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2010.08.21

日本経済成長鈍化・進む円高、フィナンシャル・タイムズの見立て

 16日に内閣府が発表した、今年の第二・四半期の国内総生産(GDP)速報値では、実質GDP(季節調整値)は前期比の0.1%増だった。年率換算では0.4%増となる。かろうじて輸出で持ちこたえているものの、日本の経済成長率が急速に鈍化したことが明らかになった。
 結果、米ドル換算で日本のGDPは1兆2883億ドルとなり、同期の中国の1兆3369億ドルを下回り、(参照)、経済規模で日本は中国に続く世界第3位となった。
 年初ころには年率2%の予測もあったことから、日本経済の失墜の兆候として同日には株価も落ち込み、9000円を割るかとも思えたが、その後は少し持ちこたえている。が、円高も進んだため、今後の輸出の展望も開けない。
 日本はどうしたらよいのか。すでに事実上のレームダックである菅直人首相だが、20日、閣僚懇談会で円高や景気減速への対応策を検討するよう関係閣僚に指示した。内実は「予算を伴わない形の経済対策にどういうものがあるか考えてほしい」「財政出動によらないで需要の拡大、経済成長につながることもある」と強調するなど、菅首相らしいユーモアであった(参照)。余談だが、19日には菅首相は北沢俊美防衛相に「ちょっと昨日予習をしたら、(防衛)大臣は自衛官じゃないんですよ」と語り、自衛隊制服組首脳には「改めて法律を調べてみたら『総理大臣は、自衛隊の最高の指揮監督権を有する』と規定されており、そういう自覚を持って、皆さん方のご意見を拝聴し、役目を担っていきたい」と述べるなど(参照)、炎暑のなか国民をヒンヤリとさせる気配りが際立っている。
 首相の戯れ言にかまっている余裕のない、玄葉光一郎公務員制度改革相・民主党政調会長は、円高について「一番大きいのは米連邦準備理事会(FRB)と日銀の姿勢の違いだ」と言明し、「FRBは量的緩和の姿勢を維持し、デフレを防ぐ姿勢を維持した。日銀は様々な手段があり得る」と日銀への要望を明確にした。
 だがそこは愉快な民主党である。峰崎直樹財務副大臣のほうは、日銀による追加金融緩和の必要性について、流動性のわなの状態では、「金融緩和ということで抜けられるのか非常に疑問だ」と延べ(参照)、結果的に現状の日銀の援護をすることで、政府の混乱を明らかにしてくれた。なんなのこの政府。
 当の日銀は泰然と構えている。日銀白川総裁と菅首相の話し合いが期待されるなかも、慌てず、週明けを待って電話で少し話しましょうということになった(参照)。面談せずとも日銀を信頼してもらえるとの自信の表れと見るか、レームダックというのはこう処理せよと見るか、なんてさほど意見が分かれることもない。
 海外はどう見ているか。一例だが、フィナンシャル・タイムズは16日社説「Japan and its growing pains」(参照)で論じていた。表題を見ると、"growing pains"(成長痛)とあり、今後の日本の経済成長の過程では多少我慢しなければならない痛みなのかと思うが、日本の痛みが今後も成長するという含みなのかと、英国流のユーモアの難解さを痛感する内容であった。
 結論から述べると、フィナンシャル・タイムズは、日本の経済鈍化の理由を、内需志向転換できない構造に見ている。


Japan’s problems are of its own making. The economy is meant to be shifting towards consumption after years of export-addiction. But domestic demand made a negative contribution to growth in the second quarter. That has left exporters, struggling with a strong yen, doing all the heavy lifting.

日本問題は自らが作り出しているものだ。日本経済は、輸出中毒の年月の後、消費に変化するはずだった。が、国内需要低迷は第二・四半期の成長を阻んだ。なんとか持ち直そうと強い円と格闘している輸出企業だけが残っている。


 菅内閣はどうすべきだというのか。政府にはほとんど選択肢はない("The government has very few options. ")と匙を投げている。財政赤字から財政政策はむりだろうし、補助金バラマキは貯金に回るだけだろうと見ている。
 為替介入による円高阻止もできないだろうと言う。

With European (especially German) competitors benefiting from a weak euro, this hurts. But international concerns tell against currency intervention, so Japan is unlikely to take steps beyond talking down the yen.

日本に競合する欧州、特にドイツは弱いユーロのメリットを得ているので、このことが日本に痛みをもたらしている。国際社会は通貨介入を嫌っているので、日本は口先介入以上の行動することはまずない。


 まったくに日本に打つ手はないのかというと、非伝統的な金融政策("unconventional monetary policies")はあるだろうとはしている。ネットの用語で言えば、リフレである。

This leaves monetary policy. At 0.1 per cent, interest rates are already as low as practicable. But given the risks posed by worsening deflation policy is still too tight. Japan’s best bet is a vigorous embrace of unconventional monetary policies.

金融政策が残っている。金利は0.1%とすでに可能なかぎり下がっている。だが、デフレ政策による悪化がもたらす日本のリスクを考慮に入れるなら、これでも引き締め過ぎているのである。日本ができる最善のチャレンジは、各種の非伝統的な金融政策("unconventional monetary policies")の手を打つことだ。

Proper anti-deflationary action could have the side-effect of weakening the yen, giving Japanese exporters a much-needed shot in the arm. In the short term, this is the best Japan can hope for.

デフレ阻止対策がきちんと実施されると、その影響で円は弱くなり、輸出産業へのカンフル剤となる。手短に言えば、これ(リフレ政策)が日本に望まれる最善の方策である。


 フィナンシャル・タイムズはリフレ政策を打つしかないだろうとしているが、基本線として日本の輸出産業がまた強化されることを懸念しているため、それほど強く、リフレ政策を推しているわけではない。あくまで最悪の現状のための提言であり、短期的な措置としての提言である。
 長期的にはどう見ているか。株の利回りをよくしろと言っている。

A long-term solution will have to address the frugality of Japan’s corporations. Annual dividend payments are worth just 3.5 per cent of national output. In Germany, where operating profits are similar, the figure is 14 per cent.

日本経済への長期的な解決策の一つは、しみったれた企業に取り組む必要性だ。年間配当はGDPの3.5%しかない。ドイツでは、利益率は日本と同じでも、14%も配当している。

Returning more to shareholders could boost private consumption. This will be key.

株主配当を増やせば国内消費が活性化されるだろう。これが日本経済再生の鍵だ。

China’s rise has kept Japanese exporters afloat; but it is domestic demand that will save Japan from drowning.

