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2011.11.28

[書評]修道院の食卓:修道院ライブラリー(ブリエラ・ヘルペル著、ペーター・ゼーヴァルト編)

 本書「修道院の食卓」は、出版社の創元社の情報では、修道院ライブラリー全4部作の第2巻に当たるらしい。他に、第1部「修道院へようこそ」(参照)、第3部「修道院の断食」(参照)、第4部「修道院の医術」(参照)がある。

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修道院の食卓
(修道院ライブラリー)
 ふと気になってオリジナルでも4部構成になっていたのかドイツのアマゾンを覗いて見ると、本書のオリジナル「Die Küche der Mönche」と並んでペーター・ゼーヴァルト編のハードカバーが数冊見つかる。そのまま4部構成なのか、タイトルを見ていくと必ずしも合致していないようにも思える。精神性や庭園などの書籍もあるからだ。ちなみに本書のオリジナルタイトルは直訳すると「修道士のキッチン」ということになり、男性的なイメージがあるが、邦訳書ではシスターのイラストから修道女のイメージを持つだろう。あとで触れるが、それもわかる気がする。
 なぜ修道院の本を読む? ごく個人的な関心からでしかない。そろそろ隠棲を深めようと思うのだ、なんてことはなく、日頃愛用している「修道院のレシピ」(参照)の背景と、西洋における食の伝統が知りたいということがあった。
 その個人的な関心は満たされたかというと、ちょっと微妙なものがあった。つまらない本ではないが、当然といえば当然なのだが、現代人への文脈化が強い。つまり、現代の世俗的な生活をしている人に示唆的な修道院の食生活をご紹介しましょうということだ。特にその健康的な食事という点に重点が置かれている。
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Canticles of Ecstasy
Hildegard von Bingen
 修道院の食事は健康にいい。ごもっともとしか言えないのだが、読み進めていくうちに、あるコアのイメージが湧いてきて、それが本書でも言及されているヒルデガルト・フォン・ビンゲン(Hildegard von Bingen, 1098-1179)に収斂されてくるのが面白い。なるほど、ヒルデガルトの入門書と言えるほどの既述はないが、こういうアプローチだとヒルデガルトが身近に感じられる。
 本書にも記載があるが、ドイツでは近年ヒルデガルトのブームがあったらしい。彼女は、ベネディクトゥスの系統の修道女で、神秘体験を経て有名なり、ルーペルツベルク(Rupertsberg)に女子修道院を建てて院長となる。本書からもわかるように、神秘家でありながら、自然科学的な傾向もあり、医学や薬草学の知識もあり、ドイツの薬草学の祖とも見られている。
 ヒルデガルトは音楽家でもあり、その音楽はまさに彼女の神秘体験の音楽的な表現にも思われる。感動する。

 本書に戻って、具体的にレシピ集として見るとどうかなのだが、私の印象では、全体的にドイツ的な食の発想もレシピから伺われるところは面白い。簡素な食材で簡単にできるものもあるし、特別にレシピというほどでもないものもある。反面、かなり手の込んだパンの作り方などもある。当然というべきかシュトレンもレシピもあるが、ちょっと簡素すぎる印象はある。
 Happy Advent!
 


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2011.11.25

豪州米海兵隊駐留計画について

 16日、訪豪のオバマ米大統領は、豪州北部ダーウィンへの米海兵隊駐留計画を発表した。2012年半ばからは200人から250人の海兵隊員が同地に半年交代で駐留し、豪州軍と共同訓練や演習を行うことになる予定だ。駐留規模は最終的に2500人にまで強化される。
 発表の背景として日本では、軍拡でこの地域に脅威を与えている中国に対抗する意味合いがあるといった報道がなされた。NHKの7時のニュースですら、中国が現在増強している対艦弾道ミサイル(参照)の射程外に米軍を分散展開する目的があるとして、図を使って説明していた。間違いではないが、中国はかつてのソ連のような冷戦的な対立を強く意図しているわけではなく、構図はやや異なるかもしれない。
 中国の軍拡に伴う脅威が東アジア諸国に迫り、中国を交えた領海や領土の問題も頻繁に引き起こされる時代になってきたのは確かだが、中国は基本的には、東アジアへの領土拡張の意図を強固に持っている国ではない。とはいえ、もちろん今回の豪州米海兵隊駐留計画は東アジア域の米軍の対中戦略の増強ではあった。
 米軍による対中戦略の視点から見ると、基本となるのは中国側の出方、つまり中国戦略になるが、これは「海上拒否(Sea Denial)」と見られている。中国の対艦弾道ミサイルもこの戦略の一環であり、米軍空母を狙うものである(参照)。
 対する米国は、エアシーバトル(AirSea Battle)と呼ばれる戦略(参照)を採り、衛星からの制御などハイテク技術と最新兵器を総合的に活用して対抗する。豪州米海兵隊駐留計画も、エアシーバトル・ネットワークの一環ともなる。
 だが、以上の基本的な構図に加え、今回のダーウィン米海兵隊駐留について、17日のディプロマット記事「A Cold and Clever U.S. Base Move」(参照)はさらに、米軍のプレザンスによって逆に中国のシーレーンを封鎖する可能性を示すことで中国経済に脅威を与える意図があることを加えていた。中国向けABCD包囲網のようなものであり、同記事でも第二次世界大戦の連想があった。


It’s a strategy out of Washington’s World War II playbook. Indeed, the mere presence of a powerful allied naval contingent along China’s sea-lines will require Beijing to divert considerable resources away from its immediate maritime periphery, much as it did with Japan in the 1940s, diluting the singularity of Chinese efforts in the Western Pacific.

これは、米国が持つ、第二次世界大戦・脚本集から引き出した戦略である。実際、中国のシーレーンに沿って同盟国の強力な海軍力を配備すれば、1940年代に日本がしたように、中国は近隣海域から裂いた海軍力を充てなければならず、西太平洋における中国軍拡が手薄になる。


 日本は特殊な例外かもしれないが、現在中国の軍拡に脅威を感じているアジア諸国にしてみると、米軍のインド洋域での中国シーレーン封鎖の威圧は、自国の安全保障にとって手助けになるものである。同時にこの地域の国々に、中国に従属しなくてもよいという安堵感も与える。このところのミャンマーの民主化も、こうした動向を背景に、中国への従属を避けたいとする均衡的な意味もあるかもしれない。
 ディプロマット記事には言及がなかったが、中国のシーレーン封鎖の威圧は、エアシーバトル戦略の持つ欠点を補完する意味合いもあるのかもしれない。この戦略は巨費がかかる上に、中国と核を挟んだ冷戦的な構図を引き起こしなけない危険性(参照)もあるからだ。
 
 

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2011.11.24

エジプト革命の始まり

 エジプトが再び争乱状態となった。これを第二革命と呼ぶ人もいるようだが、なんのことはない。前回は軍部のクーデターに過ぎず、民主化などほど遠い話であった。
 ムバラク政権に劣らぬエジプト軍政による悪行はすでに十分に露呈している。これがどれほど酷いものかは、アムネスティが公開した報告書「Broken Promises: Egypt's military rulers erode human rights」(参照)に詳しく描かれている。
 夜間外出禁止令を破ったり軍を侮辱したとして1万2千人も及ぶ市民が軍事法廷に送られた。ジャーナリストは軍の検察官に呼び出され、拘束され拷問を受けた。軍に抗議する市民に対しては、軍は武装した強盗を使って攻撃した。コプト教徒による抗議では軍は28人の市民を殺害した。
 この軍政が、いかさまな議会選挙(参照)を通して固定化されようとしているとき、市民が立ち上がる現在こそが、まさに革命の始まりなのである。
 だが、前回の軍部クーデター騒ぎに比べて、日本ではツイッターでの話題もあまり見かけず、ブログなどでもあまり話題を見かけない。今朝の朝日新聞社説「エジプト騒乱―若者たちの不満を聴け」(参照)に至っては、若者の立腹程度の話に矮小化している。


 3日間の衝突の後、軍最高司令官は「軍が権力にとどまる意思はない」と明言した。来年6月に大統領選挙をして、民政に移管すると約束した。暫定政府の辞任を認め、政治勢力との間で挙国一致内閣の発足で合意したことも明らかにした。
 若者たちは発表に納得せず、軍政を直ちに終わらせ、文民中心の救国政府の発足を求める。
 若い人たちの怒りは理解できる。だが、来週から始まる選挙の実施を優先し、そこで自分たちの主張を広げてほしい。

 軍政側の「明言」がどれほど裏切られたかについて、朝日新聞社説は、きれいにほっかむりしたままで、エジプト若者世代に共感する素振りを見せながら、いかさま民主主義への恭順を説いている。
 市民が軍に立ち向かうとき、どのような危険が伴うかと想定すれば、中国天安門事件や現在も続くシリアの弾圧を参考にしても、朝日新聞がそう説くことをまったく理解でないものでもない。
 市民側には正規軍に優る暴力もないのだから、軍を圧倒することはできない。また、ソ連崩壊のように、国軍もまた市民に立ち返って革命に参加するほど、軍側に民主化への熱意があるわけでもない。エジプト軍はそのものが一つの巨大な利権の体制でもあり、そもそもクーデター政権樹立の要因はこの体制の保身であった。
 ではこれから惨事になるのだろうか。いやすでに38人を超える死者を出して惨事ではある。さらに桁外れの軍の力が行使されるだろうか。
 そこまではいかないだろう。理由はすでに先々週あたりから、欧米紙の論調(例えば、参照)を見てもわかるが、米国によるエジプト軍への支援中断の脅しをかけている。エジプト軍側が惨事を引き起こせば、金策に詰まって体制そのものが孤立しかねない。軍側としては、じりじりとしたチキンゲームを続けて、若者を中心とする抗議活動が、国民世論から乖離している状態を待てばよい。
 では、抗議者たちはどうするのか。
 圧倒的な暴力の差から体制の転換は無理だろう。夜間に暴動が活性するのも、宵闇に乗ずるしか手がないからだ。
 実際のところ、現状の抗議の実質的な目的は、朝日新聞が薦めるところの議会選挙を阻止することではないか。
 そもそも今回の騒動のきっかけは、18日のムスリム同胞団による議会選挙への抗議から始まった。が、このムスリム同胞団の抗議は、若者の参加による抗議活動がエスカレートするにつれ、引いた。
 単純に見れば、議会選挙で第一党が予想されるムスリム同胞団が議会選挙にさほど抗議するメリットはないので、いわば軍側との駆け引きのためのブラフであったのだろう(参照)。ムスリム同胞団も軍側と同じように、若者を中心とする抗議から距離を置き、それが世論から遊離するのを待っているのである。
 つまり、現下の状況の本質は、軍のクーデター政権と協調しつつあるムスリム同胞団との実際的な妥協の体制を阻止することにかかっている。
 このことは同時に欧米側によるイスラム勢力の抑制にも合致していることから、前回のクーデター騒ぎのように、それなりの支援も入っているのではないか。
 短期的には、実質的な旧体制の復活が阻止できても、その先の体制の展望までは見えない。経済的にはいずれにせよ否定的に見えているにせよ。
 
 

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2011.11.23

政治は何のために存在するか?と愚問して陳腐な結論に至る

 政治は何のために存在するか? 自明のように思えるので、あらためて問うと愚問のようだが、そのことが実際には世界で日本で、各所で問われている時代なのではないかと思う。
 政治は何のために存在するか、という問いは、政治とは何かという問いとは微妙に異なっている。政治とは何か、というのであれば、まずその語感から、"government"と"politics"の二面が想起される。
 "government"であれば、"governance"つまり「統治・支配」のあり方が問われる。これを日本国憲法のように広義に"control"(制御)と考えてもよいのかもしれない。"politics"であれば、そのまま「政治学」ともなりうるが、支配の含みもあり、支配力の関係が問われることになる。それは政策でもあるが党略とも言えるし、つまるところ政争であれ権力闘争であるとも言える。二面に共通なのは、「権力」のあり方が問われるところだと言ってよいだろう。
 ではこの権力とは何か?、だが、国家においては、マックス・ヴェーバーがトロツキーを引いて定式化したように、暴力として裏打ちされるものであり、だからこそ、国家は暴力装置となる。国家は諸暴力の収納及び起動の装置である。
 では、どのように諸暴力が一つの国家に収納されるのか。それもまた暴力の力ではないかと言えないこともない。が、民主主義国では市民原理による統治、"civilian control(シビリアン・コントロール)"を掲げる。この「制御=政治」を支えるのは、「正当・正義」の概念であり、つまるところ、暴力ともなりうる権力が法によって拘束されることにある。
 こうしたことは、政治の内的な機能であり、組織・制度や、市民の正当意識によって支えられるものだが、最初の問いに戻って、政治はなんのために存在するのかと、外的な機能として問う場合は、やや異なる姿を示す。
 政治は何のために存在するのか? 平等・公平? 諸権利の保護? 富の配分? 治安? あらためて問われると意外に難しいのではないか。

