[書評]アレクサンドリアのフィロン入門(E.R.グッドイナフ)
アレクサンドリアのフィロン( Φίλων ὁ Ἀλεξανδρεύς)は、紀元前25年頃に生まれ西暦45年から50年頃に死去したユダヤ人哲学者である。呼称からわかるように当時の大都市アレクサンドリアの人であり、数代前からローマ市民権を持つ富裕な名家に属していた。本書「アレクサンドリアのフィロン入門」を著したE.R.グッドイナフは、その家系を19世紀末欧州のロスチャイルド家に例えている。ただし、その家の富を管理したのはフィロンの兄弟(弟であろう)アレクサンドロスであった。
![]() アレクサンドリアの フィロン入門 |
フィロンからすれば、イエスについてはおそらく知らなかっただろう。だが、イエスの公生涯を記した福音書の一つ「ヨハネによる福音書」の冒頭は、異論もあるが、フィロンの哲学を反映したものと見る学者が多い。
初めに言があった(Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος,)。言は主と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは。これによってできた。できたもののうち。一つとしてこれによらないものはなかった。この言は命であった。そしてこの命は人の光であった(ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων.)。光はやみの中で輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ロゴスの哲学が神学的な基本になっていることがわかる。フィロンのロゴス観はどうであったか。著者グッドイナフは本書でこう説明する。
(前略)一なる神は自身から流れを発する。その第一の現れがロゴスであり、最初の流出であるがゆえにもっとも神に似ている。(中略)ロゴスは神的な実在と存在の投影であるから、神と呼ばれうるものであり、ロゴスの働きはすべて神の業あるいは作品と呼ぶことができる。(中略)神は、たんに存在であるのみならず、他のあらゆるものの存在の原因、根源でなければならない。すなわち、何かの仕方で他と関係している「無関係な存在」が存在しなければならない。これを表現するために、古代の思想は光と支配力という二つの比喩に早くから目を向けた。フィロンもこれらを繰り返し用いている。
グッドイナフによるフィロン哲学のこの解説は、直接的にはヨハネ福音書の文脈ではない。しかしそれが念頭にあることは展開から読み取れる。
さらにわれわれが、時には太陽光線と太陽とを同一視し、時には両者を明確に区別することがあるように、流れに対してフィロンがもっともよく用いる言葉であるロゴスも、それ自体一つの実体として語られ、神の子とすら呼ばれた一方で、ロゴスの低次の現れである支配力と創造力がロゴスから独立した存在として論じられることこもあった。このような言葉の揺れが、フィロンにおいてロゴスが人格であるか否かという問題に関する膨大な議論を引き起こした。
著者グッドイナフの考察では、フィロンはロゴスそれ自体の実在性はないと考察しただろうとしながらも、こう続ける。
だが、彼の魂は神のロゴスの光線によって暖められていたので、しばしば彼はその光線のことをそれ自体のものとして人格化によって生き生きとしたものになりうると考えた。
フィロンにおいてもロゴスを人格的に受け止める素地はあったとしてもよいだろう。ここでヨハネ福音書の神学がフィロンにおいて用意されていた。
後にキリスト教徒がロゴスをナザレのイエスというまさしく一個の人格と同一視し、その結果この人格の神への昇格が一神論に対して提起した形而上学的な難問に答えを出さなくてはならなくなったとき、古代世界はまったく新しい問題を提示されたのであった。
著者グッドイナフはこの文脈の全体では抑制的ではあるが、その意味するところは、フィロン哲学から見えるヨハネ福音書のロゴス観は、必然的に三位一体論を導出することだ。しかも、その三一論は、その枠組みにおいてフィロンの哲学の構図に拠っている。
グッドイナフはその後もできるだけ抑制的に説明するのだが、それでもフィロンは、キリスト教の根幹となる処女降誕からイエスの神性までも用意していたということが理解できる。フィロンは創世記をプラトン哲学で解き明かしながら、その創世神話やユダヤ伝説を神学に置き換えている。
