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2011.01.02

[書評]いまこそルソーを読み直す(仲正昌樹)

 ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)については、翻訳だが私もそれなりに主要原典を読んできた。カントのように「エミール」(参照上巻参照中巻参照下巻)には一種の衝撃も受けた。これは難しい書物ではない。先入観なしに誰でも読むことができる。長編の割に読みやすく、おそらく読んだ人誰もが人生観に影響を受けるだろう。特に娘をもった父親には影響が大だろう。他、「告白」(参照上巻参照中巻参照下巻)は、ツイッターで元夫の不倫をばらすような近代人の猥雑さが堪能できる奇書でもある。
 そして、と紹介していくのもなんだが、私はこうしたルソー本人への関心と、政治哲学の基礎文献でもある「人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)」(参照)や「社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)」(参照)などの理解とは旨く像が結びつかない。前者の人文学者としてのルソーへの共感と、後者の法学や市民社会の基礎哲学の理解とは一応分けてはいるものの、当然ながら、ルソーという一人の人間の思想として見るなら矛盾してしまう。おそらくこれらを無理に併置し統合させようとして読むなら思想的な混乱に至るだろう。

cover
今こそルソーを読み直す
仲正昌樹
 仲正昌樹「今こそルソーを読み直す (生活人新書333)」はまさにその矛盾をそのまま受容しつつ、人文学者的なルソー観よりも、法学や市民社会の基礎哲学者としてのルソーを現代的な文脈で描き出している。
 その筆致が成功しているかというと微妙なところだ。本書は仲正氏の他書のような明晰性はそれほどには際立ってはいない。逆に意外なほど仲正氏という思索者の内面を結果的に照らし出しているようにも読める。巧妙にルソーの罠を避けながらそこに落ちたとも読める。が、それも意図的な結果でもあるのかもしれない。
 現代日本の政治思想の文脈でいえば、本書は、ロールズ、アーレント、デリダというあたりで再考されるルソー像の整理になっているので、こうした文脈、さらにいえば、「一般意志」という概念の再考を考える人にとっては面白い本だとは言えるし、そこが本書の売りとも言えるだろう。
 しかし私はといえば、現代日本の思想界とかには関心なく、依然日本国憲法とは何なのかという問題に固執しており、その原理性としてのルソーの政治哲学の整理に役立った。僭越なこと言うと、著者仲正氏はルソーの哲学が日本国憲法と深く関連しているという認識はそれほどないか、本書では秘されているか、あるいは日本国憲法そのものをただの形骸と見ているか、いずれにせよ日本国憲法とルソー思想の関連という観点は重視されていない。
 「一般意志」という文脈で今日提出されているルソー的な問題は、しかしながら、いたって簡単な形をしていて、本書も明確に描き出している。以下、引用部分の太字は本書のまま。

言い換えれば、私個人の自由を重視する「自由主義」と、私たち全員参加で決めることを原則とする「民主主義」がどのように理論的に結合しえるか、という問題だ。

 単純であり、かつ難問である。これに対してルソーの答えはこうである。

ルソーは、「社会契約」という最初の合意で定められた規約に従って成立する”私たちみんなの意志”としての「一般意志」という概念を導入することで、個人の自立と集団的自己統治、自由主義と民主主義を融合しようとしたわけである。

 そのソリューション案である「一般意志」とは何かが問われる。
 ということだが、補足すると問われているというのはあくまで形式的ないし議論上の手続きであって、日本国憲法についてはすでにそのような社会契約の一例であり、すでにそのような一般意志が日本に存在するということが、現実の日本という国の前提なのである。
 では、一般意志(volonté générale)とは何か。ルソーはどのように考えているか。
 ルソー自身がそれを明確にするための対比として持ち出したのが全体意志(volonté de tous)である。
 全体意志は、個人や、政党などの党派による各種の利害達成を目論む特殊意志(volonté particulière)の総和のことである。
 これに対して一般意志は、社会契約説に基づき、「常に公正で、公共の利益を目指す」ものである。
 実際のところ総和である全体意志は、その内部に利害の矛盾を含むので一つの意志としては機能しづらいし、整合性のある政策も導出できなければ、行政の主体ともなりづらい。しいて統一性を求めるなら党派で権力闘争するか、多数決で押し切るしかない。
 これに対して一般意志はどのように成立するのか。

 一般意志は、私的利害間の機械的な算術から生まれてくるのではなく、「熟慮=討議déliberation」を経て見出された「共通の利害」を基点として構成されるのである。逆にいうと、十分な熟慮を経ていないがゆえに、共通の利害がはっきりした形で見出されていなかったら、完全な一般意志は創出されれず、人民の決議は誤ることになる。