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いまを生きるための
思想キーワード
 「いまを生きるための思想キーワード(仲正昌樹)」(参照)を読みながら、提示されたいくつかのキーワードの根幹には、政治は何のために存在するのか、という問いが据えられているように思えた。
 政治は何のために存在するのか? 端的に言えば、「善」ではないか。
 同書では、まさに「善」というキーワードが存在するが、ここで実際に問われているのは、政治の外的機能または政治の存在理由のように受け止められた。
 一般に「善」の領域は倫理学("ethics")で問われるのだが、同書ではこうくだかれている。

 現代の倫理学、特に欧米系の倫理学で問題にされている「善」は、基本的に、「神」のような絶対的な視点から見て「善い(良い)」ものではなく、特定の個人や集団にとって「善い(良い)」ものをさしている。


もう少し詳しく言うと、私(たち)が自らの生の目的(と想定されているもの)を追究・実現するうえで有用(good)であるもの、私(たち)の欲求を充足し幸福にしてくれるもの、もしくは幸福になった状態が「善」である。

 同書ではこの考え方を直接的かつ明示的には政治の外的な機能には結びつけないが、文脈からこの問題が、リベラリズムとリバタリアニズムにおける政治の理念として語られる。つまり、こうした意味での「善」が、個人の持つ諸価値が分かれるときの利害の調停の技術として政治が実質問われる。
 以上の展開は「自分の頭で考える」結果ではなく、ごく普通に西洋における政治学の基本をなぞってみたにすぎない。
 「政治学」( Πολιτικά)とはアリストテレスが書いた古典が基点になり、そこでは、国家の「善」が問われる学問(science)だからである(参照)。
 では、国家にとっての善とは何か? なぜそのことが、現代に再び問われるのか?
 単純に言えば、国家の内部に、個人の価値観に拠る利害の相違が存在するからであり、それと国家はどのように向き合うか、ということが、政治として問われるからだ。ではその基本は何か? 現代性は何か?
 「いまを生きるための思想キーワード」の「善」では、リベラリズムとリバタリアニズムからこれを説明していく。

 ロールズなどのリベラリズム系の正義論や、国家による経済への介入を原理的に否定するリバタリアニズム(自由至上主義)の議論では、「善」は基本的に個人ごとに異なることが前提とされている。民主的に政治を行おうとすれば、どうしても、その政治的共同体全体の共通ルールを設定しなければならないが、その共通ルールの適用範囲を広げすぎると、各人の「善の構想」が侵害されることになる。


そこで、共通ルールを、価値中立的もしくは価値横断的に”みんな”が受け入れることのできる「正義」に限定し、各人ごとの「善の構想」と両立させることが重要になる。

 つまり、ここで、「正義」が政治の外的な機能の支える「善」の裏打ちとして位置づけられる。誰もが価値観が異なるのだから、公平なルールをが要請され、その質として「正義」が語られる。別の言い方をすれば、欧米系の思想では、「正義」はこのような限定された文脈で語られることが多い(国家間ではそうとも言えないが)。
 同書にもなんどか指摘があるが、マイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学」(参照)も、こうした意味での「正義」を扱っているために、実質的には政治に関連してくる。
 くどいが、正義とは何かと大上段に語るのがサンデルの意図ではなく、政治の外的な機能を語っているのである。しかも、サンデルは、ロールズのリベラリズムやノージックのリバタリアニズムに再考を迫るものとしての、オールタナティブな「正義」=政治原理を問うのである。
 しかしなぜ、そんな、いかにも迂遠なことが現代に問われるのか。その背景には、「善」と「公平」が国家との関係に置かれたとき、実質、財の再配分として問われるからである。

ロールズたち主流派のリベラルが、「正義」の中に、財の(再)配分をめぐる問題も含めて考えようとするのに対し、リバタリアンは、公権力が個人の財産権に干渉し、再配分を行うことは、個人の「善の構想」に対する重大な侵害と見なし、強く反対する。

 この問題がまさに現在、米国で問われている問題であり、さらに欧州危機の背景、さらには日本の政治のもっとも重要な部分に関係してくる。が、私の印象では、日本ではそれがなぜか、サンデルの著作があまり理解されないように、理解されていないようにも思える。
 具体的な状況で問い直してみよう。米国時間の22日、米財政赤字削減策を議論する議会超党派特別委員会(議員12名)が合意に至らず、決裂した。米財政赤字削減策は、向こう10年間に1兆2000億ドル(約92兆円)の財政赤字を削減する政策である。が、単純な構図にすれば、財の再配分についての問題で合意が得られなかったということだ。
 オバマ政権の米民主党は古典的なリベラルとして公平や福祉のために税を強化するというかたちで公権力が個人の財産権に介入し、再配分を強いる。
 日本人にしてみると、公平や福祉がそのまま短絡的に「善」に見えることも多いので、「善のためには悪を切るでよい」という単純な反応をしてしまう人がいるが、リバタリアニズム的には、公権力の過剰な行使になり、そのものが悪である。
 今回の米国議会超党派特別委員会の決裂は、端的に世界の金融市場に悪影響を与えるし、米国自体が日本型停滞に陥る可能性も高い。さらに、米国の国防費が削減されるので、世界の軍事バランスにも影響が出る。日本の普天間問題にも影響が出る。
 他方、欧州危機も、国家の過剰債務に端を発しているという点で、米国と基本的に同じ構図を持っている。欧州は米国的なリバタリアニズムは弱く、社会主義に近いリベラルが政治理念が強いので、再配分を国家に強いるのだが、しかし、無い袖は振れない事態に陥っている(あるいは他国のためには袖を振りたくない)。
 日本の場合は、国家債務問題に加え、さらに高齢化による老人福祉・医療の支出増大が想定される。政府の点からすれば実質すでに破綻している。
 いずれも、政治の外的な機能である「善」が、国家による財の再配分として問われるとき、国家の権力をどのように考えたらよいのか、ということが、冒頭に戻って、政治は何のために存在するか、という問いに帰結し、現在的に問われることになる。
 欧米ではこれらは思想課題としてみれば、リベラリズム/リバタリアニズムのデッドロック状態と言えないでもない。そこで、サンデルなどコミュニタリアンは、この「善」について、やや異なる考えを提示しようとする。ただし、結果的にはよりリベラルを推進した公権力の強化になりがちにも見えるのだが。先の書籍から。

(前略)サンデルたちコミュニタリアンは、個人にとっての「善」はその個人が生まれ育った共同体が全体として追究している「共通(の)善common good」と切り離して考えることはできないし、「共通善」からの独立の「正義」などありえないと主張する。

 興味深いのが、サンデルなどのコミュニタリアニズムは、リベラリズム/リバタリアニズムのアンチテーゼとして提出されるのだが、日本の倫理・政治世界では、これが自明のものとして提示されてしまうことだ。TPPのバカ騒ぎも、リベラリズム的に再配分の問題として問われるわけでもなく、リバタリアニズム的に個人の益を優先する(そもそも自由貿易は関係国間の市民の利益を優先して国益を弱めるのが基本である)のでもなく、最初から奇っ怪なる「国益」が提示され、さも、日本の市民が共通の「国益」を共有しているコミュニティであるかのような前提でバカ騒ぎが始まるのである。
 では、日本の政治は、そのようにコミュニタリアニズムが基本なのかというと、生命倫理では異なる様相を示している。サンデルなどコミュニタリアンの問題提起には、公平の実現を財の再配分を超えて問う基本姿勢があり、そこで生命倫理などが問われる。

 コミュニタリアンに言わせれば、自由主義者たちが、「正義は普遍的な合意に基づかなければならない」という前提に拘りすぎると、妊娠中絶、安楽死、同性婚、臓器移植、死刑といった価値の対立が激しい問題についてに、「正義」の原理に基づく解答を与えることができない。「正義」の原理が成立しそうにない問題を、公的領域における政策決定の俎上にのせてはいならないというリベラリズムの基本原則に忠実になろうとすれば、結局、難しい問題は全てスルーすることにしかならない。

 日本人の多くがコミュニタリアン的な政治理念を共有しているなら、生命倫理についてなんらかの問題意識を持ちそうなものだし、問題は声高に語られもするのだが、実際にどのように現実で問われているかというと、ほぼ皆無に等しく、沈黙のうちにスルーされている。妊娠中絶、安楽死、同性婚、臓器移植、死刑といった問題は日本では現実的にはほぼなんの進展もない。
 つまり、日本人は、声高に騒ぎ立てるときにはコミュニタリアン的でありながら、実際の行動は黙ってリバタリアン的になる。リベラルふうに財の再配分を求めているときも、実際には、自分に再配分が多ければよいというくらいの根拠性しかない。
 この日本というのはいったいどういう政治原理が貫通されているのだろうか。
 明確にわかることは、2点ある。1点は、リベラリズムの不在である。
 もう1点は、声高にコミュニタリニズムを語り実際に黙ってリバタリアニズム的に行動するというあり方だ。「国益が日本が」あるいは「中国が韓国が」と問題を国家コミュニティを前提にがなり立て、自分が利益になるように誘導するのが日本の政治である。
 より正確にいえば、日本にはリバタリアニズムもない。個人原理のリバタリアニズムというより、半径1メートルの「承認」しあう身内の共同体利益で行動しているお仲間細胞原理である。
 これは、懐かしのイザヤ・ベンダサンが言うところの、空体語と実体語というバランスクラシーでもある。つまり、日本教なのである。
 
 

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2011.11.22

[書評]いまを生きるための思想キーワード(仲正昌樹)

 表題からわかるように、この小冊子(講談社新書)は、現代思想のキーワードに解説を加えたものであり、帯に「高校生もわかる『思想』入門」ともあるように、思想についてわかりやすく解説することを狙っている。

cover
いまを生きるための思想キーワード
仲正昌樹
 実際にわかりやすいかというと、仲正昌樹氏の他の書籍でもそうだが不用意な難解さはないという点ではわかりやすい。
 が、おそらく高校生が読んですっきりわかるというものでもないだろう。むしろ高校生が読んでわかるのは、現代思想が何を課題にしているか、という問題意識だろう。そのことが結果として、ただの気分やファッションで現代思想を語る愚かさを除くというメリットはある。
 本書はいくつかのキーワードを解説するという形式になっているから、何がキーワードなのかということが重要になる。具体的にはキーワードは次の21個に過ぎない。


正義

承認
労働
所有
共感
責任
自由意志
自己決定/自己責任
「心の問題」
ケア
QOL
動物化
「歴史(=大きな物語)」の終焉
二項対立
決断主義
暴力
アーキテクチャ
カルト
イマジナリーな領域への権利
「人間」


 デイヴィッド・チャーマーズ「意識のハード・プロブレム」、ブランドン・カーターの「強い人間原理」、ドナルド・デイヴィドソン思想と「スーパーヴィーニエンス」みたいな分析哲学系現代思想のキーワードは含まれていない。現代思想といっても社会思想に限定される。とはいえジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」が含まれているわけでもない。
 つまり、よくある日本の現代思想のように、なんだかわけのわからないキーワードの羅列したりマップにしたりする浅薄なしろものではない。
 では何か。仲正氏が現代を考える上での思想のキーワードを選らんで解説しているといえる。その意味では、これらはキーワードというより、思想のためのツール群と理解したほうがよいだろう。
 別の言い方をすれば、選択されている各キーワードの解説には、横断的に、ロールズのリベラリズム、ノージックのリバタリアニズム、サンデルのコミュニタリアニズムが、当たり前の前提にように登場する。アーレントの思想も前提になっている。これらは文脈から理解できないことはないが、高校生にもわかる書籍というなら、より基礎的な用語や思想家の思想について、別途ランクを下げた解説が必要になるだろう。本書は、仲正氏のこれまでの著作の補遺・発展といった印象が強い。
 むしろ面白いのは、その補遺を逸脱している部分である。過去の書籍でまとめきれなかった部分や、今後思想戦略的にこう考えたいという先取り部分が本書に見受けられる。特に、氏の翻訳「イマジナリーな領域」(参照)に関連する「イマジナリーな領域への権利」のまとめや位置づけはわかりやすい。同様のことが、「承認」や「共感」などにも見える。余談になるが、多少日本の現代思想などを知っていれば爆笑もののきつい皮肉も散見されて、面白いといえば面白い。
 本書を、仲正氏が提案する思想のツールとして見るなら、私個人としては、「心の問題」「ケア」「QOL」「アーキテクチャ」といったツール群が興味深かった。
 従来の「現代思想」は基本的に国家と個人(市民)の権利や自由・公正といった、人間と市民原理的な問題を思想として取りあげてきたものだが、現在から未来の社会において、特に日本などの先進国において、その関係で問われるのは、医療と老人の問題だろう。生命・医療と国家など公領域の関わりをどう捕らえるか。どう考えたらよいか。その思想のための道具としてこれらのキーワードは使える。
 医療問題や老人問題などの課題分野では、いわゆる左翼思想はすでにナンセンスと化しているし、リベラリスト/リバタリアン/コミュニタリアンといった視点もさほど有効ではない。
 とはいえ、まあ、一息つくと、そもそも日本という思想空間は、なんというのか、とんでもないほどの強固な虚構性があって、実際のところ、課題と思われながらも、問われない部分が大きい。特に生命倫理は、ほぼ問われていない。現実的に課題に見えるものも、ただの日本的な情感的に賛否が問われるバカ騒ぎに変換される。臓器提供意思表示は結果としてなんの進展もないかに見える。根津八紘医師の活動を思想的に取りあげた学者がいただろうかとも疑問に思える。これらは、日本教的な強固な虚構性から自然に排除されてしまう。
 同性愛の問題も西欧の問題として看過される。フェミニズムとカルチュラルスタディーズも、現実のアラブ圏の文脈としては問われそうにもない。
 この日本教とでもいうような強固な虚構性のようなものが、思想課題を無効化する日本の現状からは、現実には、思想のためのツールもあまり有効性はないのだろうなと嘆息もする。
 
