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2011.06.08

[書評]働かないアリに意義がある(長谷川英祐)

 少し前になるが進化論関連の本で面白かったのは、「働かないアリに意義がある(長谷川英祐)」(参照)だった。昨年末に出された本書は、出版社側の売りの戦略や表題のせいもあるだろうが、ネットの書評などを見ていると一種のビジネス書のように受け止められているふうもある。本書の説明でも会社組織や人間社会の比喩がふんだんに使われていることからすると、それもあながち誤読と言えるものでもないだろうが。

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働かないアリに意義がある
長谷川英祐
 本書のテーマは、ハチやアリなど繁殖と労働を分離しコロニーという集団を形成する真社会性生物であり、その問題意識、つまり表題の「意義がある」とする意義についてだが、概ね進化論的な枠組みで問われる。
 進化論といえば当然、ネオダーウィニズムを指すのだが、ネオダーウィニズムの成否を問うというより、ネオダーウィニズムというのは「意義」を説明する叙述の方法論であって、その説明の妥当性が、真社会性生物のありかたにおいて問われることなるのだが、そこには興味深い未知の部分が存在する。言うまでもないことだが、それをもって進化論なりネオダーウィニズムが否定されるといった話ではない。
 以前「[書評]アリはなぜ、ちゃんと働くのか(デボラ・ゴードン)」(参照)に触れたが、真社会性生物の知のあり方が問われるという問題もある。本書では、「第1章 7割のアリは休んでる」「第2章 働かないアリはなぜ存在するのか?」で言及され、真社会性生物研究の入門的な役割と一般読者の関心を引く構成になっている。これはこれで面白い。
 中心的な課題は進化論的な説明だが、真社会性生物が進化論の枠組みで問われることには、ダーウィン以降の伝統がある。

 生物進化の大原則に「子どもをたくさん残せるある性質をもった個体は、その性質のおかげで子孫の数を増やし、最後には集団のなかには、その性質をもつものだけしかいなくなっていく」という法則性があります。「生存の確率を高め、次の世代の伝わる遺伝子の総量をできるだけ多く残したもののみが、将来残っていくことができる」とも言い換えられます。ところが真社会性生物のワーカーは多くの場合子どもをうまないので、「子孫を増やす」という右の法則とは矛盾する性質が進化してきた生物、ということになります。なぜそんな生物が存在するのか? この謎は進化論の提唱者チャールズ・ダーウィンが、自分の進化論を脅かす可能性があるとして、彼の著書『種の起源』のなかで紹介しています。この謎によって真社会性生物は、昔から生物学者の注目を集めていたのです。

 この言及の後、真社会性生物は意外と1980年代までハチ、アリ、シロアリくらいしか知られていなかった。が、アブラムシやネズミ、エビ、カブトムシ、カビなどにも見つかってきていると続く。真社会性生物の拡がりからすると、その社会性の原理性は、いわゆる進化系統図とは異なる進化のタイプ論を形成するだろうし、さらに言えば、タイプ論も進化の原理性に関わってくるといえる。本書は直接的な言及はないが、人間社会での比喩を多用していることから暗黙裡に、人間のあり方にもその影響を見ていると言っていいだろう。
 真社会性生物、とくにワーカーのように子孫を残さない個体を生み出した生物の進化を進化論(ネオダーウィニズム)でどのように説明するか? 私が子どものころに話題だったのは、ウィリアム・ドナルド・ハミルトン(William Donald Hamilton)による血縁選択説(Kin selection)だった。簡単にいえば、個体が自分の子を直接産むよりも、遺伝子を共有する血縁者を通したほうがより多く、自分の遺伝子を残せるというものだった。ハミルトンが当時影響力を持ったのはおそらくこれをハミルトン則として数式化した関係式で説明したせいもあるだろう。br-c>0、または移項して、C<BRともなる。

bが相手(女王)を助けることによって相手の生む子どものふえる量、rは自分と相手が遺伝子を共有している度合い(血縁度)、cが相手を助けなかった場合に自分が埋める子どもの数の変化分です。

 ようするに血縁の濃い女王を助けると自分の遺伝子も効果的に残せるというものだった。
 ところが、学説は巧妙に見えて、関係式が反証可能的ではない。単独性固体の適応度は計測できないのである。

