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2010.02.13

[書評]中国に夢を紡いだ日々 さらば「日中友好」(長島陽子)

 書名に惹かれて偶然選んだ本だったが、「中国に夢を紡いだ日々 さらば「日中友好」(長島陽子)」(参照)は面白かったが、これを面白いと読める世代は、もしかすると昭和32(1957)年生まれの私が最後の世代かもしれない。いや、これをきちんと読み通せるのは、むしろ私より年長の団塊世代のほうが少ないのかもしれないとも思った。戦後の日本を冷静に見渡せるのはむしろ、ポスト団塊世代だろう。

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中国に夢を紡いだ日々
さらば「日中友好」
長島陽子
 私は、こういう本が読みたいと思っていたし、著者の長島氏のような、戦後日本の中国熱を相対化して見ることができる人が、団塊世代の上にかならずいることも知っている。ここにまた一人いたのだと本書を読み終えて奇妙な感動を覚えた。
 長島陽子氏は、本書には1929年の生まれとある。昭和4年である。あとがきを読むと、昨年の9月に傘寿を迎えたとある。現在80歳であろうか。高齢であるが、改めて1929年の生まれを見れば、私の父よりも若く、私の叔母たちの年代であり、そうして身近に引きつけてみると遠い時代の人ではない。ちなみにブルータスの最近号特集(参照)の思想家吉本隆明氏は1924年生まれで、長島氏の同年代よりやや年上である。
 本書あとがきには、本書が長島氏による初めて本だともある。80歳にしての処女作らしい。中国残留孤児の国籍取得を支援する会の機関誌「就友」に掲載していた中国雑感のコラムに目を止めた人が、長島氏一冊本を書くべきだと勧めて、本書が成ったらしい。該当のコラムは、本書の後半三分の一ほどにまとめられている。コラムは、長島氏が定年後中国で暮らした1994年からの一年間から、さらに2002年までの、中国に関連するできごとを平易に記している。
 この時代は、1989年の天安門事件から、江沢民氏の指導の下に中国が反日化を深めていく過程でもある。1990年代ですでに20代になっている人、つまり1970年前後に生まれた人なら、このコラムがすでに歴史の部類であろうが、長島氏が本書の大部で語る自身の歴史物語は、事実上、天安門事件のところで終わる。そこには、青春をかけて中国友好にかけた夢が悪夢であったことに、1970年代半ばに気がつき、そして天安門事件で完全に覚めた物語がある。あるいは、本当に中国を愛した人だからこそ、中国共産党という悪夢に目覚め、なお中国人に本当の友好を堅持することができた希有な記録でもある。
 本書が私にとって無償に面白いと思えたのは、彼女が、ある種、中国友好に洗脳されていくプロセスだった。長島氏は東女を卒業し、1949(昭和24)年に岩波書店に入社した。ごく平凡な国語科の学生だったと自身を語る。入社した岩波書店の当時の雰囲気が興味深い。

出版界では学術書の老舗として有名だったので、薄ぐらい、古ーい感じの会社だろう、と予想していたのに、意外にも社員はみんな左翼なの?と思わせる雰囲気だった。労働組合のチカラがきわめて強く、牛耳っているのは共産党であることは、私にもすぐ分かった。

 その雰囲気のなかで、自然に彼女は青年婦人部の「活動家」になったと言う。まだ日本が独立を果たしていない時代である。翌年に朝鮮戦争が勃発し、日本でもレッドパージが吹き荒れ、各分野から共産党員とそのシンパが追放されたが、岩波書店は及ばなかったかのようだったらしい。

しかしパージの嵐は、なぜか私のいた会社を避けて通って行った。

 岩波書店はどのように見えたものか。彼女はその後、共産党を離党するが、その離党を陰から支える人もいたという文脈でこう語っている。

党の権威で労働組合を牛耳り、役員をして経営者のお目にとまり重役に昇りつめた人も少なくない。労務担当者として君臨するヤカラまで出て、人々の間には不満がマグマのように溜まっていたのだ、とつくづく思わされた。党員同士で社内結婚するカップルが多く、ふところも豊かで別荘を持つ人々もいたので、口の悪い人は「共に産をなすから共産党だ」などと、冗談を言っていた。彼ら党員はあくまで岩波という「進歩的企業」でしか通用しない企業内左翼なのだ。事実、退職したあと、地域などで地道に活動している人など、お目にかかったことはない。

 レッドパージをすり抜けて、長島氏は共産党の活動にいそしむなか、1959(昭和34)年、まだ国交のない時代に初めて訪中することになり、そこで熱烈な歓迎を受け、中国友好に、彼女の言葉を借りれば、「洗脳」される。本書ではその訪中の過程の思い出と、後に「洗脳」が解けて見る考察が対比されている。
 さらに現在では彼女の最初の訪中時の中国の「大躍進」の実態が解明され、衝撃も受けたという。実態については、楊継縄「墓標」によるところが大きいようだ。同書は、本年日本でも翻訳されるというので、私も期待している。
 長島氏の初訪中の翌年、中国作家協会の招待で、野間宏、亀井勝一郎、松岡洋子、大江健三郎、開高健、竹内実らが訪中する。

(前略)あの大江先生が「ぼくらは中国でとにかく真に勇気づけられた……一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ、とはいえるだろう」と書いているのを読んで目が点になった。私たちでさえ、中国に住みたいとなどと言い出す勇気のある人はいなかった。私は、ある意味で安心した。私などよりはるかに優れた知性をお持ちだろうこういう人々も、中国にイカレて帰って来たのだ。

