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2010.11.20

自衛隊ではなく国家が暴力装置だから国民は安心して暮らせる

 わかりやすく書いたつもりだったのだが、昨日のエントリー「自衛隊は暴力装置ではない。タコ焼きがタコ焼き器ではないのと同じ」(参照)はあまり理解されていないようだった。これがわからないと、近代国家の意味やシビリアンコントロールの意味が理解できないことになる。それじゃ困るなと思うので、もう少し補足しておこう。
 社会学的なものの考え方は慣れていない人には難しいのかもしれない。典型的な無理解として、例えば、いただいたはてなブックマークコメントにこんなのがあった(参照)。


hokusyu あたまがわるい, 暴力 詭弁w。存在自体が暴力であるという言い方は可能だが、ふつうはある力の行使のことを暴力というのであり、その暴力(乱暴な力)をふるうApparat(組織体/装置)が自衛隊や警察ってことで、日常言語でも普通に理解できる
2010/11/19 54 clicks 18

 「存在が暴力」というのは文学なんでどうでもいいし、「ある力の行使のことを暴力という」のも週刊誌的な単純さでいいのだけど、そこからとんちんかんな話になっている。
 日常言語でも普通に理解すると自民党や産経新聞が早とちりしたように「その暴力(乱暴な力)」となるのはしかたがない。だけど、国家が暴力装置であるという文脈での「暴力」というのはドイツ語の"Gewalt"(ゲバルト)の定訳語であり、「国家権力」を"Staatsgewalt"と呼ぶように基本は権力とその実体的な行使の意味があり、「乱暴な力」ということではない。
 加えて、このコメントの無理解でもあるのだが、「その暴力(乱暴な力)をふるうApparat(組織体/装置)が自衛隊や警察」というのはシンプルな間違いだ。"Apparat"にちゃんと「組織体/装置」と補助しているのにどうしてその意味がわからないのだろうか不思議なくらいだ。
 "Apparat"はラテン語に起源をもつ言葉なので、英語にも"apparatus"にもあり、基本的な意味は継承されているから、欧米人にはわかりやすい。平易なロングマンを見るとこう解説されている。

1 [uncountable] the set of tools and machines that you use for a particular scientific, medical, or technical purpose [= equipment]:
(特定の科学や医療または技術用途に利用される一式の道具や機械)
2 [countable] the way in which a lot of people are organized to work together to do a job or control a company or country [= machinery]:
(仕事をしたり企業や国家コントロールするために、多数の人びとが共同で作業できるように組織化される手法)

 バラバラであったものが特定の目的のために統合(独占)されるということが"apparatus"ということだ。
 タコ焼き器の例で言えば、タコ焼きをひっくり返すのに先の尖ったキリ(千枚通し)を使うけど、あれが人を刺す凶器ではないのは、タコ焼き器という"apparatus"に統合されているからだ。
 同じように、自衛隊というのは「暴力(Gewalt)」だけど国家という暴力装置に統合されているから安全に管理されているし、正当に使用されるから市民は安心できるということなのだ。
 逆に言えば、国家というものが領域内のすべての「暴力(Gewalt)」を回収し正当に行使しする「暴力装置」でなかった近代以前では、社会のなかに統合されていない各種の暴力(Gewalt)が溢れていた。
 日本人だとやくざの抗争とか想像するといいかもしれない。あるいはドラえもんのジャイアンが複数いる学級を想像してもいいかもしれない。諸暴力が溢れた状態では、人は諸暴力の関係とりこまれ、いつも不安な状態に置かれる。しかもその暴力は正当に行使されない。ジャイアンにいつ理不尽に殴られるかわからないし、ジャイアンAとジャイアンBの双方に不安定に隷属しなければならなくなる。
 これは困った。暴力が社会に溢れていてはいけない。だから国家を暴力装置として独占的に回収し配置できるようにしよう。これが近代国家なのである。
 仙谷官房長官の言うように「自衛隊が暴力装置」だったら、逆に大変なことになる。国家が諸暴力に晒されてしまうことになる。「すわっ大変」と思うのも不思議ではない。というか、どうやら仙谷官房長官はそれをご懸念されているのかもしれない。だが、その不安を解くのが国家という暴力装置なのだ。
 だからこそ、自衛隊は暴力装置ではない、ということを理解することが重要になる。
 こんな話は社会学では基本中の基本なので、どの辞書でも載っていることだが、と手元にないので困ったなと思ってググったら、きちんと辞書にあたったかたがいらっしゃったので引用すると(参照)。

