« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »

2011.09.27

小沢一郎元民主党代表の政治資金団体に関する地裁判決、雑感

 小沢一郎元民主党代表の資金管理団体・陸山会による土地購入をめぐって、同団体に関わる小沢氏元秘書3人――衆議院議員・石川知裕被告(38)、大久保隆規被告(50)、池田光智被告(34)――の、政治資金規正法違反(収支報告書虚偽記載)について問われる裁判で26日、東京地裁は有罪を下した。事件としては、陸山会事件と西松建設事件の2件が関わる。
 収支報告書虚偽記載の有無自体は争点ではないので、形の上からは無罪ということはないにせよ、初犯であり、政治資金規正法違反の過去の慣例からして、実刑になるとは想定されず、判決でもそれぞれに執行猶予がついた。また公判では、検察側が証拠申請した供述調書38通中11通について、威圧的な取り調べや利益誘導があったとして不採用となったこともあり、弁護側に有利かとも見られていた。
 しかし、弁護側が想定していたような軽微な裁判であったかというと、大久保被告に禁錮3年・執行猶予5年、石川被告に禁錮2年・執行猶予3年、池田被告に禁錮3年・執行猶予3年という禁錮刑から見て、そうとも言いがたい。慣例からすれば、衆議院議員・石川知裕は国会議員を辞職するのことになるだろうし、小沢一郎元民主党代表の監督責任も免れない。
 判決としては以上のとおりで、存外に重い判決だが、さほど特異な事件とも思われない。が、共同のまとめた判決要旨(参照)を読むと、地裁がかなり踏み込んだ判断をしていることがわかり、興味深かった。判決はまず、2つの事件を最初に描き分けている。


【西松建設事件】
 新政治問題研究会と未来産業研究会は西松建設が社名を表に出さずに政治献金を行うために設立した政治団体であり、西松建設の隠れみのにすぎず、政治団体としての実体もなかった。献金は西松建設が自ら決定し、両研究会を通じて実行。寄付の主体はまさに西松建設だった。
 岩手県や秋田県では、公共工事の談合で小沢事務所の了解がなければ本命業者にはなれない状況。小沢事務所の秘書から発せられる本命業者とすることの了解はゼネコン各社にとって「天の声」と受け止められていた。元公設第1秘書の大久保隆規被告は2002~03年ごろから天の声を発出する役割を担うようになった。
 西松建設は公共工事の談合による受注獲得のために寄付しているのだから、同社としては西松建設による献金と小沢事務所に理解してもらわなければ意味がない。献金の受け入れ窓口だった大久保被告が理解していなかったとは到底考えられない。
 加えて、献金総額や献金元、割り振りなどの重要事項は、大久保被告が西松建設経営企画部長とのみ打ち合わせ、献金の減額・終了交渉でも大久保被告は「まあお宅が厳しいのはそうでしょう」と述べた。大久保被告も捜査段階で、両研究会が西松建設の隠れみのと思っていたとの趣旨を供述している。
 大久保被告は、両研究会からの献金について、衆院議員の石川知裕被告、元秘書の池田光智被告が収支報告書に両研究会からの寄付だと虚偽の記載をすることを承知していた。大久保被告の故意は優に認められる。
 両研究会からの寄付とする外形は装っているが、実体は西松建設から。他人名義による寄付や企業献金を禁止した政治資金規正法の趣旨から外れ、是認されない。

 西松建設事件については、政治資金規正法が禁止する他人名義による寄付や企業献金を意図的に偽るための、虚偽記載として、いわゆる帳簿的なミスとはされていない。
 陸山会事件については、かなり踏み込んだ解釈をしている。

【陸山会事件】
 04年分収支報告書の「借入先・小沢一郎 4億円、備考・04年10月29日」との記載は、体裁から陸山会が小沢一郎民主党元代表から4億円を借り入れた日とみるのが自然かつ合理的。被告側が主張する「同年10月初め~同月27日ごろまでに小沢から陸山会が借りた合計4億円」を書いたものとすると、それを担保にする形をとって小沢元代表名義で銀行融資を受け、転貸された4億円を記載しなかったことになり、不自然。
 加えて、石川被告が4億円を同年10月13日から28日まで前後12回にわたり5銀行6支店に分散入金したことなどは、4億円を目立たないようにする工作とみるのが合理的。4億円を原資とする土地取得も04年分報告書に載ることを回避しようと隠蔽工作をしたとも推認される。

 陸山会事件で焦点となったのは、虚偽記載の形式性より、なぜ虚偽記載が行われたのかという動機から、小沢氏に由来する4億円の原資が問われた。
 地裁判決を見ると、小沢原資4億円とその資金洗浄のように見える操作が公判で解明されれば、問題は虚偽記載の形式性に還元されていただろう。それができなかった理由は弁護側にある。3月3日付け読売新聞「石川被告「すべてを合理的に説明できない」(参照)より。

 小沢一郎民主党元代表(68)の資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反事件で、同法違反(虚偽記入)に問われた同会元事務担当者・石川知裕衆院議員(37)ら元秘書3人の第6回公判が2日、東京地裁で開かれ、3被告への被告人質問が行われた。
 郁朗裁判長ら裁判官が、同会が土地を購入した際、石川被告が行った複雑な資金移動の理由について説明を求めたが、石川被告は「うまく説明できない」と述べた。
 同会は2004年10月に東京都世田谷区の土地を購入。その際、小沢元代表から4億円を借り入れた上で、定期預金を担保に銀行から同額の融資を受けたが、融資の利子として年間約450万円を払っていた。
 石川被告はその理由について、「小沢議員から借りたことを明確にしようとした」と説明。登石裁判長が「借用書は作っていますね」「借金とはっきりさせていればいいのでは」などと尋ねると、石川被告は口ごもり、「すべてを合理的に説明できない」と話した。

 公判のこの時点で地裁判決の方向性は固まったと見てよいだろう。今回の事件は検察のあり方も問われたが、決定的な要因となったのは、こうした公判のプロセスであった。
 地裁判決要旨では次のようにまとめられているが、公判のプロセスからは妥当な推定の範囲である。

 4億円の原資は石川被告らに加え、用立てた小沢元代表自身ですら明快な説明ができていない。原資の説明は困難。
 当時の水谷建設社長は胆沢ダム建設工事の受注に絡み、大久保被告の要求に応じて、04年10月に5千万円を石川被告に、05年4月に同額を大久保被告に手渡したと証言したが、ほかの関係者証言や客観的証拠と符合し、信用できる。一切受け取っていないという両被告の供述は信用できない。
 陸山会は04年10月ごろ、原資が明らかでない4億円もの巨額の金員を借り入れ、さらに石川被告自ら、水谷建設から5千万円を受領した。小沢事務所は常にマスコミのターゲットになっており、これらのことが明るみに出る可能性があったため、4億円借り入れの事実を隠蔽しようとしたと推認できる。


 しかし預かり金と言いながら「預かった理由や返済時期、5団体が分けて預かる理由や金額も分からなかった」などと述べ、著しく不自然、不合理で到底信用できない。
 「石川被告から『小沢代議士から4億円を借りている』と聞いた」と述べ、元代表が巨額な個人資産を預ける理由もないことを勘案すると、池田被告は4億円を借入金と認識しながら返済を報告書に記載しなかったと認められる。1億5千万円についての主張も信用できず、故意があった。

 かくして判決の核心は、収支報告書虚偽記載という形式的に軽微な事案であるより、政治資金規正法の本義が、小沢原資4億円の謎について問われるところとなった。
 量刑理由では次のように述べられている。

 陸山会は原資を明快に説明するのが難しい4億円を小沢元代表から借りて本件土地を購入。取得時期が、談合を前提とした公共工事の本命業者の選定に対する影響力を背景に、小沢事務所が胆沢ダム建設工事の下請け受注に関し、水谷建設から5千万円を受領した時期と重なっていた。
 そのような時期に原資不明な4億円もの資金を使って高額な不動産を取得したことが明るみに出れば、社会の注目を集め、報道機関に追及され、5千万円の授受や、小沢事務所が長年にわたり企業との癒着の下に資金を集めていた実態が明るみに出る可能性があった。本件は、これを避けようと敢行された。
 規正法は、政治団体による政治活動が国民の不断の監視と批判の下に公明かつ公正に行われるようにするため、政治資金の収支の公開制度を設けている。

 小沢原資4億円がどのように形成されたかについてまで地裁判決は言及していない。問題とされているのは、公共工事本命業者選定の時期に原資不明大金が政治家の活動に明示されないことである。
 地裁判決はさらに、その根深い構造にまで言及している。ここまで踏み込むと、政治資金規正法の本義すら超えているのではないかという印象もあるが、司法のあり方を明示したいという意図もあったのだろう。

 それなのに本件は、現職衆院議員が代表者を務める政治団体に関し、数年間にわたり、企業が隠れみのとしてつくった政治団体の名義による多額の寄付を受け、あるいは4億円の存在が発覚しないように種々画策し、報告書に多額の不記載や虚偽記入をしたものである。規正法の趣旨にもとる悪質な犯行だ。
 しかも、いずれの事件も長年にわたる公共工事をめぐる小沢事務所と企業との癒着を背景とするもので、法の規制を免れて引き続き多額の企業献金を得るため、あるいは、癒着の発覚を免れるため、国民による政治活動の批判と監視のよりどころとなる報告書に意図的に数多くの虚偽記入などをした。
 法の趣旨を踏みにじり、政治活動や政治資金の流れに対する国民の不信感を増大させ、社会的影響を見過ごすことはできない。被告らは不合理な弁解を弄して責任をかたくなに否認し、反省の姿勢を全く示していない。

 ようするに、小沢氏の錬金術の正体を「長年にわたる公共工事をめぐる小沢事務所と企業との癒着を背景とするもので、法の規制を免れて引き続き多額の企業献金を得る」とし、司法が政治を裁いているのである。
 この言明は、法の不遡及という原則を逸脱しているように聞こえないでもない。小沢氏としては、自民党経世会という歴史背景から、ごく普通にマネーに関わるビジネスのことを「政治」としていただけなのだが、気がつけば時代が変わり、司法はそれに対して、法の本義を剣として「政治」ではないとして処罰するというのである。もちろん、それは比喩であって、実際にそこまで裁かれうるかについてはわからない。それでも、現在の司法が小沢氏のような錬金術を非としていることを明確にする事態ではあった。
 この司法の意思が高裁でも維持されるのか、また、小沢氏自身の裁判に関わるかについては注視していきたい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.24

麻生太郎元首相いわく、「国会の会期を決めるのは立法府ですよ。与党・政府じゃないんだ」

 野田首相の訪米で開店休業の国会というのはしかたがないが、どうやら今国会会期の再延長はなく、9月の30日で閉めるとのことだ。どじょう内閣は泥にまみれて仕事をするんじゃなかったのか。しかも、国会の運営って行政府が決めることなのか?
 報道の確認から。23日時事「国会再延長せず=民主国対委員長」(参照)より。


 民主党の平野博文国対委員長は23日午後、自民党の逢沢一郎国対委員長が今国会会期の再延長を求めていることについて、「30日で閉めさせていただきたい」と述べ、応じない考えを明らかにした。同時に「今は2011年度第3次補正予算案の政党間協議を進めることに最大限のエネルギーを注くべきだ」として、本格的な震災復興策を盛り込む3次補正の編成に向け、自民、公明両党との早期の協議入りに期待を示した。和歌山市内で記者団の質問に答えた。(2011/09/23-21:02)

 かくして、与野党が通常国会で、次期臨時国会で成案を得ると合意した、野党提出の、(1)原子力事故調査委員会法案、(2)東日本大震災事業者再生支援機構法案(二重ローン救済法案)、(3)私立学校復旧助成法案、3法案に加え、国家公務員給与削減法案など次期国会に先送りという雲行きになった。
 まあ、低迷して、泥にまみれているのは自民党なので、なんとか民主党を攻めたいというのはあるだろうが、そのあたりを差し引いたとしても、せめて合意事項くらいはさっさと臨時国会で片を付けたらよいのではないか。
 と自民党を見ていると、麻生太郎元首相が、きちんと原則論を言っていた。党利党略部分を差し引いても、原則論は正しいと思われるし、そのあたり、麻生さんはマスコミに声が届かないという不信感を持っているようだから、ブログみたいなもので少し言及しておこうかね。

