鍋焼きうどん2.0
頬に当たる小さな雨粒が冷たく、かすかに痛い。霙か。重たい色の空を見上げていると雪に変わっていくのがわかる。積もるなんてことはないだろうと思っているうちに、降り止む。ぞっとするほど寒い。遠くの森のコビトが朝会で鍋焼きうどんだと言う。ほんの一瞬。0.1秒。だが脳裏をよぎった幻想は後になって思えば悲劇の予告編だった。
慣れないショッピングセンターを出てどこに車を停めたっけと人の気配のない駐車場を回っているうちに、道なりに続く住宅街の一軒が、こざっぱりとした新築の小料理屋に見える。こんなところに小料理屋があったかと思っているうちにショッピングセンター従業員が数名、店に入っていく。営業中。つられて店の前に向かい、戸口に立つと、うどん屋だった。手打ちうどん専門らしい。
店主、よほどうどんが好きで脱サラでもしたのだろうか。期待もあって、うどんにするかと戸を開くと飲み屋のようなつくりの店内には七割がた客も埋まっている。常客の雰囲気。だったら、そんなに悪くもないだろう。
勧められたカウンターに座りメニューを見ると、うどんしかない。グラム指定で四段階の注文ができる。よほど手打ちに拘っているのだろう。メニューの裏には天麩羅数点と、日本酒やビールなど酒がある。閉店は8時とのこと。
鍋焼きうどんだなと自然に思う。が、鴨うどんというのも悪くない。五十は過ぎただろうが年のわからぬタイプの女がやってきて注文をきく。鴨うどんと言うと困惑したような顔でカウンターの向こうの店主らしき板前風の中年男に目を向ける。男は、鴨切れてましてすみませんと声を上げる。じゃ、鍋焼きうどん。
店内には常連客の和やかな熱気がある。田舎の同窓会にも似ている。身内の人の恋愛だの行事の段取りだのという話題のようだ。山梨と埼玉と千葉を擦り潰して混ぜ合わせたような田舎の盛り上がり。もしかすると僕は、とんでもないところに来てしまったのかと少し不安になる。
15分くらいだろうか。慣れない店ということもあり、ずいぶん待たされた気がしたが鍋焼きうどんが来る。二つ。一つは別の客。どうやら後の客の注文とまとめたようだ。
鍋はというと、いわゆる鍋である。マンション住まいのアラフォー女が一人、ブログを書き終えて今晩はお鍋という感じの花柄デザイン。蓋は、してある。
さて、これを手で掴んで開けろということか。熱くないのか。と、もう一人の鍋焼きうどんの客を見ると、ためらいもなく開けている。ではと蓋を摘むと、ひんやり。
だが、鍋はぐつぐつと泡立ち沸騰していた。
すぐに泡が引いてその姿を現す。
え? これが鍋焼きうどん?
なんと言っていいのかよくわからない。未知の大陸で未知の生物に出会ったときの驚きとでもいうのだろうか。未知とはいえ何かに似ているぞ、これは。そうだ、鍋焼きうどんに似ている。鍋に入っているのだから、鍋焼きうどんの一種だろう。理性は告げる。
鍋の中央に落としたばかりの卵がある。最後に入れたのだろう、生のままだ。
海老天は、と探すと、端っこに、かっぱえびせんを立体スキャナーでスキャンしてプラスチックで二倍にモデリングしたような、ぽってりとしたものがある。よく見ると小さな海老のしっぽが出ているので海老天ではあるのだろう。他に具は?
生卵の横に三角形の小さなお揚げがある。煮た形跡はない。
海老天らしきものの横に薄い蒲鉾のスライスが沈んでいる。小さな生椎茸の四分の一もある。どれも煮込んだ形跡はない。ホシはまだ遠くに行ってない。
うどんの合間の野菜は、と見ると、白菜のざく切りである。これがざくざくとあり、白菜鍋にうどんを入れましたという風体。ネギはその陰で申し訳ないがここに置かせてくれと隠れている。
これで全部なのか。全部だ。これ、鍋焼きうどん?
店主、うどんの手打ちに人生を賭けて、うどんという料理には関心が向かったのだろうと僕は前向きに立ち直る。他の客だって美味しそうに食べているじゃないか。人生前向きでなくちゃ。うどんだろ、決戦は。
うどんに箸を寄せる。何かおかしい。思わず箸を引く。こ、これ、うどん?
