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2011.06.25

ハクティビスト(hacktivist)、「正義」を問うハッカー

 ハッカーというと愉快犯的な動機が連想されがちだが、独善的な「正義」を動機とするタイプのハッカーとして「ハクティビスト」が注目されている。7700万人の顧客情報が流出したとされる、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)のハッキング事件も欧米では「ハクティビスト」として話題になっていた。

ハッカー(hacker)+活動家(activist)=ハクティビスト(hacktivist)
 「ハクティビスト(hacktivist)」は、「ハッカー(hacker)」と「政治的な活動家(activist)」を合わせた新語。政治的な目的意識をもってハッキング活動を行う人やグループを指している。英辞郎には「政治的ハッカー」という訳語もあった。
 類似の用語「サイバーテロリスト(cyberterrorist)」は破壊という活動に焦点があるが、「ハクティビスト」は意図が注目される。米国外交公電の暴露で注目を集めたウィキリークス(Wikileaks)もハクティビストの文脈にある。
 ハクティビストについては6月20日、米国公共ラジオNPRが「ハクティビストを追い詰める(Going After 'Hacktivists')」(参照)で取り上げ、英国BBCも、6月22日「ハクティビストを好むのは誰か(Who loves the hacktivists?)」(参照)として取り上げていた。欧米圏でも現在の話題のようだ。

ソニーの個人情報流出事件とラルズセック(LulzSec)
 PlayStationネットワーク(PSN)から7700万人の顧客情報が流出した4月末のハッキング事件は世界に衝撃を与えたが、このソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)のハッキング事件もハクティビストの文脈で報道された。
 6月2日にはソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントもハッキングされ、100万人もの顧客情報が流出したが、この事件では「ラルズセック(LulzSec)」と称するハッカー集団が犯行声明を出していた。


ラルズセック

 ラルズセック(LulzSec)は"Lulz Security"の略である。"Lulz"という見慣れない英単語は、"Laugh Out Loud(大声で笑う)"を意味する略語"LOL"の音読をスペリングに戻したものだ。日本の掲示板などでよく使われる、文末の小文字で笑いを表す"w"や、"(爆笑)"といった表現に近い。
 ラルズセックの犯行声明は、ハクティビストとして以前から有名だった集団「アノニマス(Anonymous)」と類似性や関連性があるとして注目された。
 その「アノニマス」だが、英語の意味は「匿名」である。しかしこのハッカー集団は普通に「匿名」を強調するのではない。それに伴うガイ・フォークス(Guy Fawkes)の仮面のシンボルに意味がある。


ガイ・フォークス(Guy Fawkes)の仮面

 この仮面は、2005年の製作のワーナー・ブラザーズ映画「Vフォー・ヴェンデッタ(V for Vendetta)」(参照)で有名になった。同物語では、第三次世界大戦で米国が崩壊し、全体主義国家化した英国に抵抗する政治的活動家が描かれているが、そのヒーローが「匿名」としてガイ・フォークスの仮面を付けている。

捕まえてみると19歳の少年?
 ラルズセックは6月17日、テキスト情報の共有サービス「Pastebin.com」に声明文(参照)を出し、米公共放送サービス(PBS)、ソニー、Fox、米連邦捜査局(FBI)、米中央情報局(CIA)などを攻撃したと語った。興味深いのは、"Sony again, and of course our good friend Sony.(再びソニーに。もちろん私たちの良き友人ソニーに)"とソニーが強調されている点だ。
 犯行声明が出されてから事件は急速に展開し、6月20日夜、英国警察は米連邦捜査局(FBI)との合同捜査で、ラルズセックにつながりがあると見られる、英南東部ウィックフォードに住む少年19歳の少年を逮捕した。
 少年とラルズセックの関係は明確にされていない。少年の逮捕後もラルズセックを称するハッカー集団の声明や活動は続き、23日にはブラジル政府も攻撃を受けている。

