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2011.09.10

[書評]リトル・ピープルの時代(宇野常寛)

 「リトル・ピープルの時代」(参照)で宇野常寛が展望する現在世界の見取り図は、理解しやすい簡素な構図で出来ている。
 1948年にジョージ・オーウェルが著した「1984」(参照)の「ビッグ・ブラザーの世界」は、2009/2010年に村上春樹が「1Q84」(参照)で描いた「リトル・ピープルの時代」に変貌したということだ。では、ビッグ・ブラザーとはなにか。リトル・ピープルとはなにか。

cover
リトル・ピープルの時代
宇野常寛
 ビッグ・ブラザー(偉大なる兄弟)は、オーウェルの脳裏ではスターリンだった。有田芳生氏の名前の由来となった「ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)」である。同志スターリンとも呼ばれたものだった。その他に毛沢東もビッグ・ブラザーであり、金正日もそうだ。カダフィーもそうだと言ってよい。大衆の前に写真で大きく掲げらる。全体主義国家の独裁者と理解されることが多い。
 だが独裁的な国家の内側では慈父として信奉される。あるいはそう崇拝するように仕向けられてる。「父」は悪でもあり善でもある両義的な存在である。
 「父」は国民国家と一体化し、一つの極点ないし極点のイメージを持つ。よって特定の個人でなく、日本国財務省や日本銀行という集団に同定しても同じである。
 世界をビッグ・ブラザーの支配と見るなら、その極の「父」について、敵として、あるいは「巨悪」と見立てて、「正義」をもって立ち向かい、戦うことが求められてしまう。「子」の戦いでもある。
 戦いは、誰も共感すべき「大きな物語」として語られるが、その「大きな物語」の典型は「世界の終わり」である。「世界の終わり」を掲げればすべての人をそこに「徴兵」できると想定されやすい。
 だが、ビッグ・ブラザーの両義性から、戦う「子」の「正義」もまたビッグ・ブラザーと同じ独裁的な性格を帯びることになる。同じ土俵で同種の武具で戦闘すれば、その光景は、客席を右に取るか左に取ろうが同じ。鏡像が映じられる。いわゆるリベラルを自称する言説者が実際には独裁者と同じように振る舞うのは当然の帰結である。
 「世界が終わる」「日本が終わる」あるいは「世界は終わらない」「日本は変わらない」、いずれも「大きな物語」を希求する空しいあがきである。その構図にいくら修辞を凝らしても、軽そうに茶化してみても、いずれ大衆の喝采を意識するのであれば、同じ陥穽に嵌る。
 ビッグ・ブラザーの世界は冷戦の世界観でもあった。社会主義と資本主義のどちらかを悪に振り分けて争う世界であり、陣営の旗だけが問われた。核廃絶と言いながらソ連核に言及しなかったり、日本の原発を批判しながら北朝鮮のそれを不問にしたりと滑稽な風景が展開された。しかしその時代は冷戦と随伴して終わり、現代世界は、ビッグ・ブラザーという善悪からは解けなくなった。少なくともポスト団塊世代からは世界はそのように意識されている。
 ビッグ・ブラザーの世界から、一定の解体期を経て出現したのがリトル・ピープルの世界だと宇野は本書で説く。本書は、その変容過程の大衆イメージ史の集積ともなっていて興味深い。
 リトル・ピープルはどのように本書で理解されているか。まず、それは「小さなビッグ・ブラザー」なのだという補助線を引きたい。国家にイメージを重ねるビッグ・ブラザーが分裂し複数化し、小粒になって増えた存在だ。
 「父」はリトル・ピープルとして小粒化した。リトル・ピープル自身はかつての「ビッグ・ブラザー」を夢想しても、世界は彼らを複数化させ矮小化させてしまった。
 なぜなのか。「ビッグ・ブラザー」の意味を支えていた「大きな物語」が消えたからだとも言える。世界は多様にしか存在しないことは明白になっている。あるいは多様な物語としてしか理解されない。その多様化され、小さくなった物語の限定内で、「ビッグ・ブラザー」を夢見ているのがリトル・ピープルである。「小さな父たち」は小さな権力のゲームを争うのである。もっとも国政の中央で実施される小さな権力のゲームは国民に甚大な悲惨をもたらすのだが。
 かつてのビッグ・ブラザーの世界においては、人は敵意に満ちた苦難な現実に対峙するために仮想の世界を夢想した。しかしリトル・ピープルの世界では、現実が夢想と結合して内側に拡張していく。
 リトル・ピープルは個別の些末な世界観を奉じているにも関わらず、ビッグ・ブラザーを憧憬し、それがかなわぬがゆえに小集団化し、セクト化し、さらなる焦りから、「小さな物語」を「大きな物語」だと勘違いして、各種の奇矯な言説をわめきたてる。多くの人々の関心引きたいがために恐怖や醜態も演ずる。
 そうしたリトル・ピープルの世界としての現在を、本書の宇野は、手始めに村上春樹の「1Q84」とその訳業から、かなり精密に読み出す。その文献学的ともいえる手法の鮮やかさは本書の頂点の一つである。
 本書は、いわゆるポストモダン、あるいはポスト・ポストモダンという饒舌――つまりあまりに日本的な「思想界」と呼ばれる児戯――に留まらず、私たちの生の可能性の求める志向を取っているのが新鮮に感じられる。
 簡単にいえば、本書は、現在がリトル・ピープルの世界であることを了解したうえで、では、この「小さな父」たちの戯れの世界からどのように生を獲得できるのかが、切実に問われている。不可避的に「小さな父」として存在してしまう私たちは、自己をどのように変容させうるか?
