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2011.01.30

米国はエジプトをどう見ていたか、なぜ失政したのか

 エジプトの暴動を反米のスジで読みたい人がいても別段かまわないが、あまりに予想通りの筋書きを目にすると萎えてくるものだ。背景を少し補足しておいたほうがよいのかもしれない。
 今回のエジプトの暴動は時系列的にはチュニジアの暴動の飛び火と見るしかないが、エジプトでいずれ問題が起きることは予見されていた。問題はすでに昨年の時点にあったからだ。
 この手の問題に敏感なワシントンポストは昨年11月5日の社説「Egypt's Mr. Mubarak moves to lawless repression」(参照)でエジプトの問題をこう描写していた。


Now, with a parliamentary election approaching, the regime's political repression has grown more rather than less severe. Hundreds of political activists from the banned Muslim Brotherhood party have been arrested; critical television talk shows and newspaper columns have been canceled; student leaders have been rounded up. In a number of recent cases, peaceful political activists, including those supporting secular democratic movements, have been "disappeared": abducted and held for days by the secret police and sometimes beaten or tortured, before being released on roads outside Cairo.

現在、議会選挙が近づくにつれ、政権による弾圧は強化され緩和されていない。非合法とされるムスリム同胞団の活動家は何百人も逮捕され、批判的なテレビ番組や新聞寄稿は中止され、学生指導者は一斉検挙されてきた。最近の事例では、世俗的な民主制を支持する平和主義的な活動家も「失踪」している。秘密警察に拉致・拘束され、鞭打ちや拷問もともない、カイロ路上に放置される。


 そういう状態。それを米国はどう見ているかというと。

Fortunately there are signs that the White House is at last waking up to its Egypt problem. This week a number of senior officials met with an ad hoc group of foreign policy experts who have been trying to call attention to the need for a change in U.S. policy. Some good ideas were discussed, such as a strong presidential statement about the conduct of the elections or the dispatch of a special envoy to Cairo. A new U.S. ambassador committed to political change, rather than apologizing for the regime, would help. What's most important is to make clear to Mr. Mubarak that the administration expects some immediate, even if incremental, changes. An end to the beating and abduction of peaceful activists would be a good place to start.

幸いにしてホワイトハウスもついにエジプト問題を察知した兆候がある。今週、複数の政府高官が、米国政策に変化を求める外交専門家の臨時グループに面談した。エジプト選挙について大統領が強い声明を出すとか、カイロに向けて特使を派遣するなど有益な議論がなされた。現エジプト政権を弁護するより変革を求める米国の新大使も有益だろう。ムバラク氏に対して、前進が多少であれ即効性のある変化を米国政府は期待している。それを明確にするのがもっとも重要である。平和な活動家に対する鞭打ちと拉致を終結させることは、平和へのよい一歩になるだろう。


 ということで、年末時点で米国はエジプト政権問題にかなり懸念を抱いていた。
 さらに放置すればどうなると予想されていたか。

This slide by Egypt toward the police-state methods usually associated with Syria or Sudan is a problem for the United States as well as for Egyptians. Mr. Mubarak is 82 and ailing; by rejecting political liberalization and choosing deeper repression, he is paving the way for even worse developments once he dies and the struggle to succeed him begins. Mr. Mubarak's successors will need to acquire political legitimacy; if they cannnot do so through democracy they probably will resort to nationalism and anti-Americanism.

シリアやスーダンで日常見られる警察国家主義にエジプトが移行していることは米国にとってもエジプト国民にとっても問題である。82歳で患うムバラク氏は、政治的自由を拒絶し、さらなる弾圧を選択することで、彼の死後のさらなる悪化と後継者紛糾への道を敷いている。ムバラク氏の後継者は政治の正統性を必要とするが、彼らがそのために民主制を経ることに失敗すれば、おそらく、ナショナリズムと反米国主義を頼みとするだろう。


 結論からいえば、エジプトにとって喫緊の課題はムバラク氏の後継者問題であり、ムバラク氏自身は息子への継承を想定していたのだろうが、それでは政治的正統性を得られない。政治的正統性がなければ軍もまた正統性を失いかねないことを恐れて、軍が先に手を打ったのが今回の事態であり、ムバラク氏とその息子を屠って国民から喝采が得られれば、正統性の代替となる。クーデター政権の常套でもある。
 それはそれとして、ワシントンポストの昨年時点の主張で興味深いのは、こうしたエジプトの混乱からの出口に、ナショナリズムと反米主義が想定されていたことだ。
 反米主義は、エジプトにも似た状況から経済大国となった日本にもいまだ残滓のある傾向で、しかも若い世代にも見られる。例えば、ブロガーのちきりん氏は「アラブの政変で負けようとしているのは誰なのか?」(参照)というエントリーではてな界隈で人気を博している(参照)が、こう述べている。

ムバラク大統領など親欧米政権は、「イスラエルに刃向かわない」「欧米と敵対するイラクやイランと仲良くしない」などの欧米からの要請をすべてのみ、素直に従ってきました。イラクやイランを攻撃するための米軍の駐留さえ許してきました。だから欧米は、この独裁政権を支持してきていたのです。

一言で言えば、ムバラク政権を支持していたのは、エジプト国民ではなく“アメリカの政権”でした。今、デモによって打ち砕かれようとしているのは、その“米国政府の意思”なのです。


 確かに過去においてはそうだったし、なぜそうだったかについては後でも触れたいが、現状のエジプト暴動を「米政府の意思」への反抗と見ることはまさにワシントンポスト紙が昨年懸念した事態であった。
 この問題を複雑にしたのは、端的に言えば、米国民主党政権の、結果的な失政にあった。
 ワシントンポスト紙は同月の11日に追加の社説「Clinton's silence on Egyptian democracy」(参照)を出した。まず、米議会がエジプト政権に懸念を示していることが明記されている。

SENIOR OBAMA administration officials profess to share congressional concerns about recent political developments in Egypt. With a parliamentary election due Nov. 28, 82-year-old President Hosni Mubarak has launched a crackdown against his opposition and independent media; he also has rejected a direct appeal from President Obama to allow international observers at the polls.

オバマ政府高官は、最近のエジプトの政治状況の展開について、議会の懸念を共有すると公言している。11月28日に予定されている議会選挙に向け、82歳のホスニ・ムバラク大統領は反対者と独立系メディアの取り締まりに乗り出した。彼はまた、投票に際して国際的な監視団の認可を求めるオバマ米大統領からの直接的な訴えを拒絶した。


 「米国政府の意思」がムバラク政権に反映しているなら、この点が重視されるべきだった。しかし、そうではなかった。
 また、その先の一押しを米民主党政権はしなかった。表題の「Clinton's silence(クリントンの沈黙)」はその意味である。結果からすれば、米民主党政権の失政が今回のエジプト暴動を招いたとも言える。
 では、米民主党政権がエジプト政権の問題を理解しつつ、今ひとつ押しが足りなかったのはなぜだろうか?
 一つには、オバマ政権の取る柔軟な外交政策がある。特にこの時期、米国はスーダン南部独立投票問題を控えていて、アフリカやイスラムについて刺激的な行動に出たくなかったということがある。
 もう一つは、明確にはされていないのだが、イスラエルとサウジアラビアへの配慮があっただろう。
 この背景についてウィキリークスで明確になった点がある。そう言えば先のちきりん氏のエントリではこうウィキリークスについて言及があった。

欧米諸国はこれに先立ち、wikileaksの挑戦も受けています。彼らが明らかにしようとしているのは「大量破壊兵器がある」という眉唾な情報に基づいて、石油のために世界中からイラクに軍隊を派遣するような先進国の“帝国主義的・覇権主義的な横暴”の舞台裏です。

欧米は、アラブを始めとする世界諸国において、「欧米に従順な政権であれば、独裁政権でも支持」し、「欧米に刃向かう政権であれば、いちゃもんをつけて爆弾を落とす」という態度を貫いてきました。


 「石油のために世界中からイラクに軍隊を派遣する」といっても米国の石油は南米に依存しているので誰のための石油かというと、これはコモディティのためとしかいえない。このあたり、少し経済を学んだ人間ならわかることでもあり、ネタで筆が滑っているのだろう。しかし、ウィキリークスへの「挑戦」は違う印象がある。
 おそらく、ちきりん氏はウィキリークスをバランスよく見ていないのだろう。ウィキリークス公電は、今回のエジプト暴動の背景となる政治情勢をこう暴露していた。原文は「Viewing cable 08CAIRO1067, CODEL BAIRD MEETS WITH EGYPTIAN LEADERS ON MARGINS」(参照)にある。

¶3. (C) Asked about Egypt's reaction if Iran developed nuclear weapons capability, Mubarak said that none will accept a nuclear Iran, "we are all terrified." Mubarak said that when he spoke with former Iranian President Khatami he told him to tell current President Ahmedinejad "not to provoke the Americans" on the nuclear issue so that the U.S. is not
forced to strike. Mubarak said that Egypt might be forced to begin its own nuclear weapons program if Iran succeeds in those efforts.

イランが核兵器の可能性を発展させたかどうかと、エジプトの反応について尋ねられ、ムバラクは、核化のイランは受け入れない、「我々はみな恐怖している」と述べた。ムバラクは、イランのハタミ前大統領と話したとき、米国は空爆せざるをえなくなるから、アフマディネジャード現大統領は核問題の件で米国を刺激するなと語った。ムバラクは、イランが核化の努力を達成するなら、エジプトも自国での核兵器プログラムを開始することを強制されるかもしれないと語った。


 イスラム圏は一つのまとまりをなしているわけではない。まとまるためには反米イデオロギーのような憎悪対象が必要になりかねないことくらい、知識人ならわかりそうなものだが、この構図を日本人もうまく払拭できない。
 現実はといえば、エジプトはイランの核化を恐れているし、米国による核施設空爆があるとすれば、かつてイスラエルがイラクにした空爆を代替するためで、つまりはイスラエルを配慮してのことになる。ムバラク大統領はそれなりにイスラエル問題の混迷も避けたいとしていたとともに、核化の野望を米国にちらつかせることもしていた。
 ウィキリークス公電ではサウジアラビアのアブドラ国王談話も暴露されたが、イランが核兵器開発に成功すれば、サウジを含めた中東各国が同様の行動を取るだろうと述べ、さらにはイラン空爆を米国に求めていた(参照)。
 イラン空爆はブッシュ政権が巧妙に回避したものだったが、背景ではそれを容認し推進するアブドラ国王の思いがあった。
 そしてここが難しいところでもあるが、アブドラ国王は「米国の意思」を代弁しているのではなく、イスラムの思いとメッカを守る盟主として思想を体現しているのである。日本ではなぜかあまり知られていないが、フォーブス「世界で最も影響力のある人物」の第三位はアブドラ国王である(参照)。
 米国としては、エジプトの核化を避けるためにも、イランの核化を阻止しなければならないし、イスラエルにしてみれば、イランの核化もエジプトの核化も脅威である。しかしイスラエルとしては隣接するガザの問題も抱え、表面的にであれ協調体制をそれなり取るムバラク政権のエジプトを刺激したくはない。
 イスラエル政権寄りの米国民主党政権は、そうしたイスラエルを配慮して、むしろムバラク政権の維持に傾いているが、それがちきりん氏のいうような「米国の意思」とは言い難い。
 米国が悪の帝国なら世界は単純で済むだろうし、悪の帝国に、中国なりロシアなり、あるいはどっかの国をあてはめて憎悪しみても、現実の理解にはならない。そして残念ながら私たちは現実の世界に生きているのである。


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2011.01.29

エジプト暴動は軍部のチキンゲーム

 チュニジアの暴動から飛び火したかに見えるエジプトの暴動だが、これはおそらく、民主化とはあまり関係のない軍部のチキンゲームだろうし、緩和なクーデターと言ってもよいだろう。
 エジプトの暴動で、近年の事態ですぐに連想されるのは、2008年のそれである。食糧高騰によって政府公営販売所の食品販売価格と市場価格の乖離が起こり、民衆が公営販売所に殺到して、暴動となった。死者は10人以上も出た。
 同年はムバラク大統領が80歳になる記念の年でもあり、とりあえずの反体制派が中心となり、大統領の誕生日にストライキを計画した。このおりも、インターネットが活用されものだった。もっともエジプトでは強権政治が続き、かつチュニジアのように中産階級が厚くないことから、反政府勢力は運動の核とはなりえない。形の上では国際原子力機関(IAEA)事務局長エルバラダイ氏が帰国し民主化を語ったが、当面の動向として彼の支持層はないに等しい。
 また、当初エジプト内務省は暴動の当てこすりもあってだろうが、昨年11月の総選挙で政権と対立したムスリム同胞団に非難の矢を向けたが、ガーディアンが指摘するように「非合法」の同集団は初期段階では主要な役割はしていなかった(参照)。その後の関わりは報じられているが、原理主義への誤解も目立つ。宗教的な連携から軍内部につながりが見えれば事態を変える可能性がないわけではないが、おそらく軍政規模による合理性が優るだろう。
 今回の事態も、基本的に3年前の暴動と本質的な違いはないかに見えるし、そう見れば、同じような結末を迎えるのではないかとも予想される。
 米国としてはすでにクリントン長官がすでにムバラク大統領を支持を表明し、彼が順当な対応を取っていると述べているが(参照)、米国はエジプトの不安定化を望んではない。おそらくイスラエルも表面上の対立とは裏腹にムバラク体制を支持していると思われる(参照)。
 背景として考えられるのは、暗黙裏に進む可能性のあるエジプトの核化の阻止に適切なダメージを与える程度で終わらせたいということだろう。また、アルカイダというとオサマ・ビンラディンがつい話題になるが、実動部隊を実質供給しているのはエジプトだとも言えるほど、エジプトの過激派勢力の潜在性は大きく、社会混乱は好ましいものではないというのも欧米の本音であろう。
 今回のエジプト暴動の特徴は、報道からはあまり見えてこないが、軍の指導性だろう。ムバラク大統領の独裁を象徴する息子ガマル・ムバラクの大統領世襲問題は国民から大きな反感を買い、すでにロンドンに逃亡している(参照)が、これはチュニジア大統領の亡命とは違い、もともとガマル氏の世襲を厭う軍部(参照)のシナリオだったと見てよい。さらに軍部としては、この秋に予定されている大統領選挙を早々に潰しておきたいということもあっただろう。フィナンシャルタイムズ社説「After Tunisia – the Egyptian challenge」(参照)がこう仄めかしているのがえぐい。


Egypt’s rulers must start planning now for an orderly succession to Mr Mubarak. The army may well see the need for it, and knows that even a pharaoh is ultimately the prisoner of his praetorians.

