政治は何のために存在するか? 自明のように思えるので、あらためて問うと愚問のようだが、そのことが実際には世界で日本で、各所で問われている時代なのではないかと思う。
政治は何のために存在するか、という問いは、政治とは何かという問いとは微妙に異なっている。政治とは何か、というのであれば、まずその語感から、"government"と"politics"の二面が想起される。
"government"であれば、"governance"つまり「統治・支配」のあり方が問われる。これを日本国憲法のように広義に"control"(制御)と考えてもよいのかもしれない。"politics"であれば、そのまま「政治学」ともなりうるが、支配の含みもあり、支配力の関係が問われることになる。それは政策でもあるが党略とも言えるし、つまるところ政争であれ権力闘争であるとも言える。二面に共通なのは、「権力」のあり方が問われるところだと言ってよいだろう。
ではこの権力とは何か?、だが、国家においては、マックス・ヴェーバーがトロツキーを引いて定式化したように、暴力として裏打ちされるものであり、だからこそ、国家は暴力装置となる。国家は諸暴力の収納及び起動の装置である。
では、どのように諸暴力が一つの国家に収納されるのか。それもまた暴力の力ではないかと言えないこともない。が、民主主義国では市民原理による統治、"civilian control(シビリアン・コントロール)"を掲げる。この「制御=政治」を支えるのは、「正当・正義」の概念であり、つまるところ、暴力ともなりうる権力が法によって拘束されることにある。
こうしたことは、政治の内的な機能であり、組織・制度や、市民の正当意識によって支えられるものだが、最初の問いに戻って、政治はなんのために存在するのかと、外的な機能として問う場合は、やや異なる姿を示す。
政治は何のために存在するのか? 平等・公平? 諸権利の保護? 富の配分? 治安? あらためて問われると意外に難しいのではないか。
「いまを生きるための思想キーワード(仲正昌樹)」(
参照)を読みながら、提示されたいくつかのキーワードの根幹には、政治は何のために存在するのか、という問いが据えられているように思えた。
政治は何のために存在するのか? 端的に言えば、「善」ではないか。
同書では、まさに「善」というキーワードが存在するが、ここで実際に問われているのは、政治の外的機能または政治の存在理由のように受け止められた。
一般に「善」の領域は倫理学("ethics")で問われるのだが、同書ではこうくだかれている。
現代の倫理学、特に欧米系の倫理学で問題にされている「善」は、基本的に、「神」のような絶対的な視点から見て「善い(良い)」ものではなく、特定の個人や集団にとって「善い(良い)」ものをさしている。
もう少し詳しく言うと、私(たち)が自らの生の目的(と想定されているもの)を追究・実現するうえで有用(good)であるもの、私(たち)の欲求を充足し幸福にしてくれるもの、もしくは幸福になった状態が「善」である。
同書ではこの考え方を直接的かつ明示的には政治の外的な機能には結びつけないが、文脈からこの問題が、リベラリズムとリバタリアニズムにおける政治の理念として語られる。つまり、こうした意味での「善」が、個人の持つ諸価値が分かれるときの利害の調停の技術として政治が実質問われる。
以上の展開は「自分の頭で考える」結果ではなく、ごく普通に西洋における政治学の基本をなぞってみたにすぎない。
「政治学」( Πολιτικά)とはアリストテレスが書いた古典が基点になり、そこでは、国家の「善」が問われる学問(science)だからである(
参照)。
では、国家にとっての善とは何か? なぜそのことが、現代に再び問われるのか?
単純に言えば、国家の内部に、個人の価値観に拠る利害の相違が存在するからであり、それと国家はどのように向き合うか、ということが、政治として問われるからだ。ではその基本は何か? 現代性は何か?
「いまを生きるための思想キーワード」の「善」では、リベラリズムとリバタリアニズムからこれを説明していく。
ロールズなどのリベラリズム系の正義論や、国家による経済への介入を原理的に否定するリバタリアニズム(自由至上主義)の議論では、「善」は基本的に個人ごとに異なることが前提とされている。民主的に政治を行おうとすれば、どうしても、その政治的共同体全体の共通ルールを設定しなければならないが、その共通ルールの適用範囲を広げすぎると、各人の「善の構想」が侵害されることになる。
そこで、共通ルールを、価値中立的もしくは価値横断的に”みんな”が受け入れることのできる「正義」に限定し、各人ごとの「善の構想」と両立させることが重要になる。
つまり、ここで、「正義」が政治の外的な機能の支える「善」の裏打ちとして位置づけられる。誰もが価値観が異なるのだから、公平なルールをが要請され、その質として「正義」が語られる。別の言い方をすれば、欧米系の思想では、「正義」はこのような限定された文脈で語られることが多い(国家間ではそうとも言えないが)。
同書にもなんどか指摘があるが、マイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学」(
参照)も、こうした意味での「正義」を扱っているために、実質的には政治に関連してくる。
くどいが、正義とは何かと大上段に語るのがサンデルの意図ではなく、政治の外的な機能を語っているのである。しかも、サンデルは、ロールズのリベラリズムやノージックのリバタリアニズムに再考を迫るものとしての、オールタナティブな「正義」=政治原理を問うのである。
しかしなぜ、そんな、いかにも迂遠なことが現代に問われるのか。その背景には、「善」と「公平」が国家との関係に置かれたとき、実質、財の再配分として問われるからである。
