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2011.06.18

[書評]高級シリコンスチームプチ鍋付き 簡単スイーツ&ヘルシー野菜レシピ50(メイコ・イワモト)

 シリコンスチーム付きの書籍やムックがいろいろ出ていて、こんな百均商品みたいなもんじゃねと思っていたのだけど、「高級シリコンスチームプチ鍋付き 簡単スイーツ&ヘルシー野菜レシピ50(メイコ・イワモト)」(参照)はけっこう優れ物でしたよ。最初に断っておくと、本体の鍋はかなり小さいです。幅13.5cm・高さ6.5cmで容量は250mlなので、だいたいお茶碗程度。アマゾンの評に小さくてだまされたぁみたいなコメントもあったかと思うけど、小さいです。そこがいいんだけど。そのまま食器にもなるし。

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高級シリコンスチームプチ鍋付き
簡単スイーツ&ヘルシー野菜レシピ50
 シリコンスチーマーなんて、ラップして電子レンジでチンするのと変わらないでしょ、かえってめんどうくさいだけじゃないかな、と思っていただけど、そこはそれ、酒も飲まない酔狂としては試してはみるか。と、試してみてびっくりした。すごい使えますよ。流行るわけだ。
 僕は料理というのに伝統主義志向があって人類が昔からやっていた加熱法がいいんだと思っていたのだけど、これ使って、そうでもないなあと思った。驚いた。電子レンジで加熱というより、短時間高熱で蒸す装置と考えたほうがいいかもしれない。そういうふうにみるなら、この調理法は中華料理の技法なんかと同じ。「スチーム中華(吉岡勝美)」(参照)にある高熱の蒸しも応用できる。しかも手軽に。
 とにかく呆れるほど素早く調理ができる。考えてみると中華セイロもそういう用途なんだろうと思うけど、電子レンジ使うからさらに早い。科学少年的に言うと、高周波エネルギーの照射時間とその後の蒸し時間の関係が直感的ではないので、使いこなしが多少難しいかもしれない。加熱後にどれだけ蒸すか(蓋をいつ開けるか)が仕上がりに影響する。
 でもそんな難しいこと考えなくてもそれなりに使っていくと慣れてきそうだ。別途購入したオーバルタイプのシリコンスチーマーだと、ちょうどポワッソニエール(西洋の魚調理鍋)にもなるし、実際ポワッソニエールとして利用できる。魚がふんわりしてうまいですぜ。シリコン容器は230℃まで耐熱性があるので、蒸し後にそのままオーブンに入れてもいいので、ちょっと水気を飛ばしたり、焼き目を付けたりもできる。
 該当の本のおまけのシリコンスチーマーの小鍋なんだけど、小さいのが便利。そしてデプスが適度にあるのがいい。シリコンスチーマーならすでに別のがあるので、さらにこんなの買っても使わないのではないかと当初思っていたが、これはこれでよくて、追加注文もしてしまった。そしてわかったこと。本体価格はこの本と同じ。本のほうがほとんどおまけなのでしょうね。
 今朝も朝食でココットを作った。冷蔵庫を見たら蒸した三枚肉の残りがあったのでそれを使ったけど、普通はベーコンでいい。キャベツの千切りにベーコンを載せて、塩こしょうして卵を落として、蓋して、500Wで2分チン。注意することは卵を落としたあと、楊枝でぷすっと黄身の部分を貫通させておくこと。でないと爆発するからね。ちなみにこのレシピは、該当の本にはないです。爆発させちゃう人を配慮したのかもしれない。爆発しても水素爆発とか派手なものでもないけど、

 卵の黄身は良い感じで半熟になる。ちらとウスターソースをかけたりしてもうまい。
 本の副題に「簡単スイーツ」とあるけど、お菓子の類もできる。簡単といえば簡単。ただ、作ってみるとちと難しい。これは初期の作品の、どっちかというと失敗作なんだけど、全工程、5分くらいでできる。

 その後は、レシピを改良して小麦粉とベーキングソーダを減らした。
 プリンもできるけど、満足いくものはまだできていない。まあ、それなりにできちゃうんで手軽でいいかあというのはあるけど、失敗すると責任で食べるわけで、ちょっとなあ。

