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2011.05.04

[書評]光と風と夢(中島敦)

 高校の教科書には今でもおそらく収録されているだろう「山月記」の作者・中島敦の主要著作は何かと問えば複数の回答があるだろう。絶筆となった「李陵」、独自のユーモアで描かれる「南島譚」、処女作の才気溢れる「古譚」。しかし、どうしても外せないのは、長編小説といってよいと思うが、「光と風と夢」である。

cover
中島敦全集〈1〉
ちくま文庫
 当時芥川賞に落選したことからも評価の難しい作品でもあるだろう(参照)。私も十代にたしか角川文庫で読み、後、ちくま文庫の全集が出た頃にも読んだが(参照)、華麗な文体と衒学的な趣味に惑わされ、今ひとつ全貌が理解しづらい作品に思えた。が、先日から、iPhoneアプリのi文庫で嘗めるように読み返し、昨日読み終えて圧倒的な感動を覚えた。
 不思議な構成の作品でもある。「宝島」で有名な英国作家スティーヴンソン(Robert Louis Balfour Stevenson)の、オセアニアのサモアで暮らす死に至るまでの数年間を描いているのだが、一人称で書かれる日記と三人称で書かれる描写とが、だいたい交互に章で入れ替わる。今回読み返してはっとしたのだが、この構成は、人間の想像力というものを多元的に描こうとする村上春樹作品の先駆的な実験であるようにも思えた。
 本書が取っつきづらいとすれば、まずこの構成によるものだろう。現代の読者はすでに中島敦の名声と、漢文にも見えるような華麗な文体を想定している。この作品でもそうした文体の妙技は息づいているのだが、微妙に、これはなにか英文の原作を翻訳したのではないかという錯覚にとらわれてしまい、奇妙に期待をはぐらかされた気分になりがちだ。
 スティーヴンソンのサモアでの生活は、実際にスティーヴンソン本人が書いたものに過ぎないではないか。この作品はそれに中島敦の批評的なコメントを混ぜ合わせただけではないか。そう思えてくるほどに、確固たる世界が最初から打ち立てられてくるのを、どう受け止めてよいのか。困惑がまず迫ってくる。
 おそらく原典は存在しないだろう。可能なかぎり、スティーヴンソンの史料は駆使されているだろうが、これはスティーヴンソンになりきった中島敦による虚構の日記なのだろう。そこで、愕然とする。なぜこんな完璧な虚構が描けただろうか。
 困惑するのはそれがいかに完璧であっても、ただの偽装的な趣味であってはつまらないし、そう読まれうる危険性は孕んでいる。しかし、中盤を越えて、本作品に仕組まれている大きなプロットがうごめきだすあたりから、じわじわと本格的な文学の衝撃波が伝わってくる。なんという巧緻な虚構か。なんという壮大な想像力か。こんな巨大な文学的な試行があの時代の日本文学でどうして可能だったのか。

一八九一年五月×日
 自分の領土(及びその地続き)内の探検。ヴァイトゥリンガ流域の方は先日行って見たので、今日はヴァエア河上流を探る。
(中略)
しばらく進むと、纍々たる溶岩の崖に出くわす。浅い美しい滝がかかっている。下の水溜りの中を、指ぐらいの小魚の影がすいすいと走るざりがにもいるらしい。朽ち倒れ、半ば水に浸った巨木の洞。渓流の底の一枚岩が不思議にルビイのように紅い。
 やがてまたも河床は乾き、いよいよヴェニア山の嶮しい面を上って行く。河床らしいものもなくなり、山頂に近い台地に出る。彷徨することしばし、台地が東側の大峡谷に落ち込む縁のところに、一本の素晴らしい巨樹を見つけた。榕樹だ。高さは二百フィートもあろう。巨幹と数知れぬその従者ども(気根)とは、地球を担うアトラスのように、怪鳥の翼を拡げたるがごとき大枝の群を支え、一方、枝々の嶺の中には、羊歯・蘭類がそれぞれまた一つの森のように叢がり茂っている。枝々の群は、一つの途方もなく大きな円盤だ。それは層々纍々と盛り上って、明るい西空(すでに大分夕方近くなっていた)に高く向い合い、東の方数マイルの谿から野にかけて蜿蜒と広がるその影の巨きさ!

