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2010.11.27

[書評]ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡(シルヴィア・ナサー)

 ゲーム理論を実質完成させた天才数学者ジョン・ナッシュの数奇な生涯を描いた「ビューティフル・マインド」といえば、ロン・ハワード監督ラッセル・クロウ主演の、美しく感動的な映画(参照)が有名で、本書「ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡(シルヴィア・ナサー)」(参照)はその原作とも思われがちだ。私もそのクチで映画は見たものの、書籍のほうは読もうと思って忘れていた。ナッシュの生涯については他書などで自分は知っているつもりでいたせいもある。

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ビューティフル・マインド
天才数学者の絶望と奇跡
 この夏、書名からも関連性がわかるが、トム・ジーグフリード著「もっとも美しい数学 ゲーム理論」(参照)について書く機会があり、そういえばとナッシュの評伝である本書を読み始めた。読みづらい本ではないし、訳文もこなれているのだが、とにかく内容が濃く、しかも600ページ近い大著でもあり、読書には手間が掛かった。
 いや違う。すらすらと読んではいけない書籍なのだと覚悟して、日々修行のように読んだ。読後新書50冊分くらい読んだ実感がある。いやそれも違う。新書50冊を読んでもこれほどのずしんとくるインパクトはないだろう。新刊書ではないが私としては今年読んだ本のなかでもっとも強烈な本となった。
 この強烈さ、それは何か? 人間という存在の、最も神秘的な一面が描かれているからだ。神秘的といっても、世界を破滅させる一つの呪文といった簡潔さではない。ナッシュという人間を巡る、とめどない汚辱のような人間関係も、率直に言えば吐き気が出そうなほどに、こってりと描かれている。人間とはこのような存在なのだ。人生というのはこのような本質を持っているのだということが、まるで、神学とはまったく逆の方向で啓示のように、あるいは深淵のように、救いようもなく、ばっくりとそこここに開かれている。
cover
映画ビューティフル・マインド
 むしろそうした果てしなく暗い何かの、たまたま一つの表現としてジョン・ナッシュの精神病があるかのようだ。ナッシュの病態は、映画の描写では戯画的ではあったが、統合失調症であるとはいえる。本書の翻訳ではこの訳語が日本社会に定着する前であったため精神分裂病とされている。特徴的なのは妄想や幻聴といったものだ。私の精神医学の理解では、統合失調症でも幻覚はそう頻出するものではないので、映画のほうの描き方はビジュアル的な工夫にすぎず、実際のナッシュの統合失調症の状態とはかなり違うだろうとは思っていた。
 余談めくが、映画ではナッシュの夫婦関係での性の描写がややなまなましかったが、このあたりは、本書のほうではより広義になっている。こうしたディテールという点では、映画と本書に描かれているナッシュの像にはかなりの差があり、映画を見てしまった映像的な印象は読書の妨げになった。もっとも、映画のほうは本書への緻密な読みから細かいディテールを抜き出して再構成しているとは言える。
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もっとも美しい数学
ゲーム理論 (文春文庫)
 ジョン・ナッシュという人間は、お世辞にも優れた人格者だとは思えない。愛情のかけらもないのではないかと疑問に思われても当然だろう。だが、その数学的な才能は疑念の余地もない。本書はナッシュの数学の内実には言及されていないが、どのような数学的な業績がなされたかは年代順にまたその時代背景とともに丹念に描かれている。後に1994年のノーベル賞受賞理由ともなったゲーム理論における業績は、数学者ナッシュの全体から見れば、それほど突出したものでもなく、挿話的な業績でもあった。
 本書で知ったのだが、ナッシュの統合失調症の病歴は30代に入ってから顕著になるが、おそらく20代でもその前兆はあったのだろう。そして30代半ばからいよいよ手が付けられなくなるほど悪化するのだが、その間も数学的な業績を上げている。40代以降にはさすがに世間から忘れらた幽霊のような存在になるが、寛解中の60歳以降の知的能力を見ても、統合失調症と並行して数学的な能力は維持されていたように見える。読みながらそんなことがあるんだろうかという思いと、そういうものだろうという思いが交錯する。人間の知的能力つまりマインドというもの独立した均衡美とでもいうものがあるのだろう。
 ナッシュの狂気は、米国が冷戦時代、とくに共産主義思想狩りでもあったレッドパージの時代とも関係している(あるいはその背景で読み取らざるをえない側面がある)。本書は、その時代の米国の知的状況がどのようなものであったかについてかなり詳細に言及されているので、現代史の歴史書としても非常に興味深い。特に、ユダヤ人学者が欧州亡命学者の描写からはいちいち頷けるものがあった。米国現代史に関心がある人にとっても有益な書籍だろう。
 ナッシュは、ごく普通にといってもいいのだろうが、米国が戦争をすることを恐れた。徴兵されることにも極度の恐れを持っていた。これらの恐れは、ナッシュの妄想をそれなりに追ってみると、この時代特有のSF小説的な枠組みでもあり、どうやら彼の数学的な能力はこの妄想を緻密にさせ、強迫に仕立ててもいる。
 こうしたプロセスを読みながら、これを言うのははばかれるが、反戦思想なり平和思想というのはそれ自体に統合失調症的な妄想を誘発する要因があるのではないかと思えてならなかった。もちろん、すべてそうなるわけではないのだが、平和への幻想的な希求は緩和な統合失調症的な状況を人にもたらすのではないか、あるいは奇妙な精神の呪縛となるのではないかとも思えた。ただし、この緩和性は相対的である。
 本書では数学者でもあり、さらに強烈な反戦思想家でもあり環境問題思想家でもあるアレクサンドル・グロタンディエクがこの妄想時代のジョン・ナッシュと頻繁に交流していることが描写されている。グロタンディエク側からの情報がさらに収集されていたら、この二者のさらに深い交流がわかるのかもしれない。いずれにしても、グロタンディエクとしてはナッシュはまったく狂気の人ではなかっただろう。そしてグロタンディエクは強烈な変人ではあるが統合失調症ではない。どういうことなんだろうか。わかるようでわからない。もっとも、ナッシュの統合失調症は、その子の様子を見てもわかるように多分に遺伝的な問題であることは明らかだ。
 本書は結果としてだが、夫婦の物語にもなっている。妻であるアリシアの人生の物語と言ってもよいかもしれない。ギリシャのアポロン神のように均整のとれた身体と美男子に加え、天才的な数学的才能をもつジョン・ナッシュに、こう言うのはなんだが、野心的な思いもあって結婚したアリシアだが、ナッシュの狂気は当然だが、別の女に産ませた子どもの問題やナッシュの同性愛的な問題にもかき回されていく。離婚に至ったのも当然だと言えるし、その渦中に別の男性とのロマンスがあったのも不思議ではない。だが老年期に至り、実質アリシアはナッシュの介護ともいえる関係に戻る。それは夫婦愛というのものもっとも純粋な形の表現になっているとしか言えない。それを導く力はどこにあるのか。ナッシュなのである。
 ナッシュは愚劣な人格と天才的な才能の不格好な混合物でありながら、それに触れる人びとを魅了していく。身体的な美観もあるだろうし、天才的な能力も引きつける要素だが、誰もがナッシュという人間に触れたとき、これはどうにかしなければならないというある種の衝迫感にかられる。本書が極めて優れているのは、読者をこの衝迫感の魔力の手中に引き込むことだ。ナッシュという人間を愛するようになるというのとは違うが、誰もがこうした人間への向き合い方、人間存在の深淵といったものに、愛のような感性を持ち、もしかしたら、愛というのはそういう異質な何かなののではないかと再考を迫ってくる。
 人間とは何だろうか。言葉で問うことはたやすいが、この世にナッシュのような人間が出現したとき、人びとは自分が人間であることはどういうことなのか、その根底が抉られるように問われ出す。


