた。
「鉛は融解して沸騰し、炉心の熱を奪う」
「しかし、鉛も大気を汚染するでしょう」
「核分裂反応よりは危険が少ない」
「私の考えでは、核分裂の危険はありません」
「それなら、君の案は?」
「そのまま放っておくのです。燃え尽きるまで」
 レガソフは首をふった。「国民は了解しないだろう。なにかをやっているというところを見せなければ」

 これがソ連型の国家というものだ。そして福島原発事故は日本がそのような国家であることを示してしまった。
 汚染されたあとの光景も相似と言っていいものである。ソ連は市民に対して沈黙した。

 グロジンスキーは、こうした沈黙をフィンランドのとった行動と比較した。かれは事故のわずか数日後に、「汚染地域では住民はどういうことをすればいいかを印刷物にして発表した……子どもたちはどこを歩けばいいか。牛の放牧はどこでどれくらいの時間すべきか、なにを食べ、なにを飲んだらいいか……」
 ソビエトにはこうした指針が存在しなかったので、人びとは心配のあまり牛乳を飲まず、カルシウム不足におちいった。

 読み進めながらそこに描かれているのはチェルノブイリなのか福島なのか失念しそうになるシーンもあった。

 デンマークの物理学者、ヘーデマン・イェンセン教授は、各国専門家たちの見解を明快な言葉でこう表現した。「われわれの結論はきわめてはっきりしています。もし費用と危険削減の観点から規制を強化しようとするなら、そうした方針は放射線防護の側面から見て正当とはいえないという、ということです」。


 とはいえ、チェルノブイリに関して科学者達が直面したのは、健康を異常に気にする流行病というよりは、科学そのものにたいする多くの人びとの不信感だった。

 その先にはぐっと息を呑む光景も描かれる。

 科学のなかにも迷信が存在するというのはいかにも哲学的な皮肉であるが、もうひとつ、歴史的皮肉も存在した。つまり、ソビエト共産党は、一九八六年には事故の深刻さを隠そうとしていたが、いまやその影響を誇張する方針をとりだしたのだ。そのためウクライナのチェルノブイリ対策大臣ゲオルギー・ゴトヴチッツはチェルノブイリ総合科学調査の調査結果を拒絶した。彼は言う。「チェルノブイリの放射線がもたらした影響に関してくだされた基本的結論のうちのいくつかは、あまりに楽観的にすぎ、それゆえ、汚染除去計画にとって害となるだけではなく、原子力安全問題全般にも悪影響をおよぼすと思われます」
 かれらの態度がこのように逆転したため、チェルノブイリの真実をつきとめようと懸命に努力した西側専門家たちは当惑し、落胆した。

 この問題はその後、ウクライナという「国家」とロシアのという「国家」の関係という文脈にも置かれていった。
 そのことが福島原発事故以降の日本に暗示するものについては、正直なところ、あまり考えたくもないというのが、現状の私の心境である。

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2011.07.20

[書評]原発安全革命(古川和男)

 山道を登っていてふっと木々の合間から、今来た道とこれから進む道が見えることがある。来し方行く末、こう辿り、こう進むのか。あるいはそう歩みたいものだと遠くを見る。書籍にもそう思わせるものが稀にある。「原発安全革命(古川和男)」(参照)はそうした一冊である。その描く未来を歩みたいものだと願わせる。

