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2010.02.27

[書評]代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)

 本書「代替医療のトリック(サイモン・シン、エツァート・エルンスト)」(参照)は、日本では、「フェルマーの最終定理」(参照)や「暗号解読」(参照上巻参照下巻)で人気の高い科学ジャーナリスト、サイモン・シン氏の近著として読まれているように思う。シン氏の著作の訳はどれも青木薫氏に統一されていて読みやすいことも人気の一つだろう。

cover
代替医療のトリック
 私もそうした文脈で本書を読んだのだが、読後、本書は科学ジャーナリストとして十分に書かれているものの、この分野はサイモン・シン氏にとっては不慣れなままではなかったかという印象が残った。おそらく、シン氏もその点は理解していて専門であるエツァート・エルンスト氏と共著したのだろう。
 本書には興味深い献辞がある。「チャールズ皇太子に捧ぐ」である。なぜか。チャールズ皇太子が代替医療に関心をもち、どちらかと言えばその推進の立場にあるため、その科学性と有効性に再考を促したいとシン氏が願ったからだ。
 科学的な見地から市民社会への評価として見ると、本書の主張のように、代替医療にはほとんど効果はない。であれば、効果のない迷路のような世界にチャールズ皇太子やその追従者が進む前に、もう一度科学的な指針を本書によって示したいと願うのも理解できる。
 この問題意識は、現下の日本の民主党政権についてもいえる。民主党はマニフェストで代替医療の興隆を掲げているからだ。それが直接悪いわけではないが、本書に習えば、「鳩山由紀夫首相に捧ぐ」として読まれてもよいだろう。
 しかし、私の主張の結論を急ぐようだが、日本での最大の問題は、本書が例示した代表的な代替医療である、鍼、ホメオパシー、カイロプラクティック、ハーブ療法の4分野が、鍼がやや馴染み深いとはいえ、日本の代替医療の現状ではそれほど重要ではないことだ。鍼もまた本書で言及されているのは、1970年代以降の中国大陸の鍼であり、日本の現状とは微妙に異なる。さらに日本には石坂宗哲(参照)のような鍼術の系譜もあり、本書のような一括は難しい。
 そしてなにより日本の文脈で重要なのは、漢方の問題だろう。日本では漢方は代替医療として意識されておらず、しかも処方薬や市販薬としてあたかも確立しているかのようだが、その効果の大半は本書が提唱する科学の基準、つまり、二重盲検法などの臨床試験を経たものではなく、代替医療である。代替医療としての漢方がどれほど科学的にみて評価できるのかということが、今日本社会に問われている。
 本書では、漢方については、訳語からすると直接触れていないが、付録の代替医療の総覧の「伝統中国医学」が相当する。その部分の記述を見てもわかるが、本書の評価はホメオパシーほど非科学的なものではなく、「評価が難しい」として判断は留保されている。留保の理由は、漢方に利用される薬草(ハーブ)には有効成分を含むものがあるということであり、ハーブ薬の問題と同質な議論に還元されている。
 しかし、漢方の素材は、本書がハーブ薬として扱うような単味はほとんどなく、よってそれらの素材の単一の評価からは効果はわかりづらい(毒性はわかる)。
 代替医療が日本に問われるなら、漢方をどう扱ったらよいのかという課題を看過することはできないが、その考察に本書はそれほど有効な手がかりを与えてはくれない。もともと、日本の漢方は吉益東洞(参照)のように中国の漢方と異なる歴史をもっている部分もあり、全体像を総括することが難しいものではあるが。
 日本の文脈を離れると、本書は、英国的な書籍なのか、あまり米国的な印象を受けなかった。なぜなのか自問すると、おそらくクリントン政権下で実現した栄養補助食品健康教育法(DSHEA:Dietary Supplement Health and Education Act of 1994)の背景や実態についての考察が抜け落ちていたからだろう。なぜ、米国で代替医療が興隆しているのか、それを米国の市民社会はどのように考えDSHEAに結実したかという問題意識は、本書には見られない。
 このことは、DSHEAを経由してハーブ薬に影響を与えたコミッションE(参照)の言及が見られないことにも対応する。ハーブ薬の章には、各種ハーブ薬の効果についての一覧表があるものの、典拠が明確ではない。共著者のひとり、エルンストがコミッションEをベースに独自にまとめたものかもしれないが、例えば、マオウの項目に「体重減少」が「可」とのみ記されていることなど、ある程度知識を持っている人には不可解な印象を与える(本書のような書籍を訳出する際は、薬草学や関連する専門家の監修を経たほうがよいのかもしれない)。マオウに「体重減少」が掲載されているのは、欧米圏では、マオウとカフェインを主成分とするMetabolife 356(参照)が想定されるからだろう。他の例として、イチョウについてもコミッションEをあたるとわかるが、ハーブ薬とするための規定はかなり厳密になっているが、本書にはそうした観点は欠落している(参照)。
 補足になるが、米国の代替医療の現実の差異については、発行年がやや古いが「アメリカ医師会がガイドする代替療法の医学的証拠―民間療法を正しく判断する手引き」(参照)を参照するとわかりやすいだろう。こちらの書籍は米国に偏っているとはいえほぼ網羅的に代替医療についての医師会からの評価がわかる。本書よりも、代替医療の問題点が明確に描き出されている。
 それにしてもかくも問題の多い代替医療がなぜ社会に蔓延しているのだろうか。本書の読者の多くは、非科学的なホメオパシーやカイロプラクティックを含め、本書の付録で一覧にされてい代替医療の一覧を見ていると、なんでこんな非科学的な療法に惑わされる人がいるのだろうかと、いぶかしい印象を持つ人が多いだろう。だが、この問題は本書が解説しているほど、そう単純ではない。
 本書には、批判の対照として「セラピューティック・タッチ」について言及があり、それがいかに非科学的であるかという例証として、「[書評]わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか(ロバート.L.パーク): 極東ブログ」(参照)や「[書評]すすんでダマされる人たち ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠(ダミアン・トンプソン): 極東ブログ」(参照)で触れた同書と同様に、エミリー・ローザの事例を上げている。ウィキペディアなどもこの例を大きく取り上げて、非科学性の説明としている。
 確かに、このエミリーの事例はいかにもありそうなこととして、この種の本では扱い易いのだが、この一事例をもってしてのみ「セラピューティック・タッチ」が非科学的であると判断するには、ドロレス・クリーガーの業績は重厚になっている。そうした一端は、邦訳書としては「セラピューティック・タッチの技法」(参照)や「ヒーリング・パワー」(参照)などからも伺える。実際、セラピューティック・タッチは米国市民社会ではすでに一定の承認をえている。
 医学的検証も積み上がれている。なかには奇妙と思えるような研究もある。例えば、「Therapeutic touch affects DNA synthesis and mineralization of human osteoblasts in culture.」(J Orthop Res. 2008 Nov;26(11):1541-6)の概要より。