中国の経済成長は日本の輸出産業の沈下を防いでいるが、国内需要こそが日本を救済する。


 このあたりの話は、日本人からしてみると微妙だ。
 端的に言えば、日本企業はその構成員のメンバーシップのために存在しているという傾向が強い。このため、日本の格差は、実際には、労組のある大手企業や公務員対その他の労働者の間に存在している。そして民主党は、大手企業であるマスメディアに援助されて、前者の側の利権を守ろうとしている。そこでこの構造は崩しがたい。
 この構造は日本の富を鎖国状態にしているので、その利害も関連する。ナショナリズム的に見るなら経済発展とトレードオフしながら、日本の富の国際化阻止しているとも言える。
 フィナンシャル・タイムズ社説が、率直に言ってむかつくのは、いろいろ対比されるドイツの扱いだ。この間、ドイツ経済は中国輸出で食ってきたのである。露骨にいうなら、フィナンシャル・タイムズが輸出志向として日本を批判するなら、それはお門違いでしょ、ドイツはどうよ、ということがある。
 それでも、もう一段深い読みも可能で、中国経済の成長はこのあたりで終了かもしれない。カンフル剤を打っているドイツやEUの真似はやめとけ、ということかもしれない。
 まあ、いろいろ議論はあるが、現実的には空しい。菅内閣はレームダックだし、日銀はたまにエレガントでトリビアルな手品をするくらいだ。

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2010.08.20

南北朝鮮統一費用「統一税」提言の波紋

 15日、韓国の光復節(参照)の記念式典で、韓国・李明博(イ・ミョンバク)大統領が、南北朝鮮の統一時に必要とされる費用捻出のために、統一税を提言し、大きな波紋を呼んだ(参照)。
 李大統領は南北朝鮮統一にかかる費用の参考として、東西ドイツ統一に20年間で2兆ユーロ(約220兆円)を要したとの推定を含めた(参照)。ドイツでは、統一後、統一連帯賦課金が導入されたので、それを模したいという含みもあるだろう。
 南北朝鮮統一にはどの程度の費用が掛かるだろうか。韓国政府としては、今後30年間に渡り、最大2兆1400億ドル(現行レートで約182兆円)と推定しているようだ。年間では、84兆ウォン(約6兆447億円)の財政支出が30年にわたって継続することになる(参照)。その倍の5兆ドルとする推定もある(参照)。財政的に非常にきついと思われる。その事態になれば、おそらくその少なからずを日本が負担することになるだろうし、先日の菅総理談話はその布石でもあるのだろう。
 個別には統一費は3つの区分がある。(1)危機管理費用、(2)制度統合費、(3)所得格差是正費、である。長期的に見て大きな問題となるのは、3点目の南北間の格差是正であろう。北朝鮮の住民一人当たりの国内総生産は約8万5270円、韓国は約170万円と大きな開きがある(参照)。
 前二者は予断がなければ大きな衝撃となりかねない。その意味で、李大統領の今回の提言は有意義であるとはいえるだろう。
 欧米紙は今回の提言を好意的に見ている。18日付けワシントン・ポスト社説「南北朝鮮統一税構想、議論始めること重要」(参照翻訳参照原文)がその一例である。


 この10年間、韓国国民は歴代指導者によって、北朝鮮は真の脅威ではなく、南北朝鮮の統一コストはあまりに巨額で、心配しないほうが無難と考えるように言い含められてきた。韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領はこのポリアンナ(楽観)的な見解を持っていない。従って韓国国民も持つべきではない。
 李明博大統領が15日、北朝鮮の政治体制が崩壊した場合、北朝鮮を吸収するコストを賄うため、「統一税」を示唆したことで物議を醸したが、大統領の現実的な認識こそが実質的に価値のあるものだ

 17日付けフィナンシャル・タイムズ「A taxing reunion」(参照)も好意的である。

Mr Lee is signalling to all parties, including his own people, that reunification is something worth planning for. The timing is right given signs that Kim Jong-il, North Korea’s sickly leader, is preparing for succession.

李氏は、自国民も含めてであるが関係国すべてに対して、統一は計画に値するものであるとの警告を出しているのである。北朝鮮の病んだ指導者・金正日が後継用意の兆候を出す現状、よいタイミングであった。


 フィナンシャル・タイムズは、経費よりも重要になりかねない問題についても、さらっと言及している。

Certainly, reuniting the two countries would be an expensive and risky undertaking, and one hard to square with China’s strategic interests.

実際のところ、朝鮮南北統合は失費も多く危険性もあるだろうし、中国の戦略的国益と正面から向き合うことも困難だろう。


 これまで南北統合が実施されなかったのは、朝鮮戦争に見られるような北朝鮮による「統一」の思惑が実質的な統一と齟齬を来していたこともだが、韓国としても統一の衝撃を回避したかったためだ。太陽政策とは実際には統一のモラトリアムであった。加えて、米中、さらには潜在的に南下を目論むロシアも含めて、この地域に各自の思い入れがあり、均衡していたことがある。そうした観点から、このパンドラの箱を開くと何が起こるのか、そして何が将来的に起こるのかは、いくつかの想像やシナリオは立つものの、確実的なことは何も言えない。
 歴史を学ぶものからすれば、あるいは歴史を学んでいる中国とすれば、朝鮮は基本的に中国の従属国であるが、隋唐時代から半島の軍事衝突は鬼門であるし、朝鮮が旧渤海含めた大朝鮮主義のナショナリズムを抱えている問題も知っている(ので布石も打っている)。現状は、北朝鮮がソビエト連邦の傀儡国であるがゆえに白頭山で国境を封じされているにすぎない。加えて、統一朝鮮は南西に中国、北にロシア、東南に日本という大国によって封じ込められているため、潜在的な拡張の傾向がある。
 李大統領による統一税導入のその後だが、予想されたことではあり、北朝鮮からは言葉の上だけであるが、反発が出た。17日付け聯合ニュース「北朝鮮「統一税の提案は不純な体制対決宣言」」(参照)はこう伝えている。

北朝鮮の対韓国窓口機関・祖国平和統一委員会は17日、李明博(イ・ミョンバク)大統領が15日の光復節(日本植民地支配からの解放記念日)記念式典で提示した「統一税」構想に対し、「全面的な体制対決宣言」だと非難した。北朝鮮の朝鮮中央通信が伝えた。
 祖国平和統一委報道官は同通信とのインタビューで「逆徒(李大統領)が騒ぎ立てた統一税とは、愚かな妄想である北朝鮮の急変事態を念頭に置いたものだ。不純極まりない統一税の暴言の代価をしっかり支払うことになる」と述べた。北朝鮮が統一税に対する公式の反応を示したのはこれが初めて。

 日本国内の北朝鮮シンパとしてもとりあえずその指針を掲げることになるだろうが、実質的にはまだ様子見の状態が続くだろう。
 より気になる韓国でのその後の動向だが、端的に言えば、尻つぼみになった。18日付け毎日新聞「韓国:李大統領、「統一税」火消し躍起 与野党の慎重論に配慮」(参照)は標題通り、火消しフェーズと見ている。

韓国の李明博(イミョンバク)大統領は17日、北朝鮮との統一に備えた「統一税」について「今すぐ課税することはない」と釈明した。李大統領は、いずれ必要になる統一費用について国民的な論議を起こすことを狙って15日の演説で言及したが、与野党から「時期尚早」といった慎重論が相次ぎ、自ら火消しに回ることになった。

 韓国内での世論は、基本的に、精神論として受け止めるということで、急速に沈静化してきたようだ。結果論からすると、日本の菅首相の消費税増税のように思いつきで言ってみたという形で納まったことになる。
 ただし、現実はウォールストリート・ジャーナルやフィナンシャル・タイムズのように高みの見物のほうが事態を正確に見ているだろう。

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2010.08.19

一週間はなぜ七日か?