 この問題を宇野は、テーゼ的な問題設定ではなく、マスイメージ(大衆のイメージ)の変容の過程からその可能性の了解していくという手法で展開する。吉本隆明が1980年代の「マス・イメージ論」(参照)から「ハイ・イメージ論」(参照)で採ったサブカルチャー重視の手法に近い。このため、マス・イメージ、特に「大きな物語」のマス・イメージから、戦後が終わった時代の、子どもの世界のマス・イメージとして、本書では、特にウルトラマンシリーズと仮面ライダーシリーズが詳細に検討されていく。
 ウルトラマンはビッグ・ブラザーであり、仮面ライダーはリトル・ピープルである。本書はこの解説がかなり入念に展開されていて、単純に「ウルトラマン論」「仮面ライダー論」として読んでも十分に読み応えがある。むしろ、そこにこそ宇野の真価があるのかもしれない。
 繰り返すが、本書は、リトル・ピープルの世界とは何かという、いかにも思想的な問いかけを捨象して、「仮面ライダー論」として読んでも十分に秀逸な作品になっている。
 むしろ純粋に思想的に本書の課題設定を追っていくと、なぜ世界は変容したのかという問いには詰めの甘さも見られる。
 宇野は現実世界の変容要因として、貨幣と情報のネットワークが国家を凌駕したからだ、とやすやすと言ってのける。貨幣と情報のネットワークが国家の上位に立ったがゆえに、「大きな物語」が求めた幻想の世界という外部性への必要性が失せたのだと彼は考えている。
 残念ながら、貨幣と情報のネットワークはそのように簡易にまとめられる運動ではない。貨幣はそれが幻想であれ、つねに人々の未来の労働としての「信用」を要求するほど堅固な存在である。また国際物流の高度化にともない、貨幣は「帝国」を必然的に希求する。帝国は信用の繋ぎ的な代替として一次資源の国際管理を「正義」のもとに軍事力で脅しつつ実現する。情報のネットワークはそれに随伴し、たとえば「アラブの春」といった大きな物語の幻影を生み出さざるをえなくなる。貨幣と情報のネットワークは不定形な運動ではなく、帝国の意志と反撃の構図で展開する。
 その意味では、現在世界はリトル・ピープルの世界というより、ハイパー・ビッグ・ブラザーの世界であるかもしれない。リトル・ピープルの世界における内在的な幻想の深化あるいは多様化とはハイパー・ビッグ・ブラザーによる支配の道具であるかもしれない。
 この問題は、精緻にマスイメージを読み込んだ宇野にとっては、おそらく本人には知覚されているはずであろうが、本書の限定からは描ききれてはいない。剰余においては奇妙な構図の逆転もある。
 話題が煩瑣になるが、本書でも焦点が当てられる「1Q84」の牛河だが、彼の無残な死からリトル・ピープルが発生するのは、宇野の読みとは異なり、牛河がリトル・ピープルであることを超越していくことにある。このことは「神の子供たちはみな踊る」(参照)の「かえるくん、東京を救う」の片桐が「1Q84」の牛河だと言ってもよいことからも明らかである。世界最大都市東京の終わりという大虚構に向き合って、かえるくんと一緒に阻止に奮迅したのが片桐であったように、「1Q84」の書かれざる物語においては、牛河の転生としてのリトル・ピープルは世界の救済の契機となるだろう。ビッグ・ブラザーの両義性とともに、リトル・ピープルの両義性は村上春樹文学にすでに胎動している。
 同じことは、仮面ライダー「555」にも言える。園田真理たち虐げられた子どもたちの収容施設「流星塾」は、実は花形が、まつろわぬ者たちの「王」を降霊するための装置でもあった。「大きな物語」や「小さな物語」から排除された悲劇は、それを醸成して王国を生み出す手段とされている。ここには逆転された「大きな物語」としてリトル・ピープル的な世界を相対化させる奇っ怪なイメージがある。
 さらに、ビッグ・ブラザーの世界からその解体期、リトル・ピープルの時代というマスイメージの変遷とその超克は、私の読み落としがなければ、エヴァンゲリオンよりも今川泰宏版「鉄人28号」(参照)に明確に描かれている。
 宇野が「レイプ・ファンタジー的なもの」として村上春樹文学を見る点において、「父=鉄人28号=究極のエネルギー」は正太郎という「子」を介して、「梅小路綾子=ロビー」と繋がる罪の物語となっていることが興味深い。歴史に忘却された自らの痛みを知覚するという現代性がそこにある。
 また今川「鉄人28号」は、「父」の物語でもあるが、それは明示的に「父」たらんとするビッグファイア博士ではなく、朝鮮系が暗示される金田博士であることも逆転した基調を描き出す(ちなみに敷島博士は内地系)。戦後という物語に埋没させられた、意志としての「父」の国家=鉄人28号の、その戦後の死を私たちが共通の痛みとして再び掴み直すことが提起されている。

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コメント

とか何とかいっているうちに、ニーチェが「この人を見よ」で指摘した「何かとてつもないものの思い出」が、この文明の移行期によみがえって姿を現すのかもしれませんよ。

本来の人間はそんな矮小ではありません。P.D.ウスペンスキー著「奇蹟を求めて」参照のこと。

投稿: enneagram | 2011.09.10 15:41

近代国民国家ができてから、君主制、共和制にかかわらず、立法者と立法府がブルジョアの言いなりになるのは結構早かった。

帝国も、グローバル金融機関が、世界中の非営利組織を運営するマルチチュードに屈服して、影響力のあるマルチチュードの言いなりになるのに、そんなに時間はかからないかもしれない。

投稿: enneagram | 2011.09.12 12:58

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