Complementary and alternative medicine (CAM) techniques are commonly used in hospitals and private medical facilities; however, the effectiveness of many of these practices has not been thoroughly studied in a scientific manner.

補完代替の技法は一般に病院や個人医院で利用されているが、それらの効果の多くは科学的な手法からは十分に検証されているとは言い難い。

Developed by Dr. Dolores Krieger and Dora Kunz, Therapeutic Touch is one of these CAM practices and is a highly disciplined five-step process by which a practitioner can generate energy through their hands to promote healing.

ドロレス・クリーガーとドーラ・クランツが開発した、セラピューティック・タッチは代替医療の一つであり、五段階のプロセスで習得法が高度化されている。これによって、治療を促すエネルギーを手から生み出すことが可能になるとされる。

There are numerous clinical studies on the effects of TT but few in vitro studies. Our purpose was to determine if Therapeutic Touch had any effect on osteoblast proliferation, differentiation, and mineralization in vitro.

セラピューティック・タッチの臨床研究は数多く存在するが、in vitro(イン・ビトロ)の研究は少ない。我々の目的は、in vitroにおいて、骨芽細胞増殖、分化、石灰化の効果を持つか見極めることである。


 結果はどうだったか。この研究では、効果があったとされている。
 まさかと思うのが科学的な常識であり、そのような特異な研究は他の研究によって否定されるだろうと考えるのも頷ける。だが、その理屈はエミリー・ローザの事例にも当てはまるかもしれない。
 私の個人的な考えを述べれば、セラピューティック・タッチは偽科学であろうと思う。だが、それをどう科学的に否定するかとなると、そう簡単な問題でもないとも思う。
 なぜこんな事態になっているのだろうか。なぜ、本書のような啓蒙書ないし同種の啓蒙活動がそれほど効果を持たないように見えるのはなぜなのか。偽科学批判の啓蒙がまだ足りないからなのだろうか。代替医療に限定すれば、そこには他にも奇妙な陥穽のようなものがあり、本書の著者たちも十分には留意していないからではないか。
 例えば、風邪にホメオパシーが効くとしてもプラセボ以上の効果はないとしながら、腰痛については本書は次のように言及する。

 一番難しいのは腰痛などの場合で、医師にできることは限られているが、それでもホメオパシーのようにプラセボ効果だけに頼った代替医療よりは効果が見込める。二〇〇六年、B・W・コースとそのオランダの同僚たちは『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』誌に「腰痛の診断と治療」と大する臨床報告を発表した。

 それは次のようなものである。

 非ステロイド抗炎症剤は、偽薬よりも痛みを緩和するという強力な科学的根拠がある。継続的運動を勧めることは、患者の回復を早め、慢性の身体障害になる率を低下させる。筋弛緩剤は偽薬より痛みを和らげてくれるが、眠気などの副作用が起こるということを示す強力な科学的根拠がある。逆に、ベッドで安静にしていることや、腰痛の治療のための特別な運動(筋肉強化、柔軟体操、ストレッチ、屈伸、伸展などのエクササイズ)には効果がないことを示す科学的な根拠がある。