 先週金曜日の本会議でぇ、今国会のぉ延長がこの9月30日までと決まりました。きわめて短期間の延長なんですが、そもそも端から四日間で会期をぅいうところが間違っている、のは、はっきりしているんだと思いますが、何となく形として新しく内閣ができたにもかかわらず、本会議四日間だけで予算委員会もなく終わるという発想からしてそもそも間違っている、と私にはそう思います。

 今やんなくちゃいけないとよく言われているので、こ、与野党で合意している法案がぁだけでも、とにかくあれでしょお、に、原子力事故調査委員会設置法、これ間違いなく与野党合意、二重ローンなきあれも合意、それから私立学校補助のやつも合意、これみんな合意してんだよ。合意しているにもかかわらず委員会が開けない。おかしいじゃない、そのなんでマスコミは叩かんのかねこれ、理解ができねぇできない。で、これ何回約束を反故にするつもりかねとぉ私らは率直にそう思っているんですが。

 加えて台風、12、15号いずれも上陸やら何やらで、これの速やかな対応を求められておる。だからこぉ災害特区なんか、即やるべきなんではないのかねえ
 それをやらない理由が、え、なんだってぇ、予算委員会をやってない前にやるということはできない。だったらその後やりゃあいい。その前にいない、今総理いないときにやればいいやん。事は急いでんだから、と、いう発想が何で出ないし、向いてる方向が国民の方向に向いてない。またそれも叩かないからマスコミの方も、何かずれてますよ。僕にはそれしか考えられねえ、今の話は。

 あー、そういった意味で、あのぉ、国会やる気があるのかって僕がそう思って思っていたら、今度は官房長官なる人が出てきて、国会の、お、次の国会は、三次補正だけ、やれば、後はいいとか

 これは国会の開会を政府が要請する、というのはあっても、国会の会期を決めるのは、これは立法府ですよ。与党、政府じゃないんだから。行政府じゃありません。いつから国会の会期のえん、期間が立法府から行政府に移ったんだね

 おかしいでしょうが、ということを全然おかしいと思っていない人がマスコミの中にいるんですよ。

 だから書かない。だから、書かないから気がついていない、っていう人が多いんだと思うけど。明らかに、おかしいんであって、どこ見てやってんですかねっていうのが、率直な実感ですな。我々、私たちから見ていて。

 とにかくぅ、今月ぅ末の30日まで、って言うんだったら、臨時国会ってのは二回延長できます。通常国会とは違いますから。二回延長できるんだから、もう一回大幅に延長して、やるべき事はやったらいいんじゃないのぉ

 僕はそれが率直な、ぅっ、とこなんであって。これ懸案は今言ったけど、これ与野党合意してるやつだけでぇ、今それだけあるぐらいですから、他にもいっぱいあるんで、そういった意味では懸案は山積みだと思ってるんで、そういったのは全部やってく、予算もやる、三次補正もちろん、そういったのが全部やって、大幅に延長した上で、はいできがったらそれで、堂々と解散総選挙に問わないと。

 これ何時までたっても国会の運営が「いや、しぃ、変わりましたから」「いや新しい人ですから」「何とかですから」って言ったって、ずっと、俺たちだって毎回変わってたっていうのが続いたけれども、そんな事を言い訳にしたことは、一回もないよ。

 しかし今回はそれが堂々とまかり通って、誰もそれを言わないというほうが僕は異常だということを、是非多くの人に気がついてもらいたいものだと率直に思いますね。よろしくお願い申し上げて、ご挨拶に代えます。


 「自民党が」「民主党が」あるいは「麻生元首相が」とか、そのあたりはどうでもよい。
 民主主義の原則論として、国会の開会を政府が要請するというのはあっても、国会の会期を決めるのは立法府であり、与党または行政府ではないというのは、きちんとさせたほうがよい。
 国会議員がきちんと立法府の自覚をもって、仕事してくださいよ。
 
 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.23

[書評]あなたが輝くとき(西村由紀江・sasaeru文庫)

 西村由紀江さんのピアノ曲は好きだが網羅的に聞いてはいない。以前になるが、気にはなっていて、1986年デビュー以降の作品の、2002年時点の当時のベストアルバム「西村由紀江BEST しあわせまでもう少し」(参照)を聞き込んだら、ほとんどの曲を知っていたことに驚いた。

cover
あなたが輝くとき
(西村由紀江・sasaeru文庫)
 ベスト曲の大半はテレビ番組などで使われていたのだろうが、テレビをほとんど見ない私でも知っていた。なじみやすい曲想と演奏で、どちらかといえばコマーシャリズム的なイージーリスニングのようでもあるが、聞いているうちに、明るい曲想は気分転換になるのと、遠く懐かしいとでもいうような、ある種の情感を喚起させられるのが不思議な魅力に思えた。この人の魂のコアにあるものはなんだろうかと思った。
 それは文章にそのまま表れるというものではない。彼女は音楽家なので、音楽のなかにしか表れないものだ。それでも、あの、下品極まりない猥雑な「モーツアルトの手紙」(参照)の文章からトリステという情感を読み出した小林秀雄のように(参照)、どこかに通底路もあるに違いない。松任谷由実の、本当は出版したくなった「ルージュの伝言」(参照)にも、こっそりとその天才の秘密が書き込まれている。饒舌ともいえる中村紘子も言葉にもひっそりと秘密は明かされている。
cover
あなたが輝くとき
西村由紀江
 西村由紀江のアルバム「あなたが輝くとき」(参照)にあわせて本書が出版されたとき、すぐに飛びつき、アルバムの曲にあわせて読んだ。下品な言い方になるが、期待以上の文章がそこにあり、驚きもした。
 文章と彼女の音楽は、予想以上にきれいに結びついていた。文章家ではないので、文章の表現は稚拙にも見える部分あるが、心情は率直に表現されていて、その部分で彼女らしいピアノの旋律が正確に連想される。
 当たり前といえばそうなのだが、話すことが苦手な子どもだったからピアノに向かったというのもよくわかった。そのまま、プロの音楽家となってからも、言葉を求められることのつらさもよく表現されていた。彼女のあの旋律が、そうした子ども時代の感性にも由来していることもわかった。
 プライベートに近い部分の話にも驚かされた。移籍にまつわるつらい話は、おそらく業界ではごく当たり前なのだろうが、つらかっただろうというのがよくわかる。その章の言葉にはしっかりとした重みがある。

「どんなにイヤなことがあっても、ピアノが弾けなくなるわけではないし、曲が作れなくなるわけでもない。私が得てきた技術は、誰にも盗めない」
 辛いことがあるたび、自分に言い聞かせていた。それは、大きな強みとなって私を支えてくれたと思う。
「ピアノが天職なんですね」と羨ましがられるが、そんな簡単なものでもない。10年も20年も30年もかかって、はじめて「天職」と思えたのだ。蓄積は財産。それがあればこそ、リスクを冒してでも「きっといことがある」と、新しい世界に飛び込めた。

 書き写しながら、文章にライターの手が入っているなという臭いは感じられるが、心情は西村さんのそのものだろうと思った。むしろ、ライターの手が入っていたとしても気付かれなかったのは、「10年も20年も30年も」という表現の暗号的な意味合いだろう。デビュー25周年記念の「Smile Best」(参照)は、その蓄積の達成だし、このアルバムはベストアルバムでありながら、現在の彼女によって演奏しなおされていることもそうだ。そういえば「しあわせまでもう少し」も大半はその時点で演奏しなおされていた。
 新しい演奏のほうがよいと単純には言えないが、以前の演奏と比べて聞くと、ピアノの音の響きという点で、ぐっと引き込まれるものがある。「10年も20年も30年も」ということは具体的な音できちんと裏付けられるし、そのように彼女は生きて来た。
 技術の部分は本書にも書かれている。

「速く弾く」より「弱く弾く」方が難しいのと一緒で、「速く弾く」より「ゆっくり弾く」方が難しい。「ゆっくり」の究極といえば能。あの中腰、すり足の歩き方をマスターするには、たゆまぬ稽古による筋肉の鍛錬が不可欠だろう。ピアニストもまた、ゆっくりとした指の動きをコントロールするには、速く弾くときとは別の神経や筋肉が必要となる。

 それを頭で理解するのと、演奏に現れる差の感覚は異なる。意図してということではないのだろうが、西村さんが結果的に伝えている、ピアノの音というものの秘密である。
 この本では他に、ピアノ演奏家ならでは裏話や、彼女の多少意外にも思える、生い立ちに関わる話もある。知らなかったのだが、彼女は大阪出身で、大阪的な文化のなかで育ち、大阪人的な感性も持っている。テレビで鍾乳洞のレポーターをしていたという話もおもしろい。

そこに大阪からの観光客が何組もやってくるのだが、入るとみんな判で押したように同じことを言うのに気づいたのだ。
 まず入ると「暗っ」となり、2、3歩進むと「寒っ」、岩がぬれているので滑りそうになって「怖っ」、上から水滴が落ちてきて「冷たっ」と続く。その「暗っ」「寒っ」「怖っ」「冷たっ」というのが、くる人くる人、同じ順番で延々と繰り返されるので、おかしくてしょうがない。また、感情がこもったときには形容詞に「い」がつかないことも発見し、一人で満足した時間でもあった。

 「寒っ」という表現は先日のニュースでも話題なったが(参照)、彼女の感性はまたそれとは多少違う。子どものようにおもしろいなあという受容でもあり、それがまたあの明るい旋律にも通じている。
 
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.22

小坂明子の「Pianish」と「Pianade」

 「小坂明子」という名前を聞いて、「ああ、あの少女か」と思う人は多分、昭和32年生まれの私と同年代か、それより上の世代だろう。彼女も昭和32年生まれだが、1月生まれなので私より学年は一つ上になる。まあでも同い年。同じ時代を生きた人。「明子」という名前は巨人の星の「星明子」を連想させる。声は白石冬美。チャコちゃん。私以外の人にとってみるとどうでもいいことだが、私の初恋の人の名前でもある。姓は知らない。
 小坂明子のデビューは1974年。その年の紅白歌合戦にも出演している。17歳である。朝イチレポーター篠山輝信のお母さんのデビュー年齢で見るなら、普通にアイドルといった年齢でもあるが、前年の世界歌謡祭最優秀グランプリを16歳で受賞というのは衝撃的だった。作詞作曲も彼女自身である。天才と言っていい。その曲「あなた」は一世を風靡し、誰もが、世界の中心で「あなたぁ~」と絶叫した。ここは昭和33年生まれのしりあがり寿のイラストが欲しいところ。


もしも私が家を建てたなら
小さな家を建てたでしょう
大きな窓と小さなドアと
部屋には古い暖炉があるのよ

真赤なバラと白いパンジー
小犬の横には、あなた、あなた
あなたがいて欲しい
それが私の夢だったのよ
いとしいあなたは、今どこに


 宅建のCMソングなのか、小犬の横に恋人を並べる、ジョン・ファウルズ的な世界なのかよくわからない。たぶん、チッチとサリーの世界というのが当時を知るものの証言である。水森亜土の世界というのも許す。

ブルーの絨毯、敷きつめて
楽しく笑って暮らすのよ
家の外では坊やが遊び
坊やの横には、あなた、あなた
あなたがいて欲しい
それが二人の望みだったのよ
いとしいあなたは、今どこに

