[書評]どこから行っても遠い町(川上弘美)
中学生にもなる娘のいる男が、同じく中学生の息子のいる女と、ふとしたきっかけで関係を始めてしまう。それがゆるく続く。あるいは、そうした男の妻であり、そうした女の夫である人たちの苛立ちと空虚がある。急降下するようなエレベーターにのっているような、尿意のような、ずぅんとした感覚。それが恋愛のような乾いた性のようなものを駆り立てていく。
中年にもなった男女の、薄汚さもある恋愛。そんなことがあるのかといえば、あるとしか言えない。そんな物語があるのかといえば、山ほど語られている。だが、他人事として、普通は。
![]() どこから行っても遠い町 川上弘美 (新潮文庫) |
でも心情としてはどうなのかというと、苦みというより、ある空虚な感じに突き当たる。そうでなければ、たぶん「ニンゲン」ではないだろう。そういう真実が、「どこから行っても遠い町」(参照)に、日本語とはこういう言葉だったのかという流麗な文体で、パノラマのように短い小説群で綴られている。珠玉と言いたいところだが、その味わいがわかるのは、たぶん40歳を過ぎてからかもしれない。あるいは、30代でもその渦中にいる人たちかもしれない。
作者川上弘美は昭和33年4月1日の生まれ。私と同級生の世代。読みながら、その思い出の風景をなるほどなと思う。物語の、魚屋の平蔵さんの兄は疎開の経験があるというから、小林亜星くらの年代であろう。彼の疎開先には同級生となる私の母がいたから、私の母の年代でもある。ということは作者川上の父母の年代の思い出でもあるから、物語の恋愛の群像は昭和一桁生まれに始まると言いたいところだが、平蔵の妻となる幼なじみの真紀は、平蔵が十歳のときに六歳というから昭和10年代かもしれない。印象としては長嶋亜希子から上野千鶴子くらいの年代だろう。いずれ団塊世代より少し上の世代で昭和後期のある種のモダンな時代の風景でもあり、表紙の谷内六郎がよく似合う。あの時代の週刊新潮(今でもあるようだが)の痴話の掌篇も思い出される。
だから懐かしい時代の空気でもあるのだが、回顧なのではない。40歳を過ぎたころから、父母や叔父叔母たちの青春やその後の人生から浮き立つ、どろっとしたもの、端的に言えば、性の関係性が共感できるようになってしまうし、そのことが、人生とは何かということを別の角度から問い詰め始めてしまう。若い頃なら、ありがちな恋愛や性の痴態で済んだものが、あるぞっとしたものに到達するようになる。
連作に見える物語は、昭和40年代から50年代の空気をもった、ある意味で現在にも重ねられる東京郊外の町が設定されている。荻窪あたりであろうか。この年代の男女が住まわされた町は、団地の光景はなく、死者の霊を包みながら生きている。
不倫といえばそれだけのことだし、だらしない性の関係性に至る衝迫力が、市井の人々を静かに、老いた怪物がゆったりと舌なめずりをするように覆っていき、物語は、他者の細い視線を連鎖するかたちで繋がっていくのだが、それが表題作「どこから行っても遠い町」にぎゅーっと絞り込まれ、嗚咽を催す壮絶な美に至る。ここで物語は終わる。
いや、その先に川上らしい意匠として(処女作の暗示の蛇もだが)エピローグの「ゆるく巻くかたつむりの殻」が描かれ、連作の物語の冒頭へと輪廻するが、これは物語の外部に過ぎない。もちろん、人の人生が物語りとして見えるなら、死霊は町の老人たちの思いのなかに存在するのであり、死霊として生きるために、性の衝迫が老いを許さないように、人の人生の後半を襲う。
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