 この話題はここで途切れているのだが、著者たちは、では、腰痛患者はどうしたらよい(どのような治療がよい)とみなしているのだろうか。
 BMJ(ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル)の話の通りなら、「腰痛の痛みがあれば、非ステロイド抗炎症剤を服用しなさい。痛みがあっても、日常の活動はしなさい」ということだろう。そして、ストレッチや腹筋を鍛えるといった活動には効果がない、とも。それは科学的に間違っていない。だが、治療とも言いがたい。
 実は、ここには、なぜ腰痛になるかという問題意識が欠落している。そこは科学的にどうなのだろうか。私の手元のBMJのクリニカル・エビデンス(参照)を見ると、腰痛の病因/危険因子については「症状、病理的所見およびX線所見はあまり相関しない。疼痛は約85%の人において非特異的である」とある。つまり、大半の腰痛には病理学上特異的な所見はない。なぜ腰痛になっているのかわかっていないことが大半なのである。
 原因がわかっていなくても治療はありうるが、本書の筆者たちがBMJを引いている指針には、疼痛の軽減がNSAID(非ステロイド抗炎症剤)で可能だということと日常活動の継続が効果的だということで、治療は書かれていない。
 BMJの同書には、腰痛の多くに心因の言及がある。心因であれば、まさに無意識を含めた心の問題であり、であれば呪術的な治療が効果をもってしまうこともあるのではないだろうか。心が病を生み出しているなら、薬剤の効果を知るための二重盲検法も難しい。
 市民社会はEBM(根拠に基づいた医療:Evidence-based medicine)が優先されなければならないが、その臨界は腰痛の例のようにあまり明確ではない部分があり、実際の代替医療はそうした市民社会側の要請で実質成立しているのではないか。だとしたら、ただそれを非科学としてのみ排除することは難しいのではないか。そうした視点にまで本書が及んでいたなら、より広い問題提起となっただろう。

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2010.02.26

ダルフール危機は終わったのか?

 ダルフール危機について初めてこのブログで書いたのは2004年4月10日のことだった(参照)。私がこの問題を知ったのは同年同月3日付けワシントン・ポスト紙社説「Crisis in Darfur」(参照)からだった。
 当時、国境なき医師団のサイトに日本語で読める関連情報があったが、日本のジャーナリズムではこの問題に触れていなかった。スーダン政府が民衆の殺戮、つまりジェノサイドに加担していると思えるような状況が発生しているのに、黙っていてよいものだろうか。人類は、ホロコーストがあり、ルワンダ・ジェノサイドがあり、もう二度とジェノサイドを起こしてはならないと言いながら、当時、刻々とジェノサイドは進行していくように思えたものだった。
 なぜダルフール危機について国内で十分な報道がなされていかったのだろうか。いずれにせよ、そういうことであれば、ブログこそがジャーナリズムを補完すべきかもしれないと思い、この問題をその後も追ってきた(参照)。
 その後もしばらく日本のジャーナリズムではダルフール危機が語られなかったが、おそらく背景には、スーダン政府に武器供与を行っている中国への配慮があったのだろう。私も、中国バッシングのネタとしてダルフール危機問題を取り上げるのだというような避難も浴びたものだった。しかし問題は直接的には中国ではなく、とにかく国際世論によってジェノサイドを停止することなのだが、そういう話題にはならなかった。
 それ以前に、進行していた事態がジェノサイドであるという認識が得にくいものがあった。ダルフール危機の実態は、スーダン政府に対立する勢力による、いわば内紛にすぎないと見る見方もあった。たしかに、ダルフール危機は、政府対反抗勢力がもたらした地域紛争であるとも言える。しかし、事態の本質は政府が無辜の民衆を組織的に殺害していくことにあった。
 ブッシュ元米大統領はダルフール問題にそれなりに配慮を示した。オバマ大統領もダルフール危機をジェノサイドであることを明言した(参照)。また、国際刑事裁判所(ICC)は2009年3月4日、スーダンのオマル・バシル大統領に対し、人道に対する罪と戦争犯罪の容疑で逮捕状を出した。ようやく明確に戦争犯罪として国際的に認識されるようになった。
 しかしこの時点では、ジェノサイドの罪が問われていたわけではなく、むしろ微妙に避けられていたふうでもあった。が、2010年2月3日、国際刑事裁判所(ICC)は再考の上、オマル・バシル大統領をジェノサイドで追訴することを決めた(参照)。
 こうしたなか、2月20日、ダルフールの反政府組織で最大規模の「正義と平等運動」(JEM)がスーダン政府と停戦合意した。同種の停戦は2004年時点にもあったが、今回は、国連とアフリカ連合(AU)の口添えに加えカタールの協力が入っていること、また、実質的な戦闘は2008年時点から鎮静化に向かっていることもあって、この合意で紛争の側面が解消されると期待されている。この間の反政府組織の動向は2月23日付ロイター記事「TIMELINE-Darfur Rebels to sign peace agreement with Sudan」(参照)が詳しい。
 沈静化の動向と近年のダルフールの状況については、ジェフリー・ジェットルマン(Jeffrey Gettleman)氏が1月1日付ニューヨーク・タイムズに書いた記事「Fragile Calm Holds in Darfur After Years of Death(ダルフールの死者の歴年の後、壊れやすい鎮静が続く)」(参照)が詳しい。
 この記事は示唆深く、なかでもAUの指揮官ダニエル・オーグストバーガー(Daniel Augstburger)氏による、「人々は狼だと叫んでいたが、危機の中の危機はけして起きなかった」という指摘は、受け止めようによっては、ダルフール危機を叫んだ人々はイソップ寓話の狼少年であっただろうかという内省を促すものでもあった。
 また、現状30万人と推定されている死者だが、英医学誌「ランセット」は死者の八割は生活環境の悪化による病死と推定した。2月3日付け共同記事「ダルフール死者数の8割超が病死 英医学誌に発表」(参照)では、「紛争が最も激しかった04年は暴力行為が主な死因だったが、05年以降は、劣悪な衛生環境の避難キャンプで栄養不足や下痢、汚れた飲み水が原因の病気などで死亡するケースが大半だったとの結果を導き出した」とも伝えている。
 さて、ダルフール危機はもう終わったのだろうか?
 私はエントリ冒頭、この問題を2004年のワシントン・ポスト紙で知ったと描いた。同じくワシントン・ポスト紙は25日付社説「Sudan truce offers some hope for peaceful change」(参照)で、まさにそこを問いかけている。


The war in Darfur, which is estimated to have caused more than 300,000 deaths and prompted a global campaign to defend its 2 million refugees, may have ended.