そして私はレースを編むのよ
私の横には、私の横には、あなた、あなた
あなたがいて欲しい


 怖すぎるだろ、それ。逃げるだろう、男、フツー。
 おちゃらけはさておき、そして、描かれた詩の世界も1970年代。欧米でもビートルズの甘ったるい歌謡曲がべちょべちょ流れていた時代。しかし、そのピアノの旋律は、美しいものだった。
 その後彼女は、1982年「あきらめないで―小坂明子のやせる本」(参照)がベストセラーになり、それはそうだろうという世間の声と、彼女自身のヨーヨーな日々もあった。が、そのあたりから、普通に作曲家となって成熟していたらしい。セーラームーンのアニメソングなども作ったらしい。が、私はよく知らない。
 才能というものの一つの安定的な帰結であるかもしれないとも思っていたが、私は同年の親近感を超えて、気になることがあった。簡単に言えば、おちゃらけでなく言えば、「あなた」の絶叫は暗いのである。メロディは美しさよりも不安なのである。本当の才能というものが抱え込む、魔的な深淵のようなものが、そんな成熟なんぞで片が付くものか。
cover
Pianish
 それは2006年の「Pianish」(参照)に静かに覚醒していた。小坂明子のピアノ曲アルバムである。ジャンルとしてはニューエージになるだろう。ここに「あなた」のピアノ曲が収録され、それはiTunesでの販売を通して、世界のニューエージ・ピアノでも高く評価された。
 正確に言えば、それは1970年代の「あなた」ではない。よくある、サザンオールスターズや宇多田ヒカルの曲のピアノ・アレンジ曲のようなものではない。もちろん、旋律は活かされているから、聞きながらつい歌詞に引き込まれ、それはエレガントなメロディに流されていくのだが、人の声を誘った歌は、聴いたことのないピアノの旋律のなかに溶け込んでしまう。別の曲なのか、これがそもそも小坂明子という天才の本質なのか、戸惑っていると、最後のリフレインで、ピアノの響きではあるが「あなた」の絶叫がある。なぜ、この人は絶叫するのか?
 答えは、同アルバムの「Dark Clouds」にある。タイトルに暗示される、暗雲らしい不安な、そしてある意味でニューエージ・ピアノ曲らしい手法のなかから、ラフマニノフ的な展開が出現し、能「井筒」の怨霊のように舞始める。ああ、これだ。懐かしくゲドの影に出会うような戦慄がよぎる。おそらくこの曲は、もっと壮大な曲に自らを変化させたいという呻きのなかで、しかし、短く静かに悲しく終わる。北斗の拳のトキの命の悲しみのような何か。
cover
Pianade
 その悲しみを均衡させるような静寂はアルバム全体を覆い、その部分は後続の「Pianade」に継がれていく。「Dark Clouds」にあった深淵は、このアルバムの「春雷」に少し現れるが、舞おうとはしない。そこでワキのようなギターが入る。総じて、音楽的には「Pianade」が優れていると言えるだろうが、何かがまた消えてしまう。
 この世ならざるものに焦がれて人生を翻弄されてしまうしかない人にとって、偽装されたオアシスのような作品群のなかで、静かさに悲しみとして敗退する光景として、「初恋」も切ない。タイトルからして、ツルゲーネフ的な初恋のイメージに潤色されている戦慄だが、深淵のほつれが見える。たぶん、「あなた」という絶叫の隠喩は、あらかじめ失われた初恋として啓示された何かであったのだろう。
 
 
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.09.19

キャサリン・マリー・チャールトン(Catherine Marie Charlton)のピアノ曲

 ピアノ曲が好きな人は多い。私もそう。クラシックやジャズ以外に、いわゆるニューエージと言われるジャンルのピアノ曲もけっこう好きで、明確にジャンル分けできない曲想もいいと思っている。最近キャサリン・マリー・チャールトン(Catherine Marie Charlton)の曲をよく聞くので、ご紹介。

cover
Undershore
Catherine Marie Charlton
 一番気に入っているのは、「Undershore」(参照)。iTunesでも購入できる。
 ベスト曲は、タイトルにもなっている、オープニングの"Undershore"。瞑想的で複雑で情熱的。能に使えそうな幻想性もある。サビはラベルのガスパールやショパンのプレリュード嬰ハ短調のような、この世ならざる存在者の快楽的な失墜感もある。
 2曲目の異国風な"The Lonely Cobbler"や、パーカッションが導入される3曲目の"Moon Twist"も"Undershore"と同じコンセプトから引き込まれる。"Asymptote"では、メロディアスな具象性と数学的な抽象性の交錯も美しい。アルバムのエンディングは"Undershore"にパーカッションとフルートを入れてアレンジした"Undershore Flow"で、幽玄の余韻がある。
 ただ、このアルバムはジョージ・ウィンストン(George Winston)的ないわゆるニューエージ・ピアノのイメージで聞いているとちょっと違和感があるかもしれない。その点で、普通に聞きやすい曲は、なじみ深いメロディーをモチーフにした"Shenandoah"だろう。癒しの音楽のようにも聞くことができる。まずこの一曲だけ切り出して聞いてもいい。
cover
River Dawn:
Piano Meditations
Catherine Marie Charlton
 6曲目の"River Dawn"は、彼女の以前のアルバム"River Dawn"によるもの。このアルバムは副題にピアノ瞑想とあるように、彼女の瞑想的な作品。
 "River Dawn"のモチーフはアルバム"Undershore"に含まれている曲が短い分だけ、くっきりとしているが、アルバムのほうでは、このモチーフで1時間にわたる演奏が続く。
 瞑想ということもあって、"Undershore"のような情熱は抑えられているが、離散的な部分は、ジョン・ケージ(John Cage)の初期作品「In a Landscape」(参照)に似た印象もある。もちろんチャールトンは、ケージのような音楽的な実験といった作風はなく、いかにもニューエージ・ピアノ曲的な心地よさでもある。即興的な演奏ミスではないかとも思えるような不協和音も面白い。
 同アルバムは、脳波に影響すると言われるバイノーラル音を入れたバージョンもある(参照)。
 と、書いてみたものの、チャールトンについてはピアノ音楽以外にはあまり知らない。彼女自身のサイト(参照)に、各種情報があるにはあるのだが、それ以外の客観的な情報はわからない。
 背景としては、クラッシックからジャズに進んだ人のようでもあり、なるほどその双方の技法はよくわかる。が、そのいずれでもないピアノ曲になっている。
 10月に新しいアルバムが出るらしく、プレビューも聞くことができる。聞き込んでいないのでよくわからないが、期待している。
 
 
 

音楽は"Moon Twist"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.17

[書評]Say It Better in English: Useful Phrases for Work & Everyday Life(Marianna Pascal)

 先日ツイッターで英語の勉強法の話題があって、「それならいいのがありますよ」みたいなことをつぶやいた。念頭にあったのは、この本、「Say It Better in English: Useful Phrases for Work & Everyday Life(Marianna Pascal)」(参照)。タイトルを訳すと、「英語で上手に言う方法。職場と日々の暮らしで役立つ言い回し」となるだろうか。そういう感じの本。

cover
Say It Better in English:
Useful Phrases for Work & Everyday Life:
Marianna Pascal, Lee Shee
 日常的な英会話でよく使われる表現を368個まとめて、それに簡単な解説とイラストと例文が付いている。ちょっとした絵本といった風情なので、中学生が読んでもいい。英語のレベルからすると、中学生くらいが相当かもしれない。日本で高校英語を普通に終えた人なら、おそらく半分はすでに知っているのではないだろうか。ということで、いまさら薦めるのもどうかなというためらいもあった。

 もう一つためらいがあった。日本のアマゾンを見ると中古のプレミアムがついていて、それがちょっととんでもない価格になっている。米国アマゾンはどうかと見ると、やはり在庫はなく、中古でお高い。まいったなとも思うのだが、これ、それだけのお値打ちの良書だという意味もあるのだろう。
 幸いというべきからキンドル版がある。キンドルで買うと12ドルほど。とはいえ、キンドルもってない人にこの本のためにキンドルを薦めるというのもどうかいうのはある。そういえば、先日、キンドルの話(参照)を書いたおり、もうすぐ新しいのが出るのにもったいないことをしたねみたいなことも言われたが、近日出るのはキンドルパッドというiPadみたいなものらしい。キンドルのほうはさして変わらないみたいだ。
 さてと。
 というわけで、ここまでエントリを読んでくれた人をがっかりさせるわけにはいかない。
 実は、本書収録の言い回し部分だけをリストにまとめた冊子が無料でPDF形式で配布されている(参照)。これだけダウンロードして、知らない言い回しをチェックしておくといいのではないかな。知らない言い回しを覚えたら、たぶんだけど、「あれれ、少し英語が上達したしたかも」という感じがするのでは。"I enjoyed your presentation very much."から"I really enjoyed your presentation."になるとか。
 先にも書いたが、すごく当たり前な言い回しも多いのだけど、意外と、へえ?というのもあるのではないか。私は英語が苦手なので、へえと思う言い回しがいくつもあった。
 例えば、"Can I get by?"
 状況によって意味が変わることもあるけど、「あの、ちょっと通してくれませんか?」という意味。リストには"Say this when you need someone to move so you can go past them." と説明がある。本書のほうだと、エレベーターを降りたいのだけどなあ、みたいなイラストで一目でわかる。
 例えば、"You shouldn’t have."
 これも状況で意味が変わる、というか、たぶん逆の意味にもなりかねないけど、説明はこう。"Say this to show appreciation when receiving a gift." つまり、ちょっと値の張る贈り物なんかをいただいたとき、日本語でも「こんなことなさらなくても」というけど、つまり、英語でもそういう言い方をする。
 例えば、"What are you up to these days?" なんかもよく言われるけど、"Tell me about your recent life"という意味。
 まあ、そんな感じ。リストを見るとわかるけど、電話関連の言い回しや、ちょっとした仕事関連の言い回しが多く、けっこう実用的。"Can I take a rain check?"とかも。
 本書のほうだと、イラストの他に、ちょこっとした一行程度の解説があったりする。私なんかだと、へえと思うような話もあった。


| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011.09.15

テロとの戦争とは何だったのか

 セプテンバー・イレブンとも略称されるニューヨーク同時多発テロ事件から10年。関連行事のニュースをなんどか見かけた。テロとの戦争とは何だったのかとも問われていたようだったが、私はといえば、幸い身近に被害者がいなかったこともあり、消防士の方たちは大変だったなあ、神のお恵みを、と思うくらいで、あたらめての感想といったものはなかった。時というものはこうして過ぎていくものだという一般的な感慨があるくらいだった。
 が、今朝たまたまツイッターでアゴラに掲載された金融日記さんの「テロとの戦争とは何だったのか」(参照)のリンクを見かけ、つい読んでしまった。釣られた。


米ニューヨーク・タイムズの記事によると、この世界同時多発テロにより破壊されたワールド・トレードセンターや建物内の備品、その他、地下鉄や電話線や送電線の損失は合計で260億ドル(2兆円)である。このテロでテロリスト19人を含む2,993人が犠牲になった。そしてこの破壊された2兆円のインフラストラクチャーと約3000人の犠牲者に対する復讐として、アメリカはテロとの戦争を開始したのである。

 そこは特に異論もない。続く文脈は私には論旨のよくわからない話があり、その後、本題に入ったようだった。

さて、テロとの戦争である。米兵だけで6000人以上が死亡した。テロの犠牲者の2倍である。米ブラウン大学ワトソン研究所の推計では、戦場にされたイラクで12万5000人、アフガニスタンで1万1700人、パキスタンで3万5600人の民間人が死亡した。その他の犠牲者を合計すると、控えめに見積もっても22万5千人ほどが死亡した。経済的にはアメリカの負担は3.2兆ドル~4兆ドル(250兆円~300兆円)程度だといわれている。日本の総税収の6年~8年分である。つまりテロの直接の被害の150倍の金を費やし、テロの直接の犠牲者の75倍の命を犠牲にしたのである。これだけの負担をして、世界の安全性はより高まったのだろうか?

 死者数についてはそういう推定もあるだろうとは思うが、金融日記さんらしい経済面での数値で、あれ?と思って、まんまと釣られたわけである。
 もちろん、これもそういう推定もあるとは思うが、ここはまず米国議会の公式推定を出すのが普通ではないか。
 今年3月29日付けの米国議会調査「The Cost of Iraq, Afghanistan, and Other Global War on Terror Operations Since 9/11 March 29, 2011 - RL33110」(参照)を見ると、ニューヨーク同時多発テロ事件以降、議会側で承認された総額は"$1.283 trillion"とある。1.3兆ドルというところだ。
 コラムニストのクライトハマー(Charles Krauthammer)も先日、同じ数値を挙げていた。「The 9/11 ‘overreaction’? Nonsense」(参照)より。

The total cost of “the two wars” is $1.3 trillion. That’s less than 1/11th of the national debt, less than one year of Obama deficit spending. During the golden Eisenhower 1950s of robust economic growth averaging 5 percent annually, defense spending was 11 percent of GDP and 60 percent of the federal budget. Today, defense spending is 5 percent of GDP and 20 percent of the budget. So much for imperial overstretch.

