« 2010年12月26日 - 2011年1月1日 | トップページ | 2011年1月9日 - 2011年1月15日 »

2011.01.08

[書評]英語流の説得力をもつ日本語文章の書き方(三浦順治)

 書名の「英語流の説得力をもつ日本語文章の書き方」だけ見ると多少奇妙な印象を受ける。英語なら説得力があり日本にはないのか、と思うかもしれない。そうではない。英米人が普通高校や大学で学ぶ、いわゆるテーマライティングの教科書であり、作文技術の本である。

cover
英語流の説得力をもつ
日本語文章の書き方
三浦順治
 名著「理科系の作文技術 (木下是雄)」(参照)をより体系的にした実践書とも言える。欧米人はこうした作文技術を学んで文章を書くから英語流の説得術が生まれる。それを日本語でも可能にするための教本が本書である。
 作文技術についてはほぼ決定的な書籍であるとも言ってよいだろう。日本の高校生や大学生、そしてできれば社会人も読んでおくとよいが、演習問題も付いたいわゆる教科書的な書籍なので、趣味で文章読本を読むという趣向には合わない。
 このジャンルの書籍としてはこのブログで昨年秋、「日本語作文術 (中公新書:野内良三)」(参照)を扱った。野内氏も仏文学者であったが、本書の著者三浦氏も英語学(英語教育)が専門であり、学問的に日本語を扱うプロパーではないが、むしろそうした言語差を意識できる人のほうがこうした分野にふさわしいのかもしれない。本書は、作文技術を包括的に扱うとともに、ふんだんに鏤められたコラムに顕著だが、日本語と英語の言語的な差違や言語慣習についての話も興味深い。書き言葉としての日本語を著者が深く検討しているため、ただ英語の作文の教科書を日本語にしたというものではない。
 しかし内容は概ね、欧米の作文の教科書に近いことは章目次からもわかるだろう。

第1章 これから必要な文章とは(心情的・情緒的書き方から論理的書き方へ;日本語と国際性を考える)
第2章 文(センテンス)を書く( 文(センテンス)の長さ
文の型 ほか)
第3章 段階(パラグラフ)を書く(段階(パラグラフ)
段階の中心である話題文(トピックセンテンス) ほか)
第4章 文章を書く(説得力をもつ文章の型;文章を書いてみよう)

 私も大学生のとき、"Writing As a Thinking Process(ary S. Lawrence)"(参照)を教科書にしたが、本書も欧米の作文教科書といった構成である。なお、こちらの英書だが初版が1996年となっており、そんなはずはないなと思って調べてみると、1975年版がある(参照)。定評のある教科書でもあるだろうし、内容も変わっているだろう。興味のある人にはお薦めしたい。他に、"The Elements of Style"(参照)も定番ではあるがこちらはあまりお薦めしない。内容が古く、現代に適さない。
 本書は作文技術の決定版ではないかと思うが、この分野の書籍をそれなりに読んだ人にとってはそれほどハッとさせられる斬新な見解はないかもしれない。ああ、それは知っているなという事柄は多い。ただ、そうした既知のノウハウをきちんと開陳した点は本書のメリットである。徹底性まではないものの、俗流の文章技術のノウハウ、例えば「短い文章がよい文章だ」といった話は、実証的に廃棄されている。単文がよい文章だと思っている人は稚拙な文章しか書けない。この点、本書では文章の長さは7±2の文節長がよいしているのは、なるほどと思える。
 点の打ち方についても、妥当な議論をしたのち小規模ながら実証的に考察し、結果、シンプルな指針として、5文節書いたら点を打ち、3点があれば丸とせよとしている。これも存外に現実的である。
 本来なら、こうした統計調査の研究がもっと進むと良いのだが、どうしても文章の書き方というのは名人芸のような要素が多分にあって難しい。本書は、そうではない部分をできるだけ体系的にしたということでもある。名人芸的な要素を必要とするいわゆるコラムやブログのエントリー向きの文章技術は、また別の領域ないし文学者の趣味の分野になるだろう。
 本書自身は明晰な意識で書かれているが、それでも隔靴掻痒感があった。アウトライン構成の技術が最終部分に置かれていることである。パラグラフ(段落)とトピック・センテンス(主題文)の関係を説明しないとアウトライン(目次構成)が説明できないというのもあるのかもしれないが、ある程度の量をもったテーマライティングの場合、手順としては、アウトラインが先行し、それをトピック・センテンスとしてリストし、さらにサポートの文章を枝分かれにする。そう、マインドマップ的な思考が先行するのだが、その部分の具体的な技術が詳細には描かれていない。
 また、文章技術の書籍であるから、文章で何を描くかについてどこまで扱うかは容易な問題ではないことはわかるが、そこにも微妙な論点がある。端的に言って、文章の良さについて、「説得力」あるいは「論理性」の他に、どうしても、「どうすれば文章は面白くなるのか」という議論に立ち入らざるをえない。この技術は修辞学と言ってしまえばそれまででもあるが、その扱いが難しい。本書も暗黙裏にその分野を扱い、多少混乱している印象がある。
 文章を書くというのは、結局のところ誰かに読んで貰うための営為であり、文章の良さが他の要素に先行してしまう面が大きい。しかも、それを決めるのは、実際に書き出すまでのプロセスよりもその前段である。ネタとヒネリとアウトラインでほぼ決まる。ネタさえ良ければ読まれる。ヒネリだけで芸にしているライターもいる。アウトラインはいわば舞台装置のようなものだ。
 と、持論を展開したくなるところが文章技術の罠でもあるだろう。その意味で、よい罠をしかけた本書には、表層からわかりづらい、官能的とも言える魅力もある。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.01.07

