「さよならをするために」の詩学
年が明けたあたりだろうか、ふと、「さよならをするために」という曲が聴きたくなってカバーを物色した。この曲が脳のなかで鳴り出して止まらない。奇妙な感じがしていた。鳴っているのはオリジナルのビリー・バンバンのそれ(参照)ではあるのだが、そのあたりですでに奇妙な感じする。今思うと、紅白で坂本冬美カバーの「また君に恋してる」(参照)を聞いた連想だったかもしれない。
また君に恋してる ビリー・バンバン |
「さよならをするために」は石坂浩二の作詞で彼自身の色男半生の思いもあるんだろうかとも思う。今じゃ石坂浩二も千利休だし、寺尾聰はすっかり宇野重吉になってきた。老いることのない范文雀を思うとなんともいえぬ悲しみがこみ上げてくる。
調べてみてわかったのだが、「さよならをするために」は「3丁目4番地」の主題歌で私の記憶では前作の「2丁目3番地」と区別が付いていなかった。「2丁目3番地」は1971年の1月2日から3月27日、主題歌は「目覚めた時には晴れていた」で赤い鳥だったのはこっち。「3丁目4番地」は翌年の1972年1月8日から4月8日。1年ブランクがあったのか。
ザ・ピーナッツ・カヴァー・ヒッツ |
オー・シャンゼリゼ |
Boys be・・ 沢田知可子 |
過ぎた日の微笑みをみんな君にあげる
夕べ枯れてた花が今は咲いているよ
過ぎた日の悲しみもみんな君にあげる
あの日知らない人が今はそばに眠る暖かな昼下がり通り過ぎる雨に
濡れることを夢にみるよ
風に吹かれて
胸に残る想い出と
さよならをするために
意味わかるだろうか? 私にはわからない。
どうわからないかを書いてみたいのだが、これがカフカ的シュールな話になる。
まず、デカルト風に「私」が存在する。「私」は「君(きみ)」につぶやいている。過去の微笑を君にあげる、というのはわからないではないが、なぜ悲しみをあげるというのだろう。いや、そこはわかるからこの歌が心に残る。
その前に、登場人物の整理である。私、君、そして、今そばに眠る人。
「私」は男だろうと思う。この時代、男は女を「君」と呼んでいる(恥ずかしい話だが……いや恥ずかしすぎるのでやめとこ)。そして「君」は女であろう。問題は、男のそばで眠るのは、女だろう。ゲイの歌ではないだろう、たぶん、きっと。まあ、ゲイでもいいのだけど。
問題は、今そばで眠るこの女が「君」なのだろうか?
違うだろう。「あの日知らない人」の「あの日」は、「私」と「君」の共有された過去の時間だろう。
男は、明け方、昨晩セックスした女の寝顔を見ながら、過去の恋人のことを「君」として思っているのである。だから、過去の恋人である「君」ともう心も別れなくていけないから、さよならをするために、微笑みも悲しみも「君」にあげるというのだ。
で、この悲しみこそが、恋の価値であった。痛みこそ愛だった。それを与えるための自罰的な幻想が、雨に濡れる心象なのだろうが、それで踏ん切りがつくわけもなく、男は過去の女のことを思っている。
で、と。
そう解釈すると、二番がうまく続かない。
昇る朝日のように今は君と歩く
白い扉を閉めてやさしい夜を招き
「君」と今歩いて明るい人生を歩んでいるなら、「君」が過去の恋人のわけねーだろ、こらぁ、である。
ただ、ここで「やさしい夜を招き」というのは、一番のほうの、 "Post coitum omne animal triste est."に繋がるので、この「君」は今眠る、今の女なのかもしれない。ただ、そうすると、「君」という標識をここで切り替えるだけの、大きな詩的力学を必要とする。
それが、ないわけではないのは、二番は途中こう、支離滅裂になるからだ。
今のあなたにきっとわかるはずはないの
風に残した過去の冷めた愛の言葉
ここでとつぜん「あなた」が出てくる。これは先の「君」の時代背景と同様に、女が男を指していると解釈するのが自然なので、この独白は、女のそれになっている。
この女は誰か?
一番で、寝ていた今の女か。そうかもしれない。
ただ、詩の力学的な構成からすると、かなりここでたわんでいるとしても、悲しみをあげるとした「君」の女ではないかと思う。対称的な構成が想定されるからだ。
二番にも、一番と同じ、「濡れることを夢にみるよ」のリフレインが付く。まあ、形の上で付いているというのもあるが、詩の構成からすると、一番の男の悔恨に対して、二番は女の悔恨という対比を解釈するのが自然だろう。しかし、決定的な解釈に至らない。どう見ても、二番には支離滅裂な要素もある。
それでも二番のテーマは、別れた女の側の思いが主軸になっているのは確実で、女が過去に残した愛の言葉を、今、別の恋人といる男に、わかるはずはないとつぶやいている。
「冷めた愛の言葉」を、別れた男に向けて、わかれよ、ごらぁと、女は遠く思っている。
ここで解釈が難儀なのは、過去に語った愛の言葉が、その時、すでに冷めていたのか。「あのときすでに愛してはいなかったのよ、馬鹿ね」と。まあ、しかしであれば今の未練はないだろうから、あの時の愛の言葉は真実で、ただ時がそれを冷ましただけと解していいだろう。
であれば、女は「私こそあなたを愛していたのに、それを今のあなたはわからない」ということで、いずれわかるかもしれないという含みがあり、これは、女の呪いというものだろう。「いずれ、今の女と破局したとき、私の愛がわかるわ」ということだ。
昭和だな。
まあ、以上の解釈は全然外れているかもしれない。ただ、恋愛って、そーゆーところはあるし、そーゆーところがなあ。
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コメント
赤い鳥が唄う「目覚めた時には晴れていた」は、当時オープンリールテープにTVから録音しましたが、今やどこにいったか不明、オープンリールテープレコーダーも無いし、オリジナル音源のCD化を願っています。
「さよならをするために」は有名ですが同じNTVドラマ枠で数年後に放送された「さよならこんにちは」のテーマ曲で「まがじん」が唄う「愛の伝説」も同じく坂田晃一さんの曲です。
http://www.youtube.com/watch?v=pdqvtxbhZ1c
ちなみに「さよなら・・」と「愛の伝説」は同じコード進行だったと思います。
どれも良い曲ですね。
投稿: platycerus | 2011.03.06 13:38
>ここでとつぜん「あなた」が出てくる。これは先の「君」の時代背景と同様に、男が女を指していると解釈するのが自然なので、この独白は、女のそれになっている。
↑「男が女を指している」ではなくて、「女が男を指している」ですよね?
投稿: Tammy | 2011.03.06 16:01
Tammyさん、ご指摘ありがとうございます。誤記でした。修正しました。
投稿: finalvent | 2011.03.06 18:57