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2010.08.28

[書評]お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!(加納明弘、加納建太)

 太平洋戦争が1945年に終わり、二、三年後、ベビーブームと呼ばれるが、新しい日本人が多く生まれた。その子供たちが青春を迎えた1960年代後半は、日本の歴史においても特異な時代となった。戦後のリアルな貧困は体験しているものの、戦争を知らずに育った多数の若者たちは、その時代、親の世代や、因習と米国に盲従する日本というシステムに反抗した。

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お前の1960年代を、
死ぬ前にしゃべっとけ!
加納明弘、加納建太
 戦後世代の反抗。そう概括することはたやすい。現在からあの時代を記録のような大著にまとめることも、簡単とは言えないまでも、難しい作業とは言い難い。難しいのは、あの時代に生きて、その反抗の総括をその後の人生において成し遂げること。「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!(加納明弘、加納建太)」(参照)は、その見事な達成だった。
 昨今のネット時代では、1957年生まれの私なども爺扱いされ、団塊世代とごっちゃにされることがあるが、私はポスト全共闘世代で、それなりにインテリ青年志向でもあったので、上の世代である全共闘世代をいかに否定するかが精神的な課題だった。自分なりに戦後世代の反抗というものの意味づけに格闘した。
 私は二つの戦略を採った。一つは、私の父の世代、つまり全共闘世代より上の世代を知ること。歴史を戦争によって分断するのではなく、連続した近代史として見ること。それを通して、GHQが残した神話を戦前・戦後のリアル体験を持つ世代の視点から相対化することだった。私は父世代の体験を拾い集めながら、吉本隆明と山本七平に傾倒した。
 もう一つは、直に全共闘世代から聞くことだった。1984年にパソコン通信を始めたころ、その縁で全共闘世代のかたとの知己を得た。親身にしていただき、いろいろ伺った。長いお付き合いで、全共闘世代の内側から見えるものがわかったように思えた。この本もそうした関心の延長から読み始めた。
 この本は、広義の団塊世代、そして全共闘世代としてみればその中心位置にいた親父(オヤジ)と息子との対話である。背景は、長い副題のとおりでもある。

肺がんで死にかけている団塊元東大全共闘頑固親父を団塊ジュニア・ハゲタカファンド勤務の息子がとことん聞き倒す!

 帯にはこうある。

親父、1965年東京大学入学後、東大駒場で三派全学連系の活動家となる。1968年1月、佐世保エンプラ寄港反対闘争で、1968年3月、王子野戦病院反対闘争で逮捕・起訴される。その後、ノンセクトとして駒場共闘会議のリーダーとなり、東大全共闘に参加。1969年6月、東京大学中退。1960年代後半。二十歳そこそこだった親父は何を見て、何を読み、何を考えていたのか。親父とサシで話したこと、ある

 父・加納明弘氏は1946生まれ、息子・加納建太氏は1974年生まれ。団塊世代と団塊チルドレンである。仮にその中間を取ると1960年になるが、それだと日本の風景を変えた東京オリンピックの記憶はなく、東大安田講堂事件の意味合いもわからない。それがわかる最後の世代が、1957年生まれの私である。
 この本には、内側から見るあの時代について、きちんと答えるものがあった。それ以上に、「親父」である加納明弘氏という人にも圧倒された。何者だろう? この恐るべき知性は? と驚いた。
 学術書の類を書く頭のいい人の話をいくら聞いても頭がすっきりするとはいかないことが多いが、本当に頭のいい人の話を聞いているときは、脳がきーんと活性化してくる。この本は、読みながら、そのピーク感覚が続いた。加納明弘氏の話を、対談本としてだが、聞きながら、脳の中がキーンとしてくるのが感じられた。とことん考え詰める知性がここにある。こんな人が市井に隠れていたものだろうか? 実際には本書でも語られているが、氏には高野孟氏との共著もある。が、いわゆる思想の世界で表立っていた人ではないようだ。
 その整然とした語りのなかには、ポスト全共闘世代としてようやく到達した思想の地点というものもきちんと包括されていた。特に、その戦後史的な、世界史的な展望は見事なものだった。新左翼の本来の課題である、体制左翼的なるものを完全に思想的に解体する孤独な営為の結実があった。
 しかし、それは息子さんにうまく伝わってはいかない。世代ギャップ以上のものがそこここにある。私なども、小さく呆然とした。