推定30万人の死者をもたらし、200万人もの難民を阻止しようと国際運動となったダルフールでの戦争は、終わっているのかもしれない。


 2009年の夏を終えた時点で現地の国際平和維持部隊は戦闘終結を宣言している。その後、数か月にわたり戦闘は見られない。なぜだろうか?
 ワシントン・ポスト紙の記事は、まずバシル大統領が国際刑事裁判所(ICC)の逮捕を免れようとしている可能性を指摘している。

Mr. Bashir's peacemaking is partly driven by his desire to free himself from the war crimes charges and sanctions against his government.

バシル氏の平和志向には、戦争犯罪容疑と彼の政府への制裁を免れたいとする動機も多少はある。


 しかし、それだけではないとして、同紙は2点の重要な指摘をしている。(1) 4月11日に予定されている26年ぶりの総選挙で大統領としての信任を得なくてはならない。他の候補に弱みを握られてたくない。 (2) 来年1月に予定されている南部スーダンの独立に備え、西部ダルフール危機を悪化させたくない。
 2点は連鎖している。バシル大統領としては、やや難しい橋を渡る時期になっている。大統領に再任されたとしても、ダルフールとは異なり戦車も保有している南部の独立は阻止しがたい。
 バシル大統領は、このままおとなしくしているのだろうか。どうもそうではないようだ。

The potential for violence in all this is enormous. Fighting along tribal lines is growing in the south, along with accusations that the fighting is being fueled by Mr. Bashir's government.

全体として暴力の潜在性はかなり大きい。南部では部族間の戦闘は拡大しており、その戦闘をバシル政権が焚きつけていると非難されている。


 南部独立を阻止するために、バシル大統領は、また酸鼻な戦闘に持ち込もうとしているのかもしれない。こうした挑発がダルフールに及ぶ可能性もある。
 米国オバマ政権は現状、当面のスーダン大統領選挙が民主的に実施されることを期待しているようだし、バシル大統領の再選を阻止することが好ましいわけもない。米国としてはバシル政権を安定させ、とりあえず南部の独立という道筋を付けたいのだろう。
 ダルフール危機は終了したのか? こうした文脈で考えてみると、まだそのようには到底思えないのではないか。

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2010.02.25

アムネスティ・インターナショナルに問われる良心

 十分にフォローしていた話題ではないが気になるうちに書いておこう。日本語として読める関連記事は、ニューズウィーク日本語版に寄稿されたクリストファー・ヒッチェンズ(Christopher Hitchens)氏による「問われるアムネスティの良心(Suspension of Conscience)」である。実際のところ、この記事が話題の起点にもなっているようだ。オリジナルは「スレート(Slate)」の同記事(参照)で読むことができる。この記事がニューズウィークに転載された形になっている。なお、同種の記事は14日付タイムズ紙「The conscience stifled by Amnesty」(参照)も扱っている。
 ヒッチェンズ氏の記事では冒頭、アムネスティ・インターナショナルの歴史的な背景に触れている。どのような理念で形成されたかを確認したいためだ。それは今更に言うまでもなく、「良心の囚人」を支援するものだった。人が良心にしたがって発言したことが国家の処罰の対象になることに反意を示すものだ。
 話題はこうだ。アムネスティ・インターナショナルがタリバン支持者を人権活動家とみなしたことを、アムネスティ・インターナショナル上級職のギータ・サーガル(Gita Sahgal)氏が「大きな間違い(a gross error of judgment)」だと批判したところ停職処分となってしまった。
 獄に捉えられたわけではないが、良心に従って行動するはずのアムネスティ・インターナショナルがその組織のなかで良心の声を封じたに等しい結果になってしまった。
 ブログを中心にサーガル氏支援の声が上がり、現在では専用のサイト「Human Rights For All」(参照)も設置されている。アムネスティ・インターナショナルがこの問題への対応に変化をつけるか、あるいはサーガル氏を中心に新しい人権団体が創設されるかは、現状ではよくわからない。
 私の関心は2点ある。1つは、こうした、政治団体にありがちな分派的な問題なのかということ。もう1つは、サーガル氏が正しく、アムネスティ・インターナショナルの下した判断が間違っていると言えるのかということだった。
 前者については先に触れたようによくわからない。後者についても難しい問題があるようには思えた。問題となったタリバン支持者は、2001年のアフガニスタンの戦闘で逃れパキスタンで逮捕された英国国籍のモアゼム・ベッグ(Moazzem Begg)氏である。彼はグアンタナモ収容所に収監されたが釈放され、人権団体「ケージプリズナーズ(Cageprisoners)」に参加し、グアンタナモ収容所閉鎖運動を展開している。
 アムネスティ・インターナショナルがベッグ氏と協調したのは、このグアンタナモ収容所閉鎖運動の接点だったようだ。それはそれで理解できる。
 が、ケージプリズナーズの幹部アシム・クレシ(Asim Qureshi)氏は、イスラム過激派組織ヒズブド・タフリル(Hizb-ut Tahrir)の集会に同席し、聖戦擁護発言を行っている。サージ氏が問題視したのはここだ。 彼女は、クレシ氏とアムネスティ・インターナショナルの同席が、「囚人の権利団体を超えた活動("way beyond being a prisoners' rights organization" )」に思え、批判し、停職処分となった。
 背景を知ると、それなりに難しい問題だということはわかる。そして、この問題は視点によって判断は異なるだろうし、アムネスティ・インターナショナルの判断が必ずしも誤りとはいえないだろう。
 記事を執筆したヒッチェンズ氏は、良心に基づく言動活動の帰結と、実際の思想活動の間に線引きをしているようだ。つまり、言論活動であればアムネスティ・インターナショナルは支援するが、それが実際の過激派の活動に関与している部分への加担と見なされる行為は避けるべきだということだ。私も、どちらかと言えば、そう考える。
 あと余談めいた話になるが、日本版ニューズウィークの翻訳記事では、以下の部分が省略されている。が、この部分は非常に重要であると思われる。日本版ニューズウィークはなぜこの部分を省略したのであろうか。