エジプト指導層は秩序だった、ムバラク氏継者選出計画を開始せねばならない。軍部もその必要性をよく理解していることだろうし、ファラオですら近衛兵の囚人となったことを知っている。


 しゃらっと物騒なことをフィナンシャルタイムズは言うものだなとも思うが、エジプトの軍部は米国からの支援金で実質成り立っているようなものなので、先のクリントン長官談話からしても、軍部と米国の手打ちは終了していることだろう。80歳を越え、健康に不安のあるムバラク大統領も呑んでいるに違いない。
 総じて見れば、今回のエジプトの暴動は民主化の高まりやツイッターなどの情報ツール革新がもたらしたものというより、新興国にありがちな軍部のクーデターを緩和に装ったものというくらいであろう。西側諸国としては、エルバラダイ氏を育ててエジプトの核化が阻止できればさらに御の字ということだが、とりあえずの仕込みで終わるのではないか。

追記
 後の資料にもなると思われるので、2月14日の時論公論 「"エジプト革命"の衝撃」(参照)を引用しておきたい。


そして、ムバラク氏に引導を渡し、その権限を引き継いだのは、エジプト軍の最高評議会、すなわち、タンタウイ国防相と陸・海・空軍のトップからなる最高意思決定政権ナンバー・ツーの副大統領ではなく、軍の最高評議会への大統領権限の移譲は、法律で定められたものではなく、いわば、超法規的な措置です。


まず、ムバラク氏によって副大統領に指名されていたスレイマン氏は、現在の肩書きがどうなっているかも不明で、次の大統領になる目はなくなったという見方が有力です。


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2011.01.28

菅さん、子ども手当を白紙にすることから始めたらどう

 昨日、一部だが菅首相の国会答弁を見た。生彩がなかった。小学校でイジメにあってしょげながらうつむいて教科書を音読している子供のような印象だった。過去の首相もそんなもんだといえばそうだが、菅さんの場合はさらにひどいのではないか。
 これも昨日だが、米格付け会社のスタンダード・アンド・プアーズが日本国債の長期格付けを引き下げた。失笑を買うようなことするなあ、S&P。日本国債の格付け下げても意味ないと思うが、さて、僕らの菅首相。官邸で記者団に答えるに、「そういうことに疎いので、(コメントは)改めてにさせてほしい」(参照)と。そうだろう、経済には疎そうだし、と思うが、2002年には公式サイトこう言っていたものだった(参照)。


2002年5月31日 00:00 :
 日本の国債に対するムーディーズの格付けが二段階下がった。景気回復が見込めず財政悪化に歯止めがかからないと見られた結果。日本の国債はほとんどが日本国内で消化されその多くは銀行が買っている。通常なら格付けが下がれば国債も下がるのだが銀行は資金運用先が国債以外に無いため、国債の価格が下がらないという奇妙なことになっている。外国に資金が流出し始めれば一挙に国債は暴落する恐れがある。能天気な総理や財務大臣には分かっているのだろうか。

 苦笑・失笑以前に、ひゅるるるぅっていうか、寒くもの悲しいごんぎつねみたいな感じがしてしまう。
 失言の部類ではないのかもしれないが、たちあがれ日本を離党した与謝野馨氏を経済財政担当相起用したことでも、「社会保障改革に高い見識と志を持っている方だ。責任者として内閣に三顧の礼を持ってお迎えした」というのだが、三顧の礼かよ。
 辞書を見るに、「真心から礼儀を尽くして、すぐれた人材を招くこと。また、目上の人が、ある人物を信任して手厚く迎えること。▽「顧」は訪ねる、訪れること」(参照)なので、そりゃ菅首相が目上だわな、くらいなものだが、この言葉は言うまでもなく三国志から。隠棲していた諸葛亮こと諸葛孔明を軍師に迎えるべく蜀の劉備が訪ねたが、孔明は身を隠して会えず、再訪しても会えず、ようやく三度目に会い、お迎えできたという話である。
 あー、与謝野さんの場合、違うんじゃないか。彼はうずうずしていて、北沢さんのお声を待って、ほいほい民主党にくっついたんでしょ。こういのを三顧の礼というのか。
 前振りはこのくらい。
 与謝野氏の経済財政担当相起用はどう考えてもおかしい。どう菅首相が繕うのか(参照)。

 ――比例に当選してその後離党した大江議員について、当時総理が「離党と共に辞職すべきだ」と発言しながらも、今回与謝野氏を起用したことに野党から批判が相次いでいますが、総理は「改革という大義において起用した」と答えました。具体的にあの時と今回の与謝野氏のケースとの違いは何か教えてください。
「私のなかでは、社会保障と税の一体化というのは、本当に、どなたが総理になっても、どなたが内閣を担当しても、ほんとに避けて通れない大きな課題ですから、そういうものを進めていくうえで、それに対する見識や志をもってのぞもうとしている、そういう存在が与謝野さんだと思ったんです。そういう意味は大きい。そういうことです」

 政治家なら普通、国政の志は持つものだが、問題はどういう志を持つかということ。そしてそれを政党である民主党は掲げてやってきたはずなのだが。毎日新聞「菅首相:年金改革「白紙で議論」 代表質問で」(参照)より。

 菅直人首相は27日の衆院代表質問で、年金制度改革に関し「ある意味で白紙の中で、あらゆる提案を議論の場に載せて検討したい」と述べ、民主党案にこだわらない考えを示した。

 菅首相が「ある意味で」と言い出したら、どういうことになるかについては、以前、「菅新首相会見から、「ある意味」を抜き出してみた: 極東ブログ」(参照)に書いたが、ようするに「なにをおっしゃっているのかわかりません」ウサギになってしまう。
 民主党は、政権取ったら、年金制度改革は白紙にするということなのだろうか。
 考えてみれば、後期高齢者医療制度も実質、麻生政権のまま引き継いだ。高速道路無料化はお笑いとなった。八ッ場ダムについてはもう触れないのではないか。高校無料化ってなんかメリットがあったのか、以前から補助厚かったのに。
 挙げ句の果ては環太平洋経済連携協定(TPP)推進を言い出した。菅さん、どこまで自滅が好きなんだろう。TPPにはメリットとデメリットがあり、メリットを得るにはデメリットへの対応の合意ができてからでないと無理に決まっている。
 ここまでなにもかも白紙にするなら、もう一番変てこな政策となってしまった子ども手当を廃止にすることから始めたらよいのでないか。
 こういうとなんだが、私は、民主党の子ども手当という政策自体は悪いものではないと思う。ネーミングが変で、どうやら民主党員も結局理解してなかったようだが、あのウルトラ頭脳の鳩山さんは理解していた。これは、出生率を増やすとか、子供の成育環境をどうたらというのではなく、高齢者層を中心に所得移転を強制的に行うということだ。未就労の子供に所得を与えると理解してもいい。
 だからと言うべきなのだが、子ども手当は規模がでかくなくては意味がないし、必然的に税制も根本的に変革する必要があった。所得移転なんだから当然高齢者層を中心に増税となる。国民からカネをむしり取って再配分するということだ。
 だが、これはもう民主党政権の最初から頓挫。地方自治の児童手当を食うに至っては本末転倒。そして、残るは増税だけ。与謝野さんに至っては、子ども手当も消費税でというお考えのもよう(参照)。
 このまま民主党がつっ走れば、ただ増税だけが残り、所得再配分にはならない。日本経済の宿痾は高齢者がカネを溜め込んでいることなのに。そしてそれをじっくり時限爆弾になるように温めている。
 菅首相、すでに形骸化してしまった子ども手当をやめるべきでしょう。
 実際、できるわけもないのだし。与野党の合意というなら、まずそこを土俵にしていけばいいのではないか。

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2011.01.25

1リットルジュースを購入する際に「ストローはお使いなりますか」と聞かれる問題について

 世の中はそれと気づかぬ間に変わっていくものだ。白髪頭とか禿頭のように人生の半ばにじわじわと押し寄せる変化ではない。ふと小石につまづくようなもの。ありゃと思った刹那、蒼天がかすかに揺らぐ。おっとっとと六方を踏む。初めてじゃない。先日もちょっと、けっつまづいたっけ。そんな感じ。最初はさして気にも留めない。
 看板のように妙に大きな月が浮かんでいる夕刻、コンビニでいつのも買い物をしたとき、たぶん新しいアルバイトなのだ、その少女が内気そうにうつむいて、「ストローはお使いなりますか」と僕にきいたときも、さして気に留めなかった。それが1リットルジュースに適用されるものであるなんて思いもよらなかったからだ。若い日に告げられた愛に気づかなかったように。
 二度目には、はてと思った。三度目には、はてなと思った。それはもしかして、1リットルジュースに使うストローということなのだろうか。

cover
新訳チェーホフ短篇集
 チェーホフの短編の牡蠣の話に出てくる少年のようにありったけの想像力を振り絞って、1リットルジュースにストローを挿した光景を思い浮かべる。いったい、この立体のどこにストローの穴があるのかと暗い寝具のなかでそれを探すような困難さを乗り越えて、想像する。一度想像さえすれば、セザンヌの静物画のような色合いになる。
 だが、それは空間に浮かびあがり、焼けた炭を恐れるセラピムのように誰もストローにくちを付けようとはしない。1リットルのジュースはマグリットが描く岩塊にも似てくる。それを見上げてる少年時代のダリは、くちびるはどうしたかと問いかける。マン・レイが写した天空に浮かぶ唇が、そっと開く。
 1リットルのオレンジジュースをストローでちゅーっと吸うことなんてあるのだろうか。それをあの少女が僕に提案していたのだろうか。暴力的で退屈な世界にとって必要な事象でもあるというのだろうか。わからない。ヘルミーネ、君どこに居るんだ?