ハミルトン則が登場して50年経ちますが、それが本当に現実の真社会性生物で成立していることを直接証明した研究は一つもありません。なぜできないのか? 理由はカンタン、真社会性生物で、単独で巣を営む個体が同じ集団内に共存しているものが見つからないからです。

 このあたりから本書の面白さが頂点になる。血縁選択説については、メスとされるワーカーの性比を通して間接的に説明され、いちおうめでたしめでたしではあるのだが、群選択との対比が持ち上がる。

 社会を作るということは、個体が集まってグループになることです。この場合、例えば2匹で協力して何かをやると、1匹でやるときの2倍以上の効率があがるとすれば、血縁選択上の利益がなくても協力する方向で生物は進化するはずです。

 血縁選択なのか群選択なのかという択一ではなく、血縁選択は働くだろうとしてそれが群選択より強いもののか、どの程度の進化的な要因なのかということが問われる。本書はその総合説に至る入り口までを議論している。
 本書の終盤は、働かない働きアリを通して、「適者生存」の意味を再吟味していく議論になる。この議論も面白い。

 実はこの「適者」というのがくせ者です。ダーウィンの理論には「何に対して適しているものが適者なのか」という定義がなされおらず、したがってどんな性質が進化してくるのかもこの理論だけでは決められないのです。

 もちろんそれでは科学にならないので「定常個体群」という考え方があり、理論内の整合はつくのだが、本書では、この条件が現実の自然界を意味しているかという研究はないという指摘がある。また、適応の未来のレンジはどこまでなのかという問題も提示してくる。

もしかすると、次世代の適応度に反応する遺伝子型と、遠い未来の適応度に反応する遺伝子の型がいまこの瞬間も、私たちの体内で競争しているのかもしれません。

 本書はその状態を科学にとって未知なものとして素直に受け止めることで締めている。それは誠実な科学者らしい態度でもあるなと感心した。

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2011.06.07

[書評]「進化論」を書き換える(池田清彦)

 「「進化論」を書き換える(池田清彦)」(参照)は3月に出た本だが、進化論がたまに話題なるネットでもさほど話題になってないような印象を受けた。内容がごく平凡だからというのがあるのだろうと思っていた。いまさらネオダーウィニズムを科学だとか言って持ち上げるのは、創造論やID論批判をしてダーウィニズムを唱道する一群のネットの変な人たちくらいでしょと思っていた。意外とそうでもないのかもしれないが。

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「進化論」を書き換える
池田清彦
 書名は誤解を招きやすい。進化論を書き換えて創造論やID論にするというわけでもなく、ダーウィニズムをラマルキズムにするという愉快な話でもない。ごく普通にネオダーウィニズムの破綻の整理と現在の進化論研究の雑駁なまとめであり、しいていえば、「ネオダーウィニズムを書き換えましょうかね」というくらいの雑談である。著者もそのくらいに理解しているようだ。

 表題は『「進化論」を書き換える』であるが、正確に言えば、進化論はすでに書き換えられつつある。但し、進化論を主導してきた主流派の学者たちは、つい最近まで、遺伝子の突然変異、親善選択、遺伝的浮動、というネオダーウィニズム的プロセスのみで進化のすべてを説明できると豪語していたので、ネオダーウィニズムの破綻が明らかになった今でも、ネオダーウィニズム的プロセスが進化の主因でそれ以外のプロセスはマイナーな原因だと言い張っているけどもね。

 現状としてはまだコントラバーシャル(controversial)と言えないこともないので、そのあたりは著者としての自覚があり、実際のところ本書を読んでも、それほどすっきりとネオダーウィニズムが破綻したと納得できるものでもない。
 ただ、論点がそう不明瞭なわけでもない。

 単細胞生物から多細胞生物へ、無脊椎動物から脊椎動物へ、魚類から四足動物へ、といった大きな進化はどのように起こるのか。ネオダーウィニズムは説明することができない。ネオダーウィニストも馬鹿ではないから、そのことは分かっているのだと思う。理論的に説明できないことを、正統だと言い張るためには、異論を政治的に弾圧する以外にない。一部のネオダーウィニストが批判に対して、ヒステリックな非難を浴びせたのは故ないことではないのだ。