Cageprisoners also defends men like Abu Hamza, leader of the mosque that sheltered Richard "Shoe Bomber" Reid among many other violent and criminal characters who have been convicted in open court of heinous offenses that have nothing at all to do with freedom of expression.

ケージ・プリズナーズは、アブ・ハムザような人物も擁護している。彼は、靴爆弾のリチャード・ライドを匿ったモスクの指導者であり、他にも、凶悪犯罪公開法廷で有罪とされた武装活動家や犯罪者も匿ってきた。これらの犯罪は、表現の自由とはなんら関係はない。


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2010.02.24

地球温暖化防止には気象観測所を増やしたらどうかという間違った提言について

 地球温暖化を防止するにはどうしたらよいか。温室効果ガスの削減が望ましい。「黒色炭素(Black Carbon:ブラックカーボン)の地球温暖化効果: 極東ブログ」(参照)で触れたようにブラックカーボンの低減も重要だ。ブラックカーボンは二酸化炭素に比べ大気中にとどまる時間が短いとはいえ恒常的に排出している現状は率先して改善されなければならないし、対策費用に対して効果は比較的高い。これに加え、意外な地球温暖化防止の方法が見つかった。気候観測所を減らすことである。
 この提言は、グラフから簡単に読み取れるだろう。「科学と政策研究所(Science & Public Policy Institute:SPPI)」から1月23日に公開された、「ウエザーチャネル(the Weather Channel)」の共同創設者で初代気象学ディレクターのジョセフ・ダレオ(Joseph D'Aleo)氏と「サーフェイスステーション・オーグ(SurfaceStation.org)」の創設者であり気象学者のアンソニー・ワッツ(Anthony Watts)氏共著の報告書「Surface Temperature Records: Policy Driven Deception?」(参照・PDF)によると、地球の温暖化と観測所の数は反比例の関係にある。

photo
棒グラフがGHCNで観測された平均気温、折れ線グラフが観測所の数

 地球温暖化が加速する1990年代以降、気温の観測所の数が激減している。グラフを一見する限りでは、観測所数の低減が地球の温暖化をもたらしているようにも見える。
 なぜなのであろうか。地球温暖化についてはまだまだわからないことが多いが、このデータからは、観測所の数を1990年代以前にまで増やすことで、温暖化防止が実現できるのではないかという期待がもてそうだ。

 そんなわけないです。
 すいません。悪い冗談でした。
 以下は真面目な話。

 いや、悪い冗談というのは、観測所を増やせば地球温暖化が防止できるという話であって、グラフ自体には冗談は含まれていない。このグラフを含めダレオ氏とワット氏の報告は科学的になされている。つまり、地球温暖化の統計の背後に、観測所の低減という事実は存在すると指摘している。
 しかし、有効な観測所を残し、旧態依然の不正確な観測所を統合しても、別段観測に問題はないのではないか、観測所の数は地球温暖化統計に意味ある影響を与えてはいないのではないか。そう思う人もいるだろう。またまた質の悪い地球温暖化懐疑論なのではないか、そう思ってついでバッシングしたい気持ちを持つ人もいるかもしれない。
 が、そうでもない。
 話は、先のSPPIの報告書に詳細があるが、ニュース報道的には10日付フォックス・ニュースのジョン・ロット(John Lott)氏による「The Next Climate-gate?」(参照)が要点をまとめているので紹介しよう。ただし、公平を期して言えば、フォックス・ニュースは温暖化懐疑論を面白おかしく取り上げることが多いので、その側面が注目されるということはある。気になる人は原典にあたるとよいだろう。


In a January 29 report, they find that starting in 1990, the National Oceanic and Atmospheric Administration (NOAA) began systematically eliminating climate measuring stations in cooler locations around the world.

1月29日発表の報告書で、ダレオ氏とワット氏は、1990年から、米国国立海洋大気圏局(NOAA)は世界の寒冷地における気候観測所を組織的に削減しはじめた。

Yes, that's right. They began eliminating stations that tended to record cooler temperatures and drove up the average measured temperature.

本当にそうなのだ。NOAAは低気温になりがちな観測所を削減し、観測された平均気温を釣り上げた。

The eliminated stations had been in higher latitudes and altitudes, inland areas away from the sea, as well as more rural locations. The drop in the number of weather stations was dramatic, declining from more than 6,000 stations to fewer than 1,500.