中国が模範とすべき日本の断念、ってか

 英国流初笑いというのかもしれない(そんなものがあるのかは知らないが)。5日付けフィナンシャルタイムズに掲載されたデイビッド・ピリング氏の寄稿「日本は、経済成長より大切なものが人生にはあると気づいた(Japan finds there is more to life than growth)」(参照)は笑えた。心地よくと言ってもいいのかもしれない。
 前口上は、あれである、BLOGOSとかに出てくるブロガーさんの口調みたいなものである。


Is Japan the most successful society in the world? Even the question is likely (all right, designed) to provoke ridicule and have you spluttering over your breakfast. The very notion flies in the face of everything we have heard about Japan’s economic stagnation, indebtedness and corporate decline.

日本は世界で最も成功した社会ではないのか? とかいう疑問を呈しただけで、バカ言ってんじゃないよと言われそうだし(ごもっとも、覚悟の上だ)、ご朝食の皆さん、味噌汁吹いてしまうかもしれない。日本経済の停滞や国家債務、企業の衰退について聞かされていることを思えば、とんでもない疑問である。

Ask a Korean, Hong Kong or US businessman what they think of Japan, and nine out of 10 will shake their head in sorrow, offering the sort of mournful look normally reserved for Bangladeshi flood victims. “It’s so sad what has happened to that country,” one prominent Singaporean diplomat told me recently. “They have just lost their way.”

韓国人のビジネスマンに聞いてみるがよい。香港人でも米国人でもよい。日本をどう思うかね、と。十中八九、バングラデシュ洪水の被災者に通常向けられるべき悲しげな顔で、もうダメだ、と首を横に振るだろう。「あの国に起きたことは、非常に残念なことだ」 私も著名なシンガポール外交員から、「彼ら日本人は迷子になっている」と聞いた。


 まあ、そんなところ。いやまあ、そう。じゃあ、ドローフォー。
 おっと待った。チャレンジ!(参照

If one starts from a different proposition, that the business of a state is to serve its own people, the picture looks rather different, even in the narrowest economic sense. Japan’s real performance has been masked by deflation and a stagnant population. But look at real per capita income - what people in the country actually care about - and things are far less bleak.

しかし国家の仕事とは国民に仕えることであるという観点に立てば、狭義の経済以外にも日本という絵の見方も変わってくる。日本の真価は、デフレと人口低迷で目眩ましされている。日本人が実際に気にしていることでもあるが、一人当たり国民所得を見れば、荒涼といったものではまるでない。


cover
企業メガ再編
新・日本型資本主義の幕開け
ポール シェアード
 そう、物は見方である。実体なんかどうでもいい。それだけでエントリ書いているブロガーだっているのだし。

By that measure, according to figures compiled by Paul Sheard, chief economist at Nomura, Japan has grown at an annual 0.3 per cent in the past five years. That may not sound like much. But the US is worse, with real per capita income rising 0.0 per cent over the same period. In the past decade, Japanese and US real per capita growth are evenly pegged, at 0.7 per cent a year. One has to go back 20 years for the US to do better – 1.4 per cent against 0.8 per cent. In Japan’s two decades of misery, American wealth creation has outpaced that of Japan, but not by much.

視点を変えて、米国野村証券グローバルチーフエコノミスト、ポール・シェアードがまとめた数値を見ると、過去5年間で言えば、日本人は一人当たり国民所得で過去5年間に年率0.3パーセント成長している。たいしたことないように思えるかもしれないが、米国はさらに劣り、同期間で見れば0パーセントである。過去10年で見ると、日米は総じて年間0.7パーセント成長している。日本の0.8パーセント成長に対して米国の1.4パーセントを誇っていたのは20年も前の話だ。20年に及ぶ日本の悲惨な時代、米国人の資産は日本人よりも増えたとはいえ、それほどのことはない。


 ほぉと感心しないでもないけど、デフレを補正してのことだろう。デフレによって富の高齢者への偏在があるから日本の若者は貧乏になったということではないかな。まあ、米国の富の偏在はまた違うだろうけど。
 かくしてピリング氏のお話は、日本の社会はどれだけすばらしいか、平均寿命は高い、犯罪率は低い、清潔だ、食文化が豊かだ、失業率は低いと毎度お馴染みの修辞が続くので割愛、なのだが、ちと笑える部分はというと。

In a thought-provoking article in The New York Times last year, Norihiro Kato, a professor of literature, suggested that Japan had entered a “post-growth era” in which the illusion of limitless expansion had given way to something more profound.

昨年ニューヨーク・タイムズに掲載された示唆深い記事で、加藤典洋早稲田大学文学部教授は、日本は「ポスト成長時代」に入ったのだと述べた。この時代では、無制限な拡張の幻想がより深みのあるものに置き換わるのである。


 加藤典洋先生らしいすね。

Patrick Smith, an expert on Asia, agrees that Japan is more of a model than a laggard. “They have overcome the impulse – and this is something where the Chinese need to catch up – to westernise radically as a necessity of modernisation.” Japan, more than any other non-western advanced nation, has preserved its culture and rhythms of life, he says.

