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2011.04.26

[書評]移行化石の発見(ブライアン・スウィーテク)

 わかっている人からは失笑を買うだろうが、ちょっとしたクイズを出してみたい。人間がサルから進化したとして、次のようなイラストをよく見かけるものだが、さて、このイラストで一番変なところはどこだろうか?

 正解はこれだというのが確実にあるわけではない。が、まず、このイラストは何を語っているのだろうかと考えてみたい。
 もちろん、サル(類人猿)からヒト(ホモ・サピエンス)が進化したのだとか、神様が猿と人間をそれぞれ別に創造したのではない(創造論は間違っている)といったとかの主旨も読み取ろうとすれば読める。ヒトは現存の類人猿からこのイラストのように直線的に変化したわけではないとも言えるだろう。
 それよりもこのイラストの意図として、ヒトがなぜヒトであるのかということについて、直立二足歩行に焦点を置いていることに注目したい。
 つまり、こう問いかけてみたいのだ。このイラストが暗示するように、進化によってヒトは現存の類人猿のような不完全な歩行から直立二足歩行に変化したのだろうか。
 そう問い直されたら、どう答えるだろうか。現在わかっている科学的な知見からすると、そこに疑念がある。
 チンパンジーとゴリラの不完全な二足歩行はナックル歩行(knuckle walking)と呼ばれている。イラストの左から二番目がわかりやすいが、彼らは手の甲を曲げてその関節(knuckle)をひきずるように歩く。

cover
移行化石の発見
ブライアン・スウィーテク
 ところが1990年代に発掘され、長く研究され、2009年10月のサイエンス誌で特集となった、約440万年前の最古のヒト族と見られるアルディピテクス・ラミドゥス(Ardipithecus ramidus)、通称「アルディ」は、その解剖学的構造特徴などから、ナックル歩行ではなく、直立歩行していたと考えられている。
 逆にナックル歩行をするゴリラやチンパンジーの解剖学的な構造からもわかる。ナックル歩行はヒトとの共通祖先から分離後の独自の進化の結果であるようだ。つまり、ゴリラやチンパンジーのナックル歩行はそれ自体が進化の結果であって、直立歩行への中間的な意味合いはない。イラストが変なのはそこだ。ヒトは最初から直立二足歩行をしていたのである。
 しかし、と疑問に思う人もいるかもしれない。アルディの祖先もナックル歩行していたのではないだろうか? 本書「移行化石の発見(ブライアン・スウィーテク)」(参照)ではアルディについてこう考察している。

 その手首や骨盤に、現生ののチンパンジーやゴリラに見られるようなナックル歩行への適応は見られなかったが、樹上生活に適応していた彼らは、それゆえに地上に降りても二本足で歩けたのかもしれない。(中略)おそらく彼らは、こうした小さな違いのために、地上では両手両足をついて歩くよりもまっすぐ立って歩いたほうが楽だったので、直立二足歩行を選択したのだ。

 定説には至っていないが、人間における直立歩行は、ナックル歩行から変化したのではなく、突然現れたものだと言えそうだ。
 では、アルディの直立二足歩行をもって人間たる直立歩行となったのだろうか。本書はそこにも独自の注意を促している。人間の祖先には結びつかない直立二足歩行の類人猿がいた可能性を指摘し、進化というもののについての本質的な考え方への示唆を促している。

(前略)二足歩行の特徴をもつ類人猿の化石が見つかっても、ただちにそれを初期の人類と認めることはできないのだ。化石生物全般に言えることだが、共通する特徴から種と種の関係をたどるには、注意深く比較する必要があり、どのグループでも、初期のメンバーが、後世のメンバーに見られる決定的な特徴を備えていないということは十分ありうるのだ。

 では、ヒトはどこで見分けられるのだろうか?

