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2011.07.01

[書評]「正法眼蔵随聞記」

 「正法眼蔵随聞記」は不思議な書物である。これに魅せられた人は生涯の書物とするだろうし、私も40歳を過ぎて絶望の淵にあるとき、ただ読みうる本といえば、この本だけでもあった。この本から生きることを学びなおした。
 「正法眼蔵随聞記」は鎌倉時代の僧・懐奘が師・道元の教えを記した書とされている。懐奘にこれを公開する意図があったかはわからない。現在の「正法眼蔵随聞記」という書名があったわけでもない。それでも「正法眼蔵随聞記」という書名は、道元の主著「正法眼蔵」を連想させ、その正法に「随い聞く」という主旨が反映されている。
 懐奘が30代半ば、新しく得た、そして真実の師である道元の教えを書き出したのは、その学び始めのころ、文暦元年(1234年)ごろとされている。北条泰時執権の時代である。書き記した文は、懐奘の死後、その弟子によって書写されていたが、広く世間に知られるようになったのは、現在の岩波文庫が採っている、面山和尚による明和6年(1769年)の改訂本である。江戸時代中期と言ってよい。
 この版は明和本または面山本とも呼ばれている。広く流布されたことから流布本とも言われ、「正法眼蔵随聞記」の書名も面本に由来していることから、長く「正法眼蔵随聞記」を代表していた。面山本は明治時代以降よく読まれたが、いわゆる古文といっても江戸時代の言葉に直されて読みやすいためもあるだろう。私もそのまま面山本を読んできた。
 「正法眼蔵随聞記」の板本として最古のものは慶安4年(1651年)というから、江戸幕府の権力が固まりつつある時代である。同年には家綱が将軍となり戦国時代的な最後の反乱ともいえる由井正雪の乱が起きた。
 この版は年号から慶安本とも呼ばれている。校訂は教家の僧とあるが、道元の研究者・水野弥穂子は天台僧と推測している。慶安本が道元の教統からではないことは、懐奘を「クワイジョウ」訓じていることからもわかる。時代的に類推されるのは、古事記の最初の版本とされる卜部系の寛永の版本が寛永21年(1644年)だろう。日本が安定化する時代に向かって古代の真理への遡及という欲望が喚起された時代である。
 慶安本は18年後の寛文9年、10年(1670年)に刷り直しされていることから、この間読み継がれ評価されていたことがわかる。面山和尚もその一人で、彼が27歳(1709年)のおり、慶安本の原本が存在することを知り、20年の探求後、若狭・空印寺で古写本を知り、さらに30年近い年月をかけて研究し76歳で校訂を終えた。出版されたのは、さらに12年後の面山没翌年であった。
 「正法眼蔵随聞記」研究に大きな変化が起きたのは、近代に入ってからである。昭和17年、大久保道舟が愛知県の長円寺から慶安本より古い写本を発見した。長円寺本と呼ばれている。長円寺本は、寛永21年(1644年)、長円寺二世・宋慧和尚が58歳で書写したもので、さらにその原本は康暦2年(1380年)宝慶寺浴主寮で書写されたものであることがわかっている。
 宝慶寺は、宋・天童山慶徳寺・如浄和尚の弟子・寂円が開いた寺であり、寂円は道元が入宋のおりに知り合い、如浄没後道元を慕って来日した僧侶である。映画「禅ZEN」(参照)で鄭龍進が好演であったのが印象深い。道元亡きあと、寂円は懐奘に師事したことから、長円寺本によって「正法眼蔵随聞記」が道元の謦咳にまでようやく達したことになる。寂円の弟子で永平寺中興の祖・義雲はも「正法眼蔵随聞記」も熟読したことだろう。
 長円寺本の発見が衝撃的だったのは、面山本との相違が大きいせいであった。この差違に対する逡巡は、和辻哲郎が校訂し昭和4年に、当時の道元ブームに乗じて刊行した岩波文庫「正法眼蔵随聞記」(参照)を1981年に改版する際の責任者・中村元による後書きにもある。私が高校生のころ安価に入手できる「正法眼蔵随聞記」といえば、この岩波文庫と角川文庫であったが後者も面山本であり、私は以来、「正法眼蔵随聞記」を読書として読むなら面山本を読むことになる。
 現在では、長円寺本による、水野弥穂子・校訂の「正法眼蔵随聞記」(参照)がちくま学芸文庫で比較的安価に購入できる時代ともなり、「正法眼蔵随聞記」といえば、水野校訂本とその現代語訳が先に読まれるようになった。
 原典に近いのがどれかといえば、水野校訂本であるといえるし、その原文は平安時代人の道元の肉声を残しているともいえる。だが、校訂によって補われているとはいえ、水野校訂本は漢字・カタカナ・ひらがなの混在で素読には難しく、現代日本人が「正法眼蔵随聞記」を読むといえば、水野訳の現代語を読むという趣向になる。そのことで、面山本以降の日本の近代文化における「正法眼蔵随聞記」の伝承の一部は失われる部分もある。
 話を懐奘の時代に戻すと、彼が「正法眼蔵随聞記」を記していたのは、道元に師事した最初の3年間に限定されていて、その点から言うのであれば、「正法眼蔵随聞記」は道元の教えを記したというより、懐奘が道元という人の出会いからその教えが彼の身体に血肉化されるまでの探訪の記録ともいえる。道元自身が師・如浄との邂逅を綴った宝慶記にも似ているので、「宝慶記・正法眼蔵随聞記」(参照)として合本として編まれることがあるのも頷ける。
 「正法眼蔵随聞記」はともすれば、道元の教説集のようにも読めるし、そのように読んで間違いでもないが、懐奘がこれを記していた時期は、懐奘とその母の別れの苦悩時期であり、その物語が秘められている。この話は水野弥穂子による「『正法眼蔵随聞記』の世界」(参照)に詳しいが、彼女は、懐奘が母の臨終を看取りたいとする苦悩を、仏教の観点から押しとどめた道元という構図で描いてる。
 道元は厳しい師でもあったし、水野は、道元自身の母との死別、師・如浄の死別への共感の洞察を保ちながらも、人間的な共感として描き、その文脈で後の、懐奘による義介への配慮を読み取ってもいる。その解読は大きなドラマでもある。
 しかし、私は「正法眼蔵随聞記」に秘められた道元の配慮は、少し違うのではないかと思うようになった。道元は本当に懐奘が苦悩から救われることはただ禅にしかないと確信していただけなのではないか。禅のみのが人の苦悩を救う、その一点にのみ立つ道元には懊悩する者への優しさがあり、「正法眼蔵随聞記」はそれを伝えている。

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コメント

数息観なんてやらなくても、結跏趺坐を組んで法界定印を手で組んで半眼になって呼吸を整えるだけでも日常とは違う気持ちになれます。

真剣に取り組めば、座禅の効用というのは、たいしたものなのだろうと思っています。

投稿: enneagram | 2011.07.02 06:52

よーく考えてみ。
よくよく考えてみ。
てな感じでさとすとこなんて優しいっスよね。

ところで道元の厳しさをエロいと感受しちゃうのは浅薄ですかね?
文章もエピソードも何かエロいぜ、道元、と勝手に思いこんじゃってます。

投稿: 吉本主義者 | 2011.07.02 15:23

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受信: 2011.07.02 06:04

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