ハクティビストの目的は何か?
 ラルズセックの声明文には愉快犯的な動機が読み取れるが、事件の全体を一連の流れで見ると、政治的な意図をもったハクティビストとしての特徴も浮かび上がってくる。
 第一の特徴はすでに述べたように、映画「Vフォー・ヴェンデッタ」といった物語から連想される、「全体主義としての政府や権力に抵抗することが正義だ」という主張が潜んでいることである。第二の特徴はその前提でもあるが、攻撃される側が全体主義的な悪と見なされることである。
 具体的に、ラルズセックがソニーを執拗に攻撃した理由を、その文脈から見ていくと、PlayStation3(PS3)の閉鎖性が気がかりになる。
 PS3は非公認ソフトが実行できない仕組みになっているが、通称「脱獄(Jeilbreak)」と呼ばれるプロテクト解除ツールを使うことで非公開ソフトも利用可能になる。非公開ソフトには海賊版のゲームなども含まれることから、SCEは2月16日、脱獄ツールを使った利用者をライセンス違反とし、保証を無効にするとした。さらに、PlayStation Network(PSN)のアクセスを停止するとも警告(参照)した。
 この警告が全体主義的だとしてアノニマスの怒りを買い、ソニーへの宣戦布告(参照)に至った。ラルズセックはこの文脈から出現しきた。


アノニマスによる挑戦

 ハクティビストの「正義」は独善的ではあるが、脱獄ツールに厳しいという点では、アップルのiPhone用アプリも同様である。しかし、アップルに対するハクティビストの攻撃は現状聞かない。アップル側のセキュリティ対策が整っていることもあるだろうが、アップルは案外、ハクティビストの「正義」に巧妙に対応しているからではないだろうか。
 ハクティビストの独善的な「正義」に向き合うために、企業は自社の「正義」を上手にアピールする時代になるかもしれない。

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2011.06.24

[書評]震災恐慌!~経済無策で恐慌がくる!(田中秀臣・上念司)

 書名を見て煽りすぎではないかという印象をもつ人もいるだろう。「震災恐慌!~経済無策で恐慌がくる!(田中秀臣・上念司)(参照)の表紙と帯は、おどろおどろしい。しかし悲しむべきことに、本書の書名どおり震災恐慌は来るだろうと私は思う。本書は、来るべき震災恐慌に向き合い、腰を落ち着けて考えるのに最良の書籍となっている。

cover
震災恐慌!
経済無策で恐慌がくる!
田中秀臣・上念司
 書名から受ける緊急出版的な印象に反し、本書は学術的な議論が展開されていて説得力がある。東北大震災一か月後が過ぎた時点の速成の書籍のようにも見えるが、対談者の一人、田中秀臣氏には、関東大震災後経済を熟知している経済史学者ならではの知識の裏打ちがあり、そのことで本書は長い射程を得ている。
 その意味で、学術書という堅苦しさはないものの読み進めながら大学の講義を受けているようにも感じられ、本来ならもっと幅広く、例えばであるが、池上彰氏の書籍読者にも届けばよいと願う。実際に対談者のお二人の実際の公開対談を聞いたことがある人なら、もっと痛快な語り口にもなったかとも思える。
 それでも現実の意味するところには変わりはなく、そのことは、本書で唯一触れられなかった震災恐慌の要因の一つでもあるのだろう――本当の学問を信頼することが難しい、ということだ。
 テーマである「震災恐慌」とは何か。
 東北大震災が引き金となる経済恐慌である。が、1929年から始まった世界恐慌とは異なる。むしろ穏やかであるかもしれない。どのような風景となるのか。

田中 そこで一番怖いのは、震災で落ち込んだことではなく、マイナス成長が長年にわたって続いていくことです。すると、みんな疲れてくる。その中で、とくに被災地域を中心に、東北が見捨てられるような状況になってしまったら、やはり多くの国民は、政府に対する根深い不信感を抱くと思うよね。今は、寄付だってみんな一生懸命やっているけど……。
 最悪のシナリオは、金融緩和は行われず、消費税だけが増税され、震災復興はしょぼい予算の組み替えだけで、だらだら続きます。税金を払う側はとられ放題で不満がたまり、救済としてもらう側も「こんなにしょぼいのか」と不満がたまり、国民全体に不満がたまっていく可能性がある。しかも、経済はどんどん縮小し、失業率が上がっていく。
 失業がかなり深刻な状態になると、雇用調整助成金みたいなものがどんどん出されるようになり、民間企業に勤めているけれど、半分公務員みたいな人たちがどんどんふえていくことになる。
上念 つまり、今回の震災が、みんなが平等に貧しくなっていく始まりになりかねないわけです。穏やかな震災恐慌がずっと続いていく始まりであると……。