簡単に言えば、人類と類人猿を明確に分ける唯一の特徴はないということで、直立二足歩行にばかりこだわっていると、真実は明らかになるどころか、ますます見えにくくなってしまう。

 ここまでくると、興味深い主張ではあるものの、異論もあるだろう。私も「人類と類人猿を明確に分ける唯一の特徴はない」とする考えには、ノアム・チョムスキー同様とまでは言えないが、それほど賛成しない。
 以上のアルディを巡る話は「第9章 ネアンデルタールが隣人だった頃」に含まれている。最初にこれを紹介したのは、本書がかなり最新の進化論研究を扱っていることと、そこに見られる多様性に配慮している特徴が、色濃く表れているからだ。
 同様の趣向で興味深いのは、「第4章 羽毛を生やした恐竜」だろう。ここでは、鳥が恐竜から進化した話が歴史的に系統立って説明されている。
 「え?鳥が恐竜から進化しただって?」と思う人や、それが珍説のように思える人は本書を読んだほうがよいだろう。私の世代のように学校で始祖鳥が鳥の祖先ではないかといったふうに教えられていた世代にも、本書は再学習に向いている。
 「序章 「ザ・リンク」はリンクではなかった」では、「ザ・リンク」(参照)への批判から、本書の主要テーマである、従来「ミッシング・リンク」(Missing-link:失われた鎖)と呼ばれていた仮説的存在、つまり、進化論が正しいなら進化の途中的な形態である化石について触れていく。現在ではこれは「移行化石」(Transitional fossil)と呼ばれていて、本書の邦題にも採用されている。その点から言うなら、進化論の最大の弱点と言われてきた移行化石について、本書は、現状がわかる総まとめにもなっている。総じて、本書は正統派進化論の最新の教科書といった趣向があり、高校生や大学生、さらには科学を学び直したい大人にとって、進化論の入門書になる。
 進化論に関心のある人にとってみると、本書は冒頭ドーキンス(Clinton Richard Dawkins)をからかっているように、グールド(Stephen Jay Gould)の考えかたである断続平衡説(Punctuated equilibrium)に近いことがわかるだろう。だが、本書はこの一連の論争に参戦するというより、むしろそこを移行化石によって温和に補っていく印象を受ける。
 さらに本書をよく読むなら、本書の隠されたテーマは諸処に顔を出す「収斂進化」(Convergent evolution)であることに感づかれる人もいるだろうし、オリジナルタイトル「Written in Stone: Evolution, the Fossil Record, and Our Place in Nature」(参照)にある「自然における人間の位置」にもその暗喩がある。それは「終章 進化は必然か偶然か」ではこう描かれている。

 人間のような生物はこれまで地球上に存在しなかったし、われわれが消えれば、ふたたび現れることはないだろう。人間の歴史が偶然の積み重ねであったことを思えば、わたしたちはじつに驚くべき存在なのだ。もし自分たちについて知りたいと願うのであれば、その歴史を理解しなければならない。わたしたちは年月と偶然から生まれた生き物なのだ。

 本書で確か一個所ジャック・モノーへの言及があったが、私などの世代には懐かしい「偶然と必然」(参照)の基調でもある。
 人類はそのような偶然の存在なのだろうか。
 そうではないのかもしれないというのが、本書には直接は登場しない「収斂進化」を援用したサイモン・コンウェイ・モリス(Simon Conway Morris)の議論で、この点については、訳者の後書きで、著者の別の指摘からモリスは「神の存在を信じる科学者」とされ、創造論者と混同されているように見える。それが著者の意図か訳者の混同かはよくわからない。
 本書は「収斂進化」を限定して扱いながら、その事実は案外、モリスの主張に近いものを結果的に逆説的に導いてしまっているのかもしれないと少し意地悪にも私は読んだ。

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コメント

反証、カンガルー(有袋類)、ペンギン(鳥類)

投稿: YT | 2011.04.27 01:02

興味深いですね。

投稿: peace68 | 2011.04.29 13:02

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