「2つの戦争」の総費用は1兆3000億ドルである。それは米国赤字の11分の1より少なく、オバマ大統領による1年分の赤字財政支出よりも少ない。毎年平均5パーセントもの経済成長を力強く遂げていたアイゼンハワー大統領黄金期の1950年代では、防衛支出はGDPの11パーセントで国家予算の60パーセントもあった。今日の防衛支出はGDPの5パーセントで国家予算の20パーセントである。帝国主義的な過剰拡張といってもその程度なのである。


 アイゼンハワー時代と比較するのは洒落がきついが、米国議会が承認するのに大きくためらうという支出でもない。米国経済の問題の根幹がテロとの戦争にあるわけではない。

Yes, we are approaching bankruptcy. But this has as much to do with the war on terror as do sunspots. Looming insolvency comes not from our shrinking defense budget but from the explosion of entitlements. They devour nearly half the federal budget.

なるほど米国は破産に向かっているが、テロとの戦争による影響は太陽黒点の活動の影響ほどである。迫り来る破産は、縮小しつつある防衛予算によるものではなく、給付金の爆発的拡大によるものだ。それが国家予算のほぼ半分をむさぼっている。


 金融日記さんの該当エントリーの冒頭には「そこには現在の日本にとって大切な教訓があるからである」とも書かれていたが、米国から学ぶ教訓はむしろ社会保障費の拡大によって十分な防衛費が捻出できず、十分な国家安全保障が達成できなくなる点のほうにある。
 ブッシュ政権によるテロとの戦争の政策はよく批判されたものだったし、金融日記さんもこう書いていた。釣りのうまさに脱帽せざるをえない。

10年前の9月、アメリカ国民は正気を失っていた。ニューヨーク・タイムズなどの大手メディアも一斉にテロとの戦争を煽っていた。そして核兵器を隠しているとされたイラクなどに戦争をしかけていく。そのような雰囲気の中、こういった戦争は馬鹿げている、などという者は国じゅうからバッシングを受けた。

 実際は、イラク戦争は、セプテンバー・イレブンがなくても企画されていた。チェイニー元副首相らの安全保障政策ですでに導かれていたし、ウィキリークス公電でサウジが米国に対してイランを空爆せよと求めていたことからも類推できるが、湾岸戦争でサウジに手を伸ばしアラブの覇者たらんとしていたイラク故フセイン大統領はサウジ側から危険視され、その小間使いチェイニー氏は標的として定めていた。
 リビア戦争は人道的目的から是とされたが、イラクでは1987/1988年に20万人近いクルド人が虐殺されていたが人道的介入を要する問題とはされなかった。国連制裁はあったが、それで食糧や衣糧品の不足からイラク社会は疲弊し、病死者も増えていた。しかも、この国連制裁は朴東宣らが主導する不正に満ちていて(参照)、フランスやロシアまでも噛んでいた(参照)。クライトハマーが大げさにイラク戦争を擁護するまでもなく、「正気を失っていた」からというものでもなかった。もちろん、それを是とするかは別問題であるにせよ。

Iraq, too, was decisive, though not in the way we intended. We no more chose it to be the central campaign in the crushing of al-Qaeda than Eisenhower chose the Battle of the Bulge as the locus for the final destruction of the German war machine.

私たちが意図したとおりではなかったが、イラクも決定的な意味があった。イラクがアルカイダ粉砕のための中心的軍事行動に選ばれたのは、アイゼンハワー大統領がドイツ軍事機構を最終的に破壊するための要所としてバルジの戦いを選んだこと以上のものではない。


 これもきつい洒落と言えないこともないし、クライトハマーはサウジに言及はしていない。が、世界のサウジへの依存から見てもその比喩が理解できないものでもない。
 また、「アラブの春」とやらが西側諸国によるリビア攻略に結びついた今、イラク戦争がその基点のひな形であることは否定しがたい。
 しかも、ブッシュ元大統領が始めたテロとの戦争は、きちんとオバマ大統領に引き継がれているのである。

In the end: 10 years, no second attack (which everyone assumed would come within months). That testifies to the other great achievement of the decade: the defensive anti-terror apparatus hastily constructed from scratch after 9/11 by President Bush, and then continued by President Obama. Continued why? Because it worked. It kept us safe — the warrantless wiretaps, the Patriot Act, extraordinary rendition, preventive detention and, yes, Guantanamo.

結局のところ、この十年間、誰もが数か月と想定した第二次攻撃はなかった。このことで、9.11の後、ブッシュ大統領が急ぎ形成した対テロ防衛機構はこの十年間の偉大な達成であることが明らかになった。そしてオバマ大統領にも引き継がれている。引き継がれた理由は、有効だからだ。おかげで我々は安全である。つまり、令状なしの盗聴、愛国者法、通常の法的手続きによらずに実施された容疑者の他国への移送、予防の拘置、そう、グアンタナモ収容所である。


 もちろん、これもきつい洒落として読むこともできる。
 だが、一つだけ明確なのは、ブッシュ政権からオバマ政権に変わっても、饒舌な修辞を除けば、テロとの戦争で実質的に変わったことはなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.13

黒塗りの下には

 福島原発事故については東京電力も菅直人前首相も精一杯のことをしたではないかとも思うので、この意見は控えておくべきかとも悩んだが、事故調査に当たっている衆院科学技術・イノベーション推進特別委員会が東京電力に過酷事故時の対処マニュアルの提出を求めたところ、50行中48行を黒塗りした文書を提出したとの報道を聞き、さすがに呆れたので、こういう見方もあるということにすぎないが、簡単に記しておきたい。
 報道の確認から。NHK「衆院 原発事故時の手順書開示を」(参照)より。


 衆議院の科学技術・イノベーション推進特別委員会は、福島第一原発の事故の原因を調べるため、東京電力に対し、9日までに事故時のマニュアル「事故時運転操作手順書」と深刻な事故で使う手順書を提出するよう求めました。これに対し、東京電力は、「事故時運転操作手順書」は内容のほとんどを黒く塗りつぶして提出し、また深刻な事故で使う手順書だとして12日提示したのは表紙と目次の3枚だけで、目次の大部分を塗りつぶしていたうえ、資料はその場で回収しました。東京電力は「知的財産が含まれていて、また核物質をテロなどから守らなければならず、公表できない」と説明しています。これに対し特別委員会の川内博史委員長は、12日、経済産業大臣に対し東京電力に原本のままの提出を法律に基づいて命じるよう求めました。この問題について経済産業省、原子力安全・保安院は「今後、どう対応するか検討したい」としています。

 朝日新聞記事「50行中48行黒塗り 東電、国会に原発事故手順書提出」(参照)では次の内容も報道されていた。

 東電が開示した資料は、「1号機運転操作手順書(シビアアクシデント)」の表紙と目次で、A4判計3枚。12日、保安院を通じて、非公開の同委員会理事会で委員に配られた。
 川内委員長によると、手順書は2003年7月1日に作成され、今年2月1日に改定されたと記されていた。目次の序文など50行のうち48行が黒塗りにされ、その場で回収された。読めた単語は「消火系」「不活性ガス」だけ。委員からは、「資料開示に応じないのははなはだ遺憾」などと批判が出たという。

 これではまったく事故調査にならなず、なんらかの対応が必要なのは論を俟たないが、一企業としての東電側の思いもわからないではない。
 そもそも、過酷事故に対処する手順書が東電側にのみ存在し、政府側の規制機関に存在していないというのも、今となってはの議論ではあるが、不可解な話である。それとも、この点、私が理解していないでいて、政府側の規制機関には過酷事故に対処する手順書が存在しているのだろうか?
 福島原発事故を引き起こした原子炉は米国ゼネラル・エレクトリック(GE)社製「マークⅠ型」ということからもわかるように、GE側には非常用復水器の操作を含め十分な資料があり、また、米国でも同型の原子炉が利用されていることから、米原子力規制委員会(NRC)も規制のために十分な資料を持っている。例えば、1989年には「マーク1型」についてNRCは格納容器に圧力緩和用の緊急通気弁を取り付けるGE社側の提案を承認し、これは今回の福島第一原発にも影響していた。
 実際のところ今回の事故でも、東電および日本国側がなすすべもなく「ミッション・二階から目薬」(参照)を決死のパフォーマンスとして実施した後は、事実上の事故対応のヘッドクオーターはNRCに委ねられたと見てよい。この経緯についてはすでにブログで記しても来た。
 事実上のNRC指揮移管に至る最大の契機は、事故対応のための手順書である、3月26日付けNRC文書のリークだったと言える。この文書については、「放射性物質を含む瓦礫の撤去が始まる: 極東ブログ」(参照)でも記したが、この事態で特別に編まれたものであるが、アドホックに書かれたのではなく、NRCの標準手順に沿って書かれていただけのものだった。つまり、NRC側には過酷事故に対処する標準の手順書が存在しており、NRC側としては、なぜ東電および日本が、NRCの過酷事故に対処する手順書に従わないのか不審を抱いていた。だから脅しために意図的にリークした。
 米国であれば、過酷事故が発生すれば、NRCの過酷事故に対処する手順書に従うことになるし、NRCが事実上の指揮に当たる。当然ながら、原子炉を運営する企業は、いったん国家の側に移管されることになり、その後、国家機関としてのNRCが関与するということになる。
 NRCに相当する機関が日本にはなかったというだけの問題とも言えるかもしれないが、日本国も、結果としてNRCの指揮下に入ったのだが、最初の時点で、過酷事故対処を東電指揮下から切り離すべきであった。この点について、日本でもそうであったという議論もある。そして、その上で東電が政府側に従わなかった、または、政府側が混乱して指揮ができていなかったという議論もある。
 だが、現実問題として、過酷事故対処は東電に丸投げされており、そのきっかけ、および指針を出したのは菅直人元首相であった。
 菅直人前首相が3月15日未明に東電本店に乗り込んだ際の訓示の記録全文が、9月9日なって東京新聞朝刊で公開された(参照)。「命を懸けてください」といった戦中戦前の日本軍を思わせる威勢のいい言葉の実態には、東電への丸投げと米国など他国の介入の忌避が明確に描かれていた。

*前首相訓示全文
 今回のことの重大性は皆さんが一番分っていると思う。政府と東電がリアルタイムで対策を打つ必要がある。私が本部長、海江田大臣と清水社長が副本部長ということになった。
 これは2号機だけの話ではない。2号機を放棄すれば、1号機、3号機、4号機から6号機。さらに福島第二のサイト、これらはどうなってしまうのか。これらを放棄した場合、何ヶ月後かにはすべての原発、核廃棄物が崩壊して、放射能を発することになる。チェルノブイリの二~三倍のものが十基、二十基と合わさる。日本の国が成立しなくなる。
 何としても、命懸けでこの状況を押さえ込まない限りは、撤退して黙って見過ごすことはできない。そんなことをすれば、外国が「自分たちがやる」と言い出しかねない。皆さんが当事者です。命を懸けてください。逃げても逃げ切れない。情報伝達が遅いし、不正確だ。しかも間違っている。皆さん、萎縮しないでくれ。必要な情報を上げてくれ。
 目の前のこととともに、五時間先、十時間先、一日先、一週間先を読み行動することが大事だ。金がいくらかかっても構わない。東電がやるしかない。日本がつぶれるかもしれない時に、撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。六十歳以上が現地に行けばよい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。撤退したら東電は必ずつぶれる

 実際のところ、結果としては、横田基地で待機していた実動部隊によって、米国が「自分たちがやる」という事態にはならなかったが、放射性物質を大量にまき散らした後の対応は事実上、NRCの指揮下に入り、また対応の基礎資料はフランス、アレバ社にも依存することになった。
 東電という企業を国家の命令で命を懸けさせることは、日本の戦前戦中風の美談にも思えるが、現実的には、十分な対処手順を持っていたNRCとリソースを用意していた米軍の関与を遅らせ、事態を深刻化させてしまうことになった。
 東電側に過酷事故時の対処マニュアルがあったとしても、製造元のGEやNRCに準拠したものにすぎず、しかも実際にはそれを元に対応ができたわけでもなかった。


| | コメント (5) | トラックバック (1)