 

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2011.11.21

レディング・ソース(Reading Sauce)

 イギリス料理でずっと気になっているのがレディング・ソース(Reading Sauce)である。40年くらい気になっている。きっかけはジュール・ヴェルヌの「80日間世界一周」(参照)の印象的なシーンからだ。
 霧がかるロンドンの霧のように謎めいたジェントルマン、ミスター・フォッグは、金持ちの社交界「改革クラブ」の会員。同会は社交の場を提供するとともに、食事から宿泊までもサービスする。フォッグ氏はクラブ近くのサヴィル・ロウ7番地の邸宅に住み、毎日午前11時半きっかりに邸宅を出てクラブに通う。帰宅は深夜12時きっかり。一日の大半をクラブで過ごす(その大半は読書とホイストをしている)。
 クラブに着くとフォッグ氏は食事をとる。時間はからすると食事は昼食だが英語ではブレックファストになる。ビクトリア朝大英帝国のイギリス料理である。私の少年時代の憧れでもあった。この食事を「昼食」と訳した高野優訳を借りる。


昼食のメニューはいつもと同じである。まずは前菜、それから茹でて〈レディングソース〉で味をつけた魚料理、あまり火を通さずに焼いて〈マッシュルームソース〉をかけた真っ赤なローストビーフ、ルバーブの茎とグーズベリーの実を詰めたケーキ、最後にチェシャーチーズをひと切れ、こういう料理を《改革クラブ》がインドで特別に摘ませたすばらしい紅茶を飲みながら味わうのである。

 ちなみに英訳ではこう。

His breakfast consisted of a side-dish, a broiled fish with Reading sauce, a scarlet slice of roast beef garnished with mushrooms, a rhubarb and gooseberry tart, and a morsel of Cheshire cheese, the whole being washed down with several cups of tea, for which the Reform is famous.

 英訳では、マッシュルームはソースではなく付け合わせとなっている。またルバーブの茎とグーズベリーの実はケーキではなくタルトである。紅茶は二杯程度であろうか。
 光景が目に浮かぶ。味もわかりそうな気がする。が、わからないのが「レディング・ソース(Reading Sauce)」である。魚料理のソースだというのだが、なんだろうか。なお、英訳では"a broiled fish with Reading sauce"なので魚は焼いていることになっている。
 ネットが自由になるころから探してみたが長いことわからなかった。が、昨年BBCに記事があった。「Reading's Cocks's Sauce to be recreated」(参照)。

Reading's Cocks's Sauce to be recreated

レディング・ソースが再生されることになった

During the Victorian era it rivalled Worcestershire Sauce in the nation's affections.

ビクトリア朝時代、レディング・ソースはウスターソースと英国民の人気を争った。

Reading Sauce is even mentioned in the book Around the World in Eighty Days by Jules Verne.

レディング・ソースはジュール・ヴェルヌの「80日間世界一周」にも出てくる。

However during the 1900s, Reading's Cocks's Sauce, fell out of favour with the public.

しかし1900年代に、レディング・ソースは大衆の人気を失った。

Now a Reading restaurant is to recreate the once-famous sauce, with ingredients including walnut ketchup, mushroom ketchup, soy sauce and anchovies.

現在、レディング・レストランは、かつては名声の高かったこのソースを再生しようとしている。成分は、クルミのケチャップ、マッシュルームのケチャップ、醤油とアンチョビである。


 記事を読み進めると、さらに、トウガラシ、スパイス、塩、ニンニクも含まれるようだ。

レディング・ソースのポスター
 レディング・ソースは、当時は国際的にも有名な魚料理用のソースだったというし、魚を食べる日本のことだから、明治時代の日本の洋食にもあったのではないか。
 レディング・ソース復活はイギリス的にはけっこうなニュースでもあったらしく、ガーディアンにも記事があった。「Reading's Cocks's sauce on shelves for Christmas」(参照)。表題からすると、レディング・ソース復活は、クリスマスのディナー向けということらしい。収益もチャリティになった。味もよかったらしい。ただし店頭販売はなかったようだ。
 では、自分で作れないものか。
 この手のソースは秘伝みたいになっているので正式な作成法は公開されていないが、一時代それほど有名なら何はありそうだと思って探すと、あるにはある。「Vintage Recipes: Reading Sauce」(参照)など。材料を訳してみる。

1.2リットルのクルミのピクルス汁
42.3グラムのエシャロット
約1リットルの湧き水
約350ミリリットルの大豆
約15グラムの刻みショウガ
約15グラムのヒハツ
約30グラムのマスタード・シード
1匹のアンチョビー
約15グラムのトウガラシ
約7グラムのローレル

 この時点でなにがなんだか見当も付かない。そもそも「クルミのピクルス汁(walnut pickle)」がわからない。こんなときは、グーグルで画像検索してみる。あ、なるほど。くるみの果実をそのままピクルスにするようだ(参照)。
 これならわかる。私は両親が信州人でなので子供ころから長野県の農村風景は見慣れている。胡桃の青い果実もよく知っている。あれか。あれをピクルスにしちゃうわけか。つまり、いわゆるクルミの部分の残りを使うわけか。
 仮にそうだとしても、作り方がまたよくわからない。

Bruise the shalots in a mortar, and put them in a stone jar with the walnut-liquor; place it before the fire, and let it boil until reduced to 2 pints.

エシャロットをすり鉢で潰し、クルミの液と一緒に石の釜に入れる。それを火にかけて、1リットルになるまで煮詰める。


 そのあといろいろ一時間くらい煮詰めて、24時間冷ますみたいな話がある。最終的には2リットルくらいソースができるらしいが、そんなにたくさん要らない。
 風味の要点だけで、魚向けの簡易なソースにならないものかと思うのだが、この調理法からだと想像もつかない。
 イギリス料理の技法を簡易にかつ実践的にまとめた「イギリス料理のおいしいテクニック」(参照)を眺めてみても、類似のものは見当たらないのだが、もしかすると、デヴィルド・ソース(Devilled sauce)の一種かもしれない。同書には、19世紀に流行したとある。マスタードにトウガラシやこしょうを加えるところがポイントのらしい。
 レシピの例としては、フルーティ・デヴィルド・ディップ・ソースがある。が、レディング・ソースはディップではない。それでもこの類似なのかもしれないとは思った。ジャムとマスタードにエシャロットを加えて、魚のソースになるものか。ジャムのベースとしてはママレードのような柑橘ではないから、簡易なところではリンゴが近いだろうか。そもそもクルミのピクルスだが、液だけ使うのか。どんな味なのか、わからないなあ。
 
 

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2011.11.20

[書評]イギリス料理のおいしいテクニック(長谷川恭子)

 イギリス料理は美味しいか? 私はイギリスに行ったこともないし、特にイギリス料理に馴染んだこともないが、米国料理と思って食べてた料理に含まれるイギリス料理的な部分から、また、小説やエッセイ、例えば村上春樹「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」(参照)などを読むに、不味いってことはないのでは、と思っていた。林望先生の「イギリスはおいしい」(参照)になると、逆にちと微妙なものが、あるが。

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イギリス料理の
おいしいテクニック
 で、イギリス料理は美味しいのか? 美味しいのである。疑いがすっきりと晴れたのは本書「イギリス料理のおいしいテクニック」(参照)を試してみたからだった。一時期、この本のレシピの料理ばかり作っていた。美味しいということもだが、料理その物も興味深かった。筆者、長谷川恭子さんの文献学的な研究の姿勢にも感動した。中世からの文献に当たって実際に創作して検証しているのである。
 残念なのは、今アマゾンを見ると絶版で中古にはプレミアムが付いていることだ。めちゃくちゃな価格とは言えないが自分の知るかぎり類書はないので、しかたないかなとも思う(多分、英書にもない)。図書館とかでは比較的見つかりやすい本ではないかと思う。
 具体的に何が美味しいのか? 美味しいということもだが、すでに定番料理になってしまったのが「レモン詰めローストチキン」。難しいことは特にない。いや全然難しくない。米国人の好きそうな秘伝のスパイスもない。スタッフィングとしてレモンを摘めて普通にオーブンでローストするだけなのである。レシピの秘訣みたいなのも特にないが、レモンは、丸のまま調理台で力を入れて転がして中が少しつぶれるようにする。そのあと、楊枝で20か所くらいぷちぷちと刺して汁が出やすくする。当然だが、レモンは農薬の少ないのを選ぶほうがいい。これをチキンに詰めて普通にオーブンでローストチキンにする。レモンの分だけ加熱は長くなる。レシピにはレモン2個とあるがチキンが小ぶりなら1個でいい。チキンの味付けは塩こしょうにオリーブオイルだけ。ローストができたらレモンを出してカットし、絞ってチキンにかけ、肉汁にも混ぜる。柑橘の香りとチキンが調和して美味しい。
 簡単な料理なのだが、一つだけ気になることがないわけではない。いや、本書の他のレシピにも言えることだが、時間がかかるのである。
 「レモン詰めローストチキン」なら180度で30分、上下を返して30分、200度に上げて20分。焼き上がったら休ませて15分。レモンを取り出す。掛かりきりの作業ではないが時間はかかる。たぶん、そこが現代的な料理ではないのだろう。
 私の好物でもあるが「タラのセヴィーチ」も時間がかかるといえば、かかる。鱈の切り身に塩こしょうして30分置く。これを軽くポワレ。そのあと、マリネするのだが冷蔵庫で3時間から12時間。マリネ液の作り方は省略するが特に難しいものでもない。が、何?その3時間から12時間って。
 たぶん、12時間というのは翌日食べるということだろうが、普通に食べるのにマリネ3時間というのは、現代風の調理だと長いようにも思える。マリネはそんなものであるのだが。
 本書の料理は手間のかかるものばかりではないが、手間への惜しみはない。料理ってそういうものなんだなというのと、その条件を廃してみると、現代風の料理とは違ったものが見えてくる。
 イギリスに料理の伝統はあるのかという問いに、本書は結果的に微妙な答えを出している。もちろん、ある。あるどころか、中世の料理書からも研究されているのだが、先の「タラのセヴィーチ」でもそうだが、セヴィーチは南米料理。それでイギリス料理なのか?ということだが、近世から世界帝国を築いていたのが大英帝国なのだから、それでいい。
 林望先生お得意のスコーンも当然掲載されている。それどこか、スコーンは生地なのであって、肉だのフルーツだの巻き込んだりして料理にする。うまいよ。本書には掲載されていないが、単純にウィンナソーセージを巻いてもいい。
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イギリス菓子の
クラシックレシピから
 著者・長谷川恭子さんはもう一冊「イギリス菓子のクラシックレシピから」(参照)というレシピ本も書いているが、こちらはお菓子に特化しているのだが、さらに文献的な考察が深まっていて、おそらく英米文学を学ぶ人にも必携ではないだろうか。掲載されているお菓子を食べてみたいというのは別としても。
 
 

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2011.11.19

[書評]ブロードウェイ 夢と戦いの日々(高良結香)

 高良結香さんの「ブロードウェイ 夢と戦いの日々」(参照)は2008年の出版。現在でも版を重ねたふうはないがどうだろうか。まだ絶版にはなっていないが版元がランダムハウスということもあって文庫化されるかはよくわからない。一つの時代の記録としても、また若い人に読み継がれるとよい、元気の出る書籍である。さらに米国のショービズの内側を日本人の目から描いたという点でも貴重な資料である。