1リットルジュースを購入の際に

「ストローはお使いなりますか」

と聞かれる問題について

 街路からスペイン風の小道に迷いながら僕はつぶやく。「1ℓのオレンジジュースを買うとき、ストローはお使いになりますかと聞かれるたびに、変な気持ちになる」
 世界は君に答える。「隣のデスクにいる女性は、1リットル紙パック茶にストロー刺して飲んでます。29年の人生で始めてそういう人を見ました(笑)」
 かっこ・わらい。笑ってよいのか。どこかで1リットル紙パックのお茶にストロー刺して飲んでいる女性がいる。ちゅーっと。そして彼女はフェルメールの絵を3Dメガネで見たように飛び出てくる。こんなこと簡単なんだから。これが現実なんだから。
 「1ℓストロー問題(w)は、Twitterで現実を知るだなあ」
 「コンビニで1リットルの飲み物買ってストローつけますかときかれだしたのは5年くらい前からのような気がします」
 もう随分前からそうなのだ。マグマ大使の手下となった人間モドキは町に溢れているし、恥ずかしがり屋のケムール人もスターバックスのソファにふんぞり返っている。それが現実。
 まさか、1リットルのオレンジジュースをストローで飲んだかどで告訴されるとは思わなかっただろう、ヨーゼフ・K。
 「そうじゃないんだ」
 問題は、1リットルのオレンジジュースをストローでちゅーっと飲むことじゃない。だったら、バーガーキングで渡されるバケツでペプシコーラーを飲んでいるやつらで監獄は溢れているはずだ。問題は、僕が、1リットルのオレンジジュースをストローでちゅーっと飲むんじゃないかと、問われていることなんだ。この僕が。
 いや自意識過剰すぎるのか。
 どう飲んだってオレンジジュースじゃないか。なにを悩んで来たのだ。
 今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。
 人生は何事をも為さぬには余りに長いが、1リットルのジュースをストローでちゅーっと飲み干すには余りに短いと困惑しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡すべてだったのだ。
 1リットルの牛乳パック開き、それを掴んでぐびぐびと飲むというなら違和感はない。松田優作だってやっていたじゃないか。ストローが問題だというのか。
 決心した。こんど彼女がストローを薦めてくれたら、この人生に諾と言うのだ。そして、あの立体にストローを挿してちゅーっと吸ってみるのだ。


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2011.01.18

チュニジアの暴動からベンアリ独裁の終わり

 チュニジアの、それを革命という人もいるし「ジャスミン革命」と呼ぶ人もいるが、暴動のきっかけは2010年12月17日、中部の町、シディブジド(Sidi Bouzid)で、大学は出たものの職はなく路上で野菜を売って家の生計を立てていた26歳の青年モハメド・ボアジジの焼身自殺の試みだった。国民の人口の42%が25歳以下のチュニジアでは、モハメド青年は象徴的な若者の、絶望のモデルにも見られた。話題になりやすい条件はあった。
 モハメドの父は彼が3歳のときに死んだ。そのころベンアリ大統領(当時)の独裁が始まった。モハメドの短い一生は、他の青年同様、その独裁政権以外を知らない。彼は10歳には学校から帰ると路上での販売をした。26歳、1週間の売上げは6000円。それも無免許販売を理由に警察は商品を没収した。彼は1万6000円ほど借金をし、また商売を始めようと地域の役所に懇願に行ったが空しく、女の役人に侮蔑的に顔を叩かれたらしい(参照)。その役所の前でシンナーを被り自身に火を放った。
 死んだのは年明けて1月4日。5日付けのBBC(参照)によれば、ベンアリ大統領(当時)はモハメドが死ぬ前にお見舞いに行っている。理由はすでに年末に、その焼身自殺の試みの話題が社会暴動の引き金を引いてたからだ。12月24日には、シディブジド近郊で警察がデモ参加者に発砲し初の死者を出していた
 モハメドの死以降、暴動はさらに広がり、10日までの警察との衝突で少なくとも21人の死者が出た。フランス外相は鎮圧部隊の派遣声明を出したが、実質的な動きはなかった。
 11日からは学生主導のデモが国内に広がり、高校や大学は閉鎖された。ベンアリ大統領(当時)は暴動をテロリストの仕業と非難。かくして国際的な話題となった。フィナンシャルタイムズ社説「Death in Tunisia」(参照)が出たのは1月11日だった。が、それほど深刻な印象を与えるトーンはなかった。チュニジアではベンアリ大統領(当時)の独裁を緩和し経済発展が望まれるといった感じである。


Political change should accompany economic reform. Opening up is always a precarious exercise for an autocratic regime. That is no excuse for repression. Tunisia’s citizens should be allowed to demonstrate peacefully. Schools and universities must reopen and Mr Ben Ali should talk to students. Suppressing discontent by blocking social networking sites and Twitter accounts will only foment fury.

経済改革には政治改革を伴うべきだ。社会を開放することは常に独裁政権には不安なものである。弾圧を認める理由はない。チュニジアの市民は平和裏にデモを行うことができる。高校や大学は再開されねばならず、ベンアリ氏は学生たちと対話しなければならない。弾圧のためにSNS(ソーシャルネットワーキングサイト)やツイッターのアカウントを切断することは、憤激を増長するだけだろう。


 それはそうだ。1000万人ほどの人口のチュニジアには350万人もネットユーザーがいるし、160万人がフェイスブックに登録している。比率で見るなら、日本より実名SNSな社会である。モハメドの焼身自殺の話題もフェースブックを通じて広まったものだった(参照)。
 私はこのフィナンシャルタイムズ社説を読みながら、威圧的な社会だが西欧的な文化水準を持ち、しかも一定の経済発展を遂げ、若者世代が多いと学生あたりから騒ぐもんだよなと思い、私の上の世代の青春の暴動を連想した。フィナンシャルタイムズ社説の暢気なトーンのように、政変にまで至ることはないだろうとも思っていた。ただベンアリ大統領(当時)が後継者を持っていないことは、れいのウィキリークス公電(参照)ではないが、気にはなっていた。
 12日になると大統領側も硬軟使い分けるかのように、拘束したデモ参加者の釈放発表し、翌日は次回大統領選挙には出馬しないとも表明した。が、その翌日14日、首都の5000人ほどのデモに屈して政権は崩壊し、大統領はサウジアラビアに亡命した。モハメド・ガンヌーシ首相が大統領代行となった。
 展開は意外に早かったが、私の関心はというと、軍の動きだった。暴動の最終を決めるのは軍だということを、私は日本の隣国からも学んでいる。暢気な国に暮らしていると隣国から学ぶことは多い。
 16日夜、チュニス郊外の大統領府周辺でベンアリ元大統領の民兵と治安部隊の銃撃戦があったが、軍は動かない。衆議院議長であった78歳のメバザア氏が暫定大統領となり、ガンヌーシ首相に新組閣を命じた。つまり独裁者だけ放り出してほぼ終わった。新組閣は与野党の連立のようになるのだろう。
 死者も出す大きな暴動であったが、独裁政権下における政権交代だったと言えないこともなく、革命というほどのことはないのではないか、ネットを使った、学生中心とした民衆への煽り方はスペイン列車爆破事件をきっかけとした左派政権転換と似ているのではないか、という印象を私は持った。
 この間、旧宗主国であったフランスも、他の旧アフリカ植民地へならやるちょっかいやフランス国民保護といった動きもなく、暴動で死者が出ても実質だんまりを決め込んでいたのも顧みると、経過を読んでいたということだろう。いや、フランスは実はキープレーヤーだった。暴動鎮圧の声明を出しながらなんにもしないことが、ベンアリ大統領(当時)に引導を渡したのだろう。フランスが頼りにならないなら亡命しかないという諦めではなかったか。
 と、その線で見るならチュニジアの野党側とフランス政府はそれなりの連携もあったのかもしれない。が、あったとしても特段の陰謀論というほどのことでもないし、今回の暴動にはこれといった陰謀論的な影も見えない。それでもしいてこの一連の暴動で利益を得たのは誰かとつい考えれば、米国であろう。これは弾圧を繰り返し不安定な社会を維持するエジプト政権への威嚇になるだろうから。しかし、そのスジでの動きだったわけでもないだろう。
 今回のチュニジアの暴動で、中東の民主化要求が深まると読む人たちもいる。今朝の日経新聞社説「何がチュニジア政変を導いた 」(参照)はそんな印象を受ける。

 情報通信革命を追い風に独裁政権を倒し民主化への道を開く――。この国を象徴する花になぞらえ「ジャスミン革命」と呼ばれ始めた政変は、同様な問題を抱える他の国々の政権への重要な警告になる。
 新たに発足する政権は、混乱長期化や過激派の台頭を防ぎつつ民主化を着実に進めるべきだ。他のアラブ諸国でも反政府デモが広がる兆しがあり、情勢流動化への警戒も必要だが、広範な政治改革の契機になるならジャスミン革命の意味は大きい。

 だとさ。
 朝日新聞社説「チュニジア政変―強権支配、市民が倒した」(参照)はというと、なかなか独自のユーアに満ちていた。

 チュニジア政変の教訓は、長年、この国の体制を支えてきた欧米、日本にも反省を迫っている。
 日本政府は80年代から定期的に二国間の合同委員会を開催し、経済協力などを協議してきた。友好国として、人権や民主化について賢い忠告をすることはできなかったのだろうか。
 強権体制は、中東・北アフリカ諸国に広がり、さらには世界中にある。
 今回の政変ではデモに参加した市民がインターネットで情報を交換して、大きなうねりが生まれたとされる。
 反政府勢力や指導者を権力で排除して政治を思い通りにできた時代は、終わりが見えてきた。大衆を侮らない政治が求められている。

 それ以前に朝日新聞には他のアフリカ諸国の惨状に目を向けてもらいものだがとつい思うが、他紙も見るに、毎日新聞社説「チュニジア情勢 中東の変化、見守りたい」(参照)はウィキリークスの米公電のような不安も伝えていた。

 だが、中東での民主化はしばしばイスラム原理主義への揺り返しを生む。90年代に自由選挙を行った隣国アルジェリアでは原理主義政党が圧勝し、選挙結果が取り消されたため流血の混乱が続いた。チュニジアにも原理主義勢力「アンナハダ」が根を張っており、選挙を通じてイスラム色が強まる可能性もある。新政権がどんな政策を打ち出すか、情勢を注意深く見守りたい。

 それはないだろう。16日付けのフィナンシャルタイムズ社説「The Jasmine Revolution」(参照)も指摘していたが、チュニジアは欧州文化の影響力が強い。スンニ派の多い点ではトルコと似ているが、トルコのように深刻な国内問題を抱えているわけではない。ぬるい混乱と経済低迷が続くくらいなものではないか。そして、今回の暴動の影響もさして他の中東諸国に広がるというものではないだろう。というか、不安定というならレバノンがなあ。


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2011.01.17

アリゾナ州乱射事件はどのような他山の石と見るかが問われる

 2007年4月16日というと、もう4年近く前になる。米国バージニア工科大学で23歳の在米韓国人大学生・趙承熙がインターネットで購入した銃で乱射事件を起こした。学生と教職員32人は射殺された。なぜこのような事件が起こったのか。日本では銃社会の米国が悪いのだという論調で終わった。銃がなければ銃乱射事件は起こらない。それはそう。
 米国では、共和党のジュリアーニ前ニューヨーク市長を例外とすれば、普通そうは考えられていない。彼ですら、為政者の体験から治安について言及しているのであって、銃保有の権利は認めることを強調している。共和党員だからということではない。護憲主義なのである。
 民主党の当時上院議員だったヒラリー・クリントン氏も、かつては銃規制を主張していたが、この事件では銃規制の問題とはせず、警察官増員や若者への雇用を与える経済活性化を論じた。同じく民主党の上院議員だったバラク・オバマ氏も銃密売を問題視するだけだった。なぜか。
 あの時、彼らは大統領選挙戦にあり、銃規制の議論は票にならないどころか、票を減らしかねなかったからだろう。いずれ米国では共和党も民主党も銃規制の面で実質的な差はないことがよくわかる事件でもあったし、政局がこうした言論を実質統制してしまうご都合主義を垣間見た。
 では、この乱射事件はどう見るべきか?
 米国では乱射事件は珍しいことでもなかった。前年の2006年には8件、2007年は7件発生した。この年の12月5日にはブラスカ州オマハのショッピングセンターで19歳の少年がライフル銃を乱射し、買い物客らが8人射殺された。続く10日はコロラド州デンバーの宣教師教育施設で、宿泊を断られた青年が乱射し、3人が射殺された。2009年11月にはテキサス州の陸軍基地内で軍医が乱射事件を起こした。13人が射殺された。
 2007年に乱射事件を起こした趙容疑者の話に戻ろう。
 何が原因だったのか。当のバージニア大学が報告書をまとめたが、そこで調査委員会の8人の理事は、大学当局が趙容疑者の精神疾患に適切な対処をしていなかったと指摘した(参照)。若者特有の精神疾患が直接的な背景にあった。つまり、若者の精神疾患による事件であった。
 だが、別の見方ができるのかもしれない。趙容疑者は事件前にメディアの犯行予告のビデオを送っていた。そこで本人が犯行の理由をこう説明していた(参照YouTube)。


 お前たちは俺の心を破壊し、魂をレイプし良心を焼いた。それはお前たちによって希望を失われた哀れな一人の少年の人生だ。感謝する。俺はキリストのように死に弱く日力な人々の世代から世代へ霊感を与える。モーゼのように俺は産みを開き人々を導く。か弱く無防備で無垢な全ての年齢の子供達を導く。
 侮辱され十字架に釘付けされる気持ちがわかるか?

 自身を苦難のキリストに例える思想が読み取れる。
 では、この乱射事件をもたらしたのはキリスト教という宗教、あるいはキリスト教が伝えんとする思想なのだろうか。あるいは、そのような言論なのだろうか。
 まさか。
 やはりただの若者の精神疾患だろう。
 さて、1月8日にアリゾナ州トゥーソンのショッピングモールで起きた乱射事件はどうだっただろうか。
 民主党の下院議員・ガブリエル・ギフォーズさんの集会で、22歳の青年が銃を乱射し、63歳の連邦判事や9歳の少女を含む6人が射殺され、13人が重軽傷を負った。ギフォーズ議員は頭を撃たれた。青年はジャレッド・ロフナー容疑者である。
 この事件の真相は現状でもよくわからない。だが翌日付のワシントンポストはこう論じた。「Questions about mental illness, access to guns follow Arizona shooting」(参照)より。

THE SHOOTING in Arizona, which left six people dead and gravely injured Democratic Rep. Gabrielle Giffords, is a horrifying tragedy. The temptation will be, as Arizona and the nation mourn the dead and hope for the recovery of the wounded, to infuse the terrible attack with broader political meaning - to blame the actions of the alleged 22-year-old gunman, Jared Lee Loughner, on a vitriolic political culture laced with violent metaphors and ugly attacks on opponents. Maybe.