親父 (前略)加藤登紀子っていう歌手がいるでしょう。
息子 えっ知らん。
親父 東大出たシャンソン歌手だよ。
息子 知らない。
親父 加藤登紀子知らないのかよ。
息子 世代が違うんで。
親父 世代じゃなくて、国籍が違うやつと話しているような気がしてきた。

 結果的に言うのなら、息子の聞き取り・合いの手は、ボケを演じながらも聡明な聞き役となっている。意図的ではないのかもしれないが、アポロ陰謀説などは吹き出しそうになった。が、それもまさに団塊世代チルドレンなら考えそうな発想や知識をきれいになぞっていることで、若い世代の人にも本書のよい入り口になっている。

息子 月着陸の証拠が、全部消されて無くなっているとかっていう噂なんだけど、あの映像はひょっとしてすごい特撮をしたのか?
親父 月着陸は嘘じゃないかっていうのは、ネトオタのヨタ話だよ。
(略)
息子 今それ解析されたらなんか特撮がばれちゃうのかな、わかんないけど。
親父 そんなことはないと思うけどね。
息子 安っちい映画だったら。
親父 それはない、おまえはネトオタ話に弱すぎだよ。

 こうしたすれ違いは大したことではないと言えば大したことではない。重要なことは、時代認識の総体に関わる、第二次世界大戦と冷戦の認識だ。
 核兵器などなくなれば平和になるという若い人らしい平板な発想がきちんと潰されていくあたりは、ぞくっとする。説明は、独ソ戦から説かれる。誰がヨーロッパをナチスから解放したか?

息子 ソ連は、雪で守られているあまりドイツと戦争に参加しなかった?
親父 違う、違う、そうじゃない。ソ連軍は連合軍側では一番死者を出したんだよ。独ソ戦は第二次世界大戦のハイライトだよ。ナチスを軍事的に打倒したのはソ連だから。この点について、日本人の多くの認識が世界の常識と違うんだよ。ちゃんとした歴史教育を受けていないんだよ。ナチを倒したのは、
息子フランスじゃないんだ。
(略)
息子 イギリスでもないんだ。
(略)
親父 (略)このナチ打倒の功績によって、戦後の世界政治のシステムが、米ソ二極システムになった。そこを理解しないと、20世紀の歴史がわかったことにならない。
(略)
ソ連軍は対ドイツ戦に動員した大兵力をそのまま中央ヨーロッパの戦線の駐留させたから、ソ連がその気になりさえすれば、西ドイツ、フランス、ギリシャ、イタリアまでもが、ソ連圏になっている可能性は非常に高かった。それだけ米英とソ連の間の軍事バランスはソ連優位だった。だから、冷戦が始まった1940年代後半にアメリカが核兵器を持っていなければ、ソ連が一気にイギリスを除く西欧を衛星国にしていた可能性はあったんだよ。そこで核兵器の話に戻るけどね、スターリンがなぜ西進の決断ができなかったかっていったら、やっぱりアメリカの核兵器が恐かったからだよ。


息子 アメリカが日本に核兵器を落とした。しかし、アメリカの核兵器はヨーロッパの平和維持に役立ったというわけ? その睨みが?
親父 それを平和というか安定というかはともかくとして、少なくともソ連軍の西進を抑止することに核兵器が貢献したと、アメリカもロシアも西ヨーロッパ諸国も考えている。(後略)