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ブロードウェイ 夢と戦いの日々
高良結香
 話は、歌手でもあり俳優でもあり、なによりダンサーとしての高良結香さんの、幼児期からブロードウェイのミュージカル「コーラスライン」の舞台に立つあたりまでのサクセスストリーでもあるが、表題に「夢と戦いの日々」とあるように、絶えざる克己を必要とするプロセスも内面から描かれている。同時に彼女と同じように、ブロードウェイのミュージカルに立とうとする各国の若者群像も描いている。おそらくそこには、本書には描ききれなかった情熱の物語も数多くあるのではないか。
 高良結香さんの出身は沖縄の小禄である。米国に留学し、またダンスを学びながら一時帰国して小禄のツタヤなどでもバイトをしていたという。ハイスクールを出たときシュガーホールで手作りの公演もやったらしい。同時期に沖縄で暮らしていた自分も、小禄も佐敷によく行ったものだった。彼女とすれ違うようなシーンもあったのかもしれないなと連想した。
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コーラスライン
ニュー・ブロードウェイ
キャスト・レコーディング
 高良さんの年齢は公開されていないが、よく読むとわかるようには書かれている。だいたいのところ本書は20代までの記録と見てよいだろう。その意味では青春記でもある。
 ブロードウェイで活躍できるほどの彼女の英語力は幼児期からインターナショナル・スクールに通った成果だが、親の方針でもあったようだ。沖縄ならではの教育環境のようにも思えるが、自分の沖縄生活の経験からするとそう多いケースではない。ハーフの子で、どう見ても日本人っぽくなくて、その後のことを考えると英語ができたほうがいいということで通う子もないわけでもない。
 そういえばふと思い出したが、南沙織もインターナショナル・スクールに通っていた。当然英語がぺらぺらで英会話の本とかも出していた。1978年の「シンシアの英会話レッスン―英語でおしゃべりしてみませんか」(参照)である。アマゾンで見ると入手できない。私のはたぶん実家の書架にまだあると思う。
 高良さんの米国留学だが、普通にインターナショナル・スクールを出てから、ある意味普通に米国の大学に留学した。シェナンドア大学に進む。関連して有名な歌「シェナンドア」についても言及している。後に、照屋林賢氏プロデュースの「naked voice」(参照)でこの歌を歌っているが、当時の思いも込められているだろう。
 大学はしかし卒業しなかった。ミュージカルに触れ、ダンスと音楽に憧れて単身ニューヨークでの暮らしを始める。仕事やレッスンやオーディションの日々。この、ある意味下積みといえる生活の話も面白い。ショービズに憧れる米国の青年や各国の青年たちがこうしてニューヨークで暮らしているのだなとわかる。映画か小説でも見ているようだ。
 ショービズの世界に入ってからは、ユニオンについても、その内側からよく描いてある。ユニオンは、ごく簡単に言えば労組のことだし、賃金や労働条件の交渉などを扱うので労組という以外はないのだが、実際には日本の、結局大企業縦割りで左翼くさい労組とはまったく違う。私もわけあって米国のその手の団体に参加していたので内情を少し知っているが、ショービズにおけるユニオンの仕組みは本書によく描かれている。訴訟などが通例でもある社会だし、体の故障などの際の補償などでも、ユニオンがないとフリーランスはやっていけないし普通に技能者もやっていけない。日本もそういう社会になっていくというのに、しかも労組が政権取ったのに、まるで米国のユニオンのような流れは見えないところに、日本の暗澹たる未来があるのだが。
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universal u
 本書の後半は、ブロードウェイへのある種成功のストーリーと、ちょうど重なる9.11事件の米国での生活の経験が語られる。当日の行き詰まる状況は経験者だけが持つ独自の臨場感で語られる。こんな時だからニューヨークの灯を消してはいけないと、翌日からブロードウェイも続けられた。
 9.11の彼女の内面への衝撃はその後も続き、その内的な問いかけから、彼女は自分の歌を作り出す。「今なら素直になれるよ」である。「universal u」(参照)に含まれている。iTMSでも購入できる。ちょっとアニメ声のような甘さと高音の若い女性らしいかすれもありながら、日本語の歌詞にまざる英語の発音は完璧で、声のブレもなく低音の響きもいい。録音スタイルからかブレスがきつく拾われているがちょっとエロくも少しあるし、盛り上げはちょっと青春心をちくちくさせて泣かせる。
 高良さんの現在の活動については私はほとんど知らない。沖縄ベースで活躍されているのだろうか。ある一定以上の年代になったら、ユニオンでの経験などを活かして大学など学校の先生になるという道もあるのではないか。
 

 
 

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2011.11.18

[書評]真鶴(川上弘美)

 主人公の京(けい)は、明確に年齢は書かれていないが、46歳の女性。中学3年生の娘がある。結婚したのは20代の終わりだろう。夫の礼(レイ)は2つ年上。12年前に突然、失踪した。娘にはだから父の思い出はない。なぜ夫は失踪したのか。「真鶴」(参照)というこの物語が後半にさしかかるまで、主人公の京も理由がわからないとしている。多少ミステリーの仕立てにもなっている。

cover
真鶴
川上弘美
 どこに失踪したのかもわからないが、礼の残したそっけない記述の日記には、失踪の暗示とも取れる「真鶴」と「9:00」という謎の言葉が残され、京は12年後に、神奈川の真鶴に小旅行する。冒頭はそのシーンから始まるのだが、その旅で彼女をつけてくる者がある。霊というか、あるいは京の幻覚か。そのいずれでもよい。
 物語は主人公・京の統合失調症的な幻想描写を交えながら展開されるが、それは精神病理ではない。あくまで文学のたくらみとしての設定であり、いわば人間の内奥の異世界的な描出する手法である。この異世界がまた「真鶴」という、神話的が幻想を誘う空間にも設定されている。
 ごく簡単に言えば、普通の女として普通に生きるはずの女が、なぜかその人生を奇妙に途絶されたことの意味を文学的に問いかけるのがこの作品のテーマである。それは多少なりとも文学的な感性を持つ人なら誰にもであるものだ。40歳を超えた人間にとって、いかに平凡に生きてこようがどこかしら、愛との関わりにおいて、なぜこの不条理な人生が自分にあったのだろうか、という、胸をえぐる問いはあるものだ。それがこの作品のテーマが重なる。
 当然と言ってよいのだろうが、その問いかけが作者川上弘美にあって文学の形式となって表出されたものだろう。そしてその問いかけを、いかにも文学的な趣向と情感のなかに上手に統合したのであれば、この作品は、文学愛好者や批評家が称賛するものであれ、駄作であっただろう。
 一見不合理に見える幻想的な描写は、実際のところ精神医学的にも理知的に解き明かされうる、理系的な構造を持っている。なぜ統合失調症的な幻想が生じるのかといえば、主人公の自我の記憶の物語を抑圧するためであり、よくある人格分裂の機構を借りているにすぎない。別の女に奪われそうになった自分の男を殺したいという欲望がうまく消化できなかったということだ。その精神機構自体はチープなトリックにも見える。
 この作品の真価は文学的な装置にはない。あえて言えば、統合失調症的な幻想も真鶴の異世界的な絢爛な描写にもない。私たち人間の等身大の、大人の性欲望のもたらす、ある種耐え難い性行為というもののおぞましさのようなものを暴き出した点にある。
 性交渉の実態は、青少年が愛好したりするエロス的な高揚を目的した映像的作品などとは異なり、およそ見るに耐えない行為である。この作品はそのおぞましさの光景を執拗に描き出すという趣向はないが、そのおぞましさが避けがたく人間性というものに関連してくる、ある感触を、性交から出産にまで、くっきりと描き出している。その身体的な性の欲望と実践の感触のなかで、現実の、肌の感触をもつ人間の母子の連鎖のようなものが描かれる。むしろ、母子がなぜ血によって繋がっていくのかという奇妙さを描くために男を方法的に排除したかのように読めないこともない。
 作者・川上は主人公の京を自分に引き寄せたり押しのけたりしつつ、その造型にためらいを見せる。状況と幻視から想定される内面を持つ女・京が、作者川上であるはずもないのだが、川上は自身の内省と、そして率直に言えば、その肉体的な自信を主人公の京の性意識に混入させ、あげく京を物書きに設定する。これはほとんど失敗に近いのだが、おかげで意図と意図せざるものが複雑に混じり合い、その部分だけが物語りの最後まで統合されない。一見、物語はきれいに仕上げたかに見えながら破綻している。
 しかし物語に無理を強いてしまうほどの、作者の人生のある過剰が、ちょうど作者の性と人生が特有の交錯をする時期として、結果的に出現する。文学とはこういう希有な顕現である。その暗示は、おぞましい痴態の記憶としての人生を、読み手のわたしたちもまた老いに向けて回収していく苦悩に対応している。
 
 

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2011.11.15

鍋焼きうどん

 ドアを開けて二、三歩。なにかを忘れている。立ち止まる。サイフでもケータイでもない。なんだろうかと思うや首筋がすっと寒くなる。そうかネックウォーマーかと思い、そうだ鍋焼きうどんだと思う。
 混む時間帯を外して蕎麦屋に入ると今日は身障者がひとり。おばさんは熱いお茶を運んでくれる。「鍋焼きうどん」と私は言い、アダージョの四分休符を置いて「上」と言う。しわびた読売新聞を開いて珍妙な書籍広告を見ているうちに、ぐつぐつと泡を吹いて煮え立つ鍋焼きうどんが来る。こうでなくてはいけない。小盆に載せられた鍋は、逆さ返した蓋に鎮座している。
 アフロディテを産み終えた泡が少し引いてゼウスの男根のように海老天がそそり立ち、満月が輝く。神々よ、鍋焼きうどんよ。時は来た。
 祈りは短い。作業にかからねばならない。まず麩を探し、卵の黄金の輝きの上に載せ替える。その構築物の安定のために鳴門をワキに添える。よし。おっと、小皿のネギを散らす。
 麩と鳴門の移動によって生じた間隙に静かに箸を差し入れ、二口分ほどのうどんを引き上げて取り皿に移す。瀬戸物の蓮花で汁を注ぐ。熱い熱い。取り皿のうどんを再び箸で引き上げふーと息を吹き付けて、食う。熱い。が、火傷はしない。うどんにコシはない。だらりと均質に柔らかいわけでもない。ゼリーにも似たとろっとした食感と、くにくにとした歯ごたえ。味も染みている。
 取り皿が空になったらネギを摘んでボードウォークに進み、200ドルをゲットして、またうどんを進める。その間、鳴門を引き上げる。おっと、今、蒲鉾に手を出したら、ゴートゥー・ジェイル。
 静かに絶望的に沈む貨客船のような海老天の、取り皿に移す頃合いを見計る。このために米軍が用意した専用クレーン船で海老天を引き上げるものの、衣の断片は大西洋に沈む。エイハブは言う、これでいい。あれには天カスの効果があるのだ。
 海老天をほおばる。しっかりとした肉を噛みしめる食感にしばし鍋焼きうどんの存在が脳裏から消える。海老のしっぽをガリガリと奥歯で磨り潰すほどに海老の香りが拡がる。作業は順調。ついでに彩りのインゲン小片をかたづける。おっと筍、発見。
 鍋焼きうどん、第二章。海老天巨艦の後から、さらなるうどんを引き上げて食べ進める。ふっと立ち止まり振り返るプブリウス・ウェルギリウス・マロの霊魂の物憂げな顔色を見て息をつく。待て。伊達巻を食え、と。少し遅かったか。伊達巻は汁を吸いすぎて「の」構造が中年女の太もものようにはだけてしまった。完璧は求めない。求めるものは熟れた甘美さのみ。
 蒲鉾もよい頃合いだ。板わさの、ほのかにプラ消しのような食感は薄れて、煮たなこれというざらっとした食感が舌に当たり、痩せた女の乳首を噛むように甘噛みし、そしてそのシーンじゃねーぞと思い返して、ぐっと噛み込む。
 深海から鶏肉を引き上げる。十分煮えている。が、すべてその調子というわけにはいかない。うどんが保有するもっちりエネルギーはすでに半減期を迎え、でろりん化してきている。具にかまけていはいられない。この切迫感で最後のエネルギーを回収して、小汗を吹き出す。鍋焼きうどんはスポーツでもある。
 10パーセントほどのうどんの回収は諦めて、終盤の山場、卵に戻る。白身は蒲鉾を見習うかのように煮えている。問題は黄身だ。人生の重みのようにしなだれた麩をよっこらしょとのけると、金塊のような卵の黄身が現れる。箸でつつくが液状化はなく、ぷくんとした弾性がある。これだ。取り皿に移し汁をかける。Google+もこれを狙ったのかもしれないが、黄身の半熟+な食感と濃厚な味が拡がる。これこそ鹿島の太刀の秘伝。国摩真人申さく、最初に卵をぐじゅぐじゅかき回してはならぬ。
 饗宴は終わりに近づく。最後のうどんを回収し、ごくろうだったなと麩をほうばる。麩は終盤。途中で食ったら、口、火傷するぞ。同じく熱気を失った冬菇を噛みしめる。汁に出し切らぬ出しの味に、天界のコロスの歌声が響く。
 