暴力装置 暴力を発動するため、諸機関が配置されていること。最高に組織化された政治権力である国家権力が、軍隊・警察・刑務所などを配置している状態などに用いる。現代ではこの装置が巨大化し、独走する危険性がある。

 「暴力を発動するため」というのがやや物騒な印象があるが、体当たりしていくる外国船に対処したり、犯罪者を取り締まったりするという力の正当行使として暴力を発動ということである。重要なのは、「最高に組織化された政治権力である国家権力が、軍隊・警察・刑務所などを配置している状態」が暴力装置と定義されていることだ。「装置」というとなにか組織体を連想しがちだが、このように状態を指していると考えるほうがわかりやすい。
 繰り返すが、国家権力が軍隊・警察・刑務所などの各種の暴力(Gewalt)を掌握し、国家の目的から正当にそれを配置している状態が暴力装置ということなのである。そして、その掌握と配置には国家による暴力の独占が先行する。
 国家が暴力装置だということを理解しないと、シビリアンコントロールも理解できない。どうもわかっていない人がいるので、うざいけどこれも補足しよう。
 国家が暴力装置として暴力を独占・回収・配置しても、その国家が市民に暴力を向けてくる北朝鮮のような国家だったら大変なことになる。ではどうするか? 近代社会が出した答えは、市民が国家=政府となればいいじゃないかということだ。市民が政府となり、その暴力を正当に管理すればよい。だから、市民=シビリアンが、軍という大きな暴力をコントロールする。
 ではどのように管理するかというと、これは朝鮮戦争における軍の将軍マッカーサーと政府側大統領のトルーマンとの関係を見るとわかるが(参照)、政府は軍の目的と人事権を掌握する。軍としてはその目的をどのように遂行するかについては責任が委託されている。
 だから政府にとって重要なのは、軍の内部でどのような戦略を立てるかということではなく、軍に目的を与えその達成を評価して人事を行うことなのである。
 軍の内部に政府を打倒するといった明確な目的があれば、それ自体が政府の目的に反するという意味でシビリアンコントロールに反するが、そうでなければ、政府は与えた目的の達成で軍を評価することがシビリアンコントロールなのである。
 自衛隊が暴力装置だったら、政府がこの暴力を独占していないということなので、シビリアンコントロールはそもそもできない。だから、これはとても大切なこと。
 とはいえ、ではその政府がそもそも信頼できるのか? そんな巨大な暴力を独占する政府は危険ではないか、そんな疑問もあるだろう。
 だから憲法がある。憲法というのは、政府の暴力(Gewalt)をルールによって規制するということだ。この規制が正当性を担保する。
 さらにいえば、暴力装置として暴力を独占した政府から最終的に市民を守るための契約が憲法なのであるし、そう認識できなければ、そもそも憲法を理解していないことになる。また、この契約を守らせるために可能なかぎり国家の権力を分散しバランスさせる仕組みが、民主制度という政治制度なのだ。

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2010.11.19

自衛隊は暴力装置ではない。タコ焼きがタコ焼き器ではないのと同じ。

 仙谷由人官房長官が18日の参院予算委員会で、「暴力装置でもある自衛隊はある種の軍事組織でもあるから、シビリアンコントロールも利かないとならない」と発言し、「自衛隊が暴力装置とはなにごとだ」という文脈で話題になった。仙谷官房長官も即座に失言を認め「実力組織」と言い換えた。
 話としては、天皇機関説や女性機械説と同じ類の、学問をしてない人は誤解するということで、たいした失言でもないようにみえる。問題があるとすれば、仙谷官房長官の認識が間違っている点にある。自衛隊は暴力装置ではないのである。それは、タコ焼きがタコ焼き器ではないのと同じことなのだが、まあ、ご説明しようではないか。
 社会学や政治学や法学の世界では「暴力」という言葉はドイツ語の"Gewalt"(ゲバルト)の定訳語として使われることがある。その意味で社会学での定訳語としての「暴力」は日常使う意味合いと異なることがある。
 同じことは英語にもあり、ドイツ語"Gewalt"を"violence"(バイオレンス)と訳すことがある。英語の"violence"の日常的な意味は、頻度順定義で平易なロングマン辞書などを見るとわかるように、"behaviour that is intended to hurt other people physically"(他の人びとを身体的に傷つけることを意図した行為)である。日本語の「暴力」の語感に近い。
 日本語における日常的な「暴力」の意味合いは、大辞泉をひいてもわかるように、(1)乱暴な力・行為。不当に使う腕力。「―を振るう」(2)合法性や正当性を欠いた物理的な強制力、という意味がある。つまり、政治学の「暴力」とは意味合いが異なる。
 社会学の泰斗マックス・ヴェーバーをついだ米国の社会学者のタルコット・パーソンズも日常語との差違を考慮してか、"Gewalt"を"physical force"(身体的力)と言い換えている。原語のニュアンスを中立的に活かそうとした意図もあるからだろう。ドイツ語の場合は、「国家権力」を"Staatsgewalt"というように、いわゆる日常語の「暴力」ないし"violence"とは異なる中立的な権力の含みもある。むしろ、英語では"power"に近いがそれもまた別の誤解を招きやすい。
 「暴力」という言葉が学問では別の意味合いで使われるとすれば、仙谷官房長官が「自衛隊は暴力装置だ」と言っても、別段日常語の意味合いではなく問題はない、当然ではないかという意見もある。ブログにも見られた。
 例えば、ブログおおやにき「暴力装置」(参照)ではこう述べている。