削減された観測所の所在地は、高緯度で高地、また海から離れた内陸であり、より非都市部の地域であった。観測所の低減は6000カ所から1500カ所へと劇的なものだった。


 ということで、観測所は地球気温を効率良く計測するために削減されたものではない。もっとも、地球が温暖化しているというデータを捏造するために削減されたわけでもない。
 ここで疑問もあるだろう。地球温暖化の基礎データは重層的に採集されているのではないだろうか。ところが、そうでもないらしい。そこが今回の報告書の興味深いところでもある。

All three terrestrial global-temperature datasets (National Oceanic and Atmospheric Administration/ National Climatic Data Center, NASA Goddard Institute for Space Studies, and University of East Anglia) really rely on the same measures of surface temperatures.

NOAA、米航空宇宙局(NASA)ゴッダード宇宙研究所、イースト・アングリア大学という3つの地球気温データ源は、実際には、同一の地表気温測定に拠っている。

These three sources do not provide independent measures of how the world’s temperatures have changed over time. The relatively small differences that do arise from these three institutions result from how they adjust the raw data.

これらの3つの情報源は、歴年の地球気温変化の状態について、独立した計測値を提供してはいない。3つの組織に比較的小さな差異があるのは、生データの調整手法によるものだ。


 NOAA、NASA、アングリア大学の3ソースについては、出所はほぼ同じと見てよく、ダレオ氏とワット氏の指摘は当てはまるようだ。もちろん、これにも異論もあるだろう。
 ダレオ氏とワット氏の報告は、別の視点からも興味深い考察を促している。「どうやらあと20年くらい、地球温暖化は進みそうにない: 極東ブログ」(参照)で、BBCによる地球温暖化の話題を紹介したが、そのなかでこの10年間地球は温暖化していないという話があった。この問題については各種の議論があるが、今回の報告では、観測所削減によるのではないかという指摘もある。

One of the major ones questions has been the divergence in temperature data recorded by satellites in space and down here on the ground.

大きな問題の一つは、衛星から計測した気温と地表測定の気温に差異があることだった。

That difference was very small when satellites first started being used during the 1980s but has grown over time, with ground observations showing a rise in temperature relative to the satellite data.

1980年代に観測を始めたころはその差は小さいものだったが、年を重ねるにつれ大きくなった。衛星観測より地表観測が比較的高くなったのである。

The urban warming effect may not only explain this, but also why land warming has been so much greater than ocean warming.

この都市部での温暖化効果のみでは説明が尽くせないし、なぜ海洋温暖化が地表より進むのかも説明しづらい。


 ダレオ氏とワット氏は、この疑問の根は観測所数による錯誤ではないかと想定している。
 いずれにせよ、観測所の削減は、地球温暖化データを取得したいがための捏造というわけではなく、単に科学的方法論の適切さへの科学的な批判と受け止めたほうがよい。
 さらにいえば、今回のダレオ氏とワット氏の報告によって、そのまま地球温暖化が間違いであったという結論に結びつくわけではない。この点はきちんと留意したいし、政策の決定はまた別のプロセスになる。
 政策という点では、22日付ワシントン・ポスト社説「Climate insurance」(参照)の2つの原則が参考になるだろう。

The first is to acknowledge a level of uncertainty in the predictions and make the case for taking out an insurance policy, as would any prudent homeowner.

第一は、予測における不確実性の水準を認めつつ、思慮深い自宅所有者のように、事態に備えて保険をかかるという指針を持つことだ。



And all the more so when -- and this is the second key point -- the action that would have the most beneficial effect with regard to climate change is in the national interest anyway.

さらに重要なのは、これが第二になるのだが、気候変動に関するもっとも有益な対応は、とにかく国益にかなうということだ。


 ワシントン・ポストの指摘は米国に対してのものだが、日本により当てはまるとも言えるだろう。

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2010.02.23

[書評]医薬品クライシス 78兆円市場の激震(佐藤健太郎)

 書名「医薬品クライシス 78兆円市場の激震」(参照)は刺激的だ。78兆円規模の医薬品市場に激震が走るというのである。いつか。2010年、つまり、今年だ。帯に大書されているフレーズ、「2010年、もう新薬は生まれない」が象徴的だ。

cover
医薬品クライシス
78兆円市場の激震
 帯ではまた「崇高な使命、熾烈な開発競争、飛び交う大金、去っていく研究者」として激震が語られている。だが単に危機を煽った書籍ではないことは、著者佐藤健太郎氏が二年前まで現役の熟練創薬研究者であり、この数年の動向を踏まえていることからわかる。
 なぜ、激震が及ぶのか。私としては二点で理解した。一つは、創薬のハードルが年々高くなってきているということだ。効果のある新薬を生み出すのはノーベル賞受賞より難しい。しかも、医薬品に付きものの副作用に対する安全性にも厳しい目が向けられている。
 二点目が、2010年に関わる。これまで製薬会社のドル箱であった医薬品の特許期限が今年を中心にバタバタと切れ、安価な後発医薬品に追われるようになることだ。創薬の製薬会社の利益確保が格段に難しくなる。
 しかし、ここで医薬品市場ではなく、医薬品を使う側の市民の視点に立つなら、一見話は逆のように見える。成分が同じであるがゆえに効果が同じと見られる後発医薬品が安価に購入できるなら、利用者の負担も減るし、国家の医療費負担も減ることで税の圧迫が抑えられる。確かに、その側面はある。が、反面には、個々には利用者の少ない難病患者のための医薬品開発がより難しくなる現象もある。本書は、医薬品にまつわる各種の側面をバランスよく捉えている。
 本書は、医薬品市場と創薬の現場について焦点を置いているものの、一般の読者にとって興味深いのは、創薬とはなにかという解説だろう。化学者はどのように医薬品を創造するのか。また、創薬の世界にも流行があるといった話は、普通に科学に関心をもつ市民にとっても知的に興味深いところだろう。
 むしろ、書籍としては医薬品市場や創薬の話というより、またクライシスという危機についてよりも、現代の医薬品を総括的にわかりやすく語った点で広い読者層に読まれるべきだろう。ふんだんに散りばめられた各種のエピソードも興味深い。個人的には、遠藤章先生の執念の話や、思わず社内でボツになりかけたハルナールの話などは、もっと知られてよいようにも思えた。