 失業者が町に溢れ、みんな生活が貧しく、「穏やかな震災恐慌がずっと続いていく」という状態、いや常態が、震災恐慌となるのだろう。
 なぜそのような事態が予想されるのか。そのことが本書の前半に縷々と語られているが、一般の読者としては、対処が可能ならそれを先に知りたいと思うだろう。「第3章 最悪のシナリオ」から、復興対策のシナリオが語られる。ここから読み始めたほうが本書はわかりやすいかもしれない。

上念 今後復興対策がどうなっていくか、そのシナリオについて考えたいと思います。
 一番大事なのは、復興対策の財源をどうするかということです。財源の軸は大きく分けると3つあります。
 1つは、財源を復興増税という名目で、増税によってまかなう方法。
 2つめは、政府が復興国債を発行して民間から資金を集める方法。
 3つめは、復興国債を政府が発行して、それをそのまま日銀にお金を刷らせて、直接買い取らせ、それを財源としてまかなうという方法です。
 実際の復興支援対策は、これらを単独で行うか、もしくはミックスして行うという方法が考えられます。

 本書では、方法として見た場合、最悪なのは増税であり、最善なのは日銀による復興国債買い取りであると展開していく。実際に予想される未来はどうなっていくだろうか。

田中 だから、最悪のシナリオというのは、政府が増税をし、さらに日銀が金融引き締めを行うというパターン。
上念 そうです。そして実際に一番ありえるシナリオというのは、政府がしょぼい財政政策を増税でやって、日銀の金融緩和はなし、つまり何もしないというものでしょう。

 私も、その「一番ありえるシナリオ」に進むだろうと予測している。つまり、現実的に可能なことは、穏やかな震災恐慌をできるだけ穏やかにするというくらいなのではないだろうか。端的に、絶望の一様式といってもいいくらいではあるが。
 本書は学問的ではあるが、学問的にも議論はあるだろう。復興債を日銀に買わせることで、実質お金を刷り、人為的にマイルドなインフレが可能であるとする考え方は「貨幣数量説」とされ、それ自体に批判も多い。だが、本書で展開されている議論は、より現代的な説として、デフレ期待(今後もデフレが続くと国民が想定している状態)を変更させる政策が重視されている。案外、経済学的に見える混乱は、学説の誤解による部分も大きい。
 しかし、「デフレ期待(Deflationary expectations)」とは何か、という議論は避けがたく、中心概念である「期待」や"expectations"から、社会心理学的に理解され、そこで議論は混迷しがちだ。
 私自身としては、この議論に社会心理学的な要素は払拭はできず、その改善志向の根底には、国家と政府への信頼が重要なのではないかと思う(ハイエクはそれを否定しているが)。残念なことに、こうした議論の煩瑣さは、現実の問題としての震災恐慌の対処にマイナスの要因になりかねない。
 リバタリアンの私としては、もう少し希望的に見るなら、本書では十分議論が尽くされていない二番目のシナリオ「政府が復興国債を発行して民間から資金を集める」がよいのではないかとも思う。そのためには、この間に考えつづけたことの一つであるが、日本国民が日本の復興を信じようとする緩和なナショナリズムが必要なのではないだろうか。
 本書が出版されてから、気になる動きもあった。著者たちが最善とする「日銀の国債買取り」の議論に政治家の動きがあったのだ。
 本書の著者と理路は別でも類似の考えの共通項として政治的な動向になりうるかもしれない。「超党派議連、日銀に復興国債の全額買入求める (ロイター)」(参照)より。