誰もが一度は疑問に思う謎
 一週間はなぜ七日か? 誰もが一度は疑問に思うらしく、ネットを探すといろいろそれらしい答えがある。どれも的外れとも言い切れないが、「なるほどそれが解答か」と合点のいくものもなさそうだ。残念ながら、このエントリも解答を提示するわけではない。が、このところのミトラ教関連エントリの文脈で言及しておこう。
 その名の通りの本がある。ダニエル・ブアスティン著「どうして一週間は七日なのか」(参照)である。「The Discoverers(Daniel J. Boorsti)」(参照)を邦訳し、分冊した本だ。合本の「大発見 未知に挑んだ人間の歴史」(参照)もある。この本は私が20代の頃、米国でベストセラーとなったから、私の年代の知識人は大半が読んでいる。「一週間はなぜ七日か?」という疑問も、そのあたりで収束したとも言える。同書はどう書いていたのか。


 なぜ一週間は七日なのか?
 古代ギリシアには週はなかったらしい。ローマ人は八日を一週間として生活していた。農民は畑で七日働き、八日目には町に出かける――それが市の日(ヌンディナエ)である。これは仕事を休むお祭りの日で、学校も休みになり、公の告示がなされ、友人とのつきあいを楽しむ機会だった。ローマ人がいつ、どんな理由から八日を単位にしたのか、またその後一週間を七日に変えたのはなぜかは明らかではない。

 というわけで、ローマの制度を継いだ現在の一週間が七日になった理由は、わかっていない。わからない類のことらしい。

当初のローマでは一週間は八日だった
 一週間はなぜ七日なのか。その謎がそれほどまでに疑問視されないのは、欧米ではキリスト教の普及があり、そこでは天地創造に合わせ、一週間を七日とする神話が記載されているためだ。
 しかし、キリスト教――実際にはその根にあるユダヤ教――の世界観・時間観が、一週間を七日とする制度の理由ではない。ローマは当初八日の週を使い、その後七日の週を採用後、キリスト教化した。順序からすると、たまたまローマに七日の一週間があってキリスト教ともよく馴染んだというだけのことである。
 正確に言えば、当初ローマの一週間が八日だったかについては議論がある。もしやと思い、日本語のウィキペディアのローマ暦の項目(参照)を見ると、ヌンディナエ(nundinae)という用語は無かった。代わりに、Kalendae(カレンダエ)、Nōnae(ノーナエ)、Īdūs(イードゥース)のちょっと変わった説明が付いている。
 ローマでは当初、市の日ヌンディナエを基準して週を表していた。日本の「五日市」「八日市」といった考え方(Nundinal cycle)である。庶民としては、後代の歌だが「月曜日に市場に出かけ」と口ずさむように、週というものは自然に市と結合しやすい。
 ローマ暦で七日の一週間が採用されたのがいつかは、はっきりとしない。ブアスティンも次のように書いている。


ローマ人が週を八日から七日に変えたのは公的な措置によるわけではなさそうである。紀元三世紀初頭には、ローマ人は一週間を七日としていた。

 その時期にはすでにユリウス・カエサルを敬して名付けられた太陽暦のユリウス暦が利用されていた。ただし、私が子どもの頃一般的だった旧暦併記のカレンダーのように、ヌンディナエも併記されていらしい。ローマのカレンダーからヌンディナエが消えたのは、ミラノ勅令(313年)でキリスト教を公認したコンスタンティヌス1世の時代らしい。そのため、一週間を七日とすることが広まったのはキリスト教の影響かと思いがちだが、そうではない。

日曜日を起点としたのはミトラ教の影響か
 コンスタンティヌス帝はキリスト教の聖人ともされるため、なんとなくキリスト教的な文脈で理解されがちだが、異教にも敬意を払った皇帝である。興味深いのは、彼が321年、3月7日を日曜日とした宣言である。この背景は、日曜日のシンボルである太陽、つまり、ソル・インウィクトス(Sol Invictus:不滅の太陽神)への彼の敬神があった。この太陽神カルトは、それ以前のアウレリアヌス帝の時代からのものでもあった(参照)。
 日本でミトラス教研究者の第一人者である小川英雄は、アウレリアヌス帝やコンスタンティヌス帝のソル・インウィクトス信仰についてミトラス教との関連を認めていない。だが、コンスタンティヌス凱旋門設立に至るコンスタンティヌス帝の行為からすれば、ミトラス教が明確に意識されていたとは言えないにせよ、異教の重視は基本にあり、逆にキリスト教的な背景が強いとは言い難い。
 私は単純にソル・インウィクトス信仰はミトラ神の習合の結果だろうと考えている。そして、であれば、実質的に日曜日を基点に曜日を固定した七日の週という制度の確立は、広義にミトラ教の結果であるとしてよいように思う。

曜日は七日ではなくオクターブとして理解されていた
 ローマ時代のキリスト教徒は七日の週を創世記神話から自然に受け入れるのだが、その受容には興味深い問題がいくつかある。
 まず、彼らは安息日を8日目と理解していた。一週間は七日なのだが、後の西洋音階のようにオクターブの原理として8の数値で一週間を捉えていた。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドとするとオクターブで8という数字が明示されるように、日・月・火・水・木・金・土・日もオクターブなのである。この時代のキリスト教徒は、一週間が七日である由来を創世記に求めるとしても、その意味づけはゲマトリア(数霊術)的なものがあり、その起源は異教的なものであるかもしれない。
 またローマのカレンダーが太陽暦を採用しているのに、キリスト教徒はユダヤ教以来の太陰暦も採用していた。そのため問題となったのは、現代でも問題とも言えるのだが、太陽暦と太陰暦の双方が関連する復活祭の日取りである。ニカイア会議というとキリスト教史では教義がテーマになりがちだが、この二種類のカレンダー調整も会議の重要なテーマであった。
 それで、暦法の問題は解決したか。しなかったとも言える。春分の計算は天文学によるしかない。そして天文学とはこの時代、占星術でもあるから異教文化を必然的に招く。結局、計算は占星術が進んだアレキサンドリアの司教に委ねられ、後の紛糾の元になった。
 さらにローマのキリスト教徒の週理解から変なことが起きた。重要である安息日の曜日が土曜日から日曜日に移動してしまったのである。この背景は多少込み入っていて、曜日名について触れておく必要がある。

月火水木金土日の順序になる理由
 現代日本人は曜日といえば、月火水木金土日である。特に疑問もなく、また太陽の日曜日を重視するソル・インウィクトス信仰などまったく関係なく、普通に受け入れている。だがこの曜日名と順序にはそれなりの起源がある。その話の前に、関連してそもそも一週間が七日になったのはどの文化だろうかという問題がある。
 ローマやユダヤ・キリスト教の七日週の起源は、太陰暦を作ったバビロニアだと広く理解されている。太陰暦は約29.5日周期の月の満ち欠けを基にしているから、満月から新月までの約14日間は意識されやすい。そしてその半分を意識するなら、7日になる。この割り算がしばしば、一週間が七日の理由とされるのだが、そういうふうに計算すればそうなるというだけのことだ。満月と新月の間を週という単位で区切らねばならない理由はない。月を四分割したから一週間は七日、というのはそれほど納得のいく答えではない。
 これに対して、古代人が理解していた7つの主要惑星、①月、②水星、③金星、④太陽、⑤火星、⑥木星、⑦土星のレパートリーを日に割り当てたら七日の週になったという考えもある。なお、天王星、海王星、冥王星といった惑星は古代の天文学である占星術にはない。
 二つの考えがある。(1)一週間が七日に決まってそれに惑星が当てられたのか、(2)七つの惑星を日に割り当てたら七日で一週間になったのか。どちらか。
 残念ながらどちらかわからないが、惑星を割り当てるという考え方は、ローマを経由して現代日本の曜日にまで影響している。日本語の「月火水木金土日」は、惑星の略号でもある。
 正確に言えば、古代人は惑星を日に割り当てたのではない。ブアスティンの説明を借りよう。