2011.09.12

鉢呂吉雄前経済産業相、辞任

 福島第一原子力発電所事故を巡る不適切な言動を認め鉢呂吉雄前経済産業相が辞任し、後任には枝野幸男前官房長官が内定した。
 鉢呂氏の辞任に至る経緯はマスメディアによる吊し上げのようでもあり、ネットの世界では、社会党や農協といった鉢呂氏の背景もあってなのか、反原発派と見なされたことか、世論に比べて鉢呂氏の支持派が多く、マスメディアの暴走こそが問題とする意見をよく見かけた。
 確かにマスメディアの暴走といった傾向は今回も見られたが、以前の、麻生元首相や石原都知事の失言を狩る光景とさして変わるものではなく、いつものマスメディアの行動でもある。マスメディアの問題としては事前の仕込みがあったと思われるメア氏発言報道のほうが相当に悪質であるようにも思える。
 いずれにせよ、野田内閣発足間もないなかで、失言が理由での閣僚辞任は好ましいことでない。気の向かない話題ではあるが、それでも、今後の動向を考える上で基点となる可能性がないわけでもないので、現状の記載として簡単に取り上げておきたい。
 鉢呂吉雄前経済産業相の不適切とされる言動は、二点あった。(1) 9日、福島第一原発の視察後、議員宿舎に帰宅した際、近くにいた毎日新聞男性記者に近寄り、「放射能をつけたぞ」という趣旨の発言と共に、「防災服をすりつける仕草」をしたこと、(2) 10日の記者会見で原発周辺の市街地を「死の街」と表現したこと、の二点である。
 2点目の「死の街」については、朝日新聞記事「鉢呂氏「死の街」発言 野田首相「不穏当」と謝罪求める」(参照)で報じられているように、野田首相が「不穏当な発言だ。謝罪して訂正して欲しいと思う」と明言したことを受けて、即座に鉢呂氏自身も不適切な発言であることを認めて弁明があった。首相も鉢呂前大臣も「死の街」という表現が不適切であると認めているのだが、ネットなどではこの、野田首相と鉢呂前大臣の認識を否定し、「死の街」という表現は適切であり、不適当な発言ではないする声もある。
 話題となった「死の街」という表現だが、小学館提供『使い方の分かる 類語例解辞典 新装版』(参照)で「死」の語用の解説に、はっきりと「死の街と化す」という用例がある。


[補足]
◇(1)比喩(ひゆ)的に、死んだように生気、活気のない状態であるさまをいうこともある。「死の街と化す」 (2)「急死」「刑死」「殉死」「頓死(とんし)」「脳死」「病死」「老死」など、形容する語について複合語を作ることも多い。

 この辞典からは、「死の街」は、「比喩的に、死んだように生気、活気のない街」として自然に理解できる。実際に鉢呂氏が見た光景はそのようなものであり、であれば、失言にあたるとは思えない。
 むしろ、ジャパンタイムズなどが「死の街」発言を「ゴーストタウン(ghost town)」(参照)と訳したことなどから、「死の街」は「ゴーストタウン」と同じだから問題ないとする持って回った擁護論も見かけたが、そうした英語を挟んでの手間をかける必要もない。
 なお、海外では、この他の表現も見られたが、"City of Death"といった直訳的な表現は避けられている印象を受けた。これだと黒死病のように、死者が充満した街というイメージになり、あまりに奇矯に思われたからだろう。
 では、「死の街」は日本語としてまったく違和感がない表現なのかというと、戦後の苦難の歴史を歩まれた年代には、1952年大映映画「死の街を脱れて」が想起されるだろう。昭和二十年、日本軍が中国大陸を敗退し、現地に無防備にとり残された日本人婦女子には悲惨な現実が訪れた。映画「死の街を脱れて」が描く日本人街では、恋人を殺され、辱めを受けた婦女子の惨状を見かねた婦人会長が日本人として清く自決しようと提言する。映画では、まさに死に溢れる光景が「死の街」として表現された。比喩的な表現と直接的な表現のどちらが強いかを考えても、死に満ちた「死の街」が一義的になるのは自然な言語のありかたである。
 2点目の、毎日新聞男性記者に近寄り「放射能をつけたぞ」という趣旨の発言と共に、「防災服をすりつける仕草」をした点については、どうか。
 これは誰が考えても、重責を担った大国の大臣とは思えない子供じみたものではあるという以前に、報道されたように「放射能」を意図して発言が随伴していたとするなら、原発事故被災者がこうした差別に苦しんでいるさなかであり、誰もが不快に思う軽率な行動と言える。
 毎日新聞の経産省担当記者としても、鉢呂氏が原発施設を出た後には厳重な除染を行うことは認識しているだろうから、なぜ鉢呂氏が「防災服の袖をつけるしぐさ」したのか、子供じみた行為だという以前に、まずもって不可解に思えたはずである。同じ場にいた他の記者たちにもその行為は奇異に見えたことから、その行為の意味が問わることになった。毎日新聞の報道の後、NHKの報道が遅れたが、その間、NHKとしても、鉢呂大臣のこの言動の事実性を確認していたのだろう。
 まず、鉢呂氏が「防災服の袖をつけるしぐさ」をしたことは、事実であったと見て妥当だろう。また辞任会見でも、そのしぐさがあったことは鉢呂氏も否定していない。ではそのしぐさの意味はなんであったか。
 報道では、このしぐさに「放射能をつけたぞ」という趣旨の発言が伴われていたとされている。だが、その表現は各メディアによってまちまちであり、また、辞任会見でも鉢呂氏は、「そういう発言をしたと確信を持っていない」と述べていることから、正確な発言がなんであったかは明確にはわからない。
 鉢呂氏の辞任会見「非公式記者懇の気楽さあった」(参照)ではこう語られている。

記者さんは仲間たちという感じで、現地に行っていないということで、大変厳しい状況を共有していただくというか、そういうのを込めて、そういうしぐさから出たと私自身は思う

 そのまま受け取ると、類人猿などに見られるグルーミングの行為のようにも思えるが、当然、「グルーミングでした」は、常識的に了解できるものではない。

 --非公式という場があだになって、そういう軽率な言葉を発したのか
 「軽率というか、深刻的な話になったものですから、そこを何というか、親しみを込めて…。相手から言えば、そういう風に受け止められたのではないかなという風に…」
 --親しみを込めて何と言ったのか
 「ちょっとはっきりと分からない」

 鉢呂氏本人はどのような発言をしたかということは、わからないとしているが、発言がなかったという否定にはなっていない。別の言い方をすれば、そのような発言は断固としてなかったという表明はなされなかった。おそらく、そのような発言がないとなれば、類人猿のグルーミングような行為だけが謎として残ることになっただろう。
 まとめると、「防災服の袖をつけるしぐさ」は複数の記者に観察されていることから事実性は高く、それに随伴し、そのしぐさを意味づける発言があったらしいことも事実と見てよいだろう。しかし、その発言がなんであったかについて、「放射能」という発言を含んでいたとする記者の証言の妥当性は検討を要する。
 以上の妥当な事実性から、常識的に推測されることは、おそらく冗談としてではあろうが、「防災服をすりつける仕草」の意味となる「放射能をつけたぞ」といった主旨の発言の存在である。
 さて、仮に、「放射能をつけたぞ」(推定)として「防災服をすりつける仕草」(事実)をしたとするなら、それは、大臣辞任に値するほどの失態だろうか?
 鉢呂前大臣辞任を受理した野田首相はこの個別の点については言及していないようなので、政府としての判断はわからない。
 私の意見としては、「あの言動はあくまで冗談でした」と釈明し、「ご批判は受けるが、断固として大臣の職を貫徹したい」と鉢呂氏が述べるなら、辞任に値することではなかったように思われる。もちろん、減給なりのなんらかの処罰も受けるべきであろうが。
 逆に言えば、なぜ鉢呂前大臣にそこまでの使命感・重責感がなかったのか、大臣の資質が問われるならそこであり、次に、野田首相の内閣運営の原則に疑念を残すものになった。
 それでも、鉢呂前大臣がこうした顛末として辞任したことで、子どもたちがふざけて「放射能をつけたぞ」「放射能がついたぞ」としても、一国の大臣でもする冗談だからかまいません、ということはならなくなった。その一点だけは、鉢呂前大臣が国民の品位を高めてくれたと言えるだろう。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.09.10

[書評]リトル・ピープルの時代(宇野常寛)

 「リトル・ピープルの時代」(参照)で宇野常寛が展望する現在世界の見取り図は、理解しやすい簡素な構図で出来ている。
 1948年にジョージ・オーウェルが著した「1984」(参照)の「ビッグ・ブラザーの世界」は、2009/2010年に村上春樹が「1Q84」(参照)で描いた「リトル・ピープルの時代」に変貌したということだ。では、ビッグ・ブラザーとはなにか。リトル・ピープルとはなにか。