 冷戦の解説の話は、公平に言えば、一つの独自の史観とも言えるが、引用部分以外も包括的にかつ完結にまとまっていて、それだけでも本書の価値を高めている。
 さらに、ソ連というものの歴史的な出現をフランス革命から説き起こして、近代史の全貌も語られる。本人も「大風呂敷」と述べているが、その鳥瞰図のなかで1960年代後半の全共闘世代の経験がきちんと位置づけられていく。
 いや、位置づけというのではない。歴史的説明を装った知的な弁明ではないからだ。内ゲバという実体験の深化に伴う、背景的な考察として、近代理性というものの鳥瞰図が要請されていく。一言で言えば、理性が負け、欲望と自由が勝ったとされるが、その理性のなかに、日本という社会主義的なシステムも描き出されていく。歴史というもののなかに投げ出されたリアルな人間が、その全的な関与において感受したものを通して、歴史の意味が説き明かされていく。そのプロセスにはため息が漏れる。
 内ゲバ体験とその背景の力学については、類書でも語られるが、この本では民青の描き方が興味深い。対談の貴重な価値にもなっている。余談めくが、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」は穏便で受け身の主婦の昭和史のように見られがちだが、あそこで描かれた工員や女工の背景には民青の物語も潜んでいる。
 こうして全共闘世代の青春の意味がその後の人生のなかに問われて、では結局なんだったのか? 息子に語る、一種の自己満足のようなものだったのか。
 まったく違う。戦後日本がまったく新しい市民というものを形成した一つの勝利と呼べるものだろう。この対談こそが、日本に本格的な市民というものが生まれたということの証左でもある。
 市民としての思索を辞めてしまうことが、冗談を込めて「脳死」として語られる。

親父 (略)やっぱり脳死のフリをしないと、サラリーマンや組織人やってられないいう側面はあるわけだからね。だけど、脳死のフリをしているとしばしば本当に脳死しちゃうわけだよ。そういうやつがたくさんいると思うよ。
息子 かろうじて逃げてきたのがTさんであるのか、親父はかなり変わった形で逃げてきた。
親父 T君なんかは、かろうじて脳死から逃げきったと思う。我々の世代が脳死から逃げるためには、やっぱり大変なエネルギーが必要だったんだよ。

 「脳死」は現代日本そのものでもある。なぜか。

親父(略)異議申し立てをすれば叩き潰されるんだから、異議を申し立てしてもしょうがないっていう諦めになる。いわゆる政治的無気力感であり、政治的無関心になるわけだよね。その上に、昨夜いったような異議申し立て者の末裔が引き起こした幾つかの芳しくない事件が重なって、無力感はますます深くなり、やがて異議申し立てする奴が日本社会からほんとどいなくなっていった。キミが対談の冒頭で言ったように、暴動を起こす元気もなくなっていったわけだよ。で、何が起こった? 異議申し立てされない権力っていうのは必ず腐敗するんだよ。

 ポスト全共闘世代の私からすれば、ああ、また言ってら、という印象もある。
 むしろ、全共闘世代は異議申し立てゲームをやりつづけて、ついにリアルを浸蝕して、現在のお馬鹿な政府まで作り上げてしまった。ネットでは異議申し立ての正義や社会主義的な正義の名を借りて、記号的に形成された異端者を屠り上げる快感のゲームが繰り広げられる。現代は、異議申し立て幻想の倒錯の時代であると私は思う。
 それでも、全共闘世代、いやそれを包み込む戦後の最初の世代としての団塊世代が、市民とその原理を、社会や国家の基盤に据えたこことに私は疑いを持たない。人が一人一人起立して自己の意見を語り、場合には異議申し立てで軋轢を生んでも、友人に語り、配偶者に語り、息子に語り、娘に語る、そういう市民社会が、戦後の日本人の経験化から生まれつつあることは、どのような両義性をもっていたとしても、まず肯定されなければならない。その点で、この本の終章と後書きは、ユーモラスでありながら力強いものだった。
 本書はネットに公開された内容を書籍化したものということだ。探してみると、「Eastedge1946」(参照)にある。異同はあるらしいが、ざっと見たところでは書籍版と同じ内容のようだ。