6人の死者を出しガブリエル・ギフォーズ下院議員に重傷を負わせたアリゾナ州の乱射事件は恐るべき悲劇である。だからアリゾナ州とこの国が死者を悼み、重傷者の回復を願いながら、22歳の射撃手ジャレッド・ロフナー容疑者の行為を責めるために、この恐るべき攻撃には深い政治的な意味があるのだと思いたくなる誘惑もあるだろう。暴力的な比喩と敵に向けた醜い攻撃を伴う辛辣な政治的言論の文化が元になっているのだと。そうかもしれない(Maybe)。

But metaphors don't kill people - guns kill people. Politicians should choose their words with care and keep debate civil, but it seems an unsupported leap to blame either the political climate or any particular individual or group for inciting the gunman. The suspect appears to be a disturbed young man with no coherent political philosophy.

しかし、隠喩は人々を殺さない。殺すのは銃である。政治家は注意して言葉を選び、市民と討論すべきであるが、政治文化や特定の個人、射撃手をけしかける団体などを責めるというのは、話が飛びすぎていて納得しがたい。この容疑者についていえば、精神疾患(disturbed)を持ち、なんら一貫した政治思想のない若者のようだ。


 政治言論の修辞が暴力的な言動の背景にあるかといえば、Maybe(そうかもね)、というくらいであり、言論と実際の暴力とは異なる。そして、今回の乱射事件の容疑者も精神疾患を持っていたようだ。
 ワシントンポスト社説がデマでも言っているのだろうか。
 11日付けニューヨークタイムズ社説「An Assault on Everyone’s Safety」(参照)もそう見ている。

The Glock 19 is a semiautomatic pistol so reliable that it is used by thousands of law enforcement agencies around the world, including the New York Police Department, to protect the police and the public. On Saturday, in Tucson, it became an instrument of carnage for two preventable reasons: It had an oversize ammunition clip that was once restricted by federal law and still should be; and it was fired by a disturbed man who should never have been able to purchase it legally.

グロック19は信頼に足る半自動拳銃であるから、ニューヨーク警察を含め、世界中、数千の警察機関が、警察と公衆を守るために使用している。だが土曜日、ツーソンでは、それが虐殺の道具となった。だがこれは2つの理由で防げた。1つは、弾倉サイズが大きすぎることから、連邦法で規制されたことがあり、今でもそうすべきだということ。もう1つは、乱射は法的には購入が許されない精神疾患者であったことだ。


 つまり、銃規制ではなく、このグロッグ19という弾倉サイズの大きな銃は規制されてしかるべきだということ、青年は精神疾患者であるがゆえに銃保持が認められるべきではなかったということだ。
 問題は、精神疾患者の管理ということになる。
 先のワシントンポスト社説はこうも主張していた。

The episode also underscores the importance of providing mental health services and finding some mechanism for keeping track of individuals who might be a danger to the community, consistent with civil liberties protections.

今回の事例が強調することは、精神面での健康を提供する重要性と、市民の自由と矛盾がないようにしながら、市民社会に気概を加える可能性のある個人を追跡するなんらかの仕組みが求められるということだ。


 市民社会に危害を加える可能性のある人物に対して、なんらかの追跡の仕組みが必要だろうということ、おそらくその点は、日本社会にとっても同様なのだろう。
 しかし、日本社会でのこの事件への論調はそうではなかった。
 12日付け朝日新聞社説「米乱射事件―銃社会に決別する時だ」(参照)は、安易な銃規制と政治言論の修辞への誘惑に屈した。

 ところが、犯行に使った銃はスポーツ用品店で昨年11月に合法的に購入していたという。警官や兵士が使う殺傷力の高い銃だ。麻薬の使用歴がある人物がどうして、そんな物をやすやすと入手できるのか。米国の銃規制の甘さに、今さらながら驚くばかりである。
 犯行の背後に、米国政治の対決ムードを指摘する声もある。民主、共和両党の党派対立が抜き差しならないほど高まり、メディアやネットで個人攻撃が繰り広げられている。なかには相手への銃の使用すら示唆するような過激な言動もある。
 撃たれたギフォーズ議員は民主党内の穏健派だが、オバマ政権の医療保険改革法案に賛成したため、脅迫メールが送りつけられたり、地元事務所の窓ガラスが割られたりしていた。政治家を標的とするような異常な雰囲気を、許すべきではない。

 13日付けの毎日新聞社説「米乱射事件 政治の「過熱」が気になる」(参照)も同様の誘惑に落ちた。

また、昨秋の中間選挙で台風の目になった「茶会」運動の人気政治家、ペイリン前共和党副大統領候補は、ギフォーズ氏らを批判する文書に、銃の照準のような十字を描いていた。来年の大統領選もにらんで対立が過熱するのも分からないではないが、多様な価値観を奉じる米国で、あまりに単純、短絡的な個人攻撃がまかり通っていないか。それが民衆を政治的暴力に駆り立てているなら、罪が深いと言わざるを得ない。

 政治言論の修辞が悪いとすれば、いかに正義に見えてもそれは思想弾圧に辿り着く。そして銃規制が問題だとすれば、ワシントンポスト紙が提起した精神疾患者の追跡の問題は議論しないですむ。


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2011.01.16

第2次菅改造内閣、何それ、食えるの?

 14日に第2次菅改造内閣が発足した。関心は何もなかった。財務相、外務相、防衛相を替えるわけでもないし、要するに参院で問責決議された仙谷由人官房長官と馬淵澄夫国土交通相を更迭したというだけでしょ。嘘つき馬淵さん(参照)を放置しておくわけにはいかないのはわかるけど、仙谷さんが引っ込むのはファンの一人としては寂しいものがある。
 こんなに面白い官房長官はかつてなかったのに。個人的には「柳腰外交」はシンプルに爆笑したけど、「自衛隊は暴力装置発言」には深い味わいがありました。昔の左翼用語をぺろっと言ってしまったのはお里が知れるで終わりなのに、「あれはマックス・ウェーバーの言葉だ」とかね。マックス・ウェーバー読んでないのがよくわかるその場しのぎの言動にはあっぱれなものがありましたが、さて政治家として見ると、意外やそれほどブレがなく、よく菅内閣を支えてきた。なにより、小沢さんを下した力量はお見事でした。お疲れ様。
 で? 改造内閣とやらだが、17閣僚のうち11閣僚が留任。しかもフルーツバスケット風に席を入れ替えた2人を除くと新顔は4人。なんだよこれ、開店早々品切れ。ところが! これが意外に面白かった。笑いのツボを外さないところが菅首相の良いところ。
 まずあまり指摘されてないみたいだけど、女性閣僚は蓮舫さんだけ。紅一点というやつですか。これって民主党なのか、ほんとに? もう一人の紅の……岡崎トミ子国家公安委員長兼消費者行政・少子化対策担当相だが、こっそり外したのはお見事。こっそりでもないか。北朝鮮砲撃事件発生当日に警察庁に登庁しなかったし、警視庁のテロ捜査資料流出にも対応できなかった。もともとこの人選はやばすぎだったでしょう。備えあれば憂いなし、引っ込めて吉。法相に江田五月前参院議長を起用はまあしかたないが、外部から採ればよいのに。外部みたいな藤井裕久元財務相(78)は、戻って参りました。これはちょっとびっくり。いくら最年少の官房長官を起用するからって官房副長官で年齢のバランスを取ることないじゃないですか。大畠章宏新国交相もまた八ッ場ダムで面白いこと言うのでしょうか。これは面白いで済む問題じゃないが。

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民主党が日本経済を
破壊する (文春新書)
与謝野馨
 大びっくりはそりゃもう与謝野馨さんでしょ。いや、すごいな日本の政治。「民主党が日本経済を破壊する(与謝野 馨)」(参照)だから、破壊に手を貸すというわけですね。アングリーバード、わーっ、ふにゃっ!
 君は覚えているかしら、あの白いブランク♪ ではないけど、昨年6月に書いたネタエントリー「菅内閣の経済方針は麻生内閣時代に与謝野馨財務相が主導した「中期プログラム」の劣化版」(参照)がリアルになってしまいましたよ。まあ、そういうことなんでしょう。政権交代はなかったんですよ。
 与謝野さんと言えば増税だけど、もうこの手の話はほとほと飽きましたなあと聞き流していたら、おやっ、新ネタ? 年金財源は社会保険方式に実現性があると、うんうん、そりゃそう……え? それって民主党?
 14日付け日経新聞記事「与謝野氏、年金財源「社会保険方式に実現性」民主公約の「税方式」に慎重」(参照)より。

 菅改造内閣で新たに経済財政相として入閣する与謝野馨氏は14日、基礎年金の財源について、首相官邸で記者団に「社会保険方式で進むことが具体的であり実現性がある」と語った。


 与謝野氏は「新しい方式に移行するには35年も40年も時間がかかる」と指摘。「現時点で改革をするなら、今まで国民が慣れ親しんだ枠内でやるのが合理的だと思う」と税方式への移行に慎重な考えを示した。

 いや、政治家がどんな理念を持っていてもいいですよ。そのために政治活動をするのだし。しかし、こういう考えの人を閣僚に据えてしまってよいのか。いや、よいといえばよいのだけど、それって民主党の総裁がやることなのか? 「税と社会保障を一体改革」とか言って、マニュフェストにもなく、古来民主党も主張してこなかった政策をやる気なのか。頭イテー。
 ここまでやるなら、厚労相に舛添さんを起用し、農水相に石破さんを起用し、副総理に麻生さんを起用するといいんじゃないか。いや、民主党の看板の前に、「自由」って付けなくてもいいから。


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2011.01.09

アングリーバード(Angry Birds)にはまってしまった

 ゲームネタは年末年始で終わりにしようと思っていたのだが、ゲームづいてしまったついでに、アングリーバード(Angry Birds)にはまってしまった。あんな落ちゲー(参照)みたいなものに、もうはまることはないよ、俺のゲーム人生は終わったのだと思っていたのに、53歳にもなって「わー、ふにゃっ!」とか叫んでいる自分が情けない。これで内田樹先生も「わー、ふにゃっ!」とか叫ぶようになったら日本の未来は明るいぞ。
 アングリーバードとは何か。投げ当てゲームである。投げにはパチンコを使う。パチンコといっても、ネットで話題のパチンコ屋のパチンコではない。Y字形の木の枝や金具にゴムひもを張り、その弾力で小石などを飛ばす道具だ。簡易な投石機である。団塊世代など私より年上の世代だと奥崎謙三の「ヤマザキ、天皇を撃て―皇居パチンコ事件陳述書」(参照)を懐かしく思い出す。ちなみに、あの事件以降、参賀がガラス張りになったということも知らない人が多いのではないかな。この手のパチンコは日本ではあまり見かけなくなったが、外国のストなんか見ていると今でも国際的には利用されているようだ。
 あのパチンコで鳥を玉にして豚の籠城を打ち崩し、豚を屠る。なぜ? 