彼らが信じていたところでは、各惑星は一時間だけ支配力をふるい、そのあとの一時間はそれに次いで地球に近い惑星に支配力がゆだねられる。このようにして、七つの惑星すべてが順番に支配力をふるうのである。七時間かかって一巡すると、この惑星の支配は最初からまったく同じ順序でくりかえされることになっていた。したがって、それぞれの日を「支配」する惑星は、その日の第一時間をつかさどる惑星ということになり、こうして週の曜日は最初の一時間を支配する惑星の名で呼ばれるようになった。

 ブアスティンはこれ以上詳しく説明していない。少しわかりづらいと思うので補足しよう。
 「地球に近い惑星」だが、当時の天動説では、①月、②水星、③金星、④太陽、⑤火星、⑥木星、⑦土星の順になっていた。
 「次いで地球に近い惑星に支配力がゆだねられる」ということなので、遠いところの土星から影響力が開始される。一日を24時間とすると、支配力の1時間交替から次のシーケンスができる。

土木火日金水月・土木火日金水月・土木火日金水月・土木火

 7惑星のシーケンスが3つできて、3惑星余る。「七時間かかって一巡すると、この惑星の支配は最初からまったく同じ順序でくりかえされる」ので、24時間後である翌日は「日」からシーケンスが始まる。

初日:土木火日金水月・土木火日金水月・土木火日金水月・土木火
二日:日金水月・土木……

 つまり初日の支配は「土」、二日目の支配は「日」になる。続けてみよう。

金水……
土木……
日金……
月土……
火日……
水月……
木火……
金水……

 冒頭の支配惑星を並べると、現代日本の曜日である「日月火水木金土」となり、七日でサイクルする。だから、このような曜日であり、一週間は七日なのだ、ということになる。

フランス革命とロシア革命は曜日を壊した
 一週間を古代の惑星観で七日にまとめるなんて、現代人からすればバカバカしいかぎりの話である。現代人のみなさん、なんでこんなバカバカしい起源の曜日なるものを現在でも使っているでしょうか。答えられますか。天皇制やホメオパシーよりも先に、こんな非科学を世界から排除すべきじゃないでしょうか。
 ということで、世界史的な近代理性の出現であるフランス革命後の国民公会では、曜日を廃止し、新しい曜日を作ろうということになった。数学者ピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace)も曜日の改革に参加した。かくしてできたのが、フランス革命暦である。
 基本は十進法である。一か月は十日ずつ3つのデカード(décade)に分けられた。曜日名はシンプルに序数になる。primidi(一曜日)、duodi(二曜日)、tridi(三曜日)、quartidi(三曜日)、quintidi(五曜日)……十曜日まで一週間が続く。実に合理的だ。え? なんだかそれもバカバカしいって? そんな非合理的かつ非科学的こと言ったらギロチンかもしれないよ。
 偶然のクーデターを科学的社会主義の革命と呼んで出来たソビエト連邦も、科学的社会主義の看板ゆえに、非科学的な曜日は廃止にした。出来たのは、ソビエト連邦暦である。
 一週間は五日になった。曜日は当然数字で呼ばれたが、色も割り当てた。黄色、ピンク、赤、紫、緑の五色である。そして全労働者を色分けして、該当色の曜日がその労働者の休日ということにした。合理的だなあ。社会主義っていいな。宗教的な要素を排除してこそ人類の進歩というものじゃないですか。敵対するものを完全に排除することこそ理性というものですよ。え? 恐ろしい? じゃあ、シベリア送りね。

曜日の背後にある守護神
 話をローマに戻そう。ローマでは、惑星の考え方に基づく曜日名だが、日曜日と月曜日はそれぞれ、dies Solis(太陽の日)、dies Lunae(月の日)と惑星名になったが、他は、ローマ神話に基づきその惑星の守護神の名となった。ただし、厳密に言えば、dies Solisもdies Lunaeも神名であるとも言える。


火曜日は、dies Martis(マルス神の日)
水曜日は、dies Mercurĭi(メルクリウス神の日)
木曜日は、dies Jovis(ユピテル神の日)
金曜日は、dies Venĕris(ウェヌス神の日)
土曜日は、dies Saturni(サトゥルヌス神の日)

 これらの惑星の守護神名はそのまま、現代英語でも該当惑星の名前になっている。

火星は、マルス神で、Mars
水星は、メルクリウス神で、Mercury
木星は、ユピテル神で、Jupiter
金星は、ウェヌス神で、Venus
土星は、サトゥルヌス神で、Saturn

 ローマ神話の神はギリシア神話の神と対応している。惑星と守護神の関係はギリシア神話で成立していたと見られる。すると次のような対応になる。対応のための主要な意味づけを重視して見ていこう。

日、太陽神ヘリオス
月、セレネ女神
火、軍神アレス
水、智の神ヘルメス
木、大神・雷神ゼウス
金、愛と美のアフロディテ女神
土、巨神・祖神クロノス

 ローマの支配域では、このように惑星を神として実体化し、曜日をその守護神の名に当てた。さらにその神の意味づけを通して、他の神話での相当の神名をエーリアス(別名)として割り当てる考え方が採用された。これがゲルマン族の北欧神話にも適用され、その後裔が使う英語の曜日ができた。

火曜日、マルス・軍神 → テュール(Týr)神 → Tuesday
水曜日、メルクリウス・智の神 → オーディン(Odin)神 → Wednesday
木曜日、ユピテル・雷神 → トール(Thor)神 → Thursday
金曜日、ウェヌス・愛と美神 → フレイヤ(Freyja)神 →Friday

 日曜日と月曜日は、英語でも惑星のまま、Sunday(太陽の日)、Monday(月の日)となる。土曜日はなぜかローマ神サトゥルヌスの日として、Saturdayとなった。
 サトゥルヌス神についてのイレギュラーは、この神の特性によるのかもしれない。土星=サトゥルヌスの日(土曜日)は、ローマでは悪運の日と理解された。そして、土曜日は悪運の日なので慎むということと、ユダヤ教以来の土曜日の安息日(正確には金曜日の日没から土曜日の日没)とは馴染みやすかった。しかし、これが崩れた。

キリスト教徒が安息日をずらしたのはミトラ教の影響
 ローマのキリスト教徒は、土曜日の安息日を日曜日にずらしてしまった。ブアスティンはそこにミトラ教の影響を見ている。


太陽神ミトラを祀るペルシアの神秘的な宗教を奉じるミトラ教徒は、ローマ帝国のキリスト教徒の最も強力なライバルだったが、彼らは一週間を七日としていた。そして、当然のことながら、当時の誰もが太陽(サン)の日と呼んでいた日にたいして特別の崇敬の念を抱いていた。
 こうしてキリスト教徒が主の日を定めたので過ぎゆく週ごとにイエス・キリストのドラマが再演されることになった。