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2010.11.26

延坪島砲撃事件で最初に挑発をしたのは韓国側か

 延坪島砲撃事件の初動について、報道からわかる範囲でメモしておきたい。論点は、今回の砲撃は北朝鮮側から見て正当なもの言えるだろうかということだ。これには、最初に挑発をしたのはどちらかという問題が関わる。
 どのような事件であれ、立脚する観点によって異なった見方が可能になる。今回の延坪島砲撃事件では市民居住区への攻撃という点で、北朝鮮の非は明らかなようだが、北朝鮮としては挑発を受けての自衛的な行為だと見ている。
 エントリーを起こしたいと思ったのは、初動はなんであったかについて各種報道からでは真相が明確ではないことだ。例えば、当日の朝日新聞記事「北朝鮮の韓国砲撃をめぐる23日の動き」(参照)では初動は判然としない。


8:20 北朝鮮、韓国軍の現場海域での演習中断を求める通知文を発送
14:34 北朝鮮軍が砲撃開始
14:49 韓国軍が対応射撃
14:50 韓国軍、周辺海域に対して、北朝鮮軍の局地挑発に備えた最高度の防衛準備態勢「珍島犬1」を発令
14:55 北朝鮮軍の砲撃やむ
15:01 韓国軍が2回目の対応射撃
15:10 北朝鮮軍が2回目の砲撃
15:25 韓国軍が3回目の対応射撃
15:41 北朝鮮軍の2回目の砲撃やむ
15:48 韓国軍、挑発中止を求める通知文を発送
16:35 李明博大統領が外交・安全保障関係閣僚会議を開催(~21:50)
16:36 韓国行政安全省が全国家公務員に非常待機令
18:06 韓国大統領府が政府声明を発表
18:40 韓国軍合同参謀本部が記者会見
20:30 金星煥外交通商相が在韓日本大使に状況説明
20:37 李大統領が合同参謀本部を視察

 タイムテーブルからは事前通告はあったものの午後2時半に突然北朝鮮の砲撃が始まったように見える。
 ところが中国は別の見方をしている。中国の立場とも絡んでいるだろうが、中国の報道からは、今回の挑発の発端は韓国側にあるとする北朝鮮への理解が感じられる。23日付けCRI「朝鮮、「韓国側が先に軍事挑発した」(参照)より。

 韓国の聯合ニュースが23日、朝鮮中央通信社の報道を引用して伝えたところによりますと、朝鮮人民軍最高司令部は23日、「韓国側が先に軍事的挑発をした」と宣言したということです。
 報道によりますと、朝鮮人民軍最高司令部が23日に発表したプレスコミュニケでは、「韓国側が朝鮮側の数回にわたる警告を顧みず、23日午後1時から朝鮮西海の延坪島周辺で朝鮮側の領海に発砲し、軍事的挑発を行った。これに対し、朝鮮人民軍は軍事措置をとり、反撃を加えた」としました。
 プレスコミュニケはさらに、「朝鮮の西海には、朝鮮側の画定した海上軍事境界線しかない。韓国側が朝鮮の領海を0.001ミリでも侵犯すれば、朝鮮は断固として軍事的手段で反撃する」としました。
 また、韓国国防省によりますと、韓国は23日午前10時15分から午後2時25分まで、延坪島付近の海域で定期的な射撃訓練を行いましたが、射撃訓練の地点は北方限界線の韓国側にあるということです。

 こうした、初動の挑発は韓国であったとする見解は、23日付けニューヨークタイムズ社説「A Very Risky Game」(参照)にもある。

The attack on Yeonpyeong Island occurred after South Korean forces on exercises fired test shots into waters near the North Korean coast. We hope South Korea’s president is asking who came up with that idea. But the North should have protested, rather than firing on a populated area, wounding three civilians and 15 soldiers.

