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2011.04.23

[書評]「古文」で身につく、ほんものの日本語(鳥光宏)

 現代日本語と古語を結びつけてやさしく解説した書籍があるといいと常々思っていてので、本書「「古文」で身につく、ほんものの日本語(鳥光宏)」(参照)を書店で見かけたとき、手に取り捲り、買ってみた。どういう感じなのかと読み出したが、ちょっと微妙である。自分の思い入れがズレた分で批判してしまうのはよくないが、この著者の知識ならばもう少しシンプル(簡素)に、かつプラクティカル(実用的)に、このテーマが書けそうな気はした。

cover
「古文」で身につく、
ほんものの日本語
鳥光宏
 「はじめに」で枕草子でも有名な表現「いとおかし」があり、この「いと」を数年前の流行語「チョー」に対比して説明していた。面白い趣向だと思った。清少納言の「いとおかし」はたしかに「チョーグッド」みたいな印象もある。また、「これは知りたることぞかし」の「ぞかし」は現代の「だよね」と比較されている。この対比も現代人にはわかりやすい。
 古語と現代語は違うものだが、言語の機能としては等価な部分もある。こういうシンプルな機能対比があると、古文も親しみやすくなるだろう。ただし本書では、それは前口上的な挿話に終わり、本論に継承もなく方法論的にも意識されていない。
 擬古文といってもよいと思うが、近代古文の話題も興味深かった。例としては、「蛍の光」の「あけてぞけさは、わかれゆく」が挙げられている。著者は予備校教師らしく、高校生にこの意味を問うのだが、現代の高校生はわからないようだ。
 そういえばと私も高校生時代を思い出す。私は高校一年生のときに、ひょんなことから百人一首はもとより斎藤茂吉「万葉秀歌」をそらんじていた。それなりに古文はよくわかる部類で、この「あけてぞけさは、わかれゆく」も意味はわかっていた。ゆえに、友だちをからかったりもしたことがあった。こんな感じ。
 「あけてぞけさは」に出てくる「ぞけさ」というのは、ムーミンに出てくるニョロニョロみたいなやつでさ、これが列を成しているのだが、門を開けるとそこから左右に別れていくんだよ。そういえば、浦島太郎の歌には五番まであって、四番に「帰ってみれば、怖い蟹」というのがあるんだ。巨大蟹の恐怖ってな話。余談の多い本書につられた。いや、それが悪いわけではけしてない。
 古文が現代人にとって、ちんぷんかんぷんという状況が露出してしまうのは、本書の結果的な指摘のように、文部省唱歌あたりだろう。こうした近代の擬古文には、鷗外の「舞姫」もある。私が愛唱していた讃美歌もそうだ。これは通称大正訳聖書の関連もあるのだろう。あの時代、つまり明治・大正時代の古語は、当時の人にとっても、古めかしさの修辞だった。当時ですら特殊な文章だった。
 修辞にすぎないが、この近代擬古文を経由すると枕草子といったいわゆる古文に接近しやすくなる。いきなり平安朝の古文を文法として提示するより、変遷の中間点として、唱歌や讃美歌など明治・大正時代の近代擬古文を学んでおくよいのではないか。候文なども併せて教えておくとよいと思う。
 落語にも似た展開で書かれている本書だが、現代語で過去を示すとされている「た」の話も面白かった。例えば、ホテルの予約で「二泊でよろしかったでしょうか?」というあの「た」のことだ。本書にはないが、スケジュール表を見て「明日、テストがあった」とかもこの「た」の部類だ。
 本書は、この「た」はなんだろうと問いかけ、考察している。現代日本語文法をある程度学んだ人にとっては、「明日、テストがあった」の「た」はさして不思議なものでもないが、本書ではこれを古文の「き」「けり」「つ」「たり」との機能対比をしている。
 機能論からさらに、実際にこの現代語の「た」の来歴はなにかという考察もある。著者は「た」について機能的には「き」と見ているが、「き」の音変化ではないとしている。機能的な考察と形態の構造変化の議論が錯綜している部分もあるが、「たり」の「り」が抜けて「た」ができたとしている。同様に、「だったけ?」の「け」は「けり」の由来しとしている。
 こうしたこと、つまり、「た」が「たり」に由来するということは常識として知られているだろうか? そうでもないように思うし、現代語がどのような変遷で古語に関連するかという知識はあまり教えられていないように思える。本書には含まれていないが、現代語で「なになにです」というときの「です」や「である」・「だ」の由来も学んだ人は少ないに違いない。
 言葉の時代変遷の感覚というのが重視されなくなったのはいつからなのか。いつの時代でもそういうものなのか。
 たまにNHKの朝ドラ「おひさま」を見るが、戦前の女子高校生が「お便所」と言っていたり、戦前の中学生が「ものすごくがんばっている」と言ったりしている。あの時代の経験者やそうした時代の言葉を読んでそれなりに言葉の時代変遷の感覚があれば、脳髄に鐘声響くところではないか。
 「ものすごく」に触れて「とても」という言葉も戦後にできたのではないかとツイートしたところ、「吾輩は猫である」に「もう少し召し上ってご覧にならないと、とても善い薬か悪い薬かわかりますまい」という用例がありますよと指摘されて、ちょっと微笑んだ。有無を問うなら有というほかはあるまい。
 本書後半の三分の一は、センター試験や大学入試における古文の位置づけの議論になっている。受験勉強にとんと縁が遠い人間になってしまった自分としては、こういう世界があるのかと驚きもした。簡単にいえば入試で点差が付くのは古文ということらしい。