いやいや何を言っているんだ自衛隊は国家の暴力装置に決まってるだろう(参照:「仙谷氏「自衛隊は暴力装置」 参院予算委で発言、撤回」(asahi.com))。国家が(ほぼ)独占的に保有する暴力こそがその強制力の保証だというのは政治学にせよ法哲学にせよ基本中の基本であり、その中心をなすのが「外向きの暴力」としての軍隊と「内向きの暴力」としての警察である。

 また池田信夫 blog「アナーキー・国家・ユートピア」(参照)でもどうようの意見が見られる。

軍隊が暴力装置であり、国家の本質は暴力の独占だというのは、マキャベリ以来の政治学の常識である。それを「更迭に値する自衛隊否定」と騒ぐ産経新聞は、日本の右翼のお粗末な知的水準を露呈してしまった。

 自民党の石破政務調査会長もかつて同種の意見を述べたことがある。「第7回朝日アジアフェロー・フォーラム」(参照)より。

 破綻国家においてどうしてテロは起こるのかというと、警察と軍隊という暴力装置を独占していないのであんなことが起こるのだということなんだろうと私は思っています。国家の定義というのは、警察と軍隊という暴力装置を合法的に所有するというのが国家の1つの定義のはずなので、ところが、それがなくなってしまうと、武力を統制する主体がなくなってしまってああいうことが起こるのだと。

 いずれも識者の見解であり、仙谷官房長官もまたそれに並ぶ見解にすぎず、なにが失言なのかという疑問が出るのは当然だろう。
 しかし、みなさん、間違っているのである。自衛隊は暴力装置ではない。
 まず、識者のみなさんが元にしている社会学の泰斗マックス・ヴェーバーから考えてみよう。
 マックス・ヴェーバーによるとされる「暴力装置」という用語だが、意外にも原典にはそのままの形態で掲載されていることは少ない。「暴力装置」という言葉自体をドイツ語にすれば、"Gewaltapparat"となるが、この言葉は例えば『経済と社会集団』においては、友愛のメンタルな力に対する身体的な力という文脈で使われているが、それが「暴力装置」の典拠されていることはない。
 典拠としては、むしろ直接的な用語の対応はなく、『職業としての政治』において、"Gewaltmonopol des Staates"(国家による暴力独占)が「暴力装置」として理解されてきた。これはどういうことなのか。
 "Gewaltmonopol des Staates"は英語圏では"monopoly on legitimate violence(正統な暴力の独占)"と理解されてきた。残念ながら私には『職業としての政治』をドイツ語で読解する能力はないので、英訳の"Politics as a Vocation"(参照)の該当個所を見てみよう。

Today, however, we have to say that a state is a human community that (successfully) claims the monopoly of the legitimate use of physical force within a given territory.

しかしながら今日において、国家とは、特定領域内で身体的な力の正統使用の独占を成功裏に主張する人間共同体であると言わなければならない。



The state is considered the sole source of the 'right' to use violence.

国家は暴力を正しく使用する唯一の源泉であると考えられる。



It has been successful in seeking to monopolize the legitimate use of physical force as a means of domination within a territory.