 

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2011.11.14

バカ騒ぎしても、結局、TPPで日本は仲間はずれ

 TPPのバカ騒ぎで苦渋の参加表明をした野田ちゃん日本。血相を変えていた民主党議員の誰一人として離党ということもなく見事にヘタれて、ひとまず一段落つけ、さてハワイの空の下、結果は、というと、仲間外れ、である。繰り返すが、なんだったの、あのバカ騒ぎ。やってもやらなくても、まったく同じ状況だった、というのに。
 12日、ハワイ、ホノルル、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉に参加する9か国――米国、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、マレーシア、ベトナム、ブルネイ、チリ、ペルー――は首脳会合を開いた。日本は、そこに、いない。まだ参加もしてないのだから当然だが、前回横浜で開催されたときは、当時の菅首相がオブザーバーで「いた」ものだった。そして今回、ぼくらの野田ちゃん首相はどうなったかというと、オブザーバーにもなれなかった。日本不在、仲間はずれ、つまはじき、村八分、である。バカ騒ぎで盛り上がった、TPPは日本を取り込んで搾り取るという陰謀論はどうなったんだ? 
 いやそんなことは、昨年の時点でわかり切ったことだった。そもそも菅元首相がTPP交渉でオブザーバー参加した昨年には、これほどのバカ騒ぎはなかった。あの時点で、バカ騒ぎ火付け組が一年かけて念入りに仕込んでいた結果が、今回出ましたというだけのことではないのか。なんだか政権交代と似たような話である。
 今回の野田ちゃん首相の苦渋の決断、実は、苦渋でもなんでもない。実際のところ、なんの決断にもなっていない。というのは、菅元首相は、昨年、TPPの協議開始を正式に表明していたのだった。「TPP参加へ高い壁 首相が「協議」表明 スピード感も欠く」(読売新聞2010.11.16)より。


 菅首相は14日に閉幕したアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で、環太平洋経済連携協定(TPP)の協議開始を正式に表明した。ただ、参加の前提となる国内の農業改革はこれからだ。菅首相が力を入れた一連の“TPP外交”では、各国首脳の歓迎の声の一方で、今後の交渉の厳しさも垣間見られ、参加実現には悪路が続く。


 各国首脳から、TPP参加のハードルの高さを、改めて突きつけられる場面も目立った。
 オバマ米大統領は、日本のTPP協議開始を歓迎する一方、来年11月の交渉妥結を目指す考えを改めて示し、「TPPは(関税の原則撤廃など)質の高い合意を目指す」と強調することも忘れなかった。
 TPPは現在、米国主導でルール作りが進んでいる。日本がルール作りに参加できなければ、TPP参加が実現しても、各国が決めたルールを“丸のみ”するしかない。
 9か国会合後、チリのピニェラ大統領が、「(日本はTPPへの参加を)すぐに決断しないと、交渉妥結には間に合わない」と述べ、菅首相に早期の交渉入りを強く促したのもそのためだ。

 つまり、昨年と状況になんら変わりない。
 昨年にきっちり予想された事態でもあった。「TPP協議開始表明」(読売新聞2010.11.20)より。

 実際に前途は険しい。日本が議長国だった今回のAPECでは、TPP参加交渉9か国の首脳による会合に儀礼的にオブザーバーとして招かれたが、今後はそういきそうにない。
 カナダはTPPへ意欲を示しているが、正式に参加表明していないため、今回は招かれなかった。12月にニュージーランドで開かれる9か国交渉では、カナダと同様に、日本はオブザーバーとしても参加できない見通しだ。政府が派遣するチームは交渉の合間に9か国から内容を聞き取るなどして、文字通りの「情報収集」にあたる。日本が参加を正式表明するまで、そうした状態が続きかねない。

 それだけのことである。なんにも決められない日本が、首相の顔を取り換えて、一年続いただけである。アンパンマンだったら、顔を取り換える意味もあるけど。
 今回については、朝日新聞「TPP、首相さっそく厳しい洗礼 加盟国会合招かれず」(参照)が仲間はずれ日本を描いているし、昨日のNHKニュースでも報道はあった。

 オバマ米大統領が12日朝にホノルルで開く環太平洋経済連携協定(TPP)交渉9カ国の首脳会合に、野田佳彦首相が招待されない見通しであることが11日わかった。9カ国が積み上げた交渉の成果を大枠合意として演出する場に、交渉参加を表明したばかりの日本は場違いとの判断が背景にあるものとみられ、TPP交渉の厳しい「洗礼」を受ける形だ。
 日本政府の一部には、野田首相がアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議前に「交渉への参加」を表明すれば、TPP首脳会合にも招待される可能性があると期待があっただけに、落胆が広がっている。TPP交渉を担当する日本政府高官は「日本(の出席)は少し違うということだろう」と語り、現時点では、出席できない見通しであることを認めた。

 この時点では「見通し」だったが、すでに、粗方終わってる。産経新聞「9カ国が「大枠合意」 野田首相は米大統領に交渉参加表明へ」(参照)より。

環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉に参加している米国、豪州など9カ国の首脳は12日午前(日本時間13日未明)、協定に大枠合意した。米政府筋が明らかにした。日本の野田佳彦首相も12日午後、日米首脳会談でオバマ大統領に交渉参加の意向を伝える。

 あれである、仲間はずれにされた小学校低学年が「センセー!」という感じで、米国に泣きついたのである。だというのに、これに笑話が付く。読売新聞「TPP、日・米政府発表に大きな食い違い」(参照)より。

 米側の発表によると、会談で首相は「TPP交渉への参加を視野に、各国との交渉を始めることを決めた」とオバマ大統領に伝えた。大統領は「両国の貿易障壁を除去することは、日米の関係を深める歴史的な機会になる」と歓迎する意向を明らかにした。
 その上で、大統領は「すべてのTPP参加国は、協定の高い水準を満たす準備をする必要がある」と広い分野での貿易自由化を日本に求めた。首相は「貿易自由化交渉のテーブルにはすべての物品、サービスを載せる」と応じた。


 これに関連し、日本政府は12日、「今回の日米首脳会談で、野田首相が『すべての物品およびサービスを貿易自由化交渉のテーブルに載せる』という発言を行ったという事実はない」とのコメントを発表した。
 日本側が米側に説明を求めたところ、「日本側がこれまで表明した基本方針や対外説明を踏まえ、米側で解釈したものであり、発言は行われなかった」と確認されたとしている。

 米政府側発表は「Readout by the Press Secretary on the President's meeting with Prime Minister Noda of Japan」(参照)である。該当部分を太字にしてみた。

The President and Prime Minister Yoshihiko Noda had a good discussion today on a range of issues, including APEC and the upcoming East Asia Summit, and next steps on Futenma relocation. The leaders also talked about Japan's interest in the Trans-Pacific Partnership (TPP) agreement. Prime Minister Noda noted that he had decided to begin consultations with TPP members, with an eye to joining the TPP negotiations. The President welcomed that important announcement and Japan's interest in the TPP agreement, noting that eliminating the barriers to trade between our two countries could provide an historic opportunity to deepen our economic relationship, as well as strengthen Japan's ties with some of its closest partners in the region. The President noted that all TPP countries need to be prepared to meet the agreement's high standards, and he welcomed Prime Minister Noda's statement that he would put all goods, as well as services, on the negotiating table for trade liberalization. The President noted that he would instruct USTR Kirk to begin the domestic process of considering Japan's candidacy, including consultations with Congress and with U.S. stakeholders on specific issues of concern in the agricultural, services and manufacturing sectors, to include non-tariff measures. Prime Minister Noda also explained the steps he had taken to begin to review Japan's beef import restrictions and expand market access for U.S. beef. The President welcomed these initial measures, and noted the importance of resolving this longstanding issue based on science. We are encouraged by the quick steps being taken by Prime Minister Noda and look forward to working closely with him on these initiatives.

 読むに、この米側声明に外務省が難癖を付けるのは、理由なきこともでもなさそうだ。
 ところで、該当読売新聞記事には言及がないが、野田ちゃん首相は、米国牛肉についても言及していたようだが、外務省からこの点についてのコメントはなかったのだろう。
 ということは、TPP議論はさておき、日米間の貿易問題は、米国牛肉の輸入規制の撤廃から始まるということなのだろう。
 結局、国の将来を二分するような大議論のように見えて、大山鳴動、依然変わらぬ米国牛肉の問題だけだったわけだ。
 ちなみに、この関連の話題は、2009年にこのブログの「日本の牛海綿状脳症(BSE)リスク管理が国際的に評価された」(参照)で触れたことがある。
 
 

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2011.11.13

[書評]どこから行っても遠い町(川上弘美)

 中学生にもなる娘のいる男が、同じく中学生の息子のいる女と、ふとしたきっかけで関係を始めてしまう。それがゆるく続く。あるいは、そうした男の妻であり、そうした女の夫である人たちの苛立ちと空虚がある。急降下するようなエレベーターにのっているような、尿意のような、ずぅんとした感覚。それが恋愛のような乾いた性のようなものを駆り立てていく。
 中年にもなった男女の、薄汚さもある恋愛。そんなことがあるのかといえば、あるとしか言えない。そんな物語があるのかといえば、山ほど語られている。だが、他人事として、普通は。

cover
どこから行っても遠い町
川上弘美 (新潮文庫)
 あなた自身は、どうなんですか? 私ですか。いや、そんなことはありませんよと答える。若い頃ならまだしも、と加えるかもしれない。嘘は、ついてない、たいていの人は、事実という意味では。
 でも心情としてはどうなのかというと、苦みというより、ある空虚な感じに突き当たる。そうでなければ、たぶん「ニンゲン」ではないだろう。そういう真実が、「どこから行っても遠い町」(参照)に、日本語とはこういう言葉だったのかという流麗な文体で、パノラマのように短い小説群で綴られている。珠玉と言いたいところだが、その味わいがわかるのは、たぶん40歳を過ぎてからかもしれない。あるいは、30代でもその渦中にいる人たちかもしれない。
 作者川上弘美は昭和33年4月1日の生まれ。私と同級生の世代。読みながら、その思い出の風景をなるほどなと思う。物語の、魚屋の平蔵さんの兄は疎開の経験があるというから、小林亜星くらの年代であろう。彼の疎開先には同級生となる私の母がいたから、私の母の年代でもある。ということは作者川上の父母の年代の思い出でもあるから、物語の恋愛の群像は昭和一桁生まれに始まると言いたいところだが、平蔵の妻となる幼なじみの真紀は、平蔵が十歳のときに六歳というから昭和10年代かもしれない。印象としては長嶋亜希子から上野千鶴子くらいの年代だろう。いずれ団塊世代より少し上の世代で昭和後期のある種のモダンな時代の風景でもあり、表紙の谷内六郎がよく似合う。あの時代の週刊新潮(今でもあるようだが)の痴話の掌篇も思い出される。
 だから懐かしい時代の空気でもあるのだが、回顧なのではない。40歳を過ぎたころから、父母や叔父叔母たちの青春やその後の人生から浮き立つ、どろっとしたもの、端的に言えば、性の関係性が共感できるようになってしまうし、そのことが、人生とは何かということを別の角度から問い詰め始めてしまう。若い頃なら、ありがちな恋愛や性の痴態で済んだものが、あるぞっとしたものに到達するようになる。
 連作に見える物語は、昭和40年代から50年代の空気をもった、ある意味で現在にも重ねられる東京郊外の町が設定されている。荻窪あたりであろうか。この年代の男女が住まわされた町は、団地の光景はなく、死者の霊を包みながら生きている。
 不倫といえばそれだけのことだし、だらしない性の関係性に至る衝迫力が、市井の人々を静かに、老いた怪物がゆったりと舌なめずりをするように覆っていき、物語は、他者の細い視線を連鎖するかたちで繋がっていくのだが、それが表題作「どこから行っても遠い町」にぎゅーっと絞り込まれ、嗚咽を催す壮絶な美に至る。ここで物語は終わる。
 いや、その先に川上らしい意匠として(処女作の暗示の蛇もだが)エピローグの「ゆるく巻くかたつむりの殻」が描かれ、連作の物語の冒頭へと輪廻するが、これは物語の外部に過ぎない。もちろん、人の人生が物語りとして見えるなら、死霊は町の老人たちの思いのなかに存在するのであり、死霊として生きるために、性の衝迫が老いを許さないように、人の人生の後半を襲う。
 