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コメント

「漢文の知識で身につけたい格調高い日本語」みたいな企画もほしいところですね。

大和言葉ばかりで詠まれた万葉集も、それをのちに解読した契沖は、当時の漢字漢文の音訓の用法の知識をフルに駆使して万葉集を解読したわけで、漢文を日本語として読む日本人の長い工夫の歴史が、後に、西洋語で書かれた学術文献を、漢語による翻訳語創出を通して、こなれた日本語として翻訳することまで可能とする、高等言語としての近現代日本語の「出産」を可能にしたわけです。

漢籍の漢語と仏典の漢字音写梵語の知識の背景なしには現代日本語もまたありえないわけで、私たちの視野から失われた漢文を再発見することで、日本語もまた再発見できるような気がします。

投稿: enneagram | 2011.04.23 16:55

いやあ、恥ずかしい。←猫の件
用例というか、自分の読む範囲の戦前の本でも「ともて〜ない」は頻出だし現代でも同じ意味で使いますよね、と言うつもりでしたが、釈迦に説法というふうに受け取られちゃったみたいですね……。

微笑まれてしまった記念に恥を重ねます。

「モノスゴイ」は『ドグラ・マグラ(1935年)』に17回も出てくるのに「ものすごく」は1回も出てこない。いや、本当は

『中にも一際もの凄くも亦、憐れに見えますのは』

という箇所があるけどこれは完全に戦後の「ものすごく」とは別物ですね。

ついでと思って検索したら、私にとっては意外なことに「とても」は「〜ない」で受けないものもかなり使われていました。

『それは今にわかる。とても面白いお話と、恐ろしい絵が描(か)いてある。僕達が式を挙げる前に是非とも見ておかねばならぬものだとその人が云われた……今にわかる……今にわかる……』
『イヤ。文字はたしかに女の筆附きだが、文章の方はとてもシッカリしたもので、どうしても女とは思えない。』
『とても立派な大建築だよ。』
『とてもとても綺麗なもので、毎日指の頭ぐらい宛(ずつ)しか出来ませんでしたが』

ちょっと驚きました!
ドグラ・マグラは変り種の本ですけれども、著者は新聞記者をやった経歴もありますし、この本の執筆に10年かけたらしいですから口語としての「とても」は大正〜昭和初期には使われていたのでしょうか?当時の辞書を引くことができるWebサービスなどが出来たら楽しそうですね。

投稿: hamanako | 2011.04.24 00:04

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