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2011.06.17

パッションフルーツの「パッション」はキリストの受難

 パッションフルーツ(passion fruit)というと、その鮮烈な南国的な香りから、南国の情熱=パッションというイメージがわくかもしれないけど、この「パッション」の意味は、キリストの受難。知ってる人は知ってるかもしれないけど、知らない人は知らないかもしれないので、知らない人向けに雑談を。

 もともと英語の"passion"という言葉には「受難」という意味がある。受難というのは、「受験」が「試験を受ける」みたいに、「苦難を受ける」といった字面の感じがあってそれも間違いではないけど、キリスト教では、イエス・キリストが十字架に至り、こと切れるまでの苦痛を指している。
 ちらとウィキペディアを見たら(参照)、「受難(じゅなん、Passion)とは神学用語で、イエス・キリストの裁判と処刑における精神的および肉体的な苦痛のための言葉である」とあったが、裁判の前にも苦しみがある。ゲッセマネ園とか。このあたり、ジーザズクライスト・スーパースターとかでも絶唱していた。つらそうなんで、カール・ハインリッヒ・ブロッホは天使がイエスを慰める絵なんかも描いている。あー、そこの君、誤解しちゃいかん。

 バッハの「マタイ受難曲」も英語だと"St Matthew Passion"。ちなみに、マタイの受難ではなくて、マタイによる福音書が描くイエス・キリストの受難。
 語源を見ていくと、「情熱」よりもイエス・キリストの受難が先にありそうだ(参照)。
 話を戻して、なんでパッションフルーツが「受難の果実」なのかなのだが、これ、果実とは関係ない。花のほうが受難に関係していて、その実だからついでに、パッションフルーツというだけのこと。
 受難の花とは、いかなる花か。これね。ちと、ぐろい。

 なんじゃこりゃと思うような形状なんで、なんじゃこりゃと考え込んだ人々がいた。こう考えた(参照)。
 この写真だと見えづらいが、10個ある花弁と萼はイエスの使徒の象徴。ちょっと待て。12使徒じゃないの? そこはペテロとユダを除く、と。もにょもにょしている部分は、イエスのはめられた茨の冠。写真からは見えないけど子房は聖杯。そしてなによりよく見えている、上部の3つに分かれた部分がイエスを十字架に打ち付けた釘。さらにもう一つの釘と槍で5つの聖痕がその下の5つに分かれた部分。
 その解釈は無理すぎでしょと思うような話なんだが、15世紀のスペインなんだからしかたない。
 ところで、この3つの先端は、時計の短針・長針・分針に見えないこともない。12進数ではないが、花弁が時計の文字盤に見えないこともない。というわけで、この花は時計草とも言う。時計草の一種にパッションフルーツの"Passiflora edulis"があるいうのが正確。
 時計草の種類で他に面白いのは、"Passiflora incarnata"(参照)。パープルパッションフラワーとも言われているように紫色。鉄線みたいな印象もある。和名だとチャボトケイソウ。これがハーブ薬として利用されてきた。用途はというと精神安定らしい。効くのかよというところだが、研究した人がいて、それなりの効果はありそうだ(参照)。
 パッションフルーツを巡る雑談はこれでおしまいだが、なんでこれに関心もったかというと、沖縄暮らしでよく見たからだ。パッションフルーツは沖縄でよく作っている。ちょっと形の悪い実とかが直販店でたっぷり袋詰めで300円とかで売っていたのでよく買ってはジュースとかにしたものだった。実はペースト状なんだが種が多くて食いづらい。
 パッションフルーツの栽培農家以外に庭木として植えている家も少なくない。今年の夏はグリーンカーテンというのか、蔓の植物を植えて日差しを避けようという話もあるが、沖縄ではこれにゴーヤー以外でパッションフルーツがよく利用されている。
 内地でもパッションフルーツできつい日差しを避けるなんていうのもいいんじゃないか。花も面白いし、実がなったらジュースにもなるし。

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2011.06.16

世界中みんな大好きスパゲッティ

 スパゲッティが好きかと聞かれるとちょっと戸惑う。嫌いではない。ご飯と同じくらいは食べている。週に二、三度。すまん。僕はあんまりご飯は食べない。それでもミルキークイーンは5キロ単位で買っておくし、スパゲッティはディチェコを12キロ箱買いしている。カッペリーニもそう。ついでにいうとパンを作るために強力粉を10キロ単位で買っているし、パスタマシンでフェットチーネを作ることもある。冬眠前の小動物のように穀類を備蓄しているので、先日の大地震の際も水とガスがあれば当面食べ物に困るこということはなかった。
 好きだと耳元で言ってもいいんじゃないか、スパゲッティは。そんな気はしている。世界中みんなスパゲッティが大好きでもあるらしいし。15日のBBCにそんな話があった。「How pasta became the world's favourite food(いかにしてパスタは世界の好物となったか)」(参照)である。ブログのネタになりそうだ。こう始まる。