 中島敦はこれをただ想像力だけで描いている。しかもその描写は完璧といっていいほど正確であり、SF的だとも言える。南方世界の描写以外に、スティーヴンソンの故地であるスコットランドの風土も同様の筆力で描かれる。ただただ美しい。
 こうした描写に圧倒的な力を感じたのは、ふと振り返ると、私も南方の生活でこれらの奇跡的な色彩と圧倒的な自然を経験したからだと言える。気がつけば、中島敦がその生涯で渇望した自然のなんたるかを自分でもなぞっていたのだった。
 物語は中盤からサモアの政争に移る。ここは率直にいって、退屈な歴史書を読むような単調さもあるのだが、これがこの物語のバックボーンを形成していくからくりがわかると、なんというのか、アシモフ的な巧緻なたくらみが見えてくる。
 スティーヴンソンに憑依したかに見える中島敦だが、やがてスティーヴンソンを食い破るように、能の世界の亡者のように自分の舞を踊り出す。

満十五歳以後、書くことが彼の生活の中心であった。自分は作家となるべく生まれついている。という信念は、いつ、また、どこから生じたものか、自分では解らなかったが、とにかく十五、六歳ごろになると、すでに、それ以外の職業に従っている将来の自分を想像して見ることが不可能なまでになっていた。


彼はほとんど一日としてものを書かずには過せなかった。それはもはや肉体的な習慣の一部だった。絶え間なく二十年にわかって彼の肉体をさいなんだ肺結核、神経痛、胃痛も、この習慣を改めさせることは出来なかった。肺炎と坐骨神経痛と風眼とが同時に起った時、彼は、眼に繃帯を当て、絶対安静の仰臥のまま、囁き声で「ダイナマイト党員」を口述して妻に筆記させた。

 中島敦の文学とは何か。あえてひと言で言えば、人がものを書くということの妄念の姿である。これが自身と死の形を決定していくなら、受け入れるほかはあるまいという壮絶な生の覚悟の姿でもある。むしろ、そうした中島の姿に近似な虚構としてスティーヴンソンが選び出された。

 私は長く生き過ぎたのではないか? 以前にも一度死を思うたことがある。ファニイの後を追うてカリフォルニア迄渡って来、極度の貧困と極度の衰弱との中に、友人や肉親との交通も一切断たれたまま・桑港の貧民窟の下宿に呻吟していた時のことだ。その時私は屡々死を思うた。しかし、私は其の時迄に、まだ、我が生の記念碑ともいうべき作品を書いていなかった。それを書かない中は、何としても死なれない。それは、自分を励まし自分を支えて来て呉れた貴い友人達(私は肉親よりも先ず友人達のことを考えた。)への忘恩でもある。それ故、私は、食事にも事欠くような日々の中で、歯を喰縛りながら、「パヴィリヨン・オン・ザ・リンクス」を書いたのだ。所が、今は、どうだ。既に私は、自分に出来るだけの仕事を果して了ったのではないか。それが記念碑として優れたものか、どうかは別として、私は、兎に角書けるだけのものを書きつくしたのではないか。

 中島敦はおそらくこの小説をそうした気概をもって書いていた。結局のところ33歳で死ぬことになる彼は自信の死をそう見つめるしかなかった。
 終盤、サモアの事件の惨めな結末と、病苦のなかで打ちのめされそうになるなか、最後の恍惚が訪れる。それは中島敦が希求したものなのか、彼自身が人生の最終に得ようとした、あるいは得たものだったのか。
 43歳で死と恍惚に取り憑かれたスティーヴンソンを描く、33歳でこの世を去る目前の中島敦。その思いを、さらに十年ほど人生の渓谷を越えてしまった53歳の私は、奇っ怪に、さみしく思う。だらだらと生き延びてしまった私の人生とはなんだったか。
 いや、比べようとしているのではない。生というものが魅せる、恐るべき閃光の真実がそこにあったのだと、彼らの文学の前で立ち尽くすのである。「トファ(眠れ)! ツシタラ。」と私も言おう。
 この小説は、発表時「ツシタラの死」であったが、それだけでは意味がわからないとのことで出版社と折り合って現在の表題となった。経緯は「李陵」にも似ている。ある明確な文学的なコンセプトが表題を拒絶してしまうのだ。
 「ツシタラ」とはサモアの言葉で「物語の語り手」を意味する。「物語酋長」と言ってもよいかもしれない。スコットランドのカルバンの精神風土に育った西洋人が、オセアニアの島の物語酋長として死んでいく物語である。
 それを以前は、私は、異国情緒としての小説の小道具のように思った。今回、南方の神話と活動を読み返して、日本人の遠い原初の精神の形のようにも感じられた。中島敦は日本のもっとも古層なる物語に接近することになっていたのだった。
 すでに書いたが、今回の再読にはiPhoneアプリのi文庫を使った。電子書籍にはだいぶ抵抗があったが、おかげで自然にこの読書スタイルに慣れた。便利なのは大辞林と連携していることだ。気になることはいちいち辞書引きした。また全集ももっているので気になる部分は、その注にもあたった。注や辞書解説といったものを本文テキストにどれだけ仕組みとして反映させるかは難しいところだが、簡便な仕組みがあることが大きな助けになった。電子書籍とはよいもだなと初めて思えた。

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コメント

中島はパラオ駐在経験があるので「ただ想像力だけ」ということはないと思いますが。

投稿: haruhico | 2011.05.04 23:43

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