アジア問題の専門家パトリック・スミス氏は、日本はダメな子というより模範であると認めている。「日本人は、近代化の必要性に付随して、西洋化したいという衝動を克服してきた。その境地こそ、中国人が追いつかなければならないものなのである」 日本は他のどの非西洋先進国よりも、自国文化での人生の過ごし方を守ってきた。


 いやはや、中国人に、日本人が「俺たちは西洋人にはなれないとの断念」を見習いなさい、と。すてきなお節、ごちそうさまでした。
 ほいでは締めの言葉を。

If the business of a state is to project economic vigour, then Japan is failing badly. But if it is to keep its citizens employed, safe, economically comfortable and living longer lives, it is not making such a terrible hash of things.

国家の仕事が経済活力の増進になるなら、日本はどん底まで落ちた状態である。しかし、日本がなんとか市民の雇用を維持し、社会を安全に保ち、経済的にも快適であり、長寿に暮らせるなら、それほどひどいことなったと、いうもんでもないんじゃないの。


 民主党の政権の希望の未来みたいだな。
 しかし、たわけた夢から覚めれば、日本国の立国とは経済である。軍オタがオタでしかないのは、日本では経済力こそが安全保障に代わるから。
 そのことを忘れるほど日本人が愚かなものなのか。そうでもないんじゃないかという夢のほうに私はたまに期待をかけているという点で、なかなか英国流のユーモアは身につかない。


| | コメント (3) | トラックバック (1)

2011.01.06

フィナンシャルタイムズ曰く、菅首相の税制改革の心意気や良し、されども……

 民主党の政治にまったく関心が向かない。鳩山(兄)さんや小沢さんが出てくるよりは、仙谷さんと菅さんのコンビでやるしかないんじゃないのと思うし、そもそも仙谷・菅内閣でできることにそれほど期待が持てるわけもないでしょう。嘘マニフェストぶちあげてしまたのだから、神妙に地味に政治をやってくださいなと思うのだが、そこもダメみたいだ。
 菅さん、社会保障と税の一体改革に「政治生命かける」 とか言い出したらしい(参照)。いや、誰も菅さんの「政治生命」を重視していないって。鳩山(兄)さんみたいに引退宣言を撤回するみたいなことになるんじゃないのくらいしか思っていない。補佐するはずの仙谷さん自身、全然重視してない。報道によっては「財政への危機感の深さで発言したと思う。自らの政治生命か、日本の沈没かというぐらいの決意だったのではないか」(参照)と大げさだが、実際は空言であったようだ。読売新聞「首相の政治生命発言で仙谷氏「責任に直結せず」」(参照)より。


仙谷官房長官は6日午前の記者会見で、菅首相が消費税を含む税制と社会保障制度の一体改革に「政治生命をかける」と発言したことについて、「危機感がそこまで深いという認識と覚悟(を示したもの)だと思う」と述べ、実現できなくても首相の政治責任には直結しないとの考えを示唆した。

 また時事「首相の政治責任問われず=「政治生命懸ける」発言-仙谷官房長官」(参照)ではこう。

 仙谷由人官房長官は6日午前の記者会見で、社会保障制度と消費税を含む税制の抜本改革に菅直人首相が「政治生命を懸ける」と発言したことに関し、首相が示した6月までに方向性を出すことができなくても、野党の対応によっては首相の政治責任は問われないとの認識を示した。
 仙谷長官は「(方向性を出すことが)できない理由による。(野党が与野党協議に)応じない理由が無理筋であれば、少々の猶予はいただける」と述べた。

 そんなところでしょ。
 とはいえ、社会保障と税の一体改革を熱心にするというのはいいことなんじゃないかとも思うのだが、これもようするにまたまた消費税ということらしい。産経新聞「首相「消費税、公務員改革に政治生命懸ける」」(参照)より。

 菅直人首相は5日、テレビ朝日番組に出演し、今後の社会保障制度改革に関し「消費税だけでなく、国民にある程度負担してもらっても、社会保障を安心できるものにする。政治生命を懸ける覚悟でやる」と述べ、消費税増税も含めた年金、医療、介護各制度の安定化に不退転の覚悟で取り組む考えを示した。

 とにかくなにより消費税ということで、ダメだなあ感がじんわりと染みてくる。
 というところで年始のフィナンシャルタイムズ社説が「Tax man Kan」(参照)であった。普通に読めば、「税の男、菅」でそのままなのだが、いまひとつダジャレのネタモトはよくわからない。ビートルズのTaxmanあたりだろうか。



Let me tell you how it will be;
There's one for you, nineteen for me.
'Cause I’m the taxman,
Yeah, I’m the taxman.

これからどうなるか、ご説明しましょう
あなたの取り分は1として、私が19
だって、私は、徴税人
いえい、私は、徴税人

Should five per cent appear too small,
Be thankful I don't take it all.