While not everyone knows the difference between farfalle, fettuccine and fusilli, many people have slurped over a bowl of spaghetti bolognese or tucked into a plate of lasagne.

「ファルファッレ」「フェットチーネ」「フジッリ」、その違いを誰もが知っているわけではないが、多くの人はミートスパゲッティをずるずると食べるし、ラザニアをおなかに詰め込むものだ。


 「ファルファッレ」は蝶の形のあれ。「フェットチーネ」は日本風に言えば、きしめん。「フジッリ」は螺旋状にねじったあれ。何故、かくも形が違うのか。ソースを絡ませるためというのもあるが、もっと本質的な答えは「アーリオオーリオのつくり方(片岡護)」(参照)に答えが書いてあった。
 BBCの記事中、「ミートスパゲッティ」と意訳したが、原文では"spaghetti bolognese"。スパゲッティ・ボロネーゼである。ミートスパゲッティと何が違うのか、僕は知らない。知っているのは、ソースのラグーは複数の肉を使うということくらいだ。
 読み進めると、え?という話もある。

Certainly in British households, spaghetti bolognese has been a regular feature of mealtimes since the 1960s. It's become a staple of children's diets, while a tuna-pasta-sweetcorn concoction can probably be credited with sustaining many students through their years at university.

実際英国の家庭ではミートスパゲッティは1960年代以降定番の一品となっている。スパゲッティは子どもの主食であるし、大学時代に学生が食いつないでいるものといえば、ツナコーンスパゲッティだろう。


 うかつにも「ツナコーンパスタ」なるものを知らなかった。ツナとスイートコーンが具になったスパゲッティだろうということは想像が付く。しかし、ソースは? ググってみたら、すぐにわかった。同じくBBCにレシピがあった。「Tuna pasta bake recipe」(参照)である。ペンネをホワイトソースに絡め、ツナとスイートコーンを入れて焼く。日本語でいうならグラタン。それならチキンのを僕もよく食べる。そういうものかと思ったら、日本だとファミマにツナコーンパスタなるものがあるらしい。ソースはわからない。
 BBCの話はそんな切り出し。面白いと思ったのは、スパゲッティが英国家庭に普及したのは1960年以降、比較的近年ということだ。振り返ってみると日本でもその頃のような気がする。
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アーリオ オーリオのつくり方
片岡護
 現在では、オックスファムによれば、世界中で、肉、米、ピザよりも多く食されているとのこと。順調に消費も進んでいるらしい。売上げで見ると、2003年に130億(£80億)米ドル、2010年に160億(£100億)米ドル、そして2015年までに190億(£120億)米ドルらしい。もっとも小麦粉の値上がりはあるだろうけど。
 世界中みんなスパゲッティ大好きというなら、どの国かベストテンか? 一人当たり年間26キログラム食べちゃうイタリアはもちろんとして、続くのは、12キログラムを平らげるベネズエラ。他、トップテンには11キログラムのチュニジアが入る。チリやペルーも入る。牛肉ばっかり食べていそうなアルゼンチンやメキシコでもパスタの消費は英国より多いらしい。ギリシアでも10.4キログラム、スイスでも9.7キログラム食べるらしい。
 なぜスパゲッティというかパスタが世界中で好まれるようになったのか。簡単で美味しいからというのはあるし、僕の食生活でもそうだが、備蓄が効くという理由も大きいようだ。それらを総合して判断すると、多少意外でもあったが、工業製品だからということになるらしい。小麦は農産物であるが、パスタは工業製品として製造され流通されるのが普及の強みということだ。
 BBCではパスタの歴史についても話が進んでいる。ローマ時代にも似たものがあったらしい。中国起源のように思われているがそうでもないらしい。
 現代のパスタの起源はというと、8世紀頃アラブ世界で発明され、シチリア島から普及したらしい。現代ではお安い食品だが、普及したころは高級食材でもあったそうだ。イタリアの歴史に登場したのは、1154年。日本で木曾義仲が生まれた年である。
 ナポリに普及したのは1700年代というから、イタリアでの普及はじんわりというところだったのではないか。また米国での普及は20世紀に入ってイタリア系移民によるらしい。
 パスタという小麦、とくにセモリナ粉から作られるのだが、スパゲッティの木になる実であると、BBCが1957年4月1日に報道して、国際的な話題になったことがあった。

