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2011.12.06

[書評]さむらいウィリアム 三浦按針の生きた時代(ジャイルズ・ミルトン)

 本書「さむらいウィリアム 三浦按針の生きた時代」(参照)のメインタイトルはオリジナル「Samurai William: The Adventurer Who Unlocked Japan」(参照)のメインタイトルをそのまま受け、江戸という時代が築かれようとする時代に、英国人でありながら日本のサムライ(旗本)となったウイリアム・アダムス(William Adams)、日本名・三浦按針に焦点を当てている。

cover
さむらいウィリアム
三浦按針の生きた時代
ジャイルズ・ミルトン
 だが、白石一郎が三浦按針を主人公に描いた歴史小説「航海者―三浦按針の生涯」(参照)のような、フィクションを交えた、その生涯の物語描写とは異なる。かなり違うと言っていい。
 本書は、三浦按針に主軸を置きながらも、邦題の副題が示すように「三浦按針の生きた時代」という時代そのものを描き出している。実際のところ、ウイットに富む小説的な叙述の形式を取っているが、描き出す手法は正統の歴史学に近い。本書は、オリジナルの副題が示すように、西欧にとって未知の国であった日本をこじ開け、日本とはどのような近世の幕開けを持つ国かを開示してくる。
 繰り返すが、三浦按針の生涯の全貌が本書でわかるというものでもない。だが、按針の生涯への関心は欧米でも高い。オリジナルについた米国アマゾン評などからもうかがわれる。
 欧米人が按針に関心を持つのは、英国人がサムライになったという歴史の奇譚もだが、1980年に米国で放映されたテレビドラマ「将軍 SHOGUN」(参照)の主人公ジョン・ブラックソーン(John Blackthorne)のモデルとされているためだろう。
 本書は作者がジャイルズ・ミルトンであることからわかるように、彼が大航海時代の側面を描いた「スパイス戦争―大航海時代の冒険者たち」(参照)の続編または外伝といった趣きも強い。ポルトガル、イギリス、オランダの争いや東南アジアでの交易や香辛料の話は本書にも多く描かれている。だが本書の特徴は、交易より宗教、つまりイエズス会やフランシスコ会などカトリックと、日本を含めて展開されるイギリスやオランダなどプロテスタントの争いが興味深い。
 本書の前半は、按針が日本に至るまでの地獄のような航路のようすが史実にそって描かれる。よくこの悲惨を按針や、八重洲の地名の元になるヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteijn)が生き延びて日本に到達したものだと感嘆するとともに、歴史というものの不思議さも思わざるをえない。
 そして按針の幸運もだが、彼を見出して重臣とする徳川家康の、人物を見抜く人間的な力量にもあらためて驚嘆する。按針は大きく日本の歴史の方向を変えるのだが、その決定的な要因は家康にある。そのようすも本書が実に説得的に描いている。また、秀忠も狡猾な人物として印象深く描かれている。
 本書の後半は、大航海時代の東アジアの交易と日本の関わりに焦点が置かれ、ともすれば按針は脇役か、あたかも歴史の、重要だが小さな歯車のようにしか登場しない。代わりに、煮ても焼いても食えないような愚劣な英国人群像が登場する。
 率直なところ、この道徳観も持ち合わせないような人々が繰り広げるスラップスティックはなんなのだろうといぶかしくすら思える。しかも引き起こされる事件の尻ぬぐいは毎度、按針の役どころである。この経緯のなかで按針はまさに日本人のなかの日本人のようにも見えてくるのは、ペーソスのようでもある。
 滑稽な群像のなかでも群を抜いているのが、平戸商館長コックスである。彼は悪人とは言い難いが商才も知略もまるでない凡庸な人間である。中年に至っても女に振り回されるなさけない男でもある。だが、商館長としてそれなりのカネが使えるとなると、ガーデニングをしたり金魚を飼ったり、グルメに走ったり、あげく、日本の遊女に血道を上げる。
 いや、読みながら、こういうコックスのような人生に一抹の羨望も持つ。異国の美女を入れあげて放埒を尽くしてみたいものだなといったような。
 コックスを含めた英国商館の群像がここまで詳細に描けるようになったのは、1990年以降の歴史学の成果を取り入れているからだ。その意味では、本書は、この20年間のこの分野の新資料を駆使して描いている。
 実際本書を読みながら、いわゆる戦国時代物の通念から見る日本像とは異なる、意外な日本を感じることがなんどかあった。まったくの新しい知見とは言い難いのかもしれないが、全体像としては新しい視座のもとに日本の歴史を見直すという奇妙な体験が得られる。もっとも、史学者ならここは間違いと指摘できる箇所も多いようにも思えた(大坂冬の陣・夏の陣など)。
 按針については、一つ深く考え込まされることがあった。彼は日本人の妻を娶る。歴史小説だとどのようにも描けるが、実際のところは家康からあてがわれた女ではないかと私は思っていた。
 だが史実から考察するミルトンの描写を見ると、馬込勘解由の娘・お雪を妻としたのは、按針がお雪を愛したからにほかなるまいと思えてきた。愛以外に妻を娶る理由がない。そんなばかなことが歴史にあり得るのだろうか。愛などは物語にしか存在しない虚構にすぎないと思う疑念深い私だが、按針とお雪についてはそれ以外には理解できない。それはそれなりに自分には衝撃的なことでもあった。
 

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