 余談だが私は中学生時代、亀井勝一郎に傾倒したので、彼が周恩来と握手した写真もよく覚えている。70年代だった。
 長島氏の話は次に60年代安保とそして中国の文化大革命に移る。デモに参加した同時代人としてあの事件をどう見ているか。ここは簡単に記せば、戦争はこりごりとの思いはあったものの安保のことは理解してなかったと述懐している。また、文化大革命の行きすぎのことを知りつつも、革命には行きすぎが伴うものだと大目に見ていたようだ。現在でも南京虐殺は問題視してもチベット人虐殺は大目に見るような人たちの共通心理なのだろう。彼女の親中国「洗脳」は解けていなかった。64年には「日中国交回復を!」のビラ貼りで神田署に逮捕された逸話もある。
 そうした中、日本共産党が反中国の立場を取るようになり、長島氏は共産党を離れることになる。その体験はさらりと書いてあるものの、日共からのバッシングの怖さがわかる。事実上彼女の勤務の岩波にも圧力を掛けたようだ。が、岩波は彼女を結果的に守っている。岩波にはそういうところの芯はあるし、この時代、日共も変化していた。
 本書では触れていないが、日共の武装闘争放棄となる「六全協」が1955年であった。実質日共を創出した沖縄県名護市出身の徳田球一の北京での客死がここで伝えられた。徳球ら所感派と国際派の激しい対立を経て、志賀義雄や宮本顕治ら国際派が勝利し現在の日共に至るのだが、山村工作隊の解体のみならず、長島氏のような親中派の党員を失うことにもなった。また、翌年にハンガリー動乱(参照)が起きた。社会主義政権が軍事力によって民衆を弾圧する権力変質したことが明確になった。
 長島氏の「洗脳」が溶け始めたのは、しかし、こうした共産党や社会主義の変容の余波というより、1971年のニクソンショックによるものだったようだ。私も紅衛兵がかかげる小さな赤いビニール装丁の毛沢東語録を持ち、愛読していた少年だったからよくわかるのが、米帝は、やがて倒れる見かけ倒しの張り子の虎であったはずだ。が、その張り子の虎を毛沢東は受け入れてた。長島氏はこう語る。

 私たちが訪中前に確認した「アメリカ帝国主義と日本軍国主義に反対して闘う」という共通目標など、(案内してくれた中国側活動家はいざしらず)周恩来など当時の中国首脳部の眼中にはなかったんだ、と今にしてつくづく思う。
 こうした中国側のご都合主義の対するモヤモヤは、この頃からだんだん私の胸中に醸し出されて行った。私の中国認識の転換の始まりであり、徐々に中国を相対化して見るようになっていった。

 しかし、この時代の日本の知識人の反応は逆だった。私ももう中学生になったし、団塊世代に憧れて左翼文献も三島由紀夫も読み出していたころだ。総評事務局長の高野実の息子で、高野孟の弟、津村喬など、文化大革命マンセーの奇っ怪な東洋医学礼賛の文章を書きまくっていた。私は沖縄出奔のおり、その手の駄文を捨ててしまったが、取っといてブログに引用して晒せばよかったかとも悔やむが、いやそんなことはすべきじゃないな。
 余談になるが私はそうした影響を抜けても、10代の終わり、楊名時先生に太極拳を2年ほど学んだ。そのままその道を究めていたら、ぜんぜん違った人生もあったのかもしれないなとは思う。楊先生は穏和なかただったが、太極拳の真贋は見抜いていた。お弟子さんたちはみな踊りのような演舞をしていたが、先生の模範は武術の陰をきちんともっていた。私は先生が「私は政治家になりたかった」と語るのを直接聞いた。それももう昔のことになるな。
 長島氏の本に戻ると、その後、「洗脳」が解けるにつれ、工作的な友好ではない真の友好へと尽力され、その過程で北朝鮮拉致問題にも関わるようになる。こうした真摯な姿勢には頭の下がる思いがする。と同時に、そうした過程のなかで、長島氏本人はさして気に留めていないようだが、その思想行動はすでに日本人離れしていく。人が思想の結果として一つの、凡庸な側面を持ちながらも普遍に達する驚くべき実例としても、本書は際立っている。

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2010.02.11

[書評]ニホン語、話せますか?(マーク・ピーターセン)

 昨日のエントリ「「ローマの休日」でアン王女のベッドシーンが想定されている箇所について: 極東ブログ」(参照)で、「ローマの休日」の話に触れ、それの解釈のある「ニホン語、話せますか?(マーク・ピーターセン)」(参照)を引用したが、同書は非常に面白い本なので、もう少し触れてみたい。

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ニホン語、話せますか?
マーク・ピーターセン
 余談だが、昨日田町駅の前の虎ノ門書房に寄ったら、「日本人の英語 (岩波新書)」(参照)が、現代人の必読書のように陳列されていた。「続・日本人の英語 (岩波新書)」(参照)と併せてそうかなとも思うが、本書、「ニホン語、話せますか?」のほうは、ピーターセン氏の文学的な資質が浮かびあがってきて興味深い。ネタバレ的な話になるが、はっとさせられた話の印象を書いてみたい。
 以前、「国民による国民のための国民の政府: 極東ブログ」(参照)というエントリを書いたことがある。the peopleは「人民」じゃなくて「国民」でしょ、という話だった。毎度のことながらブログの話は争論になる。ちなみに、今、手元のロングマンを見ると、ちゃんとpeopleの項目に、the peopleが項目として分けられ、次のように説明されている。

4 the people
all the ordinary people in a country or a state, not the goverment or ruling class

国または国家における一般民のこと。政府または支配階級を意味しない(含まない)


 ということで、明確に国家が意識され、政府(the goverment)の対比なので、やはり、「国民による国民のための国民の政府」でよいのではないかな、つまり、「人民による人民のための人民の政府」は誤訳なんじゃないか。
 このとき、その話題以外に、of the peopleについて、ちょっと変わった訳があったので、こう触れたことがある。