cover
原発安全革命
古川和男
 本書の前版は十年前に文春新書で出版され、当然のごとく絶版となっていた。再読したいと思い、実家をあさったが転居の際に処分してしまったのか書棚にはなかった。
 この機会に本書を再読したいと思った人は少なくはなかったのだろう。福島原発事故以降、「検証 チェルノブイリ刻一刻」(参照)同様、本書にもプレミアムがついた。幸い版元の文藝春秋に識者がいたものと見え、こちらの本は「こうして原発被害は広がった 先行のチェルノブイリ」(参照)と改題され復刻され、本書も書名内の括弧が取れたものの増補新版となった。
cover
こうして原発被害は
広がった
ピアズ・ポール・リード
 あれから十年、記述に大きな変化はあっただろうか。結論から言えば、ないと言ってもいいかもしれないが、福島原発事故の挿話が入っているからということだけではなく、まるで新しい本を読むようにも思えた。
 本書はトリウム炉推進の書籍である。そこでトリウム炉、つまり、トリウム溶融塩炉推進の物語として読まれてしまうだろう(十年前にはむしろそうした基調で読まれたものでもなかった)。それで間違いでもないのだが、そう読まれることを私はお薦めしない。トリウム炉、イコール原発、イコール賛成か反対か。そういう短絡的な枠組みで読まれるにはあまりに惜しい。トリウム炉研究という、山道の木々の隙間から見る眺望に関心を向けたほうがよい。
 誇張した表現は常に誤りを含むが、本書は、この一冊で原発というものがすべてわかると言ってもいいかと思う。正直なところ、十年前ですら奇矯にも思えたトリウム炉ではあるが、原子力発電の歴史の流れに置けば、実は正嫡なのである。人類最初の原子核エネルギー実用炉をを完成させた学者の一人、ユーゲン・ウェグナーが中心となって1930年代、原子炉の原則を打ち立てたが、それにもっともかなう。

――核分裂は原子核物質が変化する「化学反応」である。したがって、当然なこととしてこの反応を利用するものは「化学工学装置」となる。もっと明確にいうと、この核分裂反応遂行、その反応生成物処理・処分、使用可能な残渣の処理・再利用を経て、次の核分裂反応炉に循環させる「核燃料サイクル化学工学」を完成させる仕事が「事業の本質」である。直接有効な「発電」などは、そのごく一部の作業に過ぎない。――
 しかもウィグナーは、「化学工学装置ならば反応媒体は、”液体”が望ましく、その"理想形態の原発”はおそらく”溶融フッ化物燃料炉であろう」とまで予言していたのである。「溶融塩炉まで一気に論じていた」と聞いて、多くの読者は「本当か」と驚かれるであろうが、彼は初代所長として世界最高の原発開発センター・オークリッジ国立研究所を整備し、次いで高弟のワインバーグを次代所長に推進した。そのワインバーグが指導して、この「溶融塩炉」の基礎開発を成功させたのである(一九四五~七六年)。

 ではなぜ福島原発型の方向に人類は技術を開発させてしまったのか。その歴史説明が本書に淡々と述べられている。時代的な状況もあり、またトリウム炉の問題もあった。これらはかなり公平にきちんと述べられているように思えた。私が理解した範囲では、ネットなどで見られるトリウム炉への批判(腐食や放射性物質の漏出可能性)については本書の範囲ないで吸収できるように思えた。
 本書が書名「原発安全革命」の「革命」たる点は、トリウム炉の技術もだが、原子炉というものを市民社会のなかにどう位置づけるかといことを明瞭にしている点である。

 発電所は公共施設であり、特殊目的の工場ではない。いうなれば水道施設のように、町役場などで単独で管理できるようなものでなければならない。

 私は本書から思想的な意味で一撃を受けたのはこの原則だった。それが正しいというのではない。思想とは、正しい何かを信奉することではなく、人類に真に思考せしめる課題のことである。原発が水道施設のような公共施設であるということはどういうことなのか。それが可能である社会とは何か。技術の側だけではなく、それによって作られる人類社会をどう構想するか。
 筆者はこのテーマをこう補足している。

 しかし、原発の実態はそれからあまりにかけ離れ、みな人里離れた僻地の砦のような存在である。逃げる(?)から疑心が追いかけていくのである。当事者側も市民側も、この矛盾をまず抜本的に改善すべきだとは認識していないようである。

 私が加えるなら、電力事業は巨大であるために国家と接合し、そして従来の原発はその集団の地位を保つために巨大化してしまった。
 市民社会が国家より優位にあるためには、こうした装置を市民社会の側に移管できるまでに縮小化しなしなければならないという思想的な課題も明確になってくる。
 本書が描き出す小型トリウム炉FUJI・IIは、それゆえに市町村レベルのゴミ処理場ほどに小型化されている。工場内に設置することも可能なサイズである。
 しかしそれでも、トリウム炉は可能なのか? 本書は冷静に答えている。