 いうまでもなく、この「熟慮=討議déliberation」は情報技術といったものによって効率化されたり改善されるものではない(情報技術そのものに一般意志化する傾向があるとしても)。

 人民の討議に際して重要なのは、人民の中に、「部分的社会」とも言うべき「徒党」や「分的結社」が形成されていないことである。

 日本の現状想起するとこの点でいかに民主党がルソー的な民主主義から逸脱していることがわかる。鳩山政権における強行採決の連発も顕著だったが、特に小沢氏の政治理念・実践はルソー的な民主主義の対極にあることが政権を取らせてから暴露された。「国民の生活が大切」と言いつつ、実際の政権を得たときには特定党派の利益を優先しようとした(あるいは一般意志を偽装した)。議会よりも党を上位に立てようとしたのである。これはどちらかというと民主憲法をもたない中国共産党の政治モデルである。
 民主党がいかにルソー的な民主主義から逸脱しているといっても、そもそも民主主義がイコール、ルソーの一般意志論とは言い難いという非難もあるかもしれない。だが、おそらくそれは無効だろう。日本国憲法自体がルソーの一般意志論を基点を共有しているからだ。
 それでもルソーの一般意志論自体には難点があり、ルソーも意識している。社会契約といっても、その基点が明瞭ではないことだ。

 人為的に新しい国家・人民を作り上げるチャンスが与えられたとしても、いかなる強制も偽りも含まない、純粋な「始まり」の瞬間を獲得することはほぼ不可能だ。

 ルソーはそこで、人民の合意を根拠として国家の存在と法に基づく統治の正統性について、擬似的な宗教である市民宗教(la religion civile)を想定する。これは強いていえば国家とは宗教であるということだ。
 このルソーの市民宗教については仲正氏はアイロニーの可能性を見ている。

ルソー自身が「神々」を召還しようとしたというよりも、さまざまな外観を帯びた「神々」の助けがなければ、正統性を主張できない近代的な「政治」の矛盾をアイロニカルに表現してみせただけかもしれない。

 ここが思想の岐路である。
 アーレントはおそらくここにアイロニーを読んでいない。またアイロニーと読む仲正氏は、一般意志を法人としての人格として読みながらも、実際には機能的な理解を示している。

 しかしながら、「共同的自我」や「公的人格」を、形而上学的な実体ではなく、あくまでも「人民」というフィクションを機能させるための形式的な条件のようなものだと見なせば、一般意志論にそうした全体主義的なニュアンスを読み込む必要はなくなる。私(=仲正)は、そう理解すべきだと考えている。

 私はそう考えていない。
 私はルソーの政治哲学には根幹的な矛盾があると考えている。国家の公的人格性はその矛盾の必然的な帰結であろう。
 簡単に言えば、一般意志は国家の共同体幻想として、むしろ国民に対しては実体的に先行して存在する。私たちはまず日本国民として生まれ、そこで社会契約の恩恵を先行して強制的に授かる。市民は、それが疎外した幻想体である国家幻想と同時に誕生する。
 この疎外された共同幻想の問題がルソーの政治哲学に胚胎していることは、本書の仲正氏もにも直感されている。

 ルソーの思考のユニークさは、内面とは異なる「外観」にすぎないはずのものが、我々の習俗の中にしっかりと定着し、人々の振るまいを―少なくとも表面的には―画一化させ、「社会」を構成している、という発想にある。

 国家の共同幻想の疎外性と先行性からルソー思想の持つ本質的な危険性も明確になる。それはルソーが一般意志の成立に対して、人間の基本性の全的な譲渡を言い出す点にある。一般意志が徹底した討議を経るとしても、最終的にそれは何によって保証されるのか。

 そこでルソーは、「各構成員をその全ての権利とともに、共同体の全体に対して、全面的に譲渡する」ことにしたらどうか、と提案する。各人が自己保存のために、(自然状態で持っている)権利を共同体に譲渡するというだけの議論であれば、ホッブスの社会契約論と大差はない。しかし、それはルソーの議論ではない。彼は、構成員となる人は、権利だけではなく、自分自身をも譲渡すべきだと主張する。