で、ほぉと思ったのは、この注釈、of the peopleを、「統治される対象が人民であることを指しているのだ」としている点だ。そういう考えがあるのかいなとちょっと考えたけど、日本国憲法とかのべた性を見ても、西洋国家論のスキームを見ても、これは国民の所有ということでしょ。

 として、私としては、of the peopleが、「統治される対象が人民であることを指しているのだ」という説はありえないでしょと思っていた。しかし、そういう説の信奉者さんのコメントなども戴いた。
 その後、ピーターセン氏の本書「ニホン語、話せますか」を読んだのだが、彼もこの、of the peopleが、「統治される対象が人民であることを指しているのだ」という説に出くわしてびっくりしていたことを知った。彼はこの説を「丸谷才一の日本語相談」(参照)で知ってこう本書で述べている。

英語圏で141年以上も続いてきた常識的受け止め方がひっくり返される、リンカーンも驚くにちがいない、突拍子もない文法解釈だが、(後略)

 後略は、日本語の「の」の話である。また、こうも述べている。彼は「the people」を特に考察なく「人民」としているが。

リンカーンの言葉について簡単に言えば、"government (which is) of the people, (which is) by the people, (which is) for the people"(ちなみに、中国ではこれは「民有、民治、民享受的政府」と訳されているようだが)の of the peopleは、いわば、「人民の合意の上で出来た」や、「人民の間から生まれた」などのような意味を表している。

 本書を読んでから、of the peopleが「統治される対象が人民であることを指しているのだ」説はたぶん、ただの間違いとしてよさそうに思った。
 国に関連して、「神の国」話も興味深かった。ピーターセン氏は森喜朗元首相の「神の国発言」で、それが英語報道で"divine nation"と英訳されるのに奇異な感じをもった。

(前略)"divine nation"と言ってしまうと、おそらく一般の日本人が「神の国」から連想するものとはかけ離れた印象を英語圏の人々に植えつけるだろう。つまり、その場合は、「神々がいる国」や、「神々が創った国」、「神々が守る国」のように「国土」のことを想起させる要素はまったくなく、「神なる国民」といったニュアンスが強い。

 なぜそうなるのか。"nation"の意味合いによるらしい。

"nation"は、「国」や「国家」という意味として使われることもあるのだが、基本的には、慣習や起源、歴史、言語などを共有する「人間の集まり」という意味なので、たとえば、the French nationといえば、ヨーロッパの一区画を占める国、フランスという意味ではなく、フランス民族である。「チェロキー族」という一部族でも、the Cherokee nationという。

 なので、"divine nation"というと、日本民族は神聖なり、という含みになるそうだ。
 ピーターセン氏は触れていないが、アウグスティヌスの「神の国」(参照)は、英語だと「Augustine's City of God: A Reader's Guide」(参照)のように「City of God」である。ちなみに、2002年に製作されたブラジルの映画「シティ・オブ・ゴッド(Cidade de Deus)」(参照)と似ている。が、アウグスティヌスの「神の国」のラテン語は"De Civitate Dei"。
 脱線になるが、日本語の「神の国」だが、「神国日本 (ちくま新書:佐藤弘夫)」(参照)のように、歴史的には本地垂迹説、つまり、仏が神として現れる国という意味だろう。
 話を戻して、"nation"それ自体に「族」、民族の含みがあるというのは、重要で、日本国憲法なども、"nation"と"state"の使い分けを、きちんと訳し直したほうがよいのかもしれない。よく話題になる9条もこれが分けられている。

article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
 In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. the right of belligerency of the state will not be recognized.

 訳文では分けられていない。

第9条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 "a sovereign right of the nation"とthe right of belligerency of the stateでは、「国」の意味合いが違うが、訳文からはわかりづらい。
 「ニホン語、話せますか?」からもう一例紹介してこのエントリは終わりにしよう。話は、「失われた世代」だ。これが、誤訳だというのだ。
 この言葉は、ヘミングウェイの「日はまた昇る」で、ガートルード・スタインの次の名句に拠っている。

"You are all a lost generation."

 これを従来は、「君たちはみな、失われた世代なのだ」というように訳していた。が、これは誤訳。

 これは、別段難しい英語ではなく、The police finally found the lost child.(警察は、やっと迷子を見つけた)や、Without a compass, they soon were lost.(彼らは磁石がないので、すぐに道がわからなくなってしまった)などに表されている方角を見失う状態を比喩にして、たとえば、
 He was lost after his wife died.(彼は、妻に死なれて、どうしようもない状態になってしまった)
 のように、"人生の方角"を見失い、駄目になったことを表現しているだけである。


 「失われたお金」なら、誰かがそのお金を失ったはずだ。では、ある世代が失われた場合、いったいなにものがその世代を失ったというのか。

 まあ、それはそうだ。言葉が一人歩きすると、なかなか再考することは難しいものだ。

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2010.02.10

「ローマの休日」でアン王女のベッドシーンが想定されている箇所について

 先日といっても、一昨日の夜だったか、ツイッターをしていたら、その時間帯でNHK BSで映画「ローマの休日」をやっていたらしい。いやそれならステラで前もって知っていたのだが、私はこれのデジタルリマスター版(参照)を持っているので、とりわけ放送を見ることはないなと思っていた。