領域内の支配手段として、身体的な力の正統に独占することを求めることにおいて成功してきた。


 マックス・ヴェーバーが述べていることは、国家領域に存在する身体的な諸力を独占することが国家なのだということだ。
 敷衍するなら、国家領域に存在する身体的な力("Gewalt")であるものは、警察や軍、前近代的なやくざ、マフィアなど各種存在するが、そのような「暴力("Gewalt")」を独占する国家のありかたが、「暴力装置」だということだ。
 つまり、「暴力装置」というのは、各種の暴力を独占して扱う国家の装置("apparat")という特性を述べている。各種の暴力をあつかう装置("apparat")だから「暴力装置」なのである。タコ焼きを作るのがタコ焼き器("apparat")というのと同じことなのだ。タコ焼き器もまた、コンロ、金型、ひっくり返し用キリ、油引き、粉注ぎと各種の要素をまとめた装置("apparat")なのである。
 で、タコ焼きは食えますよね。でも、タコ焼き器("apparat")は食えない。
 国家は暴力ではなく暴力「装置」("apparat")。もちろん、その文脈でいうなら、自衛隊は「暴力」ではある。そして「支配手段」("a means of domination")でもある。だが、「暴力装置」ではない。
 よって、自衛隊は暴力装置ではない。
 仙谷官房長官は失言したのではなく、お勉強が足りませんでしたね、というだけのことだった。
 もっとも、国会はお勉強を開陳する場ではなく、国民の見る場での議論なのだから、「暴力」といえば常識的な国民はつい大辞泉をひいて、(1)乱暴な力・行為。不当に使う腕力、(2)合法性や正当性を欠いた物理的な強制力、といった解釈をして、自衛隊を暴力というのはなにごとだと思うのはしかたがないことだ。すぐに訂正した仙谷官房長官はお勉強は足りなかったが、常識は足りていた。
 あー、常識でもある「柳腰」の意味はわかってないみたいだけど、仙谷官房長官。


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2010.11.15

第五管区海上保安本部海上保安官を逮捕できず

 尖閣ビデオのユーチューブ流出に名乗り出た第五管区海上保安本部海上保安官(43)だが、今日夕刻逮捕されないことに決まった。国民世論としても納得のいく結論だっただろう。流出された映像が国家機密だというなら、なぜ毎日NHKのニュースでその映像が国民のお茶の間に流れているのか誰も説明できない。
 逮捕しないとの決断に至る説明は、NHK「逮捕せず任意捜査進める方針」(参照)では次のとおり。


警視庁と東京地検は、政府が一般には公開していない映像を職場の共用パソコンから入手した疑いがあることから、国家公務員法の守秘義務違反に当たるという見方を強め、15日、今後の捜査方針について協議を行いました。その結果、これまでの説明に事実関係と大きく異なる点はなく、みずから出頭していることから、証拠を隠したり逃亡したりするおそれはないと判断し、海上保安官を逮捕せず、任意で捜査を進める方針を固めました。

 時事「海上保安官、逮捕見送り=検察側が方針-在宅捜査を継続・捜査当局」(参照)ではこう。

 今後は国家公務員法(守秘義務)違反容疑で警視庁捜査1課が在宅のまま捜査を続け、東京地検に書類送検する。検察当局は送検後に改めて協議し、刑事処分を決める。
 捜査関係者によると、検察幹部は同日、海上保安官の逮捕方針について協議し、流出行為の悪質性や、証拠隠滅の恐れなどについて意見を交わした。その結果、映像の投稿は単独で行われたとみられることや、自ら上司に流出を申し出て、週末も自分の意思で海保施設にとどまったことなどから、証拠隠滅や逃走の恐れはないと判断した。
 ただ、保安官が帰宅後、出頭要請に応じない場合や、今後の裏付け捜査で供述が虚偽だったことが判明した場合には、逮捕に踏み切る可能性もあるという。