延坪島攻撃は韓国軍が北朝鮮海域で軍事演習の砲弾を発した後に起きた。我々米国民としては、この考えに至った者に韓国大統領が質疑していと期待している。それでも、北朝鮮は3人の市民と15人の兵士に傷害を与える居住区への砲撃よりも抗議をすべきだった。


 ニューヨークタイムズとしては、その海域で最初の演習砲弾を行った韓国に非があると見ている。さらにこう続く。

South Korea showed admirable restraint earlier this year when the North Koreans torpedoed and sank a South Korean warship, killing 46 sailors.

北朝鮮の雷撃で46人の兵士の死者を出した今年年初の韓国軍船沈没のときも、韓国は称賛すべき抑制を示した。


 韓国軍は46人も殺されても我慢したのだから、北朝鮮を挑発すると思えるような軍事演習も我慢するべきだったというのだ。随分とひどいことをニューヨークタイムズは言うものだなという印象もあるが、それより、今後米国がこの海域で軍事演習をすることになるという米国のダブルスタンダードな対応はどうなのだろうか。いずれにせよ、挑発した韓国に非があるという議論は存在する。
 ニューヨークタイムズの議論に対して直接の対応ではないが、米政府側の反論としても読めるのは24日付けワシントンポスト記事「N. Korea attack leaves U.S. with tough choices」(参照)だった。

Despite North Korean claims that the South fired the first shots during a round of military exercises, U.S. officials said the barrage appeared to have been unprovoked and premeditated.

軍事演習中に韓国が最初の砲撃を放ったと北朝鮮が主張するものの、米国高官は、集中砲火は挑発によらず事前計画であったようだと述べている。

They noted that the North began firing artillery four hours after the South's guns had fallen silent. Administration sources also said North Korean leader Kim Jong Il and his third son, the heir apparent Kim Jong Eun, visited troops over the weekend in the region where the barrage originated - apparently as a kind of pep rally.

高官らは韓国砲弾が止んでから4時間後に北朝鮮が大砲を撃ち出したことに注目している。高官筋によると、金正日総書記と彼の三男の正嫡と見られる金正恩が、週末、集中砲火を発した地域で軍の訪問をしていた。おそらく一種の激励としてである。


 ワシントンポストは米国当局の見方を伝えている。気になるのは、韓国演習の砲弾が止でからの4時間の沈黙があるという指摘だ。集中砲火が始まったのは2時半であり、4時間前となると10時半ということになる。つまり、海上演習が始まった初期の状態を指している。どのようなものだっただろうか。
 23日聯合ニュース「韓国軍「北の砲撃は意図的挑発」、護国訓練否定」(参照)はこう伝えている。

 国防部の李庸傑(イ・ヨンゴル)次官は同日、民主党幹部に非公開報告を行い、軍が延坪島の沖合いで実施した訓練は護国訓練ではなく、定期的に行っている射撃訓練だったと説明した。民主党の朴智元(パク・チウォン)院内代表が明らかにした。
 李次官によると、韓国軍は、午前10時15分から午後2時25分まで北西部海上で射撃訓練を実施。西南方向に向け、NLLより南側で砲撃を行った。北朝鮮側が午後2時34分に海岸砲20発余りを発射してきたため、韓国軍もK9自走砲で同49分ごろ応射。続いて午後3時1分ごろ2度目の応射を行ったという。事態は午後3時41分に収束した。

 このアナウンスが正しければ、今回の演習はニューヨークタイムズがことさらに取り上げるようなものではなく、定期的に行っている射撃訓練であったようだ。また、初砲は10時15分、北西部海上から西南方向に向け、北方限界線より南側であったことになり、北朝鮮に向けられてはいない。


延坪島域北方限界線より

 赤い矢印が延坪島で紫色の2つの領域が韓国の射撃訓練域である。李次官の話が正確なら、韓国は北方限界線の南、韓国寄りの射撃訓練域で演習砲弾を南西方向に発したことになる。これを北朝鮮が自国の領域への侵害とするには、1999年以降になってから北朝鮮が主張している海上軍事境界線を前提としなければならない。北朝鮮としての思い入れはあるだろうが、歴史的な経緯を重んじる国際的な常識からは逸した主張である。
 また、今回の演習が定期的な射撃訓練であれば軍事挑発として中国やニューヨークタイムズが取り上げるほどの意味合いもないだろう。先の聯合ニュースでは同種の演習が8月と9月にも実施されたことを伝えている。


 一方、ある軍関係者は、今回の韓国軍の訓練は護国訓練期間に行われたが、これとは別のもので、1カ月に1回程度、定期的に実施している射撃訓練だと説明した。8月初めと9月にも白リョン島、延坪島で実施しているという。
 韓国軍の砲射撃区域は、延坪島の西南方向20~30キロメートル地点で、午前10時から午後5時までの計画だった。砲射撃訓練にはバルカン砲、爆撃砲、無反動砲などを動員したと伝えた。

 現状では初動についての詳細な状況はわからないが、逆にいえば、中国やニューヨークタイムズが取っている、韓国側から北朝鮮を挑発したという見解もそれほど確固たるものではなさそうだ。

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2010.11.25

[書評]ゼロから学ぶ経済政策 日本を幸福にする経済政策のつくり方(飯田泰之)

 民主党政権で各分野に混迷が深まるなか、ただ批判的に状況を見ているのではなく、一連の騒ぎが終了し、空疎なマニフェストの夢からはっきりと覚めた後、日本をどのように立て直していくか。そのなかで経済政策はどうあるべきか。基本に戻って考えるにはどうしたらよいか。そんなことを思っていた矢先に、ずばりその通りの書名の書籍があったので手にしたら、著者は経済学者の飯田泰之氏であったので、中身も見ずに購入して読んだ。良書であった。