cover
リトル・ピープルの時代
宇野常寛
 ビッグ・ブラザー(偉大なる兄弟)は、オーウェルの脳裏ではスターリンだった。有田芳生氏の名前の由来となった「ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)」である。同志スターリンとも呼ばれたものだった。その他に毛沢東もビッグ・ブラザーであり、金正日もそうだ。カダフィーもそうだと言ってよい。大衆の前に写真で大きく掲げらる。全体主義国家の独裁者と理解されることが多い。
 だが独裁的な国家の内側では慈父として信奉される。あるいはそう崇拝するように仕向けられてる。「父」は悪でもあり善でもある両義的な存在である。
 「父」は国民国家と一体化し、一つの極点ないし極点のイメージを持つ。よって特定の個人でなく、日本国財務省や日本銀行という集団に同定しても同じである。
 世界をビッグ・ブラザーの支配と見るなら、その極の「父」について、敵として、あるいは「巨悪」と見立てて、「正義」をもって立ち向かい、戦うことが求められてしまう。「子」の戦いでもある。
 戦いは、誰も共感すべき「大きな物語」として語られるが、その「大きな物語」の典型は「世界の終わり」である。「世界の終わり」を掲げればすべての人をそこに「徴兵」できると想定されやすい。
 だが、ビッグ・ブラザーの両義性から、戦う「子」の「正義」もまたビッグ・ブラザーと同じ独裁的な性格を帯びることになる。同じ土俵で同種の武具で戦闘すれば、その光景は、客席を右に取るか左に取ろうが同じ。鏡像が映じられる。いわゆるリベラルを自称する言説者が実際には独裁者と同じように振る舞うのは当然の帰結である。
 「世界が終わる」「日本が終わる」あるいは「世界は終わらない」「日本は変わらない」、いずれも「大きな物語」を希求する空しいあがきである。その構図にいくら修辞を凝らしても、軽そうに茶化してみても、いずれ大衆の喝采を意識するのであれば、同じ陥穽に嵌る。
 ビッグ・ブラザーの世界は冷戦の世界観でもあった。社会主義と資本主義のどちらかを悪に振り分けて争う世界であり、陣営の旗だけが問われた。核廃絶と言いながらソ連核に言及しなかったり、日本の原発を批判しながら北朝鮮のそれを不問にしたりと滑稽な風景が展開された。しかしその時代は冷戦と随伴して終わり、現代世界は、ビッグ・ブラザーという善悪からは解けなくなった。少なくともポスト団塊世代からは世界はそのように意識されている。
 ビッグ・ブラザーの世界から、一定の解体期を経て出現したのがリトル・ピープルの世界だと宇野は本書で説く。本書は、その変容過程の大衆イメージ史の集積ともなっていて興味深い。
 リトル・ピープルはどのように本書で理解されているか。まず、それは「小さなビッグ・ブラザー」なのだという補助線を引きたい。国家にイメージを重ねるビッグ・ブラザーが分裂し複数化し、小粒になって増えた存在だ。
 「父」はリトル・ピープルとして小粒化した。リトル・ピープル自身はかつての「ビッグ・ブラザー」を夢想しても、世界は彼らを複数化させ矮小化させてしまった。
 なぜなのか。「ビッグ・ブラザー」の意味を支えていた「大きな物語」が消えたからだとも言える。世界は多様にしか存在しないことは明白になっている。あるいは多様な物語としてしか理解されない。その多様化され、小さくなった物語の限定内で、「ビッグ・ブラザー」を夢見ているのがリトル・ピープルである。「小さな父たち」は小さな権力のゲームを争うのである。もっとも国政の中央で実施される小さな権力のゲームは国民に甚大な悲惨をもたらすのだが。
 かつてのビッグ・ブラザーの世界においては、人は敵意に満ちた苦難な現実に対峙するために仮想の世界を夢想した。しかしリトル・ピープルの世界では、現実が夢想と結合して内側に拡張していく。
 リトル・ピープルは個別の些末な世界観を奉じているにも関わらず、ビッグ・ブラザーを憧憬し、それがかなわぬがゆえに小集団化し、セクト化し、さらなる焦りから、「小さな物語」を「大きな物語」だと勘違いして、各種の奇矯な言説をわめきたてる。多くの人々の関心引きたいがために恐怖や醜態も演ずる。
 そうしたリトル・ピープルの世界としての現在を、本書の宇野は、手始めに村上春樹の「1Q84」とその訳業から、かなり精密に読み出す。その文献学的ともいえる手法の鮮やかさは本書の頂点の一つである。
 本書は、いわゆるポストモダン、あるいはポスト・ポストモダンという饒舌――つまりあまりに日本的な「思想界」と呼ばれる児戯――に留まらず、私たちの生の可能性の求める志向を取っているのが新鮮に感じられる。
 簡単にいえば、本書は、現在がリトル・ピープルの世界であることを了解したうえで、では、この「小さな父」たちの戯れの世界からどのように生を獲得できるのかが、切実に問われている。不可避的に「小さな父」として存在してしまう私たちは、自己をどのように変容させうるか?
 この問題を宇野は、テーゼ的な問題設定ではなく、マスイメージ(大衆のイメージ)の変容の過程からその可能性の了解していくという手法で展開する。吉本隆明が1980年代の「マス・イメージ論」(参照)から「ハイ・イメージ論」(参照)で採ったサブカルチャー重視の手法に近い。このため、マス・イメージ、特に「大きな物語」のマス・イメージから、戦後が終わった時代の、子どもの世界のマス・イメージとして、本書では、特にウルトラマンシリーズと仮面ライダーシリーズが詳細に検討されていく。
 ウルトラマンはビッグ・ブラザーであり、仮面ライダーはリトル・ピープルである。本書はこの解説がかなり入念に展開されていて、単純に「ウルトラマン論」「仮面ライダー論」として読んでも十分に読み応えがある。むしろ、そこにこそ宇野の真価があるのかもしれない。
 繰り返すが、本書は、リトル・ピープルの世界とは何かという、いかにも思想的な問いかけを捨象して、「仮面ライダー論」として読んでも十分に秀逸な作品になっている。
 むしろ純粋に思想的に本書の課題設定を追っていくと、なぜ世界は変容したのかという問いには詰めの甘さも見られる。
 宇野は現実世界の変容要因として、貨幣と情報のネットワークが国家を凌駕したからだ、とやすやすと言ってのける。貨幣と情報のネットワークが国家の上位に立ったがゆえに、「大きな物語」が求めた幻想の世界という外部性への必要性が失せたのだと彼は考えている。
 残念ながら、貨幣と情報のネットワークはそのように簡易にまとめられる運動ではない。貨幣はそれが幻想であれ、つねに人々の未来の労働としての「信用」を要求するほど堅固な存在である。また国際物流の高度化にともない、貨幣は「帝国」を必然的に希求する。帝国は信用の繋ぎ的な代替として一次資源の国際管理を「正義」のもとに軍事力で脅しつつ実現する。情報のネットワークはそれに随伴し、たとえば「アラブの春」といった大きな物語の幻影を生み出さざるをえなくなる。貨幣と情報のネットワークは不定形な運動ではなく、帝国の意志と反撃の構図で展開する。
 その意味では、現在世界はリトル・ピープルの世界というより、ハイパー・ビッグ・ブラザーの世界であるかもしれない。リトル・ピープルの世界における内在的な幻想の深化あるいは多様化とはハイパー・ビッグ・ブラザーによる支配の道具であるかもしれない。
 この問題は、精緻にマスイメージを読み込んだ宇野にとっては、おそらく本人には知覚されているはずであろうが、本書の限定からは描ききれてはいない。剰余においては奇妙な構図の逆転もある。
 話題が煩瑣になるが、本書でも焦点が当てられる「1Q84」の牛河だが、彼の無残な死からリトル・ピープルが発生するのは、宇野の読みとは異なり、牛河がリトル・ピープルであることを超越していくことにある。このことは「神の子供たちはみな踊る」(参照)の「かえるくん、東京を救う」の片桐が「1Q84」の牛河だと言ってもよいことからも明らかである。世界最大都市東京の終わりという大虚構に向き合って、かえるくんと一緒に阻止に奮迅したのが片桐であったように、「1Q84」の書かれざる物語においては、牛河の転生としてのリトル・ピープルは世界の救済の契機となるだろう。ビッグ・ブラザーの両義性とともに、リトル・ピープルの両義性は村上春樹文学にすでに胎動している。
 同じことは、仮面ライダー「555」にも言える。園田真理たち虐げられた子どもたちの収容施設「流星塾」は、実は花形が、まつろわぬ者たちの「王」を降霊するための装置でもあった。「大きな物語」や「小さな物語」から排除された悲劇は、それを醸成して王国を生み出す手段とされている。ここには逆転された「大きな物語」としてリトル・ピープル的な世界を相対化させる奇っ怪なイメージがある。
 さらに、ビッグ・ブラザーの世界からその解体期、リトル・ピープルの時代というマスイメージの変遷とその超克は、私の読み落としがなければ、エヴァンゲリオンよりも今川泰宏版「鉄人28号」(参照)に明確に描かれている。
 宇野が「レイプ・ファンタジー的なもの」として村上春樹文学を見る点において、「父=鉄人28号=究極のエネルギー」は正太郎という「子」を介して、「梅小路綾子=ロビー」と繋がる罪の物語となっていることが興味深い。歴史に忘却された自らの痛みを知覚するという現代性がそこにある。
 また今川「鉄人28号」は、「父」の物語でもあるが、それは明示的に「父」たらんとするビッグファイア博士ではなく、朝鮮系が暗示される金田博士であることも逆転した基調を描き出す(ちなみに敷島博士は内地系)。戦後という物語に埋没させられた、意志としての「父」の国家=鉄人28号の、その戦後の死を私たちが共通の痛みとして再び掴み直すことが提起されている。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2011.09.08

ウィキリークスの自滅。朝日新聞は批判を公開したか?

 ウィキリークス(WikiLeaks)が2日、25万点余りの米外交公電を未編集でインターネットに全面公開したことに対して、これまでウィキリークスに協力してきた国際メディアが一体となって厳しく批判した。が、私の勘違いかもしれないが、日本側で強力した朝日新聞社はそこに加わっていないように思えた。もしそうなら、なぜなのだろうか。
 前提となるウィキリークスの全面公開だが、NHK「ウィキリークス 実名も公表」(参照)は次のように報道していた。


 アメリカ外交当局の内部文書をインターネット上で公表している「ウィキリークス」は、保有する25万点余りの文書をすべて公表したとみられ、情報提供者の実名が明らかにされていることから、イギリスの有力紙などが「情報源を危険にさらしかねない」として非難しました。
 イギリスの有力紙「ガーディアン」は、2日、ウィキリークスが独自に入手し、保有する25万点余りの外交文書をすべて公表したと伝えました。
 また、ウィキリークスの関係者とみられる人物は、ツイッターに「今までのアメリカ外交の歴史に光を当てる時が来た」との書き込みをしています。
 公表された文書の中には、東京のアメリカ大使館が作成した文書およそ5700点や、中東などでのテロとの戦いに関連する機密情報などが含まれています。また、これまでの公表では機密情報の提供者の実名は伏せられていましたが、今回は、修正されずに明らかにされています。
 これについて、ウィキリークスと提携してきたガーディアンなど複数の欧米メディアは、2日、共同で声明を出し「適切な修正を行わずに文書を公表すれば、情報源を危険にさらしかねない。ウィキリークスとの提携は情報源を保護することが前提であり、今回の公表に我々は関与していない」として非難しました。

 NHK報道ではこのように「ウィキリークスと提携してきたガーディアンなど複数の欧米メディアは、2日、共同で声明を出し」とあり、読み方によっては「欧米」としてあたかも最初から日本のメディアを除外しているかのような印象も与える。しかし朝日新聞社がこれに加わったことは、5月4日の朝日新聞「情報の信憑性確認、厳選し公開〈米公電分析〉朝日新聞社」(参照)から明らかである。

 朝日新聞は在東京米大使館発など日本関連の外交公電をもとにした特集記事を掲載しました。
 公電は内部告発サイト「ウィキリークス」(WL)から入手しました。英ガーディアンや仏ルモンド、米ニューヨーク・タイムズなどは、WLから直接あるいは間接的に25万件の文書の提供を受けました。欧米主要紙誌の報道は世界で大きな反響を呼びましたが、7千件近くに及ぶ日本関連の公電の全容はわかりませんでした。私たちは今回入手した膨大な情報について、信憑(しんぴょう)性を確認したうえで、報道に公益性があるかどうかを基準にし、それらの価値を判断しました。
 私たちは報道内容についてWLから制約を受けていません。金銭のやりとりも無論ありません。私たちはWLを一つの情報源と見なし、独立した立場で内容を吟味しました。文書の信憑性に関しては、ニューヨーク・タイムズの協力も得て米国務省の見解を求めました。国務省は「ノーコメント」としつつ、朝日新聞に情報の削除や秘匿は求めない旨を回答しました。タイムズ側も、同紙が信憑性を確認した公電に、私たちが入手した公電が含まれていることを確認しました。

 朝日新聞はウィキリークス公電の発表時にはこのように、ウィキリークスとどうように協力して公開するかについて、指針を明確にしていた。
 であれば、協力したウィキリークスが逸脱し自滅した今回の事態でも、同等の欧米メディアと批判の歩調を合わせるべきであるように思われる。
 欧米のようすはAFP「ウィキリークス、米外交公電を未編集で全面公開 協力メディアは批判」(参照)が簡素に伝えている。

【9月4日 AFP】内部告発サイト「ウィキリークス(WikiLeaks)」が2日、25万点を超える米外交公電を未編集で全面公開したことを受け、これまでウィキリークスに協力してきたメディアが、ウィキリークスを厳しく非難した。
 ウィキリークスは、マイクロブログ「ツイッター(Twitter)」上のメッセージで、米外交公電25万1287点の全てをインターネットに投稿し、パスワードなしで全公電を読めるアドレスを提供。
 これに対し、前年の最初の外交公電の公開時にウィキリークスに協力したメディア5社、英紙ガーディアン(Guardian)、米紙ニューヨーク・タイムズ(New York Times)、独ニュース週刊誌シュピーゲル(Der Spiegel)、スペイン紙パイス(El Pais)、仏紙ルモンド(Le Monde)は共同声明を発表し、ウィキリークスが、公電から情報提供者名を削除せずに全面公開したことを批判した。
 5社は、2日にガーディアン紙に掲載された共同声明で、「未編集の米外交公電を公開したウィキリークスの判断を非難する。情報提供者を危険にさらす可能性がある」と述べ、「われわれとウィキリークスとの間のこれまでの取引は、徹底的な編集・点検プロセスを経た公電に限り公開するという明確な原則に基づいていた」と説明。5社は、全文公開は、ウィキリークス創設者のジュリアン・アサンジ(Julian Assange)容疑者が単独で判断したことだと述べた。

 AFP報道を読む印象では、朝日新聞社がこの5社に加わっていないように読めるのだが、どうなのだろうか。あるいは加わってないまでも、ウィキリークスの自滅ともいえる事態について、なんらかの声明を出しただろうか。
 ガーディアンについては、読売新聞「ガーディアン紙、社説でウィキを改めて非難」(参照)がこう伝えていた。

 【ロンドン=大内佐紀】3日付英紙ガーディアンは社説で、内部告発サイト「ウィキリークス」が25万件以上の米外交公電を無修正のまま公開したことについて、「ウィキリークスの信奉者や、極端なまでの情報公開の自由を主張する人は称賛するだろうが、我々は違う」として、改めてウィキリークスを非難した。
 社説は「このような形での公開は不要だった」と指摘。公開を決めた創設者ジュリアン・アサンジ容疑者(スウェーデンでの暴行容疑などで係争中)が「責任を負うべきだ」と強調した。

 該当の社説は「Julian Assange and WikiLeaks: no case, no need」(参照)である。

This paper, and the four other news organisations involved in publishing heavily edited selections from the war logs and cables last year, are united in condemning this act.

昨年来、戦争記録と公電をもとに厳密に編集された選集の報道に関わってきた本紙と他4メディアは、一体となって今回の行為を非難する。


 ウィキリークスの今回の、全公開の事態についてはこう述べている。

Some WikiLeaks devotees and extreme freedom of information advocates will applaud this act. We don't.

ウィキリークス心酔者や情報の自由の極端な主唱者は、この行為を称賛するだろう。私たちはしない。

We join the New York Times, Der Speigel, Le Monde and El Pais in condemning it. Many of our newspapers' reporters and editors worked hard to publish material based on the cables in a responsible, comprehensible and contextualised form.