 逮捕はされなかったが、国家公務員法・守秘義務違反容疑が晴れたわけではない。あの映像がそもそも国家機密だったかのという司法上の議論は先送りされることになる。別の言い方をすれば、その議論を避けるための穏当な先送りだった。
 今回の決定は拘留の解除にもなる。当人の意向で海保庁舎に寝泊まりしているとしても事実上の拘留が継続しており、この点でも世論の批判を避ける意味があった。またこの間、マスコミも加熱し実質社会リンチにもなりうる実名報道(参照)も出現した。ずるずると拘留する状況の打開も求められていた。
 逮捕しないという決定について、司法的な手順からは「証拠隠滅や逃走の恐れはない」とのことだが、これは要するに保安官のシナリオを検察側が飲んだということだ。単独犯ではない別シナリオの可能性は断念された。捜査は今後も形式的には継続されるが、保安官とsengoku38を結びつける実質的な物的証拠はなかったことになる。実質的な司法取引のような印象も受ける。
 もちろんまったく裏が取れなかったわけではない。15日付けNHK「流出経緯ほぼ解明 方針協議へ」(参照)にもあるように、形式的には「ほぼ」解明はできた。

さらに、この間に海上保安官と同じ巡視艇「うらなみ」に乗務する同僚が、ネットワークで映像を見つけて巡視艇の共用パソコンに取り込んでいたこともわかりました。海上保安官は、この映像を10月中旬に共用パソコンからUSBメモリーに取り込んで持ち出したと話していて、パソコンの解析で裏付ける記録が確認されたということです。

 一応これで話はまとまるが、事実であったかどうかはついに解明されないことになった。
 技術的に興味深いのは、Googleから差し押さえたIP情報は神戸のマンガ喫茶だろうという以上には役立ってはいないことと、またユーチューブからの削除は自宅パソコンから行ったというのだが自宅IP情報はどうも割れていないことだ。技術的にもこの捜査は行き詰まっていたのだろう。
 一連の話で重要なのは自首調書という点だ。「尖閣ビデオ流出 警視庁が自首調書作成」(参照)より。

中国漁船衝突の映像流出事件で、神戸海上保安部の海上保安官(43)について、警視庁が保安官の自首を認める「自首調書」を作成していたことが12日、関係者への取材で分かった。捜査機関が自首を認めることで、逮捕の条件となる逃走や証拠隠滅の恐れが薄くなり、公判では刑を軽くする材料となることから、自首調書は作成を避けることが多い。今回は逮捕立件するかどうか、慎重に判断しているとみられる。

 自白調書に基づく以外に検察のストーリーが立てられなくなった時点で、検察は負けていたし、保安官は勝っていたことになる。
 世間の受け止め方としては、機密ではない映像を無理に機密とする政府に義憤をもって暴露したという話もある。だが実際に暴露されたのは、「仙谷」政権による機密管理のずさんさだった。もう少し賢い政権なら、中国と密約があろうがこっそり大手メディアに手短な6分ビデオをリークさせていたことだろうに、下手を打った。そもそも機密管理などできないと自身を見切る能力がこの政権にはなく、無理な機密管理に驀進してしまったのが墓穴を掘る原因だった。
 保安官の名乗り出以降、次々と機密管理のずさんが明らかになり、それが問われると担当の馬淵澄夫国土交通相はその場でたらたらと嘘の説明をした。最悪なのが「管理徹底」の空念仏だった。13日共同「情報管理の徹底は少数部署だけ 国交相の指示、伝わらず」(参照)より。

 尖閣諸島付近の中国漁船衝突の映像流出事件で、馬淵澄夫国土交通相が10月18日に海上保安庁に指示した「情報管理の徹底」は、第11管区海上保安本部(那覇)などごく少数の部署の幹部らだけに伝えられたことが13日、海保関係者への取材で分かった。
 流出元とみられる海上保安大学校(広島県呉市)や関与を認めた海上保安官(43)が所属する神戸海上保安部などに指示は伝わっておらず、流出発覚後の内部調査でも対象外だったことも判明。情報管理に加え、調査のずさんさがあらためて問われそうだ。


 国家行政組織法に基づく正式な「通達」ではなく、情報管理者名で庁内の伝達システムを使用し、管理職やシステム関係者に伝えられた。

 これが「仙谷」政権の国家機密保持の実態であり、馬淵国交相による政治主導であった。外交交渉可能な政府ではない。
 外交無能力政権の内情を結果的に暴露したのが、この保安官だったのである。彼が名乗り出なければ、こうした政権の体たらくこそ隠蔽されていたに違いない。
 そこがわからない人もいる。例えば、先日のエントリー「sengoku38の一手で「仙谷」政権、詰んだな」(参照)でこんな腐しコメントを貰った(参照)。

I11 詰め将棋で楽しんでいる場合か阿呆。毎日の記事には密約の文字は一字もない。いずれにせよこれで政権が壊れるなら民意で作られた政権を一役人の無法によって壊された結果になる。政権だけでなく民主政治が壊れる。 2010/11/14