 超党派による「増税によらない復興財源を求める会」は16日、国会内で会合を開き、東日本大震災の復興に向けた財源について、増税ではなく、日銀よる復興国債の全額買い切りオペで調達することを求める声明文を決議した。
 同声明文には民主党や自民党などを中心とした国会議員211人が署名。今後、各党政調会への申し入れや、政局動向を見極めた上で、新政権を含めた政府への提言などを計画している。
 政府部内では、震災復興のための資金調達手段として新たに復興国債を発行するとともに、日本国債の信認を維持するため、その償還財源を一定期間後の増税で確保することが検討されている。こうした動きに対し、声明文では「大増税になる可能性があり、デフレが続いている日本経済へのダメージは計り知れない」と指摘。デフレ脱却、経済の安定成長まで増税すべきでないとし、「国債や埋蔵金などに復興財源を見出すべき」と主張している。その「第一歩」として「政府と日銀の間で政策協定(アコード)を締結し、必要な財源調達として、政府が発行する震災国債を日銀が原則全額買い切りオペする」ことを求めている。日銀の全額買い切りオペによる貨幣供給増で、「デフレ脱却、円高是正、名目成長率の上昇が期待でき、財政再建に資する」とも主張している。
 日銀では、こうした国債買い入れオペの増額議論などに対して、財政支援とみなされれば、日本の財政に対する信認が低下し、国債の円滑な発行に支障が生じかねないなどの観点から慎重姿勢を崩していない。
 会合には、民主党デフレ脱却議連の松原仁会長や自民党の安倍晋三元首相、中川秀直元幹事長、みんなの党の渡辺喜美代表らが出席。安倍元首相は「増税は明らかに経済成長にマイナスだ。デフレから脱却し、しっかり成長することこそが、復興、財政再建の道と信じている」とし、渡辺代表は「復興、社会保障、財政再建の増税3段跳びが菅政権の戦略。法人税を中心に減税しなければ日本の空洞化が進む」と懸念を示した。

 増税議論は選挙の票獲得にはならないから、案外、世の中の空気が「日銀の国債買取り」に向かうかもしれない。それはそれで思わぬ僥倖となる可能性もある。
 そうなるだろうか。「増税によらない復興財源を求める会」に安倍晋三元首相の名が連なっているというだけで、批判をするような国民性であれば、難しいかもしれない。

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2011.06.22

La mort du jeune Barra

 写真に見慣れた現代人にとって絵というものはまず見るものであるが、他の時代の人々にとっては、そしておそらくどの地域や文化であれ、見るために背景知識を要する記号の集合でもあり、その知識に偏在はあったとしても、見る者にまったくの不可解ということはなかった。あるいは、それらの知識やコードは同時代人には無意識に了解されるものでもあり、現代の絵画・写真においても同じことがいえる。にもかかわらず絵には、その知識なくして見る者にだけもたらす秘密というものがある。この絵についても、知識を持たない人がおそらくその本質を瞬時に看取するだろう。

 上半身を拡大する。

 フランスの新古典主義の画家、ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)が1794年に描いた"La mort du jeune Barra"である。「若きバラの死」であるが、"Mort de Barra"、「バラの死」と略されることもある。
 描かれているのは少年である。
 屍体として描かれている。
 少年の名前は、"François Joseph Bara"である。"Barra"とも綴られる。日本では「ジョゼフ・バラ」と呼称される。1779年7月30日に生まれ、1793年に殺害された。
 事件は同年・1793年、現在のヴァンデ県を含むポワトゥー、アンジュー、メーヌなどのフランス西部の地方で発生した「カトリック王党軍」を名のる王党軍と革命軍との戦いである。14歳のバラは少年鼓手として革命軍に加わり、王党軍の捕虜となり、王党軍の兵士から"Vive le Roi !"(国王万歳)と叫ぶよう強要されたが、バラは"Vive la République !"(共和国万歳)と叫んだために殺害されたという。
 日本ではこの戦いを「ヴァンデの反乱」と呼ぶこともあるようだが、フランス語では近年では"Guerre de Vendée"と呼ばれ、英語圏でもフランス語に習い"War in the Vendée"(ヴァンデ地方の戦争)としている。「反乱」という表現では共和国側の価値観が反映していると見られるからかもしれない。
 実態はどのようなものであったかについては、十分に解明されているとは言い難いが、死者数は20万人は下らないと見られている。ダヴィッドがバラの死を描いたのは1794年であり、殺戮のさなかであったとよい。戦闘は、ルイ=ラザール・オッシュ(Louis Lazare Hoche)の平定宣言の1796年までともされるが、ナポレオン皇帝が終結としたのは1801年であった。
 バラの死は、鳥居強右衛門勝商や木口小平のように英雄的行為として称賛されることになるが、そのプロパガンダの推進役はルソー主義のマクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre)であった。バラの死の同月に顕彰の演説をぶち上げている。英語圏の資料を読むと"only the French have thirteen-year-old heroes"として「フランスのみが13歳の英雄を持ち得た」と語ったとあるが原語は確認できなかった。バラは実際は14歳で殺害されたので、ロベスピエールが13歳と語ったのであればその差違の由来が気にもなるがわからない。
 バラの遺体はその後、フランスにおける靖国神社とも言えるパンテオンに埋葬され、フランス国民が倣うべき小国民的英雄とされた。翌年・1794年に、エティエンヌ=ニコラ・メユール (Étienne-Nicolas Méhul)は共和国イデオロギーを鼓舞する"Chant du Départ"(門出の歌)を作詞したが、そこにもバラは象徴的に登場する。現代でもこの歌はフランスの愛国歌として歌われている(参照)。