Angry Birds

 理由の物語はある。物語のアニメーション映像もある(参照)。鳥の卵を豚が盗んだからだ。怒った鳥(Angry Birds)がかくして神風攻撃をするのである。まあ、だから僕は最初やりたくなかったんだけどね。しかし、ゲームとしての面白さには屈服した。残念なくらい面白いよ。
 なんでこんなバカみたいなゲームが面白いんだろう。ニューズウィークの記事「携帯ゲーム「アングリーバード」の野望」(参照)も頷ける。ちなみに元記事はスレートの「Upwardly Mobile」(参照)。


 ゲームの内容はこんな感じだ。丸い緑色の豚が、極太眉で羽根なしの鳥から卵を盗む。怒った鳥は豚に仕返しをする。プレイヤーは携帯電話のタッチスクリーンを操作して、パチンコ玉のように鳥を飛ばして豚の家などにぶつける。家が壊れたら成功で、ポイントが獲得てきる。
 本当にばかみたいに単純だから始めるのは簡単だが、やめるのは難しい。ロビオはiPhone版だけで1日に累計約110万時間分もプレーされているという。ヘルシンキを拠点とするロビオは、アングリーバードを昨年12月に発表した。初めは地元で人気が高まり、次にヨーロッパ、そして世界へと急速に広がっていった。

 ゲームのルールは単純だし、物語の設定からするとなんで籠城している豚がTNT火薬と一緒なんだよとツッコミどころ満載だが、ステージが進むにつれ、微妙な攻撃ポイントや作戦、籠城の崩し方のパズル性、意外な攻撃方法(ブーメラン鳥の逆走や炸裂した岩による二次的攻撃など)いろいろあって考えさせられる。ってか、こんなのやっていて電池切れというトホホ感がたまらない。
 国際的にも大流行し、アイフォーンのキラーアプリといった印象もあるがアンドロイド版もある。iPhone用は115円で広告なしが選べるが、アンドロイド版は広告付きの無料だけのようだ。
 ハロウィーンでもコスプレが流行ったらしい(参照)。てか、ぬいぐるみ(参照)を買ってきて「わー、ふにゃ!」とか何かに投げつけたい。あー、民主党の方々にではありませんのでご安心を。
 それにしてもこれだけ手の込んだゲームを作って一旗挙げちゃうロビオって何者? まあ、池田信夫先生流に言うとなぜ日本人にこれができなかったのか? なぜ日本人はアクション倉庫番が生み出せないのか? なんてね。
 アングリーバードの開発元はフィンランドのヘルシンキを拠点とするロビオ社。ゲーム音楽もなんとなくフィンランドっぽい(参照)。発表したのは、一昨年の12月。口コミ的に広がったらしい。ロビオは元々は、大手の下請けのゲーム会社であったそうだが、これで一発当てたということだ。
 国際的に流行した背景には、このゲームのシンプルさもだが、事実上ほとんど言葉を介さないメリットもあるだろう。無声映画時代にできたトムとジェリー的な印象も受ける。ミスタービーンにもそういうところがあった。くだくだとした言語的な説明がないだけで、グローバル市場ではメリットになりうる。ただ、それを狙ってもヒットはしないんじゃないか。

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2011.01.08

[書評]英語流の説得力をもつ日本語文章の書き方(三浦順治)

 書名の「英語流の説得力をもつ日本語文章の書き方」だけ見ると多少奇妙な印象を受ける。英語なら説得力があり日本にはないのか、と思うかもしれない。そうではない。英米人が普通高校や大学で学ぶ、いわゆるテーマライティングの教科書であり、作文技術の本である。

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英語流の説得力をもつ
日本語文章の書き方
三浦順治
 名著「理科系の作文技術 (木下是雄)」(参照)をより体系的にした実践書とも言える。欧米人はこうした作文技術を学んで文章を書くから英語流の説得術が生まれる。それを日本語でも可能にするための教本が本書である。
 作文技術についてはほぼ決定的な書籍であるとも言ってよいだろう。日本の高校生や大学生、そしてできれば社会人も読んでおくとよいが、演習問題も付いたいわゆる教科書的な書籍なので、趣味で文章読本を読むという趣向には合わない。
 このジャンルの書籍としてはこのブログで昨年秋、「日本語作文術 (中公新書:野内良三)」(参照)を扱った。野内氏も仏文学者であったが、本書の著者三浦氏も英語学(英語教育)が専門であり、学問的に日本語を扱うプロパーではないが、むしろそうした言語差を意識できる人のほうがこうした分野にふさわしいのかもしれない。本書は、作文技術を包括的に扱うとともに、ふんだんに鏤められたコラムに顕著だが、日本語と英語の言語的な差違や言語慣習についての話も興味深い。書き言葉としての日本語を著者が深く検討しているため、ただ英語の作文の教科書を日本語にしたというものではない。
 しかし内容は概ね、欧米の作文の教科書に近いことは章目次からもわかるだろう。

第1章 これから必要な文章とは(心情的・情緒的書き方から論理的書き方へ;日本語と国際性を考える)
第2章 文(センテンス)を書く( 文(センテンス)の長さ
文の型 ほか)
第3章 段階(パラグラフ)を書く(段階(パラグラフ)
段階の中心である話題文(トピックセンテンス) ほか)
第4章 文章を書く(説得力をもつ文章の型;文章を書いてみよう)

 私も大学生のとき、"Writing As a Thinking Process(ary S. Lawrence)"(参照)を教科書にしたが、本書も欧米の作文教科書といった構成である。なお、こちらの英書だが初版が1996年となっており、そんなはずはないなと思って調べてみると、1975年版がある(参照)。定評のある教科書でもあるだろうし、内容も変わっているだろう。興味のある人にはお薦めしたい。他に、"The Elements of Style"(参照)も定番ではあるがこちらはあまりお薦めしない。内容が古く、現代に適さない。
 本書は作文技術の決定版ではないかと思うが、この分野の書籍をそれなりに読んだ人にとってはそれほどハッとさせられる斬新な見解はないかもしれない。ああ、それは知っているなという事柄は多い。ただ、そうした既知のノウハウをきちんと開陳した点は本書のメリットである。徹底性まではないものの、俗流の文章技術のノウハウ、例えば「短い文章がよい文章だ」といった話は、実証的に廃棄されている。単文がよい文章だと思っている人は稚拙な文章しか書けない。この点、本書では文章の長さは7±2の文節長がよいしているのは、なるほどと思える。
 点の打ち方についても、妥当な議論をしたのち小規模ながら実証的に考察し、結果、シンプルな指針として、5文節書いたら点を打ち、3点があれば丸とせよとしている。これも存外に現実的である。
 本来なら、こうした統計調査の研究がもっと進むと良いのだが、どうしても文章の書き方というのは名人芸のような要素が多分にあって難しい。本書は、そうではない部分をできるだけ体系的にしたということでもある。名人芸的な要素を必要とするいわゆるコラムやブログのエントリー向きの文章技術は、また別の領域ないし文学者の趣味の分野になるだろう。
 本書自身は明晰な意識で書かれているが、それでも隔靴掻痒感があった。アウトライン構成の技術が最終部分に置かれていることである。パラグラフ(段落)とトピック・センテンス(主題文)の関係を説明しないとアウトライン(目次構成)が説明できないというのもあるのかもしれないが、ある程度の量をもったテーマライティングの場合、手順としては、アウトラインが先行し、それをトピック・センテンスとしてリストし、さらにサポートの文章を枝分かれにする。そう、マインドマップ的な思考が先行するのだが、その部分の具体的な技術が詳細には描かれていない。
 また、文章技術の書籍であるから、文章で何を描くかについてどこまで扱うかは容易な問題ではないことはわかるが、そこにも微妙な論点がある。端的に言って、文章の良さについて、「説得力」あるいは「論理性」の他に、どうしても、「どうすれば文章は面白くなるのか」という議論に立ち入らざるをえない。この技術は修辞学と言ってしまえばそれまででもあるが、その扱いが難しい。本書も暗黙裏にその分野を扱い、多少混乱している印象がある。
 文章を書くというのは、結局のところ誰かに読んで貰うための営為であり、文章の良さが他の要素に先行してしまう面が大きい。しかも、それを決めるのは、実際に書き出すまでのプロセスよりもその前段である。ネタとヒネリとアウトラインでほぼ決まる。ネタさえ良ければ読まれる。ヒネリだけで芸にしているライターもいる。アウトラインはいわば舞台装置のようなものだ。
 と、持論を展開したくなるところが文章技術の罠でもあるだろう。その意味で、よい罠をしかけた本書には、表層からわかりづらい、官能的とも言える魅力もある。


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2011.01.07

中国が模範とすべき日本の断念、ってか

 英国流初笑いというのかもしれない(そんなものがあるのかは知らないが)。5日付けフィナンシャルタイムズに掲載されたデイビッド・ピリング氏の寄稿「日本は、経済成長より大切なものが人生にはあると気づいた(Japan finds there is more to life than growth)」(参照)は笑えた。心地よくと言ってもいいのかもしれない。
 前口上は、あれである、BLOGOSとかに出てくるブロガーさんの口調みたいなものである。


Is Japan the most successful society in the world? Even the question is likely (all right, designed) to provoke ridicule and have you spluttering over your breakfast. The very notion flies in the face of everything we have heard about Japan’s economic stagnation, indebtedness and corporate decline.

日本は世界で最も成功した社会ではないのか? とかいう疑問を呈しただけで、バカ言ってんじゃないよと言われそうだし(ごもっとも、覚悟の上だ)、ご朝食の皆さん、味噌汁吹いてしまうかもしれない。日本経済の停滞や国家債務、企業の衰退について聞かされていることを思えば、とんでもない疑問である。

Ask a Korean, Hong Kong or US businessman what they think of Japan, and nine out of 10 will shake their head in sorrow, offering the sort of mournful look normally reserved for Bangladeshi flood victims. “It’s so sad what has happened to that country,” one prominent Singaporean diplomat told me recently. “They have just lost their way.”

韓国人のビジネスマンに聞いてみるがよい。香港人でも米国人でもよい。日本をどう思うかね、と。十中八九、バングラデシュ洪水の被災者に通常向けられるべき悲しげな顔で、もうダメだ、と首を横に振るだろう。「あの国に起きたことは、非常に残念なことだ」 私も著名なシンガポール外交員から、「彼ら日本人は迷子になっている」と聞いた。


 まあ、そんなところ。いやまあ、そう。じゃあ、ドローフォー。
 おっと待った。チャレンジ!(参照

If one starts from a different proposition, that the business of a state is to serve its own people, the picture looks rather different, even in the narrowest economic sense. Japan’s real performance has been masked by deflation and a stagnant population. But look at real per capita income - what people in the country actually care about - and things are far less bleak.

しかし国家の仕事とは国民に仕えることであるという観点に立てば、狭義の経済以外にも日本という絵の見方も変わってくる。日本の真価は、デフレと人口低迷で目眩ましされている。日本人が実際に気にしていることでもあるが、一人当たり国民所得を見れば、荒涼といったものではまるでない。


cover
企業メガ再編
新・日本型資本主義の幕開け
ポール シェアード
 そう、物は見方である。実体なんかどうでもいい。それだけでエントリ書いているブロガーだっているのだし。

By that measure, according to figures compiled by Paul Sheard, chief economist at Nomura, Japan has grown at an annual 0.3 per cent in the past five years. That may not sound like much. But the US is worse, with real per capita income rising 0.0 per cent over the same period. In the past decade, Japanese and US real per capita growth are evenly pegged, at 0.7 per cent a year. One has to go back 20 years for the US to do better – 1.4 per cent against 0.8 per cent. In Japan’s two decades of misery, American wealth creation has outpaced that of Japan, but not by much.

視点を変えて、米国野村証券グローバルチーフエコノミスト、ポール・シェアードがまとめた数値を見ると、過去5年間で言えば、日本人は一人当たり国民所得で過去5年間に年率0.3パーセント成長している。たいしたことないように思えるかもしれないが、米国はさらに劣り、同期間で見れば0パーセントである。過去10年で見ると、日米は総じて年間0.7パーセント成長している。日本の0.8パーセント成長に対して米国の1.4パーセントを誇っていたのは20年も前の話だ。20年に及ぶ日本の悲惨な時代、米国人の資産は日本人よりも増えたとはいえ、それほどのことはない。


 ほぉと感心しないでもないけど、デフレを補正してのことだろう。デフレによって富の高齢者への偏在があるから日本の若者は貧乏になったということではないかな。まあ、米国の富の偏在はまた違うだろうけど。
 かくしてピリング氏のお話は、日本の社会はどれだけすばらしいか、平均寿命は高い、犯罪率は低い、清潔だ、食文化が豊かだ、失業率は低いと毎度お馴染みの修辞が続くので割愛、なのだが、ちと笑える部分はというと。

In a thought-provoking article in The New York Times last year, Norihiro Kato, a professor of literature, suggested that Japan had entered a “post-growth era” in which the illusion of limitless expansion had given way to something more profound.

昨年ニューヨーク・タイムズに掲載された示唆深い記事で、加藤典洋早稲田大学文学部教授は、日本は「ポスト成長時代」に入ったのだと述べた。この時代では、無制限な拡張の幻想がより深みのあるものに置き換わるのである。


 加藤典洋先生らしいすね。

Patrick Smith, an expert on Asia, agrees that Japan is more of a model than a laggard. “They have overcome the impulse – and this is something where the Chinese need to catch up – to westernise radically as a necessity of modernisation.” Japan, more than any other non-western advanced nation, has preserved its culture and rhythms of life, he says.

アジア問題の専門家パトリック・スミス氏は、日本はダメな子というより模範であると認めている。「日本人は、近代化の必要性に付随して、西洋化したいという衝動を克服してきた。その境地こそ、中国人が追いつかなければならないものなのである」 日本は他のどの非西洋先進国よりも、自国文化での人生の過ごし方を守ってきた。


 いやはや、中国人に、日本人が「俺たちは西洋人にはなれないとの断念」を見習いなさい、と。すてきなお節、ごちそうさまでした。
 ほいでは締めの言葉を。

If the business of a state is to project economic vigour, then Japan is failing badly. But if it is to keep its citizens employed, safe, economically comfortable and living longer lives, it is not making such a terrible hash of things.

