陳さんの雪菜肉絲麺
田舎と場末には法則がある。田舎を統べる法則は簡単なようで難しい。探ろうとした男は消えた。女は突然老いた。なぜか、それはわからない。比べて場末の法則は難しくない。擦り切れた中年男の巣箱であるか、三流大学に至る脇道か、子供を叱りつけるしかない女の日常くらいなもの。その中華料理屋もきちんとした場末にあった。
遅れた昼休み。ドン・キホーテで髭剃りを買い、そのまま場末の臭いに誘われてふらふらとその店に入る。客はいないが残る煙草の臭いを少しでも避けようと窓際に座り、向いの質屋のショーウインドーをぼんやりと見ていると、黒装束で細身の、こけしのような女がグラスの水を運び、何にしますかと言う。ふと我に返る。女に見とれていたのだった。
慌ててメニューを見ると筆書きの中華料理の名前が並んでいる。目に付いたのは、雪菜肉絲麺。セッツァイ・ルースーミェンと読むのだろうか。青椒肉絲がチンジャオロースなら「ゆきなロースめん」でもよかろうかと、ちらと女の顔を見るが洒落を受け入れそうな雰囲気はない。これにしますと指さすと、彼女は「田舎そばですね」と言う。田舎? 誰の田舎。よくわからないが、それでいい。
女が厨房に消えると元気のいい中国語の声が響く。テノールとバリトン。男は二人。菜包丁と中華鍋と炎の音が独特のリズムを立てる。マジだ。場末の神様。
女が運んできた麺は見事なものだった。麺の上にみじん切りの高菜が覆う。それにのっているのは、挽肉かと見えるが、ていねいに叩き炒めた豚肉。ちりばめられた赤いクコの実と象牙色の松の実。
スープを吸う。普通。だが高菜の酸味は控えめに生きている。麺を食う。普通。だが薄いとろみがよく絡まる。具を麺に絡ませながら食うと、しゃりっとくる。山芋である。小ぶりに短冊切りにした生の山芋。さらに、かしょっとくる食感は蓮の実。奥歯で噛みしめると、どこか懐かしい香り。蓮の実はなんども食ったが旨いと思ったことはないのに。そして、ヴィヴァルディの小品のような食感と香りが続く。その田舎とはシエナ郊外か。
食い終わり、女のいるレジの前に立ち、あれはどんな人が作るんだろう厨房を覗くと、角刈りで背の低いプロレスラーのような男がいる。太い腕。バリトンの陳さん、見事だな。なんとなくそういう名前の気がしただけだが。
数日して昼過ぎ私はまたその場末の町に向かう。ドン・キホーテを素通りして店内に入る。煙草を吸っている中年男がいる。かまわない。女は私を覚えているふうはない。雪菜肉絲麺は、完璧。
三度、幸福は訪れない。厨房の音が不吉で、出てきたものは一目見て違っていた。無残。麺の上にぼんやり濁った、挽肉と高菜のとろみのようなものがかかっている。
手を付ける前に「あの」と痩身の女に声をかける。「これなんですか」と言ってから自分が何を言いたいのかわからず、困惑し沈黙する。女も不審げな顔色をする。間抜けなことに私は「クコがありませんね」と言う。女はなんのことかわからず、クコですかと問い返す。赤い実のと私は答えるが、本当はそんなことが言いたかったのではない。この麺は全然違うだろ。しかしそうは言えなかった。
女は小皿にクコの実を入れてもってくる。ご自分でトッピングというのだ。ありがとう。愛した女に失望を伝えないように反射的に言う言葉。
数口食べて諦める。呆然と外を見ると、質屋の前を水商売風の女がショーウインドーを覗いている。君も諦めな。レジに行ってカネを払うとき、厨房を覗くと陳さんはない。痩せたテノール君が一人。私を不審に思ったか、女も少し困惑した表情をしている。いつも料理の人はと聞くと、彼は夜の番になりましたと答える。陳さんのことだとすぐにわかっている。
そういうことかと聞きながら、私はふとその女と陳さんの関係を妄想する。あの太い腕にこの細身は合わないだろうが、いやこういう女はまたそれなりに情もあるものだ。いやはや。
陳さんの一品を求めて夕食を食いに行ったことはない。いや、一度夜、店の前まで来た。中は煙草と酔漢が、たぶん陳さんの美食を堪能している。その天国は私のものではないと引き返し、日高屋のラーメンを食った。
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コメント
日本では、カップラーメンが味を競わなくなって久しい。
ラーメンも、味自慢の店なんて本当はいくつあるのか。
あんまり舌が肥えてしまわないように、私はいつもの店で食べることにする。
投稿: enneagram | 2011.02.11 14:57
なるほど、料理人によって味が変わる、と書かれていたころの出来事ですね。以外と日高屋そのものだったりして。
投稿: richmond | 2011.02.11 20:22