5%じゃ少なすぎませんか
感謝してくださいよ、全部取るわけじゃないんですから

(if you drive a car, car;) - I’ll tax the street;
(if you try to sit, sit;) - I’ll tax your seat;
(if you get too cold, cold;) - I’ll tax the heat;
(if you take a walk, walk;) - I'll tax your feet.

運転なさるなら、道路に課税
その席に座るなら、椅子に課税
風邪を引くなら、お熱に課税
歩いて行くなら、あんよに課税


 「税の男、菅」はそんなはずはないでしょう。
 フィナンシャルタイムズ社説もまずはあっぱれと褒めている。

Prime minister Naoto Kan used his new year press conference to call for cross-party dialogue on comprehensive reform of Japan’s tax system. It is not the first time a Japanese leader has broached tax reform: for years, the topic has been the subject of much talk but little action by Japan’s politicians – no doubt because it is often followed by poor election results. The prime minister deserves credit for continuing to push the issue.


菅直人首相は新年記者会見を使って、日本税制の包括的改革について超党派的な対話を求めた。日本のリーダーとして税制改革を切り出したのはこれが最初ということではない。何年間もこの話題は議論されたが、日本の政治家による行動はほとんどなかった。理由はといえば実際、この話題の後には惨めな選挙結果が出たからだ。菅首相がこの話題を推進し続けるなら称賛に値する。


 まずは、よいしょ、と。

Though tax rises should not be thoughtlessly inflicted on Japan’s stumbling recovery, it is clear that fiscal reform is imperative to put public finances on solid ground.

日本の経済回復が躓いているなか軽率な増税は避けるべきだが、財政を堅固にするためには、財政改革の必要は明白である。


 フィナンシャルタイムズ社説の言葉遣いが慎重なのは、結論から言えば、消費税はやめとけ、他の増税にしとけ、ということだ。

Japan has scope to tax more, but Mr Kan and his interlocutors must look for the changes that do the least damage. Taxes on wealth and savings should be considered: Tokyo is deep in debt but households and businesses are not. This may be politically difficult, but the private wealth of the Japanese is a fertile tax base. Taxing it could make them save less and spend more: just what the country needs.

日本にはまだ課税余地はあるが、菅氏とその対話者は、日本経済へのダメージを最小限にする変革が求められる。だから、財産と預金への税を考慮すべきである。日本政府は借金で首も回らないが、家計はそうではない。財産と預金への課税は政治的には難しいかもしれないが、日本人が保有する私的財産は肥沃な課税源である。財産と預金に課税することで、貯蓄を削減し支出を増やすことができる。これこそ、日本が必要としていることなのだ。


 まあ、ぶっちゃけて言えば、カネを溜め込んだ民間企業と高齢者富裕層がこれ以上、カネを溜め込んだままにせず、日本社会にカネを出すようにしろということだ。
 さらにぶっちゃけて言えば、これは、マイナス金利としてリフレ政策と同じ効果を持つ。
 「財務省に載せられて消費税なんて言ってんじゃねーよ、頭悪いなあ、菅首相」とかクチの悪いことを言っても社会的には通じないわけで、フィナンシャルタイムズ社説みたいに上手に英国流に言えるようになりたいものである、というのがブロガーとしての今年の目標である。


| | コメント (3) | トラックバック (1)

2011.01.05

毎度おなじみのUNO(ウノ)でチャレンジのルールをお忘れなく

 正月あれこれゲームをしていたのだが、まあ毎度同じみのUNO(ウノ)ということもあり、UNOかよ、アメリカ製のアホなゲームとか思っていたのだが、うかつにもチャレンジのルールを知らなかった。このルールを入れてみると、なるほど少し面白くはなった。知らなかったのは私だけでもなそうなんで、年末年始ネタついでに加えておこう。

