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2011.07.21

[書評]こうして原発被害は広がった 先行のチェルノブイリ(ピアズ・ポール・リード)

 チェルノブイリ原発事故をソビエトという国家とそこに生きる人間のドラマとして描いた、ピアズ・ポール・リード著「こうして原発被害は広がった 先行のチェルノブイリ」(参照)が福島原発事故をきっかけに改題され、復刻された。1994年に翻訳・出版された邦題は「検証 チェルノブイリ刻一刻」(参照)である。事故後の変化だろうと思うが中古本でプレミアム価格がついていた。今確かめてみるとまだその状態が続いているようにも見える。1994年の同書は手元にないが、復刻本を読んだ印象では大きな違いはないと思われる。

cover
こうして原発被害は広がった
先行のチェルノブイリ
ピアズ・ポール・リード
 オリジナルは1993年、"Secker & Warburg"から出された「Ablaze: The Story of Chernobyl」だが、アマゾンやB&Nなどをあたると同年にRandom Houseから出た「Ablaze: The Story of the Heroes and Victims of Chernobyl」(参照)が現在では見つかる。AblazeとChernobylが重要なキーワードではあるが、話としては、英米圏では"the Heroes and Victims(英雄と犠牲者)"という視点で受け止められることを想定してのことだろう。そう読めないこともない。
 些細な話を先にして申し訳ないが、今回の復刻では原書について2011年のNew Editionと記載されているのだが英書の新版があったのだろうか。あるとすればその反映はどうなっていたのか気になったのだが、なさそうに見えた。加えて、書誌的なことだが、訳書の参照では、"Ablaze; The Story of Chernobyl"として、"Ablaze"をセミコロンで区切っているのだが、この書式はインディペンデント紙の当時の書評(参照)にもなく、他を調べてもなかった。Google Booksには"Secker & Warburg"版の扉写真があったが、"Ablaze"で改行していて、セミコロンもコロンもなかった。文藝春秋の訳書ではセミコロンの記法が2箇所あり校正漏れとも思えないので、どういう書誌記法なのか気になった。
 さて本書であるが、1994年の邦題は「検証 チェルノブイリ刻一刻」であったように、1986年のチェルノブイリ原発事故を詳述するという含みがあり、そのように当時の日本人に読まれることを想定していた。私なども、そういう事件であったのかという関心で同書を捲った。今回の改題では、「こうして原発被害は広がった 先行のチェルノブイリ」として、明確に福島原発事故の文脈に置かれている。端的に言えば、類似の状況かに置かれた日本人が、チェルノブイリ原発事故からその後の被害を学び、食い止めようという視点である。これも頷けるものがある。
 改題書を読み進めながら、しばしば嘆息した。以前はチェルノブイリ原発事故は特殊な原発事故であり、今回の福島原発事故とはあまり比較にならないものではないかと思っていたのだが、現下の文脈で読むと、あまりの相似に圧倒される。極端な言い方をすれば、同じではないか、原発事故というものの本質が本書に明確に示されているではないかとすら思える。
 だが同時に、その相似性は、原発事故の本質に根ざすというより、日本という国家が社会主義ソビエト連邦と相似であったことに由来するように思えた。率直なところ、それはこの時代に生きる一人の日本人としては、かなり悲痛な認識になる。そしてその悲嘆の認識から本書で示唆されるところは、ソ連がチェルノブイリ原発事故を実質象徴として解体したように、日本の政治権力も解体されなければならないという暗示でもあるだろう。ここから菅首相の個人的な意見である脱原発へあと一歩であるかのようにも見える。が、そうではない。原発事故の本質が問題というよりソ連型国家である日本の問題が根にあり、いかに市民社会を確立していくかのほうが先行する。
 私の誤読かもしれないが、なぜチェルノブイリ原発事故が起こったのかという問題の技術面での解明は、本書ではわかりづらい。明確には記載されていないと見てよいかもしれない。私が読み取った範囲では、ソ連時代に喧伝されていた、操作員のミスというより、「第二章 科学の勝利をたたえる神殿」の最後にある事故前の異常性、特に制御棒の欠陥である。不思議に思うのだが、日本の原発でも制御棒に関連するトラブルは福島原発事故以前になんども発生しており、臨界の継続もあった(参照)。事故後、あまり注目されているふうはない。
 本書を読みながらなんども嘆息したと書いたが、思わず天を仰いだのは、次の箇所である。炉心が燃えるなか、砂を被せて消化せよという国家の指令のくだりだ。現場の異論を国家が押しつぶしていく。