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ゼロから学ぶ経済政策
日本を幸福にする
経済政策のつくり方
飯田泰之
 経済政策とはどのようなものか。どう考えたらよいのか。その基本がきちんと書かれているという点で、私の視野が狭いだけかもしれないが、意外に珍しい書籍に思えた。読後の印象としては、新書に収めるには内容が豊富で、私などは部分的な再読・精読を必要とする書籍だった。
 本書は、副題に「日本を幸福にする経済政策」とあるように、日本国民が幸福になるための経済政策という大きな指針で描かれている。幸福とはなにかという、抽象的な議論になりがちなテーマだが、本書では第一章「幸福を目指すための経済政策」で、妥当な論理の展開から打倒な指針が与えられている。
 要点を単純に言えば、国民の幸福を考える上で目をそらしてはいけないのは、一人当たりの国内総生産(GDP)ということだ。その上に成長戦略が位置づけられ、さらにそれだけではない他の側面で、他の経済政策が位置づけられていくことになる。
 余談めくが、民主党は一時期独自の幸福指数を考案したいと主張していたものだった。それらが馬鹿げた空想として再燃することがあれば、本書のこの部分の考察はきちんとした消火器の役割をするだろう。
 本書は第一章で国民の幸福の視点を定めた後、経済政策の三本柱として成長政策、安定化政策、再配分政策を示し、その組み合わせが重要だとし、第二章以降は、三本柱にそれぞれの章を充てている。その意味で本書の構成は非常に簡潔で、経済政策としての幸福という概念、そのための三本柱の組み合わせ、そして三本の各論という構図でできている。
 各論の前になるが、本書の特徴でもあるのだが、さらりと重要な命題もちりばめられている。特にこの三本柱の組み合わせについて、「ティンバーゲンの定理」、「マンデルの定理」そして「コンティンジェンシー・プランの存在」という原理性への言及が貴重だ。おそらくこの三点だけでも一冊の書籍になるくらいの重要性があると私には思えた。
 「ティンバーゲンの定理」は「N個の独立した政策目標達成のためには、N個の独立した政策手段が必要である」ということで、まさに民主党政権はその反面教師のようなものだった。おそらくこの政権は、理想の政治概念から個々の経済政策が魔法の杖の一振りで導かれるというナイーブな幻想をもっていたのだろう。残念ながら、個別の政策は医薬品のように個別の副作用を伴うし、だからこそそれに対応した「マンデルの定理」も関連する。
 「コンティンジェンシー・プランの存在」については、本書をいわゆるエッセイ的な読書として読むなら、知識を得るという以上に、著者の思想や主観が多少見える部分でもあり興味深い。著者の飯田氏はこれを「真正保守主義の原則」と呼んでいることの陰影でもある。
 日本の軽薄な言論風土では、「真正保守主義」というだけで右派であるかのようにバッシングされがちだが、内実は「政策に間違いがあれば引き返せるようにする」という素朴な意味合いである。しかし「その引き返す」という考え方には、引き返すべき日本国民による国民社会という理念も含まれているのだろう。こうした点と限らないが、微妙な主観性が本書の独自の魅力ともなっている。
 第二章は成長政策、第三章は安定化政策、第四章は再配分政策と議論は明晰に進むのだが、経済学的な知識にベースを置く技術論と、経済学というより政治理念的な部分には交差性も感じられ、特に第四章の再配分政策にはその印象が濃く、理念的な先行から実質的な経済政策への乖離が多少見られるように思えた。
 別の言い方をすれば、例えば「実践 行動経済学 --- 健康、富、幸福への聡明な選択(リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン)」(参照)のほうがより具体的な議論を展開している分、精密な議論になっている。本書でも、具体的でかつ社会コンテキストを反映した展開があればより明確になるだろうと思えた。セイラーの書籍の対象はあくまで米国社会なので、日本社会であればどうかという議論を識者に期待したいところだ。
 経済政策として通常議論されがちな、財政政策と金融政策については、第三章の安定化政策に分類され、バランスよくまとめられているが、この分野だけでも大きなテーマであり、例えば「マンデル=フレミング効果」などさらりと触れられているにとどまっている。こうした個別の財政政策と金融政策については、政策研究者の高橋洋一氏による著作(参照参照)も参考になるだろうし、別書に譲ってもよかったかもしれない。
 本書を読みながら一番考えあぐねていたのは第二章の成長戦略についてだった。異論があるわけではない。むしろ、どれも同意できる内容なのだが、読み進むにつれ懸念のような思いが漂う。なぜなのか。
 経済成長には、「資本(経済学的な意味で)」「労働力」「技術」の要素があるが、重要なのは「技術」である。技術といってもIT技術というような個別の技術より、付加価値の知的・プロセス的な源泉と言い換えてもよいだろう。その基本だが、こう説かれている。

 まず、政府による価格規制をなくすこと。たとえば、雇用における最低賃金や、今の日本にはないのですが賃貸住宅における最高家賃の設定といった価格規制を防ぐことが必要です。
 次に、事実上の独占やカルテル化によって不完全競争状態に陥っている市場があって、もしその原因がなんらかの規制にあるとしたら、参入規制を緩和することによって競争相手の促進をしなければならない。あるいは競争相手が国内から登場しないのであれば、海外との取引を活発化したり、規制緩和など外国資本の直接投資を促すことで、国内市場をより競争的にしていかなければならない。
 これが、政府が経済成長のためになすべき競争政策の基本となるわけです。

 私にはごく当たり前な事に思えると同時に、ブログなどをやって日々罵倒を浴びている身としては、こういう意見は日本をダメにした「ネオリベ」であり「小泉信者」とでもいうことになるのだろうなと、すぐに連想できる。
 もちろんそうした非知性は無視してもよいようにも思えるが、しかし現下の民主党政権はこの非知性の政治的な結実であるという現実がある。この非知性もまた強固な現実なのである。
 定義などなさそうな「新自由主義」というお題目で市場主義は終わったみたいな言論もあるが、経済学的な視点での「市場の失敗」は本書で説明されているように、「費用逓減産業」「外部性」「情報の非対称」というモデルで理解できるものであり、「新自由主義」といった政治理念と経済理念のゴミ箱に入れて済むことではない。
 私は主観的に本書を読み込み過ぎただろうか。そうではないと思いたいのは、次のような本書のメッセージに強く共感するからだ。