アムレで三人の男がアブラハムを訪れたとき、この体験は、アブラハムがついに神自身のもとにある三つの能力、つまり、ロゴスおよび創造力と支配力という二つの力の直視に到達したことを意味した。(中略)アブラハムは新たな能力をもってサラと交わった。彼は自らのうちに神的な種子をもつことによって、いまや男性となったからである。(中略)その結果、寓意的解釈の意図からすると、イサクは人間アブラハムの子ではなく、神の子であって、永遠の処女でもある知恵(ソフィア)あるいは徳から生まれたということになった。
さらにこの神人であるイサクはより完成した形態として、フィロンの神学では「モーセ」に結実する。
モーセの結婚はイサクの場合と同じく知恵(ソフィア)との合一であり、またこの合一が神と知恵との合一と同じであることも示された。
だから『モーセの生涯』では、モーセは、異教徒に向けに、救済者・王という当時の考え方によって描かれている。彼は完全なる王、立法者、祭司、預言者である。モーセの王権は宇宙的であった。
モーセはフィロンにとって神のロゴスでもあった。つまり、キリスト教の誕生はフィロン神学の「モーセ」を「イエス」に置き換えることを待つばかりでもあった。ユダヤ教はフィロンのなかでこのような枠組みの達成を得ていたのである。
このようなユダヤ教から新しいキリスト教への前進に必要とされたのは、ただ次の二つことだけであった。第一に、モーセよりも偉大な者が到来したことがキリスト教徒によって主張された。
以上のように、フィロンの哲学・神学はキリスト教の誕生に結びつけて読むことが可能だが、これは当然だが、誤解を生みやすい。フィロン哲学・神学が直接的にキリスト教なりヨハネ福音書を生み出したかのように見えてしまう。そうではない。
著者グッドイナフが抑制的に語り、かつ留意を促すのは、フィロンは独創的な哲学者ではなかったという点である。フィロンは多くの著作を残しているという点で貴重であり、現代人からすれば奇妙にも思えるがその論旨は明快だが、プラトン主義から逸脱する部分はなく、おそらく当時のヘレニズム世界の思想において、凡庸ともいえる二流の哲学の意味合いしかなかった。
同時に、よくキリスト教はヘブライズムとヘレニズムという二潮流から生まれたと言われるが、フィロンについては、ヘブライズムの、特にヘブライ語によるラビ伝承などの知的な伝承はほぼなかった。あえて単純化すれば、ギリシア語に訳された旧約聖書であるセプチュアギンタ(七十人訳)と凡庸なプラトン主義を、哲学好きな爺さんが自分の趣味でこっそりと著作にしていたにすぎない。
実はこのことが逆にフィロンの意味を大きく高めることになる。というのは、当時のギリシア語圏のユダヤ人は、フィロンのように思考し信仰観を持っていたとも推測されるからだ。その意味では、ヨハネ福音書はフィロン哲学から生まれたのではなく、フィロンの背景から生まれたと見てもよいだろう。
また、当時のギリシア語圏のユダヤ人の代表にはもう一人の巨人、パウロが存在する。パウロも概ねフィロンと同じような哲学・神学観を持っていたと推測される。本書には言及されていないが、「ガラテヤ人への手紙」でパウロはハガルの物語を比喩として挙げているのだが、その手法はまさにフィロンの創世記解釈と同型である。おそらく、パウロがフィロンの著作を読んでいたというより、フィロンのような寓意的解釈はギリシア語圏のユダヤ人の主流であったのだろう。その意味で、フィロンの神学は、パウロ神学を補足してもいる。
本書「アレクサンドリアのフィロン入門」の書籍としての話に戻す。本書は1962年にオリジナル「Introduction to Philo Judaeus」(参照)として出版され、日本では1994年に翻訳された。それだけでも、かなり古い書籍であり、その間のフィロン研究を反映していないとも言える。さらに、本書の初版は1940年であり、その学問的な骨格はさらに古い。オリジナルが、「Philo Judaeus」としてユダヤ人が強調され、またユダヤ人への理解を深めるような配慮が説明の各所に見られるのも戦時の状況の反映でもあるかもしれない。
このエントリーでは私の関心範囲を強調したが、書籍はあくまでフィロンの入門書というのが原義にあり、これからフィロンの膨大な著作を読み解く人への案内書の役割をしている。フィロンの著作は日本語で翻訳されたものがあるか私は知らないが、英語への翻訳であればインターネットで、無料でほぼ網羅的に読むことができる(参照)。
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コメント
とても面白かったです。非常に納得できる説だと思いました。福音書のルカ伝なども、ギリシャ的な教養、ロゴスの上に成立していると感じられます。当事のユダヤ人知識層は(当然パウロも含めて)プラトン主義とユダヤ的信の統合を前提としていたのでしょうね。
投稿: ボンボン太郎 | 2012.04.12 21:28