国家の仕事が経済活力の増進になるなら、日本はどん底まで落ちた状態である。しかし、日本がなんとか市民の雇用を維持し、社会を安全に保ち、経済的にも快適であり、長寿に暮らせるなら、それほどひどいことなったと、いうもんでもないんじゃないの。


 民主党の政権の希望の未来みたいだな。
 しかし、たわけた夢から覚めれば、日本国の立国とは経済である。軍オタがオタでしかないのは、日本では経済力こそが安全保障に代わるから。
 そのことを忘れるほど日本人が愚かなものなのか。そうでもないんじゃないかという夢のほうに私はたまに期待をかけているという点で、なかなか英国流のユーモアは身につかない。


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2011.01.06

フィナンシャルタイムズ曰く、菅首相の税制改革の心意気や良し、されども……

 民主党の政治にまったく関心が向かない。鳩山(兄)さんや小沢さんが出てくるよりは、仙谷さんと菅さんのコンビでやるしかないんじゃないのと思うし、そもそも仙谷・菅内閣でできることにそれほど期待が持てるわけもないでしょう。嘘マニフェストぶちあげてしまたのだから、神妙に地味に政治をやってくださいなと思うのだが、そこもダメみたいだ。
 菅さん、社会保障と税の一体改革に「政治生命かける」 とか言い出したらしい(参照)。いや、誰も菅さんの「政治生命」を重視していないって。鳩山(兄)さんみたいに引退宣言を撤回するみたいなことになるんじゃないのくらいしか思っていない。補佐するはずの仙谷さん自身、全然重視してない。報道によっては「財政への危機感の深さで発言したと思う。自らの政治生命か、日本の沈没かというぐらいの決意だったのではないか」(参照)と大げさだが、実際は空言であったようだ。読売新聞「首相の政治生命発言で仙谷氏「責任に直結せず」」(参照)より。


仙谷官房長官は6日午前の記者会見で、菅首相が消費税を含む税制と社会保障制度の一体改革に「政治生命をかける」と発言したことについて、「危機感がそこまで深いという認識と覚悟(を示したもの)だと思う」と述べ、実現できなくても首相の政治責任には直結しないとの考えを示唆した。

 また時事「首相の政治責任問われず=「政治生命懸ける」発言-仙谷官房長官」(参照)ではこう。

 仙谷由人官房長官は6日午前の記者会見で、社会保障制度と消費税を含む税制の抜本改革に菅直人首相が「政治生命を懸ける」と発言したことに関し、首相が示した6月までに方向性を出すことができなくても、野党の対応によっては首相の政治責任は問われないとの認識を示した。
 仙谷長官は「(方向性を出すことが)できない理由による。(野党が与野党協議に)応じない理由が無理筋であれば、少々の猶予はいただける」と述べた。

 そんなところでしょ。
 とはいえ、社会保障と税の一体改革を熱心にするというのはいいことなんじゃないかとも思うのだが、これもようするにまたまた消費税ということらしい。産経新聞「首相「消費税、公務員改革に政治生命懸ける」」(参照)より。

 菅直人首相は5日、テレビ朝日番組に出演し、今後の社会保障制度改革に関し「消費税だけでなく、国民にある程度負担してもらっても、社会保障を安心できるものにする。政治生命を懸ける覚悟でやる」と述べ、消費税増税も含めた年金、医療、介護各制度の安定化に不退転の覚悟で取り組む考えを示した。

 とにかくなにより消費税ということで、ダメだなあ感がじんわりと染みてくる。
 というところで年始のフィナンシャルタイムズ社説が「Tax man Kan」(参照)であった。普通に読めば、「税の男、菅」でそのままなのだが、いまひとつダジャレのネタモトはよくわからない。ビートルズのTaxmanあたりだろうか。



Let me tell you how it will be;
There's one for you, nineteen for me.
'Cause I’m the taxman,
Yeah, I’m the taxman.

これからどうなるか、ご説明しましょう
あなたの取り分は1として、私が19
だって、私は、徴税人
いえい、私は、徴税人

Should five per cent appear too small,
Be thankful I don't take it all.

5%じゃ少なすぎませんか
感謝してくださいよ、全部取るわけじゃないんですから

(if you drive a car, car;) - I’ll tax the street;
(if you try to sit, sit;) - I’ll tax your seat;
(if you get too cold, cold;) - I’ll tax the heat;
(if you take a walk, walk;) - I'll tax your feet.

運転なさるなら、道路に課税
その席に座るなら、椅子に課税
風邪を引くなら、お熱に課税
歩いて行くなら、あんよに課税


 「税の男、菅」はそんなはずはないでしょう。
 フィナンシャルタイムズ社説もまずはあっぱれと褒めている。

Prime minister Naoto Kan used his new year press conference to call for cross-party dialogue on comprehensive reform of Japan’s tax system. It is not the first time a Japanese leader has broached tax reform: for years, the topic has been the subject of much talk but little action by Japan’s politicians – no doubt because it is often followed by poor election results. The prime minister deserves credit for continuing to push the issue.


菅直人首相は新年記者会見を使って、日本税制の包括的改革について超党派的な対話を求めた。日本のリーダーとして税制改革を切り出したのはこれが最初ということではない。何年間もこの話題は議論されたが、日本の政治家による行動はほとんどなかった。理由はといえば実際、この話題の後には惨めな選挙結果が出たからだ。菅首相がこの話題を推進し続けるなら称賛に値する。


 まずは、よいしょ、と。

Though tax rises should not be thoughtlessly inflicted on Japan’s stumbling recovery, it is clear that fiscal reform is imperative to put public finances on solid ground.

日本の経済回復が躓いているなか軽率な増税は避けるべきだが、財政を堅固にするためには、財政改革の必要は明白である。


 フィナンシャルタイムズ社説の言葉遣いが慎重なのは、結論から言えば、消費税はやめとけ、他の増税にしとけ、ということだ。

Japan has scope to tax more, but Mr Kan and his interlocutors must look for the changes that do the least damage. Taxes on wealth and savings should be considered: Tokyo is deep in debt but households and businesses are not. This may be politically difficult, but the private wealth of the Japanese is a fertile tax base. Taxing it could make them save less and spend more: just what the country needs.

日本にはまだ課税余地はあるが、菅氏とその対話者は、日本経済へのダメージを最小限にする変革が求められる。だから、財産と預金への税を考慮すべきである。日本政府は借金で首も回らないが、家計はそうではない。財産と預金への課税は政治的には難しいかもしれないが、日本人が保有する私的財産は肥沃な課税源である。財産と預金に課税することで、貯蓄を削減し支出を増やすことができる。これこそ、日本が必要としていることなのだ。


 まあ、ぶっちゃけて言えば、カネを溜め込んだ民間企業と高齢者富裕層がこれ以上、カネを溜め込んだままにせず、日本社会にカネを出すようにしろということだ。
 さらにぶっちゃけて言えば、これは、マイナス金利としてリフレ政策と同じ効果を持つ。
 「財務省に載せられて消費税なんて言ってんじゃねーよ、頭悪いなあ、菅首相」とかクチの悪いことを言っても社会的には通じないわけで、フィナンシャルタイムズ社説みたいに上手に英国流に言えるようになりたいものである、というのがブロガーとしての今年の目標である。


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2011.01.05

毎度おなじみのUNO(ウノ)でチャレンジのルールをお忘れなく

 正月あれこれゲームをしていたのだが、まあ毎度同じみのUNO(ウノ)ということもあり、UNOかよ、アメリカ製のアホなゲームとか思っていたのだが、うかつにもチャレンジのルールを知らなかった。このルールを入れてみると、なるほど少し面白くはなった。知らなかったのは私だけでもなそうなんで、年末年始ネタついでに加えておこう。

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UNOカードゲーム
 UNOというカードゲームをやったことのない人はないんじゃないか。なのでプレイ方法の説明は省略。対象年齢は7才以上。つまり小学生ならできる。幼稚園の年長さんでもできるのではないか。ごく簡単なゲームだし、私は沖縄でよくやったものだったが(参照)、特にルールを意識したことはなかった。こんなゲームにルールなんかあるのか、とすら思っていた。違った。ルールはある。チャレンジのルールを知らなかった。
 話をおじゃんにしてしまうが、UNOを日本で販売しているマテル・インターナショナル株式会社による小中学生のUNO大会のルール(参照)を見ると、チャレンジのルールはない。だからなくても別にいいんじゃないかとも言える。
 まあ、でも、ある。
 チャレンジのルールはワイルドドロー4(フォー)通称ドローフォーに関連している。
 ドローフォーだが、これ出ると、次の番の人が山札から4枚引く(ドローする)ことになる。そして、場のカードの色は赤・青・緑・黄色から好きな色に決めることができる、ということなのだが、これには前提のルールがある。ドローフォーのカードが出せるのは、手札の色に場の色がないときに限定されるということだ。状況的には、「困ったな出せるカードがないじゃないか、おや、ドローフォーがあるからこれを出すしかないか」ということだ。
 ここでドローフォーを食らった次の番の人のことを考えてみてほしい。「こいつ、本当に、ドローフォーしか出せなかったのか? 場の色のカードを手札に持っているのに、嘘こいて、ドローフォー出したんじゃないのか。疑惑……」というとき、チャレンジ! つまり、「おまえが嘘こいているに俺は賭ける!」ということ。
 結果、嘘がバレて、場の色と同じ色のカードを持っているなら、嘘の罰として、ドローフォーを出した人が山札から4枚引くことになる。
 ところが、嘘じゃなかった、疑ったオイラが悪かったというときは、チャレンジした人は、罰則の2枚を加えて山札から合計6枚引くことになる。
 これがチャレンジのルールだ。
 面白いなと思ったのは、このルールを加えると、実際のところ、ドローフォーについては、嘘をついてもかまわないということだ。つまり、チャレンジを受ける覚悟なら嘘こいてもよいのである。これにはちょっと感心した。面白いじゃないか。
 ついでに言うと、どうやら最後の1枚になったら「ウノ!」と言えというのも、厳密なルールというより、バレなければ黙っていてもかまわないという類のルールのようだ。
 バレなければ嘘こいてもかまわないが実質ルールに含まれているというのは、なんだかアメリカらしいなと思うし、やってみるとこれが面白さを増やす。
 実際にどういうふうになるのか、iPhoneアプリのUNOのゲームで検証もしてみた。このアプリだと、チャレンジはUNO宣言したい人にもチャレンジできるとあるが、これはUNOと言わなかったらというケースである。
 以上でUNOのチャレンジのルールの話は終わりだが、iPhoneアプリを見ていると、大富豪みたいにローカルルール(ハウスルール)がいくつかあり設定できた。まあ、そんなものでしょ。沖縄でやったときは、出せる手札が無ければ、出せるまで山札からカードを引くというルールがあり、あっという間に手札が膨れたものだが、これもローカルルールだった。正しくは1枚引くだけ。
 厳密なルールはどうなってんのかというのも気になって調べてみたが、よくわからない。概ね、ドローフォーのチャレンジのルールは正式としてよさそうだ。
 その他、ネットを見ると日本ウノ協会の「本当は知らないUNOのルール」(参照)というルールの話があるが、日本ウノ協会公認がどういう意味を持つのかよくわからないのでなんとも言いがたい。このサイト「真説! UNO史」(参照)というヘンテコな話もあり困惑する。
 言うまでもないが、UNOはトランプのクレージー・エイツ(Crazy Eights)というゲームの系統を元に、スーツを色にデザインしなおしたものだ。松田道弘の「楽しくはじめるトランプ入門」(参照)にクレージー・エイツ系のスイッチが載っているが、よく似ている。そういえば、この手の話は以前にも書いたことがあるが(参照)、いま一つわからないものだな。

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2011.01.04

[書評]近江から日本史を読み直す(今谷明)

 年末の28日、古代史関連の話の連想ではあったが、ツイッターでこんなことをつぶやいた(参照)。


近江というところはほんと変なところだった。近江から日本史を編纂しなおさなければならんくらい重要なのではないかと思われるわりに、ほぼ無視されている印象。

cover
近江から日本史を
読み直す
今谷明
 すると、いろいろ返信をいただいた。そのなかに、すでにそういう本がありますよと、本書「近江から日本史を読み直す(今谷明)」(参照)を薦められ、即ぽちっと購入して正月、興味を持って読んでみた。日本史を近江から描いてみたいと思う人はいるものだなというのと、読んでみると、この土地の歴史は実に奥深いものだと思った。
 本書は、2005年から2007年、産経新聞の関西版に「近江時空散歩」と題して全60回連載された紀行文を、通史的に年代順に再編集したものらしい。読後感も、通史という視点より、現地を丹念に見て回る紀行文の延長という印象が強い。司馬遼太郎の「街道をゆく〈24〉近江・奈良散歩」(参照)も連想されるが、こちらの書物は司馬ならではの直感が満ちあふれている。私自身はこちらの書物を携えて、若い頃この土地をよく歩き回ったものだった。
 本書の通史的な構成はこうなっている。