cover
UNOカードゲーム
 UNOというカードゲームをやったことのない人はないんじゃないか。なのでプレイ方法の説明は省略。対象年齢は7才以上。つまり小学生ならできる。幼稚園の年長さんでもできるのではないか。ごく簡単なゲームだし、私は沖縄でよくやったものだったが(参照)、特にルールを意識したことはなかった。こんなゲームにルールなんかあるのか、とすら思っていた。違った。ルールはある。チャレンジのルールを知らなかった。
 話をおじゃんにしてしまうが、UNOを日本で販売しているマテル・インターナショナル株式会社による小中学生のUNO大会のルール(参照)を見ると、チャレンジのルールはない。だからなくても別にいいんじゃないかとも言える。
 まあ、でも、ある。
 チャレンジのルールはワイルドドロー4(フォー)通称ドローフォーに関連している。
 ドローフォーだが、これ出ると、次の番の人が山札から4枚引く(ドローする)ことになる。そして、場のカードの色は赤・青・緑・黄色から好きな色に決めることができる、ということなのだが、これには前提のルールがある。ドローフォーのカードが出せるのは、手札の色に場の色がないときに限定されるということだ。状況的には、「困ったな出せるカードがないじゃないか、おや、ドローフォーがあるからこれを出すしかないか」ということだ。
 ここでドローフォーを食らった次の番の人のことを考えてみてほしい。「こいつ、本当に、ドローフォーしか出せなかったのか? 場の色のカードを手札に持っているのに、嘘こいて、ドローフォー出したんじゃないのか。疑惑……」というとき、チャレンジ! つまり、「おまえが嘘こいているに俺は賭ける!」ということ。
 結果、嘘がバレて、場の色と同じ色のカードを持っているなら、嘘の罰として、ドローフォーを出した人が山札から4枚引くことになる。
 ところが、嘘じゃなかった、疑ったオイラが悪かったというときは、チャレンジした人は、罰則の2枚を加えて山札から合計6枚引くことになる。
 これがチャレンジのルールだ。
 面白いなと思ったのは、このルールを加えると、実際のところ、ドローフォーについては、嘘をついてもかまわないということだ。つまり、チャレンジを受ける覚悟なら嘘こいてもよいのである。これにはちょっと感心した。面白いじゃないか。
 ついでに言うと、どうやら最後の1枚になったら「ウノ!」と言えというのも、厳密なルールというより、バレなければ黙っていてもかまわないという類のルールのようだ。
 バレなければ嘘こいてもかまわないが実質ルールに含まれているというのは、なんだかアメリカらしいなと思うし、やってみるとこれが面白さを増やす。
 実際にどういうふうになるのか、iPhoneアプリのUNOのゲームで検証もしてみた。このアプリだと、チャレンジはUNO宣言したい人にもチャレンジできるとあるが、これはUNOと言わなかったらというケースである。
 以上でUNOのチャレンジのルールの話は終わりだが、iPhoneアプリを見ていると、大富豪みたいにローカルルール(ハウスルール)がいくつかあり設定できた。まあ、そんなものでしょ。沖縄でやったときは、出せる手札が無ければ、出せるまで山札からカードを引くというルールがあり、あっという間に手札が膨れたものだが、これもローカルルールだった。正しくは1枚引くだけ。
 厳密なルールはどうなってんのかというのも気になって調べてみたが、よくわからない。概ね、ドローフォーのチャレンジのルールは正式としてよさそうだ。
 その他、ネットを見ると日本ウノ協会の「本当は知らないUNOのルール」(参照)というルールの話があるが、日本ウノ協会公認がどういう意味を持つのかよくわからないのでなんとも言いがたい。このサイト「真説! UNO史」(参照)というヘンテコな話もあり困惑する。
 言うまでもないが、UNOはトランプのクレージー・エイツ(Crazy Eights)というゲームの系統を元に、スーツを色にデザインしなおしたものだ。松田道弘の「楽しくはじめるトランプ入門」(参照)にクレージー・エイツ系のスイッチが載っているが、よく似ている。そういえば、この手の話は以前にも書いたことがあるが(参照)、いま一つわからないものだな。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2011.01.04

[書評]近江から日本史を読み直す(今谷明)

 年末の28日、古代史関連の話の連想ではあったが、ツイッターでこんなことをつぶやいた(参照)。


近江というところはほんと変なところだった。近江から日本史を編纂しなおさなければならんくらい重要なのではないかと思われるわりに、ほぼ無視されている印象。

cover
近江から日本史を
読み直す
今谷明
 すると、いろいろ返信をいただいた。そのなかに、すでにそういう本がありますよと、本書「近江から日本史を読み直す(今谷明)」(参照)を薦められ、即ぽちっと購入して正月、興味を持って読んでみた。日本史を近江から描いてみたいと思う人はいるものだなというのと、読んでみると、この土地の歴史は実に奥深いものだと思った。
 本書は、2005年から2007年、産経新聞の関西版に「近江時空散歩」と題して全60回連載された紀行文を、通史的に年代順に再編集したものらしい。読後感も、通史という視点より、現地を丹念に見て回る紀行文の延長という印象が強い。司馬遼太郎の「街道をゆく〈24〉近江・奈良散歩」(参照)も連想されるが、こちらの書物は司馬ならではの直感が満ちあふれている。私自身はこちらの書物を携えて、若い頃この土地をよく歩き回ったものだった。
 本書の通史的な構成はこうなっている。

第1章 古代
 “新王朝”継体天皇から聖徳太子へ/白村江の戦いが残したもの/壬申の乱、そして奈良朝
第2章 中古
 日本仏教の母山/最澄の後継者・円仁/天台仏教の星座/山岳仏教と浄土教/甲賀大工と寺社建築
第3章 中世(1)
 武家の擡頭と叡山/中世の民衆たち/南北朝・室町期の寺社/山門の全盛と一向宗の興隆
第4章 中世(2)
 中世の村落自治と近江商人/応仁の乱後の近江/戦国大名・浅井氏の盛衰
第5章 安土桃山期
 信長の天下布武/本能寺の変の陰で/秀吉、天下人への道/天下分け目の関ケ原
第6章 近世・近代
 名匠と文人たち/世界を舞台にした近江人/ゆらぐ幕藩体制/近代社会への脱皮

 率直に言うと、近江から見た日本史通史というより、日本史の通史側から近江が関連している挿話を切り出して貼り合わせたような印象もあり、独自の通史的な視点はそれほど顕著ではない。前半の古代まわりから読んだときは、新説への配慮には史学者らしいバランスのある筆致がありさすがだとは思ったが、やや退屈な印象もあった。
 これが中世以降になるとスリリングな展開になる。やはり中世史家としての面目躍如といったところだろう。さりげなくハッとさせらる記述がある。例えばこれなど。