 詰め将棋で遊んでいるかは主観によるし、「毎日の記事には密約の文字は一字もない」は世の中には文脈も読めない人がいると苦笑する程度のことだが、聞くべき指摘は「民意で作られた政権を一役人の無法によって壊された結果」への懸念だ。だが、そこは逆なのである。
 民意は尊重されるべきだが、同時に衆愚にもなりうることは歴史が教えるところだ。「一役人の無法」はこれから明らかにされるかもしれないが、海保の内規違反程度で終わる程度の話かもしれない。
 もちろん公務員が公務で知り得た情報を暴露することは違法である。だが、それが機密情報だったかは、このきっかけで国民が議論することができるようになった現在の課題だ。その議論をすることこそが民主政治なのである。
 私はsengoku38がこの保安官かどうかは確信が持てない。sengoku38が単独の行為であったかも疑念を持っている。むしろ検察の敗北でその疑念が封じられたことを苦々しく思う。だが、この保安官の仕事は結果から見ればあまりに鮮やかだった。
 外交も少し振り返ってみよう。尖閣ビデオを非公開の国家機密とすることはおそらく中国との密約であったことから、アジア太平洋経済協力会議(APEC)で「仙谷」政権は中国に対し、今日の事態に至る経過を事前に報告していただろう。密約で中国内も整えてきた胡氏にしてみれば苦々しい限りだったが、日本が米国一辺倒に傾くことも看過できない。その心情があの素っ気ない握手とその後の非公式会談だったのだろう。
 中国に反感を持つ人は多い。私を中国擁護者だと勘違いして、おまえは日本人ではないだろといったコメントすらいただく。だが日本はこの中国となんとか戦争もせずそれなりの経済協調と人的交流をしていくことにしか未来はない。であれば、政府間のチャネルを支援する非公式の複数チャネルが必要になる。それをこれからどうやって確立していくのか、それが政権に問われている。次の政権に問われていると言うべきかもしれないが。


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2010.11.14

日中首脳会談は公式ではなかった

 昨日菅首相と胡主席の日中首脳会談が実現した。一昨日のエントリーでこの会談が実現しなければ菅政権は外交能力ゼロと見られて終わりだろうという予想を書いたが、それが外れた形になったかに見えた。だが会談はあったが公式首脳会談ではなかった。外交上の意味合いはかなり薄い。「仙谷」政権の三手詰みが五手詰みになったくらいのものだった。
 中国胡錦濤主席も来日し、アジア太平洋経済協力会議(APEC)も予定通り実質戒厳令下の横浜で13日に開始したが、当日になっても日中首脳会議開催について中国側から返答がなく、同日夕刻が近づいても実現が危ぶまれていた。しかも菅総理と胡主席の顔合わせもにこやかなものとはとうてい言い難いものだった(参照ニコ動画)。それでもなんとか午後5時20分から開始された。
 会談は22分間行われた。同日NHK「日中首脳 戦略的互恵で一致」(参照)より。


 会談の冒頭、菅総理大臣は「ことし6月のサミットでお会いして以来、今回のAPECでもお会いすることができた。首脳会議への出席を心から歓迎する。日中両国は一衣帯水の関係だ」と述べました。これに対し、胡錦涛国家主席は「APECへの招待に感謝する。周到な準備をしていただき、会議は必ず成功するものと信じている。これからの日中関係の改善と発展について話したい」と述べました。

 東洋の国同士儀礼的な挨拶から始まるのはしかたがない。そんなことに時間を食ってしかも通訳が入るので実際の会談は、欧米流に見るなら10分くらいのものだった。当然、内容と呼べるものはない。

 今回の会談について、政府関係者からは「ことし9月に漁船の衝突事件が起きて以降、初めて正式な首脳会談を行ったということで、日中関係の改善に向けた大きな一歩を踏み出した」という声が出ています。しかし、異例なほど時間と労力をかけて会談が実現したものの、その内容は、先月すでに菅総理大臣と温家宝首相との間で確認されたものが、ほぼ繰り返されただけではないか、という指摘も出ています。今回の会談を受けて、両国間の懸案が一気に解決に向かうとみる政府関係者は少なく、引き続き対中外交で苦慮する場面も予想されます。