Un enfant
De Barra, de Viala le sort nous fait envie ;
Ils sont morts, mais ils ont vaincu.
Le lâche accablé d'ans n'a point connu la vie :
Qui meurt pour le peuple a vécu.
Vous êtes vaillants, nous le sommes :
Guidez-nous contre les tyrans ;
Les républicains sont des hommes,
Les esclaves sont des enfants.

ある子供
バラとヴィアラの運命は我等を羨望に満たす
彼等は死んだが、彼等は勝利した
年齢に苦しむ臆病者は生命を感じる事は無い
彼は人々が生きる為に死んだ
汝等は勇敢で、我等も勇敢である
暴君に対する為に我等を導き給え
共和主義者は男達で
奴隷は子供である


 バラとならぶヴィアラも同じような存在である。
 この歌、"Chant du Départ"(門出の歌)はフランス軍歌とも言われるが、一般的にも歌われているようだ。

 ミレイユ・マチューが歌い上げる勇ましさは岸壁の母を凌駕するもので、王制を忌避する共和国の精神性というのはこういうものなのだろうと知る点でも感慨深い。
 現代に残るバラの顕彰には、モディリアーニの伝記でも思い出深いパリ6区のバラ通りがある。よもやと思い、グーグルストリートビューで見たら、あった。

 バラの彫像が見られるのではないかと、ストリートビューでうろついたが、青山大学の裏通りのような雰囲気で目立つものはなかった。
 ダヴィッドの絵に戻ろう。
 横たわるバラが手にしているのは、現代のフランス国旗と同様のデザインの徽章である。が、その下にある書簡のようなものが見える。何であろうか。気になるのは、同じ精神的な文脈でダヴィッドがその前年描いた「マラーの死(La Mort de Marat)」(参照)において、フランス革命に殉じた死者の思いを書簡として手にしているからである。マラーの死の書簡は、 «Il suffit que je sois bien malheureuse pour avoir droit a votre bienveillance»(不幸なことに君の親切に値しない)と可読だが、バラのそれが書簡であれば可読性は想定されない。だがこれが心臓(ハート)の位置にあることから愛を意味していることは明らかであり、徽章はそれが共和国という国家を指しているのであれば、共和国への愛に余るなにかの言葉というものの示唆ではあるのだろう。
 ところで冒頭述べたように、この絵について知識のない人がこの絵を最初に見たとき、受けるおそらく圧倒的な美の感覚の後に生じるであろう一番大きな印象は、多少禁忌の感覚を伴うある不可解な状況への困惑であろう。
 あるいは逆に、バラがそうであった「少年鼓手」という制度を知るとその疑念はいっそう強くなるかもしれない。
 ナポレオンの戦争や米国南北戦争を描いた映画などを見ることわかりやすいが、軍隊の前面には少年鼓手が付く。音を使って多数の人員を抱える軍を指揮するために欠かせないものであったとも言えるが、なぜ少年なのかという問いには答えづらい。少年従者としての伝統でもあるだろうし、森蘭丸的な意味合いもあったのではないだろうか。
 なお、少年鼓手は軍隊の前面に配されるが、正式には側面なので人間の盾的な意味合いはないとされる。しかし、マーラーで有名な「少年の魔法の角笛」の詩からはそうとも言い難いかもしれない。余談だが、戦争を連想するイメージをことごとく嫌う戦後日本の教育をこってり受けた私ではあるが、小学校の運動会では鼓笛隊をやらされたものだった。
 少年鼓手というと「鼓」からドラムのイメージが強いが、鼓笛隊とすればわかるように笛もいる。その装束はマネの「笛を吹く少年」が日本人にはイメージしやすいだろう。なおこの装束はフランス第二帝政である。