 日曜日を主の日とすることを当時のキリスト教徒はどう見ていたか。ブアスティンが引用するユスティヌス・マルティア教父の説教がわかりやすい。

儀式はいわゆる太陽の日にとり行われ、町に住む者も田舎に住むものも、すべてがあい集います……われわれが日曜日に集うのは、それこそ神がやみと単なる物質を用いてこの世をかたちづくった最初の日であり、また、救い主イエス・キリストが死からよみがえった日だからです。この土星(サトルゥヌス)の日の前日にキリストは十字架にかけられ、土星の日の翌日、つまり日曜日にキリスト教徒と弟子たちにあらわれ、教えをといたのです。

 私の率直な感想を述べれば、これは屁理屈というものだろう。イエス・キリストの復活を祝うとしても、ちゃんと復活祭というものがあるのだから、毎週祝う必要はない。もっと率直に言えば、これがキリスト教なのかというくらいミトラ教や土星の占星術の考えに浸されていると見て取れる。しかも安息日の基となったユダヤ教では、曜日は単に番号で呼ばれるだけで曜日名なるものはない。

占星術とミトラス教との関連はどうなっているのか?
 ローマ時代に完成した曜日に潜む神秘性だが、これは単に惑星を使った占星術なのだろうか。つまり、バビロニア由来の占星術なるもがあり、それとは別に、ミトラ教の教えがあるのだろうか。
 ミトラ教が、その最高シンボルの牡牛供犠(Tauroctony)に占星術を内包していること(参照)からすると、ミトラ教において、惑星と曜日はどのように理解されていたのか当然、気になる。その観点からミトラ教を見直すと、ミトラ教の密儀に奇妙なものが相当することがわかる。
 ミトラ教はローマでは密儀宗教のミトラス教として広まったのだが、その密儀の参加者は7つの位階に分けられていた。小川英雄著「ローマ帝国の神々」(参照)は次のように説明していた。


 ミトラス神殿には専従の祭司もいたと思われるが、信者たちは入信後、七つの位階のいずれかに属し、お互いに兄弟と呼び合った。


 ミトラス教徒の位階は七つからなり、下から、⑦烏、⑥花嫁、⑤兵士、④獅子、③ペルシア人、②太陽の使者、①父、である。最初の下位の三位階は奉仕者、上位の四位階は参加者とされ、両者は祭儀における役割を意味していた。

 この位階だが、それぞれに惑星を守護神としてもっていた。同書による位階の順と対応をまとめると次のようになる。

1 父 ← 土星・サトルゥヌス神
2 太陽の使者 ← 太陽
3 ペルシア人 ← 月
4 獅子 ← 木星
5 兵士 ← 金星
6 花嫁 ← (水星)
7 烏 ← (火星)

 同書の説明には花嫁と烏の位階の守護惑星は記されていないが、花嫁は水の要素の守護を受けているとあるので、水星であろうと思われる。すると残りの烏は火星が推測される。
 これに対して、「The Roman Cult of Mithras: The God and His Mysteries (Manfred Clauss )」(参照)では次のような対応になっている。

1 父 ← 土星・サトルゥヌス神
2 太陽の使者 ← 太陽
3 ペルシア人 ← 月
4 獅子 ← 木星
5 兵士 ← 火星
6 花嫁 ← 金星
7 烏 ← 水星

 上位の位階については小川と指摘と同じなので、おそらく上位の三位階と惑星の関係には異論はないだろう。下位の位階の惑星の割り当てについては、小川とClaussの説明が異なるが、兵士に火星、花嫁に金星を配する説明は自然であるようには思われる。
 疑問が浮かぶのは、最高位の父が、太陽神のミトラ神ではなく、土星・サトルゥヌス神が配されている点だ。
 不思議と言えば不思議だが、サトルゥヌス神はギリシア神話ではクロノス神であり、この神はオリュンポス神に先行するタイタン族である。また、クロノスはゼウスの父でもあるので、サトルゥヌス神が神々の父としての最上位にあり、それゆにミトラ教の位階で「父」であるというのは理解しやすい。さらに、サトゥルヌス神を祭るサトゥルヌス祭は、太陽暦で基点となる冬至の祭でもあり、太陽神ソル・インウィクトゥスの祭に接合するので、太陽神を支える位置にあるともいえる。
 第三位の「月」は太陽とのセットなので不自然さはないが、第四位に木星が配される理由はわからない。位階が惑星の順であれば、すでに触れたように①月、②水星、③金星、④太陽、⑤火星、⑥木星、⑦土星が関連しそうなはずである。もっとも、この順では、太陽神ソル・インウィクトゥスは強調されない。
 話が錯綜してきたが、ミトラ教の密儀における位階と惑星の対応は不明だ。位階として現れたものの本質が、その守護神である惑星なのか、惑星は位階シンボルの補助なのかもわからない。
 ミトラ教が占星術を含み込んでいることから、惑星で表現されるオーダーの理由が存在するはずだが、太陽を曜日の筆頭に置かせたこと以外に、他の曜日の惑星のオーダーとは簡単には整合しそうにはない。
 ミトラ教と惑星の関係は、曜日の決定にはそれほどには影響していないのか、なにか隠された秘密があるのか。もちろん、そこに秘密があるとしても、現代に残る曜日の理由にはほとんど影響はないだろう。

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2010.08.18

牡牛供犠:トーロクトニー(Tauroctony)とタウロボリウム(Taurobolium)

 ミトラ神による牡牛供犠(Tauroctony)についてもう少し言及しておきたい。
 古代宗教であるミトラ教(ミトラス教)では、ミトラ神による牡牛供犠の図像・レリーフは、おそらく最終的な密儀に関連しているのだろう。これはローマ時代からよく見られた。そこではミトラ神はフリジア帽によって識別される。背景には太陽と月の神格と思われる神像も配されている。


ミトラ神レリーフ、2-3世紀

 牡牛供犠のアイコニックなモチーフは占星術(参照)と統合されていく。


Fresque Mithraeum Marino

 ローマ帝国時代のオリエント宗教をまとめた「ローマ帝国の神々―光はオリエントより (小川 英雄)」(参照)では、牡牛供犠(Tauroctony)と占星術の関連についてこう言及していた。


 この神聖な行為(キリスト教の磔刑に相当する)は、宇宙的な規模で行われた。洞窟自体が宇宙を象徴しており、牛殺しの行為は太陽、月、七惑星、黄道十二宮がその瞬間を表していた。


その永遠はいくつかのミトラス教図像で天文学的占星術的に表されている。すなわち上述の星たちは神殿内部の天上や壁に描かれているばかりでなく、ミトラスの青い外衣にも星が記されている。

 では当然ながら、ミトラ神が牡牛を供犠することにも占星術的な意味が存在するはずである。それどころか、おそらく占星術的な各種シンボルのなかで最も主要なシンボルであるはずだ。昨日のエントリ(参照)では、話が煩瑣になることもあり言及しなかったのだが、それで済むわけもないと思い返した。その意味については、同書にもあるので引用しておこう。
 引用の文脈としては、ヘレニズム時代の小アジア諸王家におけるミトラ神信仰とローマ帝国で普及したミトラス教の密儀との差違がある。簡単に言えば、なぜローマでミトラス教は密儀化したのかということである。ただし、引用部はこの問いに十分に対応していないようには思えるし、私は同書とは違った考えを持っている。