 鎌倉新仏教の諸宗教は教科書にも大きく扱われるが、現実の中世社会にその宗派が力を持つのは、栄西の臨済宗を除けば二百年以上経過した応仁の乱の後である。

 そんなことは当たり前だという人もいるだろうが、応仁の乱をさりげなく出している点にきらめきがある。あの末法図のような世界でこれらの仏教が興隆してきたものだった。本書ではそれほど大きく描いてないが、この新仏教信者の背景にはさらに産業形態の変化もある。
 本書の中世への視点の重視で、さすがだと思ったのは、特に坂本という土地への注目である。

(前略)古代・中世には、この湖水は一大交通機能の役割を果たした。北陸の物資は塩津まで運ばれて湖水を一気に航して坂本に陸揚げされた。日本で最初の米市場は近江の坂本に置かれた。これは、東国・湖東の物資が坂本に集中し、その後、大消費地である京都に向かったことを表している。また、坂本は叡山の門前町であり、中世には物流経済を叡山の山僧が動かしていたことも示す。

cover
街道をゆく〈24〉
近江・奈良散歩
司馬 遼太郎
 まさにここが近江坂本の面白いところだ。
 近江の人や京都の人は当然知っているだろうが、坂本からはケーブルで叡山に上ることができる。私はこの始発で叡山に行った旅を懐かしく思う。皆さんにも、一泊二日で初日園城寺を見て、翌日は坂本から叡山を訪ね、京都に下るという旅をお勧めしたい。
 近江には、旅で巡りたいところがいろいろある。近江八幡から水郷めぐりもよかった。安土も懐かしい。そして五個荘もその一つだ。本書では近江商人の歴史的な背景についても触れられている。
 近江商人に関連してここでもハッとさせらる話がさりげなくあった。近世になるが北海道に関連していた。これは琉球にも関連していく。

 近江の商人が松前、江差に入った時期は、江戸前期の寛永年間(一六二四~四四)といわれ、そのほとんどがが近江八幡、柳川、薩摩の出身者で占められていたという(以上、サンライズ出版『近江商人と北前船』)。
 蠣崎慶広は豊臣秀吉、徳川家康から松前領を安堵され、蝦夷地の支配権を獲得したが、しょきにはアイヌに対する苛政が目立ち、十七世紀にはシャクシャインの反乱が起こった。その後、場所請負制度が敷かれると、松前藩士の知行地である漁場を両浜商人が借りる形で経営を行うようになった。商人は獲得された干鱈、干鰯、白子、昆布、ワカメなどを上方に送り、米穀は衣料をアイヌに給した。漁場の開拓と漁法の改良は商人が主導したもので、蝦夷地の開発は近江商人が担っていたといっても過言ではない。

 その後、蝦夷地は直轄され近江商人は引くことになるのだが、このやりかたこそ、実は日本の面目躍如といったところだろう。
 本書ではうかつにも知らないでうなったことが多いが、近藤重蔵の晩年が近江の地であったこともその一つだ。息子富蔵の一件もあり、近藤重蔵は大溝藩(現在の滋賀県高島市勝野)へ流刑となった。この親子についてはもっと知りたいと思っていたのだった。
 また、芭蕉の師、季吟がこの地の人であった。芭蕉はそう呼ばれるし、自身もそう記してはいるが、号は「桃青」でありこの地で立った人でもあった。
 そういえば今年の大河ドラマは「江~姫たちの戦国」(参照)ということらしい。崇源院の物語である。たぶん、私も見るだろうと思う。「江」の名の由来には諸説あるが、私は、「近江」の「江」であろうと思う。


| | コメント (1) | トラックバック (1)

2011.01.02

[書評]いまこそルソーを読み直す(仲正昌樹)

 ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)については、翻訳だが私もそれなりに主要原典を読んできた。カントのように「エミール」(参照上巻参照中巻参照下巻)には一種の衝撃も受けた。これは難しい書物ではない。先入観なしに誰でも読むことができる。長編の割に読みやすく、おそらく読んだ人誰もが人生観に影響を受けるだろう。特に娘をもった父親には影響が大だろう。他、「告白」(参照上巻参照中巻参照下巻)は、ツイッターで元夫の不倫をばらすような近代人の猥雑さが堪能できる奇書でもある。
 そして、と紹介していくのもなんだが、私はこうしたルソー本人への関心と、政治哲学の基礎文献でもある「人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)」(参照)や「社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)」(参照)などの理解とは旨く像が結びつかない。前者の人文学者としてのルソーへの共感と、後者の法学や市民社会の基礎哲学の理解とは一応分けてはいるものの、当然ながら、ルソーという一人の人間の思想として見るなら矛盾してしまう。おそらくこれらを無理に併置し統合させようとして読むなら思想的な混乱に至るだろう。

