« [書評]「正法眼蔵随聞記」 | トップページ | なぜ江沢民は死んでいないのか »

2011.07.08

[書評]奇跡を呼ぶ100万回の祈り(村上和雄)

 勧められて読んだ本。たぶん、今の自分なら自分から手にとって読むことはないのではないかという種類の本。表題が示すように、100万回の祈りがあれば奇跡も起きるだろうという。それはそうかもしれないと思う(母集団は大きいぞ)。でも、祈りが遺伝子にスイッチを入れて人は健康に長寿に幸福になるという話に及んで、私は反射的に苦笑してしまう。そして著者が著名な遺伝子学者であると知って、さてこの苦笑をどうしたものかと戸惑う。自分という人間は嫌なヤツだな。

cover
奇跡を呼ぶ
100万回の祈り
村上和雄
 私が何に対しても祈らなくなったのはいつだろうと思い返してみた。いつというはっきりとした区切りはなさそうに思えたのが奇妙だった。つまり祈っていたこともあった。
 高校二年の修学旅行のとき親友と三人組で奈良旅行を計画した。修学旅行とはいえ自由に計画して先生が認可すればそれでよいというものだった。僕が率先して計画した。郡山から斑鳩の散策である。当時熟読していた亀井勝一郎「大和古寺風物誌」(参照)を携えた。亀井は仏像とはまず拝まれる対象だとしていた。祈りの対象であると。仏像とは祈りの形であって美の対象ではないと。だから、祈りなさいと。私は仏に祈りを捧げつつ、閑散とした奈良の道を歩いた。
 それからどうして祈らなくなったのかよくわからない。いやキリスト教に傾倒してその神様にも祈ってもいたのだが、ひねくれた私がイエスから学んだのは、祈るなということだった。マタイ6章より。

祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。

 その後、イエスは祈りを授けた。主の祈りと言われている。

天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。

 書き写していて驚く。私はこれをよく祈る。祈りなんかしないと言ってるわりに、けっこう祈り続けている。信仰を失って久しいのに、主の祈りだけはいつも思い起こし口にしている。いや、アヴェマリアも唱える。こちらは古語で。

めでたし聖寵みちみてるマリア、
主、御身と共にまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。
天主の御母、聖マリア、
罪人なる我らの為に、
今も臨終の時も祈り給え

 若い頃になんとなく覚えてしまった祈りのせいか、エペソスの聖母マリアの家にも行ってみたものだった。
 祈りが自分に何をもたらしたのか、わからないといえばわからない。その程度の祈りに過ぎないというのもある。それでも、本書を読みながら、いやわかる部分もあるなとも思う。本書には、祈りというものに向き合った人には、さりげなくぞっとするような真実が書かれている。なるほど感じ得るものがある。

祈りによってもたらされる結果は「その人にとって最適なこと」であるのです。

 そう太字で書かれているて、反射的にそれはないだろ。そんなことはないだろと思いつつ、そうであるかもしれないという思いもある。パウル・ティリヒの祈りを思い出した。

自分の生涯を振り返るとき、それは長かろうと短かろうと、そこで出会ったすべてのことについて感謝します。自分が愛したもの、喜ばせてくれたものについてばかりではありません。失望や痛みや苦しみをもたらしたものについても感謝します。私どもがそのためにこそ生まれてきたはずのものを成就するためには、それもまた助けとなってくれたのだということを、今は悟っているからであります。そして、新しい絶望、新しい苦しみが私どもを捉え、感謝の言葉が消えるならば、思い起こさせてください。あなたが導いてくださった、暗黒のなかの道ゆえに感謝せずにはおれなくなる日がくることを。

 自分なりには、この本で「祈り」というものに再び向き合うことができたのは、ラッキーだったな。

|

« [書評]「正法眼蔵随聞記」 | トップページ | なぜ江沢民は死んでいないのか »

「書評」カテゴリの記事

コメント

かつてクリシュナムルティが、マントラなんて「コカ・コーラ」でもいい、「コカ・コーラ」と100万回唱えれば、十分にマントラの効果はある、と言ったそうです。

村上先生も、自然科学者として成果を出せなくなったからオカルトの本尊をしてらっしゃるんでしょう。

まあ、天理教の勧誘活動をされないだけ、高い見識をお持ちだと思います。

投稿: enneagram | 2011.07.09 07:42

管理人finalvent様

お世話になります。
弊社刊行物をお取り上げくださいまして、誠にありがとうございます。

高名な極東ブログさまにお取り上げいただき、これ程嬉しいこともございません。

今後とも何とぞ、よろしくお願い致します。
ありがとうございました。

編集担当者より。

投稿: 編集担当者 | 2011.07.09 20:21

「祈り」とはいったい何なんでしょうね。
日本にはこんな行事を行っているところもあるようです。
「世界平和交響曲」
http://www.byakko.or.jp/sopp/index.html

投稿: 笛吹働爺 | 2011.09.07 01:06

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: [書評]奇跡を呼ぶ100万回の祈り(村上和雄):

» 「奇跡を呼ぶ100万回の祈り」村上和雄-神様を信じない私が毎日祈っているし [godmotherの料理レシピ日記]
奇跡を呼ぶ100万回の祈り村上和雄  「奇跡を呼ぶ100万回の祈り(村上和雄)*1」の書評(参照)を読んで、久しぶりに不思議な思いが残った。と、同時に、恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じた。この話は後に... [続きを読む]

受信: 2011.07.10 05:51

« [書評]「正法眼蔵随聞記」 | トップページ | なぜ江沢民は死んでいないのか »