  

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2011.11.11

[書評]どうぶつしょうぎのほん(きたおまどか、ふじたまいこ)

 「どうぶつしょうぎのほん」(参照)は書名の通り、「どうぶつしょうぎ」(参照)の本だし、棋士でもあるふじたまいこさんのイラストがふんだんにあり、同じく棋士のきたおまどかさんのやさしい解説で書かれているので、子供でも読めるようになっている。が、読んだ印象は、どちらかというと、子供に「どうぶつしょうぎ」を教えるときの指導要領に近い。

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どうぶつしょうぎのほん
 本書がなくても、「どうぶつしょうぎ」は十分楽しめる。が、その面白さを子供に伝えようというときには、手元に一冊あるとよいだろう。もちろん、「どうぶつしょうぎ」に夢中になって、もっと強くなりたいという人にも向いている。
 「どうぶつしょうぎ」とは何か? 3×4という小さな盤面で、動きを簡略化した4種の駒を使う将棋である。将棋で言えば、駒は、王、歩、飛、角といったところだが、盤面が狭くどの駒も一回に一マスしか動けないから、飛・角とは違う。とはいえ、当然、将棋の簡易版、サブセット、入門用といったふうに理解されるだろう。
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どうぶつしょうぎ
 私もそう思っていた。私は、創作性のあるゲームが好きだが、啓蒙的にアレンジされたサブセットはあまり好まないし、いかにも将棋を子供向けに改作しただけのゲームなら面白くはないだろうと思っていた。実物の大きな木駒の手触りや、いかにも子供向けといった愛らしい動物イラストを見てもそう思っていた。
 違った。人にもよるのだろうが、やってみると、全然違うのである。どう違うのか。まず将棋の勘が働かない。序盤、中盤、終盤といった全体構図がそもそも存在しない。最初から取る取られるの戦い。一種の詰め将棋に近い。では、詰め将棋なのかというと、そうでもない。詰め将棋なら出題者の思惑や詰み筋といったものから思考するが、「どうぶつしょうぎ」はそうでもない。
 やってみて、ええ?と驚きもしたのは、局面ががらりと変わることである。盤面が狭いから当たり前だが、三手後の局面があっという間に入れ替わることがある。五手読むのがつらいというのかじっくりとした思考が迫られる。
 もうひとつ、違和感でもあったのだが、飛車・角・香車・桂馬といった遠隔的な飛び道具が一切ない。なんというのか、ボクシングでぼこすからやりあうようなもので、そもそも最初の一手目から、歩(ひよこ)が取る・取られるの状況にある。
 これは将棋とはずいぶん違うものだなと思ったが、逆にプロの棋士にしてみると、将棋のシンプルな姿というものは、こういうものなのかもしれないとも思った。将棋的な思考の本質はむしろ「どうぶつしょうぎ」に凝縮されているのではないか。棋士が考えだしただけのことはあるなと思った。
 で、実際に身近の小学生や中学生とやってみた。これがまた驚きだった。すでに知っているというのはいい。そんなものだろう。で、数手して、あっという間に私が負けた。どう負けたかというと、相手の王(らいおん)がぐんぐんと進んでこちらの陣地に入り一列目に入って、「勝った!」と勝利宣言を聞かされる。え?と思ったが、そういうルールがあった。要するに、将棋だと思っている固定概念がいけない。
 「どうぶつしょうぎ」といえば、当初聞いたとき、私は中国の闘獣棋という将棋を思い浮かべた。こちらは、いわゆる将棋とは違ったゲームである。iPhone用に3Dアニメで動く、Animal Kingdomというゲームもあり、動物たちの動きがかわいい。そういえば、「どうぶつしょうぎ」もiPhoneアプリがあるが、こちらは現物がはるかに面白い。木の手触りもよい。
 
 

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2011.11.10

ドラッカーが21世紀のグローバル化について語ったこと

 日本人はピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)の経営論が好きで、意外な分野――戦前さながらの旭日旗はためく高校野球とか――にも応用したいとまで考えるようだが、彼の晩年の思想はあまり顧みられていないようだ。日本の戦後の成功を理論的に支援したドラッカーではあるが、そしてそれゆえに懐かしの旋律として今も老人から、また老人のように保守化した若者世代にも好まれるのだろうが、彼自身はその後もずっと世界の変化をその第一線から見つめ続けていた。
 ドラッカーは21世紀におけるグローバル化のなかで、日本の産業をどのように見ていただろうか。失敗と見ていた。保護主義によって衰退したメキシコ経済と日本の現状を並べて「明日を支配するもの」(参照)でこう語っている。


 同じように日本も、金利の減免等によりいつかの産業を輸出産業として育てる一方で、多くの産業を外国の競争から守ってきた。この政策も、ついに失敗した。

 グローバル化のなかでの日本の産業政策は失敗したとドラッカーは見ていた。その考え方の背景を同書からもう少し追ってみよう。
 ドラッカーは21世紀企業の経営戦略に、考慮が欠かせないとする五つの前提を提示した。その一つが「グローバル競争の激化」である。21世紀の企業経営はグローバル化競争の激化を前提にしなくては語れないというのである。企業だけか。そうではない。

 あらゆる組織が、グローバルな競争力の強化を経営戦略上の目標としなければならない。

 企業だけがグローバル化競争の激化に晒されるわけではない。

企業、大学、病院のいずれにせよ、世界のどこかのリーダー的な組織が設定する事実上の基準に達しないかぎり、成功することはもちろん、生き残ることもおぼつかない。

 グローバル化された世界の牽引的な組織が設定する基準を満たさなければ、どのような組織であろうと存続は不可能になるとドラッカーは予言している。
 どういうことなのか。ドラッカーは敷衍する。

それは、もはや賃金コストの優位性によって、企業の発展や一国の成長をはかることは不可能になったということである。


このことは、とくに製造業についていえる。なぜならば、先進国の製造業においては、コスト全体に占める肉体労働の比重は、小さくなる一方だからである。すでに、コスト全体の八分の一が平均である。もちろん肉体労働の低生産性は企業の生存を危うくする。しかし、肉体労働の低コスト化が企業全体の低生産性をすべてカバーすることはできない。

 低賃金化によって製造コストを下げる競争では企業はもはや存続できない。それがグローバル化の世界における成長の大きな要因ではないからだ。同時にこのことは、安い労賃を求めて他国に製造拠点を点々と移すことにも限界があることを示しているだろう。
 ドラッカーは日本に対して、その警告を強く発している。日本のかつての発展モデルはもはや通用しない。

このことは、二〇世紀の経済発展モデル、一九五五年に日本が確立し、その後韓国やタイが採用したモデルが、何の役にもたたなくなったことを意味する。

 コスト削減による発展のモデルが最早通用しないだけではない。政府補助金による産業保護もまた無効になるとドラッカーは予言する。

世界最高水準の域に達することができなければ、いかにコストを削減し、いかに補助金を得ようとも、やがては窒息する。いかに関税を高くし、輸入割り当てを小さくしようとも、保護的措置では何ものも保護しきることはできない。

 ではどうすればよいのか。すでに言及されたとおり、グローバル競争の牽引的な基準を率先して受け入れ、願わくばその基準を策定する側に回るしかない。
 ところが、ここでドラッカーはこの遠望に対して、逆説的な近未来も予言している。21世紀を迎えた数十年間、具体的に世界はどのように動くか。反動するというのだ。

それにもかかわらず、今後数十年にわたって、保護主義の波が世界を覆うことになる。なぜならば、乱気流の時代における最初の反応は、外界の冷たい風から自らの庭を守るための壁づくりと相場が決まっているからである。とはいえ、グローバルな水準に達し得ない組織、とくに企業は何をもってしても、保護しきることはできない。さらに弱くなるだけのことである。

 むしろこう言うべきだろう。保護主義の波が世界を覆うことは、グローバル化が避けがたやってくることの確実な兆候なのだと。この保護主義の嵐を乗り切る組織や国家だけが21世紀の後半を生き延びるのだと。
 そしてドラッカーの経営論(マネジメント)は、次のような形を取ることになった。

企業に限らずあらゆる組織が、世界のリーダーが事実上設定した基準に照らして、自らのマネジメントを評価していかなければならない。

 経営とは、企業であれ国家であれ非利益団体であれ、グローバル化の最先端の基準から評価されるものであるとドラッカーは言う。グローバル化を牽引する基準を率先して策定することが、組織経営のもっとも重要な課題にもなるという意味である。
 
 

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2011.11.08

[書評]インナー・チャイルド 本当のあなたを取り戻す方法(ジョン・ブラッドショー)

 最初に言っておくと、本書「インナー・チャイルド(ジョン・ブラッドショー)」(参照)の副題「本当のあなたを取り戻す方法」は、私としては賛同しがたい。そもそも「本当のあなた」なるものがあるのかどうかもわからないし、「ああ、これが本当の自分だ」という実感が仮に得られたとしても、それが一般的なことなのか、あるいはその代償もまた大きいのではないかとも思える。その意味でも、本書はお薦めするという類のものではない。

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インナーチャイルド
本当のあなたを取り戻す方法
 では、なぜこの本を読んだのかというと、関心があったからだ。そして、当然というべきだが、私自身が「インナー・チャイルド」なるものに苦痛を感じていたからだ。
 「インナー・チャイルド」というのは、大人になっても心のなかに潜む、傷ついた子供のような心理のことだ。子供のころに得たつらい記憶が今も心的外傷後ストレス障害(PTSD)のように残っていることだと言ってもいいかもしれない。もっとも、本書などにもそれなりの定義やその考え方の背景はあるので、詳しくは本書などに当たってほしい。また、一般に「アダルト・チルドレン」といった概念も近いには近いのだろう。
 私が本書を読んだのは、自分の「インナー・チャイルド」の問題に対して、どこかに救いのようなものがあればなとは思っていたことはある。本書には、なるほど、その救いのためのいくつかのアプローチやメソッドが記されている。
 読みつつ、この手のアプローチは若い頃いろいろ経験したし、本書にもあるメソッドのいくつはその過程で実践もしたことがあることを思い出した。なのに今のこの苦悩の自分がいるという現実も了解している。だからこうした書籍を読みつつも、これでそれほど救われるという期待があったわけではない。結論から言えば、本書は私の手助けにはならなかったが、この分野がどういう構造をしているかということは、再確認できた。
 もう少し個人的なきっかけを語ると、先日、心を落ち着けるために瞑想していた際、幼児期の苦しい記憶がよみがえり、「ああ、これはいけないな。ここに触れてもどうにもならない」と思いつつ意識を引き返したのだが、その後もひっかかり、再度の瞑想で、少し触れたところを覗くと、心理的な激痛のようなものがあって驚いた。この手の心理的な外傷を抱えて生きているとは知っているし諦めてもいるのだが、あらためて心理的に接触すると耐え難いものがある。これは「インナー・チャイルド」というものかという認識と、最近の世相に見る幼児虐待なども連想した。
 幼児虐待の問題は、しばしば「子供が可哀想だ、なぜ保護できなかったのか」という、一見社会的な問題として扱われるが、その内部の心理的な問題もある。虐待する親は当然問題ではあるが、こうした親たち自身が心理的に「インナー・チャイルド」を抱えているのではないかという洞察が私にはある。
 これらの問題は、社会的な対応だけではどうにもならないとも思っていた。もう少し自分に引きつけていうと、この手の社会的事件に接すると、自分が虐待された幼児と心理的に同化してしまう傾向があり、それを見つめつつ、緩和するために親を許そうとして、親もまた幼い心のままなのだというふうに相対化して意識してきた。
 「インナー・チャイルド」について最近の書籍で、比較的読まれているものはなんだろうと思い、「インナーチャイルドと仲直りする方法 傷ついた子どもを癒し、あなた本来の輝きを取り戻すインナーチャイルド・ワーク(CD付き)」(参照)という書籍を買ってみた。CDにはアプローチについての具体的なメソッドもあるのではないかという期待もあった。中身はさほど検討していなかった。
 買ってから気がついたのだが、これは、いわゆるスピリチュアル系の本で、「ああ、まいったなぁ」と思った。私はスピリチュアル系の本やオカルトなんかも、ふんふんふんと読む人なのだが、ある程度距離を置いているからであって、そこにすぼっと入るときは心理的な抵抗がぐっと押し寄せる。同梱のCDも聞いたのだが、女性の語りの質は悪くないのだが、受け付けなかった。だが、冒頭、「あなたの体のなかのどこにインナー・チャイルドがいますか?」というのは心に引っかかった。体の部位にいるという感触はあるにはある。
 この本では、さらに「マジカル・チャイルド」なる概念が出て来る。いわば、守護霊さんみたいなノリである。それはそれでいいのだが、一体この奇っ怪なインナー・チャイルドやマジカル・チャイルドといったスピリチュアル系の概念は何に由来するのかという知的な関心も湧いた。
 インナー・チャイルドという概念は、おそらく、エリック・バーン(参照)の交流分析(参照)から発展しているのだろう。つまり、ポピュラー型のフロイト論の変形であろうという察しはあった。
 本書「インナー・チャイルド(ジョン・ブラッドショー)」を読むとまさにその通りなのだが、著者ブラッドショーはさらにこれに、ミルトン・エリクソン(参照)を加味しているようだった。特に、催眠術的なイメージ・ワークはエリクソンあたりに由来しているようだ。本書でもいくつか後催眠やNLP(参照)的な手法も採られている。
 また「マジカル・チャイルド」なる概念はどうやらブラッドショーがユング心理学あたりから創出したようでもある。さらに個別には言及されていないがシルバ・マインド・コントロールもありそうにも見えた。いわば、ごった煮のようなメソッドのようだがそれでも本書がインナー・チャイルド系の書籍の原点にもなった古典のようでもあるようだった。
 興味深いのは、本書は手法的には混乱しているかのようにも見えながら、バーンよりさらにフロイトを遡及したように、幼児期の各精神成長段階を想定している点だ。意外でもあったのは、思春期の精神的な外傷を扱う部分で、そのあたりまでインナー・チャイルドという概念が覆うものなのか。率直なところ、精神的な外傷というのは青年期にもありえるし、いったいいつになったらインナー・チャイルドは終わるのかという奇妙な思いもした。
 知的な読書としては以上ではあり、いずれなんらかのこうした心理的な対応というのが社会機能に含まれなくてはならないとも思うが、再度自分に引きつけてみて、しみじみと了解せざるを得なかったのは、セラピー的な要諦は、まさに心的な外傷に触れてみるという点だった。つまり、心的な悲嘆を抑圧から解くためにいったん出してみるという部分である。これはパールズ的(参照)でもある。
 個人的には精神的な外傷な苦痛に直面せずなんとか解消できないものかとも思ったが、やはりそうもいかないかという落胆がある。実際のところ、本書も、その悲嘆の露出時の精神的な危機への対応注意がいろいろと説明されているが、単純に読んでもわかるように、一人で読書してメソッドを実践するとかなり危険なのではないだろうか。逆にむしろその点でスピリチュアル系のほうが楽といえば楽なのかもしれない。
 おそらく、インナー・チャイルドというような心理的な問題は、傷ついた子供の心をかかえた大人が自分の子供を育てて癒していくというプロセスがあり、そもそもそれが人類に仕組まれているといった、もっと大きな問題かもしれない。
 つまりこの問題の対処は、セラピーといった特化したものではなく、社会機能のごく一部として文化的に要請されるのかもしれない。現代日本の社会にそうした心理的な社会機能の文化が欠落しているなら、スピリチュアルやオカルトが蔓延するのもしかたないことかもしれない。
 