 当然バラもそられしい装束で殺害されたはずであり、後の歴史絵画ではそのように描いている。以下、二点は19世紀に入ってからのものである。バラの死後100年近い後の歴史画と言ってよいだろう。


La Mort de Bara (1880) by Jean-Joseph Weerts (1847-1927)

La Mort de Bara by Charles Moreau-Vauthier (1857-1924)

 歴史的に見れば、ダヴィッドが同時代なので、冒頭の絵のほうが史実に近い作品ということになりかねないが、ここが歴史の妙味ともいうべきところで、映像ドキュメントの時代に生きる私たち現代人は史実をタイムマシンのカメラで見ることができるような錯覚を持つが、史実とはそれが語られた様式でもある。つまりバラの死とは、ダヴィッドが描くような幻想として始まったとしてよいという点で、これがオリジナルの幻想なのである。
 しかし、バラの死がダヴィッドが描く光景であったはずではないとするなら、この絵の、オリジナルの幻想は何を意味しているのだろうか。
 これを解くヒントが、高校生の歴史教科書などにも掲載されることが多い「球戯場の誓い」である。フランス革命直前、第三身分がヴェルサイユ宮殿の球戯場に集まり、憲法制定まで解散しないことを誓い合ったとされる事件であるが、ダヴィッドはこう描いている。


Serment du Jeu de paume(1792)

 この作品の前年の習作はかなり様子が異なる。あるいは構図は似ているが別系列の作品であるのかもしれない。


Serment du Jeu de paume(1791)

 習作のほうがダヴィッドが意図的に描きだしたという点で本来のダヴィッドの意思を表したものであろうし、この対比からバラの死が読み取れるとするなら、バラの死の映像こそ、ダヴィッドが見た共和国の精神性というものだろう。
 そこまで言っていいものだろうかと長く迷っていたが、「[書評]絶頂美術館(西岡文彦): 極東ブログ」(参照)の同書にも同じ理路で解説されていて、我が意を得たりというところだった。が、詰めの解釈は異なる。西岡氏はこう言う。


 人としてもっとも大きな幸福のひとつである「性」の歓びを享受することなく、若くして革命に殉じたバラへの、これ以上に悲痛な哀悼の意の表明はないかもしれない。


 「絶たれた生」への抗議として描かれたはずのこの作品が、強烈な同性愛的な官能性をただよわせ、むしろ見る者の「いまだ絶たざる性」を物語ってしまうのは、そのためであるのかも知れない。

 逆であろう。
 ダヴィッドの描出こそが共和制への愛を貫徹した至福の姿なのである。
 鳩山由紀夫元首相が語る友愛(参照)、すなわちフラタニティ(fraternity)というものの、「強烈な同性愛的な官能性」とは、このような形象を有するものであり、むしろ武士道の至高に近い。
 三島由紀夫ならそんなことは自明ことであったに違いないが、奇妙なのは彼にとっては、本来は共和制のエロスであるものが戦後日本の文脈では王制のエロスに偽装されていたことだ。
 むしろ共和国・共和制と限らず国家への愛を誘う政治的イデオロギーには、その表層の差違や論争的な対立の背後に、すべてこの情念の起源を隠し持っているのではないだろうか。

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2011.06.21

[書評]絶頂美術館(西岡文彦)