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2010.08.27

菅さん、衆院解散しちゃいなさいよ

 民主党小沢一郎前幹事長が9月の民主党代表選に出馬することになった。まあ、出馬することは一向にかまわないがと、素人ながら代表選の票を読んでいくと、ありゃ、小沢さん、勝ちそうだ。ということで、今更、暗澹たる気分になった。これで小沢独裁アゲインか。
 小沢さんの自前のグループが150人、これに鳩山さんのグループが50人。これだけで都合200人。民主党所属国会議員は412人。勢いだけで過半数はガチというところだ。
 対する菅さんの自前が40人。前原さんは反小沢派ということでこっちに40人プラス。同じく野田さんの30人。都合110人。小沢さんの半分くらい。
 お残しは許しへん、ということで、他に目立ったところというと、旧社会党の赤松さんとかが30人と、旧民主党の直嶋さんとかが30人。グレーゾーンが都合60人だが、すでに旧社会党のドン・輿石さんが小沢さん支持に回っているので、それほど菅さんの勢力にならない。
 今回の代表選は前回のように議員だけに閉じることはないので、地方議員2382人と、党員・サポーター約35万人も加わる。彼らが国民の声に近いとすれば、小泉政権成立のような民意に近いものが出そうだが、期待薄。
 民主党国会議員の1票は2ポイントだが、地方議員は全部で100ポイント。つまり議員50人換算になる。党員・サポーターは300ポイント。議員換算にすると150人。
 国会議員以外が全員菅さん支持に回れば、200人のグループ相当となり、小沢首相を阻止できる。が、それはないでしょう。仮に半々だとしても、小沢さんの勝ち。1対3で割れて、菅さん支持が多ければ、なんとか菅さんに目が出る。無理。
 ねじれ国会とか言わず、地味に政策議論を開いてやっていけばよいではないか、堪え性がないな、日本国民、とか思ったが、これ、別段国民の声で小沢さんが出てくるわけではない。日本国民から見ればそう多くもない、一政党の物語。
 この急変の事態、過去の人かと思った鳩山前首相が思わぬキーマンとなってとんでもないことになったものだ。今日は27日だが、たった二日前の空気はこうではなかった。25日付け読売新聞記事「外堀埋められた?…鳩山氏、小沢氏に「菅支持」」(参照)より。


 鳩山前首相が24日夜の小沢一郎前幹事長との会談で、9月の民主党代表選では菅首相を基本的に支持する考えを伝えたことで、小沢氏の代表選出馬は厳しい情勢になってきた。
 党内でも首相再選を支持する声が広がっており、「小沢氏は外堀を埋められた」(党幹部)という見方も出ている。

 2日前まで菅さん支持だった鳩山さんだけど、お得意のブレで小沢さん支持に回る。あっさり覆った。小沢さんの政治力はさすがというべきなのだろうか、すごすぎるよ、鳩山さんというべきか。最悪。
 かくして小沢首相阻止ができるのは、もう菅首相の伝家の宝刀しかない。岩に刺さったエクスカリバーを引き抜くことができるのは、勇者だけだ。菅さん、衆院解散しちゃいなさいよ。小泉元首相のように、乾坤一擲、国民を信じて語りかければ、国民は菅さんを支持しますよ。
 しかし御大師様の霊言があってもそうはならないでしょう。それが菅さんの限界でしょう。菅さん支持派が党を割って出ることもなく、仙石さん、枝野さん、なんとなくさようならで、終わりそうだ。
 小沢首相と暮れていく日本の秋。そして冬将軍。民主党から誰が首相になっても、ねじれ国会とやらは変わらないといえばそうだが、どういう風景になるのか。今日の読売新聞社説(参照)を見ると、ナベツネさんがまたオレの出番かとはしゃぎだしているようでもある。
 マニフェスト堅持というのだから、バラマキを基本にするのでしょう。盟友亀井さんが戻って懐かしい歌を歌い上げる。市場は即座に反応し、長期金利は1%台に急騰した(参照)けど、そこだけ見れば、自民党小渕内閣アゲインといった風情で、そう悪いことでもないし、案外亀井さんなら寝ぼけた日銀を動かすこともできるかもしれない。
 そして、郵政問題は振り出しに戻る、普天間飛行場問題はも一度ちゃぶ台返し。
 それが希望なのか。上手にすれば「指導力」とかいうポピュリズムでやっていけるかもしれないが。

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2010.08.24

[書評]王妃オリュンピアス―アレクサンドロス大王の母(森谷公俊)

 ちくま新書「王妃オリュンピアス―アレクサンドロス大王の母(森谷公俊)」(参照)は書名通り、アレクサンドロス大王の母であり、フィリッポス二世の王妃オリュンピアスを描いた書籍である。
 昨日のエントリで扱った「ヒストリエ」(参照)に関心のある人なら、今後の展開の指針ともなる部分も多く、かなり興味深く読むことができるだろう。この機に再読してみると、「ヒストリエ」の著者岩明均氏も本書を読んで得た着想がありそうだなとすら思った。