私たちは、ニューヨーク・タイムズ、シュピーゲル、パイス、ルモンドと共にこれを非難する。私たち新聞記者や編集者の多くは、責任をもって、わかりやすく、文脈を重視した形態で、公電をもとにした題材を報道しようと努力してきた。

We continue to believe in the validity and benefits of this collaboration in transparency. But we don't count ourselves in that tiny fringe of people who would regard themselves as information absolutists -- people who believe it is right in all circumstances to make all information free to all.

私たちは、透明性の点で、この共同作業の妥当性と利益を確信し続けている。いかなる状況でも情報は全員にとって自由であろうとする、情報絶対主義者と見なす人々の小さなサークルに、私たちは加わらない。

The public interest in all acts of disclosure has to be weighed against the potential harm that can result.

開示に関わるすべての活動における公共の利益は、それがもたらしうる潜在的な危険性を考慮しなければならない。


 かくして、ジュリアン・アサンジは(Julian Assange)は、ガーディアン、ニューヨーク・タイムズ、シュピーゲル、パイス、ルモンドなど世界の大手メディアと対立する存在となった。

But the organisation has dwindled to being the vehicle of one flawed individual – occasionally brilliant, but increasingly volatile and erratic. There was no compelling need, even with the recent disclosures of the internal leak, for WikiLeaks to publish all the material in the form in which it did.

しかしウィキリークスという組織は、欠陥のある個人を載せる御輿にまで縮こまってきた。彼は切れ者にも見えるが、情緒不安定でミスが多くなってきた。ウィキリークスは、最近の内部告白についてすら、そのままの形態で報道されるべき切実性はなかった。

Julian Assange took a clear decision this week: he must take the responsibility for that.

ジュリアン・アサンジは今週明確な決断をした。彼はそれについての全責任を取らなければならない。


 簡単にいえば、世界の大手メディアがジュリアン・アサンジは裁かれるべきだと見ているということだ。うがった見方をすれば、ジュリアン・アサンジをお縄にするためには、泳がせて自滅するまで待っていてよかったということにもなる。
 世界の大手5メディアとは別に、朝日新聞もこの件について声明を出していたとしたら、ウィキリークスを支持するということはどういう意味を持つのかということを、日本のジャーナリズムに伝えたことだろう。ウィキリークスをいたずらに称賛する人々への警笛ともなっただろう。
 
 


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.09.07

民主党政権が廃した事務次官会議を民主党野田内閣で復活

 野田内閣が事務次官会議を復活させた。これもまた野田内閣の自民党化の一環のようにも見えるが、微妙な部分もある。
 事務次官会議は、民主党政権では、鳩山内閣時代には廃止されたが、菅内閣時代では震災対応の会議としてすでに事実上復活されていた。野田内閣はさらにそれをぐっと推し進めるということになる。
 問題はわかりやすそうでわかりづらい。例えば、NHKのニュース「首相 官僚側に全面協力を要請」(参照)だが、これなどもわかりづらい。


 野田総理大臣は、各府省庁の事務次官らを集め、政治家だけで世の中をよくすることはできないとして、政権運営に対する官僚側の全面的な協力を求めました。
 総理大臣官邸で開かれた会議には、財務省の勝事務次官や外務省の佐々江事務次官ら各府省庁の事務次官ら16人が出席しました。
 この中で野田総理大臣は「各省の皆さんは、試験を通じて公のために尽くそうという志を持って、この世界に入ってこられた。われわれは、選挙を通じて公のために尽くすチャンスを頂いた。選挙を通じて入ってきた政治家は、最終的には結果責任を負うので、やるべきことをやらなかった場合には、政権を降りなければならない」と述べました。
 そのうえで野田総理大臣は「選挙を意識して、どうしてもポピュリズム=大衆迎合主義に陥って、つらいことは先送りしようという傾向があった。私どもの政権は、やるべきことはやるという姿勢を貫徹したい。政治家だけで世の中をよくすることはできないので、各府省の皆さんの全力を挙げてのサポートが必要だ」と述べ、政権運営に対する全面的な協力を求めました。
 民主党は政治主導を掲げて、おととし政権を獲得しましたが、野党側からは大臣ら政務3役と官僚との間で意思疎通がうまくいかず、行政の停滞を招いているといった批判も出ていました。これを受けて野田総理大臣は、先の民主党の代表選挙で、困難を伴う仕事を遂行するためには、政治と官僚機構、それに民間などのあらゆる力を結集しなければならないとして、官僚との協調姿勢を打ち出していました。

 野田首相が、「民主党はポピュリズム=大衆迎合主義に陥っいた」ということを明確に反省されたのはよいのだが、NHKの報道からは事務次官会議の復活は明確に読み取れない。これはNHKの報道が正確だからともいえる。事務次官会議の復活は、いわばなし崩しの自民党化であって、明確に言える筋のものでもないということなのだろう。
 そのあたりを突かれた藤村官房長官は、面白い答弁をしていた。TBS「藤村長官“自公時代の次官会議と違う”」(参照)より。

 藤村官房長官は、東日本大震災以降に開かれている各府省の事務次官を集めた連絡会議を野田内閣でも続けることについて、自民党・公明党政権時代の事務次官会議とは違うものだと強調しました。
 「かつての事務次官会議は正に事務の官房副長官のもとで行われていたわけだが、私ほか政務の副長官も参加する会議なので、相当内容的には違うと思う」(藤村修官房長官)
 藤村長官は、政府の各府省連絡会議が自公政権時代の事務次官会議の事実上の復活ではないかという指摘が出ていることについて、官僚だけでなく、政治家が参加していることなどを挙げ、これを強く否定しました。
 各府省連絡会議は東日本大震災の発生以降に開かれるようになり、野田政権発足後初となる6日の会議では、今後、週に1回のペースで行われることが確認されました。
 民主党は、野党時代に事務次官会議が官僚支配の象徴だと強く批判し、政権交代後、鳩山・菅両政権は官僚と一定の距離をとっていましたが、野田総理は、逆に官僚組織と協調し、会議の機能を強化する考えを明確にしています。(07日13:09)

 まず確認したいのは、「政権交代」の民主党では、そもそも事務次官会議は廃止されるものだったということ。これを根幹に見れば、まず藤村官房長官が詭弁にならざるを得ないことは明らかである。
 しかし三分の理すら聞くべきだとして、ではどこが違うのか。いわく「かつての事務次官会議は事務の官房副長官のもとで行われていた」しかし、「私ほか政務の副長官も参加する」から違うのだ、と。
 やはり詭弁であって、どのように参加するかが明言されなければならない。参加だけでよければ、椅子に座って寝ているだけでも違うことになる。そもそも誰が参加するかとことではなく、次官が政策課題をフィルターすることが問題なのだが、その言及は藤村官房長官にはない。認識がないのかもしれない。
 事務次官会議(事務次官等会議)は設置に法的な根拠をもたないが、政策決定に重要な役割を担ってきた。事務次官会議で調整がつかなかった案件は閣議にかけられない。ここで官僚の合意が取れない問題があればフィルターアウトされて政治決定に上らず、事実上隠蔽されてしまう。
 野田内閣での事務次官会議で問われるのは、なにを課題としてどのように決定されるかという仕組みであって、その仕組みのなかで、行政側の参加者がどのような権限を持つかというということになる。
 そこが問われなければようするに、野田内閣の事務次官会議は自民党時代のそれと違いなどないのだ、と言いたいところだが、実は自民党のほうが、事務次官会議を廃そうとしていた経緯がある。
 象徴的なのが安倍政権時代で、国家公務員の「押しつけ型天下り」に関する政府答弁書をめぐりを巡り、2007年3月26日の事務次官会議で反対があり、慣例として閣議に上がらないはずであった。だが、安倍元首相は事務次官会議は法的根拠のない慣例にすぎないとして、閣議に持ち込んだことがある(参照)。裏方で采配していたのは、当時の渡辺喜美大臣であったとも言われる。
 安倍政権はこの件でも官僚を敵に回し、直情的に改革を推進しようとしたが、頓挫した。続く、鳩山政権も頓挫したと言ってよいだろう。
 事務次官会議は官僚主導だからいけないといった、民主党マニフェストのような単純な話が通らないのはこの数年のプロセスで明らかになってきた。だが政治が主体的に機能しなければならないときもあり、そうしたときに野田内閣ではどのようなプロセスを取るのかが、現状では皆目見えてこない。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2011.09.06

さらに民主党の自民党化、党税制調査会の復活

 予想されていたことではあるし、とやかく言うほどの話でもないのだが、民主党野田どじょう政権が着実に自民党化していくワンシーンとしてメモしておきたい。
 報道の確認から。NHK「民主 党税調復活で財源議論へ」(参照)より。


 民主党は、おととしの政権交代の際に党の税制調査会を廃止して政府の税制調査会に議論を一本化し、その後、党内に税制改正の作業チームを設置したものの、政府税調が税制改正の議論を主導してきました。
 こうしたなか、民主党の前原政策調査会長は、党の税制調査会を復活させ、会長に藤井元財務大臣を起用する方針を決め、5日、野田総理大臣に報告しました。
 党の税制調査会は、震災からの本格的な復興に向けた今年度の第3次補正予算案の財源を確保するための税制上の措置などを巡って早急に議論を始める方針です。

 さて。
 それほど昔のことではないが、現状との比較のために、二年前の読売新聞「2009.08.26 税制改正論議を政府税調に一本化 民主党税調廃止へ 会長は財務相に」(2009.08.26)を読み返してみよう。民主党とは、このような主張をする政党であった。

会長は財務相、議員20人
 民主党は25日、衆院選で政権を獲得した場合に創設する新たな政府税制調査会の骨格を固めた。税制改正過程を透明化するため、与党としての税制調査会は設けず、新政府税調に一本化する。会長は財務相、副会長は総務相が兼任、各省庁に置く税制担当政務官らの計約20人で構成することとし、政治主導を明確にする方針だ。
 現在の税制改正は、首相の諮問機関で、有識者で構成する政府税調が基本的な方針を首相に答申するものの、個別の税率など細部は自民党税調での調整が不可欠となっている。与党での調整について、民主党は「責任が不明確なうえ、既得権益維持や政官業癒着の温床となる」などと批判してきた。
 現在の民主党税調は政権獲得後に廃止する。各省庁の税制改正要望は、税制担当政務官が集約し、新政府税調で調整する。

 同種の内容だがもう一点、読売新聞「消費税論議 連立3党に溝 民主「将来は増税」 社・国「絶対ダメ」」(2009.09.12)も読み返してみよう。

税調は一元化
 税制改正の流れも変わる。民主党は、与党としての税制調査会は作らず、新たに組織する政府税制調査会に一元化する方針。会長は財務相、副会長は総務相、メンバーは国会議員で、政治主導をより鮮明にする。
 これまでは与党の税制調査会と政府税調の2本立てで審議が行われ、実質的には自民党税調のベテラン議員が各業界などの意見を踏まえ、議論を仕切ってきた。
 新政府税調は、さまざまな利害が対立する税制のあり方を政治主導でどう決めていくかが問われることになる。

税制改正要望先、業界団体は困惑
 各業界団体は例年9月、与党である自民党や中央省庁などに税制改正要望書を提出していた。だが、今年は政権交代を控えているため提出先が決まらず、困惑しているという。
 日本経団連は、例年なら9月下旬に自民党などに税制改正要望を行っていたが、今年は「様子を見ながら適切なタイミングで要望書を提出するしかない」という。日本商工会議所も、「新税調が決まるのを見定めて対処する」としている。

消費税据え置き、一つの政治決断
 森信茂樹・中央大法科大学院教授 「連立合意で消費税率の据え置きが決まったのは、一つの政治決断だ。徹底した歳出削減を行えば、自公政権よりも消費税率引き上げの環境整備が進みやすいのではないか。来年夏の参院選後くらいから議論を始め、次の総選挙で『引き上げる』と公約に掲げることを期待している。ただ、ガソリン税などの暫定税率廃止は、消費税1%分を失うと同じ影響がある。新政権は、市場メカニズムに沿った経済運営をするだろうから、天地がひっくり返るような税制の方針転換はないだろう」 