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ローマの休日
製作50周年記念
デジタル・ニューマスター版
 が、与太話ついでに、アン王女のベッドシーンが想定されている箇所について言及したところ、ご関心をもつ人がいたので、じゃあ、エントリにでも書きますかとかつぶやいたものの、ベッドシーンより世界経済に関心が向いてしまったので、昨日は書きそびれた。その後、あれ、書かないんすかみたいな話があったので、ほいじゃ、書いてみますかね。
 映画「ローマの休日」だが、ウィキペディアなんかにも情報があると思うが、名作映画の一つ。話は、欧州のどっかの国の王女であるアン王女一行がローマを訪問したおり、その夜、睡眠薬のあおりとちょっとしたいたずら心で勝手なお忍びでローマ市街に抜けだし、そこでイケメンのちょいとやくざなアメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレーと出会い、朝からローマを駆け巡り、そして王女という素性を明かさず恋に落ちるものの、翌朝未明に王女は別れ、お忍びを終え、新聞記者もはかない恋は終わったというもの。
 ローマ観光案内といった趣向もあり、お子様でも見ることができる楽しい映画だし、まあ、主役のオードリー・ヘプバーンがあまりに美人で快活としてぐっと惹かれる。大人が見ても、けっこう、くる。「真実の口」のシーンは、監督はヘプバーンにも知らせずに、いわばその場のハプニングの一発撮りだったようだ。このシーンなんか、ヘプバーンの魅力炸裂でちょっと鳥肌もの。
 オリジナルは「Roman Holiday」で、1953年製作のアメリカ映画。同年に1953年度のアカデミー賞でオードリー・ヘプバーンがアカデミー最優秀主演女優賞得た。最優秀脚本賞を得た脚本はイアン・マクレラン・ハンターによるものだが、これが実際の脚本はドルトン・トランボが書いたもの。当時、ドルトン・トランボは、レッドパージ(社会主義・共産主義者の追放)のさなか、疑われてハリウッドから追放されていた。1993年になって、アカデミー賞選考委員会は、この事実を明らかにし、ドルトン・トランボへ最優秀脚本賞をトランボの代わりに未亡人に授けた。
 私のデジタルリマスター版では、現代のデジタル技術を使って、イアン・マクレラン・ハンターからドルトン・トランボに修正されている。これ、背景風景もデジタルに作成しちゃったらしい。実際やるきになれば本編もかなりデジタル修正できるらしいのだが、あえてそれはしないということになった。なお、NHKの放送はどっちだったんだろうか。

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アナログ版:イアン・マクレラン・ハンター

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デジタル版:ドルトン・トランボ

 ところで、アンの初夜、ベッドシーンだが、レッドパージの時代だからというわけもなく、普通に映画では事実上の禁止(参照)。なので、そんなシーンは存在するはずはない。
 が、話の流れでは存在している。そして、それは、ここだぜ、というシグナルも脚本にしっかり書き込まれている。そんなに難しい箇所ではない。だって、恋に落ちて一晩のことなんだから。
 アン王女とジョーが夜、水辺の酒場で王女の国の追ってに捕まりそうになり、川に飛び込み逃げるというシーンから。

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水辺から上がり、ふたりともしっぽりびしょ濡れ

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その場でびしょ濡れで、キッス

 そして、二人はジョーの住処へしけ込むのだが、その間、やっている。ので、しばらくやってます、映画はしばらくお待ち下さいのシーンで止まる。

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むこうの宿のお二人の初夜を遠くでまったりお待ち下さい

 ことが終わったので、二人のシーンに戻る。

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アン王女がジョーのものを羽織ってバスから出てくる

 重要なのはこの会話。

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ジョー:Everything ruined? / アン王女:No. They'll be dry in a minute.

 男曰く「みんな台無しになっちゃったかい?」 おお、深いその言い方。しかし、ここで表層的に言っているのは、水に濡れた服装のこと。
 女曰く「ちがうわ。服ならもう少しで乾くわ」 おお、深いその言い方。もうしばらくすると、服は乾くわ、つうのは、その間、服は着とらん。その時間が、じっくり、服が乾くまでの時間でした、と。いや、いくら乾燥したイタリアの空気だからって、長過ぎか。
 というわけで、先ほどのお待ち下さいシーンが、ベッドシーンでした。
 その後の男の台詞もぐっとくる。

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ジョー:Suits you. You should always wear my clothes.

 それが合っているなら、毎回ボクのそれを着てもいいんだよ、ということ。つ・ま・り、今後も、そうしてくれてもいいんだ、つうこと。
 いやはや、なかかか短い台詞のなかに、ドルトン・トランボは深い意味を込めているし、脚本、これはすごいなという代物。

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ニホン語、話せますか?
マーク・ピーターセン
 で、私がこれを少年時代見たときわかったか? わからん。その後もわかったかというと、それほど台詞を気にしてなかったので、関心がなかった。はっきりわかったのは、「日本人の英語 (岩波新書)」(参照)や「ロイヤル英文法」(参照)で有名なマーク・ピーターセン氏の「ニホン語、話せますか?」(参照)でじっくり解説してあったから。
 別れの車の中のシーンについてピーターセン氏はこう述べている。

 アンの歳は、台本では具体的に示されていないが、役柄から推すと、18から22くらいだろう。そして、2、3時間前までは処女だった。ここで、彼女は初めて男を知り、しかもその初めての男に、もう二度と会えないのだ。こういう彼女の置かれている立場を考えれば、その非常に切ない表示に初めて納得がいき、このワンシーンは、初めて泣ける場面になるのである。
 逆に言えば、初体験ではなく初キスで終わった、というつもりでこの映画を観てしまうと、『ローマの休日』は車の中のこの場面のせいで、まるでアイドルが出演するテレビドラマ程度の味気ないものになってしまう。ダルトン・トランボは、『いそしぎ』『ジョニーは戦場に行った』など、長いキャリアで数多くの傑作を書いたのだが、どれも洗練されたものばかりで、子供向けの作品は一つもないのである。