第1章 古代
 “新王朝”継体天皇から聖徳太子へ/白村江の戦いが残したもの/壬申の乱、そして奈良朝
第2章 中古
 日本仏教の母山/最澄の後継者・円仁/天台仏教の星座/山岳仏教と浄土教/甲賀大工と寺社建築
第3章 中世(1)
 武家の擡頭と叡山/中世の民衆たち/南北朝・室町期の寺社/山門の全盛と一向宗の興隆
第4章 中世(2)
 中世の村落自治と近江商人/応仁の乱後の近江/戦国大名・浅井氏の盛衰
第5章 安土桃山期
 信長の天下布武/本能寺の変の陰で/秀吉、天下人への道/天下分け目の関ケ原
第6章 近世・近代
 名匠と文人たち/世界を舞台にした近江人/ゆらぐ幕藩体制/近代社会への脱皮

 率直に言うと、近江から見た日本史通史というより、日本史の通史側から近江が関連している挿話を切り出して貼り合わせたような印象もあり、独自の通史的な視点はそれほど顕著ではない。前半の古代まわりから読んだときは、新説への配慮には史学者らしいバランスのある筆致がありさすがだとは思ったが、やや退屈な印象もあった。
 これが中世以降になるとスリリングな展開になる。やはり中世史家としての面目躍如といったところだろう。さりげなくハッとさせらる記述がある。例えばこれなど。

 鎌倉新仏教の諸宗教は教科書にも大きく扱われるが、現実の中世社会にその宗派が力を持つのは、栄西の臨済宗を除けば二百年以上経過した応仁の乱の後である。

 そんなことは当たり前だという人もいるだろうが、応仁の乱をさりげなく出している点にきらめきがある。あの末法図のような世界でこれらの仏教が興隆してきたものだった。本書ではそれほど大きく描いてないが、この新仏教信者の背景にはさらに産業形態の変化もある。
 本書の中世への視点の重視で、さすがだと思ったのは、特に坂本という土地への注目である。

(前略)古代・中世には、この湖水は一大交通機能の役割を果たした。北陸の物資は塩津まで運ばれて湖水を一気に航して坂本に陸揚げされた。日本で最初の米市場は近江の坂本に置かれた。これは、東国・湖東の物資が坂本に集中し、その後、大消費地である京都に向かったことを表している。また、坂本は叡山の門前町であり、中世には物流経済を叡山の山僧が動かしていたことも示す。

cover
街道をゆく〈24〉
近江・奈良散歩
司馬 遼太郎
 まさにここが近江坂本の面白いところだ。
 近江の人や京都の人は当然知っているだろうが、坂本からはケーブルで叡山に上ることができる。私はこの始発で叡山に行った旅を懐かしく思う。皆さんにも、一泊二日で初日園城寺を見て、翌日は坂本から叡山を訪ね、京都に下るという旅をお勧めしたい。
 近江には、旅で巡りたいところがいろいろある。近江八幡から水郷めぐりもよかった。安土も懐かしい。そして五個荘もその一つだ。本書では近江商人の歴史的な背景についても触れられている。
 近江商人に関連してここでもハッとさせらる話がさりげなくあった。近世になるが北海道に関連していた。これは琉球にも関連していく。

 近江の商人が松前、江差に入った時期は、江戸前期の寛永年間(一六二四~四四)といわれ、そのほとんどがが近江八幡、柳川、薩摩の出身者で占められていたという(以上、サンライズ出版『近江商人と北前船』)。
 蠣崎慶広は豊臣秀吉、徳川家康から松前領を安堵され、蝦夷地の支配権を獲得したが、しょきにはアイヌに対する苛政が目立ち、十七世紀にはシャクシャインの反乱が起こった。その後、場所請負制度が敷かれると、松前藩士の知行地である漁場を両浜商人が借りる形で経営を行うようになった。商人は獲得された干鱈、干鰯、白子、昆布、ワカメなどを上方に送り、米穀は衣料をアイヌに給した。漁場の開拓と漁法の改良は商人が主導したもので、蝦夷地の開発は近江商人が担っていたといっても過言ではない。

 その後、蝦夷地は直轄され近江商人は引くことになるのだが、このやりかたこそ、実は日本の面目躍如といったところだろう。
 本書ではうかつにも知らないでうなったことが多いが、近藤重蔵の晩年が近江の地であったこともその一つだ。息子富蔵の一件もあり、近藤重蔵は大溝藩(現在の滋賀県高島市勝野)へ流刑となった。この親子についてはもっと知りたいと思っていたのだった。
 また、芭蕉の師、季吟がこの地の人であった。芭蕉はそう呼ばれるし、自身もそう記してはいるが、号は「桃青」でありこの地で立った人でもあった。
 そういえば今年の大河ドラマは「江~姫たちの戦国」(参照)ということらしい。崇源院の物語である。たぶん、私も見るだろうと思う。「江」の名の由来には諸説あるが、私は、「近江」の「江」であろうと思う。


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2011.01.02

[書評]いまこそルソーを読み直す(仲正昌樹)

 ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)については、翻訳だが私もそれなりに主要原典を読んできた。カントのように「エミール」(参照上巻参照中巻参照下巻)には一種の衝撃も受けた。これは難しい書物ではない。先入観なしに誰でも読むことができる。長編の割に読みやすく、おそらく読んだ人誰もが人生観に影響を受けるだろう。特に娘をもった父親には影響が大だろう。他、「告白」(参照上巻参照中巻参照下巻)は、ツイッターで元夫の不倫をばらすような近代人の猥雑さが堪能できる奇書でもある。
 そして、と紹介していくのもなんだが、私はこうしたルソー本人への関心と、政治哲学の基礎文献でもある「人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)」(参照)や「社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)」(参照)などの理解とは旨く像が結びつかない。前者の人文学者としてのルソーへの共感と、後者の法学や市民社会の基礎哲学の理解とは一応分けてはいるものの、当然ながら、ルソーという一人の人間の思想として見るなら矛盾してしまう。おそらくこれらを無理に併置し統合させようとして読むなら思想的な混乱に至るだろう。

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今こそルソーを読み直す
仲正昌樹
 仲正昌樹「今こそルソーを読み直す (生活人新書333)」はまさにその矛盾をそのまま受容しつつ、人文学者的なルソー観よりも、法学や市民社会の基礎哲学者としてのルソーを現代的な文脈で描き出している。
 その筆致が成功しているかというと微妙なところだ。本書は仲正氏の他書のような明晰性はそれほどには際立ってはいない。逆に意外なほど仲正氏という思索者の内面を結果的に照らし出しているようにも読める。巧妙にルソーの罠を避けながらそこに落ちたとも読める。が、それも意図的な結果でもあるのかもしれない。
 現代日本の政治思想の文脈でいえば、本書は、ロールズ、アーレント、デリダというあたりで再考されるルソー像の整理になっているので、こうした文脈、さらにいえば、「一般意志」という概念の再考を考える人にとっては面白い本だとは言えるし、そこが本書の売りとも言えるだろう。
 しかし私はといえば、現代日本の思想界とかには関心なく、依然日本国憲法とは何なのかという問題に固執しており、その原理性としてのルソーの政治哲学の整理に役立った。僭越なこと言うと、著者仲正氏はルソーの哲学が日本国憲法と深く関連しているという認識はそれほどないか、本書では秘されているか、あるいは日本国憲法そのものをただの形骸と見ているか、いずれにせよ日本国憲法とルソー思想の関連という観点は重視されていない。
 「一般意志」という文脈で今日提出されているルソー的な問題は、しかしながら、いたって簡単な形をしていて、本書も明確に描き出している。以下、引用部分の太字は本書のまま。

言い換えれば、私個人の自由を重視する「自由主義」と、私たち全員参加で決めることを原則とする「民主主義」がどのように理論的に結合しえるか、という問題だ。

 単純であり、かつ難問である。これに対してルソーの答えはこうである。

ルソーは、「社会契約」という最初の合意で定められた規約に従って成立する”私たちみんなの意志”としての「一般意志」という概念を導入することで、個人の自立と集団的自己統治、自由主義と民主主義を融合しようとしたわけである。

 そのソリューション案である「一般意志」とは何かが問われる。
 ということだが、補足すると問われているというのはあくまで形式的ないし議論上の手続きであって、日本国憲法についてはすでにそのような社会契約の一例であり、すでにそのような一般意志が日本に存在するということが、現実の日本という国の前提なのである。
 では、一般意志(volonté générale)とは何か。ルソーはどのように考えているか。
 ルソー自身がそれを明確にするための対比として持ち出したのが全体意志(volonté de tous)である。
 全体意志は、個人や、政党などの党派による各種の利害達成を目論む特殊意志(volonté particulière)の総和のことである。
 これに対して一般意志は、社会契約説に基づき、「常に公正で、公共の利益を目指す」ものである。
 実際のところ総和である全体意志は、その内部に利害の矛盾を含むので一つの意志としては機能しづらいし、整合性のある政策も導出できなければ、行政の主体ともなりづらい。しいて統一性を求めるなら党派で権力闘争するか、多数決で押し切るしかない。
 これに対して一般意志はどのように成立するのか。

 一般意志は、私的利害間の機械的な算術から生まれてくるのではなく、「熟慮=討議déliberation」を経て見出された「共通の利害」を基点として構成されるのである。逆にいうと、十分な熟慮を経ていないがゆえに、共通の利害がはっきりした形で見出されていなかったら、完全な一般意志は創出されれず、人民の決議は誤ることになる。

 いうまでもなく、この「熟慮=討議déliberation」は情報技術といったものによって効率化されたり改善されるものではない(情報技術そのものに一般意志化する傾向があるとしても)。

 人民の討議に際して重要なのは、人民の中に、「部分的社会」とも言うべき「徒党」や「分的結社」が形成されていないことである。

 日本の現状想起するとこの点でいかに民主党がルソー的な民主主義から逸脱していることがわかる。鳩山政権における強行採決の連発も顕著だったが、特に小沢氏の政治理念・実践はルソー的な民主主義の対極にあることが政権を取らせてから暴露された。「国民の生活が大切」と言いつつ、実際の政権を得たときには特定党派の利益を優先しようとした(あるいは一般意志を偽装した)。議会よりも党を上位に立てようとしたのである。これはどちらかというと民主憲法をもたない中国共産党の政治モデルである。
 民主党がいかにルソー的な民主主義から逸脱しているといっても、そもそも民主主義がイコール、ルソーの一般意志論とは言い難いという非難もあるかもしれない。だが、おそらくそれは無効だろう。日本国憲法自体がルソーの一般意志論を基点を共有しているからだ。
 それでもルソーの一般意志論自体には難点があり、ルソーも意識している。社会契約といっても、その基点が明瞭ではないことだ。

 人為的に新しい国家・人民を作り上げるチャンスが与えられたとしても、いかなる強制も偽りも含まない、純粋な「始まり」の瞬間を獲得することはほぼ不可能だ。

 ルソーはそこで、人民の合意を根拠として国家の存在と法に基づく統治の正統性について、擬似的な宗教である市民宗教(la religion civile)を想定する。これは強いていえば国家とは宗教であるということだ。
 このルソーの市民宗教については仲正氏はアイロニーの可能性を見ている。

ルソー自身が「神々」を召還しようとしたというよりも、さまざまな外観を帯びた「神々」の助けがなければ、正統性を主張できない近代的な「政治」の矛盾をアイロニカルに表現してみせただけかもしれない。

 ここが思想の岐路である。
 アーレントはおそらくここにアイロニーを読んでいない。またアイロニーと読む仲正氏は、一般意志を法人としての人格として読みながらも、実際には機能的な理解を示している。

 しかしながら、「共同的自我」や「公的人格」を、形而上学的な実体ではなく、あくまでも「人民」というフィクションを機能させるための形式的な条件のようなものだと見なせば、一般意志論にそうした全体主義的なニュアンスを読み込む必要はなくなる。私(=仲正)は、そう理解すべきだと考えている。

 私はそう考えていない。
 私はルソーの政治哲学には根幹的な矛盾があると考えている。国家の公的人格性はその矛盾の必然的な帰結であろう。
 簡単に言えば、一般意志は国家の共同体幻想として、むしろ国民に対しては実体的に先行して存在する。私たちはまず日本国民として生まれ、そこで社会契約の恩恵を先行して強制的に授かる。市民は、それが疎外した幻想体である国家幻想と同時に誕生する。
 この疎外された共同幻想の問題がルソーの政治哲学に胚胎していることは、本書の仲正氏もにも直感されている。

 ルソーの思考のユニークさは、内面とは異なる「外観」にすぎないはずのものが、我々の習俗の中にしっかりと定着し、人々の振るまいを―少なくとも表面的には―画一化させ、「社会」を構成している、という発想にある。

 国家の共同幻想の疎外性と先行性からルソー思想の持つ本質的な危険性も明確になる。それはルソーが一般意志の成立に対して、人間の基本性の全的な譲渡を言い出す点にある。一般意志が徹底した討議を経るとしても、最終的にそれは何によって保証されるのか。