 第一の問題については、キリキアの首都タルソスの知識人たち、とりわけストア派の哲学者たちの活動が指摘されている。ここではミトリダテス王と同じように英雄ペルセウスが崇拝されていた。当時の天体図では、ペルセウスは後のミトラス神と同じくフリュギア帽(三角帽)をかぶり、牡牛に向かって刀を振りかざしていた。このペルセウスがペルシア伝来の神ミトラスと同一された。他方、当時の天文学によれば、歳差(天界の南北軸のゆらぎ)が牡牛座から牡羊座に移動したことによる新時代の到来が祝われていた。それゆえ、ミトラスと同一されたペルセウスは、牡牛を殺すことによって新時代を到来させたと考えられた。こうして、最新の天文学の知識とミトラスの崇拝が結びついて、ミトラス教の最重要な教義、すなわち、牡牛を殺すミトラスが新時代をもたらす、という信仰が形成されたのである。

 タルソスの知識人というところで聖書の背景知識を持つ人には当然思い当たることがあるはずだが同書では、敢えてであろうが該当文脈においては、その言及はない。
 「ペルセウス」は、名前からも連想されるように、「ペルシアの者」であり、フリジア帽を被り、ミトラ神と同一視されるという前提があるが、それよりも、この牡牛供犠(Tauroctony)自体が、コスモロジー的な象徴として原点を持っていた点が重要になる。ただし、後にタウロボリウム(Taurobolium)で触れたいのだが、牡牛供犠が先行しそれに天文学的な意味づけがあったとも考えられる。この点については同書では、アイコニックなモチーフとしてはギリシア神話のニケ女神による牛の殺害との関連を見ている。ニケ神による牡牛供犠のモチーフが先行していたのだろうという示唆なのだろうが、それほどには説得力はないようにも思える。
 牡牛供犠の図像学的な解釈で私によくわからないのは、天界の南北軸の揺らぎなるものが実際にあったのだろうかということだ。それがあったなら(現代天文学的に確認できるなら)、牡牛座から牡羊座に移動するという発想は理解できないでもない。また、同書では、そうした天界の変化がコスモス(宇宙)で過ぎ去ったことして語られるが、なぜその過去の天界の歴史が密儀の中核となるのかについても、私には理解できない。
 牡牛供犠、トーロクトニー(Tauroctony)がローマ時代の密儀宗教としてのミトラス教の教義及び儀式の中核であったとして、では実際に、密儀で牛は殺されていたのだろうか。この点について、同書では、ローマ時代のミトラス教の神殿構造から、存在しなかっただろうと推測している。代わりに、キリスト教的な聖餐があっただろうと推測している。加えて、その時代、このミトラス教の聖餐はキリスト教の模倣でないかとの非難があったことも言及している。だが、私はそれは逆かもしれないという疑念がある。
 キリスト教との関わりでは、同書ではマゴイについて次のような言及をしているが、キリスト教との関わりの推測は、これも敢えてであろうが、含まれていない。

 ヘレニズム時代小アジアにおけるこのようなミトラス神崇拝の流布の背後には、ヘロドトスが伝えるペルシアの祭司部族マゴイ(マギ)の小アジア進出があった。


 他方、コマゲネ王アンティオコス一世(在位前六九-前三四年)の長大なギリシア語碑文が、ネムルッド・ダーの禿山の山頂に見出されているが、そこでは他の神々とともに、ヘリオス、ヘルメス、アポロンと同一視されたミトラスが言及されており、王自らミトラスと握手する彫像も残っている。このような王家のミトラス崇拝には、マゴイが祭司をつとめていたと思われる。

 

アンティオコス一世とミトラ神

 マゴイ(マギ)は、昭和訳聖書(マタイ2:1)では「博士たち」と訳されている。


イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。


7世紀・ビザンチンで描かれたマギ(東方の博士)

フリジア帽子を被っている点に注目

 ミトラ神とマゴイの背景からすれば、イエスはミトラ神と同一視されているというメッセージにしか読めないのではないか。
 ローマ時代のミトラ教における、牡牛供犠つまりトーロクトニー(Tauroctony)が象徴的であったというのは同意しやすいものの推測でしかない。これらが実際に行われていた可能性はないのだろうか。
 ここで当然連想されるのは、もう一つの牡牛供犠であるタウロボリウム(Taurobolium)である。同書では、小アジアの神々の項目でプルンデンティウスの長詩から解説しているが、不思議なことにミトラス教との関連への考察はない。


 それによると、深い穴ぐらがキュベレやアッティスの聖域に掘られ、信者の一人がそこに下りる。その上に木材を組み合わせて作った板がわたされる。この板にはいたるところに穴があけられてる。その上には猛々しい牡牛や牡羊が引き出される。神官たちは、こうして引き出された獣を死にいたるまで切りつける。板の穴からは獣の血がしたたり落ち、穴のなかの信者はその血を全身で浴び、真っ赤になる。

 HBOとBBC共作のROME [ローマ](参照)で現代風の映像によって、タウロボリウムが再現されている。幸せをもたらすめでたい儀式なのだが、見方によってはけっこうグロいので再生は自己責任でどうぞ。

 牡牛供犠であるタウロボリウム(Taurobolium)は、広範囲に実施されていた。


 タウロボリウムとクリオボリウムは二世紀以降にまずイタリアのオスティアやポズオリで行われ、すぐにローマのヴァチカヌス丘にあったフリギュア神の聖域でも催されるようになった。その場合、個々の信者のためばかりでなく、皇帝や宮廷の安寧のためにも挙行された。この行事が記録された多くの祭壇が、イタリア各地のほか、スペイン、フランス、北アフリカなどの属州で発見されている。

 同書では、これもなぜか言及していないが、常識的にも、「ああ、それがスペインの闘牛の起源なのではないか」と連想するだろう。おそらく、その連想は正しいだろう。そして、ミトラ神のトーロクトニー(Tauroctony)のマントにも連想は及ぶだろう。
 タウロボリウム(Taurobolium)は、同書ではミトラス教との関連は問われていないが、「フリギュア神の聖域」といえばミトラ神を想起しないわけにはいかない。
 だが、「キュベレやアッティスの聖域」とあるように、ここで登場する神はキュベレ神でありアッティス神である。彼らはどのような神なのか。この点は同書に基本的な解説がある。

 ローマ帝国の最初の支配者たちはユリウス・クラウディウス家に属していたが、彼らはトロイ出身のアイネイアスの子孫を称したので、トロイ知覚のイダ山の女主人である太母神キュベレを尊重し、国家公認の神とした。


キュベレ

 「アイネイアスの子孫を称した」については映画トロイのエントリ(参照)でも言及した。トロイのアポロンがミトラ神の習合であるなら、キュベレ神・アッティス神にその関連はあるだろう。なにより、これらの象徴はすべてフリギュアのフリジア帽で統一されている(参照)。
 キュベレ神・アッティス神の神学はローマにおいて追究された。


たとえば、哲人皇帝ユリアヌスにとって、キュベレは「全生命の女主人であり、あらゆる生成の原因者」であり、アッティスはその下で生命界の創始者(デミウルゴス)である。他方、哲学者ポルフュリウスによれば、アッティスの自己去勢は、物質界をこれ以上増大、増加させないためのものである。アッティスはこのようにして、地上での生成を停止させ、霊魂を天界へと上昇させる。三月の大祭はこのような救済活動にほかならない。