 同書は他にもいろいろと解説があって面白いし、その他、村上春樹の翻訳などいろいろな話題もある。
 「ローマの休日」の脚本対訳は「名作映画を英語で読む ローマの休日」(参照)が便利だけど、該当部分の訳はそっけなく、「全部台無し?」「いいえすぐに乾くわ」なので、ちと詳細がわかりづらい。


追記
 違うだろゴラぁコメントを多数戴いたが、各人の解釈はあるだろうと思う。ピーターセン氏はエントリ引用部以外にももう少しじっくり解説しているが、それ以外に私から2点サポートできるとすれば、(1)Hays Code(参照)はこの時代映画制作者のみならず鑑賞側にも前提となる文脈だったこと、(2)この物語の構造は2つの夜の差異を描いていること、がある。
 二度目の夜は最初の夜との対比としてコード化されている。では、その最初の夜はどう差異化されいるかがわかると、その差異の対応として次の夜の予告がわかる。
 最初の夜が明け、朝目覚めてジョーと会話しているとき、アン王女は着ているものが違っていると知って自身の身体をまさぐっている。手は明白に下半身に伸びている。なにかを確認したい。

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着せられたパジャマの下を手でさぐっているアン王女

 次のシーンの会話が大人は笑うところ。

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ジョー:Did you lose something? / アン王女:No

 ジョー曰く、「何か喪失した?」、もちろん、それは比喩的含みがある。アン王女は、「いいえ」と答える。下半身をさぐって何かを確認したから。
 その後の会話も示唆的。

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アン王女:So I've spent the night here with you?

 アン王女曰く、「あなたと一晩ここで過ごしてたわけね?」なのだが、それが、当時の英語でどういう意味を持っているかは、ジョーが解説する。

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ジョー:Well, I don't know that I'd use those words exactly.

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ジョー:but from a certain angle, yes.

 ジョー曰く、「そうだね、そういう言い方が正確かわからないが、しかし、見方によっては、そうだと言えるね」
 ということで、最初の夜でも、ある見方ではそうだった。それが、第二の夜でどうexactlyになるかというのが、この台詞の予告だし、この物語はそういう構造でできている。

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2010.02.09

フィナンシャルタイムズ曰く、日本の財政赤字は問題じゃないよ

 昨日のエントリ「ギリシャ財政悲劇は笑えない」(参照)にも書いたが、菅直人財務相は先進七カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)で日本の財政赤字が問われるのではないかと心配していたようだ。経済のことわかってないものね。しかたない。日銀出のかたから少しレクチャーを受けましょうか……おーっと、ちょっとぉ、待った。
 昨日付のフィナンシャルタイムズ社説「Japan’s debt woes are overstated(日本の財政赤字問題は深刻に悩まなくてよろし)」(参照)から学んだほうが256倍ましかも。
 国内総生産(GDP)比でギリシャより財政赤字を積み上げている日本は、ギリシャみたいになっちゃうのだろうか("Is Japan, mired in debt and deflation, the next Greece? ")とまずフィナンシャルタイムズは問い掛ける。
 不穏な動きはある。亀井金融相はゆうちょ銀行の国債保有率を下げて、米国債を買えとか言っているぞ。


Those incendiary comments came just as Standard & Poor’s, alarmed at escalating debt levels and sluggish growth, warned that it might lower Japan’s credit rating.

亀井金融相の発言は、米格付け会社スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)が、日本の財政赤字の拡大と経済成長の停滞から、長期国債の格付けを引き下げるかもしれないとの警告のさなかに出て来た。


 ついに来るべきものが来たか。引き金を引いたのは亀井金融相だったか。
 いや、そんなことはない。日本はギリシャのように債務不履行にはならないとフィナンシャルタイムズは説明する。まあ、知ってる人にはごく普通の常識でもあるのだが、日本の経済は他の先進国とはかなり違っていて同じ物差しでは測れない。理由は4つ。

First, gross debt levels are misleading. Japan’s debt, after netting off the state’s own holdings, is less than 100 per cent of GDP.

(1) 債務の全体が誤解されやすい。日本国の債務は、国の保有分を相殺すれば、GDPの100%以下になる。

Second, the cost of servicing its debt is low, at roughly 1.3 per cent of GDP. That compares with 1.8 per cent in the US, 2.3 per cent in the UK and 5.3 per cent in Italy.

(2) 日本の国債償還費は低く、GDPの約1.3%である。対するに、米国は1.8%、英国は2.3%、イタリアは5.3%である。

Third, Japan has fiscal wiggle room: sales tax is just 5 per cent.

(3) 日本の財政には遊び余地がある。消費税は5%にすぎない。

Fourth, 95 per cent of Japan’s debt is domestically owned. Fickle foreigners have almost no sway.

(4) 日本の債務の95%は国内で消化されている。外国人が気まぐれに影響を与えることはできない。


 なので、日本の財政赤字は、ギリシャみたいな当面の問題にはならない。
 では問題はないのかという、大有り。

Indeed, Japan’s problem is still an excess of savings. Banks are awash with deposits that they need to place somewhere. For some time yet, the government will not find it hard to secure buyers for JGBs. Japan’s debt problem will be worked out in the family.

つまり、日本の問題は依然貯蓄の過剰にある。日本の銀行には預金がじゃぶじゃぶしていて、投資先が必要になっている。しばらくの間は、日本政府が国債の安定した買い手を探すことにはならない。日本の財政赤字問題は、お家の都合で解消されうるものだ。


 まだまだ、日本人は日本国債を買いますよ、と。ほんとかね、という感じもしないでもないが、まあ、そうだろう。
 ようするに財政赤字をタートルネックで気にしているより、デフレ対策しろよ、と。

In short, Japan does not need to apply the fiscal brakes just yet. Better to consolidate the recovery through loose fiscal policy a while longer. In one area, though, it is being too complacent. That is in the fight against deflation.