 こうした再配分精度の機能主体となるのが政府ですが、しばしば取り沙汰されるのが、日本が目指すのは「大きな政府」か「小さな政府」かという議論です。これは今となっては言い古された言葉であり、最早意味のない概念になってしまっているので、ナンセンスな議論だと言われています。「大きな政府」というと社会主義のイメージが付きまとい、「小さな政府」というと新自由主義のイメージが付きまとうため、現実の政策論議の中に出てくることは少なくなりました。
 しかし、結局のところ政府機能をどうするのか、どちらの傾向にバランスを置くのかの決断は避けて通れず、必ず話し合わなければいけない問題です。

 この問題にも著者は一定の指針を与えているし、私もそれに賛同している。ただし、そうした議論の深まりは、もう少し荒野となった広々とした風景のなかでなされるものかもしれない。


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2010.11.24

韓国人が居住する延坪島に北朝鮮が砲弾を撃ち込んだのはなぜか

 昨日午後二時半すぎ、朝鮮半島西側の黄海上、韓国市民居住の延坪島に北朝鮮が野戦砲によって数十発の砲弾を撃ち込み、韓国軍も砲弾線で応戦する事態となった。被害として、韓国軍側に死者二名、重軽傷十数名を出した。民間集落では住民三名が負傷した。
 1999年、2002年でもこの海域に軍事的な衝突はあったものの、韓国が実効支配し、市民が生活している地域に、挑発とはいえ、攻撃をしかけたのは1953年以来のことで、異例の事態であった。しかし、その後はとりあえず沈静化しており、これ以上に戦禍は拡大されないだろう(参照)。
 なぜこのような事態になったのか。
 韓国および国連が主張する北方限界線を北朝鮮は認めていないことが背景にある。北朝鮮としては、1953年の停戦協定によって地上での軍事境界線は定めたが海上の規定はないとし、独自の海上軍事境界線を主張している。今回の延坪島はこの2者の主張する2線に挟まれた地域にある。北朝鮮としては自国領土に関わる問題となる。
 1999年の際の小競り合い以降、北朝鮮はこの軍事境界線問題を強く主張しており、この海域での小規模な小競り合いは常態化していて、逆にそうした経緯から事実上北朝鮮も国際社会の同意を理解し、よもや市民居住区への砲撃があるとは想定しがいとされていた。それが突然破られたため、驚きが広がった。
 とはいえ今回の砲撃だが、時期的だけ見れば、同島の主要な産業であるワタリガニ漁の最盛期はほぼ外されてはいるし、砲弾による住民への直接被害もそれほど大きいわけではない。おそらくそれほどの被害を狙ったものではなく、メッセージ性の強い行為であっただろう。そのあたりに今回の事態を解く鍵がありそうだ。
 現状のところ、今朝の大手紙社説などを見ても明らかだが、日本のメディアでは概ね二点から解説している。(1)新権力者となる金正恩の権威付け、(2)ウラン濃縮活動に関連して米朝協議を推進させたい思惑、といったところだ。穏当な推測だろう。ただ、二点目の意味合いについて私はやや異なった考えを持っている。
 私は、今回の事態は国境線の問題や北朝鮮内の権力の問題というより、野戦砲を使って韓国市民を恐怖に陥れたという点がまず重要だろうと考える。その意味、つまり、その北朝鮮のメッセージは、野戦砲を多数の市民が住むソウルに向けて放つ覚悟がある、ということだろう。すでにソウルに向けた砲撃の準備は整ってもいる。野戦砲は近代的な兵器とは異なり意外と防衛しづらいのことも重要になる。応戦側にも多数の被害は出る。特に米軍は自国兵に犠牲を出しやすい、この手の応戦に加わりたくはない。
 この仮定の上にもう一段だけ推測を重ねてみたいのだが、その前提はなぜそのような脅威のメッセージを北朝鮮が出さなければならないか、ということになる。私の推測は、ウラン施設への空爆は許さない、ということだ。
 金正日は臆病者というかあるいは脇が甘くないというべきか、イラク戦争でイラクのフセイン元大統領や幹部がピンポイント空爆に遭っている際、恐れて長期に渡り身を隠していた。テロとピンポイント空爆によって殺傷される恐怖心はかなり強い。またウラン施設がピンポイント空爆されれば北朝鮮国内向けの権威は失墜し、王朝は自壊する。そこで、現状で朝鮮戦争のような事態になれば、韓国は自主的に軍の指揮権は取れないし、同様にピンポイント空爆も米軍の管理下に置かれるだろうと、北朝鮮側が想定したのだろう。つまり米軍のピンポイント空爆に対する人間の盾にソウルを使いたいということがあるだろう。
 今回の事態について私の読みはこれで終わりなのだが、気になることがもう一つある。やや陰謀論的な筋になりがちなのだが言及しておきたい。
 さて今回の事態、誰が一番得をしているのか。考えてみると奇妙な帰結になる。さしあたり五択だろうか。北朝鮮、韓国、米国、中国、日本、さてどこにメリットがあるか。
 有事ムードでごたごたを覆い隠すという点で日本の菅政権にメリットもあるにはあるが国際的にはほぼナンセンス。中国にメリットがあるとすれば、黄海を紛争地域に巻き込むことで米韓の軍事演習などしづらくすることだろう。しかし、おそらくその筋で読みは逆になる。米韓にとって中国側に軍事プレザンスをシフトできるメリットがありそうだ。
 今後延坪島住民の安全を守るという表向きの理由で韓国軍がここに軍事力を強化すれば、その影で米国は中国の北京の入り口を事実上封鎖できる。これは美味しい。
 この読み筋は、別段、陰謀論でもなんでもなく、ただそこまでは読まなかった北朝鮮の短慮の結果論としてそうなるということかもしれない。案外、北朝鮮は自国の命運のために中国に対して米国で牽制しておいてもよいと悪知恵を弄している可能性もないではない。
 今回の事態に中国はどう出るかがこれに関わってくる。中国はどう動くか。一番ありそうなのは、なんにもしないことだ。もう日本人はすっかり忘れているかもしれないが、北朝鮮が2006年に、「これはどうみても日本への威嚇でしょう」というミサイル実験を行った。そのときも中国はなんにもしていない。
 中国が恐れていることは、北朝鮮地域に権力の空白が生まれることなので(参照)、それを避けなければならない事態になるまで動くことはないだろう。
 今回の事態では、しかし中国が黙っていると漁夫の利として米軍が黄海を抑え込む可能性がある。その動きが可視になれば、中国はなにか珍妙な動きに出てくるだろう。こうした場合、中国は直接の関係国ではなく、弱そうなところをこづき回す。
 弱そうなところがどこかについて、解説は不要としたい。