cover
今こそルソーを読み直す
仲正昌樹
 仲正昌樹「今こそルソーを読み直す (生活人新書333)」はまさにその矛盾をそのまま受容しつつ、人文学者的なルソー観よりも、法学や市民社会の基礎哲学者としてのルソーを現代的な文脈で描き出している。
 その筆致が成功しているかというと微妙なところだ。本書は仲正氏の他書のような明晰性はそれほどには際立ってはいない。逆に意外なほど仲正氏という思索者の内面を結果的に照らし出しているようにも読める。巧妙にルソーの罠を避けながらそこに落ちたとも読める。が、それも意図的な結果でもあるのかもしれない。
 現代日本の政治思想の文脈でいえば、本書は、ロールズ、アーレント、デリダというあたりで再考されるルソー像の整理になっているので、こうした文脈、さらにいえば、「一般意志」という概念の再考を考える人にとっては面白い本だとは言えるし、そこが本書の売りとも言えるだろう。
 しかし私はといえば、現代日本の思想界とかには関心なく、依然日本国憲法とは何なのかという問題に固執しており、その原理性としてのルソーの政治哲学の整理に役立った。僭越なこと言うと、著者仲正氏はルソーの哲学が日本国憲法と深く関連しているという認識はそれほどないか、本書では秘されているか、あるいは日本国憲法そのものをただの形骸と見ているか、いずれにせよ日本国憲法とルソー思想の関連という観点は重視されていない。
 「一般意志」という文脈で今日提出されているルソー的な問題は、しかしながら、いたって簡単な形をしていて、本書も明確に描き出している。以下、引用部分の太字は本書のまま。

言い換えれば、私個人の自由を重視する「自由主義」と、私たち全員参加で決めることを原則とする「民主主義」がどのように理論的に結合しえるか、という問題だ。

 単純であり、かつ難問である。これに対してルソーの答えはこうである。

ルソーは、「社会契約」という最初の合意で定められた規約に従って成立する”私たちみんなの意志”としての「一般意志」という概念を導入することで、個人の自立と集団的自己統治、自由主義と民主主義を融合しようとしたわけである。

 そのソリューション案である「一般意志」とは何かが問われる。
 ということだが、補足すると問われているというのはあくまで形式的ないし議論上の手続きであって、日本国憲法についてはすでにそのような社会契約の一例であり、すでにそのような一般意志が日本に存在するということが、現実の日本という国の前提なのである。
 では、一般意志(volonté générale)とは何か。ルソーはどのように考えているか。
 ルソー自身がそれを明確にするための対比として持ち出したのが全体意志(volonté de tous)である。
 全体意志は、個人や、政党などの党派による各種の利害達成を目論む特殊意志(volonté particulière)の総和のことである。
 これに対して一般意志は、社会契約説に基づき、「常に公正で、公共の利益を目指す」ものである。
 実際のところ総和である全体意志は、その内部に利害の矛盾を含むので一つの意志としては機能しづらいし、整合性のある政策も導出できなければ、行政の主体ともなりづらい。しいて統一性を求めるなら党派で権力闘争するか、多数決で押し切るしかない。
 これに対して一般意志はどのように成立するのか。

 一般意志は、私的利害間の機械的な算術から生まれてくるのではなく、「熟慮=討議déliberation」を経て見出された「共通の利害」を基点として構成されるのである。逆にいうと、十分な熟慮を経ていないがゆえに、共通の利害がはっきりした形で見出されていなかったら、完全な一般意志は創出されれず、人民の決議は誤ることになる。

 いうまでもなく、この「熟慮=討議déliberation」は情報技術といったものによって効率化されたり改善されるものではない(情報技術そのものに一般意志化する傾向があるとしても)。

 人民の討議に際して重要なのは、人民の中に、「部分的社会」とも言うべき「徒党」や「分的結社」が形成されていないことである。

 日本の現状想起するとこの点でいかに民主党がルソー的な民主主義から逸脱していることがわかる。鳩山政権における強行採決の連発も顕著だったが、特に小沢氏の政治理念・実践はルソー的な民主主義の対極にあることが政権を取らせてから暴露された。「国民の生活が大切」と言いつつ、実際の政権を得たときには特定党派の利益を優先しようとした(あるいは一般意志を偽装した)。議会よりも党を上位に立てようとしたのである。これはどちらかというと民主憲法をもたない中国共産党の政治モデルである。
 民主党がいかにルソー的な民主主義から逸脱しているといっても、そもそも民主主義がイコール、ルソーの一般意志論とは言い難いという非難もあるかもしれない。だが、おそらくそれは無効だろう。日本国憲法自体がルソーの一般意志論を基点を共有しているからだ。
 それでもルソーの一般意志論自体には難点があり、ルソーも意識している。社会契約といっても、その基点が明瞭ではないことだ。

 人為的に新しい国家・人民を作り上げるチャンスが与えられたとしても、いかなる強制も偽りも含まない、純粋な「始まり」の瞬間を獲得することはほぼ不可能だ。

 ルソーはそこで、人民の合意を根拠として国家の存在と法に基づく統治の正統性について、擬似的な宗教である市民宗教(la religion civile)を想定する。これは強いていえば国家とは宗教であるということだ。
 このルソーの市民宗教については仲正氏はアイロニーの可能性を見ている。

ルソー自身が「神々」を召還しようとしたというよりも、さまざまな外観を帯びた「神々」の助けがなければ、正統性を主張できない近代的な「政治」の矛盾をアイロニカルに表現してみせただけかもしれない。

 ここが思想の岐路である。
 アーレントはおそらくここにアイロニーを読んでいない。またアイロニーと読む仲正氏は、一般意志を法人としての人格として読みながらも、実際には機能的な理解を示している。