 笑い。
 といったところだが、ネットの世界だとさらにひどくて、ダーウィニズムやネオダーウィニズムに疑念を持つと、先日私を石原都知事やメア氏擁護者だいうふうに湧いてきた一群の変な人たちみたいに、「こいつは創造論やID論の隠れ信奉者だ(本心はそうだ!とかね)」とかいう変な人たちがぞろっと湧いてくる。まあ、しかたないか。
 もう少しまじめに見えるなら、こういう問題でもある。

 ダーウィニンやネオダーウィニズムに至る自然選択を主因とする進化論が大進化の理論を考えることができなかったのは、形態形成システム自体の変更こそが、進化にとって最大の要因であることに思い至らなかったからだと思う。

 このあたりが、難しい。本書を読むとわかるが、ダーウィン自身はネオダーウィニストと同じことを考えていたのではない。むしろ、現在のネオダーウィニズムを超えた視座を時代の制約を受けながらも持っていたとも言える。また、ネオダーウィニズムにしても、むしろ方論的に形態ではなく遺伝子に焦点を当てていた。生物は遺伝子の乗り物だとかいう洒落とかも。
 科学的な転機がどこにあるのかという点から見るほうがよく、それはといえば、ファイロタイプの研究である。実際のこの分野の研究者は、さして進化論議論には関心ないのではないかという印象もあるが。

 近年の進化発生の進展に伴って、形態形成にとって最も重要なのは、遺伝子自体の変異というよりもむしろ、遺伝子たちを発生プロセスのどの部位でいつ使うかといった、遺伝子の使い回し方であることが分かってきた。科学は宗教ではないので、実証データをつきつけられれば、政治的な弾圧は不可能となる。
 突然変異と自然選択の積み重ねによって、進化は斬新的に起こるというスキームは、進化のごくマイナーな局面のみを説明できるマイナーな理論にすぎないことは、もはや誰の目にも明らかであろう。

 逆にいうと、ファイロタイプと形態形成が大進化の説明になるのだという発想もまたちょっと軽率というか、池田先生らしいおっちょこちょいかなという印象もある。
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動物進化形態学
倉谷滋
 本書は日本の一般読者対象なのか、この手の本にありがちな、「げげげ、注釈で本の厚みの三分の一のページですか」みたいな参照もなく、よって海外文献の参照もない。率直なところ、なんか日本人が面白いこと言っています、といったタイプの本にも見えるが、「動物進化形態学(倉谷滋)」(参照)の考察なども含めている。
 つまり仮説として見て面白いのは以下のような部分なのだ。

(前略)倉谷滋は、「淘汰(人為選択のこと。筆者注)が、本来の標準的経路とは違う別の発生経路へと切り替わるスイッチが入る閾値を下げ、そうやって新しく成立したゲノムでは、もはや環境刺激が必要ではなくなる」と述べている。問題は遺伝子のスイッチが入る閾値の低下が起こるメカニズムである。同書で倉谷が指摘するように、遺伝子的同化のメカニズムは、いまだにその全貌がつかめているとは言い難いが、倉谷は人為的選択が遺伝しの組み合わせをどんどん変えて、この新しい遺伝子型が環境刺激なしに自発的にスイッチをオンにすると考えているようだ。

 池田氏は、そして、こう夢想する。

 私は、環境刺激に応答し易い遺伝子(群)を人為的に選択していく過程で、遺伝子(群)の発現が細胞の解釈系を変更させて、これが次世代に伝わり、次いでこの解釈系が環境刺激のかわりに遺伝子(群)のスイッチを入れて、環境刺激の有無にかかわらず新しい形質が安定するという可能性も排除できないのではないかと思っている。

 ほぉと思う。面白いなと思う。が、反面、それってネオダーウィニズムと同じくらい弱い説明力しか現状持たないのではないかとも思う。彼もそれはうすうす懸念しているせいかこう比較する。