つまり、日本は財政支出にまだブレーキをかける必要はない。もうしばらく財政緩和政策をすることで、景気回復を確たるものにするとよい。とはいえ、あまりに野放図な分野があるぞ。それはだな、デフレ対策だよ。


 ついでなんで、その先の処方箋までフィナンシャルタイムズに伺うと。

In Japan, hoarding cash is clever investing. Just as bad, debt-to-GDP levels have deteriorated along with nominal GDP, the denominator in that ratio.

日本では箪笥預金が一番賢い投資法になっちまっている。他にもひどいのは、名目GDPの下落に伴い、GDP比の債務が悪化していることだ。

The BoJ should do more. It could increase its purchase of JGBs, monetising part of the debt. Though the fiscal situation is not as bad as it appears, a bit of nominal growth would make it look a whole lot better.

日銀、仕事をしろよ。日銀は国債買い上げをして、その分市場に貨幣供給ができるのだ。日本の財政状況は見た目ほどには悪くはないのだから、もうちょっと名目成長率を上げれば、全体の見た目も大きく改善できる。


 つうわけで、今回のフィナンシャルタイムズは、べたなリフレ提言でした。
 これってどうよ、なんだが、概ね正解なんじゃないの。
 民主党も新成長戦略基本方針で、2020年度までの平均で、名目成長率3%、実質成長率2%を上回る成長を目指すと明言しているんだから、それにもかなうはず。
 ただ、民主党はその方法を「新たな需要創造」でとか言っているけど、とりあえず、当面のデフレ対策には、リフレ政策をしたほうが早いだろう。

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2010.02.08

ギリシャ財政悲劇は笑えない

 5日に閉幕した先進七カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)には、二つの注目点があった。一つは、経済学の基本でもある乗数効果も知らない菅直人財務相が、「すわっ泥酔」と思われるような発言をしないか、ということだった。懸念を見越して日銀出身の大塚耕平副金融相が同行した。冷やりとさせられたのは、ガイトナー米財務長官との会談だった。菅財務相は「ボク、一年生なのでよろしく("Kan introduced himself as a 'freshman' on financial topics")」と切り出したことだった(参照)。大学一年生で学ぶ乗数効果はまだ苦手なんだ、ボク、ということ。それで務まるのか日本の財務相。大丈夫。ジョークは飛ばしたものの結果的には慎重な発言に終始し、本人がジョークになるのは避けられた。本当によかった。
 ネタはさておき本来の注目点は、菅財務相が飛ばしたジョークのほうにある。8日付け読売新聞記事「G7デビューの菅財務相、ジョークで笑い誘う」(参照)より。


 菅財務相は会議で、ギリシャの財政悪化問題に関連し、「ギリシャという名前がジャパンではなくてよかった」とジョークを飛ばし、会場の笑いを誘った。
 ラガルド仏経済相は会議後、「ウイットが効いていて面白かった」と菅財務相に話しかけたという。

 ちなみに笑いのポイントはラガルド仏経済相の皮肉の効いた、おフランス風のエスプリのほうだ。日本の財政状況を知ってますよ、自虐ギャグですよね、ということ。
 とはいえ、当面の課題はギリシャだ。ユーロ参加時の上限に対してすでに四倍にも膨れあがったギリシャの財政赤字問題は、ポルトガル、スペインに飛び火している。4日のニューヨーク株式相場は1万ドルの大台を3カ月ぶりに割り込んだ。投機筋の圧力も受けている。投資家は新規発行のギリシャ国債の買いに殺到した。ドイツ国債の利回りの倍だ。親方日の丸ならぬ、親方欧州連合(EU)と見られている。
 欧州中央銀行(ECB)トリシェ総裁は、G7閉幕後、ギリシャの財政赤字問題について、2012年までに国内総生産(GDP)3%以下とする目標達成は可能だと述べた(参照)が、スウェーデン銀行賞受賞のジョゼフ・スティグリッツ、コロンビア大学教授者は、欧州共同体(EU)が早急にこれらの国の財政支援を行う必要があるとの認識を示した(参照)。
 どうなるのか。経済面だけで考えれば、スティグリッツ氏の意見のように支援するしかないだろうと思うが、問題は政治なのかもしれない。
 ニューヨークタイムズ「Euro Debt Crisis Is Political Test for Bloc」(参照)は政治危機として見ている。

Anxiety about the health of the euro, which has spread from Greece to Portugal, Spain and Italy, is not simply a crisis of debts, rating agencies and volatile markets. The issue has at its heart elements of a political crisis, because it goes to the central dilemma of the European Union: the continuing grip of individual states over economic and fiscal policy, which makes it difficult for the union as a whole to exercise the political leadership needed to deal effectively with a crisis.

ギリシャに端を発し、ポルトガル、スペイン、イタリアと伝搬してきたユーロの健全性への不安は、単に負債や格付け機関、不安定な市場の危機といったものではない。問題の核心は、政治危機にある。というのは、これは欧州連合(EU)の根幹的な矛盾なのだ。参加国は経済と財政政策を継続的な権限を持っており、それが効果的な危機対応に必要な政治的指導力をEUが行使することを難しくする。


  私が誤解しているかもしれないが、EU参加国の経済を均質に健全化することで全体を改善するといったことは、危機対応にはならないということなのだろう。 各国政府の独自性が、EU全体の経済指導力を削いでいる。
 逆にEUに参加せず、やや反EU的なスタンスだった英国のテレグラフでは3日付け社説「Dealing with a budget deficit: a Greek tragedy」(参照)で事態を嘲笑気味に飛ばしている。
For countries constrained by membership of the euro, the shock absorber that currency depreciation and cutting interest rates can provide is not available, so the full force of the crisis measures will impact on domestic institutions, in terms of tax rises, pay freezes and other measures likely to foment unrest. The option of leaving the euro is considered untenable by a political class which has staked so much on being an integral part of the European project, a dream that threatens to become a nightmare for its people.