 しかしながら、「共同的自我」や「公的人格」を、形而上学的な実体ではなく、あくまでも「人民」というフィクションを機能させるための形式的な条件のようなものだと見なせば、一般意志論にそうした全体主義的なニュアンスを読み込む必要はなくなる。私(=仲正)は、そう理解すべきだと考えている。

 私はそう考えていない。
 私はルソーの政治哲学には根幹的な矛盾があると考えている。国家の公的人格性はその矛盾の必然的な帰結であろう。
 簡単に言えば、一般意志は国家の共同体幻想として、むしろ国民に対しては実体的に先行して存在する。私たちはまず日本国民として生まれ、そこで社会契約の恩恵を先行して強制的に授かる。市民は、それが疎外した幻想体である国家幻想と同時に誕生する。
 この疎外された共同幻想の問題がルソーの政治哲学に胚胎していることは、本書の仲正氏もにも直感されている。

 ルソーの思考のユニークさは、内面とは異なる「外観」にすぎないはずのものが、我々の習俗の中にしっかりと定着し、人々の振るまいを―少なくとも表面的には―画一化させ、「社会」を構成している、という発想にある。

 国家の共同幻想の疎外性と先行性からルソー思想の持つ本質的な危険性も明確になる。それはルソーが一般意志の成立に対して、人間の基本性の全的な譲渡を言い出す点にある。一般意志が徹底した討議を経るとしても、最終的にそれは何によって保証されるのか。

 そこでルソーは、「各構成員をその全ての権利とともに、共同体の全体に対して、全面的に譲渡する」ことにしたらどうか、と提案する。各人が自己保存のために、(自然状態で持っている)権利を共同体に譲渡するというだけの議論であれば、ホッブスの社会契約論と大差はない。しかし、それはルソーの議論ではない。彼は、構成員となる人は、権利だけではなく、自分自身をも譲渡すべきだと主張する。


(前略)ルソーは、特定の誰かにではなく、共同体全体に対して譲渡すべきだと主張する。しかも、全員がそうべきだとと主張する。

 仲正氏はアーレントによるルソー論を熟知していながら、あるいはそれゆえにか、この問題については、一般的な全体主義への危険性の文脈としてしか議論していない。
 リバタリアンである私にとっては、ここが思想の急所である。私はこの問題は、死刑根拠の偽装であると考えている。死刑を所有している国家はそれ自体が、市民が自身を全的にすでに譲渡した結果ではないかと考えるからだ。
 共同幻想の成立がルソー的な自然論からは倒錯した手順になるように、死刑においても手順は逆にならざるをえない。死刑の是認として市民の全的な譲渡が先行しているのである。
 ただし日本国憲法について言えば、形式的にはルソー的な譲渡はなく、ホッブス的な信託となっており、一般意志を体現したものも国家そのもではなく、政府として切り分けられている。日本国民は実質的な革命権を保有しており、敗戦とはその行使であったというフィクションから日本国憲法が成立しているからだ。
 その意味では(一般意志への全的な譲渡が日本国憲法では形式的に存在しないため)、日本国はルソー的な民主主義そのものではない。だが死刑を内在している限り、そこにこっそりと市民の全的な譲渡を求める一般意志も内在してもいる。
 しかもその根拠性である共同幻想の宗教性は第一条の天皇によって象徴されている。
 ここに日本の逆説もある。
 ホッブスやルソーのような社会契約的な理路の性格の弱い共同幻想としての日本国家、あるいは天皇による市民宗教という擬制が、現実的には日本がルソー的な思想の帰結としての全体主義に陥ることを防いできた。日本の戦争は全体主義の結果ではなく、一般意志を失った党派のカタストロフであり、ゆえに市民宗教としての天皇が最終的に機能することで敗戦が可能になった。
 さらに戦後の日本は、その擬制的な矛盾が、内在において強固な伝統宗教的な社会と実質的にはそれに準じる規範を持ちつつ、憲法上はルソー的な民主主義(死刑を内在した国家)とホッブス・ロック的な民主主義(政府は信託でしかない)を掲げている矛盾と調和してきた。つまり、日本人は誰も共同幻想の意味合いでは、憲法を空文としてしか理解していない。
 むしろこのように矛盾した伝統宗教的な社会である日本に対して、それを全体主義として敵視する人々が信奉してきた社会主義・共産主義、あるいは共和制度のほうが、独裁と全体主義を導いてきた。
 では、日本国はこの矛盾のままでよいのか。あるいは、ホッブやロック的な英米的な民主主義に純化させるか。それとも、ルソー思想的であるがゆえに危険な民主主義をより安全な民主主義として救出するか。
 ルソー思想的な民主主義を選ぶのであれば、多少の現実的な矛盾を抱えつつも、徹底的な討議の可能性を持つ煩瑣な意志決定の仕組みと、それが公的な分野に限定されるべきだとして市民が私的領域を確固として守る健全なリバタリニズムが必要になるだろう。
 そしてそれには、靖国や天皇を問うといった問題化が公を偽装して私的な領域に踏み込むような形で政治性を持たせようとする思考も廃棄すべきだということも含まれる。


| | コメント (3) | トラックバック (0)

« 2010年12月26日 - 2011年1月1日 | トップページ | 2011年1月9日 - 2011年1月15日 »