 過去を顧みるに、こうなる。2年前の8月の民主党は、「税制改正過程を透明化するため、与党としての税制調査会は設けず、新政府税調に一本化する」と言っていたのだから、現在の民主党がそれを受けるなら、「税制改正過程を不透明化する」という主旨になるだろう。
 実際、復興の大義のどさくさに明後日の方向の増税をやってしまうというのだから、不透明にしておかないとまずいというのはある。
 かつての民主党は自民党流の党税調と政府税調の二本立てを「責任が不明確なうえ、既得権益維持や政官業癒着の温床となる」などと批判してきたのだから、これからの民主党は、当然、既得権益維持や政官業癒着の温床を作るのである。
 もちろん、看板くらいは付け替えるだろうけど、政府の仕組みが自民党と同じなら、自民党と同じ構造ができあがるのは理の当然である。
 2年前の読売新聞記事に出てくる森信茂樹・中央大法科大学院教授は「連立合意で消費税率の据え置きが決まったのは、一つの政治決断だ」と述べたが、その連立合意はどうなったのだろうか。
 いずれにせよ、税制議論は自民党政権時代に戻るのである。
 自民党時代は、税制論議は国会議員による党税調と、学識経験者らで構成する政府税調の二本立てだった。
 自民党時代、この二本立ての仕組みを調整していたのは、山中貞則のような大物議員で、たばこ値上げなどを抑えてきた(参照)。また基点となる業界の要望をも調整してきた。別の言い方をすれば、党税調との二本立てシステムは、自民党の大物がいると機能する仕組みともいえた。
 そこでどじょうは考えた。自民党を使えばよいではないか。
 古き自民党で1977年から1993年のキャリアを持ち、大蔵官僚出の藤井裕久元財務相を党税調の会長に据えた。
 関連して今朝の産経新聞「党税調復活で増税鮮明に 民主、会長に藤井元財務相」(参照)に面白い話がある。

 財務省OBの森信茂樹・中央大学法科大学院教授は、税制をめぐる民主党政権の混乱について、「自民党政権では族議員たちを『もっと勉強してこい』と一喝できる長老議員がいたが、民主党にはいなかった」と振り返る。藤井氏はかつて財務相として野田首相を財務副大臣に起用した「師匠格」とされ、財務相退任後は「税と社会保障の抜本改革調査会」の会長として、党内の一体改革論議をリードしてきた経緯がある。政府内には「藤井氏なら存在だけで反対派を抑えられる」との期待も強い。
 自民党的な手法への回帰を批判する声もあるが、増税に向けて「名を捨てて実を取った」(政府関係者)との見方も出ている。

 この森信茂樹教授は2年前の読売新聞記事に出てくる森信茂樹教授と名前も役職も同じだが、どうも逆のことを言っているようにも思えるので、もしかすると別の人物かもしれないが、それはさておき、自民党の党税調システム要件である大物議員についても、「藤井氏なら存在だけで反対派を抑えられる」ということで満たされる。
 私は思うのだが、政権交代というのは、小泉郵政選挙のときに起きていたのではないだろうか。そして、その後の古き自民党政権に戻そうとした反動の安倍政権からの迷走はそのまま、滑らかに菅政権まで続いていたのではないだろうか。
 意識的に古き自民党に戻ろうとしている野田政権もその反動の連続になるのだろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.05

野田内閣の「国家戦略会議」は小泉内閣の「経済財政諮問会議」のふざけた焼き直し

 まだ構想の段階で四の五の言うべきではないのかもしれないが、さすがに呆れた展開であり、急速に進む可能性もあるのでとりあえず書いておきたい。ようするに、野田内閣の「国家戦略会議」は小泉内閣の「経済財政諮問会議」のふざけた焼き直しだということだ。どこが「ふざけた」かについては後で触れる。
 報道の確認から。4日付け日経「「国家戦略会議」政官民で新設へ 経済財政の司令塔 野田首相方針 日銀・経団連首脳ら参加」(参照)より。


 野田佳彦首相は3日、新内閣の経済財政運営の目玉として首相直轄の「国家戦略会議(仮称)」を新設する方針を固めた。野田首相を議長に、関係閣僚、日銀、経済界、労働界などの首脳らがそろって参加。経済財政運営の司令塔となり、予算編成や税制改正、社会保障改革など日本が抱える重要課題で基本方針を示す。小泉内閣時代の経済財政諮問会議をモデルに政官民が知恵を集めて日本経済を再生する体制をめざす。
  「国家戦略会議」のメンバーは、首相、古川元久経済財政・国家戦略相、安住淳財務相ら関係閣僚、 白川方明・日銀総裁、米倉弘昌・経団連会長、古賀伸明・連合会長ら。学者や企業経営者も参加する見通しだ。同会議は定期的に開催する。

 政府と経済界および日銀のコミュニケーションの場ができるのはよいことであり、これが民主党に存在しなかったのが不思議なほどでもあった。
 問題は、「小泉内閣時代の経済財政諮問会議をモデルに」という点で、小泉内閣の「経済財政諮問会議」と、野田内閣の「国家戦略会議」はどこが違うのか。

 国家戦略会議を閣議決定で設置するか、強い権限を与えるため法律で規定するかは今後検討する。 経済財政諮問会議は内閣府設置法で定められており、法律上は今も残っている。
諮問会議をそのまま復活させることもできるが、諮問会議の活用には「旧政権色が強い」との指摘もある。

 現在でも、法律上、「経済財政諮問会議」は残っている。簡単な話、日経記事が指摘するように、「諮問会議をそのまま復活させることもできる」のにかかわらず、なぜそれを活用しないのか。同記事が触れているのは、「旧政権色が強い」ということだけのようだ。もし、それだけなら、これは、「ふざけた」話ではないか。
 産経記事「野田政権の船出 野党時代の批判どこへ 急速に進む「自民党化」」(参照)はこの点に着目している。

 背景には「政治主導」「脱官僚」を掲げた鳩山由紀夫元首相、菅直人前首相が政権を統治できず、あらゆる政策に行き詰まったことへの反省があるようだ。
 ただ、実態は小泉政権時代の経済財政諮問会議の看板を掛け替えたにすぎない。民主党はかつて経済財政諮問会議を「財務省主導」と批判し、政権交代後に廃止しただけに会議復活には与党からも異論が出る可能性がある。


だが、実態は自民党政務調査会の仕組みとほとんど同じ。民主党は自民党政調を「族議員の温床」「業界との癒着を生む」と散々批判し、先の衆院選マニフェストで「内閣での政策決定の一元化」を掲げただけに批判は免れない。

 率直なところ、事ここに至って民主党批判をしても意味はないので、現実的な話に戻せば、ようするに、早急に「経済財政諮問会議」を開催すればよいのである。
 それができないとするなら、その理由に対する説明責任(アカウンタビリティー)を野田内閣は負っている。
 自民党化がいやだとかいうお子様みたいな話は鳩山内閣と菅内閣という代償で十分に支払ったのだから、どじょう内閣らしく、現実的に対応していただきたいし、さらに言えば、そうすることで、自民党対民主党という不毛な対立や、「政権交代」という幻影も消し去ることができる。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2011.09.03

野田どじょう内閣発足

 野田どじょう内閣が発足した。人事を見てさして驚きはなかった。幹事長の輿石氏の起用ですら、なるほどねと思った。多少曖昧な推測になるが、どうも小沢氏は野田氏選出を読んでいたふうがある、というか、小沢・輿石ラインで野田側との妥協線があったように見える。その符牒がそもそも「どじょう」であったようだ。読売新聞「野田さんのドジョウ、輿石さん直伝・相田作品で」(参照)より。


 演説を聴いて野田氏への投票を決めた議員も少なくない。演説の核の一つとなった、自らを「ドジョウ」に例えたくだりは、書家・詩人の相田みつを氏の作品を下敷きにした。作品は、民主党の輿石東参院議員会長の紹介で知ったという。
 原典は、相田氏の単行本「おかげさん」に収録されている「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」という作品だ。野田氏はこの作品を「大好きな言葉」として引用し、「ドジョウにはドジョウの持ち味がある。金魚のまねをしてもできない。泥臭く、国民のために汗をかいて働いて、政治を前進させる。ドジョウの政治をとことんやり抜きたい」と語り、「飾らない人柄」を印象づけた。
 野田氏周辺によると、野田氏が8月上旬、輿石氏の国会内の事務所を訪れた際、輿石氏が「あれ、いいだろう」と壁に飾られた相田氏の作品を紹介したという。野田氏はその後、輿石氏に作品が入った本をプレゼントする気配りもみせた。

 読み過ぎのきらいもあるが、シャレを除いても輿石氏側との実質的な妥協の線はさぐられていて、これも率直にいえば、小沢氏がもっとも気にしている党資金を小沢氏の代理人の輿石氏に渡すということで、この時点で幹事長役は決まっていたということなのだろう。
 野田氏にしてみれば、それで小沢派を抑えることができるし、小沢・輿石氏にしてみれば党資金を牛耳れたのでウインウインということでもあるのだろう。上手な政治と言えないこともない。
 この暗黙の協定が存在するかどうかは、朝日新聞社説がいち早く察知していたが、岡田克也前幹事長が決めた「300万円以上の組織対策費を個人に出す場合は外部監査の対象にする」というルールを輿石氏が継承するかでわかる。しないでしょ。
 かくして、それだけ決まれば後は些末に近い。
 やや意外だったのはもれなく付いてくると思われた与謝野馨氏の入閣がなかったことだが、おやこれはどうしたことか、などと疑問に思うまでもなかった。
 野田代表の選出時に与謝野氏は「政策の連続性が担保できた。ほっとしている」(参照)と述べ、野田氏への信任をさも語るようにも見えたが、与謝野馨前経済財政担当相で、その後継の経済財政担当相はどうなったのかと見れば、与謝野氏の思惑もわかる。古川元久経済財政担当相である。元大蔵官僚で霞が関パイプに通じる適任者である。あはは。与謝野さん、いい仕事したな。
 その他の閣僚メンツについては、また女性閣僚が二名という惨状。野田氏を筆頭に40歳の細野氏など若い政治家が印象的だが、平均年齢は58.3歳。菅内閣が59歳、鳩山内閣が60.7歳。なんだか古色蒼然の感のあった鳩山内閣より2歳ほど若い程度。新入閣は10人。ちなみに鳩山内閣では14人。個別に見ていくと、自民党時代のように党内派閥を考慮しましたねというくらいでさしたる特徴はない。
 前原氏が外務相か防衛相に就くかとも思ったがそれもなく、政調会長となった。実際のところ、外務・防衛については民主党では党内意見集約が最初に問われるし、同盟国はほぼ匙を投げているので、これでよかったのかもしれない。財務相が安住淳氏で驚きの声も聞かれたが、ここは風通しの良い間を配するのが日本文化というものだ。財務相の声もしぐさもわかりやすくなりました。
 ないものねだりをしてもしかたがないので、これでやると野田首相が決めたのだから、うまくいくことを願いたい。それに、よい面もある。
 政調を据え、さらに自民党政権のように「法案事前審査制」を導入を目指していることだ。以前のエントリー「民主党鳩山政権はなぜ失敗したのか: 極東ブログ」(参照)や「小沢独裁を機構的に押さえる政調の復活はよかった: 極東ブログ」(参照)でも触れたが、民主党政権の本質的な問題である。
 報道を拾っておく。読売新聞「民主党、法案事前審査制を導入へ」(参照)より。

 民主党は2日、政府提出法案の閣議決定前に党側が了承を与える事実上の「事前審査制」導入を柱とした、政策決定システム見直しの原案をまとめた。
 「政策にかかわる党議決定の審議に際して、部門会議などに付託する」と明記。政府提出法案を政策調査会の下部組織である「部門会議」が審査し、了承しなければ閣議決定ができないとした。
 部門会議の結論は、前原政調会長ら政調幹部と政府代表の官房副長官らによる協議で了承を得て「党議」とすることも盛り込んだ。党側は「これで政策決定の政府・与党一元化は維持される」(政調幹部)としているが、実質的には党による事前審査の仕組みとなる。

 これで、小沢派の暴走や党内造反を防げるし、自民党時代のように官僚も政治がしやすくなる。
 当然、当初、民主党が政調の代わりに構想した国家戦略局だか国家戦略室だかは不要になるので、事業仕分でさっさと廃止するとよい。ついでに、古川元久国家戦略担当相も廃するとなおよしではあるが、本人いわく「もう一度、戦略局への格上げを目指したい」(参照)なので、兼任の経済財政担当相として国家戦略局を増税ヘッドクォーターにするのかもしれない。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »