[書評]続明暗(水村美苗)
漱石の「明暗」(参照)をこのところ、二週間くらいかけてだろうか、のろのろと再読していた。電子ブックを使った。i文庫というモバイル端末向けアプリケーションに青空文庫のテキストを入れたものである。
考えつつ、辞書を引きつつ読んだ。当初、さほど再読するつもりもなかったのだが、読み出したら引き込まれて止まらなかった。それでいて速読もできないという奇妙な塩梅だった。この小説は再読するとかくも面白いものかとあらためて思う。結末は既知である。結末がないことを知っているというべきかもしれない。だからこそ鏤められた伏線を読み解くパズルのような面白さがある。
一昨日だがようやく読み終えて、上質の文学だけがもたらすある恍惚感に浸った。言葉にするのは無粋でありながら言葉にせずにはおれない衝迫性のあれである。
清子の印象は大分変わった。彼女が由雄と付き合ったころは処女であり、そして肉体関係ということでは由雄が最初の男だったのだろう。であれば、この変容もあるだろうと意外にすんなりと理解するものがあった。露骨にいえば、関という第二の男とも交わって、初めての男である由雄の性の軽さを知ったということではないか。漱石文学にあるまじき下品な物言いになってしまうが、要するにそういうことなのではないか。いや、下品というならと少し逡巡する思いもあるが、浮き舟の物語と洒落れる趣向でもない。
![]() 続明暗 (ちくま文庫) 水村美苗 |
これは面白い。取り憑かれたように半日で読み終えた。軽量な続編ということではない。精緻な筆致には率直なところ脱帽した。畏れ入りましたの類だ。今回丁寧に明暗を読み、気になっていた伏線はすべてに近くあたかも数学的に解かれていた。さらに旅先の二人の中年男女の描写は余技にしてはすばらしいものだった。そこが特に優れているというべきだろうか。用語や風俗についてはいうまでもない。ただし文体は仔細に読めば漱石に似て非なるものではあるし、不思議といえば不思議、不思議でないといえば不思議でもないののだが、続編にはおよそテーマというものがなかった。あるいは若い鬼才を感じさせる少女らしいこぎれいな達観と少女らしい悪意が端正に描かれていた。それは漱石の苦悩とは対極ものであるのだが。
続編に漂う底知れぬ悪意の表出はすばらしかった。なるほど吉川夫人と清子はこのように決着を付けるほかはあるまいと納得するほどの鬼気が漂っていた。が、多少筆者も照れを感じてはいるあたりが知的偽物らしい骨頂といえるものだった。まあ、よい。
まいったと思ったのは、関という男への度胸のよい解読である。漱石の明暗にある次の伏線に当たるものだ。当世でいえば泌尿器科であろうか、その薄暗い控え室で由雄は妹の夫と級友に出会ったことの回想である。
この陰気な一群の人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろ華やかに彩られたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ち竦むようにして閉じ籠っているのである。
津田は長椅子の肱掛に腕を載せて手を額にあてた。彼は黙祷を神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。
その一人は事実彼の妹婿にほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚した。そんな事に対して比較的無頓着な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶に窮したらしかった。
他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気に罹っているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、性と愛という問題についてむずかしい議論をした。
妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりで後のなさそうに思えた友達と彼との間には、その後異常な結果が生れた。
妹・秀子の夫については、それが秀子という人間の素性を暴露する背景として悲喜劇に描くのはよいとして、「友達」は大きな伏線である。「その後異常な結果が生れた」とは、つまり、彼が関であった。清子が由雄を捨てて得た夫である。
そこまで読んでよいのかということにためらいがあったが無理な読みではない。由雄を捨てた清子の男は花柳病であった。淋病だろう。続ではこの伏線を大きい線で描いた。清子の流産もそのせいであろうと見ている。
おそらくそうであろう。続ではそれ以上踏み込んでいないが、由雄とお延の結婚の半年という期間は、清子の流産までの時間を指してもいるのだろう。清子と関の肉体関係の悪魔的なクロノロジーであろう。清子は生理が途絶えたときに由雄を捨てたのではないか。だがそこまでは続も展開しない。
さすがにそれが描ける枠組みはないが、続では生理の途絶については暗示しているとも言い難い。そこを暗示的にであれ描いてしまえば、続の物語ほどに清子は観念的な存在ではありえなくなる。清子にある種の精神的な勝利を飾らせてしまうこともできなくなる。私は、漱石が描こうとした清子には死を重ねて見ているから、そう思うのである。
このねじれは、お延の扱いとも釣り合う。お延が旅先に現れ、そこで生死を賭けることには十分に伏線がある。ではどのようにお延が現れるのかというプロットは、作家の技量の内ではあるだろう。吉川夫人の立ち回りが必要かについては、水村の創作としての評価のうちではあろう。
が、お延の憔悴と、取って付けたような達観は違うだろうし、そこには水村の意図もあるのだが、漱石の大きな文脈が見失われた。
明暗の最終顛末は、その冒頭部に描かれているのだ。「小林」医師と対話は暗喩である。
「腸まで続いているとすると、癒りっこないんですか」
「そんな事はありません」
医者は活溌にまた無雑作に津田の言葉を否定した。併せて彼の気分をも否定するごとくに。
「ただ今までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経っても肉の上りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思いにやるよりほかに仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
「切開です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然割かれた面の両側が癒着して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
津田は黙って点頭いた。彼の傍には南側の窓下に据えられた洋卓の上に一台の顕微鏡が載っていた。医者と懇意な彼は先刻診察所へ這入った時、物珍らしさに、それを覗かせて貰ったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影ったように鮮やかに見える着色の葡萄状の細菌であった。
津田は袴を穿いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇した。
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
津田は思わず眉を寄せた。
「私のは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据えた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。診察た様子で分ります」
漱石の書き残した顛末はこの暗喩に進むと思われるし、そこから書き残された伏線が大きく統制されている。
由雄とお延の関係は、切開の後、自然に逢着するだろう。なぜなら、それは「結核性」ではないから。では、結核性は。おそらく清子のほうであろう。
医師の「小林」がなぜ朝鮮行きの小林と同姓なのかは奇妙な符牒だが、吉川夫人も畢竟、手術という天然自然の営為に吸着されるものだろう。そう解するのは、漱石のなかで、なにか運命に立ち向かう巨大なヒューマニズムのような理念と情念がところどころ露出し、あまつさえ、小林の知人の原の手紙のような破綻まで引き出しているからだ。この逸脱するほどのエネルギーは、書かれたであろう顛末では、ある種の、水村が想定したような、「破綻」を起こしただろう。
水村は伏線を不合理なく解くために旅先に秀子と小林を引き出している。小林を描きたい欲望に駆られるのは避けがたいが、秀子の役回りはすでに終わっているせいか、最終部の冗長さは読書を逆に重くする効果となっている。
明暗を貫く、そもそもの病はどこに発したものなのか。由雄の理想であっただろうか。その功利であろうか。お延の理想と気丈な少女らしい夢想であろうか。
私は、人の美醜にあるのだと思う。明暗のテーマは、人間の深淵を描いているようでいて、実は、人の美醜が必然的にもたらす愛憎というものの、その機械性が孕む悲劇を描いているのではないかと思っている。
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コメント
あれですか、御大が竹田青嗣に言った、
人類が最後に解決しないといけないのは美醜だよ。
みたいなとこですかね?
人間ってエグいっすね。
投稿: 吉本主義者 | 2011.06.17 19:28