 書籍の売り方としてしかたないという感じがしないでもないが、エロチックなヌードという視点から「絶頂美術館(西岡文彦)」(参照)が語られてしまうのはもったいないと思った。私は自分なりにフランス革命後時代の風俗を再点検していく過程でジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)に関心を持っていくうちにこの本を知り、自分が考えていた線がすっきり描かれていて非常に興味深かった。初版は2008年12月とある。
 著者の西岡文彦氏については略歴にある以上のことは知らないが、美術史の学者というより実際の創作者なのだろう。創作側の視点が美術評に活かされている点がよかった。反面、こうした一般書籍の制約なのか参考文献もなく、画家の名前などの基本情報もないのが、さらに関心を深めようとする人には、残念でもあった。

cover
絶頂美術館: 西岡 文彦
 読み進むにつれ、どこかしら1990年代の空気を感じたが、後書きを読むと15年前の連載をリライトしたものらしく、納得した。ちなみに1952年生まれの著者も当時は40代始めでまだ性欲もりもりというか、お相手さんも、男女問わずというべきか、その年頃なのでまだまだ実践的な感性が強かったのではないかなとも思った。下品な話で申し訳ないが著者より5歳も年下の私も現在すでに50代半ばに向かいつつあり、西欧風のヌードといったものにはある遠い視界になりつつある。逆にだからこそ、この書籍に描かれる作家たちの「老い」の感性も読み取れつつあり、理解が深まる面と同時に、やはり内面の寂とした感じがないでもない。
 本書はおそらく、美術史的には1990年代後半の欧米での新古典主義やラファエル前派の再評価の流れに乗ったものではないかという印象がある。記憶によるのだが、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)などの作品を電車の広告などで見かけるようになったのもその頃であった。
 連想になるが、本書でも一章充てられているジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme)なども、本書では映画「グラディエーター」(参照)への指摘があるが、本書に掲載されていない他の作品などを見れば、おそらく誰でもはっと気がつくだろうが、スターウォーズの世界である。もしかすると、ジェロームのオリエンタリズムが1930年代の米国映画に影響し、それがさらに発展したものと見られているのかもしれないが、私はむしろ1990年代の再発見ではないかと疑っている。
 雑談風あるいは猥談的な風味の展開もあってか、本書では美術史的な文脈は添え物のようにも見えるが、やはり多少なり美術史に関心を持つ人にとって面白いのは、すでに1990年代以降語られきてはいるのだが、印象派を中心とした「近代絵画」幻想の解体としての、新古典主義だろう。
 その文脈で興味深いのは、近代絵画に対応する新古典主義というより、新古典主義のほうがむしろ理性主義として近代的であったという点だ。逆に、では、従来近代絵画とされてきたものは何であったのか。
 私個人の印象の域を出ないが、高校生のころから美術好きでデパートの絵画展巡りをしてきた自分、また、小林秀雄「近代絵画」(参照)といった、まさに近代化の過程での近代絵画という文脈で精神形成をしてきた自分にとっては、近代絵画の解体はそれなりに重たい意味を持つ。うまく切り出せないが、一つ明確なのは、やはり西欧における肉体とエロスの関連だろう。直感的に言えば、ミシェル・フーコー(Michel Foucault)の晩年の知的作業も関連している。
 もう一点、ニューズウィークなど米国誌を読むようになって気がついたのだが、米国における近代絵画もやはり類似の線上にあり、そしてむしろこれらの、日本や米国などの各種の近代絵画の特質は、ある種の啓蒙的な模倣性にあるのではないかということだ。むしろ隠された焦点は、日本や米国の近代絵画の実態ほうにあるのではないかと思えてきた。特に、米国印象派が興味深い。
 話を自分の関心に引きずり過ぎたが、本書はごく気軽に、みうらじゅん的にというべきだろうか、西洋の肉体芸術っておかしなもんですなというふうに読むこともできるし、とりあえずはそういう切り口になっている。ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix)やクールベ (Gustave Courbet)などについては、むしろそうしたジャーナリスティックな関心のほうが本質に接近しやすいかもしれない。特に近年話題になったクールベの「世界の起源(Origine du monde)」(参照)についてはそれが言える。絵画と「公」の関係性の問題、つまりは権力の問題といってもよいものも、新古典主義の絵画と近代絵画の差違に存在しているが、この点もドラクロワやクールベあたりが示唆的である。
 本書は口絵にカラー写真が数点があるが、本文中は白黒なのでそのあたりもさみしい印象がある。大半の作品はインターネットですでに公開されており、選べばかなり質のよいフルカラー画像を見ることができる。かくいう私も、新古典主義やラファエル前派の作品を体系的に見ることができるようになったのは、インターネット文化が交流した1995年以降のことだった。
 ちなみに本書表紙のアレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel)の「ヴィーナスの誕生」はウィキペディアにもある。