ユーロの縛りを受けた国では、通貨切り下げと金利削減によって、財政のショック緩和ができない。だから、危機対応の圧力は国内の各種制度に及ぶ。つまり、増税、賃金凍結、さらには社会不安を醸し出す手段にも及ぶ。ユーロ離脱という選択肢は、ヨーロッパの一員と見なされたとこだわってきた政治支配層には受け入れがたいだろう。だが、その夢はギリシア国民には悪夢となる。


Short of domestic insurrection, the Greeks will not leave the euro. However, they are about to suffer the consequences of an EMU that has been flawed from the beginning --- underlining the wisdom of successive British governments in staying outside.

国内動乱でもあれば別だが、ギリシャはユーロを離脱しないだろう。たとえ、もともと問題だらけの経済通貨同盟 (EMU)の帰結に今後どれほど苦難が待ち受けようとしてもだ。同時に、このことは傍観者に留まった英国政府の賢明さをも示している。


 このあたり、欧州から王家を押しつけられた近代ギリシア史を思い浮かべると、英国の底意地の悪さのようなものがじんわり伝わってこないでもない。
 話を経済に戻せば、ギリシャ財政の問題は対外債務によっていること、ユーロの縛りを受けていることにある。その点、日本の財政赤字は国内で消化されているし、日銀が本気になればリフレ政策も可能だ。
 こうした問題を世界の経済政策者集団の一年生になった菅財務大臣はどう見ているか。こう言っている(参照)。
「日本の財政状況について伝えた。もっと話題になるかと思ったが、どちらかといえば、ギリシャの問題が多く意見交換され、結果として日本の財政赤字そのものを問題にするやりとりはなかった」

 わかってないよね、この人、全然。

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2010.02.07

プリウス問題、雑感

 トヨタのリコール問題について私はあまり関心をもって来なかった。よくあることではないかと思っていた。4日付けフィナンシャルタイムズ社説「Warning to Toyota: speed can kill」(参照)も、"A recall is a routine occurrence in the industry. (リコールは自動車産業につきもの出来事である)"と割り切っていた。だが、そうとも言い切れなくなったようだ。問題も錯綜してきた。自分なりにまとめておきたい。
 今回の一連の騒動のきっかけは、昨年8月28日のこと。カリフォルニア州サンディエゴ郊外の高速道路で、トヨタのレクサスES350が時速190キロで道路柵に激突。乗車4人が亡くなった。カリフォルニア州高速警察隊員マーク・セイラーさん(45)、妻クレオフェさん(45)、娘マハラさん(13)、クレオフェさんの弟のクリス・ラストレラさん(38)。レクサスは整備期間中の代車だった。暴走するレクサスを他に被害を与えなず車を制止させるためにマークさんはあえて道路柵にぶつけたのかもしれない。哀悼したい。
 事故原因は、代車に別車種の合わないマットが装着され、アクセルペダルが戻らなくなってしまったことらしい。事件後、他のレクサスでも、ゴム製マットが固定されずにペダルの下に入り込むと、ペダルが引っかかり戻らなくなることがあると判明。トヨタは昨年9月29日、レクサスなど約380万台を対象にマットを外すためのリコールをした。その後、ペダル改造のリコールにもなった。その数は約430万台に及んだ。トヨタの米国年間販売台数の二倍になり、費用は数百億円かかるとみられる。それでもトヨタは黒字を出すのだが。
 日本でも問題は起こらないか。国土交通省は、トヨタと限定されないが、その前年にフロアマットにアクセルペダルが引っかかって起きた事故を13件とアナウンスした。トヨタとしては、フロアマットが適切に使われていれば問題なく、自動車自体に欠陥はないとして国内ではリコールしない。
 ここまでの経緯で見れば、確かに自動車自体の構造的な欠陥があったとは思えない。整備がきちんとなされていたら問題もないかに見える。いや問題は事前にわかっていたという報道もある。5日付け読売新聞記事「レクサスの異常、米当局は2007年に把握」(参照)は、問題を米当局は把握していたかのように報じた。


 NHTSAが08年4月にまとめた報告書によると、レクサス「ES350」の保有者1986人を対象にした調査で、約3%にあたる59人が「意図しない急加速を経験した」と回答した。このうち35人は、ゴム製の全天候型マットを運転席側に敷いていた。NHTSAは当時、マットに問題があるなどの指摘にとどまっていたほか、トヨタも「フロアマットがペダルにひっかかるのが原因」として、約5万5000台のリコールを実施しただけだった。

 同内容の4日付けワシントンポスト記事「2007 federal probe of Toyota complaints resolved nothing(参照)」の印象は異なる。当局が知っていて公開しなかったという印象の読売記事に反し、2007年からNHTSA(運輸省道路交通安全局)はレクサスES350を購入し調査をしてきたたものの、問題点を見つけられないでいたことを伝えている。そう単純な問題でもないようだ。
 その後、問題はレクサスES350に留まらなくなった。今年に入り、さらにトヨタは米国で販売しているカムリなど8車種、230万台をリコールした。またもアクセルペダルの戻りの問題だが、今回は部品の欠陥を認めたうえでの正式なリコールだった。米国ではこの問題で米下院エネルギー商業委員会で公聴会が開かれた。なお、日本で販売されている同車種には、問題となったアクセルペダルは使われてないので、リコールはない。
 なぜトヨタはこのような事態になったのか。海外調達部品の品質に問題があったのではないかと指摘された。しかしこの時点でも、私などは、規模が大きくなって騒ぐのはしかたがないが、それほど明確に設計上の問題ではないと思えた。いずれ沈静化するのではないかと見ていた。むしろトヨタが誠意に対応していけば、さらに信頼を回復するチャンスにもなるかもしれない、と。
 だが、プリウスの問題はこれらのリコールと質が違う様相を示している。その分、難しい。
 大規模リコールによって注目されたこともあるが、3日に米国メディアは、プリウスのブレーキの不具合情報が日米で100件を越え、米運輸省が実態調査に乗り出したと伝えた。電子制御系統が疑われている。
 ラフード米運輸長官は、3日の米下院歳出委員会の運輸小委員会で、トヨタのリコール対象の車には乗るなと発言し、騒動になり、撤回した。フォードの大量リコールの際には、米当局に類似の発言はなかった。トヨタの株価にも影響を与えることになる。不要な、バッシングやら陰謀だと誤解されないかねない発言だったからだ。
 プリウスのブレーキ制御系に問題があるのだろうか。現時点ではわからない。4日のトヨタの釈明会見(参照)で、横山裕行常務役員はこう説明した。