 そこでルソーは、「各構成員をその全ての権利とともに、共同体の全体に対して、全面的に譲渡する」ことにしたらどうか、と提案する。各人が自己保存のために、(自然状態で持っている)権利を共同体に譲渡するというだけの議論であれば、ホッブスの社会契約論と大差はない。しかし、それはルソーの議論ではない。彼は、構成員となる人は、権利だけではなく、自分自身をも譲渡すべきだと主張する。


(前略)ルソーは、特定の誰かにではなく、共同体全体に対して譲渡すべきだと主張する。しかも、全員がそうべきだとと主張する。

 仲正氏はアーレントによるルソー論を熟知していながら、あるいはそれゆえにか、この問題については、一般的な全体主義への危険性の文脈としてしか議論していない。
 リバタリアンである私にとっては、ここが思想の急所である。私はこの問題は、死刑根拠の偽装であると考えている。死刑を所有している国家はそれ自体が、市民が自身を全的にすでに譲渡した結果ではないかと考えるからだ。
 共同幻想の成立がルソー的な自然論からは倒錯した手順になるように、死刑においても手順は逆にならざるをえない。死刑の是認として市民の全的な譲渡が先行しているのである。
 ただし日本国憲法について言えば、形式的にはルソー的な譲渡はなく、ホッブス的な信託となっており、一般意志を体現したものも国家そのもではなく、政府として切り分けられている。日本国民は実質的な革命権を保有しており、敗戦とはその行使であったというフィクションから日本国憲法が成立しているからだ。
 その意味では(一般意志への全的な譲渡が日本国憲法では形式的に存在しないため)、日本国はルソー的な民主主義そのものではない。だが死刑を内在している限り、そこにこっそりと市民の全的な譲渡を求める一般意志も内在してもいる。
 しかもその根拠性である共同幻想の宗教性は第一条の天皇によって象徴されている。
 ここに日本の逆説もある。
 ホッブスやルソーのような社会契約的な理路の性格の弱い共同幻想としての日本国家、あるいは天皇による市民宗教という擬制が、現実的には日本がルソー的な思想の帰結としての全体主義に陥ることを防いできた。日本の戦争は全体主義の結果ではなく、一般意志を失った党派のカタストロフであり、ゆえに市民宗教としての天皇が最終的に機能することで敗戦が可能になった。
 さらに戦後の日本は、その擬制的な矛盾が、内在において強固な伝統宗教的な社会と実質的にはそれに準じる規範を持ちつつ、憲法上はルソー的な民主主義(死刑を内在した国家)とホッブス・ロック的な民主主義(政府は信託でしかない)を掲げている矛盾と調和してきた。つまり、日本人は誰も共同幻想の意味合いでは、憲法を空文としてしか理解していない。
 むしろこのように矛盾した伝統宗教的な社会である日本に対して、それを全体主義として敵視する人々が信奉してきた社会主義・共産主義、あるいは共和制度のほうが、独裁と全体主義を導いてきた。
 では、日本国はこの矛盾のままでよいのか。あるいは、ホッブやロック的な英米的な民主主義に純化させるか。それとも、ルソー思想的であるがゆえに危険な民主主義をより安全な民主主義として救出するか。
 ルソー思想的な民主主義を選ぶのであれば、多少の現実的な矛盾を抱えつつも、徹底的な討議の可能性を持つ煩瑣な意志決定の仕組みと、それが公的な分野に限定されるべきだとして市民が私的領域を確固として守る健全なリバタリニズムが必要になるだろう。
 そしてそれには、靖国や天皇を問うといった問題化が公を偽装して私的な領域に踏み込むような形で政治性を持たせようとする思考も廃棄すべきだということも含まれる。


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2011.01.01

[書評]仮面ライダーファイズ正伝-異形の花々-(井上敏樹)

 昨晩は紅白歌合戦を見ていたが半ばでさすがに苦痛になり、読みかけの「仮面ライダーファイズ正伝-異形の花々-(井上敏樹)」(参照)の読書にした。その間頃合いをみて桑田さんの歌だけは聞いたが、また読書に戻る。読み終えてぼうっとすると年が明けた。こんな年末年始があってもよいだろう。

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仮面ライダーファイズ正伝
-異形の花々-
井上敏樹
 話はタイトル通り仮面ライダーファイズなのだが、2003年から2004年にかけて放映されていたテレビ版のノベライズではない。映画版のそれでもない。新規の書き起こしであり、「正伝」と銘打っている。普通だと「これが正しい物語」ということだが、結論からいうと、そうとは言い切れない。勇んで言うと仮面ライダーキバに至る伏線的な物語であった。
 情けないことだがハンドル名に反して私はそれほど仮面ライダーのファンではない。旧版はほとんど見ていない。わけあって仮面ライダーJなどいくつか後年ビデオで見たが、普通に見るようになったのは平成版になってから。
 最初のクウガは普通にドラマとして面白いんじゃないのと思った。特にダグバの設定は面白かったが、世界観にはそれほど惹かれなかった。惰性で見るかと思った次回作のアギトはすごかった。初回オープニングの曼荼羅図で衝撃を受けた。すべてわかったと言ってもいいくらい。こいつは私と同じくゾロアスター系の世界観の中毒者だな。しびれた。アギトの物語は謎また謎の展開で、ギルスの話などは未消化感はあったし、最終の世界創世的なシーンや使徒たちのシーンがしょぼくて萎えた面もあったが、全体的にはすごい作品だった。佐橋さんの音楽もキングクリゾンっぽくてよかった。「もうひとつの仮面の戯曲」(参照YouTUbe)は名曲すぎて震撼した。ってか、アギトはオペラ化できると思う。
 アギトのテーマの未消化感は三作目の龍騎にはあまり継がれず、この作品はそれなりにテーマも理解できるが私のテイストではない。途中まで見てダレた。
 四作目のファイズは本格的にアギトの世界観を継いでいて萌えた。毎回、これきちんと展開できるのかというスリル感もあった。結果は概ね成功していた。異郷に生まれ虐げられ、敵意を支えに生きる民族が王の出現によって再生するというエートスは露骨だなと思ったがそのあたり指摘している人はないようだし、普遍化して、例えばユダヤ人にとってのキリスト幻想を想定することもできる。総じてファイズの展開は想像を超えてすごいと思ったが、それでも未消化感はあり、特に園田真理にそれを思った。
 どう考えても、真理はアギトの真魚を継いでもっと聖なる力を権限させる依り代であるはずだ。なにより彼女がこの物語の主人公だろう。そのあたりのことはTV版にはうまく反映されなかった。かろうじて草加雅人が園田真理に母を求めているシーンに痛ましいものがあった。
 正伝の話に入る前に、以降の平成仮面ライダーだが、これらもあまり見ていない。カブトとか全然見ててない。電王、知らん。例外は、キバ。このころにはもう明確に私が関心を持っているのは、脚本家、井上敏樹その人だということはもう自覚されていたからだ。
 その彼がオリジナルで書くファイズの「正伝」なのだから読まざるを得ないじゃないか。ということだが私はこの分野の小説に疎く、この本の存在を知ったのは昨年に入ってからで、すでに絶版なのを中古プレミアムで買った。
 この分野の小説に慣れていないせいかもしれないが、いわゆる文学的に評価できる点は特にないと思われる。文章も叙述性としては舌足らず。TV版の映像を見た人でないとわかりづらいだろう。にも関わらず、この物語は相当に強烈だった。こういう感覚を抱えて生き続けちゃう人もいるんだよなという共感が胸にこみ上げてくる。
 正伝の物語には私が一番関心をもっているゾロアスター系の世界観はない。皆無。流星塾もしょぼい。スマートブレーンもない。正直かなりがっかりした。その部分は井上敏樹的なものではないのかもしれない。悪口みたいになるかもしれないが、この世界観自体はそれほど脚本的には理解されていないのかもしれない。こんな狂気の世界観をまともに書くわけもいかないかというのはあるのかもしれないとしても。
 かくして正伝の物語なのだが、TV版の物語をかなりスケールダウンしている。いちおうTV版どおり、乾巧(ファイズ)、園田真理、菊池啓太郎のクリーニング店の主人公トリオは出てくる。それに、木場勇治、長田結花、海堂直也のオルフェノクのトリオがいる。この6人に加え2人、草加雅人(カイザ)と木村沙耶が重要なキャラとして出てくる。正伝は概ねこの8人のキャラ物語である。
 正伝の巧は面白いポジションだがしょぼい。物語的には端役に近い。ファイズにも特に意味はない。代わりに園田真理は事実上主人公である。やはりな。彼女の性格はTV版に近いがもっとえぐくエロい。菊池啓太郎は概ねTV版と同じだがより強烈で神聖キャラになっている。
 オルフェノク側の木場勇治はキャラ的にはTV版に近いが役回しはかなり違う。事実上の副主人公であり内面描写が多い。オルフェノクの長田結花はTV版に近いが、内面描写でかなりえぐさがある。もう一人のオルフェノク、海堂直也も概ねTV版に近いが啓太郎同様、物語では微妙に神聖なキャラになっている。
 カイザとなる草加雅人のキャラもTV版にかなり近いが運命はかなり違う。見方によっては悲惨極まる痛いキャラだ。木村沙耶はTV版ではデルタに変身して死んだが、正伝では重要なキャラになっている。
 オルフェノクや仮面ライダーが出てくるという設定がなければ、園田真理は下着を気にしつつ木場勇治に恋している少女とか、物語は総じてありがちな青春ドラマ。視点によってはノル森に近いかもしれない。脚本家が私と年代の近いせいか、世代的に共感する点も多い。登場人物たちは、どいつもこいつも救いようのないほどの悲惨と不幸を抱えて生きている。このあたりの心象的な比喩性はどのくらい現代的とも言えるか、よくわからない。
 以下、モロ、ネタバレ。
 なるほどと思ったのは、草加雅人の母子関係とそれが背景になって園田真理をレイプするシーン。そして結局それを真理が以降もなんども受け入れてしまう話。たるい絶望的なそれの繰り返し。なるほどね。そうことだったのか二人はと、この点でTV版を思い出す。TV版にもその思いは仕込まれていたのだろう。
 正伝で、雅人と真理のだるい性関係の背後にあって、どろどろとした愛憎関係図の頂点になっているのが流星塾の幼なじみ沙耶である。このあたりの愛憎の感覚は昭和テイストを感じる。そしてこの物語では沙耶はデルタではなくオルフェノクであった。ということは、真理もオルフェノク的な資質があるのではないかというか、オルフェノクなのではないか。しかし、そういう設定にはなってなく、むしろ死地の縁で幼い巧に救われたという変な話になっている。そして巧はそこで一度死んでオルフェノクとなった。このあたりはTV版の裏話なのだろう。
 啓太郎は重要なキャラになっている。オルフェノク的な結花の心を溶かし、彼女は啓太郎の子どもを身籠もる。それを勇治は兄のような立場としてまた、オルフェノクと人間を取り持ち共存する可能性として見る。

自分にできなかったことを結花がしてくれたのだ。
普通の恋愛をして子供まで作った。
これこそ人間とオルフェノクの共存だ。
結花が勇治の理想を実現してくれた、と言ってもいい。
少なくとも希望の光が見えた気がした。

 そう。これはもうキバの物語である。啓太郎はキバの物語で紅音也となる。
 キバへの伏線はもう一つある。海堂直也である。彼はオルフェノクとして異族への憎悪と殺意を抑えている。それを可能にしているのは、音楽である。正伝では巧はギターの名手として存在し、オルフェノクでありかつてギタリストだった直也から音楽を望まれるシーンにこうある。

 けれども直也は知らなかった。
 ……殺せ……殺せ……人間を殺せ……というオルフェノクとしてのあの声を、直也の中の音楽がずっと封じ込めていることを。

 直也を介して巧の音楽という資質がオルフェノクと人間の共存として描かれている。そう、これもキバの物語である。
 しかし正伝の物語はまだそこにまで発展はしてない。
 オルフェノクの結花が啓太郎の子を宿しているなか、カイザの雅人は結花をその胎内の子とともに殺害する。それに怒りを抑えられない勇治はオルフェノクとなりカイザの雅人を殺害する。すでに、真理と勇治の関係は雅人によって破綻していたが、雅人は勇治を憎悪してもいた。
 そしてその連鎖から、巧はオルフェノクである勇治を殺害するのだが、そこでは巧はファイズを解かれて自身がオルフェノクであることを現す。オルフェノクとオルフェノクの戦いとして、巧は生き残るが、すでにオルフェノクとして巧は灰となり消える直前にある。かくして物語は終わる。救いは、何もない。
 キバの物語はこの構図の一部を引き継いでいくが、エンディングはよくわからない。キバは人間と異界族の混血の王として平和に君臨するかに見えるが、それが脚本家井上の物語の終点であるわけもないだろう。
 悲しみ、苦しみ、悲惨、不運それらが子どもたちを殺す。再生した子どもも凶暴で短命なオルフェノクとなる。その内面を抱えて、人間たちとどう生きていったらいいのだろうかと苦悩する。
 それはおとぎ話である。神話でもある。
 そのように自身を確認せざるを得ずに、済まされている人にとっては。

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