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2010.02.21

鳩山首相が共産党に言われて検討したかった企業内部留保問題について

 ちょっとまとまりのないエントリになるかと思うが、内部留保問題について少し思うことがあったので簡単に記しておきたい。話の発端は17日、鳩山由紀夫首相と共産党・志位和夫委員長が国会内で会談し、志位氏が「大企業の内部留保が日本経済の成長力を損なっている」との指摘に、鳩山首相が「内部留保に適正な課税を行うことも検討してみたい」と応答したことだった(参照)。
 会談での話題は他に、所得税の最高税率引き上げや、証券優遇税制の見直しもあったようだが、内部留保課税についての鳩山首相の発言はまたしても予想通り即座に問題化した。
 企業の内部留保課税は国際競争力を低下させることになりかねないとして、産業界からすぐに反発の声が上がった。一例だが、日本商工会議所の岡村正会頭も「一般論として企業の国際競争力の面からは不適切だ」との認識を示した(参照)。
 その後の経緯からすると鳩山首相のまたしても単なる軽薄な失言の部類らしく、平野博文官房長官も翌日ビジネスライクに火消しに回り、「首相が検討すると言い切った、とは思っていない。税制として一般的に考えていかなければならないこと、として引き取られたのではないか」と述べた(参照)。峰崎財務副大臣も同日、共産党提案の内部留保課税について「税調にない。税調の課題としても出ていない」とすげなく否定した。
 その後、労働団体からも共産党に同調する意見もなく、だいたいこれでこの話は終わった形になった。労働団体としても、勤め先の企業の内部留保課税はデメリットがあると見ているのだろう。
 今回の鳩山首相の不用意などたばたで若干残念だったのは、亀井金融担当相の大立ち回りが見られなかったことだ。亀井氏は「大企業は200兆円を超える内部留保を持っているにもかかわらず、一般国民の懐は段々貧しくなっているという現実もある。そういう意味では政府が直接懐を暖かくすることも大事だ」(参照)や、日本経団連御手洗冨士夫前会長に「あなたたちは、下請け・孫請けや従業員のポケットに入る金まで、内部留保でしこたま溜めているじゃないか。昔の経営者は、景気のいいときに儲けた金は、悪くなったら出していたんだよ」(参照)の持論があるので、もっと派手な問題化に焚きつけるのではないかと、若干期待感はあった。
 ところで話の根っこのもう一つ、共産党の言い分はどうだったのだろうか。これがちょっと面白い。「大企業に責任果たさせよ 志位委員長の質問 衆院予算委」(参照)より。


 志位氏はさらに、大企業が空前の利益を上げながら、なぜ国民の暮らしも経済も豊かにならないかについて質問を続けます。
 この10年間の大企業の経常利益と内部留保、雇用者報酬の推移を示すグラフ(1面参照)を使い、大企業の経常利益が15兆円から32兆円に増えた一方、労働者の雇用者報酬が279兆円から262兆円(09年は253兆円)へ大きく落ち込んだことを指摘。問題は、大企業が増やした利益がどこへいったかです。志位氏が、大企業の内部留保がこの10年余で142兆円から229兆円へと急膨張した事実を示すと、他党議員席からも「その通りだ」と声が上がりました。日本経済のカラクリがここにあったのです。


志位 国民がつくった富を、大企業のみが独り占めにする。日本経済をまともにしようと思ったら、このシステムを改める必要があると思うがどうか。
首相 グラフを拝見すると内部留保が大変に増えている実態はあると思う。それをどうするか、一つの判断はありうるのではないか。

 ところで、企業の内部留保とは何かだが、ブログisologue「政治家のみなさんに向けた会計の初歩の初歩」(参照)が詳しく解説している。典型例としてわかりやすいのは、内部留保が多くても借方の大半が固定資産等になっている企業の例だ。こうした場合、内部留保といっても大半はキャッシュとして企業内にだぶついているわけではなく、企業活動のための投資に回されていている。

 固定資産を買うということは、取引先の企業の売上に繋がるということです。そして、その取引先の企業で雇用も生まれるわけです。
 この会社が自分の従業員に資金を分配することだけが正義じゃないわけです。
 企業の内部留保や労働分配率だけを見て、いいの悪いの言う政治家の方もいらっしゃいますが、経済全体に目が向いていないんじゃないでしょうか?
 固定資産というのは未来の収益のための投資です。
 従業員に分配するだけでなく、会社が他の会社のものを購入することでも社会に貢献しているのに、なんで内部留保(右側)だけを見て課税されたり、「行き過ぎた金融資本主義」なんてことを言われないといかんのでしょうか?