うどんは熱いつゆのなかにあるのだが、固定されている。高校生のころ、美術の時間で木炭画を仕上げた後、表面を固めるスプレーを吹き付けた。なんかそれに類する溶剤で安定化の工夫でもされているのだろうか。そんなわけもあるまい。再度箸を入れ、うどんをつついて、よっこらせと持ち上げると、メキシコの山奥の薬草植物の根っこみたいものが出現する。いや、うどんだ、と私は自分に問いかける。うどんだ。うどんに会えたんだ。
だが自然に沸き起こる、これ、うどんかよ? という自問に責め立てられる。うどんだ、うどんだ、うどんだ。そう信じなければ、この場の俺は、どうしたらいいんだ。別れ話を切り出した女の前で泣き崩れそうな俺が、ここにいる。
呆然と、うどんのようなものを箸で摘み上げているうちに、熱気も薄れる。口を開き、口に運び込む。よく管理された工場の試運転。
噛みしめる。ぐっちゃっ。
なんだこの感触。
歯ごたえもなければ、駅のホームの、立ち食い茹で置きうどんのような、へちょっ感でもない。これはまさに、うどん粉をシンプルに固めてみましたという何かだ。すいとん? いや、すいとんなら、もっとつるっとした感触がある。ほうとう? 本当? 駄洒落、考えてどうする。
この、ぐっちゃっと踏み込んだら最後、歯を引き離さないモルディングの感覚は、歯医者で歯形を取るアレに近い。じゃ、五分ほどじっとしていてくださいねと歯科医の助手の女の巨乳が顔面に迫ってきた、あの圧迫感がフラッシュバックする。えへへぇ~。いや、そんな場合じゃないぞ。
ぐっちゃっ・ぐっちゃっ・ごっくん。俺はこの鍋焼きうどんのようなものを食わないことには、どうしようもないんだ。鍋焼きうどん? 違うだろ。じゃ、なんだよこれ。鍋焼きうどん2.0。
多めに入っている生っぽい白菜を噛みしめる。ぎっしぎっし。うどんがぐっちゃっぐっちゃっ。労働者の正しい社会主義ユートピアに前進しているような倒錯した高揚感。どうにでもなれという感じで、進む。前進、文化大革命。海老天らしきものも、薄い蒲鉾も工場のベルトコンベアーを流れていく。つゆの味は? いや、もうそういう次元じゃないんだ、これは。
人生つらいときは考えても、つらいばかり。永遠にこの鍋焼きうどんが続くわけでもない。考えるのはやめようと、とりあえず胃の腑に所定の粉の塊を流し入れていく。
それでも驚愕。海からマンタのようなもの出現。手打ちうどんの端切れがそのまま三角形のうどん粉の塊になっていた。これなら、きちんと全部の歯形が取れる。
ギブアップ。もうだめ。
まわりを見回すと、田舎の同窓会みたいな熱気は続いている。淡々とみなさん、うどんを食っている。
もしかして、これが正しいうどんなんじゃないか。自分は今、間違った価値観の洗脳が解けていくプロセスにあるんじゃないか。そんな気がしてくる。
そうなのかもしれない。そうに違いない。そうでなくちゃと、なにかが胸にこみ上げてくるのか、消化しづらいうどん粉が胃にもたれているのか、よくわからない。
会計するとき、千円と言われたので千円札を出す。何を買ったかといえば、経験である。
入ったときと同じ戸を開くと、眼前に茫漠とした世界が拡がっていた。まだまだ未知な鍋焼きうどんだって、ある。空から声がする。参るぞ、悟空!
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コメント
なんだ、蒲団2.0かw だったら、最後に泣いてしめてくれww
投稿: | 2011.12.09 17:47
うどんメニューで、鍋焼きうどんほど、いい加減なネーミングも無いことに気づいたw
>ぐっちゃっ・ぐっちゃっ・ごっくん
あ~目に浮かぶ...
投稿: nao_cw2 | 2011.12.09 19:34
これは実体験?創作?
たしかに、鍋焼きうどんに限らず、たまにとんでもない出来の物がありますよね。
うまさでいったら、駅のソバって意外といい線いっているというか、コスパを考えると十分に満足できる。
投稿: | 2011.12.10 14:14
鍋焼きは大変な手間かかるので、冷凍ものを使ったんでしょう。(通常メニューとは別に。)
投稿: F.Nakajima | 2011.12.11 11:49
あぁ災難でしたね。
なんだか今回は、においつき消しゴムを
終始 噛み続けているような
読み味がありました。
「煮込んだ形跡はない」ってところから
「ホシはまだ遠くに行ってない」と、
脈絡をつけた箇所が、ツボでした。
ところで、私もこれに似た経験を、新装開店したばかりの
たこ焼き屋で、したことがあります。
脱サラ風の男性が一人で切り盛りしている店でしたが、
チェーン店のようでしたし、家庭でも器具さえあれば
気楽につくれるものだから、ハズレなんてあるわけないと
まったく安心して口にいれたのですけど、生焼けでした。
どうやらトレーニングをきちんと積めてなかったようです。
新宿のわりと人通りのある場所にありましたが、
さきほど Google マップのストリートビューで見てみたら
別の店に変わっていました。
それにしても、千円って、鍋焼きうどんとしては
妥当かもしれませんが、お話を聞くに
とうてい引き合わないような値段だと思いました。
でも、それを「経験」と受けとるあたりに
大人の余裕を感じます。
うどんを求める旅にも、いろいろとドラマがあるんだなぁ。
投稿: けん | 2011.12.12 00:38
実体験ならご愁傷さま。創作だったら、そこに土下座して鍋焼きうどんに謝れ。というレベルですな。
鍋焼きうどん以前に、ふつうにきつねうどんとかにしときゃよかったのに。
と、昨日も今日もスーパーの玉うどん買ってきて自前で鍋焼きうどん作って昼食にしたおいらは最強ですかもしかして。
投稿: とおりすがりの | 2011.12.14 14:40