 

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2011.11.05

現代版・竹島物語

 竹島の住所はというと、島根県隠岐郡隠岐の島町に属するが官有無番地。島根県松江市から北約70kmの隠岐の島町からさらに北西に約157km離れた、北緯37度15分、東経131度52分の岩礁である。人も住まぬと言いたいところだが韓国人が住んでいるらしい。
 韓国にしてみるとこの岩礁は韓国の領土だというのだ。大韓民国の住所もあり、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑獨島里となるらしい。
 ようするに日本と韓国がその領土を争っている地域である。他国から見れば、それだけなら、よくある領土紛争だが、日韓以外の第三者から見ても、そうとも言い切れないものが出てきた。今年の動向から見ていこう。
 6月16日のこと、大韓航空が翌日からのソウル・成田便に欧州エアバス社の「エアバス380」を投入するにあたり、メディア向けのデモンストレーション飛行を実施したのだが、その飛行ルートはというと、仁川空港から日本海方面に飛び、わざわざ竹島上空を通った。搭乗した新聞記者たちが機内から竹島の撮影ができるようにサービスしたのだが、韓国内の「竹島は韓国領土だ」という世論に迎合したかったという面もありそうだ。
 というのも、その前日の15日、韓国孟亨奎・行政安全相が竹島に上陸し、島内の道路・住所名称の整理・変更に伴う新名称表示板設置の記念行事があり、韓国内が竹島の話題で盛り上がっていたからだ。
 突然の盛り上がりというわけではない。4月1日には李周浩・教育科学技術相と李明博大統領側近である李在五特任相が竹島を訪問していたし、5月25日には白喜英・女性家族相が訪問していた。この時期に韓国の閣僚の竹島訪問が続いていたのは、韓国では来年4月に総選挙、12月に大統領選挙が控えており、吉例の選挙絡みのナショナリズムが高揚する時節だからだ。
 とはいえ、当然、日本にしてみるとこれらは自国領土への侵害である。6月15日の件については外務省の佐々江賢一郎事務次官が抗議した。その前の5月25日の件についても松本剛明外相が権哲賢駐日韓国大使(当時)に抗議した。しないわけにもいかない。
 6月16日のエアバス380による竹島上空フライトも、日本国として見れば領空侵犯である。外務相はまたかという感じで事実確認などをしてから5日後の6月21日に、在ソウル日本大使館を通じて韓国政府に抗議した。
 だが自民党からは手ぬるいとの声もあり、外務省は追加措置として公務による海外出張に大韓航空機の利用を一か月間自粛するよう全職員に通知した。その反応で韓国側も外交通商省が遺憾の意を表した。その他いろいろ騒ぐ人もいた。が、日本の外務相は通常、日本航空や全日空を利用するので、大韓航空を使うなという通達は実際には形式的な抗議に過ぎない。
 自民党としてはそれで収まりも付かなかったかのように7月15日、石破茂政調会長を委員長とする「領土に関する特命委員会」の新藤義孝衆院議員ら3名が、8月初旬、竹島に近いとされる韓国領の鬱陵島を訪問する計画を発表した。なぜ鬱陵島なのかというと、同島が竹島観光の拠点でもあり、同島内の「独島博物館」も視察したいということが、”表向き”の理由だった。
 自民党訪問団についての韓国側の反応だが、先の李在五・特任相は「独島を日本領と主張するための訪問なら韓国領土に対する主権侵害であり、絶対に許せない。あらゆる組織を動員し国民の名で鬱陵島上陸を阻止する」とぶち上げた(参照)。
 韓国が法治国家なら、韓国領土への訪問を阻止する法的な根拠は存在なさそうなものだし、7月18日付け朝鮮日報「独島:自民党議員ら鬱陵島訪問を計画」も「自民党の議員たちによる鬱陵島訪問を阻止する法的根拠がない上、訪問を阻止しようとしてトラブルが発生した場合、日本による領有権の主張を国際的にアピールする結果を招きかねないからだ。」と懸念していた。
 だが、韓国外交通商省の金在信次官補は7月29日、「身辺の安全確保が難しく、両国関係に及ぼす否定的影響を勘案し、議員一行の入国を許可できない」(参照)とした。韓国の出入国管理法では、「韓国の利益や公共の安全を害する行動をする恐れがあると認めるだけの相当の理由がある者」の入国を禁止できるらしい。
 自民党も大人げないものだなという印象があるが、この話、毎度お馴染みの騒ぎというのでもないようだ。4月19日に韓国は、鬱陵島に韓国海軍の次期護衛艦(2300〜2500トン級)を配備する案の検討を明らかにしていたからだ(参照)。
 さらにその計画の詳細は9月28日に報道された。共同「鬱陵島に海軍基地建設へ 韓国、竹島の実効支配強化」(参照)より。


 日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)の北西にある日本海の鬱陵島で、韓国政府がイージス艦が停泊可能な海軍基地を建設することが28日、分かった。与党ハンナラ党の鄭美京議員が明らかにした。
 鄭議員は新たな海軍基地の建設により、有事の際には日本の艦艇より1時間以上早く竹島に到着できると主張。韓国は、鬱陵島で海軍のヘリコプター基地拡張も計画しており、竹島の実効支配を強める狙いがあるとみられる。
 鄭議員によると、海軍基地は長さ300メートルの海軍専用埠頭を建設する。総事業費は3520億ウォン(約230億円)で、2015年までに完成させる。鬱陵島では、最大5千トン級の船舶を接岸可能とする埠頭拡張計画も明らかになっており、海軍基地と併せて整備する方針。

 日本人としては味わい深いものがある。なかでも「有事の際には日本の艦艇より1時間以上早く竹島に到着できる」というのは、日本国が竹島に海上自衛隊を向けるという想定に備えるものだというのが、率直なところ、奇妙な印象がある。韓国からは日本がそのような国家に見えているのだろうか。
 とはいえ、日韓双方の見解をそのまま付き合わせてもなんなので、国際的な外交誌「The Diplomat」の記事「South Korea’s Misguided Pier Plan」(参照)を参考に引いておこう。

Yet it’s hard not to feel that compared with the threats posed by North Korea and China, South Korea’s perception of Japan’s quest for control of Dokdo – and its response in developing the naval base on Ulleung Island – seem overdone.

北朝鮮と中国からの脅威と比較して、日本による竹島支配の追究と、その反応で鬱陵島に海軍基地を作るという、韓国の認識は度が過ぎると見るに否みがたい。

Sovereignty over the Dokdo islets has more emotive than strategic value for South Korea, and it’s clear that it is bitter historical memories that are shaping South Korea’s defence policy vis-à-vis Japan.

竹島という岩礁への主権は、韓国にとって戦略的であるより、感情的なものであり、韓国の対日防衛を形作っているのは、歴史の苦い記憶であるのは明らかだ。

Yet the fact remains that Japan’s current defence policy shows no sign of reverting to its military expansionist past.

しかし、事実はといえば、日本の防衛政策には、過去の軍拡へ逆行する兆候はまったくない。

With this in mind, South Korea’s security strategists would be far better crafting an approach that’s grounded in present day realities, not those of the past.

この点を留意して、韓国の安全保障戦略担当者は、過去に基づくのではなく、現状に基づいて、その戦略を形成していくほうが、はるかに好ましいだろう。


 まあ、ジャーナリズムの世論やネットの世論みたいなものでナショナリズムをわーわー言いあっていても始まらないが、日本国は民主主義国だし、この民主主義の政府で自衛隊という軍事力も掌握され、そのあり方も白書として公開されているのだから、それらに基づいて、韓国も現実性のある防衛策を検討したほうがいいだろう。鬱陵島に海軍基地を作るのは、現実的には、無意味なのだし。
 
 

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2011.11.04

老人はなぜ、うどんをあんなに食べるのだろうか?