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王妃オリュンピアス
アレクサンドロス大王の母
森谷公俊
 いつの出版だったかと初版日を見ると1998年2月20日とあり、もう十年以上も経つのかと感慨深く思った。私がペラに行って現地の遺跡や博物館などを巡っているときも、遺跡調査が進行中で、従来ローマ時代に書かれた物語風のマケドニアの歴史がいろいろと書き換えられていたさなかであった。本書もそうした、その時点の最新の情報を取り入れてバランスよく、そして新書らしく空想豊かに描かれていて、なるほどと思ったものだった。しかし、もういくつかの情報や歴史の知識はリニューしておかないといけない時期なのかもしれない。
 にもかかわらず、日本語で読めるオリュンピアスについての書籍は依然この本が最善のように思える。森谷公俊氏には本書の後もアレキサンドロスについての著作が数点あり、それはそれで面白いのだが、この時代のある種本質と言えるものはオリュンピアスに集約されているので、本書は新書として古典的な意味合いを持つかもしれない。と思って書籍情報を見ると、すでに絶版のようでもある。いずれ「ヒストリエ」が映画などで一段とブレークしたら再版されるだろう。
 書名は簡素に「王妃オリュンピアス」となっており、また副題はオリュンピアスを知らない人のためもあり「アレクサンドロス大王の母」となっているが、おそらく書名については著者の思いは反映していないのではないだろうか。本書の特徴は、マケドニア王国の体制の根幹に「王」と「王妃」という概念を持ち込まないことにある。

王や王妃という称号が定着し始めるのは、アレキサンドロスが死んだ後、ヘレニズム諸国が成立する前四世紀末以降のことなのである。注意深い読者なら、本書ではこれまで王妃という呼び方を一切していないことにお気づきであろう。

 フィリッポス二世の七人の「王妃」間のは序列はなかったという立場で本書は説明していく。それは外交上の意味合いとも関連つけて、歴史解説書らしく丁寧に解き明かされていくが、この説明は、物語としてこの時代を見たときの最大の山場であるフィリッポス二世暗殺にも強く関連してくる。
 本書は、合理的な推論を重ねてフィリッポス二世暗殺についてオリュンピアス説を排している。読めばなるほどとも思えるが、従来からの物語に馴染んだ者やそれでもオリュンピアスが疑わしいと思う私などからすると、物語としてはそれでもオリュンピアス黒幕だろうと思いがちだ。そこも著者の心憎い配慮がある。一応否定した後、こう続く。

 そうであっても正直言って、オリュンピアスが真犯人だという物語はたしかに面白い。面白いからこそ、ヘレニズム時代からローマ時代に好んで書かれたのである。これが現代の事件であれば、マスコミの絶好の話題となり、芸能レポーターが殺到してオリュンピアスにマイクを突きつけるに違いない。この私にしても、もしオリュンピアスを主人公にする歴史小説を書くとすれば、やはり彼女を真犯人するだろう。

 そうでしょう。というか、本書もアレキサンドロス死後のオリュンピアスを描いているがそれを見ていると、私としてもオリュンピアスが黒幕としか思えない。
 が、そのあたりで、「ヒストリエ」のエウメネスを読んだ後に、本書を再読すると、アレキサンドロスの背後にオリュンピアスがいたとしても、アレキサンドロス死後のオリュンピアスというのは、実際にはエウメネスなのではないかという疑問が浮かんできた。
 あの残酷な仕打ちは、いくら密儀宗教のオリュンピアスとはいえ正気の沙汰とは思えないし、しかし狂気でできる残虐でもないというあたりで、ああ、なるほどスキタイ(Σκύθαι)という設定かと思った。「ヒストリエ」がそういう展開になるのか、その時代まで描けるのかわからないが、そういう歴史を描いてみたい誘惑には駆られるものだろう。
 「ヒストリエ」の関連で言えば、アレキサンドロスを多重人格的に描きたい着想に近いものも本書にある。ミエザでアリストテレスの元で学ぶアレキサンドロスについてその二面性をこう指摘している。