「かまわない。原子炉をまるまる砂で埋めてしまえばいい」
「しかし、砂を落とすたびに、大量の放射性粒子が空中に放出されます。なにもしなければ、塵は原子炉のなかにとどまっているはずです」
 レガソフはしばらく考えてから言った。「だが、もし、われわれがこのまま放置しておけば、みんなはどう思う? なにかはしなければならないのだよ」
「すると、なぜ鉛は投下したんです?」とカルーギンが聞いた。
「鉛は融解して沸騰し、炉心の熱を奪う」
「しかし、鉛も大気を汚染するでしょう」
「核分裂反応よりは危険が少ない」
「私の考えでは、核分裂の危険はありません」
「それなら、君の案は?」
「そのまま放っておくのです。燃え尽きるまで」
 レガソフは首をふった。「国民は了解しないだろう。なにかをやっているというところを見せなければ」

 これがソ連型の国家というものだ。そして福島原発事故は日本がそのような国家であることを示してしまった。
 汚染されたあとの光景も相似と言っていいものである。ソ連は市民に対して沈黙した。

 グロジンスキーは、こうした沈黙をフィンランドのとった行動と比較した。かれは事故のわずか数日後に、「汚染地域では住民はどういうことをすればいいかを印刷物にして発表した……子どもたちはどこを歩けばいいか。牛の放牧はどこでどれくらいの時間すべきか、なにを食べ、なにを飲んだらいいか……」
 ソビエトにはこうした指針が存在しなかったので、人びとは心配のあまり牛乳を飲まず、カルシウム不足におちいった。

 読み進めながらそこに描かれているのはチェルノブイリなのか福島なのか失念しそうになるシーンもあった。

 デンマークの物理学者、ヘーデマン・イェンセン教授は、各国専門家たちの見解を明快な言葉でこう表現した。「われわれの結論はきわめてはっきりしています。もし費用と危険削減の観点から規制を強化しようとするなら、そうした方針は放射線防護の側面から見て正当とはいえないという、ということです」。


 とはいえ、チェルノブイリに関して科学者達が直面したのは、健康を異常に気にする流行病というよりは、科学そのものにたいする多くの人びとの不信感だった。

 その先にはぐっと息を呑む光景も描かれる。

 科学のなかにも迷信が存在するというのはいかにも哲学的な皮肉であるが、もうひとつ、歴史的皮肉も存在した。つまり、ソビエト共産党は、一九八六年には事故の深刻さを隠そうとしていたが、いまやその影響を誇張する方針をとりだしたのだ。そのためウクライナのチェルノブイリ対策大臣ゲオルギー・ゴトヴチッツはチェルノブイリ総合科学調査の調査結果を拒絶した。彼は言う。「チェルノブイリの放射線がもたらした影響に関してくだされた基本的結論のうちのいくつかは、あまりに楽観的にすぎ、それゆえ、汚染除去計画にとって害となるだけではなく、原子力安全問題全般にも悪影響をおよぼすと思われます」
 かれらの態度がこのように逆転したため、チェルノブイリの真実をつきとめようと懸命に努力した西側専門家たちは当惑し、落胆した。

 この問題はその後、ウクライナという「国家」とロシアのという「国家」の関係という文脈にも置かれていった。
 そのことが福島原発事故以降の日本に暗示するものについては、正直なところ、あまり考えたくもないというのが、現状の私の心境である。

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コメント

どこの国でもソ連や日本と対応は同じでしょう。たまたま起きたのがソ連と日本だったということです。スリーマイルが例外的に運が良かっただけです。日本特殊論に傾いてますね。3月11日以後妙にナーバスですね。
結論は出てます。「直ちに死ななければ人間は前向きに生きていくだけ」。牛さんだって屠殺されるまでは前向きに生きていたでしょう。セシウムたっぷりの稲わら食べて。
「安倍ぼくちゃん」イジメをしていたころみたいに自信たっぷりに生きて下さい。

投稿: YT | 2011.07.21 18:22

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