 すぐにでもFUJI・IIそのものを造って運転してみるべきだ、との意見も少なくない。しかし、なにぶん実験炉MSREが運転されてから四〇年が無駄に経過し、関係者はほとんど亡くなっている。中核となるべき専門家・技術者が二、三〇〇人は必要だが、それだけの人材を急には要請できない。そこで、その養成のために、基本技術の再確認と包括的な技術習得の場として、「超小型の溶融塩発電炉」建設計画を立てている。今一番必要なのは、炉の全寿命間におよぶ運転体験である。見落とし、錯覚などの失敗を避けるためにも、一刻も早くこの炉型を運転し、実証・再確認し、技術を完成させたい。
 今から十数年でそれは可能と考えている。

 この言葉の奥から、本書でも言及されているが著者の先輩である西堀榮三郎の声を私は明確に聞きとる。

 先生の大学講座後輩である私は、日本原子力研究所入所以来、多大のお世話になった。あの剛毅な先生も一時、体質に呆れて原子力界を去られたが、やがて戻ってくださり、晩年は我々の「トリウム溶融塩炉」を社会に生かそうと、命を縮めるほどの尽力をしてくださった。

cover
石橋を叩けば渡れない
西堀 栄三郎
 トリウム炉と限らない。日本が技術で復興していくカギは西堀榮三郎の精神にあると私は思っている。凡百の自己啓発書など読む暇とカネがあるなら、西堀榮三郎著「石橋を叩けば渡れない」(参照)をお読みなさい。


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2011.07.19

アフメド・ワリ・カルザイ氏殺害を巡って

 アフガニスタン情勢はどうなっているのか。カルザイ大統領の"弟"・アフメド・ワリ・カルザイ(Ahmed Wali Karzai)氏が12日南部カンダハルの自宅で護衛に射殺された。17日夜には、首都カブールでカルザイ大統領の相談役だったジャン・モハマド・カーン(Jan Mohammad Khan)氏とウルズガン州議員および警官の3人が殺害された。両方の事件ともタリバンが犯行声明を出している(参照)。
 2014年に向けて米軍のアフガニスタン撤退及び、北大西洋条約機構(NATO)主導の国際部隊からアフガニスタン側への治安維持の権限移譲(参照)が始まるなかでの出来事として、今後のアフガニスタン情勢に暗雲が垂れ込めるといったふうに理解されてもしかたがない。
 そうなんだろうか。
 疑問というか奇妙な印象が私にはあった。語るとなると胡散臭い話になるし、陰謀論の類になりかねない。それでも最近のオバマ政権の動向を見ていると、この政権自体の独自の胡散臭さという印象はぬぐいがたい。
 例えば、デービッド・ペトレアス(David Petraeus)アフガニスタン駐留米軍司令官が退任し、中央情報局(CIA)長官に栄転するのだが、さて、ペトレアス氏はアフガニスタンでなにか功績を挙げたのだろうか。ないと言えないこともないが、まあ修辞の部類だろう。少なくともアフガニスタンでの評価といえば、間接的にだが、15日朝日新聞「アフガン民間人犠牲最悪ペース 11年上半期1462人」(参照)が示唆的だ。


 アフガニスタンの政府当局者は14日、北大西洋条約機構(NATO)主導の国際治安支援部隊(ISAF)が南東部コスト州で夜襲を行った際に、民間人6人を殺害した、と語った。AP通信などが報じた。同州では市民ら約1千人が抗議デモを行った。
 また、南部カンダハル州のモスクで同日、何者かが自爆し、内務省によると、5人が死亡、15人が負傷した。モスクでは12日に殺害されたカルザイ大統領の弟アフマド・ワリ・カルザイ氏の追悼式が行われており、同省は式を狙ったテロと見ている。
 国連は14日、アフガンで今年上半期に戦闘などに巻き込まれて死亡した民間人が1462人に上り、2001年以降最悪だった昨年の同期に比べ15%増加したとの報告書を発表した。(カブール=五十嵐誠)