こうしてアレキサンドロスは、空想と情念、歓声と陶酔の優る母親の元を離れ、実在と観察、理性と論理によって人格を鍛える道に足を踏み入れたのである。もっともこれらの二つの志向と性格は、後年のアレキサンドロスの生涯において、時にバランスを崩しながら拮抗しあうのであるが。

 「ヒストリエ」で独特の想像力で描かれるヘファイスティオンについては、本書では当然ながら歴史書の通例通りに描かれる。

 ヘファイスティオンはアレキサンドロスと同年で、幼い頃から一緒に育てられた。背丈はアレキサンドロスより少し高く、容姿でも王を上回っていたと伝えられる。彼はアレキサンドロスの最も親密な、心を許すことのできる友であり、政治的にも側近ナンバーワンの地位を占めていた。

 ヘファイスティオンはエウメネスと異なり軍事的な功績は何もない。いろいろと謎の多い人物でもあり、その極みはオリュンピアスとの諍いである。本書にはオリュンピアスを罵るヘファイスティオンの手紙が「我々を非難するのはおやめ下さい」と始まるのが、ちょっとぞくっとするところだ。
 本書の最終部分ではエウリデュケの悲劇も登場する。陰惨な歴史でもあるし、これが歴史というものなのかとも思えるが、女性の歴史として見ても面白く、本書はそこにかなり意識を配しているようだ。

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2010.08.23

[書評]ヒストリエ 1-6(岩明均)

 こんな面白い物語を読んだのは何年ぶりだろう。「ヒストリエ(岩明均)」(参照)は、たまたまブックマークコメントで知った歴史物のマンガだった。

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ヒストリエ(1)
 扱っている時代は、私が関心を持っているアレキサンダー(アレキサンドロス)大王とおそらくその死後である。主人公は大王の書記官となるエウメネス。面白いところに目を付けたなと思い、とりあえず一巻目(参照)を買って読んでみた。この時点ではそれほどの期待はしていなかった。
 冒頭いきなりスプラッタなシーンで始まる上、背景となる物語は一巻の終わりで回想シーンに接続するため、スターウォーズエピソード4から1に戻るような印象もあった。巻頭から登場する主人公エウメネスと他の登場人物の関連も多少つかみにくい。エウメネスのキャラクターもシニカルで冷たく、描画上もいわゆる主人公らしさは薄い。私など、カルディア包囲の指揮官に「あれがマケドニア王だったんじゃないかのかなァ」というエウメネスの台詞に「そうかぁ?」とひっかりをもったりもする。
 たまたま私が読み終えた一巻を他の人が読んでいたので、「どう? それ面白い?」と聞いてみたが「一巻だけではわからない」と要領を得なかった。カルディア攻略の話は歴史好きには面白いが、普通に物語として一巻目を読むならそう思うかもしれない。
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ヒストリエ(2)
 だが巻を読み進むにつれてじわじわと面白さがわかってくる。先の「マケドニア王か?」とする推測の台詞もそうだが、物語の多重な伏線の一つであり、特に冒頭シーンを回想の終わる五巻以降につなげて読み返すと、歓声を漏らさざるをえないトリックが一巻の随所にあったことがわかる。ものすごく巧緻な物語だ。マンガという形式やいわゆる歴史物といった分野を超えている。
 一巻目ではそれほど特徴も感じられなかった主人公エウメネスのキャラクターも二巻からぐっと深みを増す。それどころか、近代的な歴史物語では禁忌になりつつある、民族というもののもっとも恐ろしい本質が主人公を突き抜けて出現してくる。エウメネスがこの物語でスキュタイ(Σκύθαι)人として設定され、随所スプラッタなシーンがあるのも、そうした恐ろしい領域へ表現の補助なのだろう。
 恐ろしさといえば、六巻(正確には五巻)の王子アレキサンドロスと王妃オリュンピアスの伏線もわくわくとさせる。六巻の扉に血塗られた剣を持つ全裸のオリュンピアスが描かれているが、六巻にそのシーンはない。
 