追記
 26日付け朝日新聞「ロケットは「大量殺傷用」韓国内で強い非難 北朝鮮砲撃」(参照)より。


北朝鮮軍が大延坪島(テヨンピョンド)を砲撃した際、「予想していなかった」(韓国軍関係者)多連装ロケットも使ったことで、韓国世論が激高している。多数のロケットが一度に広範囲な地域に着弾、大きな被害を与える兵器だ。韓国国防省は「ソウル首都圏への奇襲的な大量集中射撃も可能」とみており、市民の衝撃は大きい。


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2010.11.23

[書評]ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である(いしたにまさき)

 「みたいもん!」(参照)のいしたにまさきさんが、ブログとツイッターをやっている、著名ブロガー、ネット文化のわかる文化人、ネットで著名なエンジニア、Webサービス運営者、そしてそれに収まらない人110名へのアンケートをもとに、なんでこの人たち、ブログとかツイッターの活動しているのか?という秘密に迫る書籍を出した。

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ネットで成功しているのは
〈やめない人たち〉である
いしたに まさき
 そして、「ねえ、きみたちぃ、ネットで儲けてんじゃなあい?」という素直な問いにも迫っている。そのあたりにも本書の独特の面白さもある。
 アンケートはこんな感じ。

  • いちばん好きなWebサービスは何?
  • これまで一番衝撃を受けたWebサービスは何?
  • ネットで情報発信する際にいちばん必要なスキルとは?
  • ネットで発信する際に心がけていることは?
  • 収入面での変化はあった?
  • それはネットをはじめて何年ったってから?
  • ブログのアクセス数を増やす努力はしている?
  • ツイッターフォロワー数を増やす努力はしている?

 私ことfinalventもアンケートに回答してる。
 いしたにさんの活動は面白いなと思っていたので、なんかの足しになればいいやと軽い気持ちで回答した。なので、私の回答も掲載されているのだが、いやはや、こういうことになろうとはね。(そして本書も書店に並ぶ前にいただいた。)
 回答されている方々がいちいち面白い。マスメディアからは見えないブログの世界ならではの著名人というのだろうか、怪人と言ってもいいんじゃないか、なんとも独自の雰囲気のある方が勢揃いという印象がある。名前がわからなくても、ブログ名を見ると、ああ、あれね、とピンとくる。dankogaiはどうした。
 そのピンとくる感じと回答がそれぞれ絶妙にかみ合っている。「そうなんだろうな、そう考えているんだろうな」というのがよくわかる。それでも、これだけずらっと回答集を並べてみると、なんなんでしょうね、この人たち。不思議な感じ。
 おそらく、この人びとがリアルな日本の、なんというのかな、言論とも違うし、サブカルチャーというのでもないだろうけど、なんか不思議なインパクトを与えていますよ。
 書名に〈やめない人たち〉とあるけど、少なくとも3年もやめないでを発信し、それなりにどっかで受信されている。この通信というのは、3年であれ、多数の人にとって対話的な人生の一部なんだろう。人びとがその中で生活する社会の一種なんだろう。
 ブログとかツイッターというのは、マスメディアに対比されるメディアであったり、商品やサービスの消費者メディアのようにも思われるけど、どっちかというと、大学の同級生というかなんかわけのわからない仲間のような、仲良しというわけでもないか、あちこち日々ドンパチしたり炎上したりもしているが、それでもこの砲火とどろくなかで、実名・ペンネームかかわらず発言しつづけ、それを見捨てずに受容している人びとの連帯みたいな、なにか一定の空間なのだろう。
 なんなんでしょう、これ。
 その不思議さに、いしたにさんは本書で素直に直面している。その素直さには、ジャーナリストやライターにありがちな外連味のないのがいい。知的な産出にエバノートの活用とかの話が出てくるのは若干ご愛敬でもあるが、なんなんだろうと思いあぐねる原石のような疑問は新鮮だし、たんまり回答が集まって、うわぁこれなんなんだろうと、と、しかし楽しげに取り組んでいる感覚も生き生きとしている。
 そうした疑問について、本書でうまく話がまとまっているかというと、そこは人それぞれ受け止め方は違うのではないだろうか。私としては、ライフハック型の、暑苦しいよ君、といったまとめがないのは、よいことだと思う。
 本書を読んで標題通りに「ネットで成功」できるかといえば、「野暮なこと聞くなよ」というのは別とすると、とりあえず成功の中身は問わず、あるいは〈やめない人たち〉になるというのを成功と仮に見なすなら、きちんと秘訣は描かれている。この怪人たちは、それほど自分と違った人ではないし、ぬるいかもしれないけど表現者になることは誰だって可能だという感覚も見えてくる。一言でいうなら、面白ってことを大切にして、無理をせず、発信続けること、なんだけど。
 ブログとかツイッターが面白いなと感じ、本書にもあるように、無理をしないという飛行体勢が3年維持できれば、それ自体が大きな変化だろうし、その変化は各人が意味づけもできるだろう。
 そうした一人一人の意味づけに、本書はネット的な距離感でそっと風が通りやすいようにも開かれている。