 NHK報道はさらりと重要な指摘をしている。「先月すでに菅総理大臣と温家宝首相との間で確認されたものが、ほぼ繰り返されただけ」ということだった。当然ながら、先月の菅・温菅の確認というのはただの立ち話であり、外交継続の意味合いはあってもただの立ち話をたまたまソファーに座ってしたくらいのものだった。会談といった位置づけにはなかった。すると、その立ち話と同じ内容だった今回の会談はどういうことなのだろうか。
 そもそもこれは会談だったのかとまでの疑問はない。なんであれ、会談はあった。会談がなく、まったく中国側から無視されるよりはよいことは確かだ。裏方の尽力もだが日本の政権としても評価できる。これで「仙谷」政権詰みといった状態にはいかずなんとか維持できるかにも見る。
 だが一晩経ってこの会談の位置づけを見ると面白い問題が起きている。この会談はどのような位置づけなのか。菅・温立ち話と同じ内容のこの会談は外交上どういう位置づけなのかか。正式なものと言えるのだろうか。問題は紛糾していた。
 どう報道されたか見ていこう。早々に時事が早合点した。まったくの誤報とまではいえないにせよすでに時事のサイト及び配信先からは削除されている。非常に興味深いので、ジャーナリズム検証の意味で削除前の記事を引用しておこう。19時37分配信;「日中首脳「会見」と報道=正式会談と位置付け-中国メディア」より。

 中国の通信社・中国新聞社は13日、胡錦濤国家主席と菅直人首相が横浜で「会見」(会談)したと伝えた。中国側は今回の会談を正式なものと位置付けているもようだ。
 最近の日中首脳会談をめぐっては、先月4日にブリュッセルで行われた菅首相と温家宝首相による25分間の非公式会談について外務省報道官や新華社通信が「交談」(語り合う)と発表。またハノイで同月30日に行われた両首相の10分間の懇談については同報道官が「時候のあいさつをした」と述べていた。

 今回の会談で今後の日中関係を考える上で重要になるのは、この会談が中国政府側でどのような位置づけとなっているかだ。つまり、これは正式の会談だったのか。時事がこの配信を破棄したように、結論から言えばそうではない。
 この間に書かれた大手紙社説にも会談の認識に興味深い混迷が発生していた。削除された時事と同質の認識を示したのは毎日新聞だった(参照)。さらりと「正式会談」と社説に書いてしまった。

【毎日新聞社説】
 日中首脳会談はわずか22分間だったが、正式会談は漁船衝突事件後は初めてだ。関係改善への中国側の意思表示と受け止めることができるだろう。

 朝日新聞は若干のためらいを見せた(参照)。括弧をつけることで独自の意味合いを伝えようとしている。しかし、それがどのような意味合いかは社説からは読み取れないぶっかっこうなものになった。

【朝日新聞社説】
 次いで、中国との「正式な首脳会談」を尖閣事件以降初めて実現させ、両国の戦略的互恵関係の重要性を最高レベルで再確認した。

 読売新聞社説はかなり正確に記した(参照)。ただし、「準ずる」の意味は曖昧だった。

【読売新聞社説】
 9月初めに尖閣諸島沖で漁船衝突事件が起きて以降、10月に2回、日中首脳は非公式に会談した。今回、日本側は公式な首脳会談と発表したが、中国は正式会談に準ずるものと位置づけている。

 日経新聞社説は別の形で踏み込んだ(参照)。暗黙裏に日本側の「正式会談」説を織り込み、それが中国側で公式ではないとしている。

【日経新聞社説】
 尖閣諸島沖の衝突事件後初めて胡主席と正式に会談できたことは歓迎すべきだが、中国側は公式の首脳会談とは位置付けておらず、これだけでは大きな成果とはいえない。

 大手紙社説からは、大本営式日本発表では今回の日中首脳会議は「正式」だが、中国側では外交状意味を持つ「公式会談」とは認めていないことがわかる。なお、産経新聞社説はこの点に言及していない。
 NHKと時事の続報にはこの問題でさらに興味深いブレが見られた。NHKはこれを中国側としても正式だという報道をしている。11月14日4時9分のNHK「中国 関係改善慎重なかじ取りか」(参照)より。

 今回の会談について中国の国営メディアは、これまでのような「非公式な対話」ではなく「正式な会談」だと伝えたうえで、「胡錦涛国家主席が、日中間で友好関係を築くことの重要性を強調した」として、意義を強調しました。