 収穫の映像(参照)はなかなか興味深いものである。

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2011.06.14

[書評]続明暗(水村美苗)

 漱石の「明暗」(参照)をこのところ、二週間くらいかけてだろうか、のろのろと再読していた。電子ブックを使った。i文庫というモバイル端末向けアプリケーションに青空文庫のテキストを入れたものである。
 考えつつ、辞書を引きつつ読んだ。当初、さほど再読するつもりもなかったのだが、読み出したら引き込まれて止まらなかった。それでいて速読もできないという奇妙な塩梅だった。この小説は再読するとかくも面白いものかとあらためて思う。結末は既知である。結末がないことを知っているというべきかもしれない。だからこそ鏤められた伏線を読み解くパズルのような面白さがある。
 一昨日だがようやく読み終えて、上質の文学だけがもたらすある恍惚感に浸った。言葉にするのは無粋でありながら言葉にせずにはおれない衝迫性のあれである。
 清子の印象は大分変わった。彼女が由雄と付き合ったころは処女であり、そして肉体関係ということでは由雄が最初の男だったのだろう。であれば、この変容もあるだろうと意外にすんなりと理解するものがあった。露骨にいえば、関という第二の男とも交わって、初めての男である由雄の性の軽さを知ったということではないか。漱石文学にあるまじき下品な物言いになってしまうが、要するにそういうことなのではないか。いや、下品というならと少し逡巡する思いもあるが、浮き舟の物語と洒落れる趣向でもない。

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続明暗
(ちくま文庫)
水村美苗
 そういえばと水村美苗の「続明暗」(参照)も思い出した。前回文庫本で明暗を読んだ際、これをどうするものかと心にかかっていた。実は水村の同書は連載されていたころから、漱石好きの知人が大騒ぎをして勧められたことがある。さらに蓮實重彦が絶賛するに及んでは耐え難い東大型インテリ臭に辟易として、またこれかよとげんなりしたものだった。前回読後はそれでもと思ったが、幸いにしてか事実上絶版であった。今回見るとちくま文庫で復刻されている。潮時かと購入したら、震災から日の経つのを覚えるものだが、大きな紙の箱に収められてすぐにやってきた。翌日には読み始めた。
 これは面白い。取り憑かれたように半日で読み終えた。軽量な続編ということではない。精緻な筆致には率直なところ脱帽した。畏れ入りましたの類だ。今回丁寧に明暗を読み、気になっていた伏線はすべてに近くあたかも数学的に解かれていた。さらに旅先の二人の中年男女の描写は余技にしてはすばらしいものだった。そこが特に優れているというべきだろうか。用語や風俗についてはいうまでもない。ただし文体は仔細に読めば漱石に似て非なるものではあるし、不思議といえば不思議、不思議でないといえば不思議でもないののだが、続編にはおよそテーマというものがなかった。あるいは若い鬼才を感じさせる少女らしいこぎれいな達観と少女らしい悪意が端正に描かれていた。それは漱石の苦悩とは対極ものであるのだが。
 続編に漂う底知れぬ悪意の表出はすばらしかった。なるほど吉川夫人と清子はこのように決着を付けるほかはあるまいと納得するほどの鬼気が漂っていた。が、多少筆者も照れを感じてはいるあたりが知的偽物らしい骨頂といえるものだった。まあ、よい。
 まいったと思ったのは、関という男への度胸のよい解読である。漱石の明暗にある次の伏線に当たるものだ。当世でいえば泌尿器科であろうか、その薄暗い控え室で由雄は妹の夫と級友に出会ったことの回想である。