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2010.11.22

柳田法務大臣は辞任すべきではなかった

 朝方ぼんやりと、柳田稔法務大臣を解任させてはいけないな、そのことをブログにでも書こうか、書けばまた誤解されるな、しかしいずれにせよ法務大臣の差し替えは必要になるだろうな、などとぼんやり思っていたら、突然柳田法務大臣の速報を聞いた。あちゃ。そしてそのあと、法務大臣は仙谷官房長官が兼務すると聞いて、絶句した。文字どおり絶句で七言も出てこない。
 柳田法務大臣辞任の理由はといえば、言うまでもなく、例の失言である。18日時事「柳田法相の発言内容」(参照)より。


 柳田稔法相が14日、広島市内で開かれた自身の法相就任を祝う会で発言した内容は次の通り。
 法務大臣というのはいいですね。二つ覚えておけばいいですから。「個別の事案についてはお答えを差し控えます」とね。これはいい文句ですよ。これを使う。これがいいんです。分からなかったら、これを言う。(この言い回し)で、大分切り抜けてまいりましたけど、実際の話はしゃべれないもんで。あとは「法と証拠に基づいて適切にやっております」。この二つなんです。何回使ったことか。使うたびに野党からは責められる。「何だそれは。政治家としての答えじゃないじゃないか」。さんざん怒られます。ただ、法務大臣が法を犯してしゃべることはできない。当たり前の話なんですけどね。(2010/11/18-17:47)

 これだけ読むと、ただのお馬鹿な軽口にも見える。が、実際の口調を聞いてみるとだいぶ印象がちがうし、時事の書き起こしとも違っている。(参照YouTube)。

法務大臣とはいいですね。二つ覚えとけばいいんですから。「個別の事案についてはお答えを差し控えます」と。これがいいんです。わからなかったら、これを言う。であとは、えー、「法と証拠に基づいて適切にやっております」この二つなんです。まあ何回使ったことか。

 落語を聞いたことがある人なら、ああ、この口調や間の取り方は落語だとわかるはずだし、鹿児島出身の人だが、すこし江戸弁の風味もあって面白い。これは失言ではなく、ただのジョークでしょ。この程度の洒落が通じないで、日本人、どうすんだと私は思った。
 実際のところ、この紋切り答弁は自民党時代からあった。調べた方によると100件以上もあるらしい(参照)。いずれにせよ、従来から法務大臣はこの紋切り答弁を繰り返してきた。
 つまり口にはしないけど、歴代の法務大臣だって柳田法務大臣となんら変わるところはない。まして法律に関する職務経験のない柳田稔氏なら答弁に慎重にならざるをえない。これを責めるなら、洒落のセンスを責めるくらいなものだ。それは結果が問われる政治ではないだろう。
 まして、失言の言質で大臣を辞任に追い込むという非常識なお馬鹿集団は野党時代の民主党で終わりにしたほうがよい。もちろん、現民主党政権はそのお馬鹿のツケを払っているというのだが、その教訓はもう身に染みているだろう。
 責めるなら、こうしたお素人さんを法務大臣という専門職につけた首相の責任であるし、また、やはり柳田さんは法務大臣には向かないなというなら、首相が前に立ってフォローの体制を取るべきだった。
 率直なところ、私も柳田稔さんの洒落のセンスは大好きだが、法務大臣にまるで向いてないと思う。先日(18日)たまたま参院予算委員会で自民党の宮沢洋一氏による、中国漁船船長起訴に関する質問に答える柳田大臣の答弁を見ていたが(参照YouTube)、法的な議論以前に普通に応答が成立していなかった。端的に言えば、二つの紋切りが封じられたら柳田さん、何にも発言できずに混乱してしまった。そうなれば任命した首相がどうフォローに入るかなのだが、これがまた精細に欠けるというより、首相としての答弁の体をなしていなかった(参照YouTube)。ダメ過ぎだろ。
 いずれにせよ、柳田さんはこの件を超えたら早晩に法務大臣職を辞したほうがよいなとは思ったし、どうやらこの件でも正直に辞めたいと漏らしていたらしい。20日付け東京新聞「柳田法相、一時辞意漏らす 民主幹部に説得され翻意」(参照)より。

 国会軽視ともいえる発言をした柳田稔法相が周辺に一時、辞意を漏らしていたことが二十日、分かった。菅直人首相は野党の辞任要求には応じない考えを変えておらず、党幹部らが柳田氏を説得し、現時点では翻意したという。政府は二十一日に開く閣僚勉強会で今後の対応について意見交換する。 
 柳田氏に対しては、自民党が二十二日に不信任決議案を衆院、問責決議案を参院にそれぞれ提出する方針。野党が過半数を占める参院では、問責決議案は可決される情勢だ。

 いずれ問責決議案は避けられないという情勢というか空気を民主党も読んで、今朝の事態に至ったということだろうが、これで結局、政権交代後でも言葉狩りで大臣を打ち落とす前例を作ってしまったことになる。
 しかもこれ、予算を通すためのバーターでしょ。政治が汚いというのは愚かしいがここまで汚い風景を演出することはないんじゃないか。もうちょっと言うと、公明党ももう少し大人たる風格を示せないものか。国会は国民のためにあるというのに、
 問責決議案など出たら、鼻であしらった自民党の麻生太郎前首相を学ぶべきだったと思う。自民党の福田前首相もふんふんで済ませた(最後にぶち切れたけどね)。
 菅首相も国会で、明るく「みなさん、これは洒落ですよ。柳田さん、もっと面白いネタはないですか。あー、ネタというとやっぱり寿司ネタですかね。わはは」で終わりにすればよかった。それができなければ、菅伸子さんをメディアで使って世間話にし、お茶の間の笑いにすればよかった。そのくらいやってくれよ、この陰鬱とした政府、と思う。
 ところが現実はさらに陰鬱とした結果になった。後任の法務大臣は仙谷官房長官が兼務する(参照)。無理だろ。仙谷さんがいくら面白いキャラだとしても、首相も兼任しているんだぜ……いやそれは洒落だ。洒落にならない結果になると思うが。