(前略)ルソーは、特定の誰かにではなく、共同体全体に対して譲渡すべきだと主張する。しかも、全員がそうべきだとと主張する。

 仲正氏はアーレントによるルソー論を熟知していながら、あるいはそれゆえにか、この問題については、一般的な全体主義への危険性の文脈としてしか議論していない。
 リバタリアンである私にとっては、ここが思想の急所である。私はこの問題は、死刑根拠の偽装であると考えている。死刑を所有している国家はそれ自体が、市民が自身を全的にすでに譲渡した結果ではないかと考えるからだ。
 共同幻想の成立がルソー的な自然論からは倒錯した手順になるように、死刑においても手順は逆にならざるをえない。死刑の是認として市民の全的な譲渡が先行しているのである。
 ただし日本国憲法について言えば、形式的にはルソー的な譲渡はなく、ホッブス的な信託となっており、一般意志を体現したものも国家そのもではなく、政府として切り分けられている。日本国民は実質的な革命権を保有しており、敗戦とはその行使であったというフィクションから日本国憲法が成立しているからだ。
 その意味では(一般意志への全的な譲渡が日本国憲法では形式的に存在しないため)、日本国はルソー的な民主主義そのものではない。だが死刑を内在している限り、そこにこっそりと市民の全的な譲渡を求める一般意志も内在してもいる。
 しかもその根拠性である共同幻想の宗教性は第一条の天皇によって象徴されている。
 ここに日本の逆説もある。
 ホッブスやルソーのような社会契約的な理路の性格の弱い共同幻想としての日本国家、あるいは天皇による市民宗教という擬制が、現実的には日本がルソー的な思想の帰結としての全体主義に陥ることを防いできた。日本の戦争は全体主義の結果ではなく、一般意志を失った党派のカタストロフであり、ゆえに市民宗教としての天皇が最終的に機能することで敗戦が可能になった。
 さらに戦後の日本は、その擬制的な矛盾が、内在において強固な伝統宗教的な社会と実質的にはそれに準じる規範を持ちつつ、憲法上はルソー的な民主主義(死刑を内在した国家)とホッブス・ロック的な民主主義(政府は信託でしかない)を掲げている矛盾と調和してきた。つまり、日本人は誰も共同幻想の意味合いでは、憲法を空文としてしか理解していない。
 むしろこのように矛盾した伝統宗教的な社会である日本に対して、それを全体主義として敵視する人々が信奉してきた社会主義・共産主義、あるいは共和制度のほうが、独裁と全体主義を導いてきた。
 では、日本国はこの矛盾のままでよいのか。あるいは、ホッブやロック的な英米的な民主主義に純化させるか。それとも、ルソー思想的であるがゆえに危険な民主主義をより安全な民主主義として救出するか。
 ルソー思想的な民主主義を選ぶのであれば、多少の現実的な矛盾を抱えつつも、徹底的な討議の可能性を持つ煩瑣な意志決定の仕組みと、それが公的な分野に限定されるべきだとして市民が私的領域を確固として守る健全なリバタリニズムが必要になるだろう。
 そしてそれには、靖国や天皇を問うといった問題化が公を偽装して私的な領域に踏み込むような形で政治性を持たせようとする思考も廃棄すべきだということも含まれる。


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コメント

ルソーも良いけど、ソローこそ読むべきかと最近思っています。
「森の生活」は、
豊かさを享受した日本人が、最も必要としている本ではないでしょうか?

投稿: eaglei | 2011.01.02 21:32

フランス革命を起こしたルソー主義者たちが、太陰暦の使用を禁じ、日本もその影響で尺貫法が違法になったんです。

ルソーの仲間の理性主義者たちというのは、自然科学について中途半端な理解しかない、困った連中です。あの呉智英先生でさえ、マルクス主義革命失敗のあとに、ルソー主義に回帰することはしませんでした。もっとも、呉先生の「封建主義」は、思想といえた代物ではありませんが。呉先生には、儒教より、中国朝鮮の華厳仏教を勉強してほしいと思います。

投稿: enneagram | 2011.01.03 07:41

中々知性的だと思つて居たのですが、何だかルソーもヘーゲルも理解しないやうなお話しですね。
ルソーは人間は自らをhommeかcitoyenであるかを最初に決定すべきてであるといふのであり。
ジュネーヴの市民たるルソーや古代以来の自治的市民社会を受入れてゐた国々ではスミス=ヘーゲルの私的なものと公的なもの、社会と国家、civil societyとpolitical stateの区別を混同する懼れはないのです - それを混同する者を俗物SpiessBuergerと名づけるのがヘーゲルです。
日本人の言ふことは、概念の理解も実態の経験もない処に架空の概念を植ゑつけるところにあり、これでは世界の仲間入りできないはずです。
明治以前の共同体には自治の伝統がありそれが例へば田中正造の確信でした。

投稿: | 2011.01.03 16:51

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