 この陰気な一群の人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろ華やかに彩られたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ち竦むようにして閉じ籠っているのである。
 津田は長椅子の肱掛に腕を載せて手を額にあてた。彼は黙祷を神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。
 その一人は事実彼の妹婿にほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚した。そんな事に対して比較的無頓着な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶に窮したらしかった。
 他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気に罹っているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、性と愛という問題についてむずかしい議論をした。
 妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりで後のなさそうに思えた友達と彼との間には、その後異常な結果が生れた。

 妹・秀子の夫については、それが秀子という人間の素性を暴露する背景として悲喜劇に描くのはよいとして、「友達」は大きな伏線である。「その後異常な結果が生れた」とは、つまり、彼が関であった。清子が由雄を捨てて得た夫である。
 そこまで読んでよいのかということにためらいがあったが無理な読みではない。由雄を捨てた清子の男は花柳病であった。淋病だろう。続ではこの伏線を大きい線で描いた。清子の流産もそのせいであろうと見ている。
 おそらくそうであろう。続ではそれ以上踏み込んでいないが、由雄とお延の結婚の半年という期間は、清子の流産までの時間を指してもいるのだろう。清子と関の肉体関係の悪魔的なクロノロジーであろう。清子は生理が途絶えたときに由雄を捨てたのではないか。だがそこまでは続も展開しない。
 さすがにそれが描ける枠組みはないが、続では生理の途絶については暗示しているとも言い難い。そこを暗示的にであれ描いてしまえば、続の物語ほどに清子は観念的な存在ではありえなくなる。清子にある種の精神的な勝利を飾らせてしまうこともできなくなる。私は、漱石が描こうとした清子には死を重ねて見ているから、そう思うのである。
 このねじれは、お延の扱いとも釣り合う。お延が旅先に現れ、そこで生死を賭けることには十分に伏線がある。ではどのようにお延が現れるのかというプロットは、作家の技量の内ではあるだろう。吉川夫人の立ち回りが必要かについては、水村の創作としての評価のうちではあろう。
 が、お延の憔悴と、取って付けたような達観は違うだろうし、そこには水村の意図もあるのだが、漱石の大きな文脈が見失われた。
 明暗の最終顛末は、その冒頭部に描かれているのだ。「小林」医師と対話は暗喩である。

「腸まで続いているとすると、癒りっこないんですか」
「そんな事はありません」
 医者は活溌にまた無雑作に津田の言葉を否定した。併せて彼の気分をも否定するごとくに。
「ただ今までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経っても肉の上りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思いにやるよりほかに仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
「切開です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然割かれた面の両側が癒着して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
 津田は黙って点頭いた。彼の傍には南側の窓下に据えられた洋卓の上に一台の顕微鏡が載っていた。医者と懇意な彼は先刻診察所へ這入った時、物珍らしさに、それを覗かせて貰ったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影ったように鮮やかに見える着色の葡萄状の細菌であった。
 津田は袴を穿いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇した。
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
 津田は思わず眉を寄せた。
「私のは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
 津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据えた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。診察た様子で分ります」

 漱石の書き残した顛末はこの暗喩に進むと思われるし、そこから書き残された伏線が大きく統制されている。
 由雄とお延の関係は、切開の後、自然に逢着するだろう。なぜなら、それは「結核性」ではないから。では、結核性は。おそらく清子のほうであろう。
 医師の「小林」がなぜ朝鮮行きの小林と同姓なのかは奇妙な符牒だが、吉川夫人も畢竟、手術という天然自然の営為に吸着されるものだろう。そう解するのは、漱石のなかで、なにか運命に立ち向かう巨大なヒューマニズムのような理念と情念がところどころ露出し、あまつさえ、小林の知人の原の手紙のような破綻まで引き出しているからだ。この逸脱するほどのエネルギーは、書かれたであろう顛末では、ある種の、水村が想定したような、「破綻」を起こしただろう。
 水村は伏線を不合理なく解くために旅先に秀子と小林を引き出している。小林を描きたい欲望に駆られるのは避けがたいが、秀子の役回りはすでに終わっているせいか、最終部の冗長さは読書を逆に重くする効果となっている。
 明暗を貫く、そもそもの病はどこに発したものなのか。由雄の理想であっただろうか。その功利であろうか。お延の理想と気丈な少女らしい夢想であろうか。
 私は、人の美醜にあるのだと思う。明暗のテーマは、人間の深淵を描いているようでいて、実は、人の美醜が必然的にもたらす愛憎というものの、その機械性が孕む悲劇を描いているのではないかと思っている。

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