ここでの進化の風景は、遺伝子の突然変異が形質を変え、その形質が適応的ならば徐々に集団中に拡がり、その繰り返しで適応的形態が成立するといったネオダーウィニズム的なものとは全くことなる。環境が変化すると生物は環境刺激に応答可能な(すでに個体群のゲノム中に存在し、今までは眠っていた)遺伝子(群)を活性化させることによりまず先に表現型を作り、それが適応可能的ならば、この表現型を選択し続けることで、遺伝子の組み合わせを変更して、表現型を遺伝型に固定するのだ。

 私はこれを読みながら思ったのは、それってピアジェ(Jean Piaget)じゃん、ということだった。彼が晩年、実質的に生物学に回帰して構想したのがこのフレームワークでのネオダーウィニズム批判であり、これは私が学生時代に学んだものだった。が、もちろん、そのころは、ファイロタイプの研究があるわけでもないが。
 その意味で、こういうのもなんだが、池田氏の構造主義生物学とやらは結局ピアジェの構造主義に収斂してしまう。西欧では、あー、そういうのあるよねの一例でしかないのではないか。というか、こういうふうに進化論を議論してもさしたる進展でもないような気はする。
 それはそれとして。
 書籍としてつまり著作として見て本書が面白いのは、そういう最新研究の一風変わった解釈学よりも前半のダーウィニズムやネオダーウィニズムの歴史のまとめだろう。

 ダーウィンを神格化している後のネオダーウィニストたちは、ダーウィンのパンゲン説や獲得形質の遺伝説を、あたかもなかったように無視していることが多い。『種の起源』など読んだこともない大半の生物学者の中には、ダーウィンが獲得形質の遺伝を主張したことを知らない人もいる。中には獲得形質の遺伝説に反対したと思っている人すらいるらしいのだ。獲得形質の遺伝は長い間、進化論者のタブーだったから、教祖ダーウィンの間違いを隠蔽したい気持ちが強かったのであろう。

 このあたりも訓詁学はなんとでも言えるので、いろいろ愉快な議論はあるのだろうけど、神格化されるダーウィンという構図はさして変わらないので、概ね池田氏の批判は当たっている。
 むしろ次のような指摘に価値がある。ネオダーウィニズムが席巻した後の世界からすると、ええ?という印象すらあるかもしれないが。

 メンデル遺伝学の登場により、ダーウィンの進化論は一時的に凋落する。ダーウィンの進化論においては、変異は連続的であると想定されていた。連続的な変異に自然選択が作用して、十分な時間が経った後で大きな変化が起きる。しかし、メンデルの遺伝学においては、変異の原因は遺伝子(エレメント)という実体なので、遺伝子が変化すれば形は突然変化する。もし、突然の遺伝子の変化で形が大きく変われば、この進化(変化)に自然選択は必要ない。昔の生物学の教科書に、進化の機構として、自然選択と突然変異が、別々の仮説として同列に並べられていたのは理由があったのである。
 かくして、一九二〇年頃まで、ダーウィンの進化論は凋落の一途を辿ることになる。

 文献的に見ていくと、実際、ダーウィンの思想は一九二〇年頃までに埋もれている。これがあたかも復権したのは、ネオダーウィニズムの登場によるものであり、やや誇張した言い方をするとネオダーウィニズムがダーウィンを再・創造してしまった。
 本書を読んだ後、そういえばネオダーウィニズム自体はどう発生したのかと気になった。ネオダーウィニズムといえば、ネズミのしっぽを切り続けたアウグスト・ヴァイスマン(August Weismann、1834-1914)が想起されるが、彼自身は1914年には亡くなっており、さらにネオダーウィニズムという用語自体はジョージ・ロマネス(George John Romanes, 1848-1894)によるものだ。そのあたりの歴史的な整理も必要ではないかとは思った、が、というか、それより、実際の1920年代以降のいわゆるネオダーウィニズムは、自然選択と突然変異を理論的に統合したロナルド・フィッシャー(Ronald Fisher, 1890-1929)などが中心で、しかも彼はきちんとこの時代の優生学と重なっていることについて、しばし考えこんだ。
 ちょっと飛躍ではあるが、ネオダーウィニズムというのは、つい科学史的な流れで見てしまいがちだが、実際には1920年代の優生学と同じ思想の地平にあるあの時代特有の思想の一形態なのではないかな、と思ったのである。

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