La Naissance de Vénus (Alexandre Cabanel)

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2011.06.19

[書評]カルピス社員のとっておきレシピ(カルピス株式会社)

 変わったレシピや変なレシピというのが好きだ。最近の出色といえば「自炊女子の使い切りレシピ」(参照)と「カルピス社員のとっておきレシピ(カルピス株式会社)」(参照)の二点。前者については、飯マズ嫁ももう今は昔、世紀末覇者たちのレシピ現るといった殺伐とした風情が楽しいが、いくらなんでもブログのネタにもならんなと思わないでもない。後者については、呆れて、そして納得するものがあって、作って、感動しちゃいましたよ。「69RECIPIES」って表紙にありますよ。

cover
カルピス社員の
とっておきレシピ
 あの、あれですよ、どろっとしたカルピスの液ですよ。乳香の、初恋の味(参照)。あれが食材。というか味の決め手になる。いや、これいけるんじゃないか。甘酸っぱい味。コシャの認定をすればアシュケナジムにも秘伝のソースで売れそうな感じすらする。
 ぱらぱら捲る。だいたい味の予想は付く。僕は味とか記憶できるし、夢でも味の感覚のある人なんで、ふむふむとブラウズするんだが、いや、ちょっとわからんなというのがあるというか、微妙にわからんなというのが出てくるので、作ってみる。特に、「かぶだけサラダ」。カブをスライスしてレモンとカルピスで和えるという一品。

品質保証 環境部 越知さん/「カルピス」歴47年
母がよく作ってくれたまっ白なかぶのサラダに「カルピス」を使ってみました。生のかぶの滑らかな舌触りに、「カルピス」の華やかな香りがよく合うと思います。粒マスタードがアクセントになります。

 ですよ。
 これはと思って、カブのカルピス漬けも作ってしまった。皮剥いて8つに割ってカルピスとビネガーで一晩漬ける。ありえない。うまいです。たまりません。なんなのこの世界。
 カルピスは概ねサラドレに使えそう。これは、ランチ・ドレッシング(参照)の向こうを張って、カルピスで研究して売り出してたらいいんじゃないか。すでにあるのか? なくて、商品開発して失敗したら、お礼に私にくださいね。バカヤローのコメントをいただくことにも慣れていますし。
 レシピ集としてだけではなく、普通に本としても楽しい。カルピスの豆知識みたいな話もだし、昔のカルピスの写真も懐かしい。

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PART1「カルピス」を使って作るドリンク
<+フルーツ>いちごミルク・バナナジュース・マンゴーラッシーなど
<+野菜>ベジジュース・しょうがhotドリンク
<+ハーブ>ローズヒップティー
<+黒酢>hot黒酢
<+炭酸水>シュワッとキウイ・シトラスソーダ
<+アルコール>梅酒サワー・さわやかマッコリ・ハイボールホワイトなど
PART2「カルピス」を使って作る料理
<甘酸っぱさがぴったり!>特製タルタルチキン南蛮・のり巻き・春雨サラダなど
<コクがアップ!>カレー風味のポトフ・スペアリブ・ごま豆腐など
<まろやか味に!>みそマヨのホイル焼き・ぷりぷりえびチリ・オムレツなど
<カロリーひかえめ!>レモンポテトサラダ・さつまいものさわやか煮など
<同じ発酵食品だからぴったり!>豚キムチ・納豆パスタ
PART3「カルピス」を使って作るデザート
<生地に混ぜる>水玉ロールケーキ・レアチーズケーキなど
<シロップに混ぜる>フルーツポンチ
<ソースに混ぜる>バニラアイスのキャラメルがけ
<ゼラチンに混ぜる>さわやかババロア
<寒天に混ぜる>精進淡雪かん
PART4カルピス社の社員食堂
社員に人気の「カルピス」メニューBest10
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 各レシピには、さっきのかぶサラダの引用でもそうだけど、社員のカルピス歴が載っている。最長は50年とある。まあ、僕なんかもそのくらいの人生になりました、カルピスの社員ではないけど、と思って、そういう社員をきちんと抱えているカルピスの会社って偉いなとも思った。

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