 奇妙なのはイラク戦争のときは、民間人誤爆でブッシュ元大統領批判が日本ですら批判的に報道されたものなのに、さほどオバマ政権への批判の声も聞かないように思える。
 当の、大統領候補の声もあったペトレアス氏だが、マクリスタル司令官辞任後は、功績を挙げるか泥を被るかのいずれかとも思われていたものが、どうもいずれでもない。修羅場を逃げたんじゃないのかという展開にしか見えないし、栄転させることでオバマ大統領の再選側に取り込んむ手打ちでもあったんじゃないかという印象も残る。
 こうした状況下でのカルザイ大統領の"弟"・アフメド・ワリ・カルザイ氏の殺害というのだが、彼は長年にわたって米中央情報局(CIA)から定期的にカネを受け取っていた人物である。2009年10月28日のニューヨークタイムズ「Brother of Afghan Leader Said to Be Paid by C.I.A.」(参照)が報じていた。
 もちろん米政府に協力するのだからその見返りがあって何が悪いということでもあるだろうが、そこまでで話が済めば、である。そうもいかない。麻薬の密輸に関わってきた。CIAとしても事実上、黙認してきたし、そうせざるを得ない状況というものがあった。
 この話はアフガニスタン情勢を見る人には常識の部類とされてきたが、言わないお約束の部類でもあった。日本も民主党政権になってインド洋上給油を止めるという歌舞伎の演出と国際社会のペナルティで鳩山元総理が多額の資金援助をアフガニスタンに拠出するということでもあったが、まさかそれがずるずると麻薬密輸にまで繋がっているというのでは洒落にならないでしょ。言うなよ、それ。
 アフメド・ワリ・カルザイ氏に関わる暗部について、2009年10月28日のニューヨークタイムズが報道したときもタイミング的にこれはどういう意味なのかという疑問があったものだが(参照)、今回の暗殺もどうもタイミングというか文脈がないとも思えない。
 というわけで、思考実験的にかつ自覚的に陰謀論的な読みを読みをすると、CIAによる、アフメド・ワリ・カルザイ氏の口封じとカルザイ大統領への威嚇ではないのだろうか。
 しかし、犯行声明を出しているのはタリバンではないか?
 その疑問は当然で、ちょっと無理筋な読みになるのかもしれないけど、CIAおよびオバマ政権は、タリバンとなんらかの手打ちをしているのではないか。もちろん、露骨なものではないけど、麻薬利権のシフトの容認くらいでアフメド・ワリ・カルザイ氏は吹っ飛ぶだろう。
 日本では、アフメド・ワリ・カルザイ氏はカルザイ大統領の"弟"と報じら、間違いでもないが、異母弟であり、カルザイ大統領からしてみると、暗殺に涙するくらいの人情の関係とはありながらも、部族の利権のネットワークを介した関係にあり、そう近しいというものでもない。
 もうちょっと言うと、アフメド・ワリ・カルザイ氏の口封じというより、カルザイ大統領のフリーハンドの領域を広げるために、問題となりそうな部分をこの機に排除したということかもしれない。
 陰謀論的な読みはここまでとして。
 いずれにせよ、西側諸国はアフガニスタンを民主化するというより、タリバンと共存していくという選択しかないし、NATOが壊滅するよりはましではないかという合理的な選択とみるなら、さすがに切れ者だなあ、オバマ米大統領とも思える。
 そして、この方式は、たぶん、リビアにも適用するのだろう。

