[書評]あなたが輝くとき(西村由紀江・sasaeru文庫)
西村由紀江さんのピアノ曲は好きだが網羅的に聞いてはいない。以前になるが、気にはなっていて、1986年デビュー以降の作品の、2002年時点の当時のベストアルバム「西村由紀江BEST しあわせまでもう少し」(参照)を聞き込んだら、ほとんどの曲を知っていたことに驚いた。
![]() あなたが輝くとき (西村由紀江・sasaeru文庫) |
それは文章にそのまま表れるというものではない。彼女は音楽家なので、音楽のなかにしか表れないものだ。それでも、あの、下品極まりない猥雑な「モーツアルトの手紙」(参照)の文章からトリステという情感を読み出した小林秀雄のように(参照)、どこかに通底路もあるに違いない。松任谷由実の、本当は出版したくなった「ルージュの伝言」(参照)にも、こっそりとその天才の秘密が書き込まれている。饒舌ともいえる中村紘子も言葉にもひっそりと秘密は明かされている。
![]() あなたが輝くとき 西村由紀江 |
文章と彼女の音楽は、予想以上にきれいに結びついていた。文章家ではないので、文章の表現は稚拙にも見える部分あるが、心情は率直に表現されていて、その部分で彼女らしいピアノの旋律が正確に連想される。
当たり前といえばそうなのだが、話すことが苦手な子どもだったからピアノに向かったというのもよくわかった。そのまま、プロの音楽家となってからも、言葉を求められることのつらさもよく表現されていた。彼女のあの旋律が、そうした子ども時代の感性にも由来していることもわかった。
プライベートに近い部分の話にも驚かされた。移籍にまつわるつらい話は、おそらく業界ではごく当たり前なのだろうが、つらかっただろうというのがよくわかる。その章の言葉にはしっかりとした重みがある。
「どんなにイヤなことがあっても、ピアノが弾けなくなるわけではないし、曲が作れなくなるわけでもない。私が得てきた技術は、誰にも盗めない」
辛いことがあるたび、自分に言い聞かせていた。それは、大きな強みとなって私を支えてくれたと思う。
「ピアノが天職なんですね」と羨ましがられるが、そんな簡単なものでもない。10年も20年も30年もかかって、はじめて「天職」と思えたのだ。蓄積は財産。それがあればこそ、リスクを冒してでも「きっといことがある」と、新しい世界に飛び込めた。
書き写しながら、文章にライターの手が入っているなという臭いは感じられるが、心情は西村さんのそのものだろうと思った。むしろ、ライターの手が入っていたとしても気付かれなかったのは、「10年も20年も30年も」という表現の暗号的な意味合いだろう。デビュー25周年記念の「Smile Best」(参照)は、その蓄積の達成だし、このアルバムはベストアルバムでありながら、現在の彼女によって演奏しなおされていることもそうだ。そういえば「しあわせまでもう少し」も大半はその時点で演奏しなおされていた。
新しい演奏のほうがよいと単純には言えないが、以前の演奏と比べて聞くと、ピアノの音の響きという点で、ぐっと引き込まれるものがある。「10年も20年も30年も」ということは具体的な音できちんと裏付けられるし、そのように彼女は生きて来た。
技術の部分は本書にも書かれている。
「速く弾く」より「弱く弾く」方が難しいのと一緒で、「速く弾く」より「ゆっくり弾く」方が難しい。「ゆっくり」の究極といえば能。あの中腰、すり足の歩き方をマスターするには、たゆまぬ稽古による筋肉の鍛錬が不可欠だろう。ピアニストもまた、ゆっくりとした指の動きをコントロールするには、速く弾くときとは別の神経や筋肉が必要となる。
それを頭で理解するのと、演奏に現れる差の感覚は異なる。意図してということではないのだろうが、西村さんが結果的に伝えている、ピアノの音というものの秘密である。
この本では他に、ピアノ演奏家ならでは裏話や、彼女の多少意外にも思える、生い立ちに関わる話もある。知らなかったのだが、彼女は大阪出身で、大阪的な文化のなかで育ち、大阪人的な感性も持っている。テレビで鍾乳洞のレポーターをしていたという話もおもしろい。
そこに大阪からの観光客が何組もやってくるのだが、入るとみんな判で押したように同じことを言うのに気づいたのだ。
まず入ると「暗っ」となり、2、3歩進むと「寒っ」、岩がぬれているので滑りそうになって「怖っ」、上から水滴が落ちてきて「冷たっ」と続く。その「暗っ」「寒っ」「怖っ」「冷たっ」というのが、くる人くる人、同じ順番で延々と繰り返されるので、おかしくてしょうがない。また、感情がこもったときには形容詞に「い」がつかないことも発見し、一人で満足した時間でもあった。
「寒っ」という表現は先日のニュースでも話題なったが(参照)、彼女の感性はまたそれとは多少違う。子どものようにおもしろいなあという受容でもあり、それがまたあの明るい旋律にも通じている。
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