 問題は共産党はこうした理屈を踏まえた上での提言であったか、鳩山首相も簿記の基本を踏まえた上の検討であったか。おそらく、どっちでもなく、簿記のいろはがわかってなかった皆さんのお騒がせという笑話っぽい印象はある。
 ただし。
 ここで共産党や亀井氏の肩を持つわけでは全然ないが、気になることがあって、三点ほど関連して私は少し考えていた。
 一つは、先のisologueエントリにもあるが、内部留保ではないが、固定資産などを除いた預金が企業に貯まっているなら課税してもよいという議論なら正しいのではないかということだ。その実態はどのくらいあるのだろうか。
 二点目は、共産党志位氏の指摘に次のようにフィナンシャルタイムズを論拠付けに参照した部分があったことだ。8日、衆院予算委員会の志位委員の発言(参照)を追ってみたい。

 イギリスの新聞、フィナンシャル・タイムズは一月十三日付で、日本の困難な数十年から何を学べるかと題する論評を掲載しています。
 そこでは、なぜ日本経済が世界規模のショックにこれほどまでに脆弱だったのかと問いかけ、企業が過剰な内部留保を蓄積したことを日本経済の基本的な構造問題の一つとして指摘しております。そして、内需主導の成長のために最も重要な要件は企業貯蓄の大規模な削減であり、新政権は企業の行動を変化させる政策を実行すべきだと述べています。私は一つの見識だと思います。

 このフィナンシャルタイムズ記事はマーティン・ウルフ氏寄稿"What we can learn from Japan’s decades of trouble"(参照)だ。gooに翻訳がある(参照)。志位氏もこの翻訳文を読まれたのではないだろうか。

私自身は、追いつけ追い越せの高度成長が終わった後に、企業による過剰な内部留保と投資機会の減少が組み合わさったことが、構造上の根本的問題になったのだと思う。ロンドンにあるスミザーズ&カンパニーのアンドリュー・スミザーズ氏によると、日本で住宅関係を除く民間の固定投資は1990年で対GDP比20%で、アメリカの2倍近くだった。これは2000年代に微増したものの、現在では13%まで下落している。しかし企業の内部留保については同じような減少は起きていない。1980年代には、こうした企業貯蓄を吸収するべく金融政策がとられたため、資金調達コストはゼロに留め置かれ、無駄な投資はそのまま続いた。2000年代の企業貯蓄対策は輸出と投資ブームで、主に対中貿易がけん引役となった。


日本は今、内需主導の成長実現を目標としなくてはならない。最重要な要件は、企業貯蓄の大幅削減だ。スミザーズ氏いわく企業貯蓄はそもそもが、過去の過剰投資の産物である資本消費が元なのだから、企業内部留保は自然に減っていくだろう。

 原文と簡単に照合してみたがgooの翻訳に誤訳はないように思えた。「内部留保」については、原文では"corporate savings (retained earnings)"となっている。定訳語としてもこれでよいのだろう。
 マーティン・ウルフ氏寄稿と志位氏の理解が合致しているだろうか。ずれているように見える。
 まず、ウルフ氏は現下の日本企業の削減が重要だが、スミザーズ氏の指摘を受けて、それは自然に減少すると見ている。過剰投資は減価償却の赤字分で相殺されるだろうということだろう。だから、この点では、志位氏が主張するような「企業貯蓄の大規模な削減であり、新政権は企業の行動を変化させる政策を実行すべき」という政策論には結びついていない。
 また、政策論であれば、80年代の「企業貯蓄を吸収するべく金融政策」が有効だったとしているので、これは現代の文脈で言えば、リフレ政策に相当するものだろう。
 実際ウルフ氏のこの先の主張もリフレ政策に親和的な論調になっていて、志位氏の理解では文脈に合わない。

デフレももう止めなくてはならない。そのために日本銀行は、円高の行き過ぎ回避のため政府と協力しなくてはならない。最近の円高基調の中、本来ならもっと積極的な通貨政策があってしかるべきだった。日本が意味のあるインフレ(2%というのはギリギリ最低限だ)をついに達成して初めて、日本にまだ必要な実質マイナス金利が実現できるようになる。

 ウルフ氏は、通貨政策を基本に最低でも2%のインタゲ政策を実質的に推奨している。「内部留保」は、企業経営の結果ではあるが、むしろ高度成長期以降の日本経済の必然的な構造でもあるという指摘として理解したほうがよいだろう。
 三点目は、他の論点と重なる点もあるのだろうが、私が好きなピーター・タスカ氏のコラム「鳩山首相のトゥ・ドゥ・リスト」(日本版ニューズウィーク2・17)の次の指摘だ。子ども手当ての財源として。

財源はある。巧みな会計処理で赤字を計上している多数の企業から、しっかり徴税すればいい。

 これは欠損金の繰越控除を使って、多くの金融業者が事実上法人税を免除されていることなどを指すのではないかと思うが、それを課税しても、子ども手当ての財源に及ぶのだろうか。タスカ氏一流の毒舌であろうか。これらは内部保留とは別の話だが、企業課税の税制の変更の必要性という点では重要な指摘ではないのかと思えた。

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