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ヒストリエ(3)
 その他の女性の描写も巧みだ。歴史物では、小説でもマンガでもそうだが、女性のキャラクターはステレオタイプで描かれるか、いかにも特異なキャラクターとして描かれがちがだ。だが、この作品では女性というものの特徴と多様さがにじみ出るように描かれている。ああ、女ってこういうもんだなと思う。若い人の恋の描写なども、なかなか若い人にはこうは描けないだろうなという深みもある。
 現在刊行されているのが六巻まで、過去の推移を見ると年に一巻出るくらいのペースのようだ。どう推測しても二〇巻で終わりそうにはない物語なので私など完結を読むことができるかなという不安と、このままこの高い構成力が維持できるのかという懸念の二つが錯綜する。
 ネタバレしない程度に少し話を追ってみよう。
 いわゆる歴史物語として見るなら、六巻に至ってまだ始まっていない。こういうのもなんだがエウメネスという人間は歴史的にはフィリッポス2世とアレクサンドロス3世の親子が亡くなってからの人物である。その活躍は歴史的には面白いが、その少年時代・青年時代を描いても特段に面白いとは思えないものだろう。
 だが、そこをあえてオデッセイとスキュタイの伝説を交え、智恵はあるが歴史の残虐に耐えそうもない少年を、まさに冷徹に歴史に引きずり出すところにこの物語の巧みさがある。それは、どこかしら戦後の日本人がもつある種の薄気味悪さにも通じる。読みながら、エウメネスは私なのだという無意識な同意の情感が伝わる。
 一巻目の巻頭で、トロイ遺跡の海岸に青年エウメネスが立ち現れ、蛇の装飾品を拾う。なぜ彼はここにいるのか。なぜ蛇の装飾品なのか。彼は対岸の故地、カルディアを訪問しようとしている。蛇の装飾は渡海に利用される道具でもあるのだが、物語すべての象徴でもある。それは五巻末の王子アレキサンドロスと六巻目の王妃オリュンピアスの登場まで伏せられる。
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ヒストリエ(4)
 一巻目のトロイの海岸でエウメネスは哲人アリストテレスに会う。アリストテレスは歴史上、王子アレキサンドロスの教師であることは常識の類でもあるが、ここではペルシャのスパイとして追われている。追っ手はギリシャ風男装の女、ペルシア帝国トロイアス州総督妻バルシネである。彼女は、エウメネス青年が海岸で渡海の用意をしているところで、その裸身の上半身に傷跡を残す背中のアフラマズダーの飾りを見つける。バルシネの物語は六巻でも始まらない。
 渡海後エウメネスは故地カルディアを訪問するが、市の城壁は閉ざされ、マケドニア軍に包囲されて、市内に入ることはできない。そこで一計を案じ、右目を失っている、アンティゴノスと名乗る商人らと市内に入る。
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ヒストリエ(5)
 市内では自分が育った家は廃墟になっていた。そこから物語は、なぜエウメネス青年がカルディアを追われたかという、幼年期から少年期の回想になる。エウメネスは歴史上、ヴィンチ村のレオナルドのように地名を冠して「カルディアのエウメネス(Eumenes of Cardia)」と呼ばれるため、エウメネスの物語はカルディアを起点とせざるを得ない。上手な筋立てである。
 カルディアから放擲された後の、少年エウメネスの胸を抉り取るような苦悩と冷徹さの物語は二巻、三巻、四巻と続く。ここは、まったくのフィクションである。エウメネスがスキュタイ人であるというのも創作でしかない。だが、このフィクションは読み進めるほどに、「なるほどエウメネスという人物の謎はこのように設定するしかなかったのだろう」という、ある理詰めの推定に納得させられる。物語の進行もだが歴史的な想像力としても面白い部分だ。
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ヒストリエ(6)
 五巻目で少年時代の回想が終わり、六巻目では青年エウメネスがマケドニアに仕えるべく、ギリシア北部の王都ペラに向う。そこからはマケドニアの物語になる。アレクサンドロスやオリュンピアスが登場する。
 私はそのペラに行ったことがある。王宮を思わせる遺跡やギリシャとはまったく異なる様式の墓などを見て回った。もし前世というものがあるなら、ここに来たことがあるなという不思議な印象を持った。


マケドニア王都ペラ

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