 近所にうどん屋ができた。うどん屋といっても、大路に面した、駐車場の広いファストフードタイプの店である。ざっと見たところ、牛丼屋やラーメン屋の風体でもあるが、店の外観は黒ベースで和風の印象もある。大書した看板を見るに、うどんの種類は、さぬきうどんらしいが、釜揚げうどん、ともある。「花丸うどん」のようなものかもしれない。こういうものが流行っているのだろうか。気になって寄ってみた。
 駐車場のつまり具合から予想はしていたが店内に入ると、混んでいる。入り口の戸を開けるや自然に並ぶことになっている。おや? これは学食? セルフサービスらしい。プレートを手に取る。
 どんなメニューがあるのか、どういう支払いシステムなのか。よくわからない。まあ、二、三人前の人の真似をしていたら、なんとかなるだろう。先頭にいる村長さんが芋をすべらしたら、私も箸に刺した芋を振り払えばいい。いや、芋はない。だが、村長さんは、いた。
 もちろん村長さんではない。が、村長さんと呼んで遜色のない風体の老人が列の三人前にいる。そして私の前に老人が二人並ぶ。助役と出納役。
 かく言う私だって、ブログ界では爺の異名を取る者である。爺爺爺爺。これが蟹歩きしている。インベーダーゲームか。あるいはアルマゲストに記される静謐なる宇宙の秩序のようでもあるが、そのアルケーは、うどん。
 前方の爺列を見るに、うどん・アトムは二つの現象がある。ぶっかけと釜揚げ。最初にそのどちらかを選ぶのだ。選択は、ここにある。ぶっかけか、釜揚げか。そこが問題なのだ。
 暴虐な湯気を上げる釜から出でた白蛇のうどんに聖ヨハネのように格闘するのか、温玉うどんに刻みネギというもろもろの荷重に箸をとって立ち向かい、これを胃の腑に納めるか。どちらが立派な態度か。いや所詮は食事に過ぎない。食事によって、この肉体が受けなければならないカロリーと眠気。そうだそれこそ望ましき大願成就。食っては眠ること。眠るは多分夢見ること。おっと、まず食わねばならない。
 爺列は進み、時は迫り来るというのに決断ができない。どうするアイフル。
 前の爺のかまあげうどんの慣性にけおされ、にっこりを微笑む白衣のオバサンの威圧もあって、つい「かまあげ」と言ってしまった。もうしかたがない。ぶっかけで温泉卵ってちょっと気持ち悪いからなぁ。ましかも。
 あとは席を探して食えばいいのかとふとした気の緩みに、オバサンの一撃。「大? 並み?」 え? えええ?
 サイズがあるのか。並みだろ、並みな人間だしな、俺。「並み」と言って、風呂場の手桶の背を低めたようなものを受け取り、オートマトンの駒を進めると爺コンベアの次の工程は天麩羅。
 天麩羅が選べる。釜揚げうどんに天麩羅って初めての体験だな。コロッケはないのか、コロッケ(参照)。ないな。
 じゃ、かき揚げ、と見ると、駅蕎麦の2次元性はなく、オープン3Dで再現しましたみたいな立体的なかき揚げである。それもいいんだが、ここは、昭和生まれの並みの爺としては、磯辺揚げが狙い所。あった。おっとその手前にエビ天も。
 エビ天か、おお、これだ、これ、この衣たっぷりで実体が十二単に覆われた淑女のようなエビがよいのである。するとイカ天もあるに違いない。ある。ここでも選択しなければならないのか。この先は、トマトとピクルスか。
 で、エビ天。
 いや、ま、いいじゃないの。それとナス天。精進しないとね。
 百尺竿灯に一歩を進む。天つゆをもらって、かくして支払い。ワンコインで足りました。安いね。貿易自由化で安い小麦が輸入されるともっと安くなるんだろうか。いや、価格の大半は人件費と流通でしょ。
 支払いが終わると、爺列結合が分解されて、席を探すのだが、この時点になってようやく店内を見渡す。店内は広い。奥の方に座敷席もあるが、そこに爺がひとりぽつんと座るわけにもいかない。ボックスシートもある。ラーメン屋にも似ているな。カウンター席も当然。
 ということでカウンター席に座る。椅子は環境型権力を行使しているに違いないと思ったがそうでもない。
 右隣は爺。左隣は爺。爺再結合である。もういいよ爺。
 釜揚げうどんを食う。悪くない。腰もある。エビ天は期待通りぼってりと衣が脱皮するのだが、ほんのり暖かい。え? ナス天は、おおぉ、暖かいというか、ジューシーでよく揚げられているではないか。ラッキー。
 問題は、そう、問題はある。人生とは問題の連続である。飽きるのだ。味に。単調。うどんに腰があるのはいいけど、だんだん顎関節症のリハビリテーションになってくる。あれかな、爺さんたち顎の訓練でうどん食うのか。
 それに、食っても食ってもこの、釜揚げうどん減らないみたいなんだが、どういうトリックなんだ。
 右隣の爺さんをちらと見る。後から思い起こせばそれは釜揚げうどんであるのだが、その瞬間は視覚の遠近感が狂うような心的ダメージを受けた。で、で、でっかいタライ! そのタライはなんだ。これが「大」なのか。釜揚げうどんは、入っている。爺さん、もくもくと食っている。フィンセント・ファン・ゴッホ作『釜揚げうどんを食べる人々』のように。
 よもや、と見渡すと、店内のあちこちに、このでっかいタライ。ぶっかけのほうも、でっかいすり鉢みたい。
 店内の年寄り率が高いのはすでに描写したとおりなのだが、あっちこっちの爺さん婆さんが、なんで、こんな大量のうどんを食っているのだろうか。なにが起きているんだろう? ニッポン。
 老人たちは、一日一食なので食い溜ためているんだろうか。わからない。
 なんかとんでもないところに来ちゃったな。
 すごい敗北感で、食いきれなかった釜揚げうどんの小タライを戻して店内を出る。
 見上げるとすがすがしい秋の空が拡がっている。負けるな、俺。また、食いに来るからな。
 
 

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2011.11.02

エジプト軍政はアラー・アブド・エルファタ(Alaa Abd El Fattah)氏を公正に扱え!

 エジプトの民主化をブログから訴え続けた、29歳のエジプトのブロガー、アラー・アブド・エルファタ(Alaa Abd El Fattah)氏が10月30日、エジプト軍に拘束された。理由は、エジプト軍に対する暴力活動の煽動と妨害行為とされている。
 彼は、ムバラク政権下でもその言論活動で2006年に逮捕されたことがあるが、クーデターによって政権を奪取したエジプト軍は、あからさまにムバラク時代のやり口をなぞりだしたように見える。
 ガーディアンも今回の事態を「逆走」の転機(参照)と見ている。確かに「エジプトの民主化」と言うなら、ようやくの転機の兆候である。エジプトに民主化を求める諸国は、エジプト軍政がアラー氏を公正に扱うように求めなければならない。


アラー氏の拘束を伝えるガーディアン記事
(写真は左がアラー氏、右が夫人のマナル・ハッサン(Manal Hassan)氏)

 アラー氏に問われた「煽動」だが、このブログでも「エジプトのコプト教徒差別: 極東ブログ」(参照)として記したが、多数の死者を出したコプト教徒弾圧事件に関わるものである。この事件は現在、その広場の名称をとって「マスペロの虐殺(Maspero massacre)」と呼ばれるようになった。
 エジプト軍部はマスペロの虐殺について、丸腰の兵士三百人が、六千人のデモ参加者に向き合ったと二人の将官に証言させているが、戦闘用車両を突っ込んで市民を殺害したことや発砲したことには触れず、目撃証言とは異なっている(参照)。
 エジプト軍に拘束されたアラー氏は現在、軍人にはアラー氏のような市民を尋問する権利はないとして、文民による司法手順を望み、軍部への応答を拒絶している。だがこの拒絶を理由に軍政側は拘束を15日続けるとしている。事態について私は客観的に見ていきたいのだが、アラー氏の文民による司法への要求は民主主義国の市民の権利としてごく当然のことと言えるだろう。
 アラー氏の拘束に反対し、アラー氏への連帯から、タハリール広場には三千人の抗議者が集結して、現在のエジプト軍部が政権から下りるように求めた。軍政指導者に向けて、「陸軍元帥、革命はやってる」との声もスピーカーで拡がった(参照)。軍部が民主の議会に従属してこそ、初めて革命と言える。
 背景となるエジプト軍政府の動向はどうか? マスペロの虐殺の報道でもすでにそうであったが、軍側が被害者であるという枠組みに持ち込みたいようだ。今回の抗議者についても海外からの煽動によるのだと吹聴している。今回のアラー氏の拘束もこの流れの一環にある。
 しかし軍側が国内報道を握り直して、都合のいい虚構を流しても、抗議者たちの活動は依然ツイッターなどで世界に通じている。マスペロの虐殺でもその実態は、ツイッターやフェイスブックから証言が流布していった。軍側の虚構の枠組みによる抑え込みは無理がある。
 現在のエジプト情勢について、ざっと日本国内の報道や国内ブログを見まわしたところ、年初のような関心が失われているようにも思えたが、現在こそ、民主主義諸国がエジプト軍部の動向を注視していくことが重要だろう。ブロガーであるアラー氏へ弾圧の抑制に、一人のブロガーとして連帯の声を上げたい。


追記(2011.12.26)
 テレグラフ「Prominent Egyptian blogger Alaa Abdel-Fattah freed after two months - Telegraph」(参照)などによると、12月26日に解放された。

 
 

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2011.11.01

[書評]ボードゲームカタログ(すごろくや)

 「ボードゲームカタログ(すごろくや)」(参照)は、名前とおり、ボードゲームカタログである。簡素なのに、すごくよく出来ている。

cover
ボードゲームカタログ
 ただ、「ボードゲーム」と言われても、ピンと来ない人もいるかもしれない。ようするに「すごろく」である、というと別の誤解を招く。「人生ゲーム」みたいなゲーム、「モノポリー」(参照)とかね、なんて、あー、すまん、この二つは載ってないんです。ちょっと違う。
 基本は、「ドイツボードゲーム」と呼ばれるタイプのゲームだ。ドイツで10年くらい前から話題になって毎年、各種作成されるようになった、卓上で数名で遊べる創作ゲームである。
 ポイントは、大人も面白いということ。頭を使うタイプが多いが、チェスみたいに頭だけというゲームではない。リアルな人間が集まってわいわい、一、二時間を熱中して過ごすことができる。麻雀みたいな面もあるし、僕は麻雀とかやらないけど、麻雀より面白いんではないかと思う。いかが。
 著者は「すごろくや」となっていて編著という側面もあるのだろうが、実際に書いたのは、代表の丸田康司氏である。あとがきがふるっている。

 私がすごろくやを展開する以前は、15年以上にわたり「MOTHER2」「風来のシレン」など、テレビゲームの開発の仕事に携わってきました。しかしその市場が大きくなるにつれ、次第に黎明期の創作性の豊かさが失われていき、業界は一部の層を対象にしていくスパイラルから抜け出せなくなりつつありました。もともと私は20年ほど前から、この本で紹介されているような、ゲーム本来の魅力溢れる作品の数々に触れてきたこともあり、現状のテレビゲーム業界のズレを特に大きく感じていたのかもしれません。ならばその魅力をひとりでも多くの人に伝えたいと一念発起し、2006年春にボードゲームの専門店・すごころくやをオープンしました。

 起業というのはこういものなんだなというのが、ジンと伝わってくる。カネで評価される成功よりも、まず社会的な明確な使命が重要だし、こういう市民社会を豊かにする起業こそ大切だと思う。いや、なにより、ボードゲームが本当に面白いんだということに、人生賭けちゃうっていうのがよろしい。

ボードゲームには、人の顔を見ながら遊ぶというコミュニケーションの面白さがあります。今まで気がつかなかった相手の内面を知ることができたり、みんなエンターテイナーとなって人を楽しませる作用が生まれます。これらは参加者の思考と意思で成り立つ「小さな社会」とも言えるものです。

 まさにそれこそが、豊かな新しい市民社会の原点でもあると思う。日本国家の行く末が心配だとかでわけのわからない反TPP議論をしている人、国のことなんかすこしそっちに置いといて、もっと、仲良く遊べ。
 というわけで、彼が厳選した「一生手放したくない200タイトル」が収録されてる。カタログというだけあって、かなり網羅的だ。反面、一つ一つの記載はちょっと物足りないなというくらい少ない。が、少ない字数でかなりきちんと書かれている。やっぱ、ネットで拾ってくる情報と、本にまとまっている情報って違うんじゃないかとも思わせる。
 ボードゲームだから、トレーディングカードふうの「ドミニオン」(参照)はないかというと、そんなことはない。「ドミニオンパンツ」について知らなかった僕は、これ買おうかと真剣に悩んでいる。
 ざっと見ると、名前と概要は知っているゲームが多いなという印象だが、いろいろと考えさせられる。「国富論(Wealth of Common)」なんていうゲームもあったのか。ちょっと難しそうだが、やってみるとどうなんだろう。比較優位もわかならない大学教授が出鱈目な議論をぶちまける日本だと、この手の教育的なゲームがあってもいいし、そもそも学校で採用したらいいんじゃないか、いつまでも陳腐なイデオロギーで騒いでいるんじゃなくて。
 超定番の「カルカソンヌ」(参照)や「カタン」(参照)も載っている。「カルカソンヌ」については、「「草原」と「最終未完成得点」の要素を抜いて遊ぶルールをお薦めしています」とあり、たしかに最初やるときはそうしたほうがいいなと思う。ただ、僕個人としては、この二要素が囲碁みたいで気に入って、そこで逆転勝ちに持ち込むのが好き。
 本書は写真もきれいなのだが、「カタン」についても最近のこの4月に出た、それなりにしっかりしたバージョンが記載されている。待ち遠しカッタンですよ、これ。早く、海のほうのリメークも出ないか。余談だが、「カルカソンヌ」と「カタン」については、iPad版もけっこうきれいでやりやすい。戦略を試すときに使っている。
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Amigo 虹色のへび
 とま、個別のお薦めをしていってもなんだが、ひとつ特に薦めたいのが、AMIGOの「虹色のヘビ」(参照)である。どこがいいかというと、カタログにも書いてあるが、これ、3歳でもプレイできる点だ。3歳児とかの相手を頼まれることがある人なら、是非一セット持っておくといい。お相手の子供がうじゃっといるなら、二セットあるとなお吉である。単純な色合わせなので3歳でも、おk、というゲームだが、いや、ガキにまみれてやっているとこっちの熱があがってきて、癒されるものがありますよ。
 
 

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