ロールズたち主流派のリベラルが、「正義」の中に、財の(再)配分をめぐる問題も含めて考えようとするのに対し、リバタリアンは、公権力が個人の財産権に干渉し、再配分を行うことは、個人の「善の構想」に対する重大な侵害と見なし、強く反対する。
この問題がまさに現在、米国で問われている問題であり、さらに欧州危機の背景、さらには日本の政治のもっとも重要な部分に関係してくる。が、私の印象では、日本ではそれがなぜか、サンデルの著作があまり理解されないように、理解されていないようにも思える。
具体的な状況で問い直してみよう。米国時間の22日、米財政赤字削減策を議論する議会超党派特別委員会(議員12名)が合意に至らず、決裂した。米財政赤字削減策は、向こう10年間に1兆2000億ドル(約92兆円)の財政赤字を削減する政策である。が、単純な構図にすれば、財の再配分についての問題で合意が得られなかったということだ。
オバマ政権の米民主党は古典的なリベラルとして公平や福祉のために税を強化するというかたちで公権力が個人の財産権に介入し、再配分を強いる。
日本人にしてみると、公平や福祉がそのまま短絡的に「善」に見えることも多いので、「善のためには悪を切るでよい」という単純な反応をしてしまう人がいるが、リバタリアニズム的には、公権力の過剰な行使になり、そのものが悪である。
今回の米国議会超党派特別委員会の決裂は、端的に世界の金融市場に悪影響を与えるし、米国自体が日本型停滞に陥る可能性も高い。さらに、米国の国防費が削減されるので、世界の軍事バランスにも影響が出る。日本の普天間問題にも影響が出る。
他方、欧州危機も、国家の過剰債務に端を発しているという点で、米国と基本的に同じ構図を持っている。欧州は米国的なリバタリアニズムは弱く、社会主義に近いリベラルが政治理念が強いので、再配分を国家に強いるのだが、しかし、無い袖は振れない事態に陥っている(あるいは他国のためには袖を振りたくない)。
日本の場合は、国家債務問題に加え、さらに高齢化による老人福祉・医療の支出増大が想定される。政府の点からすれば実質すでに破綻している。
いずれも、政治の外的な機能である「善」が、国家による財の再配分として問われるとき、国家の権力をどのように考えたらよいのか、ということが、冒頭に戻って、政治は何のために存在するか、という問いに帰結し、現在的に問われることになる。
欧米ではこれらは思想課題としてみれば、リベラリズム/リバタリアニズムのデッドロック状態と言えないでもない。そこで、サンデルなどコミュニタリアンは、この「善」について、やや異なる考えを提示しようとする。ただし、結果的にはよりリベラルを推進した公権力の強化になりがちにも見えるのだが。先の書籍から。
(前略)サンデルたちコミュニタリアンは、個人にとっての「善」はその個人が生まれ育った共同体が全体として追究している「共通(の)善common good」と切り離して考えることはできないし、「共通善」からの独立の「正義」などありえないと主張する。
興味深いのが、サンデルなどのコミュニタリアニズムは、リベラリズム/リバタリアニズムのアンチテーゼとして提出されるのだが、日本の倫理・政治世界では、これが自明のものとして提示されてしまうことだ。TPPのバカ騒ぎも、リベラリズム的に再配分の問題として問われるわけでもなく、リバタリアニズム的に個人の益を優先する(そもそも自由貿易は関係国間の市民の利益を優先して国益を弱めるのが基本である)のでもなく、最初から奇っ怪なる「国益」が提示され、さも、日本の市民が共通の「国益」を共有しているコミュニティであるかのような前提でバカ騒ぎが始まるのである。
では、日本の政治は、そのようにコミュニタリアニズムが基本なのかというと、生命倫理では異なる様相を示している。サンデルなどコミュニタリアンの問題提起には、公平の実現を財の再配分を超えて問う基本姿勢があり、そこで生命倫理などが問われる。
コミュニタリアンに言わせれば、自由主義者たちが、「正義は普遍的な合意に基づかなければならない」という前提に拘りすぎると、妊娠中絶、安楽死、同性婚、臓器移植、死刑といった価値の対立が激しい問題についてに、「正義」の原理に基づく解答を与えることができない。「正義」の原理が成立しそうにない問題を、公的領域における政策決定の俎上にのせてはいならないというリベラリズムの基本原則に忠実になろうとすれば、結局、難しい問題は全てスルーすることにしかならない。
日本人の多くがコミュニタリアン的な政治理念を共有しているなら、生命倫理についてなんらかの問題意識を持ちそうなものだし、問題は声高に語られもするのだが、実際にどのように現実で問われているかというと、ほぼ皆無に等しく、沈黙のうちにスルーされている。妊娠中絶、安楽死、同性婚、臓器移植、死刑といった問題は日本では現実的にはほぼなんの進展もない。
つまり、日本人は、声高に騒ぎ立てるときにはコミュニタリアン的でありながら、実際の行動は黙ってリバタリアン的になる。リベラルふうに財の再配分を求めているときも、実際には、自分に再配分が多ければよいというくらいの根拠性しかない。
この日本というのはいったいどういう政治原理が貫通されているのだろうか。
明確にわかることは、2点ある。1点は、リベラリズムの不在である。
もう1点は、声高にコミュニタリニズムを語り実際に黙ってリバタリアニズム的に行動するというあり方だ。「国益が日本が」あるいは「中国が韓国が」と問題を国家コミュニティを前提にがなり立て、自分が利益になるように誘導するのが日本の政治である。
より正確にいえば、日本にはリバタリアニズムもない。個人原理のリバタリアニズムというより、半径1メートルの「承認」しあう身内の共同体利益で行動しているお仲間細胞原理である。
これは、懐かしのイザヤ・ベンダサンが言うところの、空体語と実体語というバランスクラシーでもある。つまり、日本教なのである。