 しかし、中国国営メディアも勇み足だったようだ。13日夜、中国外務省による会談概要の発表を受けた、時事による挽回の記事が非常に興味深い。2010年11月14日1時6分「菅首相の求めに応じ「会見」=世論意識、発表文を推敲か―中国」(参照)より。中国外務省について。

 同省は会談について「会晤」(会見)という中国語を用いた。通常は「会見」を用いるケースが多いが、「ニュアンスに違いはあるものの、ほとんど同じ意味」(中国外交筋)。ただ、先月のブリュッセルでの菅首相と温家宝首相による非公式会談で中国外務省報道官が発表した「交談」(懇談)より格は上だ。また、日中関係筋によると、実際に中国側はこの日の会談を「会見」と位置付け、「正式」なものと見ていたもようだ。
 そのため当初、政府系通信社・中国新聞社も「会見」を使っていたが、その後、国営新華社通信や外務省発表は「会晤」で統一。背景には「何らかの意図がある」(中国外交筋)とされ、通常の正式会談との違いを示す意図や、「会見」より「懇談」の方に重点を置く狙いがあったとも指摘される。

 中国側でもリアルタイムメディアとしては当初正式な会談ではないかという見方をしていたが、中国外務省が訂したということだ。

 胡、菅両氏の会談は、国家指導者の動静を伝える国営中央テレビの夜7時のニュースでも伝えられなかった。また、発表では「菅首相が胡主席の中日関係発展に関する意見に完全に賛同した」と強調しており、国内の反日世論に配慮し、発表内容を慎重に推敲(すいこう)した結果とみられる。 

 中国政府としては、外交上は今回の会談が外交上意味を持つ正式会談と受け取られることに憂慮したことになる。
 時事の報道からでは見えなかった部分は日経の報道「中国、日中「会談」と認める 米中より弱い表現 」(参照)から見える。

 中国外務省は13日の胡主席と菅首相の日中首脳会談に関して、発表文で「会晤」(会談)と「交談」(言葉を交わす)の表現を両方使用した。
 「交談」は10月4日にブリュッセルで菅首相と温家宝首相が非公式に会談した際に用いた。同30日のハノイでの日中首相の顔合わせはさらに軽い「時候のあいさつ」と説明していた。
 今回は言葉を重ねて会談の事実を認めた形。ただ、今月11日のソウルでの米中、中ロ、中韓の各首脳会談で使った正式会談を表す「会見」よりも、やや弱い表現とした。

 日経の報道が正しければ、時事の報道からは「会晤」として「交談」より上としてしていたが、誤報とは言えないまでも評価は違っているようだ。日経報道では、「「会見」よりも、やや弱い表現とした」とあるが、会見より弱いのが会晤だが、それに交談が混じっているのだから、実際のところ、交談より少し上の非公式会談だったと見るほうが自然だろう。実際の会談のセッティングや実情から見ても、今回の日中首脳会議とやらは、先日の菅・温廊下会談より、主席自身が行ったという程度に重要性があるというくらいのものと見てよい。
 キーワードとなる「交談」には非公式な含みがあるようだ。サーチナ「日中首脳「会話」は非公式、公式会談実現には更なる努力必要―中国有識者」(参照

 中国社会科学院日本研究所の馮昭奎研究院も、中国語では「会面」「会談」「会見」「会晤」が外交活動における公式的な言葉であるのに対して「交談」が非公式なニュアンスを含んだ用語であることを指摘。いまだ公式会談を持つ雰囲気ではないと双方の首脳が認識している状況であり、公式会談を行うには更なる雰囲気の改善や環境づくりが必要だとの見解を示した。

 結論からすれば、今回の日中首脳会議は、中国側としてはまったく公式の会談ではなかったということなので、日本側が正式会談という大本営発表をしているとまた痛い目に遭いかねない。
 外交的に見るなら日中間の現状は、菅・温廊下立ち話以上の進展はない。であれば、やはり「仙谷」政権詰んだなという状態には変化はないことになる。せめて三手詰みが五手詰みになったくらいの違いだ。
 そうなると、気になることがある。尖閣ビデオを機密とするというれいの「密約」はどうなるのだろうか。さすがに中国側としても苦笑して反故とするか、あるいはまだ生きているのか。
 それは、明日わかる。私としてはどう考えてもこれは逮捕できる話とは思えない。なのに…という線が出るなら、またこの「仙谷」政権は中国漁船拿捕のような失態を国内向けにしてしまうことになる。さすがにその線はないと思いたい。


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