 教父たちはこの教えを復活祭と混同しないように戒めたという。だが、無理だったのではないか。復活祭の起源はキュベレ神・アッティス神の信仰によるものだろう。また、キュベレ神は聖母マリアであろう。もちろん、批判はあった。

 キュベレとアッティスの崇拝は紀元五世紀になっても、ひそかに続いていた。キリスト教の神学者は、神の母マリアと神々の母キュベレの混同を戒めている。

 キリスト教を神学なり教義の側から見れば、それは異教と区別できるものだろうが、その現実の信仰はどうだろうか。
 占星術を駆使するミトラ教神官によって王と確約されたイエスは、人間の罪の贖罪の仔羊として牡牛供犠のように血を流した。そして、信者はその血を飲み、その血で清められ復活を期待するというのがキリスト教の実際ではなかったか。

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2010.08.17

[書評]ローマ帝国の神々―光はオリエントより (中公新書:小川 英雄)

 以前は、堀米庸三の「正統と異端」(参照)ではないが、キリスト教の正統とは何かという観点から私は西洋史を見てきた。その観点でローマの宗教も考えていた。だが次第に異教のほうが面白く思えるようになり、また、率直なところキリスト教の教理における正統は正統としても、実態は異教とされてきた諸宗教とそれほど差違はないどころか、異教が独自の変化をして西洋キリスト教になった側面が大きいのではないかという疑念もあり、少し概論的なものを読み直してみようと思うようになった。とりあえず選んだのは、「ローマ帝国の神々―光はオリエントより (小川 英雄)」(参照)である。読みやすく、よくまとまっており、また抑制が利いているので、通説はこのあたりなんだろうということがよくわかる好著だった。

cover
ローマ帝国の神々
光はオリエントより
(中公新書)
小川 英雄
 古代ローマ帝国の盛衰は長期に渡り、版図を広げつつ異文化を積極的に取り入れたが、それは当然、人間の交流を伴うものであり、ギリシャ、ペルシャ、エジプトなど諸宗教も取り入れることになった。ローマ市民にも浸透した。その多様性は目がくらむほどである。本書はそうした多様性をカタログ的というほどフラットではないが広く扱っている。これらの各宗教の要素は異端排除されつつもキリスト教に収斂されていくようにも思える。

1 古代オリエントの神話と宗教
2 ヘレニズムからローマへ
3 ローマ帝国の宗教
4 イシスとセラピス―エジプト系の神々
5 シリアの神々
6 キュベレとアッティス―小アジアの神々
7 ミトラス教―イラン起源の神
8 ユダヤ教の存続
9 キリスト教―その成立と発展
10 グノーシス主義
11 占星術の流行

 個人的に面白かったのは、ミトラ教を扱った7章「ミトラス教―イラン起源の神」である。こういうとなんだが、本書を読んで、ミトラ教については学問的にはその教義や儀式といった内情的な部分はほとんどわかっていないと言ってよさそうなのだと、率直にいうと少しほっとした印象を持った。ミトラ教について、いろいろ言われていることの大半は、俗説としてよいのだろう。特に皇帝の関わりはすっきりとした記述だった。

 皇帝自身もミトラス教に注目するようになった。コンモドゥス帝はこの宗教に入信したとも言われるが、それは誤りで、オスティアの皇帝領地の一部を寄進したというのが真相である。セプティミウス・セウェルス帝の時代には宮廷人で入信する者もいた。アウレリアヌス帝のソル・インウィクトス(不滅の太陽神)崇拝は有名であるが、彼とミトラス教組織の関係を示す資料は存在していない。


ミトラスは上述のように皇帝たちの奉納を受け入れるいたったが、それが信者数を増大させることはなかった。ついで現れたコンスタンティヌス大帝はソル・インウィクトス(不滅の太陽神)を信奉したが、それはミトラスではなく、キリスト教の神であった。そしてそれまで同じ称号で呼ばれていたミトラスはローマ市や地方の町々でも、軍隊駐屯地でも影が薄くなった。背教者といわれるユリアヌス帝は、自らの著作のなかで、ミトラスの名をあげ、それを太陽王と称しているが、ミトラス教には入信しなかった。

 概ねそのように理解してよいのだろう。ただ、これらはすでに習合の結果のように見えないこともない。
 全体として本書ではミトラ教は四世紀に姿を消したとしている。これも穏当な見解だろう。だがそれで終わり、過去のことなのかというと難しい。本書も次のように指摘しているが、どうも占星術のなかにミトラ教的なものが融解しているようだ。

ミトラス教徒は、オリエント系の神をいただく、占星術と秘密の教えを中心とする社会的小グループであった。

 この点について詳しい考察は本書にはないが、「11 占星術の流行」でレリーフの写真に次のような注釈を加えている。

「牛を殺すミトラス」のひるがえるマントにも星座が見られる

 本書のレリーフではないが、このモチーフは他にも見られる。


Fresque Mithraeum Marino

 ミトラの牡牛供犠(Tauroctony)については、ウィキペディアにも項目(参照)があり、占星術的な説明を加えている。


Luna, Sol and the other five planetary gods (Saturn, Mars, Mercury, Jupiter, Venus) are also sometimes represented as stars in Mithras' outspread cloak, or scattered in the background.

月、太陽と他の5つの惑星神(サターン、マース、マーキュリー、ジュピター、ヴェーナス)はしばしば星としてミトラ神の翻るマントか、または背景に配置される。


 「7 ミトラス教―イラン起源の神」の章では、牡牛供犠(Tauroctony)という名称は使っていないが、次のように説明している。

 この神聖な行為(キリスト教の磔刑に相当する)は、宇宙的な規模で行われた。洞窟自体が宇宙を象徴しており、牛殺しの行為は太陽、月、七惑星、黄道十二宮がその瞬間を表していた。

 もしかすると「(キリスト教の磔刑に相当する)」という注釈に本書の思いが隠れているのかもしれない。

その永遠はいくつかのミトラス教図像で天文学的占星術的に表されている。すなわち上述の星たちは神殿内部の天上や壁に描かれているばかりでなく、ミトラスの青い外衣にも星が記されている。

 ミトラス教図像は占星術のなかに保存・継承されていたようにも思うし、意外と言えば意外、当たり前といえば当たり前な部分で現代にも継承されている部分もあるが、それは別の機会にエントリを起こしたい。
 ミトラ教関連以外に、4章「イシスとセラピス―エジプト系の神々」も興味深いものだった。イシス像とマリア像を並べた写真もあり、どう見てもそのままだろうと思えるが、「子神ホルスを抱くイシス女神像は、幼児キリストを抱く聖母マリア像のもとになったともいわれている」と本書は控えめなコメントに留めている。
 意外といってはなんだが、9章「キリスト教―その成立と発展」も蒙を啓かされる指摘が多かった。古代ユダヤ教というとマックス・ヴェーバーの著作でもそうだがつい、タルムードなど後代のユダヤ教につながる部分から遡及してしまいがちだ。しかし、イエス時代を含めて初期キリスト教の大枠はヘレニズム世界であり、ユダヤ人の大半はコイネを主としてギリシア語を使う民族であった。
 その他、「2 ヘレニズムからローマへ」では、エレウシスの密儀に言及しているが、このあたり、オリュンピアスとの関連でもう少し考えてみたいと個人的に思っている。
 個人的な話だが、パウロの足跡を探しにギリシア内陸を旅行したことがあるが、パウロ関連の風物も感銘深いものだったが、ギリシャ北部ではマケドニア王国の遺物に関心をもった。ギリシアというとアテネの神殿などを想起するが、ヘレニズムの時代ではエレウシスの密儀のようなものが勢力をもっており、いわゆるギリシア神話の信仰というものではなかったのだなとしみじみ思ったものだった。