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2011.07.17

空想未来小説「サンフラワーサンクチュアリー」

 「首相、お会いになりますか。30分ほどならお時間はありますが」
 秘書に問われて、直子は少し奇妙な感じがした。伸男なら昨日までバンクーバーにいたはずだ。手元のスカーレットフォンでグローバルフェイスを起動し、伸男のアイコンをタップすると、「やあ、姉さん、フクシマで会いましょう」というメッセージが出て来た。つまり本人らしい。セキュリティチェックに手間取るのではないかと秘書に問うと、もう済んでいるとのことだ。気を回してくれたのだろう。
 「姉さん、元気? 首相の仕事って大変そうだね」ドアを開けるなり明るい口調で語る伸男も35を過ぎた。結婚する気はなさそうだ。それをいうなら自分もだがと直子は苦笑する。
 「お祖父さまほど、大変ではないわよ」
 「だろうね。僕もお祖父さまの墓参りに来たんだよ」
 「昨年の33回忌には来なかったのに」
 「サンフラワーサンクチュアリーの、あんな盛大な雰囲気には耐えられないよ。みんながお祖父さまは偉かったしか言わないし、いろいろ詮索されるのも嫌だったんだ」
 「お墓参りは済ませた?」
 「これから。まず姉さんのスケジュールに合わせないとね。ビジネスも後回し」
 「トリウム炉のバイヤー? いやな噂を聞くわよ」
 「スマグリのほう」
 「なんでもいいわ。あなたに会ったことも首相動静で公開するから変なことしないでね」
 「ほんとはトリウム炉も関係している」
 「聞かない」
 「なんかそういうきついところ、お祖母さまに似てきたね」
 「お祖母さまこそ偉い方よ。お祖父さまの窮地をすべて救ったのはお祖母さまなんだから。ああなれたら女子の本懐」
 「らしいね。フクシマ遷都もお祖母さまのアイデアだし、お祖父さまが突然、私はフクシマに骨を埋める覚悟ですと言って国民をあっと言わせ、生前にフクシマに墓を建てたのも、お祖母さまの入れ知恵なんだろうな」
 「お祖父さまにも覚悟はあったのよ。覚悟ができたと言うべきかもしれないけど。東北大震災とフクシマ原発事故に襲われた絶望の日本の風景のなかで、無我夢中だったみたいだけど、最後には覚悟したのよ」
 「あれ、本当なのかな」
 「あれって?」
 「お祖父さまが原発を止めますとか言ったあと、TKY-ITの先輩で、なんでも大正時代生まれの偉い思想家がお祖父さまをこんこんと叱責したという話」
 「知らないわ」
 「不思議なんだよね、お祖父さまが急に原発推進に変わったのはなぜなんだろうとたまに思うんだよ。いつもの気まぐれとは違うんじゃないかって」
 「私は、あの夏の終わりのグレートブラックアウトのせいだと思っているけど」
 「あれはすごかったらしいね。おかげで姉さんが身籠もったし」
 伸男のくだらないジョークに苦笑しながら直子は母から聞いた桎梏の夜の怖い話をふと思い出し、部屋一杯に飾ってある向日葵に目を向ける。日本の歴史で名宰相として菅直人を吉田茂に並ばせるに至ったのは、あのつらい経験だった。
 伸男は直子の心を読むように言う、「お祖父さまは科学技術の意味を理解したんじゃないかな」
 「科学技術の意味?」
 「人類の科学的な知見というのは、まさにそれこそが人類を特徴付けるものとして決して後退はしない、ということ。誰の言葉だったっけ」
 「知らないけど、そうするしかないと覚悟したのは確かね」
 お祖父さまはフクシマ遷都を断行し、官庁のエネルギーをすべて原子力に頼ると言い張った。まずトリウム小型炉を官邸に設置した。原発事故で首相にもしものことがあればと野党に問われたとき、その用意もあると答えた。あんなに怖いお祖父さま見たことがなかったとお母さまも言っていた。直子が飾っている遍路姿の菅直人首相の写真からは想像もつかない。
 「だいたいさ、原子力の平和利用なんて冷戦時代ですら、たちの悪いジョークだったんだよ」と伸男は言う、「核の平和利用とか言ってウランやプルトニウムに手を出すのは北朝鮮やイランだって真似て当然のことだった」
 「北朝鮮。久しぶりに聞くわね、その国名」
 「国名ではないよ。それにお祖父さまゆかりの国じゃないか」と伸男はまたジョーク言ったぜとにやけて笑っている。そのにやけた、それでいて憎めない笑い顔はどこかしらお祖父さまの若いころに似てきた。
 「本当のパラダイム転換は」と直子は首相らしい口調になる、「核兵器と本当に縁を切ることだった」
 あれから日本の技術と地域が復活した。50万人単位の行政区に原子炉と廃棄物処理所とデイケアを一体化させたトリニティ・システムを配備し、ネットワーク化して日本全土をカバーした。今では新清国への売り込みも始まっている。
 「トリニティの大連市推進計画はどう?」と伸男は横目でさりげなさそうに言う。
 「言わない」
 「国家秘密?」
 「新聞にも載っていることだし、政府には関係ない」
 「新聞? なにそれ」
 「なにそれはないでしょ。便利よ、そこに桃が新聞紙で刳るんであるから持っていって」
 「新聞紙もすごいけど、この桃って?」
 「お母さまが作ったのよ」
 「お母さまも元気だなあ」
 「元気よ、あたりまえじゃない」
 
 
 

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