雪道などでガガガッと車輪が動く経験などでご存知だと思いますが、ABSは車輪のロックを防止するために、ブレーキを一時的に緩めるという機能を持っている。この時、回生ブレーキを油圧ブレーキに切り換わった時に時間差が生じる。そこでいろいろなお客様からご指摘をいただいているのが”空走感”。短時間ブレーキが利かなくなることがある

 つまり、ブレーキそのものが利かないのではなく、切替のタイミングの問題だというのだ。
 今日付の毎日新聞社説「プリウス問題 安心と信頼の回復を」(参照)はこの釈明を切り捨てる。

 トヨタによると、ブレーキの瞬間的な作動・解除を電子制御しているシステムが「運転手にブレーキが利かなくなったと違和感を持たせる」ような設定だったという。あくまでも感覚の問題で、設定を変えれば違和感も消え、「構造的、設計上の欠陥はない」と主張している。
 メーカーにすれば、「欠陥」と呼ぶほどの重大性はないのかもしれない。しかし、安全のカギを握るブレーキに違和感のある車は不安で仕方ない。凍結路面などで起きやすいのなら、なおさらである。だからこそ、トヨタも昨秋に苦情を受け、先月以降は製造段階での設定変更に乗り出したのだろう。
 こうした措置を「品質改善活動の一環」として公表しなかったのも釈然としない。

 6日付け読売新聞社説「プリウス不具合 技術への過信がなかったか」(参照)も同じ論法で切り捨てる。

 今回の不具合は、凍結した路面などを走行中にブレーキが利かなくなるというものだ。トヨタは、クルマの横滑りやスリップを防ぐ「アンチロック・ブレーキ・システム(ABS)」の制御に問題があったと説明する。
 プリウスには通常のクルマと同じ油圧ブレーキと、減速時に発電もする回生ブレーキを搭載している。走行状況によっては二つのブレーキとABSの働きがうまくかみ合わず、瞬間的にブレーキが利かない感じがするという。
 「その時間は1秒未満で、再度ブレーキを踏めば車は止まる。欠陥ではない」というのがトヨタの言い分だ。だが、事はクルマの基本性能にかかわる。ドライバーの「違和感」で片づけていい問題ではなかろう。
 トヨタは先月の生産分からABSのプログラムを改良し、それ以前に販売した車についても、無償で修理する方向だ。妥当な措置だが、昨秋にこの問題を把握していたにしては、対応が遅すぎる。
 ハイテク装備を過信し、利用者の声を軽視していた面は否めまい。苦情処理の在り方について、見直すことが大事だ。

 この論法では、安全性のために改善できるものを放置して許せないということになる。
 また、今回のトヨタのアナウンスメントや黙って修正していく対応にも批判が多い。たしかにトヨタの不手際は責められるだろう。今後、トヨタ側の説明とは異なり、設計・構造上の問題が発見される可能性もある。
 私は現状、この問題の判断は保留している。ABS技術改良があっても、技術が十分に向上するまでは、プリウスのような省エネ自動車には、ガソリン車とは違う運転方法を採らざるをえない、ある種のトレードオフが潜んでいるのではないかという印象を持っているからだ。
cover
トヨタ・ストラテジー
危機の経営
 余談だが、書評は書かなかったが、昨年「トヨタ・ストラテジー 危機の経営(佐藤正明)」(参照)を読んだ。2009年春までのトヨタの苦難から栄光に至る物語である。帯には、「危機の中にこそ、次の成長の芽がある。大不況を生き抜くビジネスの教科書」とある。今のこの状況となれば、どこかしら皮肉な響きを持つことは否めない。本書では、プリウスの逸話もきらきらと描かれている。
 しかし、プリウスの真価が世界に問われ、トヨタが危機を生き抜くのは現在の新しい課題になった。二年後に本書と同じだけのボリュームのある再起の本が書かれることを望みたいし、日本にとってもそうであって欲しいと思う。
 本書は、伝説的な豊田佐吉から喜一郎といった懐かしい物語もある。トヨタが米国に乗り出す経営の話は確かに「ビジネスの教科書」でもある。個人的にはバブル時代のグリーンメーラーの話も興味深かった。トヨタに食らいつくカネの亡者たちの顛末が懐かしくもあった。

追記
 コメント欄で教えたもらった「緊急!! トヨタ リコール問題を清水和夫が検証する」(参照)の動画説明が詳しい。この問題に関心のあるかたは参照していただきたい。

追記
 この問題に関連して、9日に行われた、郷原信郎氏(名城大学教授)、畑村洋太郎氏(工学院大学教授)、永井正夫氏(東京農工大学教授)による記者会見(press conference, Recorded on 10/02/09 videonews.com on USTREAM. Other News">参照・USTREAM)も興味深いものだった。

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