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2010.08.15

[書評]私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった(サラ・ウォリス、スヴェトラーナ・パーマー)

 本書、「私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった」(参照)のカバーには15人の少年少女の顔写真と名前が記されている。古そうな写真だ。写りの悪い写真もあり、親しみづらい印象をもつかもしれない。しかし、本書を読み終えたあと、その一人一人を自分の友だちのように身近に感じるようになる。その生命をたまらなくいとおしく思えるようになる。10代の彼らは第二次世界大戦を体験し、その戦火のなかでかけがえのない経験を記した。戦争とは何か。知識や善悪の教条を超えた答えがその手記の中にある。

cover
私たちが子どもだったころ、
世界は戦争だった
サラ・ウォリス
スヴェトラーナ・パーマー
 手記はそれぞれを個別に扱うのではなく、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した1939年9月1日から、日本政府が降伏文書に署名した終戦の日である1945年9月2日(米国時間9月1日)までの時間軸に沿いながら、全12章で各地域に分けて配置されている。数章に渡る手記もあり、章の始めと、手記の前後にはそれぞれの背景を補うナレーション的な解説がある。小説のように読み進めることができる。その多元的な叙述と多彩な視点で巨大な歴史を見つめる感触は、トルストイの「戦争と平和」(参照)にも似ている。
 カバーの写真では15人だったが、もう1人、氏名不詳の少年を加え、16人の手記で本書は構成されている。
 ポーランド人が4人。うち2人はユダヤ人。ドイツ軍によって封じ込められ、ホロコーストにあう。フランクルの「夜と霧」(参照)とは異なった視点からその凄惨さが描かれる。
 イギリス人少年が1人。彼は同年代の米国人少女と文通しつ、ユーモアを交えて日常生活と戦争の状況を語る。同盟国の米国への焦りを漏らすこともある。
 フランス人少女が1人。ミシュリーヌ・サンジュ。ドイツがフランスに侵攻した1939年に13歳だった。彼女の手記には怒りも恋心もある。魅力的な叙述だ。本書を通じて事実上主人公的な位置を占めている。この部分だけ取り出しても「アンネの日記」(参照)のように一冊の書籍になっただろうが、あえてそうせず、戦争を多角的に描き出すように編集されている。フランス人少女から見た第二次世界大戦といえば、私は若いときに見た映画「ルシアンの青春」(参照)も思い出した。
 ドイツ人が3人。ナチス党青少年組織ヒトラー・ユーゲント出身の17歳の少年、ヘルベルト・ファイゲルは本書前半でドイツ側の内情とその動向を表している。後半は15歳の少年クラウス・グランツォフの手記になる。彼は、ヴォネガットの「スローターハウス5」(参照)のテーマでもあるドレスデン空爆を目撃する。人間の目を通すことで、戦争が正義と悪、あるいは加害と被害で単純には色分けできない様相が描き出される。
 米国人が1人。ユダヤ人少年である。彼は遠いところの戦争を静かに見つめつつ、同時に戦時下の米国のユダヤ人の生活を伝える。
 ソ連(ロシア)の少年少女は4人。レニングラード包囲戦を内側から描いた15歳の少年、ユーラ・リャビンキンの手記は凄烈だ。人間の極限を描くことになった。17歳の少女イナ・コンスタンチノワは祖国愛からパルチザンに身を投じ、愛国の英雄ともなる。手記も愛国心に満ちあふれたものだが、それを歴史のなかに置き直せば、少女としての悲しみが読み出せる。
 日本人は2人。一高生で海軍航空隊(特攻隊)に志願した佐々木八郎の手記を私は読みながら、その懐疑的なメンタリティと純粋志向の点で、少年時代の私とあまりにメンタリティが似ていて驚いた。私があの時代にいたら佐々木のようになっていただろうという共感から涙した。開戦の翌日、彼は「どうも皆のように戦勝のニュースに有頂天になれない」と書く。11日には、「純粋に戦勝を喜べない俺の頭をぶちこわしてしまいたい。ヒトラーの演説を聞き、三国協定の締結を聞いても、国民の歓喜に共鳴しない俺の頭をぶちこわしてしまいたい」と続く。それでも彼は死地に赴く。2年後に「頭も体も何もかも揃ったこの僕をむざむざ殺す海軍であれ日本国であったなら、人を使うことを知らん奴なのだと思ってもいい。自分が死んだら、自分が要らなかったからだ」と書く。若者らしい心には、国家というものの本質は見えないと50歳を超えた私は思う。「きけ わだつみのこえ」(参照)とは少し違う色合いで本書は日本の少年を描いている。
 加藤美喜子は出征兵士を見送る位置にいる。1944年6月12日の手記では、大本営の情報からきちんと欧州のドイツ軍の状況を見抜いている。「敵を七万もやっつけたとの事、戦果は大したものだが、けっきょくドイツ軍は少しずつテッ退を続けて居る」「”無中になる”これは日本国民の悪いくせ、むろんこれが長所になる時が有るんだけど……」と書く。14歳の少女にそれが見えていた。
 彼らのいくにんかは戦争の犠牲となって死ぬ。その時代を生き延びた者についてはエピローグで語られる。誰がどういう運命に遭うかについては、知らないで読み進めたほうがよいと思うのでここには書かない。
 本書は戦争を語る書籍としても優れている。大人はもとより、高校生や大学生にはぜひお薦めしたい。類書では得難い知識や視点を得ることで、歴史と世界というものがくっきりと見えてくるようになる。困ったことと言ってもよいのかもしれないが、日本人は、戦争をつい太平洋戦争や対アジアの枠組みだけで捉えがちだ。しかし、本書を読めば日本が第二次世界大戦のなかにどのように組み込まれていたかもわかるし、日本人からすれば遠い国の話のように思えるポーランドの惨状なども理解しやすい。
 本書はBBCドキュメンタリー制作にかかわてきた米国生まれの英国人サラ・ウォリスとモスクワ生まれで英国で暮らすスヴェトラーナ・パーマーの2人が5年かけて描き出したものだ。読みやすく編集されたそれぞれの手記の裏側に膨大な努力が潜んでいることは容易に察せられる。
 それにもまして、ここまでやるのかという努力は邦訳書にもある。本書のオリジナルは英語で書かれたもので、各手記もその少年少女たちの言語から英訳された。だが、邦訳書では英訳された手記部分をそのまま日本語に訳すことはしていない。それぞれの言語で書かれた手記の原文から新たに翻訳し直している。そのため、英語の本文訳を田口俊樹が担うほか、「カラマーゾフの兄弟」(参照)の新訳した亀山郁夫、「ヒトラーの秘密図書館」(参照)を訳した赤根洋子、サガンの新訳をした河野万里子、ポーランド文化に詳しい関口時正を加えている。
 邦訳書では、また各手記が誰の手によるものかわかりやすくなるように、手記の冒頭に書いた少年少女の小さいポートレートをアイコンふうに配しているほか、書体も工夫されている。この編集の意気込みからは、日本でも長く読み継がれる書籍であってほしいという願いが感じ取れる。

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