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2010.11.21

民主党政権下で日本の武器輸出三原則が終わるだろう

 歴史の皮肉と言えるかもしれないが、民主党政権下で日本の武器輸出三原則が終わることになるだろう。背景は世界情勢の変化、特に北大西洋条約機構(NATO)の変化が大きい。
 19日から2日間にわたりリスボンで開催された、加盟国28か国北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議の注目点は、グルジア戦争以降冷えこんでいたNATOとロシアの関係が今回、ロシア側から大きく協調性が示されたことだった。2点ある。
 2点目から先にすると、ロシアがアフガニスタン戦争により協調的な支援の立場を明確にしたことだ。ロシア側の輸送手段などもより活発に利用されることになる。アフガニスタン戦争の泥沼化に悩むNATO側としても、また軍事費を削減せざるをえない加盟国の実情からも、援助となるロシアの態度は好ましいものになる。
 逆に見れば、ロシアの行為に甘えてNATOが軍事費削減に進むことでロシアがまた硬直化したときの脅威が高まると警告するフィナンシャルタイムズ「Nato and the case for defence」(参照)といった主張もある。ロシア側としては、ロシア側に向きつつある不安定な中央アジア諸国の情勢にアフガニスタン戦争の影響を受けることを避けたいという思いもあるだろう。
 もう1点は、欧州に配備するミサイル防衛システム(MD)にロシアが協調する姿勢を示したことだ。この問題ではかつて米国ブッシュ前政権とロシア・プーチン前政権とでは反目したことがあるので、今回の転機には注目されている。
 NATO側の本音を言えば、ロシアからの脅威に対抗するためのMDなので、ロシアの協調というのは不思議にも見えるが、それ以上に重要な課題がのしかかった。明白なのはイランの弾道ミサイルの脅威である。当然ながらロシアもカバーしているので共通の敵と言えないこともない。
 イランもこの動向に反応し、この間ミサイル実験(参照)も行った。イラン側からの声明でもわかるように、イスラエルへの敵意は剥き出しにされており、NATOとロシアとしてもイランとイスラエルの暴発の可能性に備えるという意味合いもあるだろう。さらにはパキスタンからの防衛という複雑な問題も絡んでいるだろう。
 日本ではあまり報道されなかったが、横浜で開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)での注目的なシーンは、米国オバマ大統領とロシア・メドベージェフ大統領の親密な関係だった(参照)。まるで大学の同級生のようにニックネームで呼び合う関係となり、いうまでもなく今回のNATO会議の前段であった。なお、日本では領土問題からロシアについては否定的な国民感情が優勢になりつつあるが、ロシアとしてはしっかり米国との関係を固めたうえでの日本への圧力でもあった。
 NATOのMD構想は日本にも大きな影響を与えるのだが、今朝の社説でこれに言及したのは毎日新聞社説「新戦略概念 NATOの進化に期待」(参照)だけで、表題からわるように「NATOに期待」と単純に述べている。日本との関連では次のように抽象的だ。


 米欧と関係が深い日本も北朝鮮の核・ミサイルの脅威にさらされ、中国やロシアの領土上の圧力も強まっている。日本もまた新たな戦略を考える時だ。日米安保に基づく米国との協力はもとより、NATOとの連携も重要度を増している。

 その意味について執筆者が理解してないこともないだろう。この問題は武器輸出三原則に関わってくる。特に重要なのは、日米がMDで共同開発している海上配備型迎撃ミサイルSM3ブロックIIついての扱いだ。日本が武器輸出三原則を固持すると、共同開発の米国としてもこれを第三国に供与することが不可能になる。MDを推進しようとするNATO側からしてみれば、日本がNATOのMDの傘を妨害する要因に見えるし、平和への侵害とも見えてしまう。
 これを回避するために民主党政権は武器輸出三原則を見直し、共同開発の対象国の拡大を検討している(参照)。拡大対象は、NATO17か国と韓国およびオーストラリアの計19か国となる予定だ。
 興味深いのはこうしたNATOの動向にまったく触れずに今朝の朝日新聞社説「武器輸出三原則―説得力足りない見直し論 」(参照)が掲載されていたことだった。

 いまこれを見直そうという動きが起こることには、確かに理由がある。
 近年、IT技術の進歩や開発コストの急増により、軍事技術をとりまく環境は一変した。巨額の開発費が要る戦闘機などは、米国といえども単独開発は難しく、多数の国々が参加する共同開発・生産が主流になりつつある。
 その一方で、軍用品と民生品の境界があいまいになり、武器とみなされない日本の半導体やソフトウエアなどの製品や技術が、他国の武器に堂々と組み込まれる現実も日常化している。
 見直し論が浮上する背景としてとりわけ大きいのは、武器の調達コストを何とか引き下げたいという動機だ。

 世界情勢の変化ではなく武器調達コストという論点に、あたかもすり替えているような印象がある。結語も現実味がない。

 何より武器輸出政策の原則を変えれば、それはいや応なく国際社会への強いメッセージとなる。日本は世界の中でどんな国家であろうとするのか。平和国家であり続けるのか、それとも?
 性急な見直し論議の前に、菅政権が答えを出すべき問いはそこにある。

 昭和時代の視点からすれば、こうした結語は普通に響くが、NATOの現状からすれば、日本はアフガニスタン戦争で血を流しもせず、イランとの関係も傍観しながら、NATOのMDの傘を妨害する国として、平和とは逆のイメージで見えてくる。
 落とし所がないわけではない。朝日新聞社説も結果的に指摘している。

 政府は従来、禁輸解除が必要と判断したものについては、一つずつ「例外化」という形で慎重に吟味し、閣議決定で適用除外としてきた。なぜ個別に判断するやり方ではいけないのか。

 武器輸出三原則の例外を閣議決定すれば、武器輸出三原則は無傷で残る。だが、19か国へも主要先進国に例外が拡大されても原則は維持されているというのは滑稽な響きがある。実質的には、民主党政権下で日本の武器輸出三原則が終わることになるだろう。

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