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2011.04.27

[書評]完本・文語文(山本夏彦)

 このところ文語について考えることが多く、ふと、ああそうか、と思うことがある。例えば、ネットで有名な神戸女学院大学名誉教授の内田樹先生のお名前。「樹」を「たつる」と読ませる。人名はいかように読ませようとご勝手なのだが、所以はあろう。なにゆえ? 手元の広辞苑を引くと、「樹」の読みには「〔音〕ジュ(呉)〔訓〕き・うえる・たてる」とある。訓に「たてる」があるので、さてはこれを古語にすれば「たつる」であろうなと想像は付くってなのはググレカスみたいな現代人であって、普通はあれを思い出す。


朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ

 教育勅語である。
 訓ずるに、「ちんおもーに、わがこーそこーそ・くにをはじむること・こーえんに・とくをたつること・しんこーなり」である。
 して「樹」とて何を「たつる」かといえば、德である。人徳である。現代語訳すると、かく。

 私の記憶がたしかなれば、私のご先祖様が日本国を開始したのはすげー昔でさ、どうやって国を開闢したかというと、武力とかじゃなくて、人徳によるもので、その人徳たるや、軽くスプーンを曲げちゃうくらいどーんとすごいもんなんだぜ。

 かくして王宮土階三等なれど徳樹るによって民草鼓腹撃壌となったかどうかよくわからんが戦後の風景はそんな感じ。
 さては内田樹先生、生まれは戦前かと思いきや、昭和25年生。ばっちり戦後である。なにゆえ戦後に教育勅語のおぼっちゃんなのか、お父上が戦時中政府機関たる満鉄員で戦後なりとも懐かしや戦前の徳だったか、わからない。
 「樹 たつる」さんが他にござっしゃるかとぐぐってみると、茅ヶ崎警察署長に藤井樹さん54歳がおられる。戦後も戦後、内田先生よりお若い。てか、俺よりひとつ上。さて私の同級生に「樹くん」っていたかなあ。さらにぐぐるに沖縄にやはり私と同年代の賀数樹さんがいらっしゃる。昭和30年代に流行る名前か。思うに徳を樹るより、高度成長に国をたつるであろうか。
cover
完本・文語文 (文春文庫): 山本 夏彦
 余談大杉。
 この手の話といえば、山本夏彦翁である。死ぬの大好きの本願を達せられ8年。それなりによく読んだものだが、失敬、「無想庵物語」(参照)を除けば翁の手すさびならんと、沖縄より転居のおりに多くを捨て、いまさらになって慌てふためいて古書を買いあさる始末。
 「完本・文語文」ももはやあるまいと書棚を崩しみるもいたずらなりとてアマゾンを見るに、幸いにや文庫ありけむ、ぽちり。「完本・文語文」(参照)は今や掌に収まる。それもよし、なにより爺さんの話というのはよい。死んだ人の話というのも格別なり。
 表題の「完本・文語文」の「完本」は、翁の文語についてのエッセイなどをあれこれ収録しましたという以上はなく、翁にありがちな寄せては返す波の音のごとき挿話が散乱してくどい。十年前に読んだときは、くどいぜ爺さんと思ったが、いや読み返すにくどさは地味ならぬ滋味というもの。いやいや、逆だ。翁はいつまでも少年の詩人の心で一葉に恋心のようなものを抱いていたことがじんわりとわかり、そこは一葉の生涯も併せてしんみりとくるところだった。
 本書絶版ならんやとぐぐりしとき、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」ブログに同書の評ありていわく。

 国語としての日本語を考えるなら、夏彦翁に訊け。

 とのこと。素直だね。
 僕は再読して夏彦さん、若すぎるよなと思った。
 文語は江戸の雅文を明治に擬古的に再現した若い文学の文体であって、日本の伝統でもなんでもない。いやさすがにそこまではいいすぎかと思うが、近代ナショナリズムが西欧のロマン主義を受容しやすく構築した偽物であって、翁が批判するその後の岩波語が科学的社会主義の受容のための偽物構築物であるのさして変わるものではない。
 むしろ読み返して、擬古文というもののその若々しさに圧倒された。かく屁理屈をこねながらも尊敬の念は湧く。擬古文をものした人々は当時の普通の教養人であり、この教養たるやたしかに古典を吸収するインターフェースともなりえたものだろう。すごいな。
 話が飛ぶのだが、私事、40代の半ば、矮小なる人生の危機のおりに岩波文庫ワイド番の正法眼蔵随聞記(参照)を噛みしめるように読んだものだった。懐奘編とはあるが面山本である。面山和尚が生涯をかけて編纂し明和6年(1769年)に刷ったものである。つまり江戸の本であり、江戸の言葉で記されるがゆえ、道元師の謦咳とは言い難きものである。別途水野弥穂子先生校訂の長円寺本も所有していたが、仮名書きゆえもあらんかと思うが読みづらかった。読むには面山本が向いていた。これは道元師の肉声ではあるまいと思いつつも、師の声は江戸の写本を通して聞こえるようにも思えたものである。言葉とはこういうものか。
 岩波文庫面山本の初版は昭和4年。解説の中村元によれば当時道元ブームがあり、岩波書店はそれを商機としたらしい。中村の労はその訓にある。現在の仏教学からすればいからなむかと疑問に思える点もあるが、中村は当時の禅師によくあたっていた。それもまた古典であり、それもまた言葉というもの。
 山本翁の書に戻るなら、日本語の破壊は明治に始まり、核家族化をもって完成したとのことだ。その完成の曙にておぎゃあの声を上げたのが私である。末法にて54歳となる。拙き頭脳にてほそぞぼと古典を読む。擬古文もまた好む。

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コメント

final先生、いろいろ事情をほじらず、契沖に素直に感謝しましょうよ。彼が、日本語らしい日本語を作り出してくれたことを。それ以前は、藤原定家の権威で、仮名遣いでさえでたらめだったんだから。

契沖はえらいからえらく、時枝誠記と福田恒存はかっこいいからかっこいい。それで、日本では保守派でとおるのだから日本はありがたい国です。

イギリスだったら、(当然英語でも)難解極まりないバークの著作を、いくつか、演説で利用できるくらい読み込んでいないと保守派と思ってもらえません。

投稿: enneagram | 2011.04.27 12:41

>解説の鈴木大拙によれば当時道元ブームがあり、岩波書店はそれを商機としたらしい。大拙の労はその訓にある。

鈴木大拙でなく、中村元ですよね。


つくづく和辻は、日本仏教の破壊者ですねえ。

投稿: | 2011.07.17 08:58

ご指摘ありがとうございます。え?と思ったら誤記でしたので訂正しました。

投稿: finalvent | 